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第十七話 狩り尽くす香り

「何かあったのですね?」

 王妃の問いに、アデルは膝の上で重ねていた指へわずかに力を込めた。つい先ほどまで、この部屋ではまったく別の話をしていた。王太子妃としての教育、その一環として任されたライオネルの婚約者候補について。けれど今、王妃の私室の卓上に置かれているのは、縁談に関する資料ではない。

 深い朱色の封蝋。見覚えのある異国の紋章。シャン国王太子、ライレイから届いた書簡だった。

「はい。シャン国より、宮廷調香師の派遣を求める正式な要請が届きました」

「宮廷調香師を?」

 王妃の整った眉がわずかに上がる。

「アデルを、ということか」

 隣に座るリュシアンが低く言った。すでに書簡には目を通している。濃紺の執務着に包まれた長身を椅子へ預けているものの、切れ長の灰青色の瞳には先ほどまでの気安さがない。艶のある黒髪も隙なく整えられ、今は完全に王太子の顔だった。

「正確には、『スピネリア王国宮廷調香師、アデル・アレクシア嬢、もしくは同等の知識を持つ専門家』です」

「なら、別の人間でもいいんじゃないか」

「リュシアン」

「言ってみただけです」

 王妃に嗜められ、リュシアンは小さく息を吐いた。

 アデルは書簡をもう一度見た。文面そのものは簡潔だった。先の友好協議によって交易の対象となる可能性が生まれた、新領地の香料資源。その扱いについて、早急に専門家の意見を求めたい。ただ、それだけ。何が起きているのかまでは書かれていない。

「ライレイ殿下が、理由を伏せるとは思えません」

「ああ。俺もそこが気になってる」

「書けない事情がある、ということでしょうか」

「あるいは、書面に残したくない事情だな」

 その言葉に、室内の空気が少しだけ変わった。

 外交文書は残る。まして他国の王太子から届いた正式な要請書ならば、何十年後にも保管されるだろう。そこへ詳しく書けないとなれば、単なる香料の鑑定では済まない可能性が高い。

「出発は?」

「できる限り早く、と」

「随分急ですね」

「だからこそ行く必要がある」

 リュシアンが書簡を取り上げた。

「向こうから専門家を求められた以上、今後の交易を考えても無視はできない。アデルが書いた意見書にも沿ってる」

 ――香りを、国と国を結ぶ言葉にする。

 王太子妃選考で提出した、あの言葉。戦争によって奪うのではなく、知識と技術と香料を正しく交換することで、互いに利益のある関係を作る。あれを書いた時には、本当に自分がその第一歩を担うことになるとは思っていなかった。

「行きます」

 アデルは顔を上げた。窓から入る午後の光を受け、長い銀髪が淡く透ける。新緑にも紫にも揺れる瞳には迷いがなかった。

「宮廷調香師として、お役に立てるのでしたら」

「言うと思った」

 リュシアンが眉間へ指を当てる。

「なんですか、その反応は」

「珍しい香料があると聞いて、お前が行かないと言う未来が想像できなかった」

「仕事です」

「分かってる」

 王妃がそのやり取りを眺めながら、静かに茶器を置いた。

「では、妃教育はこちらへ戻るまで中断しましょう」

「よろしいのですか?」

「もちろんです。王太子妃として学ぶことだけが教育ではありません。外国へ赴き、異なる文化と産業を見ることも、あなたには必要でしょう。それに――」

 王妃の灰青色の瞳が息子へ向いた。

「どうせ、リュシアンも行くのでしょう?」

「そのつもりです」

 あまりにも当然のように答えるので、アデルの方が驚いた。

「リュシアン様も?」

「行く」

「公務は?」

「調整する」

「ですが、王太子が二人揃って――」

「先方の王太子から、こちらの宮廷調香師を寄越せと言われているんだぞ。外交案件だ。俺が同行して何がおかしい」

 理屈は通っている。非常に綺麗に通っている。

 けれどアデルには、何となく分かった。

「……私を一人でライレイ殿下のところへ行かせたくないだけでは?」

 リュシアンが黙った。

 王妃が扇を口元へ上げる。

「リュシアン?」

「外交案件です」

 王妃の肩がわずかに揺れた。笑っている。

 アデルもつられて口元を緩めたところで、リュシアンから視線が飛んできた。

「何でアデルまで笑ってるんだ」

「いえ。少し安心しただけです」

「何が?」

「ご一緒してくださるのですね」

 そう言うと、リュシアンの表情から不満が消えた。灰青色の目が柔らかく細まる。

「当たり前だろ」

 その声だけが、王太子ではなく、いつものリュシアンだった。

*

 出発は二日後に決まった。

 急な旅支度にはなったものの、王太子と、王太子妃に選ばれた女性が国外へ赴くとなれば、護衛も侍従も最低限は必要になる。先遣隊が宿と街道の安全を確かめ、外交官が先方へ到着予定を知らせ、その合間にアデルは宮廷調香師として必要な道具をまとめた。

「乳鉢はいりませんよね……現地にもあるでしょうし」

「アデル様。それ以上詰めると、鞄が閉まりません」

 背後から飛んできたメリーの声に、アデルは革鞄の中を見下ろした。試香紙、保存瓶、小さな天秤、筆記具。それでも本人としては、相当厳選したつもりなのだ。

「衣装が入りません」

「仕事着が二着あれば」

「王太子妃になられる方が外国を二着で過ごすおつもりですか?」

「宮廷調香師として参ります」

「王太子殿下の未来の妃でもいらっしゃいます」

「……そうでした」

「忘れないでくださいませ」

 最近、このやり取りが増えた。

 宮廷調香師として考えている時、アデルは自分が将来王太子妃になることを時々忘れる。逆に妃教育を受けている時でも、香料の話が出れば一瞬で調香師へ戻る。その両方でよいのだと王妃には言われたが、実際に両方をやろうとすると、持っていく荷物だけでも倍になる。

「アデル」

 扉の方から聞き慣れた声がした。

 振り返ると、旅装に着替えたリュシアンが立っている。普段の執務着よりも丈の短い濃紺の上着に、黒の脚衣と革靴。装飾は王家の紋章を留める銀の金具程度で、腰には細身の剣が下がっている。華美ではないぶん、長い手足と広い肩の線がよく分かり、王宮で見る姿より少しだけ若々しい。

「準備できたか?」

「もう少しです」

 リュシアンが部屋へ入り、鞄を覗いた。

「旅に工房ごと持っていく気か?」

「これでも厳選しました」

 呆れたように言いながら、口元は笑っている。そして当然のようにアデルの鞄を持ち上げた。

「重いな」

「自分で持てます」

「知ってる」

「では」

「俺が持つ」

「またですか」

「夫だから」

「まだ夫ではありません」

「もうすぐだろ」

「婚約宣誓もこれからです」

「細かい」

「大事です」

 以前にもしたやり取りだった。

 アデルが鞄を取り返さないでいると、リュシアンは満足したように片眉を上げる。

「行くぞ」

「はい」

 調香室を出る前に、アデルは一度だけ振り返った。

 初めて宮廷調香師としてこの部屋へ入った日から、まだ一年も経っていない。それなのに随分遠くまで来たような気がする。

 王太子に押し倒され、専属調香師になり、事件を解き、誘拐され、恋をして、王太子妃に選ばれた。

 今度は、その王太子と一緒に外国へ行く。

「アデル?」

「今、参ります」

 呼ばれて振り向く。

 そこには、待っていてくれる人がいた。

*

 今回は、大人数の商隊が使う南方への迂回路ではなく、人数を絞った王族一行が通れる山間の公式街道を選んでいた。険しい道ではあるが、国境までの距離は大きく縮まる。

 スピネリアを出てから三日目の夕暮れ、王太子一行は街道沿いの迎賓宿へ到着した。

 シャン国との国境までは、もう遠くない。

 宿とはいっても、王族や上位貴族が利用することを前提に整えられた建物で、石造りの外壁には蔦が這い、中へ入れば大きな暖炉が赤々と燃えていた。

「お待ちしておりました。王太子殿下、王太子妃殿下。長旅、お疲れさまでございます」

「まだ婚約前だ」

リュシアンが訂正すると、宿の主人は慌てて頭を下げた。

「大変失礼いたしました。王太子ご夫妻のお部屋はこちらでございます」

 訂正がまったく反映されていない。

 アデルが何か言うより先に、リュシアンは「もういい」と小さく息を吐いた。

 最上階に用意された部屋は、旅の途中に一晩を過ごすだけとは思えないほど立派だった。暖炉の前にはソファがあり、隣室には湯浴みの設備まで整えられている。

 そして中央には、大きな寝台が一つ。

 アデルの足が止まった。

「……ベッドが一つです」

「ああ」

「私はソファで寝ます」

「待て」

 即座に止められた。

「前に二人でソファで寝ただろ。あれよりベッドの方が広い」

「ですが」

「何もしないよ」

 さらりと言われて、アデルは寝台とリュシアンを交互に見た。

「……そうですよね」

「そうだよ」

「では、大丈夫です」

 返事だけは妙に早かった。

 頬が赤い。

 リュシアンは気づいたが、何も言わなかった。

*

 大丈夫ではなかった。

 灯りを落とした寝室には、暖炉の薪が爆ぜる音だけが響いていた。

 寝台は広い。二人で使っても十分すぎるほど余裕がある。そのはずなのに、隣に誰かがいるというだけで、布一枚を隔てた向こうの気配がやけにはっきり分かる。

 アデルは何度か寝返りを打った。

 隣からも、眠った気配はしない。

「リュシアン様」

「起きてる」

「まだ何も聞いておりません」

「聞くだろうと思って」

 暗闇の中で、アデルは少し笑った。

 そのまま二人で、ぽつぽつと話した。

 初めて二人で国境を越えること。シャンにはどんな香りがあるのか。結婚したら、こうして同じ場所へ帰る日が増えるのだろうかということ。

「……悪くないですね」

「何が?」

「結婚」

 しばらく返事がなかった。

「俺はずっとそう言ってる」

 暗闇の向こうから返ってきた声が、少しだけ嬉しそうだった。

 それからしばらくして、会話も途切れた。

 けれどアデルはまだ眠れない。

 枕へ頬を預けたまま、薄暗がりの向こうに見えるリュシアンの背中を眺めた。

 こちらへ背を向けて眠ろうとしている。

 旅用の薄い寝間着越しにも、肩から腰へ続く線がよく分かった。普段は上着に隠れて意識したこともなかったが、思っていたよりずっと大きい。

 アデルは少しだけ近づいた。

 指先を伸ばす。

 肩甲骨の辺りへ触れ、その輪郭を確かめるように、ゆっくり背中をなぞった。

 びくり、とリュシアンの身体が揺れた。

「……アデル?」

「リュシアン様の背中は大きいですね」

 感心したような声だった。

「今、気づいたのか」

「こうして触ったことはありませんでしたから」

 もう一度、指先が背中を下りる。

 リュシアンは目を閉じた。

 駄目だ。

 今のは、かなり駄目だった。

 元々、触覚は人より鋭い。服の縫い目ひとつが気になるくらいなのだから、好きな女の指が寝間着越しにゆっくり背骨を辿る感覚など、無視できるはずがない。

 触れられたところだけ、妙に熱を持っている気がする。

「アデル」

「はい?」

 声は平然としている。

 つまり本人には、本当に何の他意もない。

 それが分かるのが、余計に困る。

 しばらくして、背後で寝具が動いた。

 次の瞬間、細い腕が腹へ回った。

 リュシアンの呼吸が止まる。

 アデルが背中へぴたりとくっついた。

「……アデル?」

「この方が落ち着きます」

 頬を背中へ寄せるようにして、さらに近づいてくる。

「安心します」

「……そう」

 どうにか、それだけ返した。

 アデルは満足したらしい。腕に少し力を込め、リュシアンの腰へ身体を寄せた。

 柔らかなものが、背中へ触れている。

 考えるな。

 絶対に考えるな。

 だが触覚が鋭いというのは、こういう時に限って本当に役に立たない。背中へ伝わる体温も、寝間着越しの柔らかな感触も、腹に回された細い腕も、全部はっきり分かる。

 あれは。

 おそらく。

 胸だろうか。

 リュシアンは目を開けた。

 振り向けない。

 今は絶対に振り向けない。

 何もしないと言ったのは自分だ。

 自分から振り向いてしまえば、その言葉の意味がかなり危うくなる。

 ただし。

 やめてほしいかと言われれば。

 まったく、やめてほしくない。

(……何もしないって言ったのは俺だけなんだよな)

 理不尽なことを考えている自覚はあった。

 アデルは何も約束していない。

 だからといって、好きなだけ触っていいという意味では当然ない。

 そんなことを考えている間にも、背後の身体はさらに力を抜いていく。

 どうやら本当に眠れそうなのだろう。

 そこへ今度は、脚まで絡んできた。

「…………」

 リュシアンは天井を見た。

 いや、今は横を向いているので壁しか見えない。

 アデルの膝が自分の脚の間へ入り込み、そのまま楽な位置を探すようにもぞもぞと動く。

(これは)

 どういう体勢だ。

 これがアデルにとって寝やすいのか。

 友好の宴のあとも自分の上で寝た女である。人にくっついて眠ること自体には、案外抵抗がないのかもしれない。

 知らなかった。

 知りたくなかったわけではない。

 むしろ知れて嬉しい。

 嬉しいが。

(今じゃない)

 背中の感触が気になりすぎる。

 腕も。

 脚も。

 吐息まで近い。

 少し動けば、銀髪が首筋へ触れた。その一本一本の感触まで分かるような気がして、リュシアンは浅く息を吐いた。

 普段なら、この過敏な感覚は厄介でしかない。

 強い香水も、服の縫い目も、食材のわずかな劣化も、誰も気にしないものを拾ってしまう。

 けれど今だけは。

 厄介なのか、ありがたいのか、自分でも分からなかった。

「リュシアン様」

 眠気を含んだ声が背中越しに聞こえる。

「……なんだ」

「温かいです」

「ああ」

「おやすみなさい」

 返事をする前に、腹へ回った腕から力が抜けた。

 呼吸がゆっくりになる。

 本当に眠ったらしい。

 安心すると言って、自分へくっついたまま。

 リュシアンはしばらく動かなかった。

 いや。

 正確には、動けなかった。

 振り向けば起こしてしまう。

 それに、起こしたところで何を言う。

 離れてくれと?

 それは嫌だ。

 なら、このまま耐えるしかない。

 背中へ伝わる温度は、もう少しも薄れない。

 むしろ意識すればするほど鮮明になる。

「……信用されすぎるのも大変だな」

 誰にも聞こえない声で呟いた。

 その言葉とは裏腹に、口元はわずかに緩んでいた。

 結局その夜、アデルは久しぶりによく眠った。

 リュシアンがいつ眠れたのかは、本人にもよく分からなかった。

*

 翌朝、アデルが目を覚ますと、最初に見えたのは黒髪だった。

 すぐ目の前に、リュシアンの後頭部がある。

「…………」

 自分の腕は、まだ彼の腹へ回っていた。頬は背中へついたまま。片脚に至っては、昨夜からそのまま絡んでいる。

 記憶が戻ってくる。

「……おはようございます」

「おはよう」

 返事が早い。

「起きていらしたのですか?」

「結構前から」

 声に妙な疲れがある。

 アデルは身体を少し離し、ようやくリュシアンが振り返った。

 黒髪は珍しく大きく乱れ、切れ長の灰青色の瞳の下には、ほんのわずかに眠気の影がある。

「よく眠れませんでした?」

「アデルは?」

「よく眠れました」

「そうか」

 複雑そうな顔をされた。

「リュシアン様にくっついたら、すぐに眠れました」

「……それはよかった」

 本当に。

 アデルだけは。

 満足そうに笑う顔を見てしまえば、文句を言う気も失せる。

「今夜もそうしてよろしいです?」

「…………」

 リュシアンはしばらく黙った。

「善処する」

「何をです?」

「こっちの話だ」

 今日からシャン国へ入る。

 それまでに少しでも眠っておきたかったと、リュシアンは心の底から思った。

*

 国境を越えると、景色は少しずつ変わっていった。

 街道沿いの建物は石造りだけではなく、濃い色の木材を組み合わせたものが増え、屋根の形もスピネリアとは異なる。人々の衣服には深い朱や緑、金の刺繍が多く、商店の軒先には香草を束ねたものや、乾燥させた樹皮が吊られていた。

 何より違うのは、香りだった。

「……面白い」

 馬車の窓辺で、アデルは小さく息を吸った。

「何が?」

「香水の香りがほとんどしません。その代わり、建物から香がします。白檀……あちらは何でしょう。少し甘い」

「窓から出るな」

「出ておりません」

 そう言いながらも、アデルは素直に身体を戻した。

 シャンでは身体へ強い香りをまとうより、室内で香を焚き、衣や髪へその煙を移す文化がある。以前、書物で読んだ。ライレイからも聞いた。

 知識として知っていたものが、今は窓の向こうにある。道を歩く人、店先、市場、寺院らしき建物の前に置かれた大きな香炉。香りが生活のどこにあるのかが、スピネリアとはまるで違う。

 やがて王都へ近づくにつれ、街道は広くなった。門を守る兵士の数も増え、赤と黒を基調とした軍装が目につくようになる。

 アデルは窓の外を見ながら、ふと口を閉じた。

 戦争をしていた国。

 ライレイが第八王子から王太子へ上がった場所。

 敵の砦を落とし、補給路を作り、土地を奪い、守った。以前スピネリアで聞いた時には、どこか遠い話のように感じていた。

 けれど今、その国の中へ入っている。

 隣に座るリュシアンも、窓の外を見ていた。灰青色の瞳から先ほどまでの柔らかさが消えている。

「緊張しています?」

「まあな。他国だから」

「リュシアン様でも?」

「俺を何だと思ってる」

「何でも平気な方かと」

「そんなわけあるか」

 言ったあと、リュシアンの手が伸びる。膝の上に置いていたアデルの手へ重なった。

「でも、お前は俺のそばにいろ」

「はい」

 今度は、理由を聞かなかった。

*

 シャン国の王宮へ到着したのは、午後遅くのことだった。

 スピネリアの王宮とは、何もかもが違って見えた。白い石と青銀を基調としたスピネリアに対し、シャンの宮殿には深い朱色の柱と暗い屋根、金の装飾が多く使われている。広い中庭には低く整えられた木々と池があり、石畳の脇には香炉が置かれ、細い煙が風にほどけていた。

 アデルがついそちらへ目を向けた、その時。

「アデルちゃん!」

 聞き覚えのある声が、中庭の向こうから響いた。

「ライレイ殿下」

 現れた男は、以前スピネリアで見た時と変わらずよく目立った。赤茶色の髪を後ろへ流し、深い朱色の衣装に細かな金糸の刺繍。少しつり上がった金色の瞳は、アデルを見つけた途端に明るくなる。

「本当に来てくれた!」

 大きく手を広げかけ、その横にいる男へ気づく。

「……リュシアンも」

「呼んだのはお前だろ」

「ワタシはアデルちゃんを呼んだんだけどなあ」

「だから来た」

「意味が分からない」

「分からなくていい」

 相変わらずだった。

 ライレイが楽しそうに笑い、アデルも思わず頬を緩める。

「お久しぶりでございます、ライレイ殿下」

「うん。元気そうでよかった」

 金色の瞳がアデルを一度見て、それからリュシアンへ移る。

「随分大事にされてるみたいだし」

「当然だ」

「聞いてない」

 また笑う。

 けれど、その笑みは長く続かなかった。

「長旅のあとで悪いんだけど」

 ライレイの声が変わる。金色の瞳から軽さが消えた。

「少しだけ、先に話をしたい」

 案内されたのは謁見の間ではなく、王太子の執務室だった。

 広い卓上にはすでに地図と書類が並べられている。

 新領地。以前スピネリアで見せてもらった地図よりも、ずっと詳細だった。森林、河川、村、旧国境。そしていくつかの地点に、赤い印がついている。

「まず、急に呼んで悪かった」

「何がございました?」

 アデルが尋ねる。

 ライレイは椅子へ腰を下ろし、一本の細い容器を卓上へ置いた。

「これ」

 蓋を開ける。

 アデルは少しだけ顔を近づけた。

 濃い。温かい。獣めいた甘さと、土を思わせる深さ。

「……麝香」

「正解」

 ライレイが頷く。

「新領地の森に、麝香鹿がかなりいることが分かった」

 リュシアンが地図へ視線を落とす。

「それで?」

「スピネリアへ持っていけば高く売れる。そう聞いた」

「間違いではございません。品質によりますが、天然の麝香は希少です。香水の保留材としても非常に価値があります」

「やっぱりね」

 ライレイが苦笑する。

「それが分かってから、面倒なことになった」

 別の書類を開く。そこには数字が並んでいた。

「戦争が終わって、兵士の仕事が減ってる。特に弓兵だ。ずっと戦場で弓を引いてきた連中に、今日から必要ありませんとは言えない」

 その言葉に、アデルは黙って耳を傾けた。

「兄の一人が言ったんだ。だったら、新領地で狩りをさせればいい、と」

「麝香鹿を?」

「そう。兵士の弓は使える。鹿はいる。麝香は売れる。国庫にも金が入る。兵士にも仕事を与えられる」

 ライレイの指が、地図の赤い印をなぞる。

「悪い案には聞こえないでしょう?」

 アデルはすぐには答えなかった。確かに、理屈は分かる。戦争のために鍛えた技能を平時の仕事へ転用し、新しい領地の資源を利用して失業する兵士に収入を与える。国庫も潤う。

「何か、問題が起きているのですね」

「起き始めてる」

 ライレイの笑みが完全に消えた。

「狩猟をもっと増やせ、という派と、まず調査をしろ、という派で割れてる」

「王族内で?」

「王族も。軍も。官僚も」

 重い沈黙が落ちた。

「兄たちも?」

 リュシアンが聞いた。

「ああ」

 短い返事だった。

 ライレイは第八王子だった。上に七人の兄がいる。そして彼らの多くもまた、戦場で功績を挙げてきた。

「ワタシだけが戦争で評価されたわけじゃないよ。兄上たちだって、それぞれ軍を持って、戦場で結果を出してきた。兵を動かして、敵を倒して、土地を取って。そうやって評価されてきた」

 金色の目が地図へ落ちる。

「でも、もう戦争は終わった」

 その一言だけが、妙に重かった。

「これから必要なのは、敵を倒すことじゃない。取った土地をどう使うかだ。人を食わせて、税を集めて、十年後にも金を生むようにしないといけない」

「それに、うまく切り替えられない方もいらっしゃる?」

「……いるね」

 ライレイは否定しなかった。

「悪人だからじゃない。むしろ真面目なんだよ。自分の兵を食わせたい。これまで身につけた技術を無駄にしたくない。戦争が終わったから、お前たちはもういらないなんて言いたくない」

 だから弓を使わせる。だから狩る。だから成果を出す。

 戦場なら、それでよかったのだろう。

 けれど今扱っているのは、人間の敵ではない。

 森だ。動物だ。香料になる資源だ。

「それで、ワタシだけが止めても意味がない」

「王太子命令では?」

「できるよ。全部止めろと命令することはできる。でも、それをやれば『第八王子が王太子になった途端、兄たちの兵を潰した』と言われる」

 これは香料だけの話ではない。

 王位継承。軍の派閥。新領地。戦後の仕事。

 いくつものものが、一つの鹿へ結びついている。

「だから専門家が必要なのですね」

「そう」

 ライレイがアデルを見る。

「ワタシが言うから駄目なんだ」

 いつもの人懐こい王太子ではなかった。

「シャンの王子でも、軍人でもない人間に見てほしい。森をどう使えばいいのか。何を採って、何を残すべきなのか」

「私で分かるでしょうか」

「少なくとも、ワタシたちよりは」

 ライレイが一枚の記録を差し出す。

「これが、試験的に狩猟した頭数。こっちが採れた麝香の量」

 アデルは受け取った。

 数字を見る。一度。もう一度。

 細い眉がわずかに寄る。

「……この数の鹿を狩って?」

「そう」

「採れた麝香は、これだけですか?」

「そうなんだよ」

 違和感がある。

 けれど紙だけでは分からない。

「現物は?」

「一部なら宮殿にもある。でも」

 ライレイが地図の一点を指した。

「できれば、現場を見てほしい」

 そこは王都からさらに東、新領地との境に近い山間部だった。

「明日にも?」

「明日の朝、出たい」

「随分急だな」

 リュシアンの声に、ライレイは苦笑した。

「だから急いで呼んだ」

 そしてアデルへ向き直る。

「頼める?」

 アデルは地図と記録を見比べた。

 知らない森。知らない動物。知らない国の、戦争のあと。

 自分に何ができるのかは、まだ分からない。

 ただ、香りを奪うのではなく、育てる。そのためにスピネリアとシャンを結びたいと書いたのは、自分だ。

「参ります。現地を見せてください」

 ライレイの表情が、ほんの少し緩んだ。

「助かるよ」

「俺も行く」

 リュシアンが言う。

 ライレイがそちらを見る。

「また?」

「またとは何だ」

「新領地だよ? 宿よりずっと不便だよ?」

「だから行く」

 ライレイが大きくため息をついた。

「分かった。二人とも連れていく」

 窓の外では、シャンの夕日が朱色の宮殿をさらに赤く染めていた。細い香煙が庭から立ち上がり、見知らぬ木の香りが開いた窓からわずかに入り込む。

 明日、その香りが生まれる土地へ向かう。

 けれどアデルはまだ知らなかった。

 新しい香料を得たはずの森で、すでに何が失われ始めているのかを。


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