第十八話 奪われた森の香り
新領地へ入って最初に感じたのは、森の匂いだった。
湿った土。苔。落ち葉。樹皮の青臭さ。名前も分からない草木の香りが幾重にも重なり、開け放した馬車の窓から冷たい空気とともに流れ込んでくる。
スピネリアにも森はある。アレクシア侯爵領にも、香料植物を育てるために人の手を入れすぎない林が残されている。それでも、ここはまるで違った。
深い。
森そのものに呑み込まれるような感覚がある。
「……すごい」
アデルは窓辺へ身を寄せた。
朝露を残した枝の間から光が差し込み、銀髪の表面へ淡く揺れる。新緑色に見えていた瞳が、木々を追うたび忙しなく動いた。
「アデル」
「出ておりません」
「まだ何も言ってない」
「窓から身体を出すな、でしょう?」
「分かってるならいい」
向かいに座るリュシアンが呆れたように息を吐く。
昨日までの旅装と同じ濃紺の上着に、今日は細身の剣を帯びている。王宮を離れていても、背筋の伸びた長身と鋭い灰青色の瞳のせいか、王太子らしい緊張感は薄れない。
その隣では、ライレイが声を上げて笑った。
「大変だね、リュシアン」
「誰のせいでこんなところまで来てると思ってる」
「ワタシは呼んだだけだよ」
「その呼び方が急だったと言ってる」
「でも来た」
「来たな」
昨夜まで二人の間にあった外交上の張り詰めた空気は、少しだけ薄れていた。
とはいえ、ライレイの顔もいつもほど明るくはない。
赤茶色の髪を高い位置でまとめ、今日は朱ではなく濃い灰色の狩装束を身につけている。華やかな装飾品もなく、腰には剣と短い弓。こうしていると、スピネリアで軽口ばかり叩いていた男が、本当に長く戦場へ出ていたのだと分かる。
「もうすぐ着くよ」
ライレイが窓の外を見た。
「狩猟の拠点にしている村だ」
「元々、こちらに住んでいた方々の村ですか?」
「そう」
短く答えたあと、金色の瞳がわずかに細くなる。
「戦争が終わって国境が動いただけで、昨日まで暮らしていた人間が消えるわけじゃないからね」
その言葉に、アデルはもう一度外を見た。
森は変わらずそこにある。
木々も、川も、鳥も。
ただ、地図の上に引かれた線だけが変わった。
そして住んでいる人々は、ある日突然「シャン国の民」になったのだ。
*
村へ着いて、最初にアデルを迎えたのは血の匂いだった。
馬車を降りた瞬間、足が止まる。
濃い。
鉄を思わせる生臭さの奥に、獣の体温が残した匂いと、湿った毛皮、それから微かに麝香が混じっている。
「……こちらです」
現地を預かる軍人に促され、アデルたちは村の外れへ向かった。
木造の大きな作業小屋。
その裏手へ回ったところで、アデルは息を呑んだ。
鹿が並んでいた。
一頭や二頭ではない。
地面へ敷かれた粗い布の上に、何十という小さな鹿が横たえられている。
身体の大きさは、アデルが知っている一般的な鹿よりもずっと小さい。灰褐色の柔らかな毛。長い耳。角はない。
すでに解体を終えたものもあれば、運び込まれたばかりなのか、まだ毛皮に湿り気を残しているものもある。
アデルは無言で一頭のそばへしゃがんだ。
「触っても?」
「どうぞ」
軍人が答える。
手袋をはめ、毛並みを確かめる。
腹部。
脚。
歯。
「……これは」
次の一頭を見る。
さらに隣。
「どうした?」
リュシアンが後ろから尋ねた。
「雌です」
「雌?」
「はい」
アデルはもう一度、最初の鹿へ視線を落とした。
「こちらも」
その隣。
「こちらも雌です」
さらに一頭。
「これは雄ですが……まだ若い」
アデルの声が次第に低くなっていく。
十頭ほど確かめたところで立ち上がった。
「麝香は、どの個体から採取されています?」
軍人が少し困ったように眉を寄せる。
「採れるものから、です」
「採れない個体も多いのでは?」
「はい」
「どれほど?」
「正確には……」
言葉に詰まった。
アデルはライレイを見る。
ライレイの口元から、すでに笑みは消えていた。
「記録を」
「はっ」
部下が帳面を差し出す。
アデルは受け取り、頁をめくった。
狩猟数。
解体数。
麝香の採取数。
昨日宮殿で見た数字より、さらに詳しい。
「やはり」
「何が分かった?」
リュシアンが隣へ立つ。
「成獣の雄からしか採れていません」
「他は?」
「何も」
当然だった。
麝香を持つのは成熟した雄だ。雌をどれだけ狩っても麝香は採れない。若い雄も同じで、十分に成長する前に仕留めてしまえば、目的としている香料にはならない。
アデルは帳面を閉じた。
「この狩りは、どのような基準で行っています?」
「基準?」
「雄だけを選ぶ、若い個体を避ける、季節を限定する、といったものです」
軍人が少し気まずそうに視線を逸らした。
「麝香鹿を見つけ次第、狩猟するよう命じられております」
「見つけ次第?」
「はい」
アデルは目の前の鹿を見る。
雌。
若い雄。
さらに小さな身体。
香料にはならない。
けれど命だけは失われている。
「麝香を採るために?」
「左様です」
「ですが、この子たちからは採れません」
「ですから、数を増やしております」
その答えに、アデルは顔を上げた。
「数を?」
「十頭狩って二頭からしか採れないのであれば、二十頭狩ればよい。そういう方針です」
あまりにも真っ直ぐな答えだった。
悪意すらない。
だからこそ、アデルはすぐに言葉を返せなかった。
戦場では、それでよかったのだろう。
一隊で足りなければ二隊。
十本の矢で届かなければ二十本。
成果が足りないなら、投入する数を増やす。
その方法で、彼らは戦争を勝ってきた。
だが。
「それを続ければ」
アデルは鹿の死骸へ目を落とした。
「いずれ、狩る鹿そのものがいなくなります」
軍人の表情が止まった。
「鹿が?」
「雌を減らせば、次の世代が生まれません。若い雄まで狩れば、成熟した雄にもなりません。今の採取量だけを増やそうとして、将来採れるはずだった麝香まで失っています」
「しかし、森にはまだ多数おります」
「今は、です」
アデルの声は静かだった。
「五年後は?」
誰も答えない。
「十年後は?」
森から鳥の声が聞こえた。
目の前には、昨日まで生きていた鹿が並んでいる。
ライレイがゆっくり息を吐いた。
「……なるほどね」
その時だった。
「だから言っただろう!」
背後から、怒声が飛んだ。
振り返る。
村人らしい老人が、兵士二人に止められながらこちらへ向かってくる。日に焼けた顔には深い皺が刻まれ、白髪混じりの髪を後ろで束ねていた。肩には古い弓を掛けている。
「おい、止まれ!」
「離せ! 王子が来たなら直接言う!」
聞き慣れない訛りはあるものの、シャンの言葉らしい。アデルにも意味は取れた。
「通して」
ライレイが言った。
「殿下」
「いいから」
兵士が手を離す。
老人は一瞬よろめいたものの、そのままライレイの前まで進んだ。
「お前が、シャンの王太子か」
周囲の兵士がざわめく。
王太子へ向ける言葉ではない。
けれどライレイは咎めなかった。
「そうだよ」
「なら止めろ」
老人が鹿を指した。
「何度言えば分かる。今の時期にあの谷へ入るな。雌を狩るな。若い雄を殺すな」
アデルの眉が動いた。
「以前から、そうしていたのですか?」
老人が初めてアデルを見る。
銀髪も、スピネリア風の衣装も、この地ではかなり目立つ。警戒するように目を細めた。
「誰だ」
「スピネリア王国宮廷調香師、アデル・アレクシアと申します」
「調香師?」
「麝香について調べるため参りました」
老人の表情が少し変わった。
「なら分かるだろう。こんな狩り方をしていたら、鹿はいなくなる」
「はい。私も、そう思います」
その一言で、老人の目からわずかに険が消えた。
「昔から、春から夏にかけては北の谷へ弓を持ち込まなかった。子を産む雌が集まるからだ。若いのも追わない。秋になって雄が山を下りてきた時だけ、大きなものを選ぶ」
「なぜ、その方法を?」
「なぜも何も」
老人は眉を寄せた。
「全部殺したら、次の年に何を狩る」
あまりにも単純だった。
書物も、計算もない。
けれど長くその土地で生きてきた人間には、それで十分だったのだろう。
アデルは周囲の森を見た。
この人々は知っていた。
どこへ鹿が集まるのか。
いつ子を産むのか。
どの個体を残せば、翌年また狩れるのか。
土地と共に暮らす中で、何代もかけて覚えてきた。
「ですが」
現地軍を預かる男が口を開いた。
「この土地は現在、シャン国の領土です」
老人の顔が強張る。
「王国の資源をどう利用するかは、王国が決める」
「森まで戦利品のつもりか」
「貴様」
「待って」
ライレイが手を上げた。
静かな声だった。
だが兵士は一瞬で口を閉じた。
「続けて」
老人はライレイを睨んだ。
「土地を取った。それは認める。戦争に負けたんだからな。税も払う。王が変わったことも受け入れる」
そこで鹿を見る。
「だが、お前たちは森を知らない」
誰も動かなかった。
「知らないくせに、勝ったから全部好きにしていいと思っている」
風が抜ける。
落ち葉が一枚、鹿のそばへ落ちた。
「この森は、お前たちが来る前からここにあった」
ライレイの金色の瞳が、わずかに細くなった。
「……そうだね」
老人が意外そうに顔を上げる。
「その通りだ」
ライレイは鹿の列を見た。
「土地を取ったからって、森の使い方まで分かるようになるわけじゃない」
「殿下」
軍人が戸惑った声を出す。
「今日の狩りは止めて」
「しかし」
「今日だけでいい。明日以降をどうするかは、ワタシが決める」
反論を許さない声だった。
スピネリアで見る、陽気で軽い男ではない。
戦場で軍を動かしてきた王太子の声。
「それから、この村の猟師を集めて。何月に、どこで、何を狩っていたのか聞きたい」
「……承知いたしました」
軍人が頭を下げる。
老人は何も言わなかった。
けれど去り際、アデルへだけ一度小さく頷いた。
アデルも礼を返す。
鹿の死骸は、変わらずそこに並んでいた。
香料を得るために奪った命。
けれど、その多くから目的の香りは採れなかった。
森を手に入れた国は、まだ森のことを何も知らない。
*
王都へ戻った頃には、空はすっかり暗くなっていた。
休む暇もなく、歓迎の宴が始まった。
「……多い」
大広間へ入った瞬間、アデルは思わず呟いた。
「何が?」
隣にいるリュシアンが聞く。
「王族の方々です」
「ああ」
「多くありません?」
「俺に言うな」
長い卓の向こう側へ、ずらりと人が並んでいる。
七人の兄王子。
三人の姉王女。
一人の妹王女。
そして王太子であるライレイ。
兄弟姉妹だけで十二人。
スピネリア王家とは、規模が違いすぎる。
「全員のお名前を今日中に覚えられるでしょうか」
「お前なら香りと結びつければ覚えるだろ」
「それは失礼では?」
「口に出さなければいい」
「今、口に出しました」
小声でやり取りしているうちに、ライレイがこちらへ気づいた。
「アデルちゃん、リュシアン。こっち」
赤茶色の髪が灯火を受けて赤金色に光っている。昼間とは違い、深い朱色の正装に着替え、胸元には金の飾りがある。
けれど、その隣に並ぶ兄王子たちを見た瞬間、アデルは少しだけ息を呑んだ。
傷。
一人は眉の上からこめかみにかけて細い古傷が走っている。
一人は頬を斜めに切る深い傷。
別の王子は耳の端が欠け、杯を持つ腕には何本もの白い線が残っていた。
首元へ刃物の痕を持つ者もいる。
兄王子の多くは、程度の違いこそあれ、顔や腕、少なくとも衣服から見える場所に戦いの跡があった。
ただ一人、目立つ戦傷のない細身の王子もいる。
戦争をしていた国。
頭では分かっていた。
けれど、彼らの身体そのものに残るものを見ると、重さが違う。
その中で。
アデルはライレイを見た。
傷がない。
少なくとも、見えるところには。
赤茶色の髪の下にある額も、金色の瞳の周囲も、頬も、手も綺麗だった。
戦場に出ていなかったわけではない。
むしろ誰より大きな戦果を上げたから、第八王子だった男が王太子になった。
なら。
(傷を負わなかったのではなく……)
負わずに済むよう戦えたのだろうか。
あるいは、傷を負う場所そのものを選ばなかったのか。
どちらにしても。
この人が兄たちを押し退けてここへ立っていることには、やはり理由がある。
「どうしたの?」
ライレイに声を掛けられ、アデルは我に返った。
「失礼いたしました」
「兄上たちが怖い?」
「いいえ」
嘘ではない。
ただ、ようやく実感しただけだ。
この王家では、多くの王子たちが本当に戦場へ出てきたのだと。
「紹介するね」
ライレイが兄弟姉妹を順番に紹介していく。
アデルは必死に顔と名前を結びつけた。
思った以上に皆、雰囲気が違う。
大柄で武人らしい兄。
細身で物静かな兄。
笑顔の少ない兄。
逆に豪快に笑う兄。
三人の姉王女はそれぞれ異なる色の華やかな衣装をまとい、アデルの銀髪やスピネリア風のドレスを興味深そうに見ていた。
そして最後。
「リンレイ」
ライレイの声だけが、少し柔らかくなった。
一人の少女が前へ出た。
十五歳。
艶のある赤茶色の髪を長く伸ばし、金の飾りを挿している。華奢な身体に淡い杏色の衣を重ね、まだ大人になりきらない顔立ちには、どこか慎重な気配があった。
髪の色も、澄んだ金色の瞳も兄によく似ている。けれど印象は少し違った。大きく、くっきりと吊り上がった瞳は気が強そうにも見えるのに、今は見知らぬ客人を前に警戒する猫のように、わずかに様子を窺っていた。
「妹のリンレイ。ワタシと同じ母から生まれた」
「お初にお目にかかります、アデル様」
リンレイが丁寧に礼をする。
「お初にお目にかかります。お会いできて光栄です」
アデルも礼を返す。
顔を上げた時、ライレイがリンレイの肩へほんの一瞬手を添えた。
「無理してない?」
「大丈夫です、兄様」
「疲れたら戻っていいから」
「子どもではありません」
「十五は子どもだよ」
「兄様が十五の頃は戦場に出ていたでしょう」
「だから言ってるの」
リンレイが少し頬を膨らませる。
ライレイが笑った。
その笑顔を見て、アデルは目を瞬いた。
スピネリアで見たどの笑顔とも違う。
外交の笑みでもない。
人をからかう時のものでもない。
ただの兄の顔だった。
十二人いる王子王女の中で、ライレイと同じ母を持つのはリンレイだけだという。
そして、その妹は王家の中でも決して強い立場ではない。
第八王子だったライレイが結果を求め続けた理由は、自分だけが生き残るためではなかった。
自分が負ければ。
自分よりさらに力の弱い妹まで、その余波を受ける。
だから勝った。
敵に。
兄たちに。
王位を巡る競争に。
金色の瞳を細め、妹の髪飾りを直してやるライレイの姿を見ながら、アデルはようやくその一端を理解した気がした。
「アデル」
低い声に呼ばれる。
振り向くと、リュシアンがこちらを見ていた。
「何です?」
「後で聞け」
「何をでしょう」
「顔に全部出てる」
「そんなに?」
「かなり」
どうやら見すぎていたらしい。
アデルは少し姿勢を正した。
宴が始まり、食事が進む。
シャンの料理は、スピネリアとはまるで違った。香草や香辛料を惜しみなく使い、肉にも魚にも強い香りがある。一方で、食事の間に香水をつける者はほとんどおらず、広間の隅で焚かれている沈香の煙が全体を静かにまとめていた。
「どうだ?」
突然、低い声を掛けられた。
顔を上げる。
先ほど紹介された第三王子だった。昼間、ライレイから聞いた狩猟策を主導している人物でもある。
大柄な身体を持ち、日に焼けた肌に、火へ煤を混ぜたような焦げた赤の髪。鋭い一重の瞳は黒く、右の頬から顎へは、剣で切られたらしい深い古傷が一本走っている。
「森は見たそうだな」
「はい」
「酷いと思ったか?」
直球だった。
周囲の会話が、わずかに静かになった気がする。
アデルは言葉を選んだ。
「今の方法を続けることには、問題があると思います」
「なるほど」
王子は不機嫌になるでもなく、杯を傾けた。
「やはり、あの老人どもと同じことを言うか」
「少なくとも、彼らの狩猟方法には理由があります」
「理由があることと、国を食わせられることは別だ」
アデルは黙る。
王子の声には怒りより疲労があった。
「戦争が終わった」
「はい」
「それ自体はいい。俺も好きで戦っていたわけじゃない」
傷のある指が杯の縁をなぞる。
「だが、俺の下には何千という兵がいる。弓しか知らない男もいる。十五から兵になり、畑の耕し方すら知らない者もいる」
昼間、ライレイが言っていた。
兄たちは、自分の兵を食わせたいのだと。
「戦争が終わったから帰れと言って、どこへ帰す?」
「……」
「家が焼けた者もいる。家族を失った者もいる。国は勝ったが、勝った兵すべてが豊かになったわけじゃない」
王子はアデルをまっすぐ見た。
「鹿を狩れば金になる。それなら弓を捨てさせずに済む」
正しい。
少なくとも、その部分は。
「だから調香師殿」
「はい」
「狩るなと言うなら、その先まで考えてくれ」
アデルは目を見開いた。
「俺たちが知りたいのは、綺麗な正論じゃない」
頬の傷が、笑うと少し歪んだ。
「兵を食わせて、森も残せる方法だ」
敵意ではなかった。
むしろ期待されている。
それが、余計に難しい。
「……分かりました」
アデルはゆっくり頷いた。
「明日、もう一度森を見せてください」
「好きなだけ見ろ」
王子が笑った。
「そのために呼んだんだろう、第八」
視線がライレイへ飛ぶ。
「そうだよ、兄上」
ライレイも笑う。
二人とも笑っている。
けれど、そこにあるものは単純な兄弟仲ではない。
戦場。
王位。
軍。
支持する者たち。
長い間積み重なってきた何かが、笑顔の下に確かにあった。
*
宴が終わったのは、夜もかなり更けてからだった。
アデルは侍女に案内され、リュシアンとともに王宮の客殿へ入った。
「こちらでございます」
扉が開く。
昨日とは違う、シャン国式の部屋だった。
濃い木材で組まれた家具。透かし彫りの衝立。低い卓。寝台には薄い帳が幾重にも垂らされ、隅の香炉からはごく淡い香木の煙が立っている。
「いい香り」
思わず呟く。
「まずそこか」
「かなり薄く焚いてくださっています。リュシアン様への配慮でしょうね」
「それはありがたい」
寝台を見る。
ひとつ。
大きい。
アデルは一度確認してから頷いた。
「問題ありません」
リュシアンが横を見る。
「何が?」
「ベッドが同じことには、もう慣れましたからね」
「…………」
「どうしました?」
「いや」
昨日、寝台を見ただけで固まっていた女と同一人物とは思えない。
「成長が早いなと思って」
「何の成長です?」
「何でもない」
侍女たちが湯浴みと夜着の準備を整える。
そこで初めて、アデルは小さく首を傾げた。
用意されていた寝間着は、スピネリアのものとはまるで形が違っていた。
柔らかな絹でできた上衣は、身体の前で斜めに襟を合わせ、細い帯で腰を留めるようになっている。下には同じ絹のゆったりした長袴を履くらしい。
布そのものは十分にある。
露出が多いわけでもない。
ないのだが。
*
「…………」
衝立の向こうから出たアデルは、裾をそっと摘んだ。
すーすーする。
何が、とは説明しにくい。
胸元も腕も脚も隠れている。けれど普段着ている夜着より生地が圧倒的に薄く、柔らかい。
身体を動かすたび、絹が肌へ沿う。
(体の線が出すぎている気が、する)
腰へ巻いた帯のせいで、余計にそう感じるのかもしれない。
長い銀髪はすでにほどいており、腰を越えて真っ直ぐ落ちている。その髪で少しでも隠せないだろうかと、アデルは無意識に前へ集めた。
「リュシアン様?」
返事がない。
見る。
リュシアンもシャン式の寝間着へ着替えていた。
濃い藍色。
こちらも合わせ襟で、腰を帯で留めている。普段のスピネリアの夜着より首元がやや緩く、黒髪ももう整えていない。前髪が少し額へ落ち、王太子らしい隙のなさが消えている。
アデルは一瞬、言葉を失った。
(……似合う)
それ以上考える前に、リュシアンの視線とぶつかった。
リュシアンも黙っていた。
「……何です?」
「いや」
「変ですか?」
「違う」
「では?」
「…………」
視線が少し下がる。
すぐに戻る。
非常に分かりやすかった。
「リュシアン様」
「生地がいいな」
「はい?」
「かなり上等な絹だ。軽いし、肌触りもいい」
「そうですね」
「スピネリアへ持ち帰って、同じようなものを作らせてもいいかもしれない」
「お気に召したのですね」
「ああ」
リュシアンは真顔で頷いた。
生地。
そう、生地の話をしている。
今はそれだけ考えればいい。
目の前にいる好きな女が、普段より薄い衣服を着ていて、腰まである銀髪を下ろし、本人は体の線が出ていることを気にして落ち着かなさそうにしていることなど、今は関係ない。
絹。
非常に質のいい絹である。
「……リュシアン様?」
「何?」
「ずっとこちらを見ています」
「見てない」
「見ています」
「見てない」
「目が合っています」
「今はな」
アデルは眉を寄せた。
それから、はっと何かに気づいたように両腕で自分の身体を軽く抱く。
「今日は」
「ん?」
「くっつかないでください」
「…………」
リュシアンの表情が目に見えてしょんぼりした。
「なぜ」
「なぜって」
アデルは自分の寝間着を見る。
「少し、落ち着かないので」
「俺、前回も何もしてないけど」
「存じております」
「研究されたのはむしろ俺なんだけど」
「それは……」
「首まで嗅がれた」
「忘れてください」
「忘れない」
「では余計に今日は駄目です」
アデルが寝台の端へ腰掛ける。
絹がするりと脚へ沿い、また気になってすぐ姿勢を直した。
リュシアンはその様子を見たあと、諦めたように息を吐く。
「分かった」
声が明らかに残念そうだった。
「そんな顔をなさらないでください」
「してない」
「しております」
「アデルがくっつくなって言うから」
「子どもですか?」
「未来の夫」
「そういう問題ではありません」
その時、扉が叩かれた。
二人同時に振り返る。
「ワタシだけど、入っていい?」
聞き覚えのある声。
「ライレイ殿下?」
アデルの身体が固まった。
反射的に自分の姿を見る。
この寝間着は。
シャンでは普通なのだろう。
侍女も何も言わなかった。
なら男性に見られても問題はないのかもしれない。
けれど。
分からない。
「リュシアン様」
「何?」
「これは、人前に出てもよい格好なのでしょうか」
「俺に聞くな」
「ですよね」
「アデルちゃん? 入るよ?」
「待っ――」
扉が開いた。
考えるより先に、アデルは動いた。
リュシアンの背後へ隠れる。
「……」
リュシアンが止まった。
背中の後ろから、銀色の髪と新緑色の瞳だけが少し覗いている。
服の裾をつまむ細い指が、自分の脇から見えた。
可愛い。
まずそれしか頭に浮かばなかった。
「どうしたの?」
ライレイが首を傾げる。
リュシアンは答えない。
「リュシアン?」
「……」
一拍。
二拍。
ようやく王太子としての理性が戻ってくる。
「……大丈夫だ。お気遣い感謝する」
「何が?」
「文化が違うから、多少不便があるかもしれないって聞いたんだけど」
「ああ」
そうだった。
質問をされていた。
リュシアンは咳払いをする。
「問題ない。部屋も十分だ」
「寝間着も平気?」
「…………」
背後でアデルの指に力が入った。
「問題ない」
「そう?」
ライレイの金色の瞳が、リュシアンの肩越しを覗く。
「アデルちゃんも?」
「はい」
顔だけ出して答える。
「大丈夫です」
「何で隠れてるの?」
「このお衣装を、男性に見られてよいのか分からなくて」
ライレイが一度瞬きをした。
そして笑った。
「大丈夫だよ。それ普通の寝間着だから」
「そうなのですね」
安心したらしい。
アデルが少しだけ前へ出る。
リュシアンは何となく惜しい気持ちになった。
「でも似合ってるよ」
「ありがとうございます」
「ライレイ」
「何?」
「用件が済んだなら帰れ」
「まだ一つだけ」
ライレイは扉へ手を掛けたまま、思い出したような顔をした。
「ああ、そうだ」
嫌な予感がした。
「気が利かなくてごめんね?」
「何がだ」
「この部屋には避妊薬は準備してないんだ」
時間が止まった。
「…………」
「…………」
アデルの顔から、すっと表情が消える。
リュシアンも動かない。
ライレイだけがにこにこしている。
「必要なら今から用意させるけど」
「いらない」
リュシアンが即答した。
「そう?」
「いらない」
「分かった」
ライレイは満足そうに頷いた。
「じゃ、また明日ね」
「待て」
扉が閉まった。
足音が遠ざかる。
静寂。
香炉から細い煙が上がっている。
アデルはしばらく扉を見つめていた。
それから、ゆっくりリュシアンを見る。
「……リュシアン様」
「何」
「今日は本当に、くっつかないでくださいね」
「…………」
リュシアンは目を閉じた。
「……別に前回も何もしてない」
返事が、先ほどよりさらにしょんぼりしていた。
森の問題は、明日また考える。
兄王子たちのことも。
ライレイが背負っているものも。
けれどその前に。
どうやら今夜も、眠るまでには少し時間がかかりそうだった。




