第1話:老執事には若い恋人がおるようじゃ
「父さまのケチんぼ!」
アッシュフォード子爵邸の書斎に、少女の声が響き渡った。
アルビオン王国の王都西区に位置するその屋敷は、百年以上の歴史を誇る由緒正しい建築物である。
磨き上げられた大理石の床。天井を飾る精緻な漆喰細工。壁には歴代当主の肖像画が並び、暖炉の上には先々代が東方から取り寄せたという青磁の花瓶が飾られている。
もっとも、花瓶の底には三年前から亀裂があり、二階の客間では雨漏りが続いていた。
由緒正しい建築物というものは、往々にして修繕費まで由緒正しく高額なのであった。
「ケチとは何だ、ケチとは!」
執務机の向こうで、アルフォンス・アッシュフォード子爵が声を荒らげた。
四十五歳。端正な顔立ちに、丁寧に整えられた栗色の髪。温厚篤実な紳士として知られる彼は、社交界において滅多に感情を露わにすることがなかった。
ただし、一人娘が相手の場合を除く。
「わらわは何も、王宮を買ってほしいと申しておるわけではないぞ」
「王宮など買えるか!」
「じゃから、探偵事務所で我慢すると言うておるのじゃ」
「我慢の方向がおかしい!」
机の前に立つ少女は、セシリア・アッシュフォード。
今年十二歳になる、子爵家の一人娘である。
腰まで届く白金色の髪は絹糸のように滑らかで、澄んだ青い瞳は冬の湖面を思わせた。陶磁器のように白い肌、繊細な鼻梁、薔薇色の小さな唇。
その美貌は、まだ正式な社交界デビューを果たしていないにもかかわらず、すでに貴族たちの間で評判になっていた。
彼女は亡き母エリザベスによく似ていた。
父アルフォンスが娘に弱い理由の一つも、そこにあった。
しかし、どれほど亡き妻に似ていようとも、娘の要求が常識的になるわけではない。
「いいか、セシリア。お前はまだ十二歳だ」
「存じておる」
「十二歳の女の子が探偵事務所を経営するなど、聞いたことがない」
「では、わらわが第一号になれるのう」
「前向きに解釈するな!」
「歴史に名を残す好機じゃというのに」
「父親としては、歴史より先に学校の卒業証書を手にしてほしい!」
セシリアは静かに息をついた。
父親というものは、どうしてこうも目先のことに囚われるのだろう。
「父さま。偉大な人物は、幼少期から非凡な才能を発揮するものじゃ」
「それはそうだが」
「十二歳で大学に入学した学者もおる」
「お前は大学に入学していないだろう」
「じゃから、探偵事務所に入所するのじゃ」
「自分で作るんだろうが!」
「細かいことを気にする男じゃのう」
「細かくない!」
アルフォンスは椅子の背にもたれ、天井を仰いだ。
そもそも、娘がこの奇妙な言葉遣いを始めたのは、半年ほど前のことだった。
遠い東方の島国から渡ってきた劇団が、王都で歴史劇を上演したのである。
舞台に登場したのは、古い王朝に仕える気高い姫君。
陰謀渦巻く宮廷で家臣を従え、知略を尽くして敵を打ち破るその姿に、セシリアはすっかり心を奪われた。
以来、彼女は自らを「わらわ」と呼び、父親のことまで「父さま」と呼ぶようになった。
それまでは「パパ」と呼んでいたのである。
当初、アルフォンスは数日で飽きるだろうと考えていた。
しかし半年が経過した現在も、娘の言葉遣いは一向に元へ戻らない。
むしろ日に日に流暢になっていた。
「……ところで、セシリア」
「何じゃ?」
「その喋り方は、いつまで続けるつもりなんだ?」
「喋り方?」
「その、わらわだの、じゃだのという言葉遣いだ」
「何を申す。由緒正しき姫君の言葉ではないか」
「お前はアルビオン王国の子爵令嬢だろう」
「国境など、知性の前には些細なものじゃ」
「言葉遣いの話をしているんだ!」
「父さまは国際的な教養が足りぬのう」
「十二歳の娘に言われたくない!」
アルフォンスは深く息を吐いた。
「それに、父さまという呼び方もだ。以前のようにパパと呼んでくれて構わないんだぞ」
「わらわも、いつまでも幼子ではおられぬ」
「まだ十二歳だろうが!」
「十二歳ともなれば、立派な淑女じゃ」
「立派な淑女は父親にケチなどと言わん!」
「それは父さまがケチだからじゃ」
「元に戻っただけじゃないか!」
亡き妻は聡明な女性だった。
物静かで、教養深く、何事にも冷静な判断を下す人だった。
娘は確かに、その美貌と落ち着いた物腰を受け継いでいる。
ただ、判断の結果だけが、時折ひどくおかしい。
「そもそも、お前は何を根拠に自分が名探偵になれると思っているんだ?」
「推理小説を百二十七冊読破した」
「読書感想文でも書いていなさい」
「犯人を当てたこともあるぞ」
「何回だ?」
「三回じゃ」
「百二十七冊中!?」
「三回も当てれば十分じゃろう。偶然では説明できぬ」
「偶然で十分説明できる数字だ!」
セシリアは不満げに唇を結んだ。
父は理解していない。
名探偵に必要なのは、単なる正答率ではない。鋭い観察眼、卓越した洞察力、そして何より、真実を追い求める不屈の精神である。
彼女はそのすべてを備えていると確信していた。
「それに、探偵という職業は社会に必要なのじゃ」
「警察があるだろう」
「警察がすべて解決できるなら、探偵小説は存在せぬ」
「小説を社会制度の根拠にするな!」
「父さまは文学を軽視するのう」
「今は文学の話をしていない!」
アルフォンスは額に手を当てた。
「とにかく、金は出さん。これは決定事項だ」
「……本当にか?」
「本当だ」
「後悔しても知らぬぞ?」
「せん!」
「わらわが世界的な名探偵になってもか?」
「そのときは謝る!」
「では、謝罪文の用意をしておくがよい」
「まだ何もしていないだろう!」
セシリアは優雅に一礼した。
「わかった。父さまにはもう頼まぬ」
「そうか。ようやく納得してくれたか」
「うむ。別の資金調達方法を考えるとしよう」
「……待ちなさい」
「さらばじゃ」
「セシリア!」
少女は振り返らなかった。
書斎の扉が静かに閉まる。
あとには、疲れ切った父親だけが残された。
「……エリザベス」
アルフォンスは壁に飾られた亡き妻の肖像画を見上げた。
「あの子は、本当にお前の娘なのだろうか」
肖像画のエリザベスは、穏やかに微笑んでいた。
当然ながら返事はなかった。
「……せめて、もう少し常識を遺伝させてほしかった」
*
アッシュフォード子爵家は、貧乏であった。
もっとも、貴族における貧乏とは、一般庶民のそれとは少々意味が異なる。
屋敷はある。領地もある。使用人も十数名抱えている。
ただし、屋敷は修繕が必要で、領地の収入は年々減少し、使用人の給与を支払うたびに当主が頭を抱える。
要するに、体面を維持するために金を使い、金を使うために体面を維持しているのであった。
この複雑な財政を一手に管理しているのが、執事長エドガー・ブラックウッドである。
五十六歳。
先代子爵の時代から三十二年にわたり仕えてきた忠実な使用人であり、家政全般を取り仕切る実務家でもあった。
白髪交じりの髪を後ろへ撫でつけ、黒い燕尾服を寸分の乱れもなく着こなすその姿には、長年の経験に裏打ちされた威厳が漂っている。
彼は金銭に厳しかった。
厨房で卵が一個余れば翌日の献立を変更し、蝋燭が短くなれば使用人に最後まで使い切るよう命じた。
その徹底ぶりから、使用人たちは陰で彼を「歩く金庫」と呼んでいた。
ただし、本人の耳に入れば給与から何かが差し引かれそうなので、誰も面と向かってそう呼ぶことはなかった。
そんな執事長の執務室を、一人の少女が訪れた。
「エドガー」
「これはお嬢様。いかがなさいましたか」
「少し、金の相談があるのじゃ」
「お断りいたします」
「まだ何も申しておらぬぞ」
「お金の相談と伺いましたので」
「内容によるじゃろう?」
「お嬢様のお金の相談は、内容を問わず出費に繋がります」
「収入の相談かもしれぬぞ」
「それは失礼いたしました。どのような収入でしょうか」
「探偵事務所を開けば、依頼料が入る」
「まず開業資金が必要になりますな」
「うむ」
「お断りいたします」
セシリアは黙り込んだ。
エドガー・ブラックウッド。
勤続三十二年。子爵家の財政を一手に管理し、使用人たちからは歩く金庫と恐れられる男。
なるほど、手強い相手である。
しかし、いかに堅牢な金庫であろうと、鍵穴の一つくらいは存在するものだ。
そして名探偵とは、その鍵穴を見つけ出す人間のことをいう。
「……エドガー」
「はい、お嬢様」
「そなた、最近何か隠しておるな?」
執事長の羽根ペンが止まった。
「……何のお話でございましょう」
「質問に質問で返すのは、あまり感心せぬのう」
「それでは、ございませんとお答えいたします」
「ほう。まだ何も申しておらぬのに?」
「隠し事があるかとお尋ねになりましたので」
「なるほど。用意のよい返事じゃ」
「恐れ入ります」
セシリアは顎に指を添えた。
犯人は、しばしば平静を装う。
探偵小説を百二十七冊読破した彼女にとって、その程度の知識は常識であった。
「では尋ねよう。先週の木曜日、午後三時。そなたはどこにおった?」
「私用で外出しておりました」
「先々週の木曜日もか?」
「はい」
「その前の週も?」
「……左様でございます」
「毎週木曜日、午後三時になると決まって外出する。これは偶然かのう?」
「定期的な私用でございますので、偶然ではございません」
「ほう。あっさり認めるのじゃな」
「事実でございますから」
「正直な犯人は嫌いではないぞ」
「犯人?」
「いや、こちらの話じゃ」
エドガーは眉をひそめた。
セシリアは窓辺へ歩み寄り、背中で両手を組んだ。
午後の陽光が白金色の髪を照らし、床に細長い影を落としている。
その姿は、年若い令嬢というより、難事件を前に思索を巡らせる学者のようであった。
「ところでエドガー。そなたは香水を使うか?」
「いいえ。香りの強いものは好みませんので」
「そうじゃろうな。そなたから香水の香りがしたことは、一度もない」
「よくお気づきで」
「ところが木曜日の夕方に限って、そなたの上着から甘い香りがするのじゃ」
エドガーの表情が、わずかに強張った。
「……甘い香り、でございますか」
「うむ。砂糖を焦がしたような、バターを溶かしたような……」
「…………」
「そう。焼き菓子の香りじゃ」
執事長は黙った。
実際、その香りには心当たりがあった。
毎週木曜日、彼は王都東区にある小さな菓子店を訪れている。
その二階には、かつて屋敷に仕えていた侍女の娘が暮らしていた。
母親を亡くしたその少女に、エドガーは三年前から密かに金銭的な援助を続けていたのである。
問題は、その資金の出所だった。
執事長としての給与だけでは十分な額を賄えず、彼は屋敷の修繕費を水増しし、差額を養育費と学費に充てていた。
善意から始めた行為ではあったが、主人の金を無断で流用していることに変わりはない。
「さらに、もう一つ」
セシリアの声が、静寂を破った。
「先週の木曜日、そなたは小さな包みを抱えて裏口から戻ってきたな?」
「……ご覧になっていたのですか」
「うむ。ずいぶん大切そうに抱えておった」
「…………」
「あれは何じゃ?」
「……菓子でございます」
「菓子?」
「はい」
「誰からもらった?」
「……知人から頂戴いたしました」
「その知人は、女じゃな?」
エドガーは息を呑んだ。
「……なぜ、そうお思いになるのでしょう」
「質問に質問で返すのは感心せぬと、先ほど申したはずじゃ」
「……女性でございます」
セシリアの青い瞳が、かすかに輝いた。
「なるほど」
彼女はゆっくりと頷いた。
ここまでの証言に矛盾はない。
毎週決まった曜日に外出する男。
帰宅後に漂う甘い香り。
女性から贈られた菓子。
これほど多くの事実が一つの方向を指し示すことなど、そうそうあるものではない。
「エドガー。もう一つだけ確認しよう」
「……何でございましょう」
「そなた、最近金に困っておるな?」
執事長の顔から血の気が引いた。
「…………!」
セシリアはその変化を見逃さなかった。
やはり。
これこそが、最後の一片である。
「先月、厨房の予算を削ったな?」
「……はい」
「その前には、客間の絨毯の買い替えを延期した」
「左様でございます」
「さらに、庭師が新しい鋏を買いたいと申し出た際にも、古いものを研いで使うよう命じたそうじゃな」
「……よくご存じで」
「当然じゃ。探偵たるもの、屋敷の隅々まで観察せねばならぬ」
エドガーは唇を引き結んだ。
まさか、修繕費の水増しにまで気づいているのだろうか。
いや、それどころか、帳簿をすべて調べ上げている可能性すらある。
先ほどからの質問は、単なる世間話などではない。
外出の日時。
金銭の動き。
秘密の訪問先。
そして女性の存在。
すべてが、彼の隠してきた事実と符合している。
(……なんということだ)
エドガーの背筋に冷たいものが走った。
十二歳の少女が、ここまで調べ上げていたとは。
セシリアは執務机の前に戻った。
そして、静かに宣言した。
「すべての謎が解けたぞ」
エドガーは覚悟を決めた。
もはや言い逃れはできない。
長年仕えた主人を裏切ったことは事実である。
処罰は免れまい。
だが、あの少女だけは守らなければならない。
たとえ自分が職を失おうとも、せめて彼女の学費だけは何とかしてやりたい。
「……お嬢様」
エドガーは重々しく口を開いた。
「私にも、事情がございまして……」
「うむ。わかっておる」
「決して、私利私欲のためでは……」
「もちろんじゃろうな」
「……!」
セシリアは静かに目を伏せた。
そして、確信に満ちた声で告げた。
「そなた、若い女に貢いでおるな?」
「…………は?」
執務室に沈黙が落ちた。
窓の外では、小鳥が一羽、庭木の枝から飛び立っていった。
「毎週木曜日の密会。甘い香り。女からの贈り物。そして、近頃の異常な倹約ぶり」
セシリアは一本ずつ指を折った。
「すべてを総合すれば、答えは一つしかない」
「…………」
「恋じゃ」
「…………」
「しかも、かなり金のかかる恋じゃな」
「……お嬢様?」
「そなたは女に夢中になるあまり、家計を切り詰めてまで贈り物を用意しておる。違うか?」
「い、いえ、その……」
「否定するのか?」
「そういう関係ではございません!」
「では、結婚を前提とした付き合いか?」
「違います!」
「遊びじゃったのか?」
「もっと違います!」
セシリアは眉をひそめた。
「エドガー。感心せぬぞ」
「何がでございますか!」
「女との関係を曖昧にするのは、紳士のすることではない」
「関係そのものがございません!」
「ほう。捨てたのか?」
「捨てておりません!」
「では、まだ付き合っておるのじゃな」
「お付き合いしておりません!」
「おかしいのう。先ほどから話が二転三転しておるぞ」
「お嬢様が勝手に転がしておられるのです!」
エドガーは額の汗を拭った。
いったい、どうしてこうなったのか。
少女の指摘は、途中まで恐ろしいほど正確だった。
ところが最後の結論だけが、まるで別の事件のものである。
しかし、ここで安心するわけにはいかなかった。
セシリアはなおも冷静に彼を見つめている。
「エドガー。そなたは今年いくつじゃ?」
「……五十六でございます」
「相手は?」
「…………」
「三十代か?」
「…………」
「二十代?」
「…………」
「まさか、十代か?」
「お嬢様!」
執事長の声が裏返った。
セシリアは小さく息を呑んだ。
「……ほう」
「違います! 今の反応は違います!」
「わらわはまだ何も申しておらぬぞ」
「そのお顔は何か申し上げておられます!」
「わらわは表情に出さぬ主義なのじゃが」
「十分に出ております!」
セシリアはしばらく考え込んだ。
五十六歳の男性。
若い女性。
秘密の逢瀬。
経済的な援助。
なるほど、世間にはさまざまな愛の形があるという。
しかし、名探偵たるもの、私情を挟んではならない。
たとえ相手が長年仕えてきた忠実な執事であっても、真実から目を背けることは許されないのである。
「エドガー」
「……はい」
「わらわは、そなたを軽蔑したりはせぬ」
「……恐れ入ります」
「恋愛に年齢は関係ないからのう」
「……左様でございますか」
「ただし、相手の女がそなたの財産を目当てにしておる可能性もあるぞ」
「私に財産などございません」
「では、純愛なのじゃな」
「そういう話では……」
「よいではないか」
「…………」
エドガーは反論を諦めた。
この少女と議論を続ければ、事実とは無関係な罪状がさらに増えかねない。
「ところで、エドガー」
セシリアは声を落とした。
「このこと、父さまは知っておるのか?」
執事長の身体が硬直した。
「……旦那様は、ご存じありません」
「やはりのう」
「どうか……旦那様には……」
「案ずるでない」
セシリアは胸に手を当てた。
「わらわは秘密を守るぞ」
「……本当でございますか」
「当然じゃ。名探偵には守秘義務があるからのう」
エドガーは安堵しかけた。
だが、次の言葉が彼を再び緊張させた。
「ただし、一つだけ頼みがある」
「…………」
「探偵事務所の開業資金を出してほしいのじゃ」
沈黙が流れた。
長い、長い沈黙だった。
エドガーは少女の顔を見つめた。
その青い瞳には、いささかの迷いもない。
(……そういうことか)
ようやく理解した。
お嬢様はすべてを承知している。
そのうえで、あえて横領という言葉を口にせず、彼に選択の余地を与えているのだ。
先ほどの恋愛話も、こちらの反応を探るための巧妙な揺さぶりだったに違いない。
何という恐ろしい知略。
何という冷徹な交渉術。
わずか十二歳にして、これほどの才覚を備えているとは。
(……この方には、逆らえない)
エドガーは深々と頭を下げた。
「……承知いたしました」
セシリアの瞳が輝いた。
「ほう、本当か!」
「ただし、当家の財政事情もございます。多額の現金を用意することはできません」
「では、どうすればよい?」
「王都東通りに、当家が所有する小さな店舗がございます。現在は空き家となっておりますので、そちらをお使いください」
「なんと!」
「家具は屋敷の倉庫から運びましょう。看板と必要な備品については、私の裁量で手配いたします」
「素晴らしいではないか!」
セシリアは満足げに頷いた。
「さすがエドガー。話のわかる男じゃ」
「……恐れ入ります」
「やはり、そなたは優秀じゃな」
「身に余るお言葉でございます」
「ただし、一つ忠告しておこう」
「……何でございましょう」
少女は真剣な表情で告げた。
「女に金を使いすぎてはいかんぞ」
「…………」
「老後の蓄えも必要じゃろう?」
「……肝に銘じます」
「それから、もう一つ」
「まだございますか」
「相手の女には、そなたが五十六歳だということをきちんと伝えておくのじゃぞ」
「……存じていると思いますが」
「ほう。年齢を偽っておらぬのじゃな」
「偽りようがございません」
「そうじゃな。さすがに二十代とは言えぬものな」
「お嬢様」
「何じゃ?」
「そろそろ、お引き取りいただいてもよろしいでしょうか」
「うむ。長居をしては邪魔じゃからのう」
セシリアは優雅に一礼した。
「では、開業の手配を頼んだぞ」
「かしこまりました」
「それと、エドガー」
「……はい」
「幸せになるのじゃぞ」
執事長は答えなかった。
少女が執務室を出ていくと、彼はゆっくりと椅子に腰を下ろした。
机上には、開かれたままの帳簿があった。
その数字を見つめながら、エドガーは深く息を吐いた。
(……まったく、恐ろしいお嬢様だ)
あれほど正確に行動を把握されていたとは。
今後は、帳簿の管理にも一層の注意を払わなければならない。
そして、できるだけ早く、流用した金を元に戻す必要がある。
彼は新しい帳簿を取り出し、東通りの店舗に関する支出項目を確認した。
空き店舗の維持管理費。
家具の運搬費。
看板の製作費。
幸い、店舗の改装に使える予備費が少し残っている。
必要な費用は、そこから捻出できるだろう。
エドガーは羽根ペンを取った。
そして、しばらく考えた末、帳簿の余白に小さく書き込んだ。
『東通り店舗修繕費』
これでよい。
誰にも疑われることはあるまい。
少なくとも、あのお嬢様以外には。
*
三日後。
王都東通りの一角に、小さな看板が掲げられた。
『セシリア探偵事務所』
その建物は、かつて帽子店として使われていた二階建ての店舗である。
煉瓦造りの外壁には歳月の痕跡が刻まれ、窓枠の塗装もところどころ剥がれていたが、通りに面した大きな窓からは十分な陽光が差し込んでいた。
一階には古びた執務机が一つ、椅子が三脚、本棚が二つ。
窓際には観葉植物が置かれ、壁には王都の地図が掛けられている。
二階は資料室として使用する予定だったが、現時点では空の木箱が積まれているだけであった。
決して豪華ではなかった。
しかし、十二歳の少女が思い描いていた探偵事務所としては、十分すぎるほど立派なものであった。
セシリアは執務机に腰を下ろした。
机上には真新しい手帳と羽根ペン。
そして、愛読する探偵小説が五冊、整然と積まれていた。
「……完璧じゃ」
少女は満足げに呟いた。
これで、いつ難事件が舞い込んでも対応できる。
あとは依頼人を待つばかりである。
そこへ、扉を叩く音がした。
「入るがよい」
入ってきたのはエドガーだった。
「お嬢様。開業のお祝いをお持ちいたしました」
「ほう、何じゃ?」
「焼き菓子でございます」
差し出された包みから、甘い香りが漂った。
セシリアは目を細めた。
「……エドガー」
「はい」
「これ、例の女からもらったものじゃな?」
「…………」
「案ずるでない。わらわは口が堅いのじゃ」
「……ありがとうございます」
「ところで、その女は菓子屋なのか?」
「……ええ、まあ」
「なるほど」
セシリアは一つ頷いた。
「じゃから、そなたはいつも甘い香りがするのじゃな」
「左様でございます」
「これでまた一つ、謎が解けたぞ」
エドガーは深々と頭を下げた。
「……お見事でございます、お嬢様」
少女は満足げに紅茶を口に運んだ。
こうして、王都に一人の名探偵が誕生した。
その推理は最初から最後まで間違っていたが、本人がその事実を知ることはなかった。
なお、開業資金の出所については、子爵家の帳簿に『東通り店舗修繕費』と記載された。
エドガーの横領は、これで二件になった。
名探偵の輝かしい第一歩は、犯罪件数を一件増やすという、まことに華々しい成果をもって飾られたのである。
そのとき、探偵事務所の扉が勢いよく開かれた。
「お願いです! 娘を助けてください!」
飛び込んできた女性は、今にも泣き崩れそうな顔をしていた。
「娘が……七歳の娘が誘拐されたんです!」
エドガーの表情が険しくなる。
しかし、セシリアは少しも動じなかった。
静かに紅茶のカップを置き、依頼人に向かって悠然と微笑む。
「案ずるでない」
そして、堂々と宣言した。
「犯人は、もうわかっておる」
まだ事情は、一言も聞いていなかった。
第一話 完
お読みいただきありがとうございました!
魔○峰○さんのプ○コロが大好きでして、ああいう作風のギャグ小説を書きたいと思って書いてみました^^
面白かったらブクマと評価していただけると執筆の励みになります♡
また第2話もよろしくお願いします。




