第十一話 反省の香り
アデルは、いつもより少しだけ慎重に椅子を引いた。
王太子の私室で食事をするのは、これで二度目になる。たった一日で慣れるはずもなく、深い艶を帯びた紫檀の食卓も、銀器も、薄い硝子の杯も、何もかもが自分には高級すぎる気がした。何より落ち着かないのは、食卓を挟んだ正面にリュシアンがいることである。
濃紺の執務着を纏い、艶のある黒髪をきちんと整えた姿は、黙っていれば絵画に描かれた王子そのものだった。灰青色の瞳、通った鼻筋、薄く形のいい唇。毎日のように顔を合わせているはずなのに、改めて向かい合って食事をすると、どうしてこの人はこんなに整っているのだろうと思ってしまう。
慣れる気がしない。
「アデル、今日は何事もなかったか?」
「はい。仕事の方は順調です。明日には報告書を進呈できるかと」
「仕事、ではなく」
リュシアンがわずかに言葉を詰まらせた。
「その……無事だったか?」
「はい。無事です」
アデルは素直に頷いた。
「午前中にライレイ殿下とお会いしましたが、穏便にお話しできました」
「また誘っていたのか」
途端に、灰青色の瞳が細くなる。
「シャンへ来いと」
「多少は」
「多少」
「ですが、お断りしております」
「そうか」
返事は短かったが、目元からわずかに険が消えた。
分かりやすい。
最近のリュシアンは、嫉妬していることを以前ほど隠さなくなった。
「それから、お礼にお酒をいただきまして……その」
アデルの手が止まった。
ここからだった。
夕方、メリーに言われたのだ。
せっかくいただいた酒なら、殿下と一緒に召し上がってはいかがです、と。
その時は、なるほどと思った。
今も理屈では分かる。
けれど、なぜ自分がリュシアンを晩酌に誘おうとしているのか考え始めると、急に分からなくなってきた。
「毒味は済ませたか?」
「ああ、はい。夕食前に完了しております」
「ならいい」
「あの、殿下」
「なんだ」
言わなければ。
ここまで持ってきて、やっぱりやめますでは余計に不自然だ。
「ご一緒していただけないでしょうか」
「……何に?」
リュシアンが固まった。
今まで見たことがないほど、純粋に呆気に取られた顔だった。切れ長の目がわずかに見開かれ、いつもの余裕がきれいに消えている。
おそらく彼の中で、アデル・アレクシアが自分を夕食後の晩酌へ誘うという可能性が存在していなかったのだろう。
「いただいたお酒を、一緒にいかがかと……」
「…………」
「無理にというわけではありませんので!」
沈黙に耐えきれず、アデルは慌てて続けた。
「断っていただいて結構です。ライレイ殿下からも、殿下と飲んだらどうかと言っていただいて、それで――」
そこで。
リュシアンの口元が崩れた。
「ははっ」
声を上げて笑う。
「殿下?」
「いや。まさか、アデルから晩酌に誘われる日が来るとは思わなかった」
「ですから、嫌でしたら」
「誰が嫌だと言った」
笑いの残る声で遮られた。
灰青色の瞳が柔らかく細まり、宮廷で見せる冷たい王太子の顔とはまるで違う。こんなふうに嬉しさを隠しきれない表情を向けられると、誘った側なのにアデルまで落ち着かなくなった。
「構わんよ。湯浴みが終わったら、この部屋で飲もう」
「よいのですか?」
「ああ。ただ、酒だけというのもよくないな。何か軽く食べられるものを用意させよう」
「……ありがとうございます」
胸の奥がふっと軽くなった。
「うれしいです」
言ってから、自分でも驚いた。
けれど、本当に嬉しかった。
安堵したように眉が下がり、光を受けた新緑色の瞳が柔らかく細まる。いつも仕事中は涼しげに見える顔立ちが、その一瞬だけ年相応にほどけた。
リュシアンが黙る。
「殿下?」
「いや」
視線を逸らされた。
耳が少し赤い。
(可愛い、と思ってしまった)
リュシアンは水を飲みながら、自分の重症ぶりを静かに認めた。
*
アデルから晩酌に誘われた。
その事実だけで、リュシアンの機嫌は驚くほどよかった。
湯浴みのため温かな湯へ身体を沈めても、先ほどのアデルの顔が何度も浮かぶ。
――うれしいです。
「……あいつ、あんな顔するんだな」
誰もいない浴室で呟いてから、自分でも馬鹿らしくなって片手で顔を覆った。
シャン国の王太子も、たまにはいい仕事をする。
少なくとも酒を渡し、アデルへ自分と飲むよう勧めた一点については評価してもいい。
こんなに上機嫌なのは、いつ以来だろう。
ただし。
「理性」
声に出した。
大事だった。
王太子妃選考の意見書は、まだ提出期限を迎えていない。提出された意見書を読み、正式に選考を終えるまでは、アデル本人へ何も告げないと決めている。
順調に進めば、ライレイの帰国に合わせて開かれる友好の宴席で発表できるだろう。
それが済めば。
今のように、朝も夜もアデルが隣にいる生活を、一週間で終わらせなくて済む。
食卓の向こうに銀髪がある。仕事へ向かう前に顔を見られる。帰ってくれば今日何があったと話せる。
毎日。
ずっと。
「……どんな激務でも耐えられそうだな」
我ながら単純だった。
*
「ああ、どうしよう」
その頃、アデルはまったく別の意味で落ち着きを失っていた。
「誘ってしまった……」
湯浴みを終えたばかりの銀髪から、まだわずかに水気が残っている。普段は仕事の邪魔にならないよう低い位置でまとめている長い髪も、今夜は梳かしただけで背中へ流していた。
問題は服である。
「メリー、変じゃない?」
アデルは鏡の前で何度目か分からない確認をした。
身につけているのは白い寝間着だった。柔らかな布地が身体を締めつけず、袖や裾にも華美な装飾はない。ただ、仕立てそのものがいいのだろう。簡素なのに野暮ったくは見えず、長い銀髪と白い肌によく馴染んでいた。
「はい。アデル様は飾らずともお綺麗でございます」
「お世辞ではなくて、本当に失礼がないかを心配しているの」
「問題ございませんよ。アレクシア侯爵家のお品も一級品です。王家ほどではございませんが」
「そうなのね……」
アデルは袖を摘まんで眺めた。
「私、ドレスも自分でほとんど選んだことがないから、こういうものの良し悪しが分からなくて」
仕事着なら分かる。
袖が邪魔にならない。
汚れても洗える。
香料を吸い込みすぎない。
それで十分だった。
「ちなみに、こちらの紐をほどきますと脱ぎやすくなっております」
「メリー!」
鏡越しに振り返る。
「脱ぐことなんてあり得ませんからね!」
「何も申し上げておりません」
「言いました!」
「寝間着の機能をご説明しただけでございます」
涼しい顔をしているが、栗色の瞳が笑っている。
完全に面白がられていた。
メリーは、この主人が幼い頃からほとんど変わらず仕えてきた。
覚えているアデルは、いつも何かを学んでいた。父に認められるため。アレクシア家の名に恥じないため。宮廷調香師になるため。
香料の勉強。
植物の勉強。
蒸留。
調香。
夜会へ出ても必要な挨拶を済ませれば帰り、同年代の令嬢と遊びに出ることも少ない。まして恋の話など、一度として聞いた記憶がなかった。
そんな主人が今、男に会うための寝間着一枚で真剣に悩んでいる。
嬉しくないわけがない。
「大丈夫でございますよ」
今度は少しだけ優しく言った。
「殿下も、きっとお喜びになります」
「どうしてそこで殿下が喜ぶの」
「さあ」
「メリー」
「お酒が冷めてしまいますよ」
「お酒は冷めないわ」
そう言いながらも、アデルは鏡をもう一度見た。
白い頬が少し赤い。
湯浴みのせいだ。
きっと。
*
リュシアンの私室の前まで来ると、急に足が止まった。
アデルは一度、深く息を吸う。
大丈夫。
ただ酒を飲むだけだ。
昨日まで何度も二人きりになっているし、今日だって一緒に食事をした。
何も変わらない。
コンコン、と扉を叩く。
「殿下、いらっしゃいますか?」
「アデル? 入っていいぞ」
「失礼いたします」
扉を開けた。
そして今度は、アデルではなくリュシアンが固まった。
「…………」
「殿下?」
「ああ」
一拍遅れて返事が来る。
「どうしたのです?」
「いや。何でもない」
何でもある。
いつもきっちりとまとめられている銀髪が、今夜はほどかれている。
腰近くまである髪が白い寝間着の背を覆い、歩くたびに淡い光を含んで揺れる。化粧もしていない。仕事中より幼く見える白い顔に、風呂上がりの赤みだけが残っていた。
普段は首元まで布に隠れているのに、柔らかな寝間着から覗く鎖骨が妙に目につく。
見てはいけない気がした。
だが見たい。
リュシアンは反射的に視線を酒の壺へ落とした。
「それが?」
「はい。こちらが、ライレイ殿下にいただいた熟成米酒というお酒だそうです」
「……座るといい」
「はい」
示された先を見る。
ソファだった。
リュシアンが片側へ座っている。
つまり。
(隣に座るの?)
当然なのだろうか。
向かいではなく。
アデルはおずおずと歩き出した。
右足。
左足。
(あれ。歩くって、こんな感じだったかしら)
普段なら考えもしない動作にまで自信がなくなってくる。
ようやくソファへ腰を下ろすと、距離は思った以上に近かった。
肩一つ分ほど。
近い。
「で」
リュシアンが壺の封を確かめながら尋ねた。
「あいつに飲み方は聞いたのか?」
すでに本人がいないところでは「あいつ」になっていた。
「飲み方……?」
アデルが瞬きをする。
「聞いてないのか」
「お酒ですから、杯に注いで飲むものでは?」
「まあ、そうなんだが」
封を切る。
ふわりと、葡萄酒とは違う香りが立った。
穀物を発酵させた甘さ。その奥に熟成した深い香気がある。
リュシアンは壺を軽く揺らし、慎重に香りを確かめた。
「少し強そうだが……まあ、葡萄酒と大きくは変わらないだろう」
「葡萄酒くらいでしたら、私にも飲めそうです」
その言葉を聞いて、リュシアンはアデルを見る。
「無理なく飲め。俺のペースには合わせるなよ」
王族として幼い頃から毒への備えを施され、宴席にも慣らされてきたリュシアンは、比較的酒に強い。対するアデルは、侯爵令嬢として祝宴で杯へ口をつける程度で、自ら進んで酒を飲む習慣がほとんどなかった。
「はい。気をつけます」
杯へ琥珀色の酒が注がれる。
リュシアンが持ち上げた。
「では」
「はい」
「乾杯」
「乾杯」
軽く杯を合わせる。
この時交わした忠告の無意味さを、数時間後、リュシアンは思い知ることになる。
*
おかしい。
そう思ったのは、アデルが最初の一杯をほとんど飲み終えた頃だった。
「おいしいです!」
白い頬が赤い。
新緑色だった瞳は潤み、いつもより少しだけ焦点が柔らかい。
「たくさん飲めまふ」
「待て」
「はい?」
「もう語尾がおかしい」
「おかしくないれす」
「おかしい」
明らかだった。
「ゆっくり飲め。ふらついてないか?」
「だいじょうぶです」
アデルは楽しそうに笑った。
「座ってますので。ふふ」
危ない。
そして。
(可愛い)
非常に危ない。
「あと一杯飲んだら切り上げるぞ。明日に響く」
「はあい」
「分かってるか?」
「わかりました」
たぶん分かっていない。
いつものアデルなら、少しでも頭がぼんやりすれば仕事への影響を気にして自分から杯を置いただろう。それなのに今は、軽食として用意した木の実を一つ摘まみ、妙に楽しそうに熟成米酒を眺めている。
気が緩んでいる。
そう思うと、不思議な気持ちになった。
十八歳とは思えないほど、いつも職人として気を張っている。王宮へ出仕してからも、侯爵令嬢であることより宮廷調香師であることを優先し、朝から晩まで香料と向き合ってきた。
たまには、こうして何も考えず笑う夜があってもいいのかもしれない。
酒の力を借りなければ緩められないのなら、それでもいい。
ただし。
(この姿を他の奴には見せたくないな)
それだけは強く思った。
「でんか」
「なんだ」
「いつも、私の首を嗅ぎますよね」
リュシアンが咽せかけた。
「急になんだ」
「前から思ってました」
アデルはじっとこちらを見る。
「最初が首だったからな」
「はい」
「それに、お前の匂いは俺の身体が楽になる」
「そうでしたね」
何度もあった。
人混みの中で香水に酔った時。
頭痛がした時。
アデルの近くに行けば、不思議と呼吸が楽になる。
花でも香料でもない、柔らかく乾いた甘さ。
彼女自身の香り。
「私も」
アデルが呟いた。
「殿下の香りが側にあったら、安心するのにって、前から思っていたのです」
「…………」
今度はリュシアンが黙る番だった。
「それは」
喉が少し乾いた。
「嬉しい言葉だな」
アデルは酔うと素直になるらしい。
いいことを知った。
「だから」
「だから?」
「わたしにも、嗅ぐ権利があると思いませんか?」
「何を」
「殿下の首を、です」
「……は?」
酔っている。
完全に。
「だって、ずるいです」
「ずるい?」
「殿下ばっかり」
「いや」
反論しかけて、やめた。
確かに自分は何度も嗅いでいる。
誘拐事件から救出した時も。
アイリスの香りを試した時も。
それ以外にも、近づくたび気づけば首筋へ顔を寄せていた。
「……ないとは、言えないかもしれないな」
「ですよね?」
ぱっと顔が明るくなる。
まずい。
「そうしたら、殿下の香りを作れる気がします」
「香り?」
「はい!」
アデルは急に身を乗り出した。
「いえ、作れるじゃなくて、作りたいです!」
「待て待て。少し落ち着け、アデル」
「待てません」
「なぜ」
「今がいいです」
笑っていた顔から、少しだけ表情が落ちる。
「だって」
長い銀髪が頬を滑った。
「一週間後には、殿下は別の方のものになってしまうでしょう?」
リュシアンの動きが止まった。
「近づくことも、今みたいには許されません」
「別に、そういうわけでは」
「そうです」
「いや」
違う。
まったく違う。
あと一週間もすれば、全部晴れる誤解だ。
今すぐ言ってしまいたい。
お前だ、と。
俺が選ぶのは最初からお前だと。
だが、ここで言えば、選考そのものの意味がなくなる。
何より今のアデルは酔っている。
こんな状態で伝えることではない。
「殿下が、知らないご令嬢と結婚されても」
アデルは自分の胸元へ手を置いた。
「香りがあれば、わたしは頑張れる気がするのです」
「……アデル」
リュシアンはただ驚いていた。
嬉しい、などという言葉では足りない。
自分がいない未来を想像して、その代わりになる香りを欲しがるほど。
アデルの中に、自分がいる。
踊り出したいほど嬉しいというのは、こういう感覚なのかもしれない。
完全な勘違いではある。
一週間後には解ける。
なら今夜くらい、少し話に付き合っても――。
そこまで考えた時だった。
「アデル?」
アデルが立ち上がった。
と思った次の瞬間には、視界いっぱいに銀色が広がる。
「……っ」
膝へ重みが落ちた。
アデルがリュシアンの上に跨がるように座っていた。
「お、お前」
言葉が出ない。
白い寝間着の裾から、細い脚が覗いている。ほどいた銀髪が肩から流れ、リュシアンの胸元まで覆った。
近い。
近すぎる。
「殿下」
呼ばれた声まで近い。
アデルが首元へ顔を寄せる。
吐息が触れた。
「っ……!」
背筋にぞくりとしたものが走った。
リュシアンは嗅覚だけではない。
音も、光も、肌へ触れる感覚も、人より鋭い。
だから普段なら、突然触れられることを好まない。
なのに。
嫌ではなかった。
むしろ。
(まずい)
溶けそうなほど心地いい。
アデルの髪が頬へ触れる。その一本一本まで分かる気がする。
首筋にかかる息。
身体越しに伝わる熱。
自分の胸の音。
何もかもが大きすぎた。
「アデル……?」
返事がない。
身体が少しずれそうになり、反射的に腰を掴んだ。
細い。
想像以上に。
落とさないよう、しっかりと自分の膝へ乗せ直す。
その瞬間。
理性が一度、きれいに止まった。
このまま、どこまで自分のものにしていいのだろう。
髪へ触れる。
抱きしめる。
顔を上げさせれば、きっと今なら拒まれない。
そんな考えが浮かんだ自分を自覚して、リュシアンは奥歯を噛んだ。
「……アデル」
「…………」
「アデル?」
「ぐぅ……」
「…………」
動かない。
「寝た?」
返事はない。
「この状況で?」
耳元へ届くのは、規則正しい寝息だけだった。
リュシアンはしばらく天井を見た。
それから深く息を吐く。
「……いや」
よかったのかもしれない。
かなり。
これ以上続いていたら、本当に危なかった。
「まったく」
呆れながらも、口元は緩んでいた。
眠っているアデルの膝裏へ腕を入れ、その身体を抱き上げる。驚くほど軽い。腕の中へ収まった銀髪がさらさらと落ち、自分の胸へ頬を預けたアデルは、何事もなかったように眠り続けていた。
隣の王太子妃用の寝室へ運び、天蓋の下へそっと横たえる。
掛布を胸元までかけると、リュシアンは寝台の端へ腰掛けた。
眠った横顔を見つめる。
一週間。
アデルはまだ、それだけだと思っている。
「この寝台は」
銀髪を一筋、指で避ける。
「一週間後も、一年後も、お前のものだ」
聞こえていない。
それでよかった。
今はまだ。
白い額へ、そっと唇を触れさせる。
「おやすみ、アデル」
今度こそ理性が勝った。
リュシアンは静かに立ち上がり、部屋を出た。
*
翌朝。
「…………頭が痛い」
アデルは寝台の上で額を押さえていた。
朝の光が痛い。
音も少し痛い。
何より。
「…………」
記憶が痛い。
全部覚えている。
酒を飲んだ。
楽しくなった。
殿下の香りが欲しいと言った。
首を嗅ぎたいと言った。
そして。
膝に乗った。
「…………死にたい」
掛布を頭まで被った。
いや。
死んでいる場合ではない。
今日は仕事がある。
しかも報告書をまとめなければならない。
アデルは意地で身体を起こすと、ふらつきながら香り袋を探した。いつものレモンと薄荷に、今朝は乾燥させたラベンダーをほんの少し足す。
蓋を開け、ゆっくり息を吸う。
柔らかな草花の香りが、酒の残る重たい感覚を少しだけ遠ざけた。
その間にメリーへ頼み、生姜を煮出した湯も用意してもらう。
「アデル様」
「何」
「お顔が大変なことになっております」
「二日酔いだからよ」
「そうではなく」
メリーの口元が震えている。
「思い出されたのですね」
「知らない」
「殿下のお膝へ」
「知らない!」
頭に響いた。
「……大声、出させないで」
「申し訳ございません」
絶対に笑っている。
最悪だ。
大失態である。
だが。
アデルは生姜湯を一口飲み、考えた。
もう忘れたことにしよう。
それしかない。
幸い、膝へ乗った後の記憶はない。
つまり、途中から覚えていない。
ならば実質、全部覚えていないのと同じではないだろうか。
「そうよ」
「何がでございます?」
「何でもない」
私はできる。
宮廷調香師だ。
何百種類もの香料を覚えられるのだから、一晩くらい忘れることだってできる。
たぶん。
*
コンコン、と扉を叩いた。
「殿下、おはようございます」
「入れ」
「失礼いたします」
いつも通り。
いつも通りだ。
アデルは何もなかった顔をして私室へ入った。
「おはようございます」
「ああ。おはよう」
食卓に座っていたリュシアンが顔を上げる。
濃紺の執務着。
整えられた黒髪。
灰青色の瞳。
昨夜、自分が顔を埋めた首。
(見ない)
アデルは真正面の椅子へ座った。
「よく眠れたか?」
「はい」
「そうか」
「はい」
「記憶は?」
「ございません」
即答した。
リュシアンが黙った。
顔を上げると、口元が明らかに笑っている。
「何です?」
「いや」
「何でしょう」
「何も」
「笑っていますよね?」
「笑ってない」
絶対に笑っている。
アデルは腹立ちまぎれにパンへ手を伸ばした。
その瞬間、リュシアンの表情が少し変わった。
「今日は、いつもと違う香りがするな」
やはり気づく。
この人の鼻からは逃げられない。
「お嫌いでしたか?」
「いや。平気だ」
リュシアンは少し鼻を動かした。
「ラベンダーか」
「はい。少々、その……二日酔い気味でして」
「少々?」
「……二日酔いでして」
「だろうな」
「何か言いたそうですね」
「別に」
「昨日のことでしたら」
アデルは背筋を伸ばした。
「覚えておりません」
「そうか」
「はい」
「俺の首を嗅ぎたいと言ったことも?」
「…………」
「香りを作りたいとか」
「…………」
「俺が別の女と結婚しても、香りがあれば頑張れるとか」
「殿下」
「なんだ」
「二日酔いの人間へ追い打ちをかけるのは、王族としていかがなものかと思います」
リュシアンがとうとう声を上げて笑った。
「申し訳ない」
「まったく反省していないではありませんか」
「反省はしてる」
「何をです?」
そこでリュシアンは一瞬だけ黙った。
昨夜。
膝の上に乗ったアデルの腰を掴んだこと。
あと少し眠るのが遅ければ、自分がどこまで耐えられたのか。
それは言わない方がいい。
「……酒の量を止めるのが遅かったことを」
「そこは本当に反省してください」
「分かった」
「私も反省しております」
「そうか」
「二度と熟成米酒を葡萄酒と同じ感覚で飲みません」
「俺もだ」
「殿下もですか?」
「お前に飲ませる時は、特にな」
「もう一緒には飲みません」
「それは困る」
即答された。
アデルは思わず顔を上げる。
灰青色の瞳が、少し楽しそうに細められていた。
「次は、ちゃんと量を考える」
「次がある前提なのですね」
「嫌か?」
「…………」
嫌ではない。
それが一番困る。
「考えておきます」
「なら十分だ」
リュシアンは満足そうに朝食へ戻った。
アデルも生姜湯を少し飲む。
昨夜を思い出せば消えてしまいたくなるのに、今こうして向かい合って話していること自体は、不思議なくらい心地よかった。
一週間後にはなくなる。
そう思うと。
また少しだけ、胸の奥が痛む。
「アデル」
「はい?」
「今日は無理するな」
リュシアンはパンを置き、まっすぐ彼女を見る。
笑っていた目が、少しだけ王太子のものへ戻っていた。
「王太子妃選考の意見書の提出期限は明日までだからな」




