第十三話 未来をまとう香り
目を覚ました時、最初に見えたのは白い布だった。
見慣れた天蓋ではない。枕でもない。頬の下には規則正しく上下する温かな感触があり、耳を澄ませば、ずいぶん近いところから低い鼓動まで聞こえてくる。
アデルはしばらく瞬きをして、それから昨夜の記憶をゆっくり辿った。
友好の宴。
王太子妃の発表。
リュシアンの告白。
口付け。
ソファ。
そして。
「…………」
「起きたか?」
頭の上から声がした。
アデルは勢いよく顔を上げた。
「お、おきました!」
起き上がろうとして、自分がどこにいるのかをようやく正確に理解する。
ソファの上だった。
正確には、ソファへ身体を預けて眠っているリュシアンの上だった。
「おはようございます、殿下!」
慌てて身体を離そうとした途端、足がソファの縁から外れた。
「わっ」
「危ない」
腰へ腕が回る。
落ちかけた身体を軽々と引き戻され、そのまま胸元へ抱え込まれた。
「朝から元気だな」
「誰のせいですか」
「俺は何もしてない。寝たのはアデルだ」
「それは……そうですけれど」
昨夜も同じことをした。
先日の晩酌では酒のせいだったが、昨夜は完全に自分の意思で「ここがいい」と言って、そのまま眠った。
言い訳の余地がない。
寝起きのリュシアンは、いつもの王太子らしさからずいぶん遠かった。黒髪は完全に乱れ、前髪が額だけでなく目元にまで落ちている。切れ長の灰青色の瞳にはまだ眠気が残り、白いシャツも胸元の留め具が少し緩んでいた。それでも整った顔立ちそのものは変わらないのだから、少々理不尽である。
しかも、離してくれる気配がない。
「リュシアン殿下」
「それ」
「はい?」
「今日から禁止」
寝起きの低い声で言われ、アデルは瞬きをした。
「何がでしょう」
「殿下」
「では、なんと?」
「名前」
リュシアンはアデルの腰を抱いたまま、当然のように答えた。
「俺の妃なんだ。名前で呼べ」
「まだ、婚約もしておりませんが」
「待ちきれないから今日からだ」
「随分、勝手ですね」
「今まで我慢した」
「何をです?」
「色々」
何となく聞かない方がいい気がした。
けれどリュシアンは、アデルが答えるまで待つつもりらしい。灰青色の瞳が間近からじっとこちらを見ている。
「……リュシアン様」
呼んだ瞬間、目に見えて表情がほどけた。
目元が柔らかく細まり、薄い唇がゆっくり弧を描く。
「もう一回」
「なぜです?」
「聞きたい」
「リュシアン様」
「うん」
噛み締めるような返事だった。
「気に入った」
「名前なのですから、気に入るも何もないでしょう」
「アデルが呼ぶと違う」
そう言って、額へ落ちていた銀髪を指ですくわれる。
そのまま髪へ口付けられた。
「……朝から随分ですね」
「昨日までできなかったからな」
「昨日もかなりなさっていたと思いますが」
「足りない」
即答だった。
今度はこめかみに唇が触れる。
次に頬。
「リュシアン様」
「何だ」
「近いです」
「知ってる」
以前なら、ここでアデルがどう思っているのかを確かめるように顔を覗き込んでいただろう。
けれど今のリュシアンは、もうそれをしない。
アデルが本当に嫌なら、眉が寄る。身体が強張る。きちんと「やめてください」と言う。
今は違う。
困った顔をしているくせに、腰へ回った腕をほどこうともしていない。
だからそのまま、首元へ顔を寄せた。
「……嗅いでいらっしゃいます?」
「ああ」
否定すらしない。
「アデルは朝からいい匂いがするんだな」
「寝ていただけですから、何もつけておりませんよ」
「だからいい」
首筋へ鼻先が触れそうな距離で、もう一度ゆっくり息を吸われる。
以前なら顔を真っ赤にして逃げていたと思う。
けれど何度も繰り返されるうちに、さすがに少し慣れた。
人間の適応力というものは恐ろしい。
「そんなに私の匂いがお好きなのですか?」
「好き」
間髪入れず返ってくる。
「香水より?」
「比べるまでもない」
「宮廷調香師としては複雑です」
「調香師が作る香りも好きだよ。アデル本人はもっと好き」
朝から強い。
昨夜まで抑えていたものを、本当に全部解放するつもりらしい。
アデルは話題を変えることにした。
「今日もアイリスの香水をつけられてはいかがですか?」
「アイリス?」
「はい。昨日もお似合いでしたし、今日はライレイ殿下のお見送りがございますでしょう?」
「そうだな」
「では後ほど、少量だけ」
「ああ。アデルがつけてくれ」
「侍従でもできますよ」
「アデルがいい」
また即答だった。
どうやら今後、この調子が続くらしい。
「それと、見送りには一緒に来てくれ」
「宮廷調香師としてですか?」
「俺の隣」
リュシアンの指が、アデルの銀髪を梳く。
「王太子妃として」
胸の奥が、また少しだけ騒がしくなった。
昨夜、何度も聞いた言葉なのに。
「……はい」
アデルも小さく笑った。
「喜んで」
*
午前の王宮前庭には、旅立ちを待つ馬車が並んでいた。
シャン国の紋章を掲げた車体はスピネリアのものより装飾が鮮やかで、深い朱色と金を基調にした意匠が朝日に光っている。護衛たちもすでに支度を終え、馬具を確かめながら出発の時を待っていた。
その中央で、ライレイは相変わらずよく目立った。
赤茶色の髪を後ろへ流し、旅装とはいえ深い朱色の上着をまとっている。金色の瞳は朝から機嫌よく輝き、アデルを見つけた途端、大きく手を振った。
「アデルちゃん!」
「ライレイ殿下。どうぞお気をつけて」
「最後まで堅いなあ。もう少し寂しがってくれてもいいんだよ?」
「一週間ほどのご滞在でしたので」
「冷たい」
「お前は他国の王太子妃に何を求めてるんだ」
すぐ隣から低い声が飛んだ。
リュシアンである。
濃紺の正装に、灰青色のスピネル。黒髪も隙なく整えられ、朝ソファで見た寝起きの青年はどこにもいない。
ただ、今日はごく淡くアイリスが香っていた。
土の中で静かに育った根を思わせる、乾いた粉っぽさと、花とは少し違う柔らかな甘さ。華やかすぎず、けれど冷たくもない。リュシアン自身の静かな佇まいによく馴染んでいる。
「似合っています」
アデルが小声で言うと、リュシアンが横を見る。
「アイリス?」
「はい」
「朝、アデルにつけてもらったからな」
わざわざ言う。
ライレイが二人を交互に見た。
「昨日から思ってたけど、急に距離が縮まったね?」
「そう見えるか?」
「見えるよ」
「ならよかった」
リュシアンは平然としている。
以前なら、ライレイがアデルへ近づくだけで眉間に皺を寄せていた。今は違う。
アデルの腰へ自然に手を添え、自分の隣へ寄せる。
見せつけるというより、本当にそこが彼女の場所だと思っているような動作だった。
「ワタシ、まだ完全には諦めてないんだけどなあ」
「好きにしろ」
「いいの?」
「アデルが俺を選んだのは変わらない」
さらりと言われ、アデルの方が固まった。
ライレイは一瞬目を丸くしたあと、声を上げて笑った。
「強くなったね、リュシアン」
「最初から強い」
「そういう意味じゃないよ」
何かを察したように笑われたが、リュシアンは気にした様子もなかった。
「アデルちゃん」
「はい」
「今度はワタシたちの国へ来るといい。客人として正式に招待するよ。例の森林も見せたいし、新しく作る蒸留所についても意見を聞きたい」
その言葉に、アデルの瞳が明るくなる。
「よろしいのですか?」
「もちろん。宮廷調香師として大歓迎だ」
「ぜひ――」
「夫婦揃ってでよければな」
横から割り込まれた。
アデルが振り返る。
リュシアンは涼しい顔をしている。
「リュシアン様」
「何だ」
「まだ夫婦では」
「行く頃にはなってる」
「予定が早すぎませんか?」
「遅くする理由がない」
ライレイが腹を抱えて笑い始めた。
「いいねえ。昨日まであんなに警戒してたのに」
「今だって警戒はしてる」
「どこが?」
「アデルを一人でシャンへやる気はない」
「十分じゃないか」
笑いながら、ライレイは右手を差し出した。
リュシアンが握る。
今度は王太子同士の顔だった。
「次に会う時は、交易の話をもう少し具体的にしよう」
「ああ。新領地の香料についてもな」
「持ってくるよ。今度はちゃんと、正規の使節として」
「最初からそうしろ」
「それはワタシのせいじゃないって」
二人の間にもう、最初の頃の刺々しさはない。
友人と呼ぶにはまだ早いのかもしれない。それでも、国同士を背負う同じ立場の者として、何かが確かに結ばれている。
ライレイは最後にアデルへ向き直った。
「幸せにね、アデルちゃん」
今度はからかうような声ではなかった。
金色の瞳が穏やかに細められている。
「ありがとうございます」
「嫌になったらシャンへおいで」
「ならない」
アデルより先にリュシアンが答えた。
「リュシアン様」
「ならないだろ」
「私に聞いてください」
「ならない」
「二回言いましたね?」
「三回でも言える」
ライレイがまた笑う。
「じゃあ、それくらい大事にしてやって」
「言われなくても」
その答えだけは、静かだった。
やがてライレイは馬車へ乗り、使節団がゆっくりと前庭を離れていった。
アデルは小さくなっていく車列を見送った。
一週間前。
同じ場所に立っていたとしても、自分はきっとリュシアンの斜め後ろにいた。
専属調香師として。
今日は、隣にいる。
「アデル」
呼ばれて振り向く。
リュシアンは何も言わずに手を差し出した。
アデルも、もう理由を尋ねなかった。
その手へ自分の指を重ねる。
すぐに絡め取られた。
「行くぞ」
「どちらへ?」
「父上と母上のところ」
「両陛下の?」
「ああ。急だが、このあと謁見だ」
「今からですか?」
「昨日、あれだけ大々的に発表しただろ。今後のことを決めないといけない」
確かに。
昨夜は恋愛の話ばかりで、王太子妃になるための具体的な話は何一つしていない。
「王太子妃候補の段階で、すでに俺の居住区に部屋まで持っている。普通ではないからな」
「それを今おっしゃいます?」
「俺も普通だとは思ってなかった」
「では、なぜ」
「安全だったから」
即答だった。
それを言われれば何も返せない。
リュシアンは繋いだ手を少し持ち上げ、アデルの指先へ口付けた。
「それに、今となっては移す理由が一つもない」
「人前ですよ」
「知ってる」
「……そうですか」
この人はもう、隠すつもりがないらしい。
昨日までは、その背中を追っていた。
今日は手を引かれ、肩を並べて歩いている。
ほんの一日で、世界の見え方が変わってしまったようだった。
*
謁見、と聞いていたので、もっと堅苦しい場を想像していた。
ところが案内されたのは国王夫妻の私的な応接室で、そこにはすでにアレクシア侯爵まで座っていた。
「お父様?」
「アデル」
父は娘の姿を見てほっとしたように笑い、それから隣で当然のように手を繋いでいる王太子を見て、ほんの少しだけ顔を引きつらせた。
アデルは慌てて手を離そうとする。
離れなかった。
リュシアンが握ったままだ。
「リュシアン様」
「何だ」
「手を」
「父親に見せられないことはしてない」
「そういう問題でしょうか」
アレクシア侯爵の眉間へ皺が増えた。
国王が咳払いをする。
「とりあえず座れ、二人とも」
「はい」
ようやく手が離れた。
王妃は最初からすべてを見ていたらしく、口元に扇を当てながら楽しそうに笑っている。
「まず、昨日の発表について整理しておきましょう」
王妃が穏やかに切り出した。
「アデル。あなたをリュシアンの妃として迎えることについて、国王、私、評議会、そしてアレクシア侯爵家の基本的な合意は得ています。ただし、昨夜の発表だけで正式な婚約が成立したわけではありません」
「はい」
「両家の取り決めを文書にし、あなた自身の意思を改めて確認し、正式な婚約宣誓を行う必要があります。その後、婚礼の日取りを決めます」
ようやく状況が分かってきた。
昨夜、王太子妃として選ばれた。
けれど今日からすぐに王族になったわけではない。
これから正式に、その立場へ進んでいくのだ。
「それまでに、あなたには王太子妃として必要な教育を受けてもらいます」
「教育」
「王室儀礼、国内の諸侯家、外交、王室財政、慈善事業、公務の進め方。すでに侯爵令嬢として学んでいることも多いでしょうが、王族として求められる範囲は少し違います」
「承知いたしました」
アデルは背筋を伸ばした。
「それから、正式な婚約後は段階的に公務にも同行してもらいます」
「はい」
「もちろん、宮廷調香師を辞める必要はありません」
アデルの表情が、ぱっと明るくなった。
「本当ですか?」
「そのために随分話し合いましたからね」
王妃が息子を見る。
リュシアンは何でもない顔をしていた。
「王太子妃となるあなたにしかできない公務も増えるでしょう。一方で、宮廷調香師であるあなただからこそできることもあります。すべてを今までと同じにはできませんが、どちらか一方を捨てる必要もありません」
「ありがとうございます」
胸の奥が熱くなる。
王太子妃の教育。
公務。
宮廷調香師。
三つ。
考えただけでも、かなり忙しい。
けれど、不思議と嫌ではなかった。
「では、婚礼はいつにします?」
リュシアンが言った。
空気が止まった。
国王が息子を見る。
「今の話を聞いていたか?」
「聞いていました」
「なぜその結論になる」
「必要な準備を進めるなら、日程も先に決めた方が効率的です」
「普段のお前らしくないぞ」
「何がです?」
「お前はもっと、物事を順序立てて考える男だっただろう」
「順序立てて考えた結果、早い方がいいと」
「リュシアン」
王妃が苦笑した。
「急げば急ぐほど、アデルへ王妃教育を詰め込むことになりますよ」
リュシアンが黙った。
「婚礼を三ヶ月後にしたいと言うなら、本来一年かける内容を三ヶ月で学ばせることになります」
「…………」
「半年なら半年です」
「…………」
「あなたが早く結婚したいからといって、アデルを寝る間もないほど追い立ててどうするのです」
そこで初めて、リュシアンの勢いが止まった。
アデルを見る。
目が合う。
次の瞬間には、もう結論が出ていた。
「なら、アデルに無理がない日程で」
国王が少しだけ眉を上げる。
「随分あっさり引いたな」
「アデルを疲れさせてまで早める意味はないでしょう」
言いながら、リュシアンはアデルの肩へ落ちていた銀髪を何気なく指で払った。
「結婚したあとはずっと一緒なんですから」
アデルは黙った。
父の前だ。
両陛下の前だ。
なのに頬が熱くなる。
「待つのは嫌ですが、待てないわけじゃない」
「立派になったな」
「何ですか、その言い方は」
国王が笑った。
「それから、部屋のことですが」
王妃が話題を変えた。
「今のままで構わないでしょう」
「え」
今度はアデルが声を上げる。
「よろしいのですか?」
「昨日、王太子妃として選ぶと公に発表した娘を、今さら職員用の離宮へ戻す方が不自然です。それに警護の面でも、今の場所が適しています」
「ですが、まだ婚約前です」
「寝室は分かれていますから」
「それは、そうですが」
隣の寝室。
中央の私室。
その向こうにリュシアンの寝室。
急に間取りを意識してしまい、アデルは視線を落とした。
その横で、アレクシア侯爵が深いため息を吐く。
「陛下方がお決めになることに異を唱えるつもりはございません。ただ……」
父の視線がリュシアンへ向いた。
「殿下」
「はい」
「娘はまだ婚約前です」
「承知しています」
「本当に?」
「もちろんです」
即答だった。
普段のリュシアンを知らない者が聞けば、これほど安心できる答えもないだろう。
だがアデルは、昨夜のことを知っている。
口付けを何度も繰り返し、ソファで抱き合い、そのまま朝まで眠った。
父には絶対に言えない。
「理性を信じてもよろしいのですね?」
「はい」
一拍置いて。
「念のため確認ですが」
「何でしょう」
「具体的には、どこまでなら許可をいただけますか。お義父様」
アレクシア侯爵の目が見開かれた。
「そんなん父親に聞くな!」
ほとんど悲鳴だった。
「線引きが必要かと」
「必要でも私に聞くな!」
「では、どなたに」
「知らん!」
「お父様、落ち着いて」
「お前は黙っていなさい、アデル!」
「なぜ私まで」
国王は完全に横を向いて肩を震わせている。王妃に至っては隠す気もなく笑っていた。
リュシアンだけが真剣である。
「曖昧なままの方が危険ではありませんか?」
「お前はどうしてこういう時だけ冷静なんだ!」
「では」
「アデルが嫌がらないことまでだ!」
勢いで言い切ったあと、侯爵本人が固まった。
室内が静かになる。
リュシアンが頷いた。
「承知しました」
「待て」
「アデル本人の意思を最優先にします」
「いや、そういう意味では」
「ありがとうございます、お義父様」
「まだ義父ではない!」
とうとう国王が声を上げて笑った。
アデルは両手で顔を覆いたくなった。
どうして王太子妃になる最初の打ち合わせで、こんな話をしているのだろう。
*
その後の一日は、本当に忙しかった。
王太子妃教育を担当する女官との顔合わせ。公務日程を管理する侍従との打ち合わせ。今後の衣装を管理するための採寸。正式な婚約までに必要な儀礼の説明。途中で調香室へ戻れば、昨日までと変わらず香料の鑑定依頼も積み上がっていた。
王太子妃に選ばれたからといって、乳鉢が勝手に仕事を終えてくれるわけではない。
夕刻には、アデルは机へ額をつけたくなるほど疲れていた。
それでも、不思議と気持ちは軽い。
全部、自分が選んだことだった。
香りを作りたい。
国のために働きたい。
リュシアンの隣にいたい。
どれも手放さなくていいと言われた。
簡単ではないだろう。
それでも、やってみたいと思えた。
*
夜。
湯浴みを終え、アデルが中央の私室へ行くと、リュシアンはすでにソファに座っていた。
朝とは違い、黒髪はまだ少し湿っている。白いシャツの袖を肘まで軽く捲り、長い脚を組んで書類を読んでいたが、アデルに気づくとすぐに紙を閉じた。
「終わったか」
「はい。今日はさすがに疲れました」
「こっち」
隣を指される。
アデルが腰を下ろした途端、腕を引かれた。
「わっ」
そのまま肩を抱かれ、リュシアンの胸元へ寄せられる。
「リュシアン様」
「疲れたんだろ」
「そうですけれど」
「なら休め」
「ここで?」
「俺がいる」
「休息との因果関係が分かりません」
「そのうち分かる」
自信満々である。
それでも、背中を撫でる大きな手は心地よかった。
一定の速さで、何度も。
今日一日、知らないことを一度に詰め込まれて強張っていた身体から、少しずつ力が抜けていく。
「本当に、やることがたくさんですね」
「ああ」
「王太子妃教育に、公務に、調香師の仕事」
「多いな」
「他人事ですね」
「違う」
リュシアンが、アデルの銀髪へ頬を寄せる。
「アデルが全部やりたいなら、俺が全部やれるようにする」
アデルが顔を上げる。
「そんなことができます?」
「するんだよ」
あまりにも迷いなく言うので、返事に困った。
「お前が宮廷調香師を続けたいのも知ってる。妃として何もしないつもりがないのも知ってる。だったら、どっちもできるように周りを整えるのは俺の仕事だろ」
「……過保護では?」
「今さら?」
確かに。
「それから、公務を考えますと、私、ドレスがあまりにも少ないです」
「買いに行こう」
「簡単におっしゃいますね」
「一緒に選びたい」
「リュシアン様も?」
「ああ」
肩を抱いたまま、リュシアンがアデルを上から眺める。
「昨日の青緑も似合ってた。銀も似合うだろうし、濃い青も見たい。白もいいな」
「ずいぶん具体的ですね」
「考えてた」
「いつからです?」
「お前が王太子妃候補になったあたりから」
「そんな前から?」
「だから待ったと言ってるだろ」
頬へ軽く口付けられる。
「ようやく俺が選べる」
「私のドレスですけれど」
「アデルが好きなものの中から、一緒に選ぶ」
訂正が早い。
「それなら、うれしいです」
「俺も」
「では、私もリュシアン様のお召し物を選びたいです」
「好きにしていい」
「本当に?」
「アデルが俺に着せたいものなら、何でも着る」
「……それは少し試してみたくなりますね」
「何を着せるつもりだ」
「まだ秘密です」
アデルが笑うと、リュシアンも目元を緩める。
そのまま頬へ落ちた銀髪を耳へかけ、今度は唇へ軽く口付けた。
一度。
離れて、もう一度。
「随分、自然になってきましたね」
「何が」
「口付けがです」
「ずっとしたかったからな」
平然と言われる。
「今までの分を取り戻してる」
「取り戻すものなのですか?」
「俺の中では」
また一度。
短い口付けが落ちる。
「この調子で毎日なさるおつもりですか?」
「そのつもり」
「…………」
「今、諦めただろ」
「慣れる方が早そうだと思いました」
「賢い」
「褒められている気がしません」
笑いながら押し返すと、リュシアンも素直に身体を離した。
ただし、手はアデルの腰に残ったままである。
そこへ、朝につけたアイリスがごく淡く香った。
アデルは自然と顔を寄せる。
「まだ分かるか?」
「はい。少しだけ」
「朝と違う?」
「違います」
「どう?」
完全に調香師へ尋ねる顔である。
アデルも少し考えた。
「朝より好きです」
リュシアンの眉が上がる。
「理由は?」
「香水だけではなくなっていますから」
衣服。
肌。
一日を過ごした人自身の匂い。
香りは、瓶の中にある時と、人がまとった後では違う。
「香水は、その方が身につけて初めて完成するものなのかもしれません」
「じゃあ、これは俺の香り?」
「今日のリュシアン様の香りです」
「今日の」
「はい。明日はまた少し違います」
「じゃあ明日も、アデルが選んで」
「毎日ですか?」
「毎日」
「専属調香師の業務が増えました」
「夫の香水を選ぶのも追加で」
「まだ夫ではありません」
「予定」
「便利な言葉ですね」
「かなり」
二人で笑った。
そのまま、明日の予定や王妃から渡された分厚い礼法書、調香室の棚を増やしたいこと、婚約式にはどんな花を使うかと、取り留めもなく話が続いていく。
こうして一日の終わりを二人で過ごすことも、いつの間にか習慣になりつつあった。
その途中で。
「あの」
アデルが急に姿勢を正した。
「今日のお父様への確認の件ですが」
「ん?」
リュシアンはまだアデルの腰を抱いたままだった。
「お前が嫌がらないことまで、ってやつ?」
「はい」
「それがどうした」
「避妊薬は必要ですか?」
リュシアンの表情が止まった。
「…………」
「リュシアン様?」
「聞こえてる」
「でしたら」
「少し待って」
長い指が口元へ上がる。
灰青色の瞳が、初めて明らかに動揺した。
こんなリュシアンを、アデルはほとんど見たことがない。
いつもなら何を言われても言い返す。嫉妬も告白も、最近では口付けさえかなり堂々としている。
なのに今は、耳まで赤い。
「必要でしょうか」
「お前、それ……」
「はい」
「何の話として聞いてる?」
「避妊についてですが」
真顔だった。
リュシアンは一度目を閉じた。
そうだった。
この女は宮廷調香師である。
恋人でもあるが、こういう時だけ突然、研究者へ戻る。
「まあ……必要になる可能性はあるだろうな」
「そうですよね」
アデルは至って真面目に頷く。
「でしたら、準備しておいた方がよいですね」
「準備」
「はい。お香にするか、お茶にするか迷うところです」
リュシアンは黙った。
完全に仕事の顔だ。
「お茶ですと服用量を管理しやすいのですが、毎回準備が必要でしょう? お香であればもう少し自然に生活へ組み込めるかもしれません。ただ、リュシアン様は香りへの感受性が強いので、そこが問題ですね。成分そのものについては宮廷医とも相談して――」
「アデル」
「はい?」
「アデルは、したいの?」
時間が止まった。
「…………」
今度はアデルが固まる番だった。
新緑にも紫にも見える瞳が、これ以上ないほど大きく開く。
「な……」
「そこまで具体的に準備するなら、そっちも聞いておこうかと思って」
先ほどまで動揺していた男はどこへ行ったのだろう。
リュシアンはもう落ち着いていた。
それどころか少し楽しそうである。
「私は、薬の話を」
「してたな」
「調香師として」
「うん」
「生活上必要になる可能性を」
「だから、その可能性があるのか聞いてる」
「…………」
逃げ道を全部塞がれている。
アデルの頬がみるみる赤くなった。
「そういうことは……」
「うん」
「もっと、こう」
「こう?」
「雰囲気とか」
自分で言って、さらに赤くなる。
リュシアンの口元がゆるんだ。
「雰囲気は必要なんだ」
「そういう意味ではありません!」
「じゃあ、したくない?」
「その聞き方はずるいです!」
アデルが顔を覆った。
とうとうリュシアンが笑い出す。
「笑わないでください」
「ごめん」
「全然思っていません」
「思ってない」
「リュシアン様!」
手首を掴まれ、顔を覆っていた両手をゆっくり外される。
真っ赤になったアデルの顔を、リュシアンが覗き込む。
今度はからかう笑みではなかった。
「俺はしたいよ」
「…………」
「アデルとなら」
低い声だった。
急に、笑いが消える。
「ずっと触りたかったし、抱きしめたかったし、口付けもしたかった。今だって、できるならずっとこうしてたい」
腰を抱く腕に少しだけ力が加わる。
「リュシアン様」
「でも、急がない」
額と額が触れる。
「待つのには慣れたから」
その言葉に、アデルの胸が小さく痛んだ。
この人は本当に待っていたのだ。
アデルが自分の気持ちに気づくまで。
王太子妃選考が終わるまで。
自分で選んだと言えるところまで。
「だから、アデルが俺にもっと触ってほしいと思った時でいい」
「…………」
「その時は、ちゃんと言って」
「それは」
「言えそうにない?」
「……かなり難しいです」
「知ってる」
リュシアンが笑った。
「じゃあ、その時も俺が分かる」
そう言って、赤くなった頬を親指で撫でる。
「今だって、どこまで恥ずかしがってて、どこから本当に困ってるのか、大体分かるようになった」
「……そんなに分かります?」
「かなり」
「困ります」
「俺は嬉しい」
「ずるいですね」
「好きな女のことばかり見てたからな」
また何も言えなくなる。
リュシアンはそんなアデルを見て、満足そうに笑った。
「ちなみに」
「まだあるのですか」
「今は?」
「何がです?」
「俺としたい?」
「っ……!」
クッションを掴んで投げた。
リュシアンが片手で受け止める。
「元気だな」
「知りません!」
「答えは?」
「知りません!!」
「じゃあ保留」
「保留にしないでください!」
「薬の研究は?」
「します!」
「するんだ」
「必要な知識です!」
「じゃあ俺も協力する」
「何をどう協力するのですか!」
「試験?」
「絶対に違います!」
また笑われた。
悔しい。
完全に負けている。
けれど。
こうして笑われながら抱き寄せられていることを、本当は少し嬉しいと思ってしまっている自分が一番悔しい。
「もう寝ます!」
アデルが立ち上がる。
「待って」
「今度は何です?」
手首を取られ、軽く引かれる。
勢いを殺しきれず、アデルはもう一度リュシアンの胸元へ戻った。
「俺の妃は、今日はどこで寝るんだ?」
近すぎる距離で尋ねられる。
「自分のベッドです!」
「俺の上じゃなくて?」
「ベッドの上で寝ます!!」
「昨日はよく眠ってたのに」
「忘れてください!」
「無理」
「どうしてです!」
「可愛かったから」
即答された。
「寝顔も?」
「見た」
「最悪です」
「ずっと見てた」
「もっと最悪です!」
「途中で髪も触った」
「聞いていません!」
「頬にも口付けた」
「今初めて知りました!!」
アデルが両手で顔を覆う。
「なんで報告するのですか……」
「今日から隠さないことにした」
「そこは隠してください」
「無理」
笑いながら、リュシアンがアデルの頭を抱き寄せた。
銀髪へ頬を埋め、しばらくそのまま離れない。
「……リュシアン様」
「何」
「本当に、急に遠慮がなくなりましたね」
「言っただろ」
髪へ口付ける。
「今まで我慢した分」
次は額へ。
「しばらく溺愛されてろ」
「自分で言います?」
「言う」
「恥ずかしくないのですか」
「全然」
「私は恥ずかしいです」
「それも知ってる」
また頬へ口付けられた。
どうやら本当に、もう逃がしてもらえないらしい。
それでも最後には、きちんと寝室の前まで送られた。
「三十歩もありませんよ」
「毎日送る」
「毎日?」
「朝も迎えに行く」
「隣ですよ?」
「知ってる」
「過保護です」
「溺愛」
「自分で訂正しないでください」
リュシアンが笑う。
扉を開け、アデルを寝室へ入れる。
「明日からも忙しい。ゆっくり休め」
「はい」
「おやすみ、アデル」
額へ、最後に軽い口付けが落ちた。
アデルは扉の内側へ入ってから、一度振り返る。
「おやすみなさい、リュシアン様」
名前を呼ぶ。
それだけで、また嬉しそうに笑う。
扉が閉まる。
静かになった寝室で、アデルはそのまま少しだけ扉へ背中を預けた。
すぐ向こうに、彼がいる。
髪を肩へ寄せた時、ほんのわずかにアイリスが香った。
朝につけたリュシアンの香りが、何度も抱きしめられたせいで移っている。
「……しばらく溺愛されてろ、って」
思い出して、また顔が熱くなった。
香りは消える。
どれほど大切にしても、同じ形のまま残しておくことはできない。
けれど、明日になればまた選べばいい。
今日はアイリス。
明日は別の香り。
同じ朝を迎え、違う一日を過ごして、その日の終わりに二人の香りが混ざって残る。
これから先は、きっとそれを何度も繰り返していく。
アデルは自分の髪へ残った淡い香りをもう一度だけ確かめ、少し笑った。
未来というものは、案外こうして、毎日少しずつ身にまとっていくものなのかもしれない。




