第十七話 狩り尽くす香り
「何かあったのですね?」
王妃の問いに、アデルは膝の上で重ねていた指へわずかに力を込めた。つい先ほどまで、この部屋ではまったく別の話をしていた。王太子妃としての教育、その一環として任されたライオネルの婚約者候補について。けれど今、王妃の私室の卓上に置かれているのは、縁談に関する資料ではない。
深い朱色の封蝋。見覚えのある異国の紋章。シャン国王太子、ライレイから届いた書簡だった。
「はい。シャン国より、宮廷調香師の派遣を求める正式な要請が届きました」
「宮廷調香師を?」
王妃の整った眉がわずかに上がる。
「アデルを、ということか」
隣に座るリュシアンが低く言った。すでに書簡には目を通している。濃紺の執務着に包まれた長身を椅子へ預けているものの、切れ長の灰青色の瞳には先ほどまでの気安さがない。艶のある黒髪も隙なく整えられ、今は完全に王太子の顔だった。
「正確には、『スピネリア王国宮廷調香師、アデル・アレクシア嬢、もしくは同等の知識を持つ専門家』です」
「なら、別の人間でもいいんじゃないか」
「リュシアン」
「言ってみただけです」
王妃に嗜められ、リュシアンは小さく息を吐いた。
アデルは書簡をもう一度見た。文面そのものは簡潔だった。先の友好協議によって交易の対象となる可能性が生まれた、新領地の香料資源。その扱いについて、早急に専門家の意見を求めたい。ただ、それだけ。何が起きているのかまでは書かれていない。
「ライレイ殿下が、理由を伏せるとは思えません」
「ああ。俺もそこが気になってる」
「書けない事情がある、ということでしょうか」
「あるいは、書面に残したくない事情だな」
その言葉に、室内の空気が少しだけ変わった。
外交文書は残る。まして他国の王太子から届いた正式な要請書ならば、何十年後にも保管されるだろう。そこへ詳しく書けないとなれば、単なる香料の鑑定では済まない可能性が高い。
「出発は?」
「できる限り早く、と」
「随分急ですね」
「だからこそ行く必要がある」
リュシアンが書簡を取り上げた。
「向こうから専門家を求められた以上、今後の交易を考えても無視はできない。アデルが書いた意見書にも沿ってる」
――香りを、国と国を結ぶ言葉にする。
王太子妃選考で提出した、あの言葉。戦争によって奪うのではなく、知識と技術と香料を正しく交換することで、互いに利益のある関係を作る。あれを書いた時には、本当に自分がその第一歩を担うことになるとは思っていなかった。
「行きます」
アデルは顔を上げた。窓から入る午後の光を受け、長い銀髪が淡く透ける。新緑にも紫にも揺れる瞳には迷いがなかった。
「宮廷調香師として、お役に立てるのでしたら」
「言うと思った」
リュシアンが眉間へ指を当てる。
「なんですか、その反応は」
「珍しい香料があると聞いて、お前が行かないと言う未来が想像できなかった」
「仕事です」
「分かってる」
王妃がそのやり取りを眺めながら、静かに茶器を置いた。
「では、妃教育はこちらへ戻るまで中断しましょう」
「よろしいのですか?」
「もちろんです。王太子妃として学ぶことだけが教育ではありません。外国へ赴き、異なる文化と産業を見ることも、あなたには必要でしょう。それに――」
王妃の灰青色の瞳が息子へ向いた。
「どうせ、リュシアンも行くのでしょう?」
「そのつもりです」
あまりにも当然のように答えるので、アデルの方が驚いた。
「リュシアン様も?」
「行く」
「公務は?」
「調整する」
「ですが、王太子が二人揃って――」
「先方の王太子から、こちらの宮廷調香師を寄越せと言われているんだぞ。外交案件だ。俺が同行して何がおかしい」
理屈は通っている。非常に綺麗に通っている。
けれどアデルには、何となく分かった。
「……私を一人でライレイ殿下のところへ行かせたくないだけでは?」
リュシアンが黙った。
王妃が扇を口元へ上げる。
「リュシアン?」
「外交案件です」
王妃の肩がわずかに揺れた。笑っている。
アデルもつられて口元を緩めたところで、リュシアンから視線が飛んできた。
「何でアデルまで笑ってるんだ」
「いえ。少し安心しただけです」
「何が?」
「ご一緒してくださるのですね」
そう言うと、リュシアンの表情から不満が消えた。灰青色の目が柔らかく細まる。
「当たり前だろ」
その声だけが、王太子ではなく、いつものリュシアンだった。
*
出発は二日後に決まった。
急な旅支度にはなったものの、王太子と、王太子妃に選ばれた女性が国外へ赴くとなれば、護衛も侍従も最低限は必要になる。先遣隊が宿と街道の安全を確かめ、外交官が先方へ到着予定を知らせ、その合間にアデルは宮廷調香師として必要な道具をまとめた。
「乳鉢はいりませんよね……現地にもあるでしょうし」
「アデル様。それ以上詰めると、鞄が閉まりません」
背後から飛んできたメリーの声に、アデルは革鞄の中を見下ろした。試香紙、保存瓶、小さな天秤、筆記具。それでも本人としては、相当厳選したつもりなのだ。
「衣装が入りません」
「仕事着が二着あれば」
「王太子妃になられる方が外国を二着で過ごすおつもりですか?」
「宮廷調香師として参ります」
「王太子殿下の未来の妃でもいらっしゃいます」
「……そうでした」
「忘れないでくださいませ」
最近、このやり取りが増えた。
宮廷調香師として考えている時、アデルは自分が将来王太子妃になることを時々忘れる。逆に妃教育を受けている時でも、香料の話が出れば一瞬で調香師へ戻る。その両方でよいのだと王妃には言われたが、実際に両方をやろうとすると、持っていく荷物だけでも倍になる。
「アデル」
扉の方から聞き慣れた声がした。
振り返ると、旅装に着替えたリュシアンが立っている。普段の執務着よりも丈の短い濃紺の上着に、黒の脚衣と革靴。装飾は王家の紋章を留める銀の金具程度で、腰には細身の剣が下がっている。華美ではないぶん、長い手足と広い肩の線がよく分かり、王宮で見る姿より少しだけ若々しい。
「準備できたか?」
「もう少しです」
リュシアンが部屋へ入り、鞄を覗いた。
「旅に工房ごと持っていく気か?」
「これでも厳選しました」
呆れたように言いながら、口元は笑っている。そして当然のようにアデルの鞄を持ち上げた。
「重いな」
「自分で持てます」
「知ってる」
「では」
「俺が持つ」
「またですか」
「夫だから」
「まだ夫ではありません」
「もうすぐだろ」
「婚約宣誓もこれからです」
「細かい」
「大事です」
以前にもしたやり取りだった。
アデルが鞄を取り返さないでいると、リュシアンは満足したように片眉を上げる。
「行くぞ」
「はい」
調香室を出る前に、アデルは一度だけ振り返った。
初めて宮廷調香師としてこの部屋へ入った日から、まだ一年も経っていない。それなのに随分遠くまで来たような気がする。
王太子に押し倒され、専属調香師になり、事件を解き、誘拐され、恋をして、王太子妃に選ばれた。
今度は、その王太子と一緒に外国へ行く。
「アデル?」
「今、参ります」
呼ばれて振り向く。
そこには、待っていてくれる人がいた。
*
今回は、大人数の商隊が使う南方への迂回路ではなく、人数を絞った王族一行が通れる山間の公式街道を選んでいた。険しい道ではあるが、国境までの距離は大きく縮まる。
スピネリアを出てから三日目の夕暮れ、王太子一行は街道沿いの迎賓宿へ到着した。
シャン国との国境までは、もう遠くない。
宿とはいっても、王族や上位貴族が利用することを前提に整えられた建物で、石造りの外壁には蔦が這い、中へ入れば大きな暖炉が赤々と燃えていた。
「お待ちしておりました。王太子殿下、王太子妃殿下。長旅、お疲れさまでございます」
「まだ婚約前だ」
リュシアンが訂正すると、宿の主人は慌てて頭を下げた。
「大変失礼いたしました。王太子ご夫妻のお部屋はこちらでございます」
訂正がまったく反映されていない。
アデルが何か言うより先に、リュシアンは「もういい」と小さく息を吐いた。
最上階に用意された部屋は、旅の途中に一晩を過ごすだけとは思えないほど立派だった。暖炉の前にはソファがあり、隣室には湯浴みの設備まで整えられている。
そして中央には、大きな寝台が一つ。
アデルの足が止まった。
「……ベッドが一つです」
「ああ」
「私はソファで寝ます」
「待て」
即座に止められた。
「前に二人でソファで寝ただろ。あれよりベッドの方が広い」
「ですが」
「何もしないよ」
さらりと言われて、アデルは寝台とリュシアンを交互に見た。
「……そうですよね」
「そうだよ」
「では、大丈夫です」
返事だけは妙に早かった。
頬が赤い。
リュシアンは気づいたが、何も言わなかった。
*
大丈夫ではなかった。
灯りを落とした寝室には、暖炉の薪が爆ぜる音だけが響いていた。
寝台は広い。二人で使っても十分すぎるほど余裕がある。そのはずなのに、隣に誰かがいるというだけで、布一枚を隔てた向こうの気配がやけにはっきり分かる。
アデルは何度か寝返りを打った。
隣からも、眠った気配はしない。
「リュシアン様」
「起きてる」
「まだ何も聞いておりません」
「聞くだろうと思って」
暗闇の中で、アデルは少し笑った。
そのまま二人で、ぽつぽつと話した。
初めて二人で国境を越えること。シャンにはどんな香りがあるのか。結婚したら、こうして同じ場所へ帰る日が増えるのだろうかということ。
「……悪くないですね」
「何が?」
「結婚」
しばらく返事がなかった。
「俺はずっとそう言ってる」
暗闇の向こうから返ってきた声が、少しだけ嬉しそうだった。
それからしばらくして、会話も途切れた。
けれどアデルはまだ眠れない。
枕へ頬を預けたまま、薄暗がりの向こうに見えるリュシアンの背中を眺めた。
こちらへ背を向けて眠ろうとしている。
旅用の薄い寝間着越しにも、肩から腰へ続く線がよく分かった。普段は上着に隠れて意識したこともなかったが、思っていたよりずっと大きい。
アデルは少しだけ近づいた。
指先を伸ばす。
肩甲骨の辺りへ触れ、その輪郭を確かめるように、ゆっくり背中をなぞった。
びくり、とリュシアンの身体が揺れた。
「……アデル?」
「リュシアン様の背中は大きいですね」
感心したような声だった。
「今、気づいたのか」
「こうして触ったことはありませんでしたから」
もう一度、指先が背中を下りる。
リュシアンは目を閉じた。
駄目だ。
今のは、かなり駄目だった。
元々、触覚は人より鋭い。服の縫い目ひとつが気になるくらいなのだから、好きな女の指が寝間着越しにゆっくり背骨を辿る感覚など、無視できるはずがない。
触れられたところだけ、妙に熱を持っている気がする。
「アデル」
「はい?」
声は平然としている。
つまり本人には、本当に何の他意もない。
それが分かるのが、余計に困る。
しばらくして、背後で寝具が動いた。
次の瞬間、細い腕が腹へ回った。
リュシアンの呼吸が止まる。
アデルが背中へぴたりとくっついた。
「……アデル?」
「この方が落ち着きます」
頬を背中へ寄せるようにして、さらに近づいてくる。
「安心します」
「……そう」
どうにか、それだけ返した。
アデルは満足したらしい。腕に少し力を込め、リュシアンの腰へ身体を寄せた。
柔らかなものが、背中へ触れている。
考えるな。
絶対に考えるな。
だが触覚が鋭いというのは、こういう時に限って本当に役に立たない。背中へ伝わる体温も、寝間着越しの柔らかな感触も、腹に回された細い腕も、全部はっきり分かる。
あれは。
おそらく。
胸だろうか。
リュシアンは目を開けた。
振り向けない。
今は絶対に振り向けない。
何もしないと言ったのは自分だ。
自分から振り向いてしまえば、その言葉の意味がかなり危うくなる。
ただし。
やめてほしいかと言われれば。
まったく、やめてほしくない。
(……何もしないって言ったのは俺だけなんだよな)
理不尽なことを考えている自覚はあった。
アデルは何も約束していない。
だからといって、好きなだけ触っていいという意味では当然ない。
そんなことを考えている間にも、背後の身体はさらに力を抜いていく。
どうやら本当に眠れそうなのだろう。
そこへ今度は、脚まで絡んできた。
「…………」
リュシアンは天井を見た。
いや、今は横を向いているので壁しか見えない。
アデルの膝が自分の脚の間へ入り込み、そのまま楽な位置を探すようにもぞもぞと動く。
(これは)
どういう体勢だ。
これがアデルにとって寝やすいのか。
友好の宴のあとも自分の上で寝た女である。人にくっついて眠ること自体には、案外抵抗がないのかもしれない。
知らなかった。
知りたくなかったわけではない。
むしろ知れて嬉しい。
嬉しいが。
(今じゃない)
背中の感触が気になりすぎる。
腕も。
脚も。
吐息まで近い。
少し動けば、銀髪が首筋へ触れた。その一本一本の感触まで分かるような気がして、リュシアンは浅く息を吐いた。
普段なら、この過敏な感覚は厄介でしかない。
強い香水も、服の縫い目も、食材のわずかな劣化も、誰も気にしないものを拾ってしまう。
けれど今だけは。
厄介なのか、ありがたいのか、自分でも分からなかった。
「リュシアン様」
眠気を含んだ声が背中越しに聞こえる。
「……なんだ」
「温かいです」
「ああ」
「おやすみなさい」
返事をする前に、腹へ回った腕から力が抜けた。
呼吸がゆっくりになる。
本当に眠ったらしい。
安心すると言って、自分へくっついたまま。
リュシアンはしばらく動かなかった。
いや。
正確には、動けなかった。
振り向けば起こしてしまう。
それに、起こしたところで何を言う。
離れてくれと?
それは嫌だ。
なら、このまま耐えるしかない。
背中へ伝わる温度は、もう少しも薄れない。
むしろ意識すればするほど鮮明になる。
「……信用されすぎるのも大変だな」
誰にも聞こえない声で呟いた。
その言葉とは裏腹に、口元はわずかに緩んでいた。
結局その夜、アデルは久しぶりによく眠った。
リュシアンがいつ眠れたのかは、本人にもよく分からなかった。
*
翌朝、アデルが目を覚ますと、最初に見えたのは黒髪だった。
すぐ目の前に、リュシアンの後頭部がある。
「…………」
自分の腕は、まだ彼の腹へ回っていた。頬は背中へついたまま。片脚に至っては、昨夜からそのまま絡んでいる。
記憶が戻ってくる。
「……おはようございます」
「おはよう」
返事が早い。
「起きていらしたのですか?」
「結構前から」
声に妙な疲れがある。
アデルは身体を少し離し、ようやくリュシアンが振り返った。
黒髪は珍しく大きく乱れ、切れ長の灰青色の瞳の下には、ほんのわずかに眠気の影がある。
「よく眠れませんでした?」
「アデルは?」
「よく眠れました」
「そうか」
複雑そうな顔をされた。
「リュシアン様にくっついたら、すぐに眠れました」
「……それはよかった」
本当に。
アデルだけは。
満足そうに笑う顔を見てしまえば、文句を言う気も失せる。
「今夜もそうしてよろしいです?」
「…………」
リュシアンはしばらく黙った。
「善処する」
「何をです?」
「こっちの話だ」
今日からシャン国へ入る。
それまでに少しでも眠っておきたかったと、リュシアンは心の底から思った。
*
国境を越えると、景色は少しずつ変わっていった。
街道沿いの建物は石造りだけではなく、濃い色の木材を組み合わせたものが増え、屋根の形もスピネリアとは異なる。人々の衣服には深い朱や緑、金の刺繍が多く、商店の軒先には香草を束ねたものや、乾燥させた樹皮が吊られていた。
何より違うのは、香りだった。
「……面白い」
馬車の窓辺で、アデルは小さく息を吸った。
「何が?」
「香水の香りがほとんどしません。その代わり、建物から香がします。白檀……あちらは何でしょう。少し甘い」
「窓から出るな」
「出ておりません」
そう言いながらも、アデルは素直に身体を戻した。
シャンでは身体へ強い香りをまとうより、室内で香を焚き、衣や髪へその煙を移す文化がある。以前、書物で読んだ。ライレイからも聞いた。
知識として知っていたものが、今は窓の向こうにある。道を歩く人、店先、市場、寺院らしき建物の前に置かれた大きな香炉。香りが生活のどこにあるのかが、スピネリアとはまるで違う。
やがて王都へ近づくにつれ、街道は広くなった。門を守る兵士の数も増え、赤と黒を基調とした軍装が目につくようになる。
アデルは窓の外を見ながら、ふと口を閉じた。
戦争をしていた国。
ライレイが第八王子から王太子へ上がった場所。
敵の砦を落とし、補給路を作り、土地を奪い、守った。以前スピネリアで聞いた時には、どこか遠い話のように感じていた。
けれど今、その国の中へ入っている。
隣に座るリュシアンも、窓の外を見ていた。灰青色の瞳から先ほどまでの柔らかさが消えている。
「緊張しています?」
「まあな。他国だから」
「リュシアン様でも?」
「俺を何だと思ってる」
「何でも平気な方かと」
「そんなわけあるか」
言ったあと、リュシアンの手が伸びる。膝の上に置いていたアデルの手へ重なった。
「でも、お前は俺のそばにいろ」
「はい」
今度は、理由を聞かなかった。
*
シャン国の王宮へ到着したのは、午後遅くのことだった。
スピネリアの王宮とは、何もかもが違って見えた。白い石と青銀を基調としたスピネリアに対し、シャンの宮殿には深い朱色の柱と暗い屋根、金の装飾が多く使われている。広い中庭には低く整えられた木々と池があり、石畳の脇には香炉が置かれ、細い煙が風にほどけていた。
アデルがついそちらへ目を向けた、その時。
「アデルちゃん!」
聞き覚えのある声が、中庭の向こうから響いた。
「ライレイ殿下」
現れた男は、以前スピネリアで見た時と変わらずよく目立った。赤茶色の髪を後ろへ流し、深い朱色の衣装に細かな金糸の刺繍。少しつり上がった金色の瞳は、アデルを見つけた途端に明るくなる。
「本当に来てくれた!」
大きく手を広げかけ、その横にいる男へ気づく。
「……リュシアンも」
「呼んだのはお前だろ」
「ワタシはアデルちゃんを呼んだんだけどなあ」
「だから来た」
「意味が分からない」
「分からなくていい」
相変わらずだった。
ライレイが楽しそうに笑い、アデルも思わず頬を緩める。
「お久しぶりでございます、ライレイ殿下」
「うん。元気そうでよかった」
金色の瞳がアデルを一度見て、それからリュシアンへ移る。
「随分大事にされてるみたいだし」
「当然だ」
「聞いてない」
また笑う。
けれど、その笑みは長く続かなかった。
「長旅のあとで悪いんだけど」
ライレイの声が変わる。金色の瞳から軽さが消えた。
「少しだけ、先に話をしたい」
案内されたのは謁見の間ではなく、王太子の執務室だった。
広い卓上にはすでに地図と書類が並べられている。
新領地。以前スピネリアで見せてもらった地図よりも、ずっと詳細だった。森林、河川、村、旧国境。そしていくつかの地点に、赤い印がついている。
「まず、急に呼んで悪かった」
「何がございました?」
アデルが尋ねる。
ライレイは椅子へ腰を下ろし、一本の細い容器を卓上へ置いた。
「これ」
蓋を開ける。
アデルは少しだけ顔を近づけた。
濃い。温かい。獣めいた甘さと、土を思わせる深さ。
「……麝香」
「正解」
ライレイが頷く。
「新領地の森に、麝香鹿がかなりいることが分かった」
リュシアンが地図へ視線を落とす。
「それで?」
「スピネリアへ持っていけば高く売れる。そう聞いた」
「間違いではございません。品質によりますが、天然の麝香は希少です。香水の保留材としても非常に価値があります」
「やっぱりね」
ライレイが苦笑する。
「それが分かってから、面倒なことになった」
別の書類を開く。そこには数字が並んでいた。
「戦争が終わって、兵士の仕事が減ってる。特に弓兵だ。ずっと戦場で弓を引いてきた連中に、今日から必要ありませんとは言えない」
その言葉に、アデルは黙って耳を傾けた。
「兄の一人が言ったんだ。だったら、新領地で狩りをさせればいい、と」
「麝香鹿を?」
「そう。兵士の弓は使える。鹿はいる。麝香は売れる。国庫にも金が入る。兵士にも仕事を与えられる」
ライレイの指が、地図の赤い印をなぞる。
「悪い案には聞こえないでしょう?」
アデルはすぐには答えなかった。確かに、理屈は分かる。戦争のために鍛えた技能を平時の仕事へ転用し、新しい領地の資源を利用して失業する兵士に収入を与える。国庫も潤う。
「何か、問題が起きているのですね」
「起き始めてる」
ライレイの笑みが完全に消えた。
「狩猟をもっと増やせ、という派と、まず調査をしろ、という派で割れてる」
「王族内で?」
「王族も。軍も。官僚も」
重い沈黙が落ちた。
「兄たちも?」
リュシアンが聞いた。
「ああ」
短い返事だった。
ライレイは第八王子だった。上に七人の兄がいる。そして彼らの多くもまた、戦場で功績を挙げてきた。
「ワタシだけが戦争で評価されたわけじゃないよ。兄上たちだって、それぞれ軍を持って、戦場で結果を出してきた。兵を動かして、敵を倒して、土地を取って。そうやって評価されてきた」
金色の目が地図へ落ちる。
「でも、もう戦争は終わった」
その一言だけが、妙に重かった。
「これから必要なのは、敵を倒すことじゃない。取った土地をどう使うかだ。人を食わせて、税を集めて、十年後にも金を生むようにしないといけない」
「それに、うまく切り替えられない方もいらっしゃる?」
「……いるね」
ライレイは否定しなかった。
「悪人だからじゃない。むしろ真面目なんだよ。自分の兵を食わせたい。これまで身につけた技術を無駄にしたくない。戦争が終わったから、お前たちはもういらないなんて言いたくない」
だから弓を使わせる。だから狩る。だから成果を出す。
戦場なら、それでよかったのだろう。
けれど今扱っているのは、人間の敵ではない。
森だ。動物だ。香料になる資源だ。
「それで、ワタシだけが止めても意味がない」
「王太子命令では?」
「できるよ。全部止めろと命令することはできる。でも、それをやれば『第八王子が王太子になった途端、兄たちの兵を潰した』と言われる」
これは香料だけの話ではない。
王位継承。軍の派閥。新領地。戦後の仕事。
いくつものものが、一つの鹿へ結びついている。
「だから専門家が必要なのですね」
「そう」
ライレイがアデルを見る。
「ワタシが言うから駄目なんだ」
いつもの人懐こい王太子ではなかった。
「シャンの王子でも、軍人でもない人間に見てほしい。森をどう使えばいいのか。何を採って、何を残すべきなのか」
「私で分かるでしょうか」
「少なくとも、ワタシたちよりは」
ライレイが一枚の記録を差し出す。
「これが、試験的に狩猟した頭数。こっちが採れた麝香の量」
アデルは受け取った。
数字を見る。一度。もう一度。
細い眉がわずかに寄る。
「……この数の鹿を狩って?」
「そう」
「採れた麝香は、これだけですか?」
「そうなんだよ」
違和感がある。
けれど紙だけでは分からない。
「現物は?」
「一部なら宮殿にもある。でも」
ライレイが地図の一点を指した。
「できれば、現場を見てほしい」
そこは王都からさらに東、新領地との境に近い山間部だった。
「明日にも?」
「明日の朝、出たい」
「随分急だな」
リュシアンの声に、ライレイは苦笑した。
「だから急いで呼んだ」
そしてアデルへ向き直る。
「頼める?」
アデルは地図と記録を見比べた。
知らない森。知らない動物。知らない国の、戦争のあと。
自分に何ができるのかは、まだ分からない。
ただ、香りを奪うのではなく、育てる。そのためにスピネリアとシャンを結びたいと書いたのは、自分だ。
「参ります。現地を見せてください」
ライレイの表情が、ほんの少し緩んだ。
「助かるよ」
「俺も行く」
リュシアンが言う。
ライレイがそちらを見る。
「また?」
「またとは何だ」
「新領地だよ? 宿よりずっと不便だよ?」
「だから行く」
ライレイが大きくため息をついた。
「分かった。二人とも連れていく」
窓の外では、シャンの夕日が朱色の宮殿をさらに赤く染めていた。細い香煙が庭から立ち上がり、見知らぬ木の香りが開いた窓からわずかに入り込む。
明日、その香りが生まれる土地へ向かう。
けれどアデルはまだ知らなかった。
新しい香料を得たはずの森で、すでに何が失われ始めているのかを。




