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第九話 疑惑の香り

 王太子妃選考への参加書類に署名してから、数日が経った。

 提出期限までは、まだ時間がある。

 だからアデルは、考えないことにした。

 正確には、王太子妃になることについては考えず、意見書の題についてだけ考えることにした。

――この国の香りを、百年後へ残すために必要なこと。

 宮廷調香師としてなら、いくらでも考えられる。香料植物の栽培、職人の育成、国外との交易、品質の管理、新しい香りの研究。考えるべきことは山ほどあるし、むしろ一人の調香師として真剣に考えたい題だった。

 建国祭で騒ぎになったウェストン公爵家は、スピネリアでも最大級の香料交易網を持っている。帳簿の不正を調べたローゼンベルク侯爵家は、国一番の薔薇の産地を抱える名家だ。ほかにも、瓶を作る家、花を育てる家、蒸留技術を守る家、遠い国から香料を運ぶ家がある。

 そういう人たちが、それぞれの場所からこの国の香りを支えている。

 それを百年後へ残すには。

「……だめ」

 アデルは手にしていた羽根ペンを置いた。

 今は勤務時間である。

 意見書のことは、私室へ戻ってから考えると決めたはずだ。それなのに油断すると、すぐ頭がそちらへ向かう。

 もっと正直に言えば、考えたくないことがもう一つあった。

――私にはない視点で国を見つめ、その答えを共に探せる女性を妃として望む。

 王太子妃選考の公示にあった、リュシアンの言葉だ。

 殿下には、もう選びたい女性がいる。

 なら、自分は何のために候補へ入ったのだろう。

 考え始めると、胸の奥が妙に落ち着かなくなる。

「仕事」

 声に出して自分へ言い聞かせ、アデルは目の前の香料瓶へ手を伸ばした。

 その瞬間。

「アデル、いるか」

 聞き慣れた声と同時に、扉が開いた。

「おります。ごきげんよう、殿下」

「ごきげんよう」

 最近はもう、ノックについて何か言うことも諦めた。

 入ってきたリュシアンは、いつものように調香室へ逃げ込んできた時とは少し違っていた。濃紺の執務着は同じでも、長身から漂う空気に緩みがない。黒髪はきちんと整えられ、灰青色の瞳にも冗談を言いに来た時の気配がなかった。

 アデルは自然と背筋を伸ばした。

「何かございましたか?」

「ああ。先日の誘拐事件について動きがあった」

 乳鉢へ伸ばしかけていた手が止まる。

「東方のシャン国と、正式に話し合いの席を設ける」

「やはり、あの香料は……」

「そうだ」

 リュシアンが頷く。

「お前が運ばれていた荷馬車に積まれていたミルラ、ベンゾイン、フランキンセンス。商会の取引記録を追った結果、シャン国側の商人へつながった。捕らえた文官の供述とも一致している」

 胸の奥が、少しだけ冷えた。

 暗い荷馬車。

 湿気を吸った木箱。

 震える手で掴んだ樹脂。

 夜の焚き火へ投げた時の、白い煙。

 もう終わったことだと分かっていても、香りの記憶だけは鮮明だった。

 リュシアンが、そんなアデルの顔をじっと見ていた。

「大丈夫か」

「はい」

「本当に?」

「……少し思い出しただけです」

 嘘をついても、この人には最近すぐ見抜かれる。

 リュシアンの眉間にわずかに皺が寄った。

「無理なら同席しなくていい」

「いいえ」

 アデルは首を横へ振った。

「私も聞きたいです。なぜ調香師が狙われたのか」

「そう言うと思った」

「でしたら最初から聞かないでください」

「聞くくらいいいだろ」

 いつもの調子が少しだけ戻った。

 それだけで肩から力が抜ける。

「当日は、俺の専属調香師として側に控えてくれ。本件の被害者でもある。お前の証言が必要になる可能性もある」

「仰せのままに」

 そう答えてから、アデルは一つ気になった。

「シャン国からは、どのようなお立場の方がお越しになるのでしょう」

「王太子本人だ」

「王太子殿下が?」

「ああ。向こうも随分、本気らしい」

 リュシアンの表情が、また少し厳しくなった。


*


 スピネリア王国から見て、シャン国は東方に位置する。

 二国の間には、高く険しい山脈が横たわっている。直線距離だけなら決して遠くはないが、山を越えて大人数を動かすことは難しい。そのため往来の多くは山脈を大きく迂回し、一度南方の国を経由する交易路を使って行われてきた。

 その山脈は、長く二国の衝突を防ぐ天然の城壁でもあった。

 シャン国は、つい最近まで別の国と戦争をしていたという。

 戦争の詳細までアデルが知る必要はない。ただ、今回の誘拐犯たちがスピネリアから調香師を連れ出し、通常の交易路を逆に利用してシャン国へ運ぼうとしていた可能性が高いことだけは分かっている。

 正式な使節が訪れるまでの数日間、アデルは図書室へ通った。

 相手の国について何も知らないまま席につくわけにはいかない。

「香水ではなく、香油と香が中心なのね」

 開いた本の頁へ指を滑らせる。

 シャンでは、身体へ強い香水をまとう文化はスピネリアほど発達していない。その代わり、室内で香を焚き、衣服や髪へ煙をくぐらせる習慣があるらしい。白檀をはじめとする香木、乾燥させた薬草、樹脂。用途も、礼拝、来客、衣服の防虫、気分転換と多岐にわたる。

「なのに、調香師は攫うんだな」

 真後ろから声がした。

「そうなのです。そこが――」

 答えかけて、アデルは止まった。

 ゆっくり振り返る。

「……殿下?」

「なんだ」

「いつからいらしたのですか」

「少し前」

「声をかけてください」

「かけただろ」

「今ではなく、入ってきた時にです」

 図書室でも同じらしい。

 以前ここで資料を探してくれた文官は、当然もういない。今回の事件への関与が明らかになり、取り調べを受けている。

 一瞬だけそのことを思い出したアデルの前で、リュシアンが向かいの椅子を引いた。

「何を調べてる」

「シャン国の香りの文化です」

「そんなに熱心に調べて、シャン国へ行きたいですとか言い出すなよ」

「言いません」

「珍しい香料が山ほどありますと言われても?」

「……それは少し見たいです」

「アデル」

「見るだけです」

「信用ならない」

「そこまで宮廷調香師の仕事に無責任ではありません」

 むしろ、一度誘拐までされたのだから二度目は絶対に避けたい。

 リュシアンは納得したのかしていないのか分からない顔で、アデルの開いている本を覗き込んだ。

「香を焚く文化か」

「ええ。香りを衣服へ移すこともあるようです」

「嫌だな」

「何がです?」

「どんな匂いの奴が来るんだろうと思って」

「そこですか?」

「大事だろ」

 リュシアンにとっては確かに大事だ。

 アデルは思わず笑い、それから頁をめくった。

「私は少し楽しみですけれど」

「何が」

「どのような香りをまとっていらっしゃるのか」

「…………」

「殿下?」

「別に」

 急に機嫌が悪くなった。

 理由が分からず首を傾げながら、アデルは別の資料へ手を伸ばす。

「あの荷馬車に積まれていた香料も、東方から入るものばかりでした」

 ミルラ。

 ベンゾイン。

 フランキンセンス。

 震えながら嗅いだ、傷んだ樹脂の香り。

「シャン国では香として使われることもあるようです」

「ああ」

「どうして、それを運ぶ者たちが調香師を必要としたのでしょう」

「そこを聞く」

 リュシアンの声から、先ほどまでの軽さが消えた。

「向こうの王太子は、ライレイという。戦争中から軍を率いていたらしい」

「お強い方なのですね」

「少なくとも戦ではな」

 アデルが顔を上げる。

「優秀だとも聞く。ただ、何に優秀なのかまでは分からない」

 戦争。

 その言葉だけで、アデルには想像できない世界がいくつもある。

「話し合いで済めばいいのですが」

「そのために来るんだろ」

 そう言ったリュシアンの横顔は、やはり王太子だった。

 調香室で勝手に椅子へ座り、仕事を邪魔してくる人とは違う。国と国の間に立つ人の顔だ。

 そのことを、なぜか少し寂しいと思った。


*


 数日後。

 シャン国の使節を乗せた一行が王宮へ到着した。

 最初にアデルが驚いたのは、牛車だった。

「……牛」

 思わず小さく呟く。

「牛だな」

 隣のリュシアンも同じものを見ていた。

 立派な角を持つ大きな牛が、装飾された車をゆっくりと引いてくる。車体そのものもスピネリアの馬車とは形が違い、深い朱色と金の装飾が遠目にも鮮やかだった。

 やがて扉が開く。

 降りてきた青年は、リュシアンとさほど年が離れているようには見えなかった。

 赤茶色の髪。

 日に当たると金色に近く光る瞳。

 衣服もまったく違う。首元まできっちりと閉じた上着には大胆な刺繍が入り、その下は脚に沿うズボン。足元は踵のない平たい靴だった。

 異国の王子。

 その言葉がよく似合う。

「初めまして。シャン国王太子、ライレイだ」

 発音にはわずかな訛りがあるものの、スピネリア語は流暢だった。

「お初にお目にかかる。スピネリア王国王太子、リュシアン・スピネリアだ」

 二人が握手を交わす。

「この度は、我が国の民が随分とご迷惑をおかけしたようで」

「過ぎたことではあるが、被害者がいる。再発防止のため、本日は有意義な話ができることを願っている」

「もちろん。そのためにワタシが来ました」

 柔らかい口調だが、目は笑っていない。

 アデルはリュシアンの斜め後ろに控えながら、知らず背筋へ力を入れた。

 すると。

「ところで」

 金色の瞳がこちらへ向いた。

「そちらのお嬢さんは、侍女かな?」

 突然注目され、肩がわずかに強張る。

「私の専属調香師だ」

 リュシアンがすぐ答えた。

「今回の事件の被害者でもあるため、同席させる」

 ライレイの表情が変わった。

「……あなたが?」

 アデルは一歩前へ出て、礼をする。

「お初にお目にかかります。アレクシア侯爵家、アデル・アレクシアでございます。宮廷調香師を務めております」

「それは」

 ライレイがほんの少し眉を下げた。

「随分と申し訳ないことをしたね。調香師殿」

「殿下ご自身になされたことではございません」

「そう言ってもらえると助かる。けれど、我が国へつながった以上、知らなかったでは済まない」

 意外だった。

 もっと弁明から入るのかと思っていた。

 隣を見ると、リュシアンもわずかに目を細めていた。


*


 話し合いは、アデルが想像していたよりずっと早く進んだ。

 シャン国側もすでに調査をしていたらしい。

「簡単に申し上げると」

 ライレイが卓上へ地図を広げる。

「戦争で得た土地を、我々は持て余しています」

 勝った。

 土地を得た。

 そこまではよかった。

 だが、そこから先が問題だったという。

 長い戦争の間、シャン国では火薬、武器、防具、その輸送といった産業へ多くの人と金が集まった。一方で、新たに得た土地の大半は深い森林で、都市も農地も少ない。

「木はいくらでもある。薬草も、樹脂も。ところが、何がいくらの価値になるのか分からない」

 ライレイが苦笑した。

「戦争には勝ったのに、費用を回収する目処が立たない。国庫を預かる者たちは焦った」

「それで、調香師を攫った?」

 リュシアンの声が低くなる。

「正確には、一部の官僚と商人が勝手にやった」

 ライレイは言い逃れをする様子もなく続けた。

「スピネリアの調香技術を利用し、新領地で採れる香材を商品化しようとしたようです。正式に技術協力を申し入れれば金も時間もかかる。だから、人間ごと持ってくれば早い、と」

「随分合理的だな」

 リュシアンが冷たく言う。

「褒めないでほしいね」

「褒めていない」

「分かっています」

 その一言だけで、室内の空気が冷える。

 アデルは黙って資料へ目を落とした。

「関係者はすでに拘束しました」

 ライレイが続ける。

「こちらで確認できた者については、スピネリア側へも名簿を渡します。仲介商会も処分する。必要であれば、そちらの捜査官も受け入れます」

「それなら話は早い」

「ワタシもそう思う。戦が終わったばかりでね。これ以上、くだらない理由で隣国と揉めたくない」

 一見、軽い。

 けれど頭の回転は速い。

 リュシアンが言っていた「優秀」という評判は、おそらく戦争だけのものではない。

 話が一段落したところで、ライレイが小さく咳をした。

「失礼」

 一度。

 それからもう一度。

 アデルの視線が自然と動いた。

「……ライレイ殿下」

「はい?」

「失礼を承知で伺います。最近、咳が続いていらっしゃいますか?」

「よく分かったね」

「先ほどから何度か」

「ここ二ヶ月くらいかな。医者には、戦場の煙を吸いすぎたのだろうと言われました」

 アデルは少し迷った。

「もう一つ、伺っても?」

「どうぞ」

「普段、何か香をお使いですか?」

 ライレイの金色の瞳が丸くなる。

「使いますよ。寝室でも、執務室でも」

「最近、変えられました?」

「…………」

 返事が遅れた。

「変えましたね」

「なぜ分かるんです?」

 アデルは席を立つ。

「近づいてもよろしいでしょうか」

「アデル」

 横から低い声が飛んできた。

「仕事です」

「分かってる」

「では」

「……分かってる」

 どうして二度言ったのだろう。

 気にせず、アデルはライレイの近くまで進んだ。

「失礼いたします」

 衣服へ触れない程度の距離で立ち、ゆっくり息を吸う。

 白檀。

 樹脂。

 乾いた薬草。

 その奥。

「……これは」

 少し苦い。

 焦がした青葉に似た香りがある。

 甘い花の気配も、ごく薄く混じっていた。

 アデルは眉を寄せる。

「新しく得た土地で作られた香ですか?」

「その通りです」

「現物はございますか?」

「持ってきています」

 従者が小箱を運んでくる。

 蓋が開いた瞬間、よりはっきり分かった。

「こちらの葉は?」

「新領地で採れる植物です。いい香りがすると評判で」

「名前は」

「シャンでは白花曼陀羅と呼びます」

 アデルの表情が変わった。

「……やはり」

「知っているの?」

「こちらへお越しになると伺って、シャン国の香文化を調べました」

 図書室で読んだ記述を思い出す。

「白花曼陀羅は、花に甘い香りがあります。ですが、葉や種まで香材のように大量に焚く植物ではありません。薬師が扱うものです」

 ライレイの顔から、先ほどまでの軽さが消えた。

「どういう意味です」

「量によっては、意識の混濁や吐き気を起こす可能性があると記録されています」

 部屋が静まり返った。

「……最近、シャンで」

 ライレイがゆっくり口を開く。

「香を焚いた者が、気分を悪くする事件が増えています」

「どのような?」

「頭痛、吐き気。ひどいものになると、見えないものが見えると言ったり、突然暴れたり」

「そのお香に、これが?」

「分からない。ただ」

 金色の瞳が、小箱へ落ちる。

「新領地の香材を使った商品が増え始めた時期とは重なる」

 アデルは香材を直接触れず、木箱の中を観察した。

 香りだけで断定はできない。

 けれど調べる場所は分かる。

「すべての香を止めて、薬師の方にも確認していただいた方がよろしいと思います」

「ワタシの咳も?」

「可能性はございます。少なくとも、この香りが殿下のお召し物へかなり移っています。毎日、閉じた室内で焚いていらっしゃるなら、一度お止めください」

「香なしで寝ろと」

「咳が落ち着くまでは」

「厳しいなあ」

「健康と香りでしたら、健康を優先してください」

「調香師がそれを言う?」

「調香師だから申し上げるのです」

 ライレイが一瞬きょとんとしたあと、大きく笑った。

「面白いね、あなた」

「普通のことを申し上げただけですが」

「スピネリアの調香師は皆こうなの?」

「アデルだけだ」

 なぜかリュシアンが答えた。

 アデルが振り返る。

「殿下?」

「何でもない。続けろ」

「では」

 アデルはシャン国の資料へ目を落とした。

「咳が治まってから香を再開されるのでしたら、最初はもっと単純なものがよろしいかと」

「例えば?」

「白檀を中心に」

「白檀」

「はい。それだけでも十分に香ります。もしシャン国で浄化に使われる香りをお好みでしたら、白いセージを少量合わせてもよいかもしれません。ただし、煙そのものが刺激になりますから、焚きすぎず、換気をなさってください」

「作ってくれる?」

「必要であれば――」

「必要ない」

 横から声が飛んだ。

 アデルが振り返る。

「殿下?」

「シャンにはシャンの調香師がいるだろ」

「香師です」

 ライレイが訂正した。

「どっちでもいい」

「よくないと思います」

「アデル」

「はい?」

「お前は俺の専属調香師だ」

「存じております」

「……ならいい」

 何がいいのか、まったく分からない。

 一方、ライレイは面白そうに二人を見比べていた。

「なるほどねえ」

「何だ」

「いえ、別に」

 金色の瞳が、笑っている。

 アデルだけが意味を理解できなかった。


*


 その後、シャン側が持参していた香の記録と使用者の症状を照らし合わせると、問題を起こした品のいくつかには、確かに新領地から採取された白花曼陀羅が混ぜられていた。

 戦争が終わり、急いで新しい産業を作ろうとした結果、香材として安全に使えるものと薬として慎重に扱うべきものの選別が追いついていなかったらしい。

 調香師を攫おうとした官僚たちも、同じ問題に直面していた。

 森にあるものを、売れる香りへ変えたい。

 だが、その方法が分からない。

 だからスピネリアから知識を盗もうとした。

「……随分、綺麗につながったな」

 資料を閉じながらリュシアンが言う。

「綺麗ではありません」

 アデルは即座に否定した。

「人を攫っています」

「そういう意味じゃない」

「分かっています」

 話し合いはひとまず終わった。

 シャン国は誘拐に関わった者の処分と、流通している香の再調査を約束する。スピネリア側は求めがあれば、安全な香材の選別と加工に関する技術者を正式な契約で派遣することになった。

 奪うのではなく、借りる。

 借りるなら、対価を払う。

 あまりにも当然のことを確認するために、随分大きな事件になった。

「それにしても」

 ライレイが椅子へ背を預ける。

「アデル嬢は、なかなか優秀だ」

「ありがとうございます」

「香りを嗅いだだけで、ここまで分かる」

「香りだけではありません」

 アデルは首を横へ振る。

「症状と、記録と、殿下がお持ちになった香材があったからです。香りは、調べるべき場所を教えてくれただけです」

「そこもいい」

「はい?」

「自分の鼻を過信しない」

 ライレイの口元が上がる。

「ワタシの国にも、一人欲しいな」

「断る」

 今度は、アデルが返事をするより早かった。

「リュシアン殿下」

「何だ」

「あなたに聞いていないよ」

「俺の専属だ」

「本人に聞いている」

 ライレイがアデルを見る。

「どうです? シャンへ来ない?」

「参りません」

「即答」

「宮廷調香師でございますので」

「では」

 ライレイが、楽しそうに指を組んだ。

「友好の証に、ワタシの妃をスピネリアからいただくのも悪くないなあ」

 空気が止まった。

「……妃、ですか?」

「そう。これから交流も増えるでしょう。婚姻ほど分かりやすい結びつきもない」

「それは」

「お望みであれば」

 リュシアンがにっこり笑った。

 笑っている。

 笑っているのに。

 アデルの背中へ、ぞくりと寒気が走った。

「スピネリアから、相応しいご令嬢をお引き合わせしよう」

「へえ」

「香料交易に明るい家がよろしいのでは? ウェストン公爵家は我が国でも最大級の交易網を持っている。ほかにも東方との取引を望む家はいくつかある」

「随分と親切ですね」

「隣国の王太子の希望だからな」

 灰青色の瞳が、一切笑っていない。

(怖い)

 アデルだけが気づいていた。

 おそらく。

 いや、絶対に。

 何かが気に入らなかったのだ。

 何がとは、聞かない方がいい。

 ライレイはしばらくリュシアンを見たあと、堪えきれないように笑い出した。

「いや、面白い」

「何が」

「何でもありませんよ」

「なら笑うな」

「無理だね」

 この二人は、案外相性が悪いのかもしれない。


*


「まあまあ。ワタシは一週間ほど滞在しますので、続きはゆっくり話しましょう」

 会談を終え、ライレイは立ち上がった。

 そして。

「ね。アデルちゃんも」

「…………」

「…………」

 アデルとリュシアンが、ほぼ同時に固まった。

「今、何と?」

 リュシアンの声が低い。

「アデルちゃん」

「なぜ二度言った」

「聞かれたから」

「ライレイ殿下」

 アデルは慌てて割って入った。

「そのようにお呼びいただくような立場ではございませんので」

「そう?」

「はい」

「ワタシは仲良くなりたい相手を、こう呼ぶことにしているんだ」

「彼女は仕事に誇りを持っている」

 リュシアンが一歩前へ出た。

「宮廷調香師と呼ぶといい」

「名前で呼ばれると仕事の誇りがなくなるの?」

「そういう話じゃない」

「では?」

「…………」

 リュシアンが黙った。

 言葉に詰まったらしい。

 珍しい。

「殿下?」

「アデル」

「はい」

「お前は調香室へ戻っていろ」

「ですが」

「今日の仕事は終わりだ。こいつは俺が客室まで案内する」

「こいつとは」

 ライレイが楽しそうに訂正する。

「ライレイ殿下、です」

「分かってる」

「ではアデルちゃん、またあとで」

「またはありません」

「リュシアン殿下には聞いていないよ」

 また始まった。

 アデルは二人を見比べた末、諦めて一礼した。

「では、失礼いたします」

 背中へ二人分の視線を感じながら、その場を離れた。


*


 調香室へ戻ると、アデルは正装を脱ぎ、いつもの仕事着へ着替えた。

 淡い灰青色のガウン。

 白い前掛け。

 長い銀髪を低い位置でまとめ直す。

「……疲れた」

 会談そのものより、最後の方が疲れた気がする。

 白檀の瓶を棚へ戻したところで、再び勢いよく扉が開いた。

「アデル」

「殿下」

 振り返る。

 さきほどと同じ正装のままのリュシアンが立っていた。その後ろには補佐官までいる。

 随分と早い。

「ライレイ殿下のご案内は?」

「終わった」

「早いですね」

「アデル」

「はい」

「今すぐ引っ越せ」

「…………はい?」

 何を。

「部屋だ。荷物をまとめろ」

「なぜです!?」

 アデルは思わず声を上げた。

 今、アデルが暮らしているのは、王宮の敷地内にある職員用の離宮だった。技術職や上級使用人など、城内で常時働く者のために用意された建物である。

 侯爵令嬢ではあるものの、宮廷調香師として住み込みで出仕している以上、アデルもそこへ部屋を借りている。

 実家から同行した侍女のメリーも一緒だ。

 特に不便はない。

「どこへ引っ越すのですか?」

「こちらで用意する」

「そういう問題ではなく」

「警護しやすい場所だ」

「今の部屋にも警備はおります」

「足りない」

「何を基準に」

「シャン国の王太子がお前を見る目」

「はい?」

「怪しかった」

 アデルは瞬きをした。

「そうでしょうか」

「そうだ」

「仲良くなりたいとはおっしゃっていましたけれど」

「それだ」

「どれです?」

「全部だ」

 会話にならない。

 アデルは助けを求めて補佐官を見る。

 補佐官は遠い目をしていた。

「補佐官様」

「申し訳ございません、アデル様」

「なぜ謝るのですか」

「私にも止められませんでした」

「止める必要はない」

 リュシアンが言う。

「必要があります」

 アデルと補佐官の声が重なった。

「とにかく」

 リュシアンは譲らない。

「あいつは一週間いる。誘拐事件が片づいたばかりで、警備を緩める理由がない」

 その言葉には、反論しづらかった。

 実際、一度連れ去られている。

「……分かりました」

「よし」

「ただし、本当に警備上必要なのであれば、です」

「ああ」

 返事が早い。

 嫌な予感がした。


*


「お嬢様、何があったのです?」

 突然部屋へ戻ってきたアデルを、メリーは目を丸くして迎えた。

「私にもよく分からないの」

「はい?」

「殿下が、引っ越せと」

「…………どちらへ?」

「それも聞いていないわ」

「大丈夫なのですか?」

「多分」

 多分しか言えない。

 もっとも、荷物そのものは大して多くなかった。

 宮廷調香師として使う道具や本の大半は調香室にある。部屋に置いてあるのは衣服と日用品、数冊の私物の本くらいだ。

 メリーと二人でまとめれば、そう時間はかからなかった。

「殿下! 終わりました!」

 待っていたリュシアンへ声をかける。

「早いな」

「荷物が少ないので。それより、ご説明ください」

「歩きながら」

 リュシアンは当然のように先へ進む。

「殿下!」

 長い脚に追いつくため、アデルも足を速めた。

「一体、どちらへ向かっているのですか?」

「もう少し」

「少しでは分かりません」

「すぐ分かる」

「私は今、私の住居を聞いているのですが」

「安心しろ。前より広い」

「広さの問題ではございません!」

 王宮の中を進み。

 回廊を渡り。

 そこでアデルは気づいた。

(こちらは……)

 王族が使用する離宮だ。

 足が遅くなる。

「殿下」

「なんだ」

「まさか」

「着いた」

 リュシアンが一つの扉を開けた。

 中は、アデルが今まで住んでいた部屋とは比べものにならないほど広かった。

 寝室。

 衣装部屋。

 侍女用の控室。

 小さな応接室。

 さらに、その奥にもう一つ扉がある。

 内装は王族の居室らしく上質だが、華美すぎない。深い青と銀を基調に整えられ、窓からは冬の庭園がよく見えた。

「ここを使え」

 アデルは黙った。

「アデル?」

「殿下」

「なんだ」

「私の知識が間違っていなければ」

 一度、息を吸う。

「ここは、王太子妃のためのお部屋では?」

「そうだったか?」

「知らなかったような顔をしないでください」

「使っていない部屋だ」

「そういう問題ではありません!」

「空いてる」

「そういう問題でもありません!」

 背後で、補佐官が静かに天井を見上げていた。

「父上と母上には許可を取った」

「いつですか!?」

「ライレイを客室へ送ったあと」

「それでご案内があんなに早かったのですか!?」

 全部つながった。

 リュシアンは満足そうだった。

「警護は王族区画と同じになる。メリーも控室を使える。お前側から扉へ鍵もかけられる」

「扉?」

「ああ」

 リュシアンが奥の扉を開く。

 その先には、もう一つの部屋。

 暖炉。

 長椅子。

 本棚。

 執務机。

 王族の私的な応接室らしい。

「ここは俺の私室」

「…………」

「その先が寝室」

「閉めてください」

「まだ説明が」

「閉めてください!」

 リュシアンが扉を閉じた。

「真ん中の私室までは好きに使っていい。俺も仕事をすることがあるが」

「私は使いません」

「窓から月が綺麗に見えるぞ」

「使いません」

「暖炉もある」

「使いません」

「本も」

「殿下」

「分かった」

 まったく分かっていない顔だった。

「ライレイ殿下がお帰りになるまでですからね」

「……ああ」

 一拍あった。

「一週間です」

「分かってる」

 なぜか少し不満そうだ。

 アデルは大きく息を吐いた。

「お父様にもお知らせしなければ」

「それはあとでいい」

「よくありません」

「誘拐対策と言えば納得するだろ」

「王太子妃の部屋へ移す理由にはなりません」

「警護しやすい」

「ほかにもお部屋はありますよね?」

「ここが一番近い」

「何にです?」

 リュシアンが黙った。

「殿下?」

「警備兵に」

「本当ですか?」

「……俺にも」

 ぼそりと付け足された。

 アデルの胸が、一度だけ強く鳴った。

 何を。

 そんなことを。

「それでは理由になりません」

「俺にはなる」

「なりません」

 押し切るように言いながら、アデルは自分の頬が熱くなっていることに気づいた。

 困る。

 本当に。

 最近のこの人は、困ることばかり言う。


*


 その夜。

 アデルはなかなか眠れなかった。

 寝具が変わったせいだ。

 部屋が広すぎるせいだ。

 王太子妃の部屋だと知ってしまったせいだ。

 決して。

 扉一枚と私室を挟んだ向こうに、リュシアンがいると知っているせいではない。

「……眠れない」

 諦めて起き上がる。

 メリーはもう控室で休んでいる。

香料を少しだけ持って私室の月を見に行った。

 薄い夜着の上から部屋着を羽織り、アデルは髪をまとめ直そうとして、やめた。私室なのだからいいだろう。長い銀髪を下ろしたまま、机へ向かう。

 眠れない時は、何か香りを作る。

 昔からの癖だった。

 レモン。

 ペパーミント。

 少しだけ白檀。

 手を止める。

「……たまには、セージも」

「それはいらないな」

「っ!」

 アデルは肩を跳ねさせた。

 奥の扉のところに、リュシアンが立っている。

「殿下!」

「そんなに驚くか?」

「驚きます!」

「灯りが見えたから」

「だからといって突然入らないでください!」

「真ん中の私室は使っていいと言っただろ」

「今はこちら側です!」

 よく見ると、リュシアンも昼間の正装ではない。濃い色の上着は脱ぎ、白いシャツの襟元も少し緩んでいる。黒髪も完全には整えられておらず、数本が額へ落ちていた。

 いつもよりずっと私的な姿だ。

 意識した途端、視線の置き場所に困る。

「……で、何を作ってる」

「眠れないので、匂い袋を」

「セージはやめろ」

「なぜです?」

「シャン国の奴に勧めたやつだろ」

「白檀とセージは、別にライレイ殿下専用ではありません」

「分かってる」

「では」

「気に入らない」

 あまりにも素直だった。

 アデルは数秒黙った。

「……殿下」

「なんだ」

「もしかして、ライレイ殿下がお嫌いですか?」

「今日会ったばかりだぞ」

「初代様の時も同じようなことをおっしゃっていましたね」

「…………」

 リュシアンが黙った。

 アデルも気づいた。

「まさか」

「言うな」

「嫉妬」

「言うなと言った」

「やはり」

「今回は相手が生きてる分、前より面倒だ」

 認めた。

 あまりにも自然に。

 アデルの胸がまた落ち着かなくなる。

「でも、なぜ」

「分からないのか?」

「はい」

「……そうだったな」

 リュシアンが片手で額を押さえた。

 最近、よくこの反応をされる。

 失礼だ。

 けれど今は、それより気になることがあった。

「殿下」

「なんだ」

「今日の引っ越し」

「悪かった」

 予想していない返事が来た。

 アデルは目を瞬く。

「……謝れるのですね」

「お前は俺を何だと思ってる」

「王太子殿下です」

「今の間は何だ」

「何でもありません」

 リュシアンが小さく息を吐いた。

「急すぎたとは思ってる」

「はい」

「でも、あいつがお前を見る目が気に入らなかったのも本当だ」

「はい?」

「誘拐事件が片づいたばかりなのに、また国外へ連れて行くとか言われて、平気でいられるほど俺はできてない」

「ライレイ殿下は冗談では」

「冗談でも嫌だ」

 迷いのない声だった。

 アデルは返事ができなくなる。

 月明かりが窓から差し込み、下ろした銀髪を淡く照らしている。

 リュシアンの視線が、そこへ止まった。

「……髪」

「はい?」

「下ろすと、そんなに長いんだな」

 アデルは反射的に髪へ触れた。

「普段は仕事の邪魔になりますので」

「そうか」

 それだけ言って、なぜかまだ見ている。

「殿下」

「悪い」

 視線を外した。

 耳の先が、ほんの少し赤い。

 アデルまで恥ずかしくなり、手元の香草へ目を落とす。

 しばらく、どちらも何も言わなかった。

「……アデル」

「はい」

「俺は」

 リュシアンが言葉を探すように、一度止まった。

「お前を、近くに置いておきたい」

 心臓が跳ねた。

「それは……専属調香師だからですか?」

 聞いてから。

 聞かなければよかったと思った。

「それだけなら、調香室にいれば十分だろ」

「…………」

「今回みたいなことがあると困る。見えないところにいると、何をしてるか気になる。他の男と話してるのも面白くない」

「殿下」

「何だ」

「それ以上は」

「なぜ」

「……困ります」

 本当に困る。

 勘違いしてしまう。

 自分でもようやく気づき始めたばかりの感情を、そんなふうに揺らさないでほしい。

「殿下には」

 喉が少し詰まった。

「もう、選びたいご令嬢がいらっしゃるのでしょう?」

 リュシアンが固まった。

「……は?」

「公示に書かれていました」

「どこに」

「『私にはない視点で国を見つめ、その答えを共に探せる女性を妃として望む』と」

「ああ」

「王妃陛下にも、もうお心に決めた方がいらっしゃるのではと聞かれたのでは?」

「なぜそれを」

「王宮ですので」

「怖いな」

「ですから」

 アデルは自分の指をぎゅっと握った。

「その方がいらっしゃるのに、私へそのようなことをおっしゃるのは、おやめください」

 リュシアンは何も答えなかった。

 灰青色の瞳が、まっすぐアデルを見ている。

 長い。

 あまりにも長い。

「殿下?」

「……いる」

 胸の奥が、少し沈んだ。

 分かっていたはずなのに。

「そう、ですよね」

「ああ」

「でしたら」

「だから、まだ言えない」

「はい?」

 リュシアンは何か言いかけて、口を閉じた。

 それから、少し困ったように黒髪を掻き上げる。

「選考が終わるまでは」

「……その方にも?」

「ああ」

 それはそうだ。

 選考という形を取った以上、一人だけへ先に想いを告げれば、公平ではなくなる。

 この人はそういうところだけ妙に真面目だ。

 アデルは自分を納得させた。

「分かりました」

「分かったのか?」

「はい」

「……本当に?」

「なぜ殿下が不安そうなのですか」

「いや」

 リュシアンがひどく微妙な顔をしている。

 何か間違えただろうか。

「とにかく」

 アデルは話を戻した。

「このお部屋も、ライレイ殿下がお帰りになるまでです」

「一週間」

「はい」

「分かってる」

「本当に?」

「ああ」

 返事をしたリュシアンは、なぜか少し笑っていた。

「何です?」

「別に」

「何か企んでいませんか?」

「企んでない」

「こちらを見てください」

「眠い」

「殿下」

 逃げる気だ。

 リュシアンは扉のところまで歩いていき、そこで一度だけ振り返った。

 月明かりの中に立つアデルを、また少し長く見る。

「おやすみ、アデル」

「……おやすみなさいませ、殿下」

 扉が閉まる。

 静かになった私室で、アデルはしばらく動けなかった。

 近くに置いておきたい。

 見えないところにいると気になる。

 他の男と話しているのも面白くない。

「……本当に」

 困る。

 そんなことを言われたら。

 選ばれるはずの誰かが、少しだけ羨ましくなってしまう。

 アデルは熱くなった頬を押さえ、机の上へ視線を戻した。

 レモン。

 ペパーミント。

 白檀。

 そしてセージ。

 少し考えて。

 セージだけ、元の瓶へ戻した。

「……今日は、いらないかも」

 月明かりの下。

 白檀の淡い香りだけが、静かに部屋へ残った。


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