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第十話 奪い合う香り

 急な引っ越しをして、初めて迎える朝だった。目を覚ましたアデルは、薄青い天蓋をしばらくぼんやりと眺めていた。銀糸で蔓草の刺繍が施された布地の向こうから、朝の光が淡く透けている。寝返りを打てば、昨日まで使っていた職員用離宮の寝台よりも柔らかな羽毛が身体を沈ませた。王太子妃のために用意された部屋なのだから、当然なのだろう。広い寝室には磨き上げられた家具が置かれ、壁際には化粧台があり、隣には衣装部屋まで続いている。どれも自分のために用意されたものではない。

「……一週間」

 呟いた声が、静かな寝室へ思った以上に鮮明に響いた。

 ライレイがスピネリアへ滞在している間だけ。警護を強化するためという理由で、リュシアンの居住区に隣接するこの部屋へ移された。一週間が過ぎれば、また元の部屋へ戻る。それだけのことなのに、アデルは胸元まで引き上げていた掛布を指先で握った。

 この部屋には、いずれ本来の主が来る。

 王太子妃。

 リュシアンが選びたいと思っている、まだ名前も知らない誰か。

 昨日、本人へ尋ねた。すでに選びたい女性がいるのか、と。返ってきた答えは、いる、だった。だが選考が終わるまでは本人にも告げないらしい。その女性が誰なのかまで訊く勇気は、アデルにはなかった。

 やがて、その女性がここで眠る。朝になれば隣の私室へ向かい、リュシアンと食事をして、夜になればまた同じ場所へ帰ってくるのだろう。そこまで想像したところで、胸の奥に薄い棘のようなものが刺さった。

「……やめよう」

 アデルは小さく頭を振った。寝起きでほどけかけた銀髪が白い寝間着の肩を滑り、朝日を受けて淡い紫色を帯びる。

 考えない方がいい。

 自分だって王太子妃候補ではあるが、候補であることと選ばれることはまったく違う。それに、この部屋を借りている理由は恋愛でも婚姻でもなく、あくまで警護だ。そこへ余計な意味を見つけ始めれば、一週間後に元の部屋へ戻る時、きっと苦しくなる。

 昨夜でさえ、扉の向こうにリュシアンがいるのだと思うと妙に落ち着かなかった。そんな生活に慣れてはいけない。

 トントン、と控えめな音がして、アデルは顔を上げた。

「アデル様、おはようございます」

「おはよう、メリー。どうぞ」

 扉から入ってきたメリーは、すでに朝の身支度を整えていた。柔らかな栗色の髪をきっちりとまとめ、濃紺の侍女服の上から白い前掛けを重ねている。新しい部屋に移った主人とは違い、彼女はいつも通り落ち着いて見えた。

「よく眠れましたか?」

「ええ。メリーは?」

「はい。控室まで大層立派で、私には少々落ち着きませんでしたけれど」

「私も同じよ」

 二人で顔を見合わせると、メリーがわずかに頬を緩めた。その笑みを見て少し安心したところで、彼女が「ああ、それから」と続ける。

「殿下からお言伝を預かっております。こちらのお部屋にいらっしゃる間、朝食は私室で取るように、とのことです」

「ああ……そうね」

 言われてみれば不思議ではない。王族の居住区に、職員用離宮のような共同の食堂はないのだろう。

「ここには食堂なんてないものね。分かったわ。着替えたら向かいます」

「承知いたしました」

 メリーに髪を整えてもらい、いつもの仕事着へ着替える。淡い灰青色のガウンに、洗いやすい白いリネンの前掛け。腰近くまである銀髪は調香の邪魔にならないよう低い位置で編み込んでまとめた。鏡の中には、昨日までと何も変わらない宮廷調香師がいる。白い肌に、細く整った眉。少し吊り気味の大きな瞳は、窓から入る朝の光では新緑に近い色をしていた。

 王太子妃の寝室で目を覚ました女には、見えない。

 それでいい、とアデルは思った。

*

 隣の私室へ入った瞬間、アデルは扉の前で足を止めた。朝の光が大きな窓から差し込み、深い青の絨毯と、その上に置かれた小さな食卓を照らしている。卓上には焼いたばかりのパン、卵料理、果物、温かなスープが並び、湯気が細く立っていた。そして食器は、どう見ても二人分ある。

(二人分?)

 メリーもここで食べるのだろうか、と考えたところで、奥から聞き慣れた低い声がした。

「早いな、アデル」

 振り向いたアデルは、一瞬言葉を失った。

 リュシアンがいた。

 まだ執務用の濃紺の上着を身につけておらず、白いリネンのシャツに黒い脚衣という簡素な姿だった。首元の留め具も一つ外れている。普段は隙なく整えられている艶のある黒髪も、今朝は前髪が何本か額へ落ち、切れ長の灰青色の瞳にもわずかな眠気が残っていた。黙って立っていれば冷たい彫像のように整った男なのに、朝の光の中では妙に年相応に見える。

 王太子にも朝がある。

 当たり前のことを、なぜか初めて知ったような気がした。

「何だ、その顔」

「いえ……」

「座れ。冷めるぞ」

 リュシアンは何も気にする様子もなく、自分の席へ腰を下ろした。長い脚を持て余すように椅子の下へ収め、パンへ手を伸ばす。その自然さが、かえってアデルを戸惑わせる。

「ここで、殿下と朝食ですか?」

「それ以外に何がある?」

「それは……」

 ここは王太子と、その妃が暮らすために設けられた部屋だ。

 朝になれば、二人で食卓を囲む。

 それはきっと、王太子妃がすることなのだろう。

 そこまで考えた瞬間、先ほど寝室で押し込めたばかりの棘が、また胸の内側へ触れた。

 こんな朝を知ってしまったら。

 一週間後、なくなった時に困る。

「アデル?」

「……いえ。いただきます」

 アデルは余計な考えを追い払うように椅子へ腰を下ろした。向かい側に座るリュシアンとの距離が、王宮の食堂で向かい合う時より近い。手を伸ばせば卓上の同じ籠からパンを取れるほどで、それだけのことなのに妙に落ち着かなかった。

「今日の予定は?」

 リュシアンが何気なく尋ねた。

「午前中は図書室へ参ります。午後には調香室へ戻る予定です」

 パンを切っていたリュシアンの手が、ぴたりと止まった。

「図書室?」

「はい」

「できれば調香室にいてほしいんだが」

「なぜです?」

 尋ねると、灰青色の瞳が露骨に逸れた。

「……別に」

「ライレイ殿下ですか?」

「…………」

「殿下」

「昨日、あれだけ堂々と連れて帰りたいと言われたあとだぞ。気にするなという方が無理だろう」

 ぶっきらぼうな言い方だったが、黒髪の下から覗く耳がほんの少し赤い。以前なら、こういう感情を本人自身が理解していなかった。最近のリュシアンは、分かっていて隠さない。

「お誘いなら、すでにお断りしております」

「分かってる」

「それなら」

「分かっていても嫌なものは嫌なんだ」

 あまりに真正面から言われ、今度はアデルが黙った。

 そういうことを平然と言わないでほしい。

 自分の胸がどうなるのか、この人は少しも分かっていない。

 誤魔化すようにスープへ視線を落としたアデルは、銀色の睫毛を伏せたまま話題を変えた。

「そもそも、リュシアン殿下があまりにも気軽に出入りなさるので忘れそうになりますが、宮廷調香室は本来、誰でも自由に入れる場所ではございません」

「……ああ」

「新しい抽出方法や王室専用の処方、各地から届いた香料の品質記録まで保管しております。香水が国の主要産業である以上、あそこにあるものの多くは国家機密です。殿下はスピネリアの王太子ですから問題ございませんが、外国の王族であるライレイ殿下をお通しすることはできません」

 リュシアンは一度頷くと、パンを置いてアデルへ視線を戻した。

「で、図書室では何を?」

「シャン国が先の戦争で得た領地について調べようと思いまして」

 そこでリュシアンの表情が変わった。先ほどまで嫉妬を隠しもしなかった青年の顔から緩みが消え、王太子として国政を考える時の鋭さが戻る。

「新領地か」

「最終日の晩餐会までに、どんな植物が育つ土地なのか知っておきたいのです。先日の白花曼陀羅のこともありますので」

「……それは必要だな」

 考え込むように眉を寄せたあと、リュシアンは不承不承といった様子で頷いた。

「止められるかと思いました」

「仕事なら止めない」

「そういうところは信用しております」

「そういうところは?」

「はい」

「ほかは?」

 低い声に促され、アデルはわざと首を傾げた。

「さて」

「アデル」

 形のいい眉が寄った。それでも口元にはわずかに笑みが浮かんでいる。アデルも思わず笑い返しかけて、はっとした。

 朝から、楽しい。

 その事実を認めることが一番危険な気がして、アデルは慌ててパンへ視線を落とした。

 一週間。

 たった一週間なのだから。

*

 午前の図書室は静かだった。高い窓から差し込む冬の光の中を細かな埃が漂い、古い紙と革、それから乾いた木棚の匂いが薄く混じっている。香料に囲まれた調香室とは違うが、アデルはこの匂いも嫌いではなかった。

 大きな机の上には、シャン国周辺の地誌と植物誌、それに先の戦争で書き換えられたばかりの地図が広げられている。新たにシャン国領となった地域は、国境付近の山地と、その先に続く広大な森林を中心としていた。平地は少なく、大規模な穀物生産には向かない。一方、植生についての記録を追うと、アデルの指が何度も止まった。

「樹脂、香木、薬草……」

 気候と植物だけを見れば、香料の宝庫になり得る土地だった。

 けれど、香る植物があることと、それを産業にできることはまったく別の話だ。先日の白花曼陀羅もそうだった。美しい香りを持っていても、採取する部位や方法を誤れば毒になる。採取の時期、乾燥の仕方、蒸留温度、熟成期間、混ぜてはならない素材。植物一つを安全な香料へ変えるだけでも、長い時間をかけて蓄積された知識が要る。

(土地を得ただけでは、使えない)

 スピネリアも同じだった。

 花が多く咲くから香りの国になったわけではない。育てる者がいて、最良の時期に摘む者がいて、蒸留する者がいる。その香料を品質ごとに選別し、調香師が組み合わせ、瓶職人が器を作り、商人が外国へ運ぶ。アレクシア家だけでも成り立たないし、王室だけでも作れない。

 土地ではなく。

 積み重ねた知識こそが、この国の財産なのだ。

「なるほど……」

「ずいぶん熱心だね、アデルちゃん」

 突然耳に入った声に、アデルの肩が揺れた。

 顔を上げると、机の向こう側にライレイが立っていた。赤茶色の髪は今日も肩につかない程度に整えられ、日に焼けた肌によく似合っている。金色の瞳は猫のように細く、いつもの人懐こい笑みを浮かべていた。深い朱色の上着には金糸で異国風の文様が刺繍され、片手には細長い陶器の壺を抱えている。

「ライレイ殿下」

「おはよう」

「お身体はいかがですか?」

真っ先にそう尋ねると、ライレイは一瞬だけ目を丸くした。それから、先ほどまでより少し柔らかく笑う。

「言われた通り、昨夜は寝室の香を全部止めたよ」

「全部ですか?」

「白檀だけなら残していいと言われたけど、念のため。窓も開けた」

「咳は?」

「朝までほとんど出なかった」

「本当ですか?」

 思わず声が明るくなる。アデルの表情がぱっと綻び、光を受けた瞳の色が明るい新緑へ変わった。

「よかった……」

 その言葉は心から出たものだった。

 香りは人を楽しませるためのものだ。心を鎮め、記憶を呼び起こし、誰かへ想いを伝えることもできる。だからこそ、香りのせいで身体を壊している人を見るのは嫌だった。

 ライレイはそんなアデルをしばらく眺めていた。

「アデルちゃんは、そうやって笑うんだね」

「はい?」

「いや。こっちの話」

 彼はそれ以上何も言わず、抱えていた陶器の壺を机へ置いた。

「昨日のお礼」

「これは?」

「酒」

「お酒?」

「シャンの熟成米酒。米から作る酒だよ」

 朱色の紐で封じられた壺は、スピネリアの葡萄酒を入れる硝子瓶とはまるで違う。アデルは興味深そうに眺めたあと、少し困ったように眉を下げた。

「いただいてよろしいのですか?」

「もちろん。ワタシの咳を止めてくれた礼」

「原因が完全に特定できたわけではございませんし、私一人の手柄でも」

「真面目だなあ」

「仕事ですので」

「そういうところも好きだよ」

「…………」

 最近、こういうことを平然と言う人が周囲に増えた気がする。

 アデルは聞かなかったことにした。

「ありがとうございます。大切にいただきます」

「どういたしまして」

 ライレイは向かいの椅子を引くと、長い脚をゆったりと組んだ。金色の瞳が卓上の地図へ移る。

「新領地を調べてる?」

「はい。どのような植物が育つのか気になりまして」

「欲しい?」

「何がです?」

「土地」

「いりません」

 即答すると、ライレイが声を上げて笑った。

「スピネリアは本当に戦争に興味がないね」

「少なくとも、私はございません」

「ワタシだって好きなわけじゃないよ」

 意外な言葉に、アデルは顔を上げた。ライレイは笑みを少し薄くして、地図の上に引かれた国境を指先でなぞっている。

「ワタシは第八王子だった」

「第八……?」

「上に七人いた。王太子になる予定なんて、最初はまったくなかったよ」

「では、どうして」

「戦争で結果を出したから」

 あまりに軽い言い方だった。まるで学問の試験で一番を取ったから、とでも言うように。

「敵の砦を落として、補給路を作って、奪った土地を守った。何度か大きな戦に勝つうちに、上の兄たちよりワタシを次の王にした方が得だと考える人間が増えた。それだけ」

「……それで、王太子に」

「そう。欲しいものは大体、そうやって取ってきた」

 人好きのする笑顔は変わらない。それでも、その奥にあるものが先ほどまでとは違うことくらい、アデルにも分かった。金色の瞳だけが不思議なほど静かだった。

「だからね、アデルちゃん。本気であなたをシャンへ連れて帰りたいなら、方法はいくらでもある」

「……方法、ですか」

「金を積む。アレクシア侯爵家へ利益を約束する。スピネリアに条件を提示する。それでも駄目なら――戦争をする」

 図書室の空気が、一瞬にして冷えた気がした。

 アデルは黙ってライレイを見つめる。

 白い頬から、わずかに血の気が引いたのが自分でも分かった。

「もちろん、今すぐ戦争を始めるという話じゃないよ」

「……そうであっていただきたいです」

「怖い?」

「少し」

「正直だ」

 楽しそうに笑うライレイを見ながら、アデルは小さく息を吐いた。

(これは、尊重されているのかしら)

 それとも脅されているのか。

 おそらく両方なのだろう。

「でも王妃になってくれるなら、側室は迎えないよ」

「……側室?」

「うん」

「なぜ急に婚姻のお話へ戻るのでしょう」

「昨日からしてる」

「そうでした」

 忘れたかっただけである。

 ライレイは頬杖をつき、わずかに目を細めた。

「継承権を巡って兄弟同士で争うのは、もう懲りた。ワタシの子どもには同じことをさせたくない」

 第八王子だった。

 その言葉の意味が、先ほどより少し重く聞こえた。

 七人の兄がいて。

 その全員を抜いて、ここにいる。

「ですが、それを私におっしゃられても、お返事できるものではございません」

「そう言うと思った。じゃあ、別の言い方をしよう」

 ライレイが身体を起こした。

「シャンには後宮がある」

「後宮?」

 知識として聞いたことはあるが、スピネリアには存在しない制度だ。

「国王の王妃や側室たちが暮らす場所。第一王妃を筆頭に複数の王妃がいて、そのほかに側室もいる。何人もの女が、一人の王の子を産む」

「一人の方に、何人も……」

 アデルの細い眉が寄った。

「大変ですね」

「何が?」

「皆様が同じ方をお慕いしているのであれば、好きな方をほかの女性と奪い合うことになるのでしょう?」

 口にした途端、脳裏に一人の男が浮かんだ。

 黒髪。

 灰青色の瞳。

 調香室でこちらを見ながら、ほんの少しだけ目尻を緩めて笑う顔。

 その笑顔を、知らない女性へ向ける。

 胸が痛んだ。

「……少し、残酷ですね」

「まあね。でも重要なのはそこじゃない」

「違うのですか?」

「後宮では、香りがかなり重要なんだ」

 アデルの瞳が、明らかに変わった。

 ライレイの口元がにやりと上がる。

「食いついた」

「……続きをお願いいたします」

「国王を寝室へ迎える夜、宴、女同士の駆け引き。誰が何の香を焚いて、どんな香油を髪に使い、衣服へ何の香りを移すか。それだけで印象が変わる」

「なるほど。香りで記憶に残すのですね」

「そう。何十人も女がいれば、顔と名前だけじゃ埋もれる」

「季節でも変えますか?」

「変えるだろうね」

「身分によって使用できる香材に制限は?」

「ある」

「香り同士が混ざって問題になることは?」

「アデルちゃん」

「はい?」

「すごく楽しそう」

 指摘され、アデルはようやく我に返った。

「……申し訳ございません」

「謝らなくていい。むしろ、その反応が欲しかった」

 ライレイの金色の瞳が愉快そうに細くなる。

「どう? 仕事として興味はない?」

 ない、と言えば嘘になる。

 知らない香りの文化。見たことのない植物。後宮という特殊な場所で、香りが女性たちの自己表現や駆け引きに使われる世界。宮廷調香師としてなら、確かに見てみたい。

 けれど、アデルの視線は自然と目の前の地図へ落ちた。

 戦争で得た土地。

 そこにある香木や薬草。

 戦争。

 その言葉が、今度は別の形で胸へ残った。

 もしスピネリアが戦争になったら。

 リュシアンはどうするのだろう。

 王太子なのだから、ライレイと同じように戦場へ出るのではないか。国を守るために軍を率い、剣を取り、傷ついて、もしかしたら――帰ってこないかもしれない。

 その想像をした途端、アデルの指先が冷たくなった。

(嫌だ)

 考えるより先に、感情が答えた。

 長い戦争になれば、王家は今より強く継承者を求めるかもしれない。一人の妃だけでは足りない、王子は多い方がいいと考える者が出ても不思議ではない。スピネリアにも側室という制度が必要だと言われる日が来るかもしれない。

 知らない女性たちがリュシアンの隣へ並ぶ。

 それを。

(嫌)

 今度は、はっきりと思った。

 まだ自分が選ばれるとも決まっていないのに。

 それでも嫌だった。

「……そうか」

 思わず落ちた声に、ライレイが首を傾げる。

「何?」

 アデルは答えず、もう一度地図へ目を落とした。

 スピネリアは、長い間大きな戦争を経験していない。突出した軍事力を持つ国ではない。広大な領土があるわけでも、金や鉄が豊富に採れるわけでもない。それでも、周辺国から侵略されずにきた。

 なぜだろう。

 香りの国だからだ。

 スピネリアの価値は、土地だけを奪っても手に入らない。薔薇畑を占領しても、何時に花を摘むべきか知らなければ最高級の香料にはならない。アイリスを掘り上げても、根茎を何年熟成させるのか分からなければ価値は生まれない。蒸留器だけ奪っても、火加減や水温を見極める職人がいなければ同じ品質にはならない。

 花、土地、技術、職人、商人。そして二百年かけて築いてきた信用。そのすべてが揃って、初めてスピネリアの香りになる。

 国土を焼けば花畑が死ぬ。職人を殺せば技術は消える。交易路を閉ざせば、国外から必要な香料も入らなくなる。

 つまり。

 奪おうとした瞬間、価値そのものを壊してしまう。

(香りが、この国を守っている)

 剣ではなく。

 奪うより、取引した方が得になる産業だからこそ。

「ライレイ殿下」

「はい?」

「ありがとうございます」

「何が?」

「大切なことに気づけました」

 アデルが顔を上げる。光を受けたアレキサンドライトの瞳には緑の中へ紫が差し、先ほどまでの戸惑いはもうなかった。

「シャン国へのお誘いは、大変光栄です。後宮で働く香師にも、興味がないと申し上げれば嘘になります」

「悪くない返事に聞こえるね」

「ですが」

 アデルは背筋を伸ばし、まっすぐライレイを見た。

「私は宮廷調香師として、香りでこの国を守りたいのです」

 ライレイの表情から、軽い笑みがわずかに消えた。

「守る?」

「はい。戦争ではなく、産業の力で」

 王太子妃候補へ課された問いが、胸の内に蘇る。

 ――この国の香りを、百年後へ残すために必要なこと。

 ようやく、その答えの一部が見えた。

「奪っても価値がなくなるほど技術を高めたいのです。そして、奪うより交易する方が利益になる国であり続けたい。香料を売るだけではなく、必要なら技術も伝える。代わりに、スピネリアでは採れない香料を受け取る。相手の国にも利益があれば、戦争をするより交易を続ける方が得になります」

 百年後も。

 その先も。

 リュシアンが戦場へ行かなくて済む国であってほしい。

 その部分だけは、口には出さなかった。

「ワタシだって、戦争が好きなわけじゃないよ」

 ライレイが、今度は静かに言った。

「だからアデルちゃんが欲しいんだけど」

「はい。ありがたいお誘いです」

「そこは変わらないか」

「スピネリアと、ずっと友好関係を保ってください」

「そうしたら?」

「いつか私が出張いたします」

「…………」

 ライレイが目を瞬いた。

「王太子専属の宮廷調香師が?」

「必要であれば」

「後宮にも?」

「仕事でしたら」

「ワタシの寝室にも?」

「それは仕事内容によります」

 真顔で答えるアデルに、ライレイは堪えきれないように笑った。

「本当に真面目だなあ」

「お約束します。その代わり、シャン国でも安全に香りを扱える方を育ててください。スピネリアからも、お力になれると思います」

「今回の視察では、ここで引いてあげようかな」

「ありがとうございます」

「アデルちゃんを持って帰れないのは残念だけど」

「私からもリュシアン殿下へ、技術協力について進言いたします」

「それは助かる」

 ライレイは椅子から立ち上がった。朱の上着が揺れ、金糸の刺繍が窓からの光を拾う。

「あ、お酒」

 アデルが卓上の壺を見た。

「ありがとうございます」

「殿下と飲んだら?」

「なぜ殿下が出てくるのです?」

「何となく」

「……?」

「まあいいや」

 扉へ向かったライレイは、取っ手へ手をかけたところで振り返った。いつもの軽い笑顔だったが、その金色の瞳には少しだけ名残惜しさが見えた。

「でも、諦めたわけじゃないからね」

「何をです?」

「アデルちゃん」

 答える前に、扉が閉まった。

「……困った方」

 そう呟きながらも、アデルの表情には昨日までの警戒心はなかった。

*

 図書室を出たライレイは、人気のない回廊へ差しかかったところで小さく息を吐いた。色硝子を通した午後の光が石床へ落ち、その中を歩く彼の赤茶色の髪を赤金色に照らしている。

「負けたなあ」

 今回の訪問で必要だった成果は、最初から決まっていた。

 調香師、あるいは香料について十分な知識を持つ専門家。それを一人でもシャンへ連れ帰ることができればよかった。できるだけ早く。

 戦争には勝った。領土も増えた。けれど戦争をしていない時のシャン国は、驚くほど産業基盤が弱い。軍需で膨らんだ工房は注文を失い、兵士たちは新たな職を探し、新領地から入ってくる植物や鉱物も、その価値と扱い方が分からない。

 国は、戦争以外で富を生み出す方法を必要としている。

 だからといって調香師を誘拐した者たちを許す気はない。手段は悪い。あまりにも悪い。処罰もする。

 それでも。

(気持ちだけなら、分からなくもない)

 価値のないと思っていた森が、専門家一人いれば国を支える産業に変わるかもしれない。そう考えれば、知識を持つ人間そのものが欲しくなる。

 本来なら、アデルでなくてもよかった。

 植物に詳しい者。

 毒性を見分けられる者。

 加工方法を教えられる者。

 結果が得られるなら、誰でもいい。

 自分は、そういう人間だった。

 第八王子から王太子まで上り詰めたのも、感情ではなく結果を優先してきたからだ。必要なら何でもした。暗殺も、虐殺も、一族単位での追放も。綺麗なことだけをして生き残れるほど、シャンの王位継承争いは甘くなかった。

 当然、恨みを買っている。

 自覚はあった。

 妃候補も、すでに何人かいる。名門貴族の娘。有力武将の妹。大商家とつながる女性。誰と結婚しても国益にはなる。

 そして全員が、自分を恐れている。

 笑顔で頭を下げながら、金色の瞳と目が合えばわずかに肩を強張らせる。その反応を責めるつもりはなかった。自分でも、自分のような男へ大切な娘を嫁がせたいとは思わない。

「なのになあ」

 アデルがよかった。

 自分らしくない。

 彼女は、自分の過去を知らない。他国の人間なのだから当然だ。何人殺したかも、どの兄を追い落としたかも、何家を潰したかも知らない。

 だから、ただの咳をしている患者として心配する。

 その香は身体に悪いからやめろと言う。

 香りと健康なら健康を優先してください、と眉を寄せる。

 あの新緑色の目に恐怖ではなく純粋な心配を向けられることが、思いのほか心地よかった。

 しかも才能まである。

 連れ帰れば国益になる。

 王妃にして、自分の側へ置く。後宮の女たちと争わせるつもりもない。自分が守れば、何不自由なく暮らせる。

「……十分いい話だと思うんだけどな」

「ここにいらっしゃいましたか、ライレイ殿下」

 聞き慣れたスピネリア語に振り返ると、回廊の向こうからリュシアンが歩いてきていた。濃紺の上着に銀の留め具、すらりとした長身。黒髪は執務中らしくきちんと整えられているが、歩調は普段よりわずかに速い。灰青色の瞳はライレイを見つけた瞬間に細くなった。

「ええ。先ほどまで図書室におりました」

 そう答えた途端、リュシアンの眉間へ皺が寄った。

 分かりやすい。

(この人も、同じかな)

 側に置けば安心だ。

 誰にも渡したくない。

 自分の目が届くところに置きたい。

「何名か、貴国へ派遣できる技術者の候補書類を取り寄せた。確認していただきたい」

 差し出された紙束を受け取り、ライレイは内心で感心した。

 香料植物を専門とする学者。薬草に詳しい香師。蒸留技術者。東方との交易経験を持つ商人までいる。滞在期間、報酬、警護、技術情報の扱いについてもすでに大枠が記されていた。

「手回しが早いですね」

「必要なことだからな」

(これでは)

 アデルは、本当に来てくれないかもしれない。

 ライレイは書類の上からリュシアンを見た。

「して、この中にアデルちゃんは?」

「いない」

 間髪入れずに返された。

「早いなあ。まだ最後まで見てないのに」

「いない」

「一ヶ月くらいなら」

「駄目だ」

「二週間」

「駄目だ」

「三日」

「駄目だ」

「日帰り」

「どうやって山を越えるつもりだ」

「冗談ですよ」

「お前の場合、笑えない」

 切れ長の灰青色の目が本気で警戒している。それがおかしくて、ライレイは一度笑った。

 けれど、手元の候補者名簿へ視線を戻した時、不意に胸が静かになった。

「……残念だなあ」

 自然と声が漏れた。

 冗談ではなかった。

「うん。残念」

 顔を上げると、リュシアンがこちらを見ていた。その表情から、先ほどまでの刺々しさが少しだけ消えている。

 ほんの一瞬。

 同情するような。

 いや、何かを理解したような目だった。

「何です?」

「いや」

 リュシアンは視線を逸らした。

「何でもない」

 その顔を見て、ライレイは少し笑った。

 欲しいものは奪えばいい。

 ずっと、そうしてきた。

 けれど目の前の男は、欲しい女に自分を選ばせようとしているらしい。

 どちらが正しいかは分からない。

 ただ今のところ、アデルがどちらを見ているのかは。

 考えるまでもなさそうだった。

「では、この方々について詳しく伺いましょう」

「ああ」

 二人の王太子は並んで回廊を歩き始めた。

*

「ただいま、メリー」

「お帰りなさいませ、アデル様」

 夕方、王太子妃用の居室へ戻ったアデルを、メリーがすぐに迎えた。西日が窓から差し込み、アデルの長い銀髪を淡い藤色に染めている。朝きっちりとまとめたはずの髪には図書室で一日過ごした名残で少し後れ毛が落ち、白い頬にもわずかな疲れが見えた。

 それでも、腕に大事そうに抱えている見慣れない陶器の壺を見て、メリーが首を傾げる。

「おや。それは?」

「これ?」

 アデルは卓上へ壺を置いた。

「ライレイ殿下からいただいたの。熟成米酒ですって」

「お酒、ですか」

「ええ」

 改めて壺を眺め、アデルは少し眉を下げた。

「どうしたらいいかしら」

「お飲みになればよろしいのでは?」

「そうなんだけど……普段、ほとんど飲まないでしょう? せっかくいただいたのに、開けずに置いておくのも失礼な気がするし」

 侯爵令嬢として祝宴で葡萄酒を口にすることはあるが、自ら酒を求めて飲む習慣はない。まして東方の酒など、味の想像もつかなかった。

「でしたら、殿下とご一緒に楽しまれてはいかがでしょう」

「え!?」

 思った以上に大きな声が出た。

 アデルが勢いよく振り向くと、メリーは栗色の瞳を丸くしている。

「どうしてそこで殿下が出てくるのよ」

「いえ」

 メリーは本当に不思議そうだった。

「夕食も私室で、と仰せつかっておりますので」

「…………」

 アデルの動きが止まった。

「今夜も?」

「はい」

「まさか」

 嫌な――いや、嫌と言ってよいのかも分からない予感がした。

「この一週間、ずっと?」

「そのように伺っております」

 朝も。

 夜も。

 二人で。

 昨夜、自分がこの部屋を見ながら想像してしまった生活とほとんど同じではないか。

(違う)

 警護だ。

 あくまで警護。

 リュシアンも食事をする。自分も食事をする。それなら同じ場所で済ませた方が合理的で、きっとそれだけのことだ。

「アデル様?」

「……分かったわ」

 アデルは熟成米酒の壺へ視線を落とした。

「では、夕食の時に殿下へお伺いしてみる」

「かしこまりました」

「殿下がお酒を召し上がるところなんて、あまり想像できないけれど」

 灰青色の瞳を細め、葡萄酒の香りすら嫌そうにしている姿なら簡単に浮かぶ。それでも異国の王太子から贈られた酒なら、一口くらいは付き合ってくれるかもしれない。

 そんなことを考えた途端、アデルは自分でも理由の分からないため息をついた。

「はあ……」

「どうなさいました?」

「何でもないわ」

 ただ、一週間が。

 思っていたより、ずっと長くなりそうなだけだ。

 アデルは朱色の紐で封じられた壺をもう一度見つめた。

 この時の選択を、翌朝になって心の底から後悔することになるとは。

 まだ知る由もなかった。


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