第二十話 共にあった香り
翌朝、アデルが目を覚ました時、隣には誰もいなかった。
正確には、昨夜から誰もいない。
それが当たり前なのに、寝台の反対側へ一度目を向けてしまった自分に気づき、アデルはゆっくりと瞬きをした。
「……何を確認しているのかしら」
昨日の朝、自分からくっついていたことは忘れていない。
忘れようとはした。
無理だった。
身支度を整え、客殿の食堂へ向かうと、すでにリュシアンが朝食を取っていた。濃紺の上着はまだ羽織っておらず、白いシャツの袖を肘まで軽く捲っている。艶のある黒髪も完全には整えられておらず、額へ何本か落ちていた。
アデルを見るなり、切れ長の灰青色の瞳が少し細くなる。
「おはよう」
「おはようございます」
「今日は一人で起きられた?」
「…………」
椅子を引こうとしていた手が止まる。
「どういう意味でしょう」
「そのままの意味」
「昨日のことでしたら、寝ている間の行動に責任は負えません」
「へえ」
「何です?」
「いや。くっついていいって言ったのは起きてからだったなと思って」
「朝食をいただきます」
「逃げた」
「いただきます」
アデルは聞こえなかったことにしてパンへ手を伸ばした。
リュシアンの口元が笑っている。
最近、少し意地が悪い。
けれど。
嫌ではない。
そのことが分かっている自分の方が、さらに困る。
「今日は宮殿で協議でしたね」
話題を変える。
「ああ。ライレイから正式に呼ばれてる。昨日の調査結果を、政策に落とすための会議らしい」
「第三王子殿下も?」
「来る。財務官と新領地を預かっている役人、それから昨日の猟師も呼ばれたと聞いてる」
「猟師の方まで」
「ライレイらしいな」
リュシアンは茶を一口飲んだ。
「森を知ってる人間抜きで森の決まりを作っても意味がない、だそうだ」
アデルは少しだけ笑った。
「そうですね」
昨日、森を歩いた。
獣道。
糞。
削れた樹皮。
鹿が集まる谷。
アデルにはただの森にしか見えなかった場所を、老人は一つひとつ読み解いた。
土地を持つことと。
土地を知ることは違う。
そのことは、もう十分に分かった。
扉が叩かれた。
「どうぞ」
従者かと思った。
しかし。
「アデル様」
聞き覚えのある少女の声に、アデルが振り返る。
「リンレイ殿下?」
扉の前に、十五歳の王女が立っていた。
淡い杏色の衣を重ね、艶のある長い赤茶色の髪には細い金の飾りが挿されている。大きく吊り上がった金色の瞳は今日も猫を思わせるが、初対面の時にあった慎重な険しさはかなり薄れていた。
「おはようございます」
「おはようございます。どうなさいました?」
「昨日のお約束を」
「お茶でしたら、午後に」
「はい」
リンレイはこくりと頷く。
「ですから、お迎えに参りました」
「今ですか?」
「予約です」
「予約」
横でリュシアンが呟いた。
リンレイの視線がそちらへ向く。
「リュシアン殿下も、おはようございます」
「……ああ。おはよう」
一応、礼儀正しく返す。
けれど灰青色の瞳は若干警戒していた。
「アデルはこれから仕事だ」
「存じております」
「なら、なぜ朝から迎えに来た」
「兄様に取られる前に」
リュシアンの眉がぴくりと動いた。
「兄様?」
「はい」
リンレイは何でもない顔でアデルのそばまで来る。
「第三兄様にも、ライレイ兄様にも、今日一日使われてしまうのでしょう?」
「使われる、という言い方はどうでしょう」
「違いますか?」
「……あまり違わないかもしれません」
「アデル」
リュシアンが咎めるように名前を呼ぶ。
「冗談です」
「お前の冗談は分かりづらい」
リンレイは二人を交互に見たあと、アデルの袖先をそっと摘んだ。
「終わったら、来てくださいますか?」
昨日までは触れるどころか、卓を挟んで慎重にこちらを見ていた少女だ。
距離が近い。
アデルは少しだけ嬉しくなった。
「もちろんです」
「本当に?」
「はい。必ず」
リンレイの大きな吊り目が満足そうに細くなる。
「では待っております」
それだけ言うと、袖から手を離した。
扉へ向かう背中を見送ってから、リュシアンが低く言う。
「……あの兄妹、お前を持っていこうとするのが好きだな」
「リンレイ殿下は違うと思います」
「俺から見たら同じだ」
「十五歳の王女殿下にまで嫉妬なさるのですか?」
「嫉妬じゃない」
「では?」
「警戒」
「同じでは?」
「違う」
即答だった。
アデルは口元を少し隠した。
「何で笑う」
「いいえ」
何でもない。
ただ。
少し可愛いと思っただけだった。
*
協議は、王宮の奥にある小会議室で行われた。
卓上には昨日までの狩猟記録と新領地の地図、それから二種類の麝香が並んでいる。
一方は現在の大量狩猟で得られたもの。
もう一方は、旧領民が昔ながらの方法で採取したものだった。
アデルの正面にはライレイ。
赤茶色の髪をまとめ、深い朱色の正装を身につけている。いつもの人懐こい笑みはなく、金色の瞳が机上の資料へ静かに向けられていた。
その隣には第三王子。
火へ煤を混ぜたような焦げた赤髪に、鋭い一重の黒い瞳。日に焼けた右頬から顎へ走る深い古傷と、大柄な身体は、王子というより歴戦の武人を思わせる。
けれどアデルはもう、その強面の奥に何があるのかを知っていた。
第三王子の後ろには軍関係者。向かいには財務官と新領地の行政官。そして末席には、昨日森を案内してくれた老人まで座っている。
「こんな場所に呼ばれるとは聞いてないぞ」
「ワタシが呼んだ」
ライレイが答えた。
「森の話をするのに、森を知ってる人がいないと困るでしょう?」
「俺は字もろくに読めん」
「森は読める」
「……口の減らん王子だ」
役人たちが息を呑んだ。
ライレイだけが笑う。
「褒め言葉として受け取るね」
「ライレイ」
リュシアンが横から低く呼ぶ。
「始めろ」
「はいはい。アデルちゃん、お願い」
「承知いたしました」
アデルは立ち上がった。
銀髪は宮廷調香師らしく低い位置へきちんとまとめ、淡い灰青色の仕事着を纏っている。
この姿の方が落ち着く。
「結論から申し上げます」
全員の視線が集まった。
「現在の方法で狩猟数を増やしても、麝香の収益は比例して増えません」
アデルは簡潔に説明した。
麝香を採れるのは成熟した雄だけであること。
雌や若い個体まで狩れば、将来採れるはずの麝香まで失うこと。
さらに時期も個体も選ばない現在の狩猟では、品質そのものが落ちていること。
二種類の麝香を試香紙へ移し、第三王子へ差し出す。
黒い瞳が僅かに細くなった。
「……違うな」
「はい。旧領民の方々は、経験から良質な麝香を得やすい時期と個体を選んでいたと考えられます」
「だから何度も言ったんだ」
老人が鼻を鳴らす。
アデルは頷いた。
「今後は量ではなく、品質も含めて価値を考えるべきです」
「狩猟数を減らせば、収入も減る」
財務官が言う。
「短期的には、その可能性があります」
アデルは否定しなかった。
「ですが、質の悪いものを大量に売れば、シャン産の麝香そのものの価値を落としかねません」
リュシアンが資料へ視線を落とす。
「少量でも高品質なものとして信用を作った方が、長期的には取引しやすい」
「はい」
アデルは頷く。
そして、昨日見た鹿の死骸を思い出した。
「麝香は、一度掘り出せば終わる鉱石ではありません。鹿は生きています」
老人が顔を上げる。
「狩らないのではありません」
アデルは静かに続けた。
「採り続けるために、残すのです」
室内へ沈黙が落ちた。
最初に口を開いたのは第三王子だった。
「なら、何頭までだ」
「まだ決められません」
「なぜだ」
「昨日一日森を歩いただけで、私が数字を出す方が危険だからです」
迷いなく答える。
「旧領民の方々から過去の狩猟数を聞き、生息数を記録しながら決めるべきです」
「数年かかるぞ」
「森は国の帳簿に合わせて増えてはくれませんので」
真顔で返すと、ライレイの口元が僅かに上がった。
「それに」
アデルは新領地の地図へ手を置く。
「森の価値は、麝香鹿だけではありません」
香木。
樹脂。
薬草。
まだ用途の分からない植物。
「何でもすぐ商品にするのではなく、採取法や安全性を調べながら産業へ育てるべきだと思います」
「白花曼陀羅みたいなものもあるからね」
ライレイが苦笑した。
「はい。そして資源が価値を持てば、それを守る人も必要になります」
「守る?」
「密猟、盗伐、盗難。輸送路の警備も必要になるでしょう」
そこでリュシアンが言った。
「商人が入れば、盗賊も来る」
ライレイの金色の瞳が第三王子へ向いた。
「兄上」
「何だ」
「兄上の兵を、森の警備へ回したい」
空気が変わった。
「俺の兵に、鹿を守れと?」
第三王子の声が低くなる。
「違う」
ライレイは即座に答えた。
「シャンの財産を守れと言ってる」
鹿。
香木。
樹脂。
薬草。
「弓も剣も捨てなくていい。向ける先を変えてほしい」
第三王子は黙った。
「採取を覚えられる者には覚えてもらう。道を作る者、商人を守る者がいてもいい。でも」
ライレイの声が少し柔らかくなる。
「ワタシが命令するだけじゃ、兵はついてこない」
第三王子の黒い瞳が動いた。
「兄上の兵でしょう?」
「……ああ」
「だから、兄上から話してほしい」
第三王子はしばらく後ろの兵士たちを見ていた。
戦場を共にした人間たち。
自分について来いと言った相手。
生きて帰れば、その先はどうにかすると約束した人間たち。
「……分かった」
低い声が落ちた。
「ただし、俺たちには森のことが分からん」
「知ってる」
老人が平然と答えた。
第三王子の眉が寄る。
「だから、まず鹿の見分け方から覚えてもらう」
「兵にか」
「ああ」
「ほかには?」
「足跡。糞。谷。水場。狩っていい季節。樹脂の採り方」
老人は指を折る。
「それから、お前も覚えろ」
「……俺もか?」
「一番偉い奴が分からんままで、下に何を教える」
室内が凍った。
第三王子は黙って老人を見る。
鋭い一重の黒い瞳と、右頬を走る古傷。
普通の人間なら目を逸らしてもおかしくない。
老人も引かない。
数秒後。
「……分かった」
第三王子が息を吐いた。
「教えろ」
「最初からそう言えばいい」
「お前、本当に俺が誰か分かってるのか?」
「第三王子だろう」
「分かっていてそれか」
「鹿は王子だからって増えん」
一瞬の沈黙。
やがて第三王子の口元が大きく歪んだ。
「ははっ」
低く豪快な笑い声が響く。
「気に入った」
「俺は別に気に入られたくない」
「これから俺の兵を教えるんだろう」
「物覚えが悪ければ追い返す」
「それは困る」
張り詰めていた空気が少しだけ緩んだ。
ライレイがその様子を見て、椅子へ座り直す。
「じゃあ、決めよう」
声が王太子のものへ戻る。
「無制限の狩猟は今日で止める。旧領民を正式に雇い、軍と一緒に森を調べる。繁殖期の谷は禁猟。雌と若い個体は狩らない。麝香は採取時期と品質を記録する」
老人が頷く。
「ほかの森林資源についても調査班を作る。分からないものを、勝手に商品にはしない」
「スピネリア側では麝香の取引価格を調べよう」
リュシアンが言う。
「助かる」
「安く買い叩くつもりなら止めるぞ」
「それはこちらの台詞だよ」
以前なら険悪にしか見えなかった二人のやり取りも、今は少し違って聞こえる。
「兵については」
第三王子が口を開いた。
「俺から話す」
黒い瞳に迷いはなかった。
「すぐに納得するとは思わん。だが、俺が連れてきた兵だ。俺が説明する」
ライレイは兄を見た。
「ありがとう、兄上」
「礼は結果が出てからにしろ」
「はい」
第三王子の眉が動く。
「気持ち悪いな」
「何が?」
「素直なお前」
「じゃあ取り消そうか?」
「そうしろ」
今度こそ、周囲から小さな笑いが起きた。
*
協議が終わり、参加者たちが順番に部屋を出ていく。
アデルも資料をまとめていたところで、少し離れた場所から低い声が聞こえた。
「第八」
第三王子だった。
ライレイが振り返る。
「何?」
「少し話せ」
兄弟だけで話すのだろうと思い、アデルはそのまま退出しようとした。
「アデル」
リュシアンが呼ぶ。
「行くぞ」
「はい」
二人で扉へ向かう。
ただ、閉じる直前。
第三王子の声が耳へ入った。
「俺は」
アデルの足が一瞬だけ止まる。
「戦争が終わった途端、俺たちのやり方は間違っていたと言われるのかと思っていた」
リュシアンも聞こえたらしい。
けれど振り返らない。
アデルも、そのまま歩いた。
扉が完全に閉じる直前、ライレイの声がした。
「間違ってないよ、兄上」
*
第三王子は弟を見ていた。
戦場に出ていた頃より、少し背が伸びた。
まだ二十歳。
七人の兄を抜き、第八王子から王太子になった男。
「戦争の時は、それで勝った」
ライレイは静かに続ける。
「兄上のやり方も。兵たちのやり方も。間違ってない」
「だったら」
「でも、もう戦争は終わったんだ」
第三王子の黒い瞳が細くなる。
ライレイは笑わなかった。
「今度は、違う勝ち方を覚えないと」
「簡単に言う」
「うん」
「お前はそれができる」
「そう見える?」
「見える」
第三王子は短く答えた。
「必要がなくなったものをすぐ捨てる」
昨日、自分で言った言葉だった。
ライレイの金色の瞳が僅かに伏せられる。
「そうやって生きてきたからね」
「だから嫌いなんだ」
「知ってる」
「だが」
一度言葉を切る。
「今回は、俺たちを捨てないと言った」
ライレイが顔を上げた。
「言ったよ」
「……なら、信じてやる」
弟の目が僅かに見開かれる。
「今回だけだ」
「兄上」
「勘違いするな」
「してない」
「その顔をやめろ」
「どんな顔?」
「嬉しそうな顔だ」
言われて初めて、ライレイは自分の口元が上がっていることに気づいた。
第三王子が鼻を鳴らす。
「偉そうになったな、第八」
「王太子なので」
「昔は俺の後ろを走っていたくせに」
「いつの話?」
「お前が十にもならん頃だ」
「覚えてない」
「都合の悪いことはすぐ捨てるな」
「それとこれとは別でしょう」
第三王子が笑った。
焦げた赤い髪が揺れ、頬の傷が大きく歪む。
「兵には俺から話す」
「うん」
「お前は国をどうにかしろ」
「それが仕事だからね」
「失敗したら」
「したら?」
「王太子の座、返せ」
ライレイが笑う。
「嫌だよ」
即答だった。
「ワタシ、欲張りだから」
「知ってる」
兄弟は、それ以上何も言わなかった。
*
午後。
約束通り、アデルはリンレイの茶室を訪れた。
「遅いです」
開口一番だった。
「申し訳ございません。協議が長引きまして」
「分かっております」
怒っているのかと思ったが、リンレイはすでにアデルの席へ茶器を用意していた。
昨日は卓を挟んだ向かい側だった。
今日は。
「こちらへ」
自分の隣を示している。
「お隣ですか?」
「嫌ですか?」
「いいえ」
アデルが座ると、リンレイは満足したようにほんの少し目を細めた。
完全に距離が縮まっている。
今日の茶は昨日とは違った。
淡い黄金色の花が湯の中へ浮かび、柔らかく甘い香りを立てている。
「これもよい香りですね」
「兄様にはあげません」
「まだ何も言っておりませんが」
「欲しがるので」
「ライレイ殿下が?」
「はい」
「仲がよろしいのですね」
「普通です」
即答。
けれど、ライレイの話をする時だけ金色の瞳が少し柔らかくなる。
アデルはもう気づいていた。
「今日は、どうでした?」
リンレイが尋ねる。
「ひとまず、無制限の狩猟は止められることになりました」
「そうですか」
小さく息を吐く。
「第三王子殿下も、ご協力くださるそうです」
「第三兄様が?」
「はい。兵士の方々を森の警備へ回すと」
リンレイが少し驚いた顔をする。
「納得したのですね」
「簡単には、いかなかったと思います」
アデルは茶器を両手で包んだ。
「でも、ご自分の兵士を守りたいというお気持ちは変わっていません」
「第三兄様らしいです」
「お優しい方なのですね」
「優しいというと怒りますよ」
「そうなのですか?」
「怖くないと兵が言うことを聞かない、と」
アデルは頬の古傷と鋭い一重の黒眼を思い出した。
「十分怖く見えます」
「ですよね」
二人で少し笑う。
昨日より自然だった。
「では」
リンレイが茶を飲む。
「兄様は、今日は勝てましたか?」
「ライレイ殿下ですか?」
「はい」
アデルはすぐには答えなかった。
今日の協議。
第三王子の兵。
旧領民。
財務官。
行政官。
誰かを倒したわけではない。
何かを奪ったわけでもない。
「……まだ、ではないでしょうか」
リンレイが顔を上げる。
「まだ?」
「決めたばかりですから」
アデルは微笑んだ。
「結果が出るのは、これからだと思います」
「そうですよね」
リンレイはあっさり頷いた。
「第三兄様が納得しても、ほかの兄様たちは納得しないでしょうから」
アデルの手が止まった。
「ほかの王子殿下方が?」
「はい」
リンレイは茶器へ目を落とした。
「森から利益を得られなくなると困る方もいらっしゃいます」
「ですが、狩猟を完全に止めるわけでは」
「問題は鹿だけではありません」
大きな吊り目が、アデルを見る。
昨日までの少女らしい柔らかさが少し消えた。
王家の中で育った人間の目だった。
「兵を持っているのは、第三兄様だけではありませんから」
「……」
「兄上たちは、それぞれ自分の兵と家臣を持っています」
戦争で功績を挙げた王子たち。
昨日、宴で見た傷のある兄たちを思い出す。
「戦争が終わって、皆、次の場所を探しているのだと思います」
「それは」
「ライレイ兄様と同じです」
リンレイの指が茶器の縁をなぞる。
「ただ」
少しだけ声が低くなる。
「兄様が失敗するのを待っている方も、まだたくさんおります」
アデルは眉を寄せた。
「王太子でいらっしゃるのに?」
リンレイの金色の瞳が、まっすぐこちらを見る。
「王太子だから、ですよ」
その言葉の意味を、アデルはすぐには飲み込めなかった。
王太子。
次の王。
それなら、最も強い立場なのではないのか。
けれど。
第八王子だった男が、七人の兄を抜いてそこへ座った。
逆から見れば。
抜かれた七人がいる。
「兄様が王太子になったから、争いが終わったわけではありません」
「では」
「形が変わっただけです」
昨日、リンレイが言った言葉が蘇る。
――今のライレイ兄様の方が、戦っている気がしてしまうのはなぜでしょうね。
アデルは茶の表面を見る。
小さな黄金色の花が揺れている。
その時。
廊下の向こうから足音が近づいてきた。
「リンレイ」
扉の外から声。
「兄様」
リンレイが少しだけ表情を緩める。
「入っていい?」
「どうぞ」
扉が開く。
ライレイだった。
協議の時の朱色の正装のまま。赤茶色の髪もきちんとまとめられているが、朝より少し疲れたように見える。
「アデルちゃんもいた」
「お約束しておりましたので」
「リンレイ、もう随分懐いたね」
「兄様には関係ありません」
「ワタシが連れてきたんだけど」
「それとこれとは別です」
「冷たいなあ」
言いながらも、ライレイは嬉しそうだった。
「兄様もお茶を?」
「少しだけ」
「これは差し上げません」
「まだ何も言ってないよ?」
先ほどアデルがされたのと同じだった。
アデルは思わず笑う。
「何で笑うの、アデルちゃん」
「いいえ。仲がおよろしいなと」
「普通です」
リンレイがまた即答する。
「ほら」
ライレイが肩を落としたところで。
「王太子殿下」
廊下から別の声がした。
侍従が扉の前で深く頭を下げている。
「何?」
ライレイが振り返った。
「陛下がお呼びでございます」
それだけなら、何もおかしくない。
けれど侍従は続けた。
「王子殿下方も、すでにお揃いでございます」
ライレイの表情が止まった。
ほんの一瞬だった。
「……全員?」
「はい」
金色の瞳から、先ほどまでの兄の柔らかさが消える。
疲れも。
笑みも。
すべてが一度きれいに落ちた。
「分かった」
すぐに、いつもの笑顔へ戻る。
「行くよ」
扉へ向かう。
「兄様」
リンレイが呼んだ。
ライレイが振り返る。
「何?」
「……いってらっしゃいませ」
一瞬。
金色の瞳が柔らかくなる。
「うん。行ってくる」
扉が閉じた。
足音が遠ざかっていく。
アデルはしばらく、その扉を見ていた。
戦場へ向かうわけではない。
剣も持っていない。
敵国の軍もいない。
それなのに。
なぜだろう。
今の背中は、森へ向かう時よりもずっと戦いに行く人のものに見えた。
隣で、リンレイが静かに茶器を持ち上げる。
「……でしょう?」
アデルは返事ができなかった。
甘い花の香りだけが、静かになった茶室へ残っていた。




