↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
19/73

第十九話 残すための香り

 目を覚ましたリュシアンは、しばらく動かなかった。

 理由は単純だった。

 動けない。

 胸元には銀色の髪が広がり、左腕には細い腕が絡んでいる。さらに掛布の下では、片脚までこちらへ寄せられているらしい。

 昨夜、自分から「今日はくっつかないでください」と言った女が、これ以上ないほどくっついていた。

「…………」

 朝の淡い光が、薄い帳を通して寝台へ落ちている。

 腕の中に収まったアデルはよく眠っていた。普段は低い位置でまとめられている長い銀髪も今は完全にほどけ、白い寝具の上へ波打つように広がっている。頬にはわずかに赤みがあり、伏せた睫毛の下にいつもの理知的な表情はない。

 非常に無防備だった。

 そして。

 可愛い。

 昨日から何度この言葉を頭の中で使っているのだろう。

「……アデル」

 小さく呼ぶ。

 反応はない。

「アデル」

「……ん」

 眉がわずかに動いた。

 ゆっくりと瞼が上がる。寝起きの瞳は光の加減で色が定まらず、薄い新緑の奥へ紫が溶けている。

「おはよう」

「……おはようございます」

 まだ眠そうだった。

「よく眠れた?」

「はい」

「それはよかった」

「リュシアン様も?」

「ああ。途中から暖かかったし」

「そうですか」

 アデルは満足そうにもう一度目を閉じかけた。

 そして、止まった。

 自分の手を見る。

 リュシアンの腕を抱えている。

 視線を下げる。

 身体の半分ほどが彼へ寄っている。

 さらに顔を上げる。

 近い。

「…………」

「気づいた?」

 アデルは無言で身体を離そうとした。

「昨日、何て言ってたっけ」

 ぴたりと止まる。

「覚えておりません」

「嘘つけ」

「寝言では?」

「起きてた」

「では、聞き間違いです」

「『今日はくっつかないでください』」

「……よく覚えていらっしゃいますね」

「かなり傷ついたからな」

 リュシアンがわざとらしく眉を下げた。

 アデルは何か言い返そうとして、少しだけ口を閉じる。

「……では」

「ん?」

「今は、少しくらいなら」

「何が?」

「…………」

 聞き返されると腹が立つ。

 分かっているくせに。

「くっついていても、構いません」

 目を逸らしたまま言う。

 リュシアンが黙った。

「寒いので」

「部屋、暖かいけど」

「シャン国の朝は冷えるのです」

「初めて迎えた朝なのに詳しいな」

「そういう気候なのでしょう」

「そうか」

「そうです」

 笑っている。

 声だけで分かった。

 アデルは少しだけ顔を上げる。

 案の定、灰青色の瞳が楽しそうに細められていた。

「……嬉しそうですね」

「嬉しいよ」

 即答だった。

 頬が熱くなる。

「そういうところです」

「何が?」

「なんでもありません」

「アデル」

「朝から追及しないでください」

 結局、離れなかった。

 むしろ先ほどより自然に頬を胸元へ戻す。

 リュシアンが何も言わず、腰へ腕を回した。

 ほんの少しだけ。

 本当に少しだけ、このままでいた。

「そろそろ起きないと遅れるぞ」

「……はい」

「今日は森へ行くんだろ」

「分かっています」

「じゃあ離して」

「リュシアン様が離してください」

「俺は後から抱いただけだ」

「…………」

 事実だった。

 アデルは渋々腕を解いた。

「今のことは」

「忘れない」

「まだ何も言っておりません」

「どうせ忘れろだろ」

「……最近、先回りしますね」

「好きな女のことばかり見てるからな」

 さらりと言われ、アデルは掛布を持ち上げて顔の半分を隠した。

「そういうところです」

 今日二度目だった。

*

 朝食を終える頃には、アデルの顔から寝起きの柔らかさはすっかり消えていた。

「昨日の狩猟記録を、もう一度見せていただけますか?」

 客殿の一室に広げられた帳面へ、白い指が伸びる。

「できれば捕獲した場所ごとの記録も。それから、雌雄の判別を始めた時期と、麝香を採取できた個体の大きさも知りたいです」

 向かいにいたライレイが瞬きをした。

「朝から元気だね」

「急いでいらっしゃるのでしょう?」

「そうだけど」

 隣にいるリュシアンが茶を飲みながら僅かに笑う。

「こうなると止まらない」

「知ってる」

「何ですか、お二人とも」

「別に」

「何でもないよ」

 アデルは二人を一度見てから、帳面へ戻った。

「あと、昨日お会いした猟師の方にも同行していただきたいです」

「手配してある」

 答えたのはライレイではなかった。

 昨日、歓迎の宴でアデルへ問いを投げた第三王子だった。

 大柄な身体を濃い色の狩装束へ包み、腰には弓と剣を下げている。髪はライレイの赤茶色よりもさらに深く、火に煤を混ぜたような焦げた赤。鋭い一重の瞳は黒く、黙ってこちらを見るだけなら近寄りがたいほど精悍だった。

 右頬から顎へは、戦場で受けたものらしい深い古傷が一本走っている。日に焼けた肌と厚い肩、節の目立つ手には、王宮で育った王子というより、長く兵と同じ場所で戦ってきた武人の逞しさがあった。

 けれど、その鋭い顔立ちには不思議と冷たさがない。昨日もそうだったが、兵士の話をする時だけ黒い瞳の奥に人情が滲む。傷のある強面に反して、部下を放っておけない人なのだろうと、アデルには少しずつ分かり始めていた。

「殿下もお越しになるのですか?」

「問題か?」

「いいえ。むしろありがたいです」

 即答すると、第三王子が片眉を上げる。

「昨日は好きなだけ森を見ろと言ったからな。俺も見る」

「兄上が?」

 ライレイが少し意外そうに尋ねた。

「何だ、第八」

「いや。部下に任せるかと思ってた」

「俺が始めた話だ」

 第三王子は短く答えた。

「なら、自分で見る」

 その言葉を聞いた瞬間、アデルは少しだけ印象を改めた。

 昨日から感じていた。

 この人は、乱獲そのものを楽しんでいるわけではない。

 結果を出そうとしている。

 自分の兵を食わせようとしている。

 ただ、その方法が戦争の頃から変わっていない。

「参りましょう」

 アデルが立ち上がる。

 長い銀髪は今日は高い位置でひとつにまとめ、森を歩くための簡素な灰青色の衣装へ着替えている。裾も普段より短く、革靴も土を踏むことを前提にしたものだった。

「アデル」

「はい?」

 リュシアンが立ち上がりながら、彼女の腰へ下げた小さな革鞄を見る。

「今日は何を入れた」

「必要最低限です」

「昨日も聞いた」

「試香紙、保存瓶、小刀、布、筆記具、それから――」

「もういい」

「なぜ聞いたのです?」

「重かったら俺が持つ」

 アデルが一瞬黙る。

「……では、疲れたらお願いいたします」

 以前なら「自分で持てます」と返していただろう。

 リュシアンが少しだけ目を見開いた。

「何です?」

「いや」

 口元が緩む。

「素直になったなと思って」

「今のなしです」

「遅い」

 アデルは先に歩き出した。

 耳だけが少し赤かった。

*

 森へ入る前、昨日の老人は一行を見回し、開口一番に言った。

「今日は、俺の言う通りに歩いてもらう」

 周囲の兵士がざわついた。

 王太子。

 他国の王太子。

 第三王子。

 侯爵令嬢にして宮廷調香師。

 その全員を前にした態度とは思えない。

 けれどライレイは気にした様子もなく頷いた。

「いいよ」

 第三王子も腕を組んだ。

「聞こう」

 老人は森の奥へ顔を向けた。

「まず、この先では大声を出すな。道から外れるな。弓も引くな」

 兵士の一人が眉を寄せる。

「鹿がいるから狩るんじゃないのか」

「今日は狩らん」

「では何のために来た」

「見るためだ」

「狩らずに?」

 老人が露骨に嫌そうな顔をした。

「お前たちは見る前に撃つから困ってるんだ」

 兵士がむっとする。

 アデルは思わず口元へ手を当てた。

「笑ったか?」

「いいえ」

「笑っていたぞ」

「少しだけです」

 正直だった。

 リュシアンが隣で小さく息を吐く。

「今日のお前、随分機嫌いいな」

「そうでしょうか」

「そうだよ」

 今朝のことを思い出しそうになり、アデルはすぐ老人へ視線を戻した。

「この時期は、なぜ狩らないのですか?」

 尋ねると、老人の表情が変わる。

 怒っていた顔から、森について話す顔へ。

「谷の奥に雌が集まる」

「子を育てるため?」

「ああ。あそこへ弓を持ち込めば、翌年の鹿が減る」

「雄は?」

「若いのは奥へ行く。大きいのは秋になると尾根を越えて下りてくる」

「その時だけ狩るのですね」

「全部じゃない」

 老人は前を歩きながら、指を三本立てた。

「この辺りなら、一季に三頭までだ」

「三頭?」

 第三王子が反応する。

「少なすぎる」

「だから毎年採れる」

 老人は振り返らなかった。

「十頭欲しいから十頭殺して、次の年に一頭もいなくなったら何になる」

 第三王子は答えない。

 黒い一重の瞳が、森の奥へ向けられたまま僅かに細くなる。

 アデルは歩きながら周囲を見た。

 獣道。

 削れた樹皮。

 泥に残った小さな蹄の跡。

 昨日までなら、ただの森として通り過ぎていたものが、老人にはすべて意味のある情報として見えているのだろう。

「雄と雌は、見ただけで分かります?」

「慣れればな」

「若い雄と成熟した雄は?」

「体つきと牙を見る。糞でも分かる」

 アデルの目が明るくなる。

「糞で?」

「匂いも違う」

「詳しく伺っても?」

「お前、本当に調香師か?」

「はい」

「猟師になりに来たみたいだな」

「必要な情報ですので」

 きっぱり答える。

 老人が初めて少し笑った。

 後ろから見ていたライレイも口元を緩める。

「アデルちゃん、どこへ行っても同じだね」

「何がです?」

「気になるものを見つけた時」

「仕事です」

「はいはい」

 リュシアンは何も言わない。

 ただ、よく知っている顔で彼女を見ていた。

*

 森を抜けた先に、小さな集落があった。

 昨日見た狩猟拠点とは違う。旧領民たちが昔から使っていた猟師小屋がいくつか残り、その一角には、革や角、薬草などを保管する倉がある。

 老人が奥から小さな木箱を持ってきた。

「昔採ったものが残ってる」

 蓋を開ける。

 中には乾燥させた麝香の包みがいくつか収められていた。

 アデルの表情が変わる。

「確認しても?」

「ああ」

 昨日と同じように少量だけ取り、試香紙へ。

 直接嗅ぎ込まず、少し距離を置いて香りを拾う。

 動物性の強い気配。

 その奥に、温かく深い甘さ。

 単体では決して万人に好まれる香りではない。それでも極めて少量を花や樹脂へ合わせれば、香り全体を肌へ留め、時間とともに滑らかに変化させる力がある。

「……違う」

 アデルが呟いた。

「何が?」

 リュシアンが横へ来る。

「昨日のものより、ずっとよいです」

 第三王子が眉を寄せた。

 鋭い一重の黒い瞳が、アデルの手元にある二枚の試香紙を見比べる。

「古いのだろう」

「はい」

「なら、熟成したからでは?」

「その影響もあります。ただ、それだけではないと思います」

 もう一枚。

 昨日採取されたものも持参していた。

 二つを離して確かめる。

「こちらは香りが浅い」

「浅い?」

「獣臭さだけが先に立ちます。奥行きがありません」

 アデルは試香紙を置いた。

「若い雄から採ったものが混ざっています。それに採取時期も揃っていないのでしょう」

 老人が頷く。

「昔は秋の終わりしか採らなかった」

「なぜです?」

「その頃のが一番高く売れた」

「誰に?」

「山を越えてくる商人だ。理由までは知らん」

 経験。

 やはりそうだった。

 理屈として体系化されていなくても、何世代も取引を続ける中で、最も価値の高い時期を知っていた。

「同じ鹿なのに、違うのか?」

 第三王子が聞く。

「はい」

 アデルは迷わず答えた。

「今の狩り方では、数だけでなく品質も落としています」

 第三王子の顔から僅かに表情が消えた。

「量を増やすための狩りが、価値を下げています」

 沈黙。

 遠くで水の流れる音がする。

「なら」

 第三王子が腕を組んだ。厚い腕に古い傷が何本も走り、その仕草だけで長く戦場にいたことが分かる。

「成熟した雄だけを狩ればいい」

「それなら、品質は上がると思います」

「そうしろ」

「ですが」

 アデルの声は冷静だった。

「数は、今よりかなり減ります」

 第三王子が止まる。

「どれくらいだ」

「まだ調査が必要です。ただ、昨日のような数にはなりません」

「それでは仕事にならない」

 即答だった。

「兵が余る」

 短い言葉だったが、その声には焦りではなく重さがあった。

 アデルは黙った。

 やはり、そこへ戻る。

 鹿を守れば終わりではない。

 この人が守ろうとしているものもある。

「昨日も申し上げましたが」

 第三王子の低い声が続く。

「狩るなというのは簡単だ」

「はい」

「俺の兵は何をする」

 責める口調ではなかった。

 答えを求めている。

 黒い瞳に怒りより先に浮かんでいるのは、部下を路頭に迷わせることへの焦燥だった。

 アデルは森へ目を向けた。

 昨日からずっと考えていた。

 麝香鹿。

 香木。

 樹脂。

 薬草。

 広い森。

 そして兵士。

「……一つ、伺っても?」

「何だ」

「なぜ、兵士の皆様は全員、鹿を狩らなければならないのでしょう」

 第三王子の眉が動いた。

「何?」

「弓を使えるから、鹿を狩る。確かに自然な発想です」

 アデルは言葉を選ぶ。

「ですが、弓を使えることと、鹿を殺さなければならないことは、同じではありません」

 ライレイが顔を上げた。

「続けて」

「まだ案の段階です」

「それでいい」

 アデルは森を指した。

「この森には麝香鹿だけではなく、香木も、樹脂も、薬草もあります。スピネリアへ送っていただいたものだけでも、価値のある香料は複数ございました」

「ああ」

「でしたら、守る仕事も必要になるのでは?」

「守る?」

「採取地を」

 少しずつ考えながら言葉にする。

「誰でも好きなだけ採れば、麝香鹿と同じことになります。香木を切り尽くす者が出るかもしれません。樹脂を採りすぎて木を枯らす者もいるでしょう。国外へ密かに持ち出す商人も」

 リュシアンが口を開いた。

「森林警備か」

「はい」

「輸送路もいるな」

 ライレイが地図を思い浮かべるように目を細める。

「森から王都まで運ぶ道。商人が入るなら護衛も必要になる」

「採取量を記録する人間も」

 アデルが続ける。

「旧領民の方々から、森について学ぶ方も必要です」

 第三王子が黙っている。

 焦げた赤い髪の下、黒い瞳が森と自分の兵士たちを交互に見ていた。

「今すぐ兵士全員の仕事を作れるとは申しません」

 アデルは彼を見る。

「私には軍のことは分かりませんから」

 その一言に、第三王子の表情が僅かに変わった。

「でも、香料についてならお力になれます」

 押しつけない。

 分からないものを、分かるふりもしない。

「麝香鹿だけを国の産業にする必要はありません。この森全体を、一つの産業として見ることはできると思います」

「森全体を」

「はい」

 第三王子はしばらく黙っていた。

 やがて森を見る。

「弓を置け、と?」

「いいえ」

 アデルは首を振った。

「弓を、違うものへ向けることはできませんか?」

 その言葉に、ライレイの金色の瞳が細くなった。

 第三王子は笑わなかった。

「簡単に言うな」

 今度の言葉は、アデルではなくライレイへ向いていた。

「兄上」

「お前はいい」

 第三王子の頬を走る傷が、噛み締めた顎の動きで僅かに歪む。黒い一重の目には鋭さが戻っていたが、その奥にあるのは弟への敵意だけではなかった。

「戦争が終わっても、王太子という次の仕事がある」

 ライレイから笑みが消えた。

「だが、俺の兵は違う」

「分かってる」

「分かるものか」

 声が低くなる。

 周囲の兵士たちは何も言わない。

 ただ、第三王子を見る目には明らかな信頼があった。

「十五から弓しか引いてこなかった男に、明日から森を管理しろと言うのか? 家を焼かれた奴もいる。親兄弟を失った奴もいる。戦争が終わったから帰れと言って、どこへ帰す」

 節だった大きな手が、無意識に拳を作る。

「俺は、あいつらに戦えと言った」

 兵士たちの顔を見る。

「俺について来いと。生きて帰れば、その先はどうにかすると言った」

 第三王子の黒い瞳に、人情が滲んだ。

 アデルは何も言えなかった。

「だから今さら、もう戦争は終わった、自分で生きろとは言えない」

「兄上」

「お前は昔からそうだ」

 第三王子が吐き出すように言った。

「捨てるのが早い」

「……」

「戦い方も。部隊も。必要がないと判断した瞬間、次へ行ける」

 ライレイは黙ったまま兄を見る。

「俺たちは、お前ほど器用じゃないんだよ、第八」

 空気が張り詰めた。

 第八。

 今は王太子であるライレイを、兄はそう呼んだ。

 王子として生まれた順番。

 昔の位置。

 戦争が始まる前なら、決して王になるはずのなかった男。

「……知ってるよ」

 ライレイの返事は静かだった。

「だから、勝手に切らない」

 第三王子が僅かに目を細める。

「兵も。兄上たちも」

「口だけなら何とでも言える」

「そうだね」

 ライレイは否定しなかった。

「だから結果を出す」

 金色の瞳がまっすぐ兄を見る。

「今までと同じように」

 焦げた赤の髪と、赤茶色の髪。

 黒い瞳と、金の瞳。

 容姿も、戦い方も、守ろうとするものも違う。

 それでも、その瞬間だけ。

 アデルには二人がよく似た兄弟に見えた。

 刀も弓もない。

 敵軍もいない。

 それでも。

 戦いは、終わっていない。

*

 王宮へ戻ったのは、日が傾き始めた頃だった。

 泥を落とし、着替えを済ませ、今日聞いた内容を記録へまとめる。

 アデルは客殿の机に向かい、羽根ペンを動かしていた。

 狩猟時期。

 成熟した雄の判別。

 旧領民の狩猟数。

 麝香の品質差。

 森林資源の種類。

 兵士の配置転換。

 書けば書くほど、問題が広がっていく。

「難しい……」

 思わず呟いた時、控えめに扉が叩かれた。

「はい」

 侍女かと思って返事をする。

 扉が開く。

「アデル様」

 立っていたのはリンレイだった。

「リンレイ殿下」

 十五歳の少女は、昨日と同じように淡い杏色の衣を重ねていた。艶のある長い赤茶色の髪には細い金の髪飾りが挿され、肩から背へ滑らかに流れている。兄のライレイと同じ色彩だった。大きくくっきりとした吊り目の中には澄んだ金色があり、華奢な身体とまだ少女らしさを残す顔立ちに、少しだけ気の強そうな印象を添えている。

 血の繋がりは、説明されなくても分かる。

 ただし、華やかに笑って人の懐へ飛び込む兄とは違い、リンレイは扉のところからアデルを静かに観察していた。

 警戒している猫のようだった。

「お疲れ様でございます」

「ありがとうございます」

「……」

「……?」

 何か用があるのだろう。

 けれどリンレイは、すぐには部屋へ入ってこない。

 金色の大きな瞳が一度机上の書類へ向かい、それからアデルへ戻る。

「お仕事中でしたか?」

「ちょうど一区切りついたところです」

「そうですか」

 短い返事。

 また少し沈黙。

 やがてリンレイは視線を僅かに逸らした。

「アデル様。お疲れ様でございます。お茶はいかがでしょうか?」

「お茶?」

「はい」

 誘っているのに、声の調子はあまり変わらない。

 アデルは一瞬だけ迷った。

「私がご一緒してもよろしいのですか?」

 リンレイの吊り目が僅かに丸くなる。

「お誘いしておりますので」

「あ、そうですよね」

「嫌でしたか?」

「いいえ。ぜひ」

 答えると、金色の瞳の険がほんの少しだけ薄くなった。

「……よかったです」

 口元もごく僅かに緩む。

 昨日、初めて顔を合わせた時よりは近い。

 それを見て、アデルも微笑んだ。

「では、お邪魔いたします」

*

 案内されたのは、王宮の奥にある小さな茶室だった。

 後宮の内部ではないらしい。庭へ面した一室で、開け放した窓の向こうには細い竹と水盤が見える。

 室内には香炉がない。

 代わりに、湯気の中から淡い茶の香りが立っていた。

「こちらをお見せしたかったのです」

 リンレイが示したのは、透明な器だった。

 中には丸く固められた茶葉が一つ沈んでいる。

「お茶……ですか?」

「はい」

 侍女が熱い湯を注ぐ。

 最初は固く閉じていた茶葉が、ゆっくりとほどけ始めた。

 緑の葉が水の中で揺れる。

 やがて中心から白いものが現れた。

「花?」

 アデルが身を乗り出す。

 何枚もの葉に包まれていた白い花が、湯の中でゆっくり開いていく。

「茉莉花です」

「ジャスミン……」

 今度は鼻を近づけすぎないように気をつけながら、立ち上る香りを確かめる。

 茶葉の青さ。

 湯の熱。

 その上へ、柔らかな花の甘さ。

「面白い……」

 思わず声が漏れた。

 リンレイがこちらを見る。

 先ほどまで慎重に細められていた大きな吊り目が、今度は純粋な興味で少し開く。

「そんなに?」

「はい」

 アデルの瞳がすっかり仕事の色になっている。

「最初は茶葉の香りの方が強かったのに、開くにつれて花が前へ出てきます」

「普通のお茶と違いますか?」

「違うというより……香り方が面白いです」

 器の中で花が開ききるのを眺める。

「香水は、完成した香りを瓶へ閉じ込めます。肌につけてから変化はしますけれど、調香師があらかじめ順番を考えて作るものです」

「はい」

「でも、これは目の前で出来上がっていく」

 アデルは楽しそうに笑った。

「湯を注いだ瞬間から、少しずつ香りが変わる。見ることまで含めて、一つの香りなのですね」

 リンレイがじっとアデルを見る。

 まだ完全に警戒を解いたわけではない。それでも、先ほどより身体が少しだけこちらへ向いている。

「……本当にお好きなのですね」

「ジャスミンが?」

「お仕事が」

 アデルは少しだけ目を丸くした。

「はい」

 答えに迷いはなかった。

「とても好きです」

「兄様が欲しがるわけですね」

「人材として、ですよね?」

 リンレイが茶を一口飲む。

「……たぶん」

「たぶん?」

「半分くらいは」

「半分?」

「何でもございません」

 顔色ひとつ変えない。

 けれど、どこかライレイと同じ匂いがした。

 アデルは追及しないことにした。

 茶を口へ運ぶ。

 香りほど強くはない。飲めば茶葉の穏やかな苦味が先に立ち、その後からジャスミンの甘い余韻が鼻へ抜けていく。

「美味しい」

「よかったです」

 リンレイの口元が、またほんの少し緩んだ。

 最初は卓の向こう側にきっちり座っていたはずなのに、気づけば少しだけ身を乗り出している。

 警戒していた猫が、こちらの匂いを確かめるために一歩近づいてきたようだった。

「アデル様は」

「はい?」

「兄様を、どう思いますか?」

 危うく茶をこぼしかけた。

「ライレイ殿下を?」

「はい」

「どう、と申されましても」

「兄様はアデル様のお話をよくします」

「……どのような?」

「賢い。面白い。スピネリアには勿体ない」

「最後の部分はリュシアン様にはお聞かせできませんね」

「やはり?」

「かなり機嫌を損ねます」

 リンレイの大きな吊り目が楽しそうに細くなった。

「少し見てみたいです」

「お勧めはいたしません」

 アデルが真顔で答える。

 リンレイは一瞬だけ堪えたあと、小さく笑った。

 初めて見る、年相応の笑顔だった。

 二人で茶を飲む。

 しばらくして、アデルの視線がリンレイへ向いた。

 長い赤茶色の髪。

 澄んだ金色の瞳。

 こうして向かい合うと、やはりライレイによく似ている。

「リンレイ殿下」

「はい」

「一つ、お尋ねしても?」

「どうぞ」

「ライレイ殿下は、いつ頃から戦場へ出ていらしたのですか?」

 リンレイはすぐには答えなかった。

 透明な器の中では、白いジャスミンがもう完全に開いている。

「初めて戦争に行ったのは、今のわたしと同じ年でした」

 アデルの指が止まった。

「十五歳で?」

「はい」

 今のライレイは二十歳。

 つまり、戦場へ出てからまだ五年しか経っていない。

 五年。

 たったそれだけの間に、七人の兄を抜き、第八王子から王太子になった。

 アデルは昨日見た兄王子たちの顔を思い出した。

 頬の傷。

 眉を割る傷。

 首筋に残った痕。

 そして、見えるところにはほとんど傷のないライレイ。

「兄様は、最初から強かったわけではありません」

 リンレイが静かに言った。

「そうなのですか?」

「はい」

 大きな金色の瞳が茶の中の花へ落ちる。

「負ければ、次は自分だと分かっていただけです」

「次は?」

「母は、もうおりませんでしたから」

 それだけで十分だった。

 ライレイとリンレイ。

 同じ母から生まれた二人。

 第八王子と、そのさらに下に生まれた王女。

 王位を巡る争いの中で、決して強い立場ではなかった。

「ライレイ殿下が負ければ……」

「わたしを守れる人はいなくなります」

 リンレイの声は淡々としていた。

 悲劇を語っているようには聞こえない。

 おそらく、彼女にとっては昔からそこにあった現実なのだ。

「だから、兄様は勝ち続けました」

「リンレイ殿下を守るために?」

「それだけではないと思います」

 即答だった。

「兄様は欲張りですから」

 ほんの少し、リンレイが笑った。

「欲しいものがたくさんあります」

「それは何となく分かります」

「でしょう?」

 初めて少しだけ声に年相応の明るさが混じる。

「でも」

 リンレイは茶器を両手で包んだ。

「わたしを置いて死ぬことは、できなかったでしょうね」

 静かな言葉だった。

 アデルは何も返さなかった。

 簡単に「優しいお兄様なのですね」とまとめるには、ライレイの歩いてきた道はきっと重すぎる。

 暗殺。

 追放。

 戦争。

 兄弟同士の争い。

 以前彼自身が軽い調子で口にした言葉を思い出す。

 必要なら何でもする。

 そういう男になった理由が、少しだけ見えた。

「戦争をしていた頃は」

 リンレイが窓の外を見る。

「兄様が何と戦っているのか、分かりやすかったのです」

「敵国ですか?」

「敵の軍。城。国境」

 一つずつ数える。

「それから、兄上たち」

 最後だけ少し小さかった。

「勝てばいい。取ればいい。生きて帰ればいい」

 今日、森で聞いた言葉とよく似ていた。

 戦争では、結果が明確だ。

「でも今は」

 リンレイの金色の瞳がわずかに伏せられる。

「今のライレイ兄様の方が、戦っている気がしてしまうのはなぜでしょうね……」

 アデルは答えなかった。

 今日見たものが頭の中へ浮かぶ。

 森を奪われた旧領民。

 自分の兵を守ろうとする第三王子。

 戦争でしか生き方を知らない兵士たち。

 枯らしたくない森林資源。

 国庫。

 交易。

 兄弟。

 王位。

 どこにも、倒せば終わる一人の敵はいない。

「……敵が、見えないからかもしれません」

 リンレイが顔を上げる。

「敵?」

「戦争であれば、倒すべき相手がいます」

 アデルはゆっくり言葉を探した。

「でも今の問題は、誰か一人を倒せば解決するものではありません」

 狩猟を進めた第三王子も。

 反発する旧領民も。

 職を求める兵士も。

 誰か一人が間違っているわけではない。

「皆、それぞれ守りたいものがあるのでしょう」

「……」

「だから、難しいのだと思います」

 リンレイはしばらく黙っていた。

 やがて、もう一度茶を飲む。

「アデル様」

「はい?」

「明日も、お茶を飲みませんか?」

 あまりにも突然だった。

「明日?」

「はい」

 金色の吊り目が、今度はまっすぐアデルを見る。

 先ほどまであった慎重さが、ほんの少しだけ薄くなっていた。

「もちろん。喜んで」

「では決まりです」

 さっきまでの静かな政治の話はどこへ行ったのか。

 リンレイは何でもないことのように茶器を置く。

「明日は違う花のお茶にいたします」

「違うものもあるのですか?」

「たくさんございます」

 アデルの目が明らかに輝いた。

「ぜひ」

「香木もお好きですか?」

「もちろんです」

「では、わたしの香炉もお見せします」

「よろしいのですか?」

「はい」

 少し前まで、扉のところでアデルを窺っていた少女が、気づけば次々と翌日の予定を決めている。

「それから、兄様が持っている香木より、わたしの方がよいものを持っています」

「そうなのですか?」

「兄様は量で選びますから」

「少し分かる気がします」

「ですよね」

 リンレイが今度こそ楽しそうに笑った。

 警戒して遠巻きに見ていた猫が、一度安全だと分かると急に隣へ居座り始める。

 どうやらリンレイという少女は、そういう性質らしい。

 茶器の中では、固く閉じていた花がもうすっかり開いていた。

 湯が冷めるほどに、ジャスミンの香りは柔らかくなっていく。

 最初から強く香るのではない。

 時間をかけて、少しずつ姿を変える。

 今日見た森も。

 シャンという国も。

 きっと同じなのだろう。

 戦争が終わったからといって、すぐに平和な国へ変わるわけではない。

 これまで正しかったものを捨て、新しいやり方を覚えるには、時間がかかる。

 そして。

 アデルは、先ほどのリンレイの言葉をもう一度思い出した。

 ――今のライレイ兄様の方が、戦っている気がしてしまうのはなぜでしょうね。

 窓の向こう、王宮の朱い屋根のさらに向こうには、今日歩いた森がある。

 その森を巡る問題の奥に、まだ自分には見えていない別の争いがある。

 そんな気がした。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。