第十六話 寄り添う香り
王太子妃教育が始まってからというもの、アデルの一日は驚くほど早く終わるようになった。
朝食を終えれば王室史や儀礼についての講義が始まる。王家に連なる家々の系譜を覚え、外交上重要な国とその王族について学び、昼を挟めば舞踏や立ち居振る舞い、晩餐会での席順、贈答品の扱いまで待っている。その合間を縫って宮廷調香師として調香室へ戻り、届いた香料を確認し、依頼された香りを仕上げ、必要があれば庭師や商人とも話をした。
朝の鐘を聞いたと思えば、もう夕方なのだ。
「……一日って、こんなに短かったかしら」
ある晩、寝支度を終えたアデルがそう零すと、隣で書類を読んでいたリュシアンが顔を上げた。
「忙しすぎるなら減らすぞ」
「減らせるものなのですか?」
「俺が母上に言えば、多少は」
「駄目です」
即答すると、切れ長の灰青色の瞳がわずかに細くなる。
「なぜ」
「まだ始まったばかりですもの。覚えなくてはならないことばかりです」
「真面目だな」
「リュシアン様が不真面目なのです」
「俺は必要なところだけ真面目なんだ」
「それを不真面目と言うのでは?」
言い返すと、リュシアンが小さく笑った。
夜の彼は、昼間よりずっと柔らかい。きっちりと整えられていた黒髪も湯浴みの後には少し崩れ、白いシャツの襟元も緩んでいる。王太子として人前に立つ時の隙のなさは消え、長い脚をソファへ投げ出している姿など、出会った頃のアデルなら想像もできなかっただろう。
その隣へ腰を下ろす。
すると、当然のように腰へ腕が回ってきた。
「……リュシアン様」
「何だ」
「本を読まれていたのでは?」
「読んでる」
「片手で?」
「読める」
確かに読んでいる。
もう片方の腕は、アデルの腰にあるけれど。
最近では、こういうことにも少し慣れてしまった。
朝、一緒に食事をする。互いの予定を話して仕事へ向かう。夜になれば、今日何があったのかを話す。
忙しくても、その時間だけは変わらない。むしろ一日が慌ただしくなればなるほど、そのわずかな時間がアデルには大切になっていた。
「明日は母上と茶だったな」
「はい。最近の様子を聞きたいと仰せで」
「何を聞かれても、俺がアデルを酷使しているとは言うなよ」
「王太子妃教育をなさっているのは王妃様ですが」
「じゃあ母上が酷使してると言っておけ」
「告げ口しておきますね」
「待て」
そんな他愛のない話をしているうちに、一日の疲れが少しずつほどけていく。
以前のアデルにとって、心を落ち着けるものといえば香りだった。
今は、それだけではない。
それを口に出して教えてやるつもりは、まだなかったけれど。
*
翌日の午後、アデルは王妃の私室を訪れていた。
大きな窓から柔らかな陽が差し込み、卓上には白磁の茶器と小さな焼き菓子が並んでいる。飾られている花は香りの弱い白花ばかりで、茶にも余計な香りはつけられていない。リュシアンが訪ねてくることもある部屋だからだろう。
そういう小さな配慮に、今のアデルは以前よりよく気づくようになった。
「教育の方はいかが?」
「毎日、知らないことばかりでございます」
「大変でしょう」
「はい」
素直に認めると、王妃がくすりと笑った。
年齢を重ねても美しい人だった。丁寧に結い上げられた髪には落ち着いた艶があり、王妃として人前へ立つ時には凛とした印象の方なのに、こうして私室で向かい合うと表情は驚くほど柔らかい。
「でも、楽しいです」
「あら」
「香料についてでしたら、十年以上学んでまいりました。でも王宮のことも、国のことも、知らないことがたくさんあって。今まで自分が見ていたものが、本当に一部分だけだったのだなと思います」
「嫌になってはいませんか?」
「いいえ」
アデルは茶器を両手で包み、少し考えてから笑った。
「忙しいですけれど、朝と夜にはリュシアン様とお話しできますから」
「まあ」
「今朝も、今日は何を学ぶのかと聞かれました。昨日は少し疲れていたら、もう寝ろと何度も言われまして」
「リュシアンが?」
「はい。でもご本人はその後も書類を読んでいましたので、説得力がないと申し上げました」
「それで?」
「自分は慣れているからいい、と」
「まあ、あの子らしいこと」
王妃が笑う。
つられてアデルも笑った。
「それから最近、毎朝必ず私の予定を聞かれるのです。どこへ行くのか、誰と会うのか」
「それは心配しているのかしら。それとも」
「……?」
「いいえ。何でもありません」
妙に楽しそうな顔をされた。
何なのだろう。
「夜も、私が調香室へ長く残っていると迎えに来てくださいます。護衛がいるから大丈夫だと申し上げているのですけれど」
「そう」
そこで王妃の声が少しだけ変わった。
アデルが顔を上げると、王妃は微笑んでいる。
けれど、その目には薄く涙が滲んでいた。
「王妃様?」
「ごめんなさいね」
細い指が目元へ触れる。
「嬉しくなってしまって」
「……嬉しい?」
「リュシアンは、わたくしの子ではないことは知っていますね?」
不意に落ちた言葉に、アデルは姿勢を正した。
「はい。先代王妃、セレスティア様の……」
「ええ」
王妃の眼差しが、少し遠くなる。
「セレスティアは、わたくしの友人でした」
「そうだったのですね」
「とても美しい人でした。そして、とても優しい人だった」
アデルは何も言わず、その続きを待った。
「亡くなった時は、本当に悲しかったわ。陛下がお悲しみになっている姿を見るのもつらかった。でも」
王妃が静かに息を吐く。
「リュシアンを見た時に思ったのです。この子を幸せにしたい、と」
胸の奥が温かくなる。
リュシアンが、今の王妃を何の迷いもなく母上と呼ぶ理由が、少し分かった気がした。
「セレスティアの代わりになれるとは思いませんでした。でも、母親が二人いてはいけない理由もないでしょう?」
「……はい」
「泣けば抱き上げましたし、熱を出せば夜通し側にもいました。初めて馬から落ちた時など、本人よりわたくしの方が取り乱してしまって」
王妃が懐かしそうに笑う。
「今ではあんなに大きくなって。わたくしが見上げなければ顔も見えません」
アデルも笑った。
「とても伝わってまいります」
「そう?」
「はい。リュシアン様も、王妃様をとても大切になさっていますから」
王妃が一度だけ瞬きをした。
今度は涙を隠すように、茶器へ手を伸ばす。
「……ありがとう、アデル」
しばらく、穏やかな沈黙が流れた。
やがて王妃は茶を一口飲み、話題を変えるように尋ねた。
「アデル。王妃の一番大切な仕事は、何だと思いますか?」
「一番、でございますか?」
「ええ」
難しい。
これまで学んだ内容を思い返す。王室行事への出席。慈善。外交。宮廷の女性たちをまとめる役割。
どれも大切だ。
けれど、王妃が求めている答えは別にある気がした。
「……お世継ぎをお産みになることでしょうか」
「それも大切です」
王妃は否定しなかった。
「でも、もう少し先まで考えてみて」
「先……ですか?」
「次の世代へ、王家を渡すことです」
静かな声だった。
「子を産む。育てる。王族として立てる。そして、その子と共に歩く人を見極める。そうして次の世代へ王家を渡していく」
アデルは自然と背筋を伸ばした。
「わたくしはリュシアンを産んではいません。それでも、あの子を次の王へ育てることは、わたくしの役目でした」
「はい」
「緊張しないで。あなたを脅しているのではないのよ」
「……顔に出ておりましたか」
「少し」
王妃が笑う。
アデルも肩から力を抜いた。
「わたくしにも、陛下との間に生まれた子がおります」
「存じ上げております。メリル王女殿下と、ライオネル王子殿下ですね」
「ええ」
王妃は穏やかに頷いた。
「リュシアンから王太子の座を我が子へ、などとは思っていません。あの子は次の王になるために学び、働き、その責任を背負ってきました。それは誰より、わたくしが知っています」
「はい」
「でも」
そこで、王妃の顔が少しだけ母親のものになる。
「我が子にも、幸せになってほしいとは思うのです」
「もちろんのことと存じます」
「ライオネルも、そろそろ本格的に婚約者を考えなくてはならない年頃になりました」
「……なるほど」
話の先が少し見えてきた気がする。
王妃の口元が楽しそうに上がった。
「アデル。次のお茶会で、ライオネルの婚約者候補を探してみませんか?」
「はい?」
思わず聞き返した。
「良い子がいたら、わたくしにこっそり教えてくださいな」
「そんな!」
アデルは慌てて茶器を置いた。
「重大なことをお任せいただいてよろしいのですか?」
「まだ候補ですもの」
「ですが」
「あなたが決めるわけではありません。あなたが、この方なら一度ライオネルと会わせてみたい、と思う方を教えてほしいの」
「……それなら」
「それに」
王妃が意味ありげに微笑む。
「人を見るのは、案外得意でしょう?」
「香料でしたら」
「人もよ」
言われて、アデルは首を傾げた。
自覚はない。
「では、お願いしても?」
簡単には答えられなかった。
けれど。
次代へ王家を渡す。
先ほどの言葉が胸に残っている。
「……承知いたしました」
アデルは膝の上で指を揃えた。
「ただし、わたくしがお伝えできるのは、その方について私が感じたことだけです。その方がライオネル様に合うかどうかは、お二人がお会いにならなければ分かりません」
「ええ」
王妃は満足そうに頷いた。
「それで十分です」
*
「婚約者候補を探す?」
その夜、リュシアンは露骨に嫌そうな顔をした。
「ライオネル様の、です」
「分かってる」
「では、なぜそのようなお顔を」
「母上、アデルに仕事を増やしすぎじゃないか?」
ソファに座ったリュシアンの眉間には、はっきりと皺が寄っている。
「正式な公務ではございませんよ。お茶会で少し様子を見るだけです」
「そう言って何か始めると、お前は本気になるだろ」
「適当に人様の婚約者を選べと?」
「ほら、もう本気だ」
確かに。
アデルは黙った。
「それで、どうするつもりだ?」
「そこなのです」
今日、調香室へ戻ってからずっと考えていた。
家柄を見るなら、王妃の方が詳しい。教養も、領地も、家同士の関係も、すでに候補として招かれる時点である程度確認されているはずだ。
ならば、自分にできることは何か。
「香りを使おうと思います」
リュシアンが嫌そうな顔をさらに深くした。
「また全員に香水をつけさせるのか?」
「違います」
「ならいい」
「早いですね」
「香水まみれの令嬢が十人集まる茶会には近づきたくない」
「どのみちリュシアン様はお呼びしておりません」
「それはそれで少し腹が立つな」
「どうしてです?」
「知らない」
理不尽である。
アデルは話を戻した。
「香り袋を作っていただこうかと思うのです」
「香り袋?」
「はい。ただし、ご自分のためではありません」
リュシアンの灰青色の瞳が、少し興味を帯びた。
「くじでお相手を決めて、その方へ贈る香りを作っていただきます」
「調香の試験をするのか?」
「いいえ」
アデルは首を横へ振った。
「調香の腕を競っていただいても意味がありません。皆様、調香師ではございませんから」
「じゃあ、何を見る」
「まだ秘密です」
「俺にも?」
「リュシアン様にも」
少し考えたあと、彼の口元が上がった。
「面白そうだな」
「でしょう?」
「そういう顔をしているアデルが」
「……どういう顔です?」
「仕事を思いついた時の顔」
長い指が伸びてきて、頬へかかった銀髪を耳へかけられる。
「楽しそうだ」
「楽しいですよ」
答えると、リュシアンが笑った。
「ならいい」
*
数日後。
王妃主催のお茶会には、十二人の若い令嬢が招かれていた。
侯爵令嬢、公爵家の次女、伯爵令嬢。いずれも年齢や家柄、家庭環境を考えれば、ライオネルの婚約者候補となり得る女性たちである。
庭園に面した明るい広間へ、アデルはいつもの仕事着ではなく、淡い青緑色のドレスで出席していた。長い銀髪も低くまとめるのではなく、細い編み込みを交えながら丁寧に結い上げられている。光を受ける髪は淡い真珠色にも見え、耳元には小さな灰青色の宝石が揺れていた。
もっとも、卓上に並べたものは完全に宮廷調香師の仕事である。
乾燥させた薔薇。ラベンダー。菫。ローズマリー。ミント。柑橘の皮。香りの淡い木片。ごく少量の樹脂。そのほかにも十数種類の香料が、小さな器へ分けて並べられていた。
「本日は、少し遊びをしましょう」
王妃の言葉に、令嬢たちが楽しそうに顔を見合わせる。
「皆様には、お一人ずつ香り袋を作っていただきます」
「まあ」
「素敵ですわ」
「自分の好きな香りでよろしいのでしょうか?」
一人が尋ねると、王妃は首を横へ振った。
「いいえ。今日は、ご自分のためではありません」
アデルが用意していた小さな箱を差し出した。
中には十二枚の紙が入っている。
「こちらから一枚ずつお取りください。書かれている方へ贈る香りを作っていただきます」
「相手の方に?」
「ええ」
令嬢たちの顔に、ほんの少し緊張が走った。
それでも、すぐに楽しそうな声が戻る。
「面白そうですわ」
「お好みに合うかしら」
「わたくし、薔薇しか分かりません」
アデルは少し離れた席へ座った。
王妃と視線を交わす。
ここからである。
最初の令嬢は、迷わず薔薇へ手を伸ばした。
「今季は淡い薔薇の香りが流行しておりますもの」
なるほど。
次の令嬢は、樹脂を手に取る。
「こちらは大変貴重なものでは?」
「ええ。シャン国から届いた安息香です」
「では、せっかくですから」
それも分かる。
別の令嬢は、自分の好きなラベンダーを中心に袋を作った。
「わたくしが毎晩使っている香りなの。とても落ち着きますのよ」
悪くない。
どれも悪くないのだ。
流行を知っていることも、価値あるものを贈ろうとすることも、自分が気に入っているものを分けたいと思うことも。
人の善意には、いろいろな形がある。
アデルは一人ずつ、その手元を見ていった。
その中で。
一人だけ、いつまで経っても香料へ手を伸ばさない令嬢がいた。
淡い灰桜色のドレス。柔らかな栗色の髪は華美に飾らず、細く編んだ部分を後ろでまとめている。顔立ちも特別派手ではない。丸みのある茶色の瞳と、微笑むと少し下がる眉が、穏やかな印象を作っていた。
エミリア・ローレンス伯爵令嬢。
歳は十七。
アデルが事前に目を通した資料では、王都から少し離れた土地を治める伯爵家の長女だったはずだ。
エミリアは、くじで組になった令嬢の方を向いていた。
「あの」
「はい?」
「お好きな香りを伺ってもよろしいですか?」
相手の令嬢が目を丸くする。
「わたくしの?」
「ええ。お贈りするものですから」
「そうですわね……薔薇でしょうか」
「普段もお使いに?」
「いえ。香水はあまり」
「では、強い香りはお苦手?」
尋ねられた令嬢が、少し困ったように笑った。
「実は、そうなのです。頭が痛くなってしまうことがあって」
「まあ。それでしたら」
そこで初めて、エミリアが香料へ手を伸ばした。
選んだのは、ごく少量の乾燥ミントと、薄く削られた香木。それから柑橘の皮を一片だけ。
ほんのわずかだった。
隣にいた令嬢が、思わず覗き込む。
「それだけですの?」
「はい」
「ほとんど香りませんわ」
「そのくらいがよいのではないでしょうか」
エミリアは当然のように答えた。
「お持ちになる方が、強い香りをお好きではないのですから」
「でも、せっかくの香り袋ですのに」
「ですから、近づけた時にだけ分かれば十分かと」
アデルの指が、膝の上で止まった。
香らせない。
それも、一つの調香である。
かつての自分なら、もっと良い香りを作ろうとしたかもしれない。薔薇には何を合わせれば美しいか。柑橘ならどの花と馴染むか。香りそのものばかりを考えて。
けれどリュシアンと出会って、知った。
どれほど美しい香りでも、受け取る人が苦しむなら意味がない。
香りは、自分が何を表現したいかだけでは決まらない。
誰へ届けるのか。
その人が、どう感じるのか。
そこまで考えて初めて、寄り添える。
エミリアは調香師ではない。
おそらく、そんなことを考えているわけでもないだろう。
ただ。
相手を見ている。
アデルは隣に座る王妃を見た。
王妃もこちらを見ていた。
何も言わず。
それだけで十分だった。
*
お茶会が終わり、最後の令嬢を見送ってから、王妃は私室へ戻った。
アデルも後に続く。
「いかがでした?」
尋ねられ、アデルは迷わなかった。
「一人、気になる方がおりました」
「あら」
「ローレンス伯爵令嬢です」
「エミリアね」
「はい」
王妃はすぐには何も言わなかった。
「理由を聞いても?」
「一番上手に香りを作った方ではございません」
「ええ」
「最も高価な香料を選んだ方でもありません」
「ええ」
「一番、相手を見ていた方でした」
王妃の表情が柔らかくなる。
「相手が何を好きか。何が苦手か。自分で決めつけず、最初に尋ねていらっしゃいました」
「なるほど」
「それだけです」
「それだけ?」
「はい」
アデルは頷いた。
「ライオネル様のお妃として相応しいかどうかまでは、私には分かりません。そもそも、ライオネル様ご本人のお気持ちもございます」
「そうね」
「でも、一度お会いになってみるのはよいのではないかと思いました」
王妃が笑った。
「やはり、あなたにお願いしてよかった」
「まだ何も決まっておりませんよ」
「分かっています」
「本当に?」
「もちろん」
少し怪しい。
それでも。
王妃の嬉しそうな顔を見ると、アデルまで少し楽しみになった。
*
エミリア・ローレンス伯爵令嬢とライオネル王子が実際に顔を合わせることになったのは、それから五日後だった。
正式な見合いではない。
王妃が若い貴族を数名招いた小規模な茶会を開き、その中に二人を入れただけである。
少なくとも、表向きは。
「緊張いたします」
庭園へ面した回廊の陰から様子を見ながら、アデルは小声で言った。
「あなたがお見合いをするわけではないでしょう」
隣で王妃が笑う。
「ですが、私がお名前を挙げた方です」
「責任を感じなくてよいのですよ」
「そう言われましても」
二人の視線の先には、ライオネルとエミリアがいた。
ライオネルは、リュシアンとはずいぶん印象の違う青年だった。
王族らしく整った顔立ちではあるものの、切れ長の目と黒髪のせいで黙っているだけでも近寄りがたく見える兄とは違い、柔らかな茶金色の髪と明るい青緑色の瞳を持ち、表情もよく動く。笑うと目元が大きく和らぎ、人に話しかけられれば相手の身分にかかわらず自然に言葉を返す。
社交の場では、明らかにこちらの方が器用だろう。
今もエミリアを前に、気負った様子はない。
「ローレンス伯爵領は果樹園が多いそうですね」
「はい。林檎と梨が多いですが、南側では柑橘も少し育てております」
「柑橘」
その言葉に、ライオネルがほんのわずかに微妙な顔をした。
エミリアがそれを見逃さなかった。
「お嫌いですか?」
「え?」
「柑橘です」
「ああ……」
ライオネルが困ったように笑う。
「まただ」
「また?」
「いや。俺、柑橘が好きだってことになってるんだよ」
「違うのですか?」
「嫌いではないんだけど」
卓上には、薄く切った橙を飾った小さな焼き菓子が置かれていた。
ライオネルはそれを一つ取り上げる。
「俺が好きなのは、食べる方なんだけどな」
エミリアが瞬きをした。
アデルも瞬きをする。
「香りは?」
エミリアが尋ねた。
「香水になると、皮の苦い匂いばかり気になる」
ライオネルは少し顔をしかめた。
「特に皮の香りが強いものかな。皆は爽やかだって言うけど、俺には苦さの方が先に分かるんだ」
「そうなのですね」
「昔、一度、橙の砂糖煮が好きだと言ったことがあるらしくて」
「それで?」
「なぜか『ライオネル殿下は柑橘がお好き』だけ残った」
エミリアの口元が、ゆっくり綻んだ。
「十年近く、誕生日になると柑橘の香りが届く」
「まあ」
「香水。香り袋。香油。去年なんて柑橘を模した香炉まで来た」
ついにエミリアが声を上げて笑った。
「笑うところか?」
「申し訳ございません」
「笑ってる」
「少しだけ」
「正直だな」
ライオネルも笑った。
その顔には、怒った様子など少しもない。
「では、今年のお誕生日にわたくしがお贈りするとしたら、香水ではなく橙の砂糖煮ですね」
「それは嬉しい」
「覚えておきます」
「本当に?」
「はい」
「じゃあ期待しておこう」
会話が続いていく。
アデルは隣にいる王妃を見た。
王妃も黙って二人を見ている。
先日の茶会で見せた王妃の顔とは違う。
国のために人を見る王妃ではない。
ただ、息子が楽しそうに女性と話しているのを見ている母親の顔だった。
「……よかったですね」
アデルが小さく言う。
「まだ何も決まっていませんよ」
「それ、先日私が申し上げました」
「そうでした?」
「はい」
二人で顔を見合わせる。
どちらからともなく笑った。
「でも」
王妃の眼差しが、もう一度ライオネルへ向く。
「楽しそうね」
「はい」
「久しぶりに見ました。あの子が令嬢と話しながら、あんな顔をしているの」
「普段もお話はお上手ですよね」
「上手すぎるのよ」
王妃が少し困ったように笑った。
「誰にでも合わせられるから、かえって自分のことを話さないのです」
なるほど。
リュシアンとは正反対だ。
リュシアンは合わせられない。嫌なものは嫌だと顔に出るし、必要がなければほとんど話さない。そのせいで冷たいと誤解されてきた。
ライオネルは、きっと上手く合わせすぎる。
相手が求める王子を演じられてしまう。
だから、誰も気づかなかったのだ。
十年もの間。
柑橘の香りが好きではないことにさえ。
「似ていないご兄弟ですね」
アデルが笑うと、王妃も頷いた。
「ええ。本当に」
「何が?」
背後から突然声がして、アデルの肩が跳ねた。
「リュシアン様?」
振り返る。
濃紺の執務着を纏ったリュシアンが立っていた。午後まで政務だったらしく、きっちり整えられていたはずの黒髪が少しだけ額へ落ちている。灰青色の瞳は、驚いたアデルを見て面白そうに細められた。
「いつからいらしたのですか」
「今」
「声をかけてください」
「かけただろ」
「そういう意味ではありません」
何度このやり取りをしただろう。
リュシアンはアデルの隣まで来ると、その向こうにいる王妃を見た。
そして、少しだけ目元を柔らかくした。
「二人で何してるんです?」
「ライオネルを見守っているのです」
「見張っている、ではなく?」
「見守っております」
アデルが訂正すると、リュシアンの口元が上がる。
王妃とアデル。
二人並んで、同じように庭を覗き込み、同じ青年のことを気にしている。
その姿がよほどおかしかったのだろうか。
けれど、笑ったリュシアンの顔はからかっているようには見えなかった。
むしろ、嬉しそうだった。
「まるで本物の親子みたいですね」
アデルは目を瞬いた。
王妃も一瞬、言葉を失ったようだった。
リュシアンは気づいていない。
ただ本当に嬉しそうに、二人を見ている。
「母上とアデルが、こうして並んでいるの」
灰青色の瞳が柔らかく細まる。
「いいですね」
王妃の表情が、ゆっくりほどけた。
「リュシアン」
「はい?」
「わたくしは、あなたとも本物の親子のつもりですよ」
今度はリュシアンが黙った。
ほんの一瞬だけ。
それから、灰青色の瞳を柔らかく細める。
「知っています」
静かな声だった。
笑った顔は、王太子というより、一人の息子のものだった。
アデルは何も言わなかった。言わない方がいい気がした。ただ、王妃の手が卓上にあるのを見て、そっと自分の手を重ねる。
王妃がこちらを見る。
そして、その手を握り返した。
「……本当に、二人とも大きくなってしまって」
「俺まで一緒にされるんですか?」
「当然でしょう。あなたもまだ十八ですよ」
「もう十八です」
聞き覚えのある言い方に、アデルは思わず吹き出した。
「何だ」
「いえ。以前、私も同じことを申し上げたなと」
「……そうだったか?」
「お見合いの時です。リュシアン様が『まだ十八だろ』と」
「ああ」
思い出したらしい。
リュシアンが気まずそうに視線を逸らす。
「随分昔のことのようですね」
「まだ一年も経ってないぞ」
「そうなのですけれど」
あの頃は、この人とこうして王妃の前で並んでいる未来など、想像もしていなかった。
王妃が二人を見比べ、楽しそうに笑う。
庭ではまだ、ライオネルとエミリアが話していた。
「では、殿下はどのような香りがお好きなのですか?」
「それを聞かれると困るな」
「ないのですか?」
「食べ物ならいっぱいある」
「香りのお話です」
「兄上と違って、俺は香りで苦労してないからなあ」
「では、一緒に探してみます?」
「何を?」
「好きな香りを」
風に乗って、二人の笑い声がかすかに届いた。
香りは、誰かを飾るためだけにあるものではない。
自分を主張するためだけでもない。
近づきすぎず、押しつけず、その人が心地よい場所を探す。
そうして少しずつ、相手を知っていく。
もしかすると。
人と人が共に生きることも、同じなのかもしれない。
「ああ、そうだ。母上」
不意に、リュシアンが口を開いた。
「何?」
「王太子妃教育を、少し中断しても?」
王妃の眉がわずかに上がった。
「何かあるの?」
「ああ。アデルが宮廷調香師として呼ばれていて」
そこでリュシアンは一度、アデルを見た。
「シャン国に」
「まあ」
王妃は驚いたように瞬きをしたものの、すぐに頷いた。
「こちらは構わないわ。宮廷調香師としてのお役目なら、そちらを優先なさい」
「ありがとうございます」
アデルも頷く。
「私も、そのつもりでおります」
「そう」
王妃は微笑んだ。
けれど、次にアデルへ向けられた眼差しからは、先ほどまでの母親らしい柔らかさが少しだけ消えていた。
王妃の顔だった。
「それで」
白磁の茶器が、音もなく受け皿へ戻される。
「何かあったのですね?」




