第十九話 残すための香り
目を覚ましたリュシアンは、しばらく動かなかった。
理由は単純だった。
動けない。
胸元には銀色の髪が広がり、左腕には細い腕が絡んでいる。さらに掛布の下では、片脚までこちらへ寄せられているらしい。
昨夜、自分から「今日はくっつかないでください」と言った女が、これ以上ないほどくっついていた。
「…………」
朝の淡い光が、薄い帳を通して寝台へ落ちている。
腕の中に収まったアデルはよく眠っていた。普段は低い位置でまとめられている長い銀髪も今は完全にほどけ、白い寝具の上へ波打つように広がっている。頬にはわずかに赤みがあり、伏せた睫毛の下にいつもの理知的な表情はない。
非常に無防備だった。
そして。
可愛い。
昨日から何度この言葉を頭の中で使っているのだろう。
「……アデル」
小さく呼ぶ。
反応はない。
「アデル」
「……ん」
眉がわずかに動いた。
ゆっくりと瞼が上がる。寝起きの瞳は光の加減で色が定まらず、薄い新緑の奥へ紫が溶けている。
「おはよう」
「……おはようございます」
まだ眠そうだった。
「よく眠れた?」
「はい」
「それはよかった」
「リュシアン様も?」
「ああ。途中から暖かかったし」
「そうですか」
アデルは満足そうにもう一度目を閉じかけた。
そして、止まった。
自分の手を見る。
リュシアンの腕を抱えている。
視線を下げる。
身体の半分ほどが彼へ寄っている。
さらに顔を上げる。
近い。
「…………」
「気づいた?」
アデルは無言で身体を離そうとした。
「昨日、何て言ってたっけ」
ぴたりと止まる。
「覚えておりません」
「嘘つけ」
「寝言では?」
「起きてた」
「では、聞き間違いです」
「『今日はくっつかないでください』」
「……よく覚えていらっしゃいますね」
「かなり傷ついたからな」
リュシアンがわざとらしく眉を下げた。
アデルは何か言い返そうとして、少しだけ口を閉じる。
「……では」
「ん?」
「今は、少しくらいなら」
「何が?」
「…………」
聞き返されると腹が立つ。
分かっているくせに。
「くっついていても、構いません」
目を逸らしたまま言う。
リュシアンが黙った。
「寒いので」
「部屋、暖かいけど」
「シャン国の朝は冷えるのです」
「初めて迎えた朝なのに詳しいな」
「そういう気候なのでしょう」
「そうか」
「そうです」
笑っている。
声だけで分かった。
アデルは少しだけ顔を上げる。
案の定、灰青色の瞳が楽しそうに細められていた。
「……嬉しそうですね」
「嬉しいよ」
即答だった。
頬が熱くなる。
「そういうところです」
「何が?」
「なんでもありません」
「アデル」
「朝から追及しないでください」
結局、離れなかった。
むしろ先ほどより自然に頬を胸元へ戻す。
リュシアンが何も言わず、腰へ腕を回した。
ほんの少しだけ。
本当に少しだけ、このままでいた。
「そろそろ起きないと遅れるぞ」
「……はい」
「今日は森へ行くんだろ」
「分かっています」
「じゃあ離して」
「リュシアン様が離してください」
「俺は後から抱いただけだ」
「…………」
事実だった。
アデルは渋々腕を解いた。
「今のことは」
「忘れない」
「まだ何も言っておりません」
「どうせ忘れろだろ」
「……最近、先回りしますね」
「好きな女のことばかり見てるからな」
さらりと言われ、アデルは掛布を持ち上げて顔の半分を隠した。
「そういうところです」
今日二度目だった。
*
朝食を終える頃には、アデルの顔から寝起きの柔らかさはすっかり消えていた。
「昨日の狩猟記録を、もう一度見せていただけますか?」
客殿の一室に広げられた帳面へ、白い指が伸びる。
「できれば捕獲した場所ごとの記録も。それから、雌雄の判別を始めた時期と、麝香を採取できた個体の大きさも知りたいです」
向かいにいたライレイが瞬きをした。
「朝から元気だね」
「急いでいらっしゃるのでしょう?」
「そうだけど」
隣にいるリュシアンが茶を飲みながら僅かに笑う。
「こうなると止まらない」
「知ってる」
「何ですか、お二人とも」
「別に」
「何でもないよ」
アデルは二人を一度見てから、帳面へ戻った。
「あと、昨日お会いした猟師の方にも同行していただきたいです」
「手配してある」
答えたのはライレイではなかった。
昨日、歓迎の宴でアデルへ問いを投げた第三王子だった。
大柄な身体を濃い色の狩装束へ包み、腰には弓と剣を下げている。髪はライレイの赤茶色よりもさらに深く、火に煤を混ぜたような焦げた赤。鋭い一重の瞳は黒く、黙ってこちらを見るだけなら近寄りがたいほど精悍だった。
右頬から顎へは、戦場で受けたものらしい深い古傷が一本走っている。日に焼けた肌と厚い肩、節の目立つ手には、王宮で育った王子というより、長く兵と同じ場所で戦ってきた武人の逞しさがあった。
けれど、その鋭い顔立ちには不思議と冷たさがない。昨日もそうだったが、兵士の話をする時だけ黒い瞳の奥に人情が滲む。傷のある強面に反して、部下を放っておけない人なのだろうと、アデルには少しずつ分かり始めていた。
「殿下もお越しになるのですか?」
「問題か?」
「いいえ。むしろありがたいです」
即答すると、第三王子が片眉を上げる。
「昨日は好きなだけ森を見ろと言ったからな。俺も見る」
「兄上が?」
ライレイが少し意外そうに尋ねた。
「何だ、第八」
「いや。部下に任せるかと思ってた」
「俺が始めた話だ」
第三王子は短く答えた。
「なら、自分で見る」
その言葉を聞いた瞬間、アデルは少しだけ印象を改めた。
昨日から感じていた。
この人は、乱獲そのものを楽しんでいるわけではない。
結果を出そうとしている。
自分の兵を食わせようとしている。
ただ、その方法が戦争の頃から変わっていない。
「参りましょう」
アデルが立ち上がる。
長い銀髪は今日は高い位置でひとつにまとめ、森を歩くための簡素な灰青色の衣装へ着替えている。裾も普段より短く、革靴も土を踏むことを前提にしたものだった。
「アデル」
「はい?」
リュシアンが立ち上がりながら、彼女の腰へ下げた小さな革鞄を見る。
「今日は何を入れた」
「必要最低限です」
「昨日も聞いた」
「試香紙、保存瓶、小刀、布、筆記具、それから――」
「もういい」
「なぜ聞いたのです?」
「重かったら俺が持つ」
アデルが一瞬黙る。
「……では、疲れたらお願いいたします」
以前なら「自分で持てます」と返していただろう。
リュシアンが少しだけ目を見開いた。
「何です?」
「いや」
口元が緩む。
「素直になったなと思って」
「今のなしです」
「遅い」
アデルは先に歩き出した。
耳だけが少し赤かった。
*
森へ入る前、昨日の老人は一行を見回し、開口一番に言った。
「今日は、俺の言う通りに歩いてもらう」
周囲の兵士がざわついた。
王太子。
他国の王太子。
第三王子。
侯爵令嬢にして宮廷調香師。
その全員を前にした態度とは思えない。
けれどライレイは気にした様子もなく頷いた。
「いいよ」
第三王子も腕を組んだ。
「聞こう」
老人は森の奥へ顔を向けた。
「まず、この先では大声を出すな。道から外れるな。弓も引くな」
兵士の一人が眉を寄せる。
「鹿がいるから狩るんじゃないのか」
「今日は狩らん」
「では何のために来た」
「見るためだ」
「狩らずに?」
老人が露骨に嫌そうな顔をした。
「お前たちは見る前に撃つから困ってるんだ」
兵士がむっとする。
アデルは思わず口元へ手を当てた。
「笑ったか?」
「いいえ」
「笑っていたぞ」
「少しだけです」
正直だった。
リュシアンが隣で小さく息を吐く。
「今日のお前、随分機嫌いいな」
「そうでしょうか」
「そうだよ」
今朝のことを思い出しそうになり、アデルはすぐ老人へ視線を戻した。
「この時期は、なぜ狩らないのですか?」
尋ねると、老人の表情が変わる。
怒っていた顔から、森について話す顔へ。
「谷の奥に雌が集まる」
「子を育てるため?」
「ああ。あそこへ弓を持ち込めば、翌年の鹿が減る」
「雄は?」
「若いのは奥へ行く。大きいのは秋になると尾根を越えて下りてくる」
「その時だけ狩るのですね」
「全部じゃない」
老人は前を歩きながら、指を三本立てた。
「この辺りなら、一季に三頭までだ」
「三頭?」
第三王子が反応する。
「少なすぎる」
「だから毎年採れる」
老人は振り返らなかった。
「十頭欲しいから十頭殺して、次の年に一頭もいなくなったら何になる」
第三王子は答えない。
黒い一重の瞳が、森の奥へ向けられたまま僅かに細くなる。
アデルは歩きながら周囲を見た。
獣道。
削れた樹皮。
泥に残った小さな蹄の跡。
昨日までなら、ただの森として通り過ぎていたものが、老人にはすべて意味のある情報として見えているのだろう。
「雄と雌は、見ただけで分かります?」
「慣れればな」
「若い雄と成熟した雄は?」
「体つきと牙を見る。糞でも分かる」
アデルの目が明るくなる。
「糞で?」
「匂いも違う」
「詳しく伺っても?」
「お前、本当に調香師か?」
「はい」
「猟師になりに来たみたいだな」
「必要な情報ですので」
きっぱり答える。
老人が初めて少し笑った。
後ろから見ていたライレイも口元を緩める。
「アデルちゃん、どこへ行っても同じだね」
「何がです?」
「気になるものを見つけた時」
「仕事です」
「はいはい」
リュシアンは何も言わない。
ただ、よく知っている顔で彼女を見ていた。
*
森を抜けた先に、小さな集落があった。
昨日見た狩猟拠点とは違う。旧領民たちが昔から使っていた猟師小屋がいくつか残り、その一角には、革や角、薬草などを保管する倉がある。
老人が奥から小さな木箱を持ってきた。
「昔採ったものが残ってる」
蓋を開ける。
中には乾燥させた麝香の包みがいくつか収められていた。
アデルの表情が変わる。
「確認しても?」
「ああ」
昨日と同じように少量だけ取り、試香紙へ。
直接嗅ぎ込まず、少し距離を置いて香りを拾う。
動物性の強い気配。
その奥に、温かく深い甘さ。
単体では決して万人に好まれる香りではない。それでも極めて少量を花や樹脂へ合わせれば、香り全体を肌へ留め、時間とともに滑らかに変化させる力がある。
「……違う」
アデルが呟いた。
「何が?」
リュシアンが横へ来る。
「昨日のものより、ずっとよいです」
第三王子が眉を寄せた。
鋭い一重の黒い瞳が、アデルの手元にある二枚の試香紙を見比べる。
「古いのだろう」
「はい」
「なら、熟成したからでは?」
「その影響もあります。ただ、それだけではないと思います」
もう一枚。
昨日採取されたものも持参していた。
二つを離して確かめる。
「こちらは香りが浅い」
「浅い?」
「獣臭さだけが先に立ちます。奥行きがありません」
アデルは試香紙を置いた。
「若い雄から採ったものが混ざっています。それに採取時期も揃っていないのでしょう」
老人が頷く。
「昔は秋の終わりしか採らなかった」
「なぜです?」
「その頃のが一番高く売れた」
「誰に?」
「山を越えてくる商人だ。理由までは知らん」
経験。
やはりそうだった。
理屈として体系化されていなくても、何世代も取引を続ける中で、最も価値の高い時期を知っていた。
「同じ鹿なのに、違うのか?」
第三王子が聞く。
「はい」
アデルは迷わず答えた。
「今の狩り方では、数だけでなく品質も落としています」
第三王子の顔から僅かに表情が消えた。
「量を増やすための狩りが、価値を下げています」
沈黙。
遠くで水の流れる音がする。
「なら」
第三王子が腕を組んだ。厚い腕に古い傷が何本も走り、その仕草だけで長く戦場にいたことが分かる。
「成熟した雄だけを狩ればいい」
「それなら、品質は上がると思います」
「そうしろ」
「ですが」
アデルの声は冷静だった。
「数は、今よりかなり減ります」
第三王子が止まる。
「どれくらいだ」
「まだ調査が必要です。ただ、昨日のような数にはなりません」
「それでは仕事にならない」
即答だった。
「兵が余る」
短い言葉だったが、その声には焦りではなく重さがあった。
アデルは黙った。
やはり、そこへ戻る。
鹿を守れば終わりではない。
この人が守ろうとしているものもある。
「昨日も申し上げましたが」
第三王子の低い声が続く。
「狩るなというのは簡単だ」
「はい」
「俺の兵は何をする」
責める口調ではなかった。
答えを求めている。
黒い瞳に怒りより先に浮かんでいるのは、部下を路頭に迷わせることへの焦燥だった。
アデルは森へ目を向けた。
昨日からずっと考えていた。
麝香鹿。
香木。
樹脂。
薬草。
広い森。
そして兵士。
「……一つ、伺っても?」
「何だ」
「なぜ、兵士の皆様は全員、鹿を狩らなければならないのでしょう」
第三王子の眉が動いた。
「何?」
「弓を使えるから、鹿を狩る。確かに自然な発想です」
アデルは言葉を選ぶ。
「ですが、弓を使えることと、鹿を殺さなければならないことは、同じではありません」
ライレイが顔を上げた。
「続けて」
「まだ案の段階です」
「それでいい」
アデルは森を指した。
「この森には麝香鹿だけではなく、香木も、樹脂も、薬草もあります。スピネリアへ送っていただいたものだけでも、価値のある香料は複数ございました」
「ああ」
「でしたら、守る仕事も必要になるのでは?」
「守る?」
「採取地を」
少しずつ考えながら言葉にする。
「誰でも好きなだけ採れば、麝香鹿と同じことになります。香木を切り尽くす者が出るかもしれません。樹脂を採りすぎて木を枯らす者もいるでしょう。国外へ密かに持ち出す商人も」
リュシアンが口を開いた。
「森林警備か」
「はい」
「輸送路もいるな」
ライレイが地図を思い浮かべるように目を細める。
「森から王都まで運ぶ道。商人が入るなら護衛も必要になる」
「採取量を記録する人間も」
アデルが続ける。
「旧領民の方々から、森について学ぶ方も必要です」
第三王子が黙っている。
焦げた赤い髪の下、黒い瞳が森と自分の兵士たちを交互に見ていた。
「今すぐ兵士全員の仕事を作れるとは申しません」
アデルは彼を見る。
「私には軍のことは分かりませんから」
その一言に、第三王子の表情が僅かに変わった。
「でも、香料についてならお力になれます」
押しつけない。
分からないものを、分かるふりもしない。
「麝香鹿だけを国の産業にする必要はありません。この森全体を、一つの産業として見ることはできると思います」
「森全体を」
「はい」
第三王子はしばらく黙っていた。
やがて森を見る。
「弓を置け、と?」
「いいえ」
アデルは首を振った。
「弓を、違うものへ向けることはできませんか?」
その言葉に、ライレイの金色の瞳が細くなった。
第三王子は笑わなかった。
「簡単に言うな」
今度の言葉は、アデルではなくライレイへ向いていた。
「兄上」
「お前はいい」
第三王子の頬を走る傷が、噛み締めた顎の動きで僅かに歪む。黒い一重の目には鋭さが戻っていたが、その奥にあるのは弟への敵意だけではなかった。
「戦争が終わっても、王太子という次の仕事がある」
ライレイから笑みが消えた。
「だが、俺の兵は違う」
「分かってる」
「分かるものか」
声が低くなる。
周囲の兵士たちは何も言わない。
ただ、第三王子を見る目には明らかな信頼があった。
「十五から弓しか引いてこなかった男に、明日から森を管理しろと言うのか? 家を焼かれた奴もいる。親兄弟を失った奴もいる。戦争が終わったから帰れと言って、どこへ帰す」
節だった大きな手が、無意識に拳を作る。
「俺は、あいつらに戦えと言った」
兵士たちの顔を見る。
「俺について来いと。生きて帰れば、その先はどうにかすると言った」
第三王子の黒い瞳に、人情が滲んだ。
アデルは何も言えなかった。
「だから今さら、もう戦争は終わった、自分で生きろとは言えない」
「兄上」
「お前は昔からそうだ」
第三王子が吐き出すように言った。
「捨てるのが早い」
「……」
「戦い方も。部隊も。必要がないと判断した瞬間、次へ行ける」
ライレイは黙ったまま兄を見る。
「俺たちは、お前ほど器用じゃないんだよ、第八」
空気が張り詰めた。
第八。
今は王太子であるライレイを、兄はそう呼んだ。
王子として生まれた順番。
昔の位置。
戦争が始まる前なら、決して王になるはずのなかった男。
「……知ってるよ」
ライレイの返事は静かだった。
「だから、勝手に切らない」
第三王子が僅かに目を細める。
「兵も。兄上たちも」
「口だけなら何とでも言える」
「そうだね」
ライレイは否定しなかった。
「だから結果を出す」
金色の瞳がまっすぐ兄を見る。
「今までと同じように」
焦げた赤の髪と、赤茶色の髪。
黒い瞳と、金の瞳。
容姿も、戦い方も、守ろうとするものも違う。
それでも、その瞬間だけ。
アデルには二人がよく似た兄弟に見えた。
刀も弓もない。
敵軍もいない。
それでも。
戦いは、終わっていない。
*
王宮へ戻ったのは、日が傾き始めた頃だった。
泥を落とし、着替えを済ませ、今日聞いた内容を記録へまとめる。
アデルは客殿の机に向かい、羽根ペンを動かしていた。
狩猟時期。
成熟した雄の判別。
旧領民の狩猟数。
麝香の品質差。
森林資源の種類。
兵士の配置転換。
書けば書くほど、問題が広がっていく。
「難しい……」
思わず呟いた時、控えめに扉が叩かれた。
「はい」
侍女かと思って返事をする。
扉が開く。
「アデル様」
立っていたのはリンレイだった。
「リンレイ殿下」
十五歳の少女は、昨日と同じように淡い杏色の衣を重ねていた。艶のある長い赤茶色の髪には細い金の髪飾りが挿され、肩から背へ滑らかに流れている。兄のライレイと同じ色彩だった。大きくくっきりとした吊り目の中には澄んだ金色があり、華奢な身体とまだ少女らしさを残す顔立ちに、少しだけ気の強そうな印象を添えている。
血の繋がりは、説明されなくても分かる。
ただし、華やかに笑って人の懐へ飛び込む兄とは違い、リンレイは扉のところからアデルを静かに観察していた。
警戒している猫のようだった。
「お疲れ様でございます」
「ありがとうございます」
「……」
「……?」
何か用があるのだろう。
けれどリンレイは、すぐには部屋へ入ってこない。
金色の大きな瞳が一度机上の書類へ向かい、それからアデルへ戻る。
「お仕事中でしたか?」
「ちょうど一区切りついたところです」
「そうですか」
短い返事。
また少し沈黙。
やがてリンレイは視線を僅かに逸らした。
「アデル様。お疲れ様でございます。お茶はいかがでしょうか?」
「お茶?」
「はい」
誘っているのに、声の調子はあまり変わらない。
アデルは一瞬だけ迷った。
「私がご一緒してもよろしいのですか?」
リンレイの吊り目が僅かに丸くなる。
「お誘いしておりますので」
「あ、そうですよね」
「嫌でしたか?」
「いいえ。ぜひ」
答えると、金色の瞳の険がほんの少しだけ薄くなった。
「……よかったです」
口元もごく僅かに緩む。
昨日、初めて顔を合わせた時よりは近い。
それを見て、アデルも微笑んだ。
「では、お邪魔いたします」
*
案内されたのは、王宮の奥にある小さな茶室だった。
後宮の内部ではないらしい。庭へ面した一室で、開け放した窓の向こうには細い竹と水盤が見える。
室内には香炉がない。
代わりに、湯気の中から淡い茶の香りが立っていた。
「こちらをお見せしたかったのです」
リンレイが示したのは、透明な器だった。
中には丸く固められた茶葉が一つ沈んでいる。
「お茶……ですか?」
「はい」
侍女が熱い湯を注ぐ。
最初は固く閉じていた茶葉が、ゆっくりとほどけ始めた。
緑の葉が水の中で揺れる。
やがて中心から白いものが現れた。
「花?」
アデルが身を乗り出す。
何枚もの葉に包まれていた白い花が、湯の中でゆっくり開いていく。
「茉莉花です」
「ジャスミン……」
今度は鼻を近づけすぎないように気をつけながら、立ち上る香りを確かめる。
茶葉の青さ。
湯の熱。
その上へ、柔らかな花の甘さ。
「面白い……」
思わず声が漏れた。
リンレイがこちらを見る。
先ほどまで慎重に細められていた大きな吊り目が、今度は純粋な興味で少し開く。
「そんなに?」
「はい」
アデルの瞳がすっかり仕事の色になっている。
「最初は茶葉の香りの方が強かったのに、開くにつれて花が前へ出てきます」
「普通のお茶と違いますか?」
「違うというより……香り方が面白いです」
器の中で花が開ききるのを眺める。
「香水は、完成した香りを瓶へ閉じ込めます。肌につけてから変化はしますけれど、調香師があらかじめ順番を考えて作るものです」
「はい」
「でも、これは目の前で出来上がっていく」
アデルは楽しそうに笑った。
「湯を注いだ瞬間から、少しずつ香りが変わる。見ることまで含めて、一つの香りなのですね」
リンレイがじっとアデルを見る。
まだ完全に警戒を解いたわけではない。それでも、先ほどより身体が少しだけこちらへ向いている。
「……本当にお好きなのですね」
「ジャスミンが?」
「お仕事が」
アデルは少しだけ目を丸くした。
「はい」
答えに迷いはなかった。
「とても好きです」
「兄様が欲しがるわけですね」
「人材として、ですよね?」
リンレイが茶を一口飲む。
「……たぶん」
「たぶん?」
「半分くらいは」
「半分?」
「何でもございません」
顔色ひとつ変えない。
けれど、どこかライレイと同じ匂いがした。
アデルは追及しないことにした。
茶を口へ運ぶ。
香りほど強くはない。飲めば茶葉の穏やかな苦味が先に立ち、その後からジャスミンの甘い余韻が鼻へ抜けていく。
「美味しい」
「よかったです」
リンレイの口元が、またほんの少し緩んだ。
最初は卓の向こう側にきっちり座っていたはずなのに、気づけば少しだけ身を乗り出している。
警戒していた猫が、こちらの匂いを確かめるために一歩近づいてきたようだった。
「アデル様は」
「はい?」
「兄様を、どう思いますか?」
危うく茶をこぼしかけた。
「ライレイ殿下を?」
「はい」
「どう、と申されましても」
「兄様はアデル様のお話をよくします」
「……どのような?」
「賢い。面白い。スピネリアには勿体ない」
「最後の部分はリュシアン様にはお聞かせできませんね」
「やはり?」
「かなり機嫌を損ねます」
リンレイの大きな吊り目が楽しそうに細くなった。
「少し見てみたいです」
「お勧めはいたしません」
アデルが真顔で答える。
リンレイは一瞬だけ堪えたあと、小さく笑った。
初めて見る、年相応の笑顔だった。
二人で茶を飲む。
しばらくして、アデルの視線がリンレイへ向いた。
長い赤茶色の髪。
澄んだ金色の瞳。
こうして向かい合うと、やはりライレイによく似ている。
「リンレイ殿下」
「はい」
「一つ、お尋ねしても?」
「どうぞ」
「ライレイ殿下は、いつ頃から戦場へ出ていらしたのですか?」
リンレイはすぐには答えなかった。
透明な器の中では、白いジャスミンがもう完全に開いている。
「初めて戦争に行ったのは、今のわたしと同じ年でした」
アデルの指が止まった。
「十五歳で?」
「はい」
今のライレイは二十歳。
つまり、戦場へ出てからまだ五年しか経っていない。
五年。
たったそれだけの間に、七人の兄を抜き、第八王子から王太子になった。
アデルは昨日見た兄王子たちの顔を思い出した。
頬の傷。
眉を割る傷。
首筋に残った痕。
そして、見えるところにはほとんど傷のないライレイ。
「兄様は、最初から強かったわけではありません」
リンレイが静かに言った。
「そうなのですか?」
「はい」
大きな金色の瞳が茶の中の花へ落ちる。
「負ければ、次は自分だと分かっていただけです」
「次は?」
「母は、もうおりませんでしたから」
それだけで十分だった。
ライレイとリンレイ。
同じ母から生まれた二人。
第八王子と、そのさらに下に生まれた王女。
王位を巡る争いの中で、決して強い立場ではなかった。
「ライレイ殿下が負ければ……」
「わたしを守れる人はいなくなります」
リンレイの声は淡々としていた。
悲劇を語っているようには聞こえない。
おそらく、彼女にとっては昔からそこにあった現実なのだ。
「だから、兄様は勝ち続けました」
「リンレイ殿下を守るために?」
「それだけではないと思います」
即答だった。
「兄様は欲張りですから」
ほんの少し、リンレイが笑った。
「欲しいものがたくさんあります」
「それは何となく分かります」
「でしょう?」
初めて少しだけ声に年相応の明るさが混じる。
「でも」
リンレイは茶器を両手で包んだ。
「わたしを置いて死ぬことは、できなかったでしょうね」
静かな言葉だった。
アデルは何も返さなかった。
簡単に「優しいお兄様なのですね」とまとめるには、ライレイの歩いてきた道はきっと重すぎる。
暗殺。
追放。
戦争。
兄弟同士の争い。
以前彼自身が軽い調子で口にした言葉を思い出す。
必要なら何でもする。
そういう男になった理由が、少しだけ見えた。
「戦争をしていた頃は」
リンレイが窓の外を見る。
「兄様が何と戦っているのか、分かりやすかったのです」
「敵国ですか?」
「敵の軍。城。国境」
一つずつ数える。
「それから、兄上たち」
最後だけ少し小さかった。
「勝てばいい。取ればいい。生きて帰ればいい」
今日、森で聞いた言葉とよく似ていた。
戦争では、結果が明確だ。
「でも今は」
リンレイの金色の瞳がわずかに伏せられる。
「今のライレイ兄様の方が、戦っている気がしてしまうのはなぜでしょうね……」
アデルは答えなかった。
今日見たものが頭の中へ浮かぶ。
森を奪われた旧領民。
自分の兵を守ろうとする第三王子。
戦争でしか生き方を知らない兵士たち。
枯らしたくない森林資源。
国庫。
交易。
兄弟。
王位。
どこにも、倒せば終わる一人の敵はいない。
「……敵が、見えないからかもしれません」
リンレイが顔を上げる。
「敵?」
「戦争であれば、倒すべき相手がいます」
アデルはゆっくり言葉を探した。
「でも今の問題は、誰か一人を倒せば解決するものではありません」
狩猟を進めた第三王子も。
反発する旧領民も。
職を求める兵士も。
誰か一人が間違っているわけではない。
「皆、それぞれ守りたいものがあるのでしょう」
「……」
「だから、難しいのだと思います」
リンレイはしばらく黙っていた。
やがて、もう一度茶を飲む。
「アデル様」
「はい?」
「明日も、お茶を飲みませんか?」
あまりにも突然だった。
「明日?」
「はい」
金色の吊り目が、今度はまっすぐアデルを見る。
先ほどまであった慎重さが、ほんの少しだけ薄くなっていた。
「もちろん。喜んで」
「では決まりです」
さっきまでの静かな政治の話はどこへ行ったのか。
リンレイは何でもないことのように茶器を置く。
「明日は違う花のお茶にいたします」
「違うものもあるのですか?」
「たくさんございます」
アデルの目が明らかに輝いた。
「ぜひ」
「香木もお好きですか?」
「もちろんです」
「では、わたしの香炉もお見せします」
「よろしいのですか?」
「はい」
少し前まで、扉のところでアデルを窺っていた少女が、気づけば次々と翌日の予定を決めている。
「それから、兄様が持っている香木より、わたしの方がよいものを持っています」
「そうなのですか?」
「兄様は量で選びますから」
「少し分かる気がします」
「ですよね」
リンレイが今度こそ楽しそうに笑った。
警戒して遠巻きに見ていた猫が、一度安全だと分かると急に隣へ居座り始める。
どうやらリンレイという少女は、そういう性質らしい。
茶器の中では、固く閉じていた花がもうすっかり開いていた。
湯が冷めるほどに、ジャスミンの香りは柔らかくなっていく。
最初から強く香るのではない。
時間をかけて、少しずつ姿を変える。
今日見た森も。
シャンという国も。
きっと同じなのだろう。
戦争が終わったからといって、すぐに平和な国へ変わるわけではない。
これまで正しかったものを捨て、新しいやり方を覚えるには、時間がかかる。
そして。
アデルは、先ほどのリンレイの言葉をもう一度思い出した。
――今のライレイ兄様の方が、戦っている気がしてしまうのはなぜでしょうね。
窓の向こう、王宮の朱い屋根のさらに向こうには、今日歩いた森がある。
その森を巡る問題の奥に、まだ自分には見えていない別の争いがある。
そんな気がした。




