第十四話 消す香り
アデル・アレクシアの生活は、少しずつ変わり始めていた。
まだ正式な婚約宣誓を終えたわけではない。それでも王太子妃となることを前提に、王室儀礼や外交について学ぶ時間が組み込まれ、公務用の衣装が用意され、今後同行する行事の予定まで渡されるようになった。
その一方で、宮廷調香師としての仕事も変わらず続いている。
朝起きて、身支度を整え、仕事へ向かう。
以前と同じようで、決定的に違うことが一つだけあった。
「今日は昼食を食べすぎるなよ」
朝食の席で、リュシアンが何気なく言った。
大きな窓から入る朝の光が、向かいに座る彼の黒髪へ淡く落ちている。すでに執務用の濃紺の上着を身につけ、白い襟元もきちんと整えられていた。切れ長の灰青色の瞳にはまだ朝の柔らかさが残っているものの、あと少しもすれば王宮で誰もが知る、隙のない王太子の顔になるのだろう。
アデルはパンへ伸ばしかけていた手を止めた。
「あら。もしや、ドレスが出来上がったのですか?」
「正解。夕方に予定が入っている」
途端に、新緑色に見えていた瞳が明るくなる。
「もうですか?」
「仮仕立てだ。最終調整があるらしい」
「リュシアン様もご一緒される?」
「当然だろ。一部の服は色味や装飾を揃えて作る必要がある」
「揃い……」
その響きを口の中で転がすように呟いてから、アデルは少し笑った。
揃いの衣装。
王太子と、その隣へ立つ女性。
これまで夜会へ出る時のドレスは、ほとんど母や侍女に任せてきた。宮廷調香師になってからはなおさらで、仕事着について考えることの方が多い。
それが今度は、隣に立つ人との釣り合いまで考えて作られるのだという。
妙な感じだった。
けれど、嫌ではない。
「黒、青、銀……緑もいいですね。紫も」
「全部作ればいい」
「全部?」
「必要だろ」
「そんなに必要でしょうか」
「必要になる」
何の迷いもない。
王族の衣装というものはそういうものなのだろうかと考えながら、アデルは果物を一つ口へ運んだ。
「では、赤も?」
「赤も作るか」
「リュシアン様が?」
「ああ。ライレイに自慢しに行く時用に」
アデルは一度瞬きをしたあと、口元を手で隠した。
「ふふ、ご冗談を」
「…………」
リュシアンは答えず、静かに茶を飲んだ。
冗談ではないのだが。
まあ、いいか。
いつか本当にシャン国へ赴く機会が来たなら、あの赤茶色の髪をした王太子の前で、これでもかというほど仲のよいところを見せればいい。
そんな非常に大人げない未来を思い描いていることなど知らず、アデルは今日の予定を確認している。
「午前中は調香室で仕事をするといい。妃教育は午後からだったか?」
「今日はございません。シャン国からいただいた香料が届きましたので、樹脂類の鑑定を進めておきます」
「ああ。例の森林から採れたものか」
「はい。乳香、没薬、それから安息香もございました。まだ向こうでも品質管理が整っていないようですので、今後交易品として扱えるものか一度確認しておきたくて」
その話をする時のアデルは、少しだけ声が変わる。
楽しそうなのだ。
恋だの結婚だのという話をすれば、未だに頬を赤くして視線を彷徨わせるくせに、香料の話になると途端に迷いが消える。光の加減で緑にも紫にも見える瞳が真っ直ぐ相手を捉え、細い眉がわずかに上がり、口調にも自然と張りが出る。
リュシアンは、そういう顔も好きだった。
「俺は?」
聞かれて、アデルが卓上に置かれた予定表へ視線を落とした。
「……一日中、謁見ですね」
「そうなんだよ」
「随分多いですね」
「友好協議がまとまった直後だからな。地方からも商人からも、シャンとの交易をどうするのか聞きたい連中が殺到している」
「それは……大変ですね」
「きつい日になりそうだ」
口にした途端、アデルの表情が変わった。
心配そうに眉尻が下がり、細い指が腰元にある小さな袋へ触れる。
「……お守り、持って行ってくださいね」
今ではすっかり定着した、レモンとペパーミントの香り袋である。
「もちろん」
リュシアンは懐へ入れていた袋を取り出し、見せた。
「ちゃんと持ってる」
アデルの顔がぱっと緩む。
「よかった」
たったそれだけで嬉しそうにされると、もう一日くらい謁見が増えても何とかなる気がするから困る。
席を立ったリュシアンは、アデルの椅子の後ろを通りざま、その銀髪へ軽く触れた。仕事前なので低い位置できっちりと編み込まれている。夜、解いた時とはまるで違う。
「行ってくる」
そのまま頭の上へ唇が触れた。
あまりにも自然にされたせいで、アデルの反応が一拍遅れる。
「……いってらっしゃいませ」
「ああ」
扉が閉じたあとも、アデルは少しの間そこを見ていた。
朝、一緒に食事をする。
今日何をするのか話す。
行ってきますと言われて、いってらっしゃいと返す。
それだけのことが、最近とても好きだった。
結婚というものについて、アデルはまだほとんど分かっていない。
けれど。
もし毎日がこういう小さな時間の積み重ねなのだとしたら。
悪くない。
むしろ。
「……かなり、好きかも」
誰もいない食卓で呟いてから、アデルは自分で少し恥ずかしくなり、残っていた茶を一気に飲んだ。
*
シャン国から届いた木箱を開けた瞬間、アデルは思わず目を細めた。
「……これは、なかなか」
調香室には、いつも以上に濃い樹脂の匂いが満ちている。
乳香の乾いた清涼感。没薬の苦味を含んだ重い香り。その奥には、安息香特有の柔らかな甘さがあった。
シャンから贈られたのは、先の友好協議を具体的な交易へつなげるための試料である。
ライレイが語っていた、戦争によって新たにシャン領となった森林。
そこにどのような植物があり、何を産業として育てられるのか。
スピネリア側も協力して調査していくことになっていた。
アデルは白い前掛けの袖を少し上げ、長い銀髪が邪魔にならないことを確かめてから、木箱の前へ座った。
ここから先は、恋をしている十八歳の令嬢ではない。
宮廷調香師の仕事だった。
まず乳香を大きさごとに分ける。
色を見る。
指先で表面を確かめ、少量を砕いて香りを取る。
「これは早すぎるわ」
若いうちに採取したのだろう。水分が抜けきっておらず、香りにも青さが残っている。
別の塊を持ち上げる。
「こっちは逆に古い」
保管が悪かったのか、一部が湿気を吸っていた。
シャンに香を焚く文化そのものはある。しかし、新たに得た森林で採れる樹脂を輸出用の商品として管理する技術は、まだ整っていないのだろう。
収穫時期も、おそらく統一されていない。
「採れるから、とりあえず採ってしまったのね」
質が悪いというより、扱い方を知らないのだ。
それなら改善できる。
アデルは横に置いた帳面へ、産地ごとに特徴を書き込んでいった。
樹皮を傷つける時期。
樹脂を固める期間。
乾燥方法。
保存容器。
気温。
湿度。
次回シャンへ伝えるべき項目が、次々に増えていく。
続いて没薬。
こちらも品質にはかなり差があった。
「これは王室では使えないわね」
香りを確かめた一片を別の皿へ置く。
悪いものではない。
ただ、王室用の香料として使うには雑味が強すぎる。
「研究用に、お父様へ送ろうかしら」
アレクシア家なら、蒸留や精製によってどこまで使えるか試すことができる。
捨てる必要はない。
むしろ、こういう不揃いな原料だからこそ研究の価値がある。
最後に安息香の箱を開く。
黒褐色から淡い飴色まで、さまざまな樹脂片が混ざっていた。
一つ手に取り、刃物で小さく削る。
甘い。
柔らかな樹脂の香り。
乳香ほど鋭くなく、没薬ほど苦くもない。熱を加えれば、もっと丸みを帯びるはずだ。
「香水より、薫香向きかしら」
香りが強すぎる原料を嫌うリュシアンでも、量さえ調整すれば比較的受け入れやすいかもしれない。
部屋に残った臭いを和らげたり、衣類や調度へ染みついた嫌な匂いを抑えたりする用途にも使える。
アデルは小さな皿へ良質なものだけを選り分けた。
ちょうどその時だった。
バタン!
大きな音が、調香室へ響いた。
アデルの手が止まる。
この扉がこんな音を立てて開くのは、ずいぶん久しぶりだった。
「リュシアン様?」
振り返る。
立っていた。
ただし。
「……まあ」
「何だ、その顔」
ひどい有様だった。
朝は隙なく整えられていた黒髪が少し乱れ、前髪が額へ落ちている。濃紺の上着の襟元もいつもより僅かに緩み、何より顔色が悪い。
切れ長の灰青色の瞳は明らかに苛立っており、形のいい眉が深く寄せられていた。
片手には、朝見せてもらった香り袋。
ほとんど鼻元へ押しつけるように持っている。
「どうなさいました?」
「臭い」
「何がです?」
「俺」
「…………」
アデルは瞬きをした。
「リュシアン様が?」
「正確には服だと思う」
彼が一歩近づいた。
そこで分かった。
「あ」
甘い。
花。
ムスク。
樹脂。
それから何か強い香辛料。
いくつもの香りが、ほとんど喧嘩をするように重なっている。
「これは……随分ですね」
「だろ?」
心底うんざりした顔だった。
「何をなさったのです?」
「俺じゃない。さっき謁見した伯爵だ」
「お近くまで?」
「話が聞き取れないくらい離れるわけにもいかないだろ」
「それはそうですけれど」
「入ってきた瞬間からおかしかった。花束が歩いてきたのかと思った」
随分な言いようである。
しかし、今リュシアンから漂っている残り香だけでも相当強い。本人はさらに近距離で、まともに浴びたのだろう。
「お守りは?」
「途中から効かなくなった」
「そこまで……」
「謁見が終わるまで耐えた。褒めろ」
言われ、アデルは少し笑った。
「よく頑張りました」
「軽いな」
「では、頭を撫でましょうか?」
「それはあとで」
「あとでなさるのですか」
いつもの調子が戻ったのを確認し、アデルは少し安心した。
「とりあえず、上着を脱いでください」
「ここで?」
「何を今さら」
「最近のアデルは強いな」
「香料が移りますので、早く」
仕事の顔で言われ、リュシアンは素直に上着を脱いだ。
侍従でも呼ぼうかと思ったが、ここへ連れてくればさらに香りが増えるかもしれない。アデルは受け取った濃紺の上着を窓際へ持っていき、風の通る場所へ掛けた。
「それにしても、なぜそこまで強い香水を?」
尋ねると、リュシアンの表情から少しだけ軽さが消えた。
「それなんだ」
「何か?」
「相談に来た」
「香水について?」
「違う。悪臭について」
アデルが振り返る。
リュシアンは近くの椅子へ腰を下ろした。長い脚を伸ばし、香り袋を鼻元へ当てたまま、朝とは違う疲れの滲む顔で息を吐く。
「王都の南東区で、ここ半月ほど妙な臭いが続いているらしい」
「南東区?」
頭の中で王都の地図を思い浮かべる。
市場からは少し外れ、職人の工房や庶民の住宅が多い地域だったはずだ。
「最初は一部の路地だけだったそうだ。それが少しずつ広がっている。住民から役所へ何度か苦情が出て、清掃もした。排水溝も確認した。腐った食料が捨てられていないかも調べたらしい」
「それでも消えない?」
「ああ」
「どのような臭いです?」
「俺はまだ現地へ行ってない。伯爵の説明だと、腐った野菜だとか、濡れた皮革だとか、古い水だとか。人によって言うことが違う」
「なるほど……」
アデルは腕を組んだ。
臭いの感じ方には個人差がある。それだけでは判断できない。
「それで、なぜ伯爵様があれほど香水を?」
「南東区を管轄しているのがあいつなんだ。毎日現地へ行ってるらしい」
「ああ」
ようやく繋がった。
「最初は服へ臭いが移るのが嫌で、いつもより少し多めに香水をつけたそうだ」
「それが」
「だんだん効かなく感じるようになった」
「……それで、さらに増やした」
「本人は今も適量だと思ってる」
アデルは額へ指を当てた。
人間の鼻は、同じ香りを嗅ぎ続ければ次第に慣れる。
自分の香水が感じにくくなったからと量を増やせば、周囲には途方もなく強く香っていても、本人は気づかないことがある。
「悪臭を消そうとして、香水を重ね続けたのですね」
「ああ。どうやら伯爵だけじゃないらしい」
リュシアンの声が低くなる。
「その地区では今、香水も香油もよく売れているそうだ。家の中でも焚いている。服にもつける。店先にも撒く」
アデルは返事をしなかった。
それは、よくない。
香水で別の匂いを覆えば、一時的には感じにくくなる。
けれど、原因が残っているなら何も解決していない。
むしろ、強い香りが重なれば、異変そのものに気づきにくくなる。
「視察が必要ですね」
「ああ」
リュシアンは即答した。
「伯爵には、こちらから手紙を出す。明日か明後日には現地へ行きたい」
「私も参ります」
「そのつもりだ」
「まだ何も」
「来るだろ」
「……行きますけれど」
「ならいい」
当然のように言われてしまう。
少し前なら、危険かもしれないから残れと言われていただろうか。
けれど今は違う。
王太子妃になるからでもない。
宮廷調香師だから必要なのだと、リュシアンは最初から分かっている。
アデルはそのことが、少し嬉しかった。
「ただ」
リュシアンが眉を寄せる。
「このあとまだ謁見がある」
「え?」
「午後にも三件」
「その状態で?」
「だから困ってる」
「上着を替えればよろしいのでは?」
「執務室が駄目だ」
「執務室?」
「あの伯爵、かなり長くいたんだぞ」
アデルは理解した。
人間だけではない。
椅子。
布張りの調度。
絨毯。
紙。
香りは、そうしたものにも移る。
「換気は?」
「してる。寒い」
「冬ですから」
「知ってる」
以前も聞いたような会話である。
アデルはふと、作業台の上へ視線を向けた。
先ほど選別したばかりの淡い褐色の樹脂。
「ちょうどいいものがあります」
「何だ?」
「シャンから届いた安息香です」
小皿を持ち上げる。
「べんぞいん?」
「安息香。樹脂香です。甘く柔らかな香りで、空間に残った嫌な臭いを和らげる用途にも向いています」
リュシアンの眉間の皺がさらに深くなった。
「強くないか?」
「量を考えます」
「アデルの『大丈夫です』は、香料に関してだけは信用している」
「だけ?」
「他は時々怖い」
「失礼ですね」
言いながら、アデルは小さな香炉を用意した。
炭へ直接大量に載せるのではなく、ごく小さな欠片だけを使う。
ゆっくり熱が入る。
しばらくすると、白い煙とともに甘い樹脂香が立ち上がった。
香水のような華やかさはない。
柔らかく。
少し温かく。
空気の角を取るような香り。
リュシアンは警戒しながら一度息を吸い、それから少しだけ目を見開いた。
「……これは平気だな」
「よかった」
「甘い」
「安息香はそういう香りです。香水にも使えますが、今はこうして焚く方がよろしいでしょう」
「これを執務室へ?」
「はい。ただし、先に十分換気してください。香水の上へ別の香りを重ねるだけでは、先ほどの伯爵様と同じです」
「耳が痛い奴が多そうだな」
「王太子殿下から伝えてくださいませ」
「嫌だ。お前が言え」
「私が?」
「専門家だろ」
そう言われると断れない。
アデルは安息香を布袋へ小分けしながら、ふと手を止めた。
悪臭を、香りで隠す。
南東区で今起きていることも、同じなのだ。
もし住民たちが香水を増やし続けているのなら。
本来そこにある臭いが、少しずつ分からなくなっているかもしれない。
「リュシアン様」
「ん?」
「現地へ参る時は、最初から香りを焚かないよう伝えていただけますか」
リュシアンの灰青色の瞳が細くなる。
先ほどまでの疲れた青年の顔が消えた。
「理由は?」
「本来の臭いを確認したいのです。香水も香油も薫香も、できる範囲で控えていただきたいです」
「分かった」
一切聞き返さない。
それから彼は少し考え、続けた。
「住民が体調を崩していないかも確認させる」
アデルは顔を上げた。
「はい」
「ただ臭いだけならいい。だが、何かが腐っているなら話は別だ」
その声には、もう甘さがなかった。
王太子としての声だった。
アデルの胸の奥にも、薄い緊張が落ちる。
これは香りの問題だけではないのかもしれない。
「手紙は今日中に出す」
「承知いたしました」
「安息香、借りるぞ」
「どうぞ。焚きすぎないでくださいね」
「お前も来い」
「なぜです?」
「量を間違えたくない」
「信用しているのでは?」
「だから、調香師ごと借りる」
結局その日、アデルは香炉と安息香を持って王太子の執務室へ赴き、部屋の窓を全開にした補佐官と共に、残留した香水との戦いへ参加することになった。
*
夕方。
アデルは鏡の前で、妙に落ち着かなかった。
「腕を上げてくださいませ」
「はい」
「もう少し」
「こうでしょうか」
王室衣装係の女性が、アデルの脇から腰へ布を沿わせていく。
淡い銀青色のガウンだった。
まだ仮仕立てのため装飾は最小限だが、細い腰へ沿う身頃から裾へ流れる線は美しく、いつもの仕事着とはまったく違う。
長い銀髪も今日は試着の邪魔にならないよう高めにまとめられていた。普段は髪に隠れる白い首筋が露わになり、鏡の中の自分が少し知らない人のように見える。
「こちらは昼の公式行事を想定しております」
「なるほど」
「刺繍は殿下のお召し物と同じ意匠を一部入れる予定でございます」
隣を見る。
リュシアンも別の職人に採寸されていた。
長身に濃紺の上着を纏ったいつもの姿だが、胸元へ何種類もの布見本を当てられているせいで、普段より少し可笑しい。
黒。
濃紺。
銀。
灰青。
そして、アデルの瞳を思わせる深い緑。
「こちらの緑を殿下の刺繍へ入れ、アデル様には灰青の石を」
衣装係が説明する。
「お互いのお色を?」
「左様でございます」
アデルは鏡越しにリュシアンを見た。
向こうも同じタイミングでこちらを見ていた。
目が合う。
「……いいな」
先に言ったのはリュシアンだった。
「何がです?」
「全部」
「まだ完成していませんよ」
「今の時点でいい」
衣装係たちの前だというのに、隠す気がまるでない。
最近はもう、アデルの方が諦めつつあった。
「殿下、こちらの紫はいかがでしょう」
別の布が出される。
「アデルに合うなら」
「殿下のお召し物でございます」
「俺は何でもいい」
「先ほどまで黒がいいと」
「アデルの隣で変じゃなければいい」
衣装係が一瞬だけ沈黙し、それから極めて職業的な微笑を浮かべた。
「承知いたしました」
慣れている。
王室に仕えているだけある。
アデルは笑いを堪えながら、別の布へ視線を落とした。
「私は深い青が好きです」
「じゃあ青」
「リュシアン様がお召しになるのですよ?」
「アデルが見るだろ」
「それは、見ますけれど」
「なら決まり」
何とも決め方が雑である。
それでも、こうして二人で同じ布を見ている時間は楽しかった。
やがて採寸が一通り終わり、衣装係が最後に数枚の図案をまとめる。
「本日の調整は以上でございます。次回までに、公務用の衣装を優先して進めます」
「頼む」
リュシアンが答えた。
「それから」
灰青色の瞳から、先ほどまでの柔らかさが少し消える。
「次の公務は、王都南東区への視察になる可能性が高い」
衣装係の女性が顔を上げた。
「調査ですか?」
「ああ。詳しい日程は追って伝える。アデルの衣装は、動きやすいものを一着先に仕上げてくれ。飾りは少なくていい。裾も長すぎない方がいい」
「承知いたしました」
「靴も歩きやすいものを」
「手配いたします」
指示を終えると、リュシアンは衣装係たちを見送った。
扉が閉じる。
急に静かになった室内で、アデルは鏡越しに彼を見た。
「随分、気にしていらっしゃいますね」
「何を?」
「南東区のことです」
リュシアンは否定しなかった。
灰青色の瞳が、先ほど選んだ布ではなく、どこか遠くを見るように細められる。
「臭いだけなら笑い話で済む」
「はい」
「でも、半月続いて、範囲が広がってる。住民が毎日香水で隠さなきゃ暮らせない程度なら、普通ではない」
アデルも同じことを考えていた。
「明日、役所から詳しい報告書を上げさせる」
「私も拝見してよろしいですか?」
「もちろん」
その答えがあまりにも自然だった。
アデルは少し笑う。
「何だ?」
「いいえ」
「言え」
「以前でしたら、『危ないから俺が先に確認する』とおっしゃったかと思いまして」
リュシアンは一瞬黙った。
そして、鏡の前に立つアデルへ近づく。
「今も危ない場所には連れて行きたくないよ」
低い声だった。
「でも、お前が必要なら連れていく」
背後に立つ。
鏡の中で、黒髪の青年と銀髪の少女が並んだ。
「その代わり、俺のそばにいろ」
「専属調香師ですので」
「それだけじゃないだろ」
肩へ軽く顎を乗せられる。
鏡越しの灰青色の瞳が、少し笑っていた。
「……そうでした」
「忘れるな」
「忘れてはいません」
「ならいい」
アデルの口元も自然と緩んだ。
不安が消えたわけではない。
けれど、一人で行くのではない。
そう思えば、明日の報告書を読むことさえ少し楽しみに思えた。
*
夜。
私室へ戻ったアデルを待っていたのは、事件でも、公務でも、王太子妃教育でもなかった。
「……これは?」
寝室の長椅子を埋め尽くすほどの布。
正確には。
寝間着。
白。
薄青。
灰紫。
柔らかな緑。
刺繍入り。
レース付き。
薄い布を重ねたもの。
袖の長いもの。
首元の詰まったもの。
逆に、少し開いたもの。
「随分……買いましたね」
さすがのアデルも呆気に取られた。
隣ではメリーが非常に静かな顔をしている。
しかし口元が僅かに笑っているので、完全に面白がっているのは分かった。
そして。
「いいだろ」
一番得意げなのはリュシアンだった。
すでに執務着から着替え、白いシャツに濃い色の室内着という気の抜けた姿で、長椅子の横に立っている。黒髪も少し崩れ、昼間よりずっと若く見える。
「こんなに必要でしょうか」
「必要」
「昼間のお衣装より数が多くありません?」
「気のせいだ」
「明らかに多いです」
アデルは一着持ち上げた。
淡い青の寝間着である。
布地は驚くほど滑らかで、袖口には繊細な銀糸の刺繍まで入っている。
「寝るだけですよ?」
「知ってる」
「でしたら、こんなに」
「毎日着るだろ」
「同じものを洗えばよろしいのでは?」
リュシアンが、信じられないものを見るような顔をした。
「アデル」
「はい」
「お前、王太子妃になっても仕事着三着で回そうとしてないか?」
「さすがに三着では」
「何着?」
「……五着ほど」
「増えてない」
「増えています」
「誤差だ」
メリーがとうとう顔を背けた。
肩が僅かに震えている。
「それだけ買っていただけるのでしたら、寝間着より作業着の方がありがたいのですが」
「作業着も買えばいい」
「それでは無駄遣いです」
「無駄じゃない」
「寝間着が二十着近くあるのは無駄では?」
リュシアンは腕を組み、少し考えるような顔をした。
「汚すかもしれないしな」
「寝間着を?」
「ああ」
「どうやって?」
尋ねてから。
アデルは嫌な予感がした。
灰青色の瞳が細くなる。
口元へ、最近よく見る悪い笑みが浮かんだ。
「色々」
「具体的には結構です」
「まだ何も言ってない」
「その顔で十分です」
「じゃあこれは?」
白い寝間着を持ち上げる。
比較的簡素だが、襟元に細い紐がついている。
「可愛いですね」
「俺もそう思った」
「そうですか」
「脱がせてみたい」
「リュシアン様」
即座に睨んだ。
しかし、頬が赤い。
それを見たリュシアンは、叱られたとは到底思えないほど幸せそうな顔をした。
整った目元が柔らかく下がり、薄い唇が楽しそうに弧を描いている。
心底嬉しそうである。
アデルはしばらくその顔を見て。
諦めた。
幸せそうなので。
止めないでおこう。
「……ほどほどになさってください」
「何を?」
「知りません」
「じゃあ止めなくていい?」
「何をです?」
「色々」
「知りません!」
メリーが静かに一礼した。
「それでは、私は失礼いたします」
「メリー!」
「おやすみなさいませ、アデル様」
「待って」
「殿下も、ほどほどに」
「努力する」
「努力ではなく!」
扉が閉じた。
二人きりになった。
途端に、さっきまで普通に話せていたはずなのに、妙に室内が静かに感じられる。
アデルは気を紛らわせるように、寝間着を一枚ずつ畳み始めた。
「これはどなたがお選びになったのです?」
「俺」
手が止まった。
「全部?」
「最終的には」
「……随分真剣に選んだのですね」
「かなり」
想像してしまった。
冷徹だの女嫌いだのと噂されていた王太子が、王宮の衣装係を呼びつけて女性用の寝間着を何十着も並べ、一枚ずつ真剣に選んでいる姿を。
「ふふ」
「何で笑う」
「いえ。随分変わられたなと思って」
「誰のせいだ」
「私でしょうか」
「他に誰がいる」
背後から腕が回った。
もう、驚かない。
腰へ触れる腕の重さにも、肩越しに近づく体温にも、少しずつ慣れてしまった。
「さて」
耳の近くで低い声がする。
「明日はどれを着てくれる?」
「今夜では?」
「今夜はもう着てるだろ」
アデルは自分の姿を見る。
いつもの白い寝間着。
確かに。
「では、明日は……」
並んだ布へ視線を滑らせる。
「こちらの薄青でしょうか」
「それ?」
「はい」
「じゃあ明後日は?」
「毎日指定されるおつもりです?」
「楽しみが増える」
「子供みたいですね」
「何とでも言え」
頬へ唇が触れた。
「俺は今、かなり幸せなんだ」
あまりに素直に言われ、アデルは言葉を失った。
こういう時の方が困る。
からかわれるより。
強引に抱き寄せられるより。
真正面から幸福だと言われる方が、ずっと心臓に悪い。
アデルは腰へ回っている腕へ、自分の手を重ねた。
「……私もです」
背後が静かになる。
「もう一回」
「嫌です」
「聞こえなかった」
「聞こえていました」
「聞きたい」
「リュシアン様」
「何だ」
鏡越しに目が合った。
昼間は人を寄せつけないほど冷たく見える灰青色の瞳が、今はひどく柔らかい。
アデルは少しだけ笑った。
「私も、今の毎日が好きです」
今度は、リュシアンが黙った。
やがて、肩へ額が落ちてくる。
「……それは反則だろ」
「何がです?」
「俺ばかり浮かれてると思ってた」
「そんなことはありません」
「そうか」
「はい」
腕の力が少し強くなる。
明日は、王都から届く報告書を読む。
その先には、まだ正体の分からない悪臭が待っている。
何が起きているのかも分からない。
それでも今夜だけは。
安息香の柔らかな甘さがまだ僅かに残る部屋で、アデルは背中にある温もりへ身体を預けた。
香りを足すことで、隠せるものがある。
けれど。
本当に消さなければならないものは、その奥にある。
それを知るのは、もう少し先のことだった。




