第十五話 洗い流す香り
今日は、王都南東区への視察の日だった。
三日前、王宮から対象地域へ一時的な香水、香油、薫香の使用中止が通達された。悪臭の原因を調べる以上、別の香りで覆われていては正確な状態が分からない。とはいえ、すでに日常生活に支障が出るほど臭いの強い場所もあるため、希望する住民には王都内の宿を用意し、子どもや高齢者、体調を崩している者から優先的に移ってもらっている。
これでようやく、本来の臭いを調べられる。
朝食を早めに済ませたアデルは、いつもの調香室へ入ると、まず長い銀髪を高い位置でまとめ直した。普段の仕事では低く編み込むことが多いが、今日は王都を歩き回る予定である。風や汚れを避けるため、髪をいくつかに分けてきっちり編み、頭の後ろへ留めた。白い首筋がいつもよりはっきりと出て、鏡の中の自分が少し活動的に見える。
衣装も、先日の仮仕立てで急ぎ用意してもらった調査用のものだった。
色は落ち着いた灰青。柔らかな毛織物で作られた上着は身体に沿いすぎず、腰の位置で細い革帯を締める。裾は普段のガウンより短く、歩いた時に足首へ絡まない。下に重ねたスカートも布量が抑えられ、袖口は作業着と同じく手首で留まる。汚れても交換できる白い襟と袖布までついていた。
未来の王太子妃としての品位を残しながら、宮廷調香師として働ける服。
アデルはかなり気に入っていた。
「筆記具。試料瓶。布片。手袋……」
作業台へ道具を並べ、一つずつ革鞄へ収めていく。最後に、父から宮廷調香師の職を受け継いだ日に譲られた古い鞄の留め具を閉じた。
使い込まれた濃茶の革には細かな傷がある。新品の王室用品より、こちらの方が手に馴染む。
「アデル、準備はできたか?」
聞き慣れた声とともに扉が開いた。
「はい。滞りなく」
振り返ると、リュシアンも今日は普段と少し違う装いだった。
濃紺を基調にしている点はいつもと同じだが、長い上着は儀礼用より丈が短く、銀糸の刺繍も襟と袖口にわずかに入るだけである。脚衣の上には膝まで届く革靴を履き、腰には細身の剣。黒髪も風で乱れにくいよう、いつもよりきっちり後ろへ流されていた。
王太子の正装ほど華美ではない。それだけに長身の輪郭と肩の広さがよく分かり、黙って立つ姿には若者らしさより、これから現場へ赴く統治者としての硬質さがあった。
けれどアデルを見つけた瞬間、その印象が少し変わった。
冷たく見えがちな灰青色の瞳が柔らかく細まり、整った眉の間にあったわずかな緊張がほどける。
「似合っていますね」
アデルが素直に言うと、リュシアンの口元が目に見えて緩んだ。
「アデルもな」
「ありがとうございます。とても動きやすいです」
「そこか」
「大切でしょう?」
「まあ、お前らしい」
呆れたように言いながらも、目は笑っていた。
アデルが鞄を持ち上げようとしたところで、横から長い腕が伸びた。
「あ」
ひょい、と奪われる。
「リュシアン様。持てますよ」
「知ってる」
「では」
「夫だからな」
さらりと言われた。
アデルは新緑色に見えていた瞳をぱちりと瞬かせる。
「まだ正式な婚約宣誓もしておりません」
「細かい」
「大事なところです」
「いずれなるんだから練習だ」
何の練習なのだろう。
そう思いながらも、アデルは鞄を取り返さなかった。
それを確認したリュシアンの口元が、ほんの少し満足そうに持ち上がる。
少し前なら、自分の仕事道具なのだから自分で持つと言っていた気がする。
最近は、任せることにも少しずつ慣れてきた。
*
馬車が王宮を出ると、石畳を刻む車輪の音が一定の間隔で響き始めた。
王都の中心部を抜け、南東区までは少し距離がある。
「王都の端の方だ。着くまでに整理しておくか」
向かいに座ったリュシアンが言う。仕事へ意識が切り替わったのか、灰青色の瞳には先ほどまでの甘さがなく、膝の上の地図を鋭く見下ろしていた。
「はい。その前に、リュシアン様」
「何だ?」
「こちらを」
アデルは膝の上へ置いていた小さな荷物を開いた。
中から出てきたのは、二枚の白い布を重ね、縁を細かく縫い合わせたものだった。中央部分が少し厚くなっており、左右には顔へ結ぶための紐がついている。
リュシアンの片眉が上がる。
「新しいお守り?」
「今日はお守りより強力なものをご用意しました」
「強力」
「悪臭対策です。本日は無理をなさらないでください」
布を指先で押すと、内側で細かなものが動く感触がある。
「中に、よく乾燥させた木炭を細かく砕いたものを入れてあります。炭は臭いを吸着しやすいので、これで鼻と口を覆えば、直接吸い込むよりは楽かと」
「なるほど」
リュシアンは受け取り、珍しそうに裏表を眺めた。
「さすが俺の専属調香師だ」
「試作品ですから、過信はなさらないでくださいね」
「ああ。助かるよ」
そう言って身を乗り出したかと思うと、頬へ柔らかな感触が触れた。
アデルの瞳が大きくなる。
すぐに紫がかった色へ揺れたのは、馬車の薄暗さのせいだけではないだろう。
「……」
「何だ?」
灰青色の目が、何食わぬ顔でこちらを見ている。ただしその奥には、明らかに成功を喜んでいる色があった。
「馬車の中です」
「だから?」
「補佐官様がいらっしゃいます」
隣を見る。
今日も同行している補佐官は、膝の上に書類を抱えたまま、非常に遠い目で窓の外を眺めていた。
「あの……」
弱々しい声が出る。
「調査について、ご説明してもよろしいでしょうか」
「続けろ」
リュシアンは一瞬で王太子の顔へ戻った。
「ありがとうございます……」
補佐官の表情には、安堵と疲労が同時に浮かんでいる。
近頃、この人の苦労が少し分かるようになってきた。
補佐官は咳払いを一つして、王都の地図を広げた。
「悪臭について最初の届け出があったのは十八日前です。南東区第四街路の住民から、夜間になると獣が腐ったような臭いがすると」
「夜?」
アデルが地図を覗き込む。先ほどまで照れて揺れていた瞳はすでに落ち着き、仕事の時特有の鋭さを帯びていた。
「はい。その後、第五街路、川沿い、それから南門付近からも同様の届け出が出ております。ただし、臭いの表現は一定しておりません。腐った肉、濡れた革、古い水、獣脂など」
「発生時間は?」
「当初は夕方から夜が中心でした。最近は昼間にも感じるとのことです」
「工房の操業時間と重なっている可能性がありますね」
「こちらでもその線は調べました。ただ、南東区に届け出のある工房の一覧では、強い臭気を発する業種は確認できませんでした」
リュシアンが地図へ目を落とす。
形のいい眉がわずかに寄り、灰青色の瞳が一点へ集まる。
「つまり、届け出どおりなら何もない」
「はい」
「届け出どおりなら、か」
低い声だった。
アデルも同じ場所を見つめた。
王都には産業ごとの決まりがある。
火を大量に使う仕事。
大きな音を出す仕事。
強い臭いや大量の排水が生じる仕事。
人と建物が密集する王都の機能を守るため、それぞれ操業できる場所が定められていた。
革のなめしも、その一つだ。
皮を洗い、毛や脂を落とし、時間をかけて革へ変えていく。大量の水を使い、どうしても強い臭いが出る。
そのため原皮を扱う工程は王都の外。
仕上がった革を運び込み、市内で裁断や縫製をして製品として売るのが基本だった。
「では、まず正規の工房と排水からですね」
アデルが言う。
「ああ。何もなければ」
リュシアンが、彼女のために作った炭入りの布を手の中で弄びながら続ける。
「何か隠れてる」
*
馬車を降りた瞬間、アデルは思わず息を止めた。
「……確かに」
ひどい。
ただし、想像していたものとは少し違った。
鼻を刺すような単一の臭いではない。
湿った獣皮。
古い脂。
濁った水。
土。
何かがゆっくり傷んでいく時に出る、鈍い生臭さ。
それらが薄く混ざり合い、街全体へまとわりついている。
リュシアンは馬車から降りるなり、アデルが作った布で鼻元を覆った。露出している灰青色の瞳が細くなり、眉間に深い皺が刻まれる。
「……これ、持ってきて正解だった」
「無理でしたら馬車へ」
アデルが横顔を覗き込むと、彼はすぐに視線を返した。
辛そうではある。
けれど、その瞳に退く色はない。
「帰らない」
「まだ何も見ていませんよ」
「だから帰らないんだろ」
声は布越しでも明瞭だった。
アデルも自分用に作った口覆いをつけ、周囲を見る。
不思議なのは、街が汚れていないことだった。
南東区は王都中心部ほど華やかではないが、石造りの家々はきちんと手入れされている。道路脇にごみが積まれている様子もなく、排水溝にも目立った詰まりはない。
店先も整っている。
先日の通達どおり、香炉も焚かれていない。
「思っていたより綺麗ですね」
「ああ」
リュシアンも目を細めて街路を見渡した。
「住民が規則を守ってないようには見えない」
川まで歩く。
冬の水は冷たく澄み、一見したところ異常な濁りも油膜もない。
アデルは川岸へ屈み、硝子瓶で少量の水を取った。
直接鼻を近づけず、手で空気を仰ぐ。
瞳を閉じる。
ほんの少しの間、視覚を切り捨て、臭いだけを拾う。
「強くありません」
「川じゃない?」
「少なくとも、ここが主な発生源には思えません」
次に排水路。
市場裏。
食料庫。
共同のごみ集積所。
一つずつ確認した。
どこも多少の生活臭はある。
だが、街全体に漂うあの臭いの説明にはならない。
歩き続けるうち、アデルはふと足を止めた。細い眉が寄り、新緑色の瞳が来た道と進行方向を交互に見る。
「リュシアン様」
「ん?」
「こちらへ」
一つ前の角へ戻る。
数歩。
止まる。
「ここでは?」
リュシアンが布を少しずらし、短く息を吸った。
直後、目元が厳しくなる。
「強い」
「ですよね」
「向こうは?」
二人で道を渡る。
もう一度確かめたリュシアンの表情が変わる。
「……弱い」
「風向きだけではありませんね」
「ああ」
アデルは周囲を見た。
住宅。
雑貨屋。
仕立屋。
靴屋。
革製品店。
特別なものはない。
その時だった。
「いらっしゃいませ! 三日仕上げも承りますよ!」
明るい声が飛んだ。
見ると、通りの一角に小さな革製品店がある。
店先には鞄、手袋、帯、靴。
どれも仕立ては悪くない。
むしろかなり丁寧だ。
入口には大きな看板が掲げられていた。
『早さなら王都一。修理も仕立てもお待たせしません』
「三日?」
アデルが小さく呟いた。
「何が?」
「革製品です」
「早いのか?」
「かなり」
通常、完成した革を王都外の工房から仕入れるだけでも日数がかかる。注文を受け、必要な革を確認し、足りなければ外へ発注し、それから裁断、縫製。
三日で返せる仕事は限られる。
「入ってみるか」
「はい」
店内へ入る。
革の匂いがする。
それ自体は当然だった。
だが、アデルの足が止まった。
瞳の色が鋭くなる。
「……」
「分かった?」
リュシアンが小声で尋ねる。
「はい」
完成した革の匂いだけではない。
もっと生々しい。
湿った皮。
脂。
そして、僅かにアルカリを思わせる刺激。
「奥です」
アデルが視線だけで示す。
店主の顔色が変わった。
「お客様、そちらは作業場でして」
「見せてもらう」
リュシアンが口覆いを外した。
先ほどまで不快感に細められていた灰青色の瞳から、一瞬で感情が消える。
それだけで空気が変わった。
店主が、濃紺の上着の胸元に留められた王家のスピネルへ目を留めた。
目を見開く。
顔から血の気が引いた。
「で、殿下……?」
「リュシアン・スピネリアだ」
「な、なぜ、このようなところへ」
「それを確かめに来た」
奥の扉を開ける。
その瞬間。
アデルは反射的に鼻元を覆った。
「……これは」
先ほどまでとは比較にならない。
狭い中庭を挟み、その向こうに増築された小屋がある。
中には大きな桶。
水。
獣皮。
削り落とされた脂。
乾燥途中の皮。
床には排水用に掘られた溝があり、それが建物の裏へ続いていた。
間違いない。
ここでは原皮を扱っている。
「革工房……」
アデルの声が落ちた。
しかも、王都の中で。
リュシアンの顔から完全に笑みが消えた。
灰青色の瞳は冷え切った冬空のようで、店主を真っ直ぐ射抜いている。
「許可証は?」
「……」
「聞こえなかったか」
「ございません」
男が俯く。
「王都内で原皮を扱うことが禁止されているのは知っているな?」
「はい」
「ではなぜやった」
怒鳴ってはいない。
むしろ静かだった。
その静けさの方が怖い。
店主はしばらく口を閉ざしていたが、やがて絞り出すように言った。
「……早いからです」
リュシアンの眉が動く。
「何?」
「うちは、早いことだけが売りでした」
店主は四十代ほどだろうか。日に焼けた顔に深い皺があり、太い指には革仕事でついた細かな傷が残っている。
「腕のいい店なら他にもあります。うちより大きな店も、貴族御用達もある。私は王都の端で、小さな店を持つのが精一杯だった」
外の工房へ革を頼めば、荷をまとめる日を待たなければならない。
届いた革が足りなければ、また次便。
急な修理も、特別な注文も、材料がなければ受けられない。
「なら、自分でやればいいと思ったんです」
「王都の外でやればいいだろ」
「外に工房をもう一つ持つ金がありません」
リュシアンが黙る。
鋭かった目元から怒りが消えたわけではない。
ただ、話を切り捨てずに聞く色へ変わった。
「店と工房を一つにすれば、人も雇える。運搬もいらない。客を待たせない。最初は、本当に少しだけだったんです」
店主の視線が、小屋の中に積まれた皮へ向く。
「修理用の革を少し。急ぎの客の分だけ。それが評判になって」
「注文が増えた」
「……はい」
アデルは店先にあった看板を思い出した。
早さなら王都一。
その言葉どおりだったのだ。
ただし、王都の外で行うべき工程まで、ここでやることで。
「排水はどこへ?」
アデルが尋ねた。
店主が言葉を失う。
「裏の溝ですね?」
「……はい」
建物の裏へ回る。
細い溝は、表通りの排水路へ直接つながってはいなかった。
土へ染み込ませるよう作られている。
だから川は濁らない。
だから公の排水路を調べても分からない。
しかし処理しきれなかった水や脂は土へ溜まり、少しずつ周囲へ染み出す。
気温や風向きによって、臭いだけが地上へ上がっていたのだ。
「ここですね」
アデルの表情が険しくなる。
「原因は」
*
違法操業そのものを止めるのは簡単だった。
その日のうちに原皮を扱う工程を停止させ、残っている皮と廃液を王都外の正規処理場へ運ぶ。汚染された土は掘り返し、必要な範囲を入れ替える。周辺についても役人と職人を増員し、数日かけて清掃することになった。
だが。
「店まで閉めるのですか?」
集まってきた住民の一人が、不安そうに尋ねた。
「違反したんでしょう?」
別の者が言う。
「でも、ここがなくなると困るよ」
「うちの主人の仕事靴、いつもここで直してもらってるんです」
「ほかの店だと一週間って言われる」
「ここなら二日だ」
声が次々と上がる。
店主は何も言わず、俯いていた。
リュシアンも黙って聞いている。
アデルは、人々の顔を見た。
違反を擁護したいわけではない。
臭いに苦しんだのも、この住民たち自身だ。
それでも必要とされている。
新緑色の瞳が、店主から住民へ、住民から看板へと動く。やがて何かに気づいたように、わずかに見開かれた。
「……需要があるから、ここにあるのですね」
小さく呟くと、隣のリュシアンがこちらを見た。
「ああ」
灰青色の瞳に怒りはもうない。
代わりに、何かを計算するような静かな光がある。
「規則を破ったことは見逃せない」
「はい」
「でも、こいつ一人を罰して終わりにしても」
リュシアンが王都の外へ続く道を見た。
「また誰かやるだろうな」
アデルも頷いた。
王都を清潔に保つため、革の一次加工を外へ出す。
規則そのものは正しい。
ただ、それによって生まれる不便を、誰も十分に考えていなかった。
大きな商会なら、王都外の工房も王都内の店舗も持てる。
毎日荷馬車を走らせることもできる。
しかし、小さな店には難しい。
「守りたくても、守るためのお金が必要なのですね」
「それだけじゃない」
リュシアンが言う。
「時間も、人も、運ぶ仕組みもだ」
「では」
「ああ。見直す」
返事は早かった。
「王都外に、小規模な革職人が共同で使える加工区を作れないか調べる。排水設備はまとめた方が管理しやすい。王都との間に定期の運搬便を走らせれば、店ごとに馬車を持つ必要もなくなる」
補佐官がすぐに手帳を開く。
「加工区の候補地、既存の革職人組合、運搬商会を確認いたします」
「あと、許可の区分が曖昧だ。王都内でできる『仕上げ』と、外でやるべき『加工』をきちんと決めろ。今回みたいに、少量だから工房じゃないと言い張れる余地を残すな」
「承知いたしました」
「ただし、最初から罰金だけ増やすなよ」
補佐官の筆が止まる。
「よろしいのですか?」
「守れと言うなら、守れるようにするのも国の仕事だろ」
アデルは横顔を見た。
強い冬の日差しが黒髪の輪郭へ当たり、端正な顔立ちをくっきりと浮かび上がらせている。
初めて会った頃。
この人は、冷たい人なのだと思っていた。
実際は違った。
簡単に情へ流される人ではない。
違反は違反として処理する。
けれど、その向こうにいる人間を見落とさない。
考え込む時の灰青色の瞳は冷静で、決断した後には迷いがない。
その目を、最近のアデルはとても綺麗だと思う。
「どうした?」
見すぎていたらしい。
「いえ」
「何だよ」
「少し、格好いいなと思いまして」
「……」
リュシアンの目が僅かに見開かれた。
珍しく言葉に詰まり、すぐに視線を逸らす。
耳が少し赤い。
「アデル」
「はい」
「今それ言う?」
「今思いましたので」
「……帰ったらもう一回言って」
「なぜです?」
「今は仕事中だから反応できない」
その返しに、今度はアデルの瞳が楽しそうに細くなった。
*
帰りの馬車には、行きより一人少なかった。
正確には、補佐官が御者の隣へ移動した。
「外の空気を吸いたいので」
そう言い残して。
行きの馬車で王太子が宮廷調香師の頬へ口付けるところを間近で見せられた人間として、賢明な判断だったのかもしれない。
「……避けられましたね」
「あいつも気を遣えるようになったな」
「原因はリュシアン様だと思います」
「俺?」
「他に誰が」
聞いたような会話だった。
馬車が揺れる。朝にはきっちり整っていたアデルの銀髪も、今では何本かが留め具から外れ、頬へ細く落ちていた。灰青の上着にも、どことなく革と土の臭いが移っている気がする。
向かいのリュシアンも同じだった。濃紺の衣装そのものは目立って汚れていないのに、近づけば皮革と獣脂の残り香が分かる。
「……あんなところに長くいたからか」
リュシアンが自分の袖を嗅ぎ、眉を寄せた。灰青色の瞳にも疲れが見える。
「身体まで臭う気がする」
「そうですね。私もです」
「アデルも?」
「髪にかなり移っています」
高くまとめた銀髪の毛先を取り、鼻元へ寄せる。
「王宮へ戻りましたら、今日は香水を使わずに湯浴みをしましょう」
「香水はなし?」
「今、別の香りを重ねてどうするのです」
アデルは真顔だった。
「まず、身体と髪についた臭いそのものを落とします。香りの弱い石鹸で洗ったあと、薄く酢を加えた湯ですすいでください。最後に橙花水をほんの少し髪へ馴染ませます」
「なるほど」
一拍。
「一緒に風呂に入ろうか」
アデルの瞳が大きくなった。
「……一人で入ります!」
「でも使い方が分からない」
「今説明しました」
「実演が一番分かりやすい」
「湯浴みに実演は必要ありません」
「髪に臭いが残ったら?」
「侍従に確認していただいてください」
「アデルがいい」
「なぜです?」
「専属調香師だから」
「そういう時だけ職務を持ち出さないでください」
楽しそうである。
完全に楽しんでいる。
そう思って睨みつけると、リュシアンは悪戯が成功した少年のように口元を上げていた。
けれど。
よく見ると、耳だけが少し赤い。
アデルの表情が変わった。
「……リュシアン様」
「何」
「もしかして、ご自分も恥ずかしいのですか?」
灰青色の瞳が僅かに泳いだ。
「恥ずかしくないとは言ってない」
思った以上に素直な答えだった。
「では、なぜ」
「近づきたい方が勝ってる」
今度は逸らさない。
灰青色の瞳が、真っ直ぐアデルを見つめる。
冗談を言っている時の目ではなかった。
アデルは黙った。
恥ずかしい。
どうすればいいかも分からない。
それでも、少しだけ興味もある。
この人のことを、今より知りたい。
「……考えておきます」
「それ、ほぼ了承だな」
「違います」
「楽しみにしてる」
「まだ決めていません」
そう言ったのに、王宮へ着く頃には、自分でも断る理由がよく分からなくなっていた。
*
王宮へ戻ると、アデルはまず調香室へ寄った。
外套を脱ぎ、髪をほどく。留め具を一つ外すたび、長い銀髪が肩から背中へ落ちていき、最後には腰近くまでさらりと広がった。
毛先を取って嗅ぐ。
「……やっぱり残ってる」
革と獣脂、それから土。
不快というほどではないが、このまま眠る気にはなれない。
アデルは小瓶と計量匙を取り出し、酢を水で薄めたすすぎ液を作った。もう一つの瓶には橙花水。こちらは湯浴みの後にごく少量だけ使う。
自分の分を用意し終えたところで、扉が開いた。
「アデル」
「リュシアン様」
「準備できた?」
「……何のです?」
「湯浴み」
忘れていなかったらしい。
「私は自室で済ませます」
「その量の湯、運ばせるの?」
言われ、アデルは止まった。
今日は悪臭を落とすため、髪まで丁寧に洗いたい。
「俺の浴室なら、もう湯を張らせてある」
「……いつの間に」
「帰ってすぐ」
「用意がよすぎません?」
「王太子だからな」
「便利な言葉ですね」
「それに、酢の量を間違えるのも嫌だ」
「こちらをお渡ししますから」
「橙花水は?」
「こちらです」
「髪への使い方は?」
「手に少量取って――」
「アデル」
リュシアンの声が少し変わった。
先ほどまでの軽さが薄れる。
「一緒に来て」
アデルが顔を上げる。
灰青色の瞳は期待している。
けれど、押しつける色はない。
「裸になれとは言わない」
「当然です」
「この間買った寝間着があるだろ。あれを着たままでいい。俺も服を着る」
「寝間着を着て湯浴みする人なんて聞いたことがありません」
「今日からいる」
「……」
アデルは手元の小瓶を見る。
それから、リュシアンを見る。
「……着衣ですよ」
灰青色の瞳が明るくなる。
「ああ」
「私も、リュシアン様も」
「分かった」
「変なことはなさらないでください」
「変なことの定義は?」
「今それを確認する時点で不安です」
リュシアンが笑った。
「大丈夫。今日は湯浴み」
言い切る声が妙に楽しそうで、逆に信用していいものか分からない。
それでもアデルはもう断らなかった。
「……分かりました」
「本当に?」
今度はリュシアンの方が目を見開いた。
「ご自分から誘ったのでしょう」
「いや、そうだけど」
「では参りましょう。臭いが染みついてしまいます」
アデルは調合したすすぎ液と橙花水を持ち上げた。
先に歩き出す。
数歩進んでから振り返ると、リュシアンはまだその場にいた。
「リュシアン様?」
「……ちょっと待って」
「何でしょう」
「思ってたより緊張してきた」
アデルは目を瞬いた。
灰青色の瞳が珍しく落ち着かず、視線が少し下へ逃げている。
それを見た途端、緊張より先に笑いが込み上げた。
「近づきたい方が勝ったのでは?」
「勝ったよ。だから行く」
そう言って追いついてきた顔は、少し赤かった。
それを見たら。
アデルの緊張も、ほんの少しだけ軽くなった。
*
王太子居住区の浴室へ入った瞬間、アデルは改めて自分が何を了承したのかを実感した。
広い石造りの部屋の中央には、数人が入れるほど大きな浴槽がある。磨かれた淡灰色の石から白い湯気が立ち、壁際には温めた湯の壺と、石鹸、布、すすぎ用の水が並べられていた。
普段なら侍従や侍女が手伝う場所だが、今日は全員外へ出している。
二人きりだった。
「……なぜこうなったのでしょう」
「アデルが了承したからだろ」
「最終的にはそうですけれど」
アデルは、先日リュシアンが大量に買った寝間着の中でも、最も布地の厚いものを選んでいた。白に近い淡青色で、首元まできちんと覆い、袖も手首まである。
リュシアンも簡素な白いシャツと脚衣を身につけている。
これなら大丈夫。
そう思っていた。
湯へ入るまでは。
二人は浴槽の両端から入った。
最初は、妙に広かった。
アデルは右端。
リュシアンは左端。
間には大人一人どころか二人くらい座れそうな距離が空いている。
白い湯気の向こうで、互いに何となく相手を見る。
目が合う。
同時に逸らす。
「……」
「……」
「広いですね」
「そうだな」
「二人で入る意味があまりありませんね」
「それ今言う?」
リュシアンが苦笑した。
湯に濡れた黒髪が額へ落ち、いつも鋭く見える灰青色の瞳も、今は困ったように柔らかくなっている。
アデルは少しだけ安心した。
彼も同じくらい緊張している。
それだけで、妙に気が楽だった。
「石鹸を」
「ああ」
まずは本来の目的を果たす。
香りの弱い石鹸で腕や首筋を洗い、髪にも湯を馴染ませていく。
けれど、湯を含んだ寝間着は思っていた以上に重かった。
柔らかな布が腕や肩へ密着し、湯の中で身体を動かすたび、遅れて肌を撫でる。
アデルは袖を見下ろした。
「濡れると随分重くなるのですね」
「今気づいた?」
「寝間着を着て湯浴みした経験がありませんので」
「俺もないよ」
リュシアンが笑う。
「誰の発案ですか」
「俺」
「では反省してください」
「嫌だ。これはこれでいい」
「何がです?」
「まだ分からない」
妙な答えだった。
アデルが首を傾げる。
その拍子に、リュシアンの視線が止まった。
薄い湯気の向こう。
濡れた淡青の布が肩から腕へ沿い、乾いていた時よりも身体の輪郭を拾っている。
灰青色の瞳が一瞬だけ大きくなり、すぐ横へ逸れた。
「……見ないでください」
「見てない」
「見ました」
「事故だ」
「目はご自分の意思で動かすものです」
「アデルだって見てるだろ」
「何をです?」
「俺を」
指摘され、アデルは黙った。
実際、見ていた。
濡れた白いシャツ越しに分かる肩。
腕。
鎖骨。
普段は衣装の下に隠れている身体の構造。
新緑色の瞳が、無意識にそこを追ってしまう。
「……観察です」
「その研究者の顔で言うのやめない?」
「なぜです?」
「こっちは研究材料になった覚えがない」
「申し訳ありません」
謝ったものの、視線はまだ戻りきらない。
「男性の身体って、こうなっているのですね」
「アデル」
「本では見ていますけれど、実際には違いますね。肩の骨の位置も、筋肉のつき方も」
「待て」
「はい」
「どこまで見るつもりだ」
アデルは真剣に考えた。
「許される範囲で」
「それが分からないから聞いてる」
リュシアンは片手で額を覆った。
その仕草すら面白い。
けれど耳は赤い。
「リュシアン様も恥ずかしいのですね」
「当たり前だろ」
顔を上げた灰青色の瞳には、照れと呆れが半分ずつ混ざっていた。
「もっと平気なのかと思っていました」
「好きな女と初めて一緒に風呂入って、平気な男がいるなら連れてこい」
「連れてきません」
「そこは即答なんだな」
「嫌です」
自分で言ってから気づく。
他の男を、この場所へ。
想像するだけで嫌だった。
リュシアンにも伝わったらしい。
さっきまで困っていた灰青色の瞳が、ゆっくり細くなる。
「そう」
「何です?」
「嬉しい」
素直に言われる。
アデルは誤魔化すように石鹸を取った。
「髪を洗いましょう」
「ああ」
「こちらへ……と申し上げても遠いですね」
浴槽の両端に座ったままでは届かない。
「じゃあ近づく?」
リュシアンの目が少しだけ輝いた。
「洗える程度には」
「了解」
彼が一人分、こちらへ寄った。
まだ距離はある。
アデルも少しだけ近づく。
それでも腕を伸ばせば黒髪に触れられる程度になった。
「屈んでください」
「はい」
素直に頭を下げる。
黒髪へ湯をかけ、指を入れる。
思っていたより柔らかい。
「髪質は柔らかいのですね」
「また観察してる」
「触る機会がありませんでしたので」
「これからはいくらでも触ればいい」
少量の石鹸を泡立て、頭皮へ指を滑らせる。
リュシアンの肩が僅かに動いた。
「痛いですか?」
「いや」
「力は?」
「ちょうどいい」
「湯は?」
「平気」
アデルの指が止まる。
「リュシアン様」
「ん?」
「感覚過敏は、嗅覚だけではないのですよね」
「ああ」
「湯の温度も?」
「熱すぎるのは苦手だな」
「音は?」
「大きい音は疲れる。一定ならまだ平気」
「水が落ちる音は?」
「今は平気」
「衣服は?」
「硬い刺繍が直接当たるのは嫌い」
「肌に触れるものは、柔らかい方がお好き?」
「ああ」
「人に触られるのは?」
リュシアンが顔を上げた。
二人の目が合う。
「人による」
「私の場合は?」
「好き」
即答だった。
アデルの瞳が丸くなる。
「……そうですか」
「聞いたのはアデルだろ」
「研究です」
「便利だな、その言葉」
口元は笑っている。
アデルは少し迷ってから、再び髪へ指を入れた。
「どう感じるのです?」
「何が?」
「触られている感覚です。普通の人より強いのでしょうか」
リュシアンは少し考えた。
ふざけずに考える時、彼は視線を僅かに下げる。
「多分。布もそうだけど、触れた場所がずっと分かる」
「ずっと?」
「しばらく残る。急に触られると驚くし、強い刺激は疲れる」
「では私が今、頭へ触っているのも?」
「かなり分かる」
「不快では?」
「逆」
「逆?」
「心地いい」
アデルの眉がわずかに上がる。
その反応を見て、リュシアンの目元が柔らかくなった。
「アデルは触り方が一定だから。急に強くならないし、次にどこへ指が来るか分かる」
「なるほど」
「また研究者の顔」
「興味深いので」
「そんなに知りたい?」
問いかけられ、アデルは答えようとして止まった。
以前なら。
宮廷調香師として必要だから。
そう答えただろう。
専属として、彼の苦手なものを知る必要がある。
過敏さを理解した方が香水も生活環境も整えやすい。
どれも本当だ。
でも。
今は、それだけではない。
「……はい」
アデルは頷いた。
「知りたいです」
「仕事で?」
「それもあります」
「それ以外は?」
灰青色の瞳が真っ直ぐこちらを見ている。
アデルはその視線を受けたまま、少しだけ頬を赤くした。
「リュシアン様のことなら、何でも」
今度はリュシアンが黙った。
目が僅かに見開かれる。
次第にその表情がほどけていく。
眉尻が下がり、灰青色の瞳に熱が宿り、最後には口元まで隠しようもなく綻んだ。
「それ」
「はい?」
「今日一番効いた」
「何がです?」
「色々」
リュシアンがもう一度、こちらへ近づいた。
今度は一人分どころではない。
肩が触れそうな距離。
「近いです」
「近づきたい」
「先ほどからそればかりですね」
「ああ」
アデルは下がらなかった。
それを見たリュシアンの灰青色の瞳が、満足そうに細くなる。
さらに少し身体を寄せる。
肩が触れた。
濡れた布と濡れた布が重なる。
その瞬間。
リュシアンの表情が変わった。
灰青色の瞳がゆっくりと細まり、息が僅かに深くなる。
「……どうしました?」
「これ」
「何がです?」
「思ったより、いい」
リュシアンは肩の触れているところへ意識を向けているようだった。
「布越しなのに、体温が分かる」
アデルも意識してみる。
確かに。
湯の温度とは違う。
濡れた布を一枚挟み、その向こうにある人の熱がじんわり伝わってくる。
「湯と区別がつくのですか?」
「ああ。全然違う」
「どのように?」
「湯は全部同じところから包まれる。でも、人の体温は場所がある」
「場所」
「ここは肩。ここは腕」
リュシアンの腕が、そっとアデルの腕へ沿う。
強くは触れない。
「濡れた布が間にあるから、直接触るより刺激が柔らかい。でも温度は分かる」
灰青色の瞳が、少し驚いたように自分たちの腕を見ている。
「……これ、かなり好きかもしれない」
「研究対象が増えましたね」
「俺の話なんだけど」
アデルは笑った。
その笑みを見たリュシアンの表情が、さらに柔らかくなる。
「アデル」
「はい?」
「もう少し」
「何が」
「近く」
「もう十分近いですが」
「足りない」
その言葉とともに、リュシアンが身体を動かした。
アデルの隣ではなく、少し背後へ。
「リュシアン様?」
次の瞬間、長い腕が左右から回った。
「わ」
腰を抱え込まれ、そのまま胸元へ引き寄せられる。
アデルの背中が、リュシアンの胸へ触れた。
ぴたりと。
水の中で身体同士の隙間がほとんどなくなる。
「……っ」
アデルの瞳が大きく見開かれた。
頬が一気に赤くなる。
「近いです!」
「近くした」
「そういう意味では」
低い声が、耳のすぐ後ろから届く。
アデルは反射的に身体を硬くした。
けれど、腕を押し返さない。
腰へ回された手を外そうともしない。
その反応を、リュシアンはもう読み違えなかった。
「このままな」
耳元でそう囁き、顎をアデルの肩近くへ落とす。
腕の中で、アデルはしばらく動けなかった。
抱きしめられること自体は、もう初めてではない。
けれど、湯の中では感覚が違う。
濡れた布は身体へ沿い、普段の衣服ほど互いの輪郭を隠してくれない。
背中にある胸。
腰へ回る腕。
呼吸をするたび、後ろの身体も僅かに動く。
「……リュシアン様?」
「ん」
返事がいつもより低い。
「大丈夫ですか?」
「ああ」
むしろ、と続いた。
「すごく楽」
「楽?」
「うん」
リュシアンは少しだけ腕を強くした。
「温かいのに、刺激が強くない」
濡れた布越し。
湯に支えられた身体同士が触れているため、普段抱き締める時ほど重さがかからない。
それでも体温と存在だけは、はっきり分かる。
「触れてる場所が全部分かる」
リュシアンが静かに言う。
「背中も。腕も。アデルが息を吸った時に動くのも」
その声には、いつものからかう響きがなかった。
ただ、その感覚を確かめている。
「うるさくない?」
アデルが尋ねる。
「何が?」
「感覚が多すぎませんか。湯の温度、水の音、布の感触、それから……私も」
「アデルは平気」
「どうして?」
少し間があった。
リュシアンは答える前に、腕の中のアデルへさらに頬を寄せた。
「予測できるからかもしれない」
「予測?」
「急に強く触らない。大きな音を出さない。香水もつけてない。体温も一定で、呼吸もゆっくりしてる」
アデルは黙って聞く。
「何より」
灰青色の瞳が、横からアデルの表情を覗くように細められた。
「アデルだから安心する」
胸の奥を直接撫でられたような気がした。
「それは、感覚過敏と関係があるのでしょうか」
「そこを研究に戻す?」
「だって気になります」
「たぶん関係ない」
リュシアンが笑った。
「ただ好きなだけ」
アデルの頬がまた熱くなる。
「……そういうことを、さらっと言わないでください」
「もう隠す理由ないだろ」
「私には心の準備があります」
「じゃあ準備できるまで抱いてる」
「それでは準備ができません」
「困ったな」
まったく困っていない声だった。
アデルは腕の中で少し姿勢を変えた。
その時、腰へ回った腕と自分の身体の間にわずかな水流が生まれる。
リュシアンの息が止まった。
「どうしました?」
「いや」
「何か痛かったですか?」
「違う」
「では?」
「……動くと、全部分かる」
今度はリュシアンの耳が赤かった。
アデルは目を瞬く。
そして。
ああ。
この人は本当に、人よりずっと細かく身体感覚を拾うのだ。
そこに妙な好奇心が湧いた。
「どの程度です?」
「アデル」
「はい」
「今その研究はやめよう」
「なぜです?」
「俺が困る」
珍しく即答だった。
アデルは少し考え、素直に頷く。
「分かりました」
「……素直」
「困ることはしません」
その言葉を聞いたリュシアンの目が柔らかくなる。
しばらく何も言わず、アデルを抱えていた。
水の音だけがする。
何も起きない。
ただ近い。
それが、不思議なくらい心地よかった。
アデルも少しずつ身体の力を抜いた。
背中を預ける。
するとリュシアンが小さく息を吐いた。
「今の、いい」
「何がです?」
「力を抜いた」
「分かるのですか?」
「分かる」
「そんなことまで」
「だから好きなんだって」
「感覚過敏が?」
「違う。今のアデルが」
話が噛み合わない。
でも。
悪くない。
アデルの口元が自然に緩んだ。
「この間まで、首元へ顔を近づけられるだけでも大変だったのに」
「そうだな」
「随分近くなりましたね」
「ああ」
「……本当に」
アデルは自分でも少し驚いていた。
恥ずかしい。
でも、嬉しい。
自分からこの距離を許していることも。
彼の腕の中が思ったより落ち着くことも。
全部、少しずつ知っていけばいいのかもしれない。
「リュシアン様」
「ん?」
「もっと、教えてください」
「何を?」
「あなたが何を心地いいと思うのか。何が辛いのか。どんな音が苦手で、どんな触れ方なら平気なのか」
言いながら、アデル自身も気づいていた。
これはもう、専属調香師としてだけの興味ではない。
「全部知りたいです」
リュシアンの腕が止まった。
横から覗く灰青色の瞳が、一瞬だけ揺れる。
「アデル」
「はい」
「それ、結構すごいこと言ってるよ」
「そうでしょうか」
「俺には」
少し間を置く。
「かなり嬉しい」
額へ口付けが落ちた。
アデルはもう逃げなかった。
むしろ、少しだけ背中を預け直した。
「……石鹸、流していませんでしたね」
「今それ?」
「重要です」
リュシアンが声を上げて笑う。
「はいはい、先生」
アデルも笑った。
着衣とはいえ。
一緒に湯浴みをした。
しかも、途中からほとんど抱え込まれていた。
少し前の自分から考えれば、とんでもない進歩である。
(もう、怖いものはないのでは?)
そう思った。
もちろん。
恥ずかしくないとは、一言も言っていないけれど。
*
湯浴みを終える頃には、二人ともかなり疲れていた。
原因の半分は今日一日の視察。
もう半分は、湯浴みそのものだった気がする。
アデルは新しい寝間着へ着替えた。
今度は淡い灰紫色で、乾いた布がこれほど安心できるものなのだと初めて知った。
濡れた銀髪は背中へ流したまま。
向かいではリュシアンも白い室内着へ着替え、椅子へ座っている。
黒髪はまだ湿っていた。
先ほどまでの湯気と緊張が嘘のように、灰青色の瞳は穏やかだった。
「こちらへ」
アデルが小瓶を持つ。
「橙花水?」
「はい。ただし、本当に少量です」
手のひらへ数滴落とし、両手へ広げる。
爽やかで、少し青みを含んだ白い花の香り。
強くはない。
リュシアンの後ろへ回り、濡れた黒髪へ指を通すように馴染ませていく。
「どうです?」
リュシアンが目を閉じ、静かに息を吸う。
「平気」
「頭痛は?」
「ない」
「刺激は?」
「ない」
「では、もう少し」
「アデル」
「はい」
振り返ったリュシアンの瞳が、少し呆れたように細くなる。
「楽しそうだな」
言われて、手が止まる。
「そう見えます?」
「ああ。完全に研究してる顔」
否定できなかった。
こうして彼の反応を見るのは、楽しい。
何が平気で。
何が苦手で。
どの程度なら心地よいのか。
一つ知るたび、まだ知らない部分が見えてくる。
「研究者みたいですね」
「調香師ですので」
「俺は香料じゃない」
「分かっています」
一拍置いて。
「香料より興味があります」
リュシアンの目が大きくなった。
「……アデル」
「はい?」
「最近、強くなったな」
「何がでしょう」
「色々」
またその言葉だった。
リュシアンが立ち上がり、今度は小瓶をアデルから取った。
「次は俺」
「できます?」
「見てた」
「量はごく少量ですよ」
「先生、細かい」
「大切です」
リュシアンが笑いながら、アデルの銀髪へ橙花水を馴染ませる。
大きな手が髪をすくう。
指先は意外なほど丁寧だった。
「……戻った」
「何がです?」
リュシアンが銀髪へ顔を近づける。
ゆっくり息を吸う。
灰青色の瞳が満足そうに細まった。
「アデルの匂い」
胸の奥が、ふっと温かくなる。
「革の臭いは?」
「もうほとんどしない」
「よかった」
「橙花もいいけど」
髪を持ったまま、リュシアンが少し笑う。
「やっぱり、そのままが好きだな」
「宮廷調香師としては複雑です」
「前にも言ってた」
「今も同じ気持ちです」
それでも嫌ではない。
自分の作った香りではなく。
自分自身を好まれている。
その意味を、今のアデルはもう知っている。
「また近くなったな」
リュシアンがぽつりと言った。
「何がでしょう」
「俺たち」
「……お風呂に入ったから?」
「それも」
灰青色の瞳が、思い出したように甘く細くなる。
随分嬉しそうだった。
アデルは少し考える。
着衣だった。
本当に、しっかり着衣だった。
それでも。
一緒に湯浴みをして。
触れて。
抱かれて。
今まで知らなかったことまで話した。
以前の自分から考えれば、とんでもない進歩である。
(もう、怖いものはないわ)
そう思った直後、リュシアンが腰へ腕を回した。
「じゃあ次は」
「ありません」
「まだ何も言ってない」
「その目で分かります」
「どんな目?」
「良からぬことを考えている目です」
「随分俺のこと分かるようになったな」
灰青色の瞳が楽しそうに細くなる。
その顔を見ていると。
まあ、少しくらいなら。
そんなふうに思ってしまう自分もいて、アデルは自分の変化に困るような、嬉しいような気持ちになった。
扉が控えめに叩かれた。
「殿下。アデル様」
メリーの声だった。
「明日以降の予定表をお持ちいたしました」
「入っていいぞ」
扉が少しだけ開き、メリーが紙束を持って入ってくる。
一瞬。
二人の距離を見る。
それから、何事もなかったような顔に戻る。
ただし、栗色の瞳の奥には僅かな笑いがあった。
最近、周囲まで慣れてきている気がする。
「王妃陛下より、南東区の件がひとまず落ち着いたため、明日より王太子妃教育の時間を増やすとのことでございます」
「増える?」
アデルが予定表を受け取る。
読む。
王室儀礼。
国内諸侯家。
王室財政。
外交史。
慈善事業。
昼食。
さらに午後。
アデルの瞳から、みるみる光が薄れていった。
「……多い」
「王太子妃になるんだからな」
「分かっていますけれど」
「調香室の時間は?」
リュシアンがメリーへ尋ねた。
「午前中はこれまでどおり確保されております。王妃陛下より、宮廷調香師としての職務を妨げないようにとのことでございます」
途端に、アデルの瞳がぱっと明るくなる。
あまりにも分かりやすい。
「よかった」
その反応を見て、リュシアンが笑う。
「王太子妃教育より嬉しそうだな」
「調香師ですから」
「未来の王太子妃でもある」
「分かっています」
「本当に?」
「明日から学びます」
「そこから?」
アデルは予定表を畳んだ。
忙しくなる。
宮廷調香師としての仕事。
王太子妃としての教育。
やがて公務も増える。
今日のように、王都の問題へ直接向き合う日もあるのだろう。
知らないことばかりだ。
だからこそ。
知りたい。
国のことも。
人々の暮らしも。
そして。
隣にいる、この人のことも。
「リュシアン様」
「ん?」
「これからも、色々教えてくださいね」
「何を?」
「全部です」
リュシアンの灰青色の瞳が柔らかく細くなる。
「いいよ」
腰へ回った腕が、もう一度少しだけ強くなる。
「俺も知りたいから」
橙花の淡い香りの奥に、ようやく戻った互いの匂いがある。
隠すのではなく。
洗い流して。
残ったものを、少しずつ知っていく。
その方が、きっとずっといい。




