第十二話 国を守る香り
アデル・アレクシアの午前中は、ほとんど二日酔いとの戦いに費やされた。朝食の席でリュシアンから昨夜の醜態を一つひとつ掘り返され、そのたびに頭痛とは別の意味で頭を抱えたくなったものの、仕事は待ってくれない。生姜湯とレモン、それから薄荷を頼りにどうにか調香室へ辿り着き、窓辺の作業机へ腰を下ろす頃には、ようやく人間らしい思考が戻ってきていた。
机の上には、二種類の資料が広げられている。一つは数日後に予定されているシャン国使節団との友好の宴に関するもの。もう一つは、王太子妃選考へ提出する意見書だった。
――この国の香りを、百年後へ残すために必要なこと。
最初にこの題を見た時には、香料植物の品種保存、蒸留技術の継承、職人の育成、国外への販路拡大といったことばかり考えていた。もちろん、どれも大切だ。けれど今は、それだけでは足りないような気がしている。
アデルは羽根ペンを止め、数日前にライレイから聞いた話を思い返した。戦争で得た広大な森林。そこに眠る香木、薬草、樹脂。価値を知らない国と、価値を知る国。その差につけ込むように知識だけを奪おうとして起きた、調香師誘拐事件。そして今、二国は互いの文化を知るため、同じ食卓へつこうとしている。
「……香りは、奪うものではない」
小さく呟くと、その言葉が自分の中へ静かに落ちた。
土地だけを手に入れても駄目なのだ。植物だけでも、技術だけでも足りない。花を育てる者がいて、採取する者がいる。香料を抽出する職人がいて、その良し悪しを見極める者がいて、最後にそれらを一つの香りへ組み上げる調香師がいる。瓶を作る職人も、遠い国へ運ぶ商人も必要だ。香りは、一人では作れない。
国も、おそらく同じなのだろう。
アデルは新しい紙を取り出し、最初の一行を書いた。
『香りを、国と国を結ぶ言葉にすること』
その文字をしばらく眺めたあと、続きを書き始める。香料植物の性質や毒性、採取法、保存法を記録すること。国内の技術を守りながらも、正式な協定を結んだ国とは必要な知識を交換すること。スピネリアの香水文化を一方的に広めるのではなく、相手国が育んできた香りの文化も尊重すること。そして、互いの国にとって価値ある産業を育て、戦うよりも交易を続ける方が利益になる関係を増やしていくこと。
武器ではなく、香りで国同士を結ぶ。
そこまで考えが定まると、羽根ペンは驚くほど滑らかに進んだ。二日酔いで重かった頭も、書いているうちに忘れてしまったらしい。気づけば窓から差し込んでいた陽は大きく傾き、長い銀髪を淡い橙色に染めていた。
「こんな時間……」
肩を回しながら顔を上げると、友好の宴に関する資料も、王太子妃選考へ出す意見書も仕上がっている。誤字を直し、最初からもう一度読み返してから、アデルは紙を揃えた。
提出してしまおう。明日まで抱えていれば、また余計なことを考えてしまう。
王太子妃。選ばれる女性。リュシアンの隣に立つ、まだ知らない誰か。
そこまで考えかけて、アデルは意識的に書類の角を揃えた。
「仕事」
最近、何度この言葉を自分へ言い聞かせているのだろう。
白い前掛けを外し、銀髪の乱れを指先で整えると、アデルは二つの書類を抱えて調香室を出た。
*
スピネリア王国王太子、リュシアン・スピネリアの執務室。その重厚な扉の前で、アデルは一度姿勢を正した。
コンコンコン。
「ご報告にまいりました。アデル・アレクシアでございます」
「入れ」
短い返事が返ってくる。余計な響きのない、低く落ち着いた声。調香室で気を抜いている時とは違う、公務中のリュシアンだ。
扉を開けてくれたのは、最近ますます顔色が悪くなっている補佐官だった。目の下には薄く影が落ち、背筋こそ伸びているものの、どこか魂だけ先に帰宅しているように見える。
「ご苦労さまです」
思わず声をかけると、補佐官は遠い目をした。
「ありがとうございます、アレクシア嬢……」
何があったのだろう。聞かない方がいい気がした。
執務机の向こうでは、リュシアンが書類へ目を通していた。濃紺の上着には王族らしい銀糸の装飾がわずかに入り、艶のある黒髪も今日はきちんと後ろへ整えられている。午後まで公務が続いたせいか、何本かの前髪が額へ落ちていたが、それさえ端正な顔立ちにわずかな隙を作る程度だった。切れ長の灰青色の瞳は冷静に書面を追い、長い指が紙をめくるたび、王宮で冷徹と評される王太子の姿そのものに見える。
朝食の席で人の失態を楽しそうに蒸し返していた男と同一人物とは思えない。
アデルも自然と仕事の顔になった。
「シャン国王太子殿下、ならびに使節団の皆様との友好の宴について、宮廷調香師担当分の資料でございます」
差し出すと、リュシアンは視線を上げ、長い指でそれを受け取った。
「方向性は?」
「シャン国の方々にとって、我が国の一般的な祝宴は香りが強すぎる可能性がございます」
「俺でもそう思うからな」
灰青色の瞳がわずかに細まり、口元だけに小さな笑みが浮かぶ。一瞬だけ、いつものリュシアンが顔を出した。
「はい。ですので、今回は舞踏会を中心とした形式ではなく、着席型の宴を提案いたします」
「席を固定するのか」
「はい。香水をまとわれる方同士の距離を調整できますし、卓上の花も香りの弱い種類に限定できます。シャン国では、宴席で席を定めて食事をする形式が一般的とのことでした」
リュシアンは資料へ視線を落とし、数頁をめくった。真剣に考えている時、この人は眉間にほんの少しだけ皺を寄せる。世間ではそれが冷たく見えるのだろうが、アデルにはもう、頭の中でいくつもの案を並べている顔だと分かる。
「こちらが相手の形式に寄せる、と」
「すべてを合わせる必要はございません。ただ、友好の宴ですので、スピネリアの文化を見せるだけではなく、私たちもシャン国の文化を受け入れる姿勢を示した方がよろしいかと」
そこでリュシアンの視線が資料から離れ、まっすぐアデルへ向いた。冷たい色をした灰青の瞳が、考えが定まった時だけ少し明るく見える。
「いいな」
「よろしいでしょうか」
「ああ。友好の証としても分かりやすい。食事や席順は式部官と詰めさせる。花と香りの配置はお前に任せる」
「承知いたしました。詳細はこちらに」
資料を示してから、アデルは手元に残ったもう一つの封筒を見た。こちらを差し出す方が、なぜか仕事の報告よりずっと緊張する。
「あの……それから」
「なんだ?」
「こちらを」
両手で差し出す。
「王太子妃選考の応募書類と、意見書でございます。ご査収くださいませ」
リュシアンの表情が、はっきりと変わった。
つい先ほどまでそこにいた、隙のない王太子が消える。切れ長の目がわずかに見開かれ、灰青色の瞳がぱっと明るくなると、薄く形のいい唇に隠しきれない笑みが浮かんだ。普段は整いすぎているほど整った顔だからこそ、こうして感情が崩れた時の変化がひどく目につく。
「待っていた」
「……っ」
あまりにも嬉しそうに受け取るものだから、アデルは言葉を失った。
そんな顔をしないでほしい。
期待してしまう。
けれど、この人にはもう選びたい女性がいる。
「意見書として、少しでも国のお役に立てますと幸いです」
「読む」
「はい」
返事まで妙に早い。
これ以上ここにいると、何か余計なことを口にしてしまいそうだった。アデルは深く一礼し、早々に踵を返した。
「では、失礼いたします」
「ああ」
扉が閉じるまで、背中へ視線を感じていた。
*
「……出した」
扉が閉まった瞬間、リュシアンは椅子の背へ深く身体を預けた。先ほどまで一直線に伸びていた背筋が崩れ、長い脚を投げ出すように伸ばすと、そのまま両腕を上へ上げる。黒髪の前髪が額へ落ち、整った王太子らしい姿は見る影もない。
「ようやくだ」
補佐官が机の脇から静かに言った。
「締切は明日までですが」
「知ってる」
「まだすべての候補者が出揃ったわけではございません」
「母上が最初に候補へ挙げていた家からは、もう届いている」
「それ以外から応募がある可能性もございます」
「読めばいい」
リュシアンは上機嫌のまま、アデルの封筒を指で軽く叩いた。その仕草には、先ほどの公務中の鋭さより、待ち望んでいた贈り物をようやく手に入れた青年らしい浮つきの方が強い。
「その上で決める」
「もう決めていらっしゃるように見えますが」
「決めてる」
「殿下」
「妃にしたい女はな」
そこだけは、今さら誤魔化す気もなかった。
「だが、王太子妃として選べるかは別だ。だから選考をした」
補佐官が少しだけ目を細める。
「では、アレクシア嬢の意見書が他の候補者に及ばなかった場合は?」
リュシアンは黙った。灰青色の瞳が細まり、今度は先ほどとは違う意味で眉間へ皺が寄る。
「……その質問、今する必要あるか?」
「ございます」
「お前、最近俺に厳しくないか」
「殿下が最近浮かれていらっしゃいますので」
否定できなかった。
リュシアンは封筒を見た。アデルが書いたものだ。おそらく、調香師として本気で。
「読むまでは公平に扱う」
「読み終わった後は?」
「内容次第だ」
「では、もし」
「しつこいな」
そう言いながらも、口元にはまだ笑いが残っている。
「アデルを超えるものがあるなら、見てみたい」
それは惚れた女への贔屓だけではない。彼女がこれまで何を見て、何を考え、どれほど真剣にこの国の香りと向き合ってきたかを、リュシアンは誰より近くで見てきたつもりだった。
「さっさと残りも集めろ。評議会も通す。宴までに全部終わらせる」
補佐官が一瞬だけ目を閉じた。
「……かしこまりました」
その声には、なぜか深い疲労が滲んでいた。
*
それから宴の日までは、驚くほどいつも通りに過ぎた。朝になれば、アデルは王太子妃用の寝室で目を覚ます。着替えて隣の私室へ行けば、リュシアンがいる。二人で朝食を取り、今日の予定を話し、それぞれ仕事へ向かう。
最初の頃は食器が二人分並んでいるだけで落ち着かなかったのに、数日も続けば、どちらが先にパン籠へ手を伸ばすのかも、リュシアンが朝は甘い果物をあまり取らないことも、アデルが考え事をしているとスープを冷ますことも分かってくる。
慣れてしまった。
だからこそ、終わるのが寂しい。
友好の宴の朝、食事を終えたところでリュシアンが言った。今日は朝からすでに執務着へ着替えており、濃紺の上着の襟元まで隙なく整えられている。黒髪も綺麗に撫でつけられ、朝の私室だというのに、すでに王太子の顔だった。
「今日の宴も、調香師として俺のそばに控えておけ」
「仰せのままに」
「ただし、服装はアデル・アレクシア侯爵令嬢として来い」
アデルが顔を上げる。
「なぜでしょう」
「王太子妃選考の結果を発表する」
胸が、ひとつ大きく鳴った。
「……今日なのですね」
「ああ」
リュシアンは平然と茶を飲んでいる。けれどよく見れば、杯を持つ指がいつもより少し落ち着かないようにも見えた。
「では私は、宮廷調香師であると同時に、一応募者としても出席するということでしょうか」
「そうだ」
「承知いたしました」
声は、きちんと出た。
「選考から外れた家の中には、本人と家門の意向を確認したうえで、ライレイへ紹介する予定の者もいる」
「シャン国との?」
「ああ。あいつとは、この一週間で向こうがどういう人材を欲しがっているかも話した。もちろん婚姻を押しつけるわけじゃない。会ってみたい者同士を引き合わせるだけだ」
「……随分、打ち解けられたのですね」
「うるさいが、話は早い」
それは、おそらく褒めている。
アデルは少し笑った。リュシアンに、王太子という同じ立場で遠慮なく話せる相手ができた。それは素直に嬉しい。
「では、夕方に宴で」
「ああ」
「いってらっしゃいませ」
先に席を立ったリュシアンを見送る。長身を包む濃紺の衣装が扉の向こうへ消え、静かな私室だけが残った。
この朝食も、今日で最後なのかもしれない。
*
「メリー。今夜の宴のドレスをお願い」
「はい! もちろんでございます! 一番美しくいたしましょう」
「普通でいいわ」
「いけません」
「どうして」
「王太子妃選考の結果発表でございますよ?」
「だからよ。シャン国の方々にも失礼がなく、侯爵令嬢として不足がなければ、それで十分」
アデルは衣装部屋に並ぶガウンを眺めた。振り返ると、メリーは少し困ったような顔でこちらを見ている。
「アデル様」
「何?」
「……いえ」
何か言いたそうだったが、結局何も言わず、一着を取り出した。
深い青緑のガウン。身頃には銀糸で小さな蔓草が刺繍され、広がるスカートの縁にも同じ意匠が続いている。華やかだが、宝石を大量につけるような派手さはない。
「こちらにいたしましょう」
「綺麗ね」
「アデル様の瞳にもよくお似合いになります」
髪は編み込みながら結い上げ、一部だけを背へ流すことになった。銀髪へ小さな真珠を散らし、耳元にはアレキサンドライト。鏡の中で、宮廷調香師が侯爵令嬢へ戻っていく。
頬へ薄く色をのせられた時、アデルはふと笑った。
「最初のお見合いの時も、こんなふうにしてもらったわね」
「覚えております」
「結局、うまくいかなかったけれど」
「その方がよろしかったのでは?」
「何が?」
「さあ」
最近のメリーは、こういう誤魔化し方が増えた。
鏡へ視線を戻すと、自分でも分かるほど表情が暗い。この日が来てほしくなかった。けれど、早く来てほしくもあった。選考が終われば、もう考えなくて済む。
誰がリュシアンの隣に立つのか。
分からないまま待つことが、こんなに苦しいとは知らなかった。
*
友好の宴は、アデルが提案した通り着席式で行われた。大広間の中央には長い卓が並び、席ごとの間隔は通常より広く取られている。卓上を飾る花は白と淡い青を中心とした香りの弱いものだけで、スピネリア側の貴族にも、今夜ばかりは香水を控えめにするよう事前に通達が出されていた。
その代わり、料理には両国の特色を入れた。スピネリアの葡萄酒、シャン国から持ち込まれた茶、香草を使った肉料理。樹脂や香木そのものを焚くことはせず、食卓の一角にはシャン国式の香炉が飾りとして置かれている。
使わない。けれど、排除もしない。
二つの国が同じ部屋にある。それが今夜の香りだった。
国王の挨拶から宴が始まる。
「本日は、シャン国よりライレイ王太子殿下と使節団の皆様を迎えられたことを、心より嬉しく思う」
杯が掲げられた。
「先般の事件は、両国にとって決して望ましいものではなかった。しかし、その後の話し合いを通じ、我らは互いの国について以前より多くを知ることができた。今日という日が、次代を担うライレイ殿下と、我が息子リュシアンとの間にも、長きにわたる繋がりを作るきっかけになることを願っている」
正面に座るライレイが杯を上げる。
宴用に整えた赤茶色の髪は、スピネリアではあまり見ない深い色をしている。前髪は後ろへ流され、耳元にはシャン国風の金細工がひとつ光っていた。深い朱色の正装には細かな金糸の刺繍が走り、異国的な衣装の華やかさに負けないほど本人の顔立ちも鮮やかだった。少しつり上がった金色の瞳にはいつも好奇心が宿り、笑うと目尻が大きく下がるため、軍を率いていた王太子だと知らなければ、ひどく人懐こい青年にしか見えない。
その金の瞳がアデルを見つけると、ぱっと明るくなった。
にっこり笑い、小さく手まで振ってくる。
アデルも困りながら微笑み返した。
その横で、低い声が落ちる。
「……何をしてる」
見ると、リュシアンがこちらを向いていた。深い紺の正装に、王家の象徴である灰青色のスピネル。黒髪はいつも以上にきっちり整えられ、長身も相まって、華やかなライレイとは対照的な静かな威圧感がある。そのくせ今は、切れ長の灰青色の目が明らかに不満そうに細められていた。
「ご挨拶です」
「手を振る必要あるか?」
「振ったのはライレイ殿下です」
「返す必要は?」
「無視する方が失礼でしょう」
「そうか?」
「そうです」
リュシアンの形のいい眉が寄る。その表情だけなら王太子らしく冷たく見えるのに、理由を知っているアデルには、ただ嫉妬しているようにしか見えなかった。
王太子妃選考の結果発表直前だというのに、この人は通常運転である。
やがて国王が続ける。
「また、この場を借りて、我が国の王太子妃選考についても結果を発表したい」
アデルの指先が、膝の上で止まった。
「今回の選考では、家格のみではなく、この国をどのように支え、未来へ繋ぐかという本人の考えを重視した。最終選考へ残った家門はいずれも、スピネリアにとって欠くことのできない家々である。王太子妃に選ばれなかったとしても、その価値が損なわれるものではない」
そこで国王は隣に立つ息子へ目を向けた。
「詳細は、リュシアンから」
「ありがとうございます、陛下」
リュシアンが立ち上がった。
一瞬で、大広間の視線が集まる。
黒髪に灰青色の瞳。深い紺の正装は身体の線に沿って仕立てられ、肩から腰へ落ちる長身の輪郭をいっそう際立たせている。胸元に留められた青いスピネル以外に派手な装飾はないのに、まっすぐ前を向いて立つだけで周囲の空気が変わった。
アデルは何度も見てきた。
調香室で頬杖をつく彼。寝起きで黒髪を乱した彼。嫉妬して拗ねる彼。声を上げて笑う彼。
けれど今は、国の前に立つ王太子だった。
「では、最終選考へ残った家門をご紹介します。まず、隣国を含む広域の交易網を持ち、長年スピネリア産香料の販路を支えてきたウェストン公爵家。ロザリー・ウェストン嬢」
ロザリーが立ち上がる。淡い桃色のドレスに柔らかな金髪。建国祭の日よりもずっと控えめな香りをまとい、堂々と一礼した。
「ロザリー嬢からは、国外の主要都市へスピネリア香料の専門取引所を設け、品質基準そのものを国の信用として輸出する案が提出された」
拍手が起きる。
「続いて、蒸留器具の改良と職人教育で長く王室工房へ貢献してきたベルモンド侯爵家。セシリア・ベルモンド嬢。セシリア嬢からは、各地の蒸留技術を標準化し、職人が家門を越えて技術を学べる研究院設立の提案があった」
次いで、香料植物の品種改良と種苗管理を担い、各地の農園を支えてきたフローレンス伯爵家のエレノア嬢が紹介される。病害や気候の変化によって希少な植物が失われることを防ぐため、王室管理による種子園を設ける案だという。
どれも、本当に素晴らしい。
アデルは拍手をしながら、胸の奥に細い亀裂が入っていくような感覚を覚えた。国を見る目も、知識も、家門の力も申し分ない。しかも、どの令嬢も美しい。
(こんなに素敵な方々なのだもの)
誰が選ばれても、おかしくない。
むしろ、きっとリュシアンも、その人を知れば好きになる。
そう考えた瞬間、胸が痛んだ。
「そして」
リュシアンの声が聞こえる。
「代々宮廷調香師を輩出し、香料植物の研究と調香技術によって、スピネリアの香りそのものを作り上げてきたアレクシア侯爵家。アデル・アレクシア嬢」
「……はい!」
少し遅れて立ち上がった。慌てたせいで椅子へ裾を引っかけそうになり、隣にいた侍女が小さく息を呑んでいる。
どうにか一礼し、顔を上げる。
リュシアンと目が合った。
先ほどまで国の前で静かな威圧感をまとっていた男の灰青色の瞳が、ほんの少しだけ柔らかくなる。口元には、アデルだけが知っている、いたずらを企んだ時の微かな笑み。
(何です?)
視線だけで問いかける。
返事はない。
「今挙げた家門はいずれも、自らが持つ強みを理解し、それをどう国へ還元するか、非常によく考えてくれた。交易、技術、栽培。どれも今後のスピネリアに必要なものだ。提出された意見は選考結果にかかわらず、明日の王都新聞で概要を公表し、実現可能なものは関係機関で検討する」
アデルは黙って聞いていた。
「ただ、一人だけ、少し違う視点からこの国を見た者がいた」
リュシアンの声が、わずかに変わる。
「香りを守るのではなく、香りによって国を守る、と書いた者がいる」
「……え」
「香料と技術を囲い込み、他国から奪われないようにするだけではない。互いの文化を尊重し、正式な知識交換と交易によって、戦うより繋がっている方が利益になる関係を増やす。香水は我が国だけのものではない。香を焚く国もあれば、香油を使う国もある。その違いを優劣にせず、交流のきっかけにする――香りを、国と国を結ぶ言葉にする」
それは、今日アデルが書いた言葉だった。
大広間が静かになる。
正面でライレイが、ゆっくり笑った。
先ほどまで令嬢たちへ向けていた華やかな笑顔とは少し違う。金色の瞳がわずかに細まり、戦場と外交の両方を知る王太子の顔になっていた。口元には笑みが残っているのに、そこには軽さがない。
今夜の宴そのものが、もうその提案の一部なのだと理解している顔だった。
「面白い」
小さな呟きが、向かいから聞こえた。
リュシアンも一瞬だけライレイを見る。二人の王太子の視線が交わり、言葉もなく何かを確認したようだった。
そしてリュシアンは再びアデルへ向き直る。
「私は、この考えに最も心を動かされた」
真っ直ぐに。
灰青色の瞳が、他の誰でもなくアデルだけを見る。
「そして、アデル・アレクシア嬢を、スピネリア王国王太子妃として迎えることを決めた」
時間が止まった。
自分の名前が呼ばれた。王太子妃。迎える。誰を。
私を。
「……え?」
間抜けな声が出た。
次の瞬間、拍手が起こり、それはすぐに大広間全体へ広がった。ロザリーが笑っている。国王も。王妃も。補佐官は、なぜかものすごく安心した顔をしていた。
正面のライレイは椅子の背へ身体を預け、長い脚を組みながら肩を竦める。赤茶色の髪が揺れ、金色の瞳が楽しげに細まった。
「こんな場で宣言されたら、さすがのワタシも攫えないなあ」
隣のシャン国使節が青ざめた。
「殿下、その言い方は」
「冗談だよ」
ライレイは悪びれもせず笑う。歯を見せるような明るい笑い方で、軍を率いた人間とは思えないほど人懐こい。それでも、アデルにはもう分かる。この人は軽く見せながら、実際には周囲をよく見ている。
けれど今は、そんなことを考えている余裕もなかった。
リュシアンがこちらへ来る。
長い脚で数歩進み、手を差し出す。王太子として立っていた時の緊張はもう少し薄れ、灰青色の瞳には隠しきれない喜びが浮かんでいる。
「アデル」
「…………」
「手」
「あ」
言われてようやく、自分の手を重ねた。
指先が触れる。
温かい。
夢ではない。
リュシアンに導かれ、広間の前へ出る。足元が頼りない。何百人もの視線よりも、隣にいる男の存在の方が気になった。
「アデル。一言」
「……今、ですか?」
「今だ」
「何も考えておりません」
「いつものように話せばいい」
「無茶をおっしゃらないでください」
小声で返すと、リュシアンの口元が少し笑った。王太子として抑えていた表情が、アデルと話す時だけ少しずつ崩れていく。その変化を見て、ようやく呼吸が戻った。
「アデル・アレクシアでございます」
声は少し震えた。それでも続ける。
「この度の選考に際し、私の意見をお認めいただきましたこと、心より御礼申し上げます。私は幼い頃より、香りを作ることだけを考えて生きてまいりました」
育てる。蒸留する。組み合わせる。そして、誰かに届ける。
「ですが宮廷調香師となり、多くの方々と関わる中で、香りは作って終わるものではないのだと知りました。人と人の間にあり、時に誤解を生み、時に心を結び、国と国の関係にさえ影響するものなのだと」
隣を見る。
リュシアンがいる。
この人と出会ってから、香りの意味はずいぶん増えた。
「まだ至らぬことばかりではございますが、宮廷調香師として、そしてこれからは王太子殿下の隣に立つ者として、この国の香りを未来へ残すために尽力してまいります」
深く頭を下げると、再び拍手が広がった。
顔を上げた時、視界が少し滲んでいた。
リュシアンが気づく。
手を握る指が、わずかに強くなった。
「令嬢方から提出された意見はいずれも重要なものだ。今回、王太子妃という立場は一人にしか与えられない。だが、それは他の意見が劣っていたという意味ではない。先ほど申し上げた通り、明日以降、各提案を国政へどう取り入れられるか検討する」
リュシアンは一人ずつ、令嬢たちへ目を向ける。灰青色の瞳から浮ついた色は消え、再び国を背負う者の眼差しになっていた。
「最終選考まで残ってくれた家門と令嬢方へ、心から感謝する。これからも、この国のために力を貸してほしい」
その言葉を聞きながら、アデルはまだ現実に追いつけずにいた。
「アデル」
「はい」
「後ろじゃない」
「え?」
リュシアンが手を引く。
「隣に」
隣。
いつもは斜め後ろに控えていた。専属調香師だから。
けれど今は、肩を並べて立つ。
泣きそうになった。
「殿下」
「なんだ」
「これは……夢ですか?」
声が震えた。
リュシアンの表情が、ふっと柔らかくなる。まっすぐだった眉が少し下がり、灰青色の瞳が細くなる。宮廷で冷徹と呼ばれる王太子の顔ではない。調香室で何度も見てきた、自分だけはよく知っている顔だった。
「夢じゃない」
「本当に?」
「ああ」
「私で、よろしいのですか?」
リュシアンが眉を寄せた。
「その話は、宴が終わったらゆっくりする」
「……はい」
「だから今は泣くな」
「泣いておりません」
「目が潤んでる」
「化粧が崩れますので、泣きません」
「そこか」
思わず、笑った。
涙はぎりぎり落ちなかった。
*
「ライレイ」
ひと通りの発表を終えたリュシアンが、正面へ声をかける。
「こっちへ来い」
「はいはい。何でしょう、幸せいっぱいの王太子殿下」
ライレイはゆったり立ち上がった。朱色の長衣が大きく揺れ、その裾に入った金糸が燭台の光を拾う。背はリュシアンよりわずかに低いものの、細身ながら無駄のない身体つきで、長く軍にいたという話が妙に納得できた。動きが軽く、立ち上がるだけでも重心に迷いがない。
「うるさい」
「顔に出てるよ」
「出てない」
「出てる出てる」
ライレイが声を上げて笑うと、金色の瞳まで楽しそうに細くなる。リュシアンは露骨に嫌そうな顔をしたが、本気で不快ならとっくに話を切っていることを、アデルはもう知っている。
「それより、紹介してやる。我が国の重要な家門の令嬢たちだ」
「ありがたいことです」
ライレイの笑みが少しだけ変わった。先ほどまでの軽口を叩く青年ではなく、他国の有力家門と向き合う王太子の顔になる。
「ウェストン公爵家のロザリー嬢。国外交易なら、たぶんお前より詳しい」
「まあ、殿下。初対面の方へずいぶんなご紹介ですこと」
「本当だろ」
ロザリーが楽しそうに笑う。
ライレイもすぐに笑った。
「それは頼もしい。ワタシは知らないことを教えてくれる方が好きですよ」
「では、覚悟なさって。東方交易について伺いたいことが山ほどございますの」
「望むところです」
金色の瞳に興味が宿る。その瞬間、女性を口説くための笑顔ではなく、本当に面白そうな話を見つけた時の少年じみた表情になった。
セシリアがシャン国の蒸留技術へ興味を示せば、ライレイは身振りを交えて向こうの器具の形を説明し、エレノアが新領地に生育する植物について尋ねると、今度は軍の行軍中に見た森の様子を具体的に語り始める。
気づけばライレイを中心に、すっかり話が弾んでいた。
アデルは少し離れたところからその様子を眺める。
「……本当に、一人くらい連れて帰られそうですね」
「言い方」
「殿下が先ほどおっしゃったのでは」
「本人が行きたいなら止めない」
「そこは止めないのですね」
「お前じゃないからな」
「…………」
あまりにも当然のように言われた。
横を見ると、リュシアンは何でもないことを言った顔で立っている。黒髪の下にある灰青色の瞳も平然としているが、アデルが黙ったせいか、数秒してこちらを見た。
「何だ」
「何でもありません」
「顔が赤い」
「宴の途中です」
「知ってる」
「そういうことを言わないでください」
「何が悪い」
本気で分かっていない顔だった。
こういうところは、何も変わらないらしい。
*
宴は最後まで穏やかに進んだ。強い香水が混ざり合うこともなく、シャン国側の客人たちも終始くつろいでいた。席を固定したことで会話も落ち着き、途中からは両国の商人や技術者同士で、具体的な交易の話まで始まっていた。
香りが強くない宴。
けれどアデルには、今まで参加したどの舞踏会より豊かな夜に感じられた。
最後の客を見送り、大広間の扉が閉じる。ようやく肩の力を抜いたところで、リュシアンが隣へ来た。公務が終わったからか、きっちり整えられていた黒髪は少し乱れ、額へ一房落ちている。灰青色の瞳にも、宴の間ずっとまとっていた鋭さが消えていた。
「アデル」
「はい」
「湯浴みが終わったら、中央の私室へ」
いつも朝食を取っている部屋。
「……はい」
「待ってる」
それだけ言って離れていく背中を見送る。
今日で最後になると思っていた場所だった。朝食も、隣の寝室も、この廊下を歩くことも。
それなのに今は、同じ景色がまるで違って見えた。
*
長かった。
自室へ戻りながら、リュシアンはようやく息を吐いた。
アデルが王太子妃候補として推薦されてからではない。もっと前だ。自分がおそらく彼女を好きなのだと気づき、それを王太子という立場のままどう形にするか考え始めてから。
欲しいから妃にする。それだけなら簡単だった。王命を使えばいい。アレクシア侯爵家へ命じれば、家はおそらく断れない。
けれど、それでは駄目だった。
アデルは宮廷調香師になるために生きてきた女だ。自分の隣へ置くために、彼女が積み上げてきたものを壊したくなかった。
だから選考を作った。
すると今度は、評議会がうるさかった。
『国内侯爵家の娘を王太子妃に選べば、外交婚姻の機会を失います』
『宮廷調香師と王太子妃の兼任など前例がございません』
『そもそも殿下の専属調香師が候補へ入っている時点で、公平性を疑われます』
何度聞いたか分からない。
一つずつ潰した。
『外交は婚姻だけでするものではない。今回のシャン国との協議がその証明だ』
『前例がないことと、できないことは違う。職務の整理は必要だが、辞めさせる理由にはならない』
最後の一つには、さすがに腹が立った。
『俺がアデルを望んでいることと、意見書の価値を混ぜるな』
評議員たちが黙った。
『第一選考から俺は外れた。候補者の意見書は母上と各分野の担当者が審査した。その結果、アデルを含む四名が残った。俺が好きだから評価を上げるのが不公平なら、俺が好きだから評価を下げるのも同じだけ不公平だ』
それでも最後には、国王が笑った。
『そこまで言うなら、読んで決めろ』
全部読んだ。
何度も。
ロザリーの案も、セシリアの案も、エレノアの案も、どれも良かった。
だからこそ、アデルの文章を読んだ時、嬉しかった。
自分が好きになった女だからではなく、この国の次を考える人間として、同じ方向を見られると思えたから。
「……やっとだ」
誰もいない私室で呟く。
黒髪を掻き上げると、張り詰めていた表情がゆっくり崩れた。灰青色の瞳が細くなり、薄い唇から笑みがこぼれる。宮廷でこの顔を見た者なら、誰も冷徹などとは呼ばないだろう。
やっと、正面から手に入れられる。
*
湯浴みを終えたアデルは、少し迷った末に白い寝間着ではなく、柔らかな淡青色の室内着へ着替えた。
昨夜の教訓である。
「今日はお酒、ありませんからね」
背後で髪を梳かしていたメリーへ念を押す。
「存じております」
「絶対に持ってこないで」
「誰も頼まれておりません」
「そうだけれど」
銀髪を下ろしたまま鏡を見る。化粧を落とせば、宴の席よりずっと幼く見えた。
十八歳。宮廷調香師。侯爵令嬢。
そして今日から。
王太子妃。
「……本当に?」
鏡の中の自分へ尋ねる。
実感がない。
「アデル様」
メリーが後ろから穏やかに呼ぶ。
「おめでとうございます」
「……ありがとう」
今度こそ少し泣きそうになった。
アデルは目元を指で押さえ、立ち上がる。
「行ってくるわ」
「はい」
扉を出る。この数日、何度も通った道だった。それなのに、一歩ごとに心臓が速くなる。
中央の私室の前で足を止める。
コンコン。
「アデルです」
「入れ」
扉を開けた。
リュシアンはソファに座っていた。湯浴みを済ませた後らしく、黒髪は完全には整えられておらず、柔らかな前髪が額へ落ちている。濃紺の上着も脱ぎ、白いシャツに黒い脚衣という簡素な姿だった。王太子としての装飾がほとんどないせいで、長身と肩幅の広さがかえって目につく。
アデルを見る。
灰青色の瞳が、すぐに柔らかくなった。
「来たか」
「はい」
「座れ」
昨日と同じソファ。
一瞬、記憶が蘇った。
膝。首。酒。
「……向かいに座っても?」
「駄目」
「なぜです?」
「今日は逃がすつもりないから」
心臓が跳ねた。
「殿下」
「話をするだけだ」
「その言い方が問題なのです」
それでも、アデルは隣へ座った。昨日より少し距離を取る。
リュシアンが見る。
「遠い」
「十分近いです」
「昨日はもっと近かった」
「忘れてください」
「覚えてないんじゃなかったか?」
「…………」
墓穴を掘った。
リュシアンが笑う。公務中には鋭く見える灰青色の瞳が細まり、黒髪の下から覗く耳が少し赤い。からかっているくせに、本人もまったく平気というわけではないらしい。
「もう」
「悪い」
「絶対思っていません」
「半分くらいは」
「半分」
少しだけ肩の力が抜けた。
リュシアンが正面を見る。笑いの余韻が消え、横顔が真面目なものへ変わった。
「まず、今日のことを説明する。王太子妃選考を作ったのは、最初からお前を候補に入れるためだ」
「…………」
理解の範囲を超えた。
「もう一度、お願いできますか?」
「お前を候補に入れたかった」
「なぜ」
「妃にしたかったから」
「…………」
頭が止まる。
「いつから」
「候補選考を始める前から」
「では」
アデルは瞬きを繰り返した。
「殿下がおっしゃっていた、選びたい女性というのは」
「お前」
「…………」
「最初から」
衝撃だった。
「ですが!」
思わず立ち上がりかける。
リュシアンが腕を掴んだ。
「座れ」
「では私は、この数日ずっと、殿下が知らないご令嬢と結婚なさると思って!」
「うん」
「殿下が別の方と朝食を召し上がって、隣のお部屋で暮らして、その方に笑いかけるのだと思って!」
「うん」
「知っていたのですか!?」
「途中で気づいた」
「なぜ教えてくださらなかったのです!」
「選考中だったから」
「それだけですか!?」
「あと」
リュシアンが少し視線を逸らした。黒髪の影から覗く耳が、わずかに赤くなる。
「お前が嫉妬してるのが、ちょっと嬉しかった」
「殿下!」
「悪かった」
「最悪です!」
「悪かったって」
怒っている。
ものすごく怒っている。
なのに、その下から別の感情がどんどん溢れてくる。
知らない女性ではなかった。
朝食を取るのも、隣の寝室で眠るのも、あの人の隣に立つのも。
自分だった。
ほっとした。
あまりに強く安堵したせいか、身体から力が抜ける。
「……よかった」
声が漏れた。
リュシアンの表情が変わる。
からかうような笑みが消え、灰青色の瞳が大きくなる。
「アデル?」
「よかった……」
視界が滲む。
今度は止められなかった。
ぽろりと涙が落ちる。
「おい」
「すみません」
「いや、謝るな」
リュシアンが慌てる。普段なら何が起きても冷静そうな顔をしているくせに、アデルが泣くと途端に眉が下がる。
その顔を見たら、さらに泣けた。
「殿下が、別の方のものにならなくて……よかった」
言葉にした瞬間、全部が繋がった。
リュシアンが他の女性へ笑うのが嫌だった。調香室へ来なくなるのが寂しかった。実家へ帰った時、王宮へ戻ることを自然に「帰る」と思った。誘拐された時、見つけてほしいと思った。外套を返したくなかった。一週間だけの朝食が終わることが苦しかった。
殿下の香りが欲しかった。
いなくなっても忘れずにいられるように。
どうして、こんな簡単なことを、ずっと分からないふりをしていたのだろう。
分からなかったのではない。
分かってはいけないと思っていた。
相手は王太子だ。自分は宮廷調香師だ。いつか別の女性と結婚する人を好きになっても、困るだけだから。
だからずっと、名前をつけなかった。
「……私」
アデルは涙を拭った。
「殿下が、好きです」
言った。
言ってしまった。
リュシアンが動かない。切れ長の灰青色の瞳が、珍しいほど大きく開かれている。整った顔から完全に表情が消え、ただ呆然とアデルを見つめていた。
「…………」
「殿下?」
「待て」
「はい」
「今」
長い指で口元を覆う。
耳が赤い。
「もう一回」
「嫌です」
「なぜ」
「恥ずかしいからです」
「俺は何ヶ月待ったと思ってる」
「知りません」
「もう一回」
「嫌です」
灰青色の瞳がこちらを見る。今度は笑っていない。
「アデル」
「……何ですか」
「俺は、お前が好きだ」
今度は、アデルが固まった。
「最初は匂いが気になった」
「そこからなのですね」
「仕方ないだろ。俺だから」
「はい」
「そのうち、調香室に行けば楽だと思うようになった。お前といると、香りだけじゃなくて、色々楽だった」
リュシアンの手が、アデルの頬へ伸びる。
一度、触れる寸前で止まる。
「触っていいか?」
その問いに、胸が締めつけられた。
最初に会った時は、勝手に押し倒した人だった。
今は、聞いてくれる。
「……はい」
指先が頬へ触れた。
温かい。
涙の跡を、親指がそっと拭う。
「仕事してるところを見るのが好きだった。考え込んでる顔も、何か思いついた時に急に目が明るくなるところも。笑う顔も、怒る顔も。俺のことを気にしてくれるのも」
灰青色の瞳が近い。距離が縮まると、長い睫毛も、通った鼻筋も、少し薄い唇もはっきり見える。
「他の男のところへ行くのが嫌になった」
「知っています」
「ライレイに連れて帰られそうになった時は、本気で腹が立った」
「それも知っています」
「じゃあ分かるだろ」
「何がです?」
「俺はもう、かなり前からお前しか見てない」
息が止まりそうになった。
「……ずるいです」
「何が」
「そういうことを、急に」
「お前が鈍すぎたんだ」
「それは」
否定できない。
「でも」
アデルは少しだけ笑った。
「今は、分かりました」
リュシアンの目元が柔らかくなる。
次の瞬間、頬にあった手が顎へ滑った。
「アデル」
「はい」
「口付けしていい?」
顔が熱くなる。
「……今、聞くのですね」
「聞く」
「どうして」
「嫌がられたくない」
答えが、あまりにもリュシアンらしかった。
アデルは少し俯いた。
「嫌では、ありません」
「それは許可?」
「……たぶん」
「曖昧だな」
「初めてなのですから、仕方ないでしょう」
「俺もだ」
顔を上げる。
「本当ですか?」
「何だと思ってた」
「王太子殿下ですので」
「どういう意味だ」
少し笑った。
その瞬間、唇が触れた。
ほんの一瞬。柔らかい。その程度だったはずなのに、離れたあとも互いに黙ったまま動けなかった。
「…………」
「…………」
先に目を逸らしたのはアデルだった。
「殿下」
「なんだ」
「もう一度、してもよろしいですか?」
今度はリュシアンが固まった。
灰青色の瞳が見開かれ、さっきまで少し余裕を取り戻していた顔が、また見事に崩れる。
「……アデル」
「嫌でした?」
「誰が」
声が低くなる。
腰へ腕が回った。
「わ」
引き寄せられる。肩が触れ、胸が触れるほど近くなる。
二度目の口付けは、先ほどより少し長かった。
離れて、また触れる。額、頬、唇。
「殿下」
「何だ」
「多くないですか?」
「何ヶ月我慢したと思ってる」
「先ほども聞きました」
「足りない」
「そういうものですか?」
「俺はそう」
また唇が触れる。
アデルは笑ってしまう。
笑った唇へ、もう一度。
「ちょっと」
「嫌?」
「……嫌では」
「ならいい」
「よくありません」
言いながらも、離れる気にはなれなかった。
*
リュシアンは昔から、触れられることがあまり好きではなかった。衣服の縫い目が気になり、硬い襟は首を擦る。握手が長ければ相手の手の汗や指の硬さまで意識してしまうし、不意に肩を叩かれるのも嫌いだった。
嗅覚だけではない。音も、光も、味も、肌へ触れる感覚も、人より少し強く受け取ってしまう。
だから他人との距離は、広い方が楽だった。
それなのに今、腕の中にいるアデルだけは違った。
ソファへ並んで座り直したはずが、いつの間にかほとんど抱き込むような形になっている。銀髪が頬へ触れ、一本一本がさらさらと肌を滑る感覚まで分かる。肩へ預けられた重み。腕の中の細い身体。呼吸のたび、わずかに上下する背中。触れているところ全部から体温が伝わってくる。
普通なら、情報が多すぎる。
苦しくなるはずだった。
なのに今は、もっと欲しい。
「殿下?」
胸元から声がする。
「何でもない」
「先ほどから、ずっと髪を触っています」
「嫌か?」
「いいえ」
アデルは少し考え、リュシアンの胸元へ頬を預け直した。
「殿下なら」
それだけで、胸の奥が満たされる。
リュシアンは長い銀髪へ指を通した。光の下では冷たい色に見えるのに、掌の中では温かい。耳の後ろへ一房を避けると、白い首筋が見える。
ずっと好きだった場所。
最初に、この女を知った場所。
顔を寄せる。
「殿下」
「嗅ぐだけ」
「本当でしょうね」
「ああ」
首元へ鼻先を寄せる。
柔らかく乾いた、淡い甘さ。
何度嗅いでも香料の名前では説明できない、アデル自身の匂い。
深く息を吸うと、身体の奥から力が抜けた。
「……やっぱりこれが一番いい」
「王太子妃を香りで選んだみたいに聞こえます」
「最初はそうだったかもしれない」
「え」
「今は違う」
首筋から顔を上げる。
灰青色の瞳が、まっすぐアデルを見る。
「香りがなくても、お前がいい」
アデルの瞳が大きくなる。今夜の室内灯では、アレキサンドライトの瞳は紫に近い。
「……殿下」
「何だ」
「もう一度、口付けしても?」
「お前から?」
「はい」
「どうぞ」
少し待つ。
アデルが近づいてくる。慣れていないのが分かる。迷って、目を閉じて、唇が触れた。
たったそれだけなのに、リュシアンには全身で分かる。
唇の柔らかさ。わずかな震え。近くなった呼吸。頬へ触れる銀髪。速く打つ心臓の音。
自分のものなのか、アデルのものなのか分からない。
感覚が鋭いことを。
初めて、心から幸福だと思った。
「……アデル」
「はい?」
「もう一回」
「殿下」
「今のは短かった」
「長さに決まりがあるのですか?」
「今作った」
「勝手に作らないでください」
そう言いながら笑っている。
だからまた、口付ける。
何度か繰り返すうちに、最初の緊張も少しずつ解けた。アデルがリュシアンの肩へ頭を預ける。
「疲れたか?」
「少し」
「今日は朝から二日酔いだっただろ」
「誰のせいだと」
「酒を飲んだ本人」
「止めるのが遅かった方にも責任があります」
「反省してる」
「本当ですか?」
「ああ」
「では今日は、もう何も飲ませないでください」
「水なら?」
「それはいただきます」
笑いながらリュシアンが卓上の水を取ろうとする。
けれど、肩に乗った重みが少し増えた。
「アデル?」
「…………」
返事がない。
覗き込むと、目を閉じている。
「また寝た?」
「……寝てません」
「寝てる奴の返事だな」
「起きています」
「寝室へ行くか?」
「……ここがいいです」
小さな声だった。
リュシアンは動きを止める。
「ここ?」
「はい」
アデルの手が、彼のシャツの袖を少しだけ掴んだ。
「もう少しだけ」
何を、とは聞かなかった。
リュシアンはソファの背へ身体を預け、アデルが楽なように腕を回す。銀髪が胸元へ広がる。温かい。柔らかい。近い。そのすべてが心地いい。
やがてアデルの呼吸がゆっくりになる。
「アデル」
返事はない。
本当に眠ったらしい。
昨日と違うのは、今日は酒のせいではないこと。それから、もう運んで離す必要がないこと。
リュシアンは少し笑い、アデルの額へ唇を寄せた。
「おやすみ」
眠る彼女を抱き直し、自分も目を閉じる。
明日の朝も、その次の朝も、もう一週間という期限を数えなくていい。
腕の中からは、あの香りがする。
国を守る香りについて、一日中考えていた女の香り。
けれどリュシアンにとっては、国よりずっと小さな、この腕の中の世界をどうしようもなく幸せにする香りだった。




