第二十一話 託す香り
長引いた会議がようやく終わり、ライレイが椅子の背に身体を預けた、その直後だった。
「ライレイ殿下。陛下がお呼びです」
入ってきた侍従の言葉に、ライレイは天井を仰いだ。
「……今?」
「今すぐに、と」
「だよね」
新領地の森林をどう管理するか。退役した兵士たちをどこへ向かわせるか。そして、そこで得た香木や樹脂、薬草、麝香を、どう国の利益へ変えるか。
先ほどまで散々話していた内容だ。何を聞かれるのかは、だいたい想像がついた。
「行ってくる」
立ち上がったライレイに、アデルが顔を上げた。
「私たちはどういたしましょう」
「休んでていいよ。今日ずっと付き合わせたし」
「ですが」
「大丈夫。父上に怒られるくらい慣れてるから」
「そういう心配ではありません」
「分かってる」
笑って手を振り、ライレイは部屋を出た。
国王の待つ謁見の間は遠くない。だから、考えをまとめる時間もほとんどなかった。
扉が開く。
入った瞬間、思わず足を止めそうになった。
父だけではない。
兄たちがいる。
「……うわ」
小さく漏れた声を、近くにいた宰相だけが聞いたらしい。眉が僅かに動いた。
玉座に座る国王は、艶のある黒髪に金の瞳を持つ男だった。
シャン王家において、金の瞳は王族の血を示すものとされている。とはいえ、王族ならば必ず現れるわけではない。並んだ兄たちを見ても、父と同じ金を宿している者は半分にも満たなかった。
ライレイの瞳は、その中でも父によく似た金だった。
一方で、赤褐色の髪や、しなやかな身体の使い方には母方の血が濃いと言われる。
母は高位貴族の娘ではなかった。北東の草原を移動しながら暮らす遊牧の民、その中でも戦に長けた一族から後宮へ嫁いできた女だった。馬を駆り、弓を引き、必要とあれば女も武器を取る。ライレイ自身は後宮に入ってからの母しか知らないが、幼い頃、弓を教える母の手には薄い胼胝が残っていた。
その母も、もういない。
「ライレイ」
国王の声で意識を戻し、前へ進む。
「はい」
「先ほどまでの会議について報告を受けた」
「早いですね」
「口を慎め」
「はい」
反射的に答えると、兄の一人が鼻で笑った。
国王の前には、すでに森林政策の草案が置かれている。
「麝香鹿の乱獲を禁じ、旧領民の知識を用いて森林資源そのものを管理する。退役兵は森林警備、輸送路の護衛、資源の記録に回す」
「はい」
「香木、樹脂、薬草を含めた資源を調査し、スピネリアから加工技術の協力を得る」
「その方向で進めたいと思っています」
「そして、商品として他国へ売る」
「はい」
「どこに?」
国王ではなかった。
声のした方へ目を向けると、第七王子がこちらを見ていた。
「どこの国に売るつもりだ」
「それをこれから開拓します」
「どこを?」
畳みかけるような問いだった。
「山脈の東側は、大方我が国が征服した。残った国々も、今のシャンを警戒している。少し前まで兵を向けていた国から、今度は香木を買ってくれと言われて喜ぶとでも思うのか?」
言い方は気に入らない。
だが、間違ってはいない。
「西側があります」
「簡単に言うな」
別の兄が口を挟んだ。
「山を越えるだけでどれほど金がかかると思っている。街道の整備、商隊の護衛、関所、馬、宿営地。今でさえ西とのやり取りはままならないだろう」
「承知しています」
「承知している者の案には見えんな」
第七王子が冷たく言った。
「スピネリアが一度手を貸したからといって、他国も同じだと思わないことだ。こちらの都合で戦い、こちらの都合で交易を望む。そんな話が通るほど、国同士の関係は単純ではない」
ライレイは答えなかった。
第七王子の視線には、政策への批判とは別のものが混じっている。
調香師の誘拐を企てたのは、彼だった。
新領地から得られる資源を誰より早く利益に変え、功績を得ようと焦った。その結果、正式な交渉を待たずに人を動かし、スピネリアの調香師を手に入れようとした。
失敗した後、その謝罪のためにスピネリアへ赴いたのはライレイだ。
そこで国交を繋ぎ、技術協力まで取りつけて戻った。
第七王子にしてみれば、自分が得ようとした功績を、失敗ごと弟に拾われたようなものなのだろう。
知るか、と言えれば楽だった。
王太子になってから、言えないことばかり増えた。
「もう一つある」
国王の声で、場が静まった。
「ライレイ。お前は王太子だ」
「はい」
「今回のように、問題が起こるたびに自ら国境を越えることはできん」
ライレイは僅かに目を伏せた。
「……承知しています」
「本当に承知しているのか?」
父と同じ色の金の瞳が、まっすぐライレイを射抜く。
「お前は戦場で、自ら動くことで功績を上げてきた。だが、王太子は違う。国の中枢を空けることは許されん。西との交易を望むならば、お前が動かずとも動く仕組みを作れ」
痛いところだった。
戦場なら、自分が行けばよかった。
敵を見る。地形を見る。兵を動かす。勝てる場所を見つけて、そこを叩く。
勝てばいい。
だが、国はそうはいかない。
退役兵がいる。旧領民がいる。商人がいる。兄たちがいる。国庫がある。山脈がある。その向こうには、シャンを信用する理由など一つもない国々がある。
誰か一人を倒して終わる問題ではない。
「王太子としてここに残ったまま、西と繋がる方法を示せ」
国王は静かに言った。
「それができぬなら、この案は許可できん」
「……はい」
答えた時だった。
「陛下」
背後から細い声がした。
ライレイは振り返った。
開いた扉の向こうに、アデルとリュシアンがいる。
そして、その二人の前に。
「……リンレイ?」
妹が立っていた。
長い赤褐色の髪に、金の瞳。兄の狼を思わせる目とは違い、少し吊り上がった大きな瞳は猫のように見える。
その目が、今日は揺れていた。
袖口から覗く指先も、僅かに震えている。
ライレイには分かった。
怖いのだ。
当然だった。十五歳の王女が、国王と王子たちの揃う場へ、自分の意思で踏み込んできたのだから。
「リンレイ、何して――」
「陛下。発言をお許しいただけますか」
妹は兄を見ず、国王へ頭を下げた。
国王の金の瞳が娘へ向く。
「許す」
「ありがとうございます」
リンレイは一歩、部屋へ入った。
そして、ライレイの隣まで来た。
「西側との交易について、申し上げたいことがございます」
「言え」
リンレイは一度だけ深く息を吸った。
「わたくしが、スピネリア王国に参ります」
ざわめきが広がった。
ライレイだけは声も出なかった。
「わたくしが、シャン国の駐スピネリア使節となります」
「……何言ってるの」
「王家の伝書鷹であれば、山脈を一日で越えられます。商隊の往来には時間がかかっても、書簡ならばすぐに届けられます。わたくしがスピネリアに常駐し、両国の商人、技術者、官吏の間を取り持ちます」
「リンレイ」
「必要な実務官、書記官、護衛については、外務を担う方々から選んでいただければと存じます。わたくし一人で政務を行うのではありません。王族が一人、向こうに留まることに意味があると考えております」
「待って」
ライレイの声を遮るように、兄たちの間から声が上がった。
「王女を外国に置くのか?」
「人質ということか?」
リンレイの指先が、また震えた。
それでも顔は上げたままだった。
「人質でも構いません」
「リンレイ!」
「シャンが再びスピネリア王国に不義理を働いた際は、わたくしをお斬りください」
今度こそ、部屋が静まり返った。
何を言っている。
ライレイは妹を見た。
十五歳の。
ずっと自分が守ってきた妹を。
「その覚悟は受け取る」
先に口を開いたのは、リュシアンだった。
艶のある黒髪の下、灰青色の瞳が真っ直ぐリンレイを捉える。ゆっくりと彼女の前へ進み出た。
「だが、スピネリアは使節を人質として扱わない」
リンレイが顔を上げた。
「リンレイ王女を、シャン王室より派遣された正式な駐在使節として王宮に迎える。国同士の約定を破った責任を、一人の王女の首で清算するつもりもない」
「ですが――」
「ただし、貴女がシャンを代表して我が国に留まる。その意味を軽く扱うつもりもない」
リンレイはしばらくリュシアンを見つめ、それから深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
「スピネリア王太子」
国王が呼ぶ。
「はい」
「正式に受け入れる意思があると考えてよいか」
「帰国後、父王へ上奏します。私個人としては異存ありません」
国王はしばらく黙っていた。
娘を見る。リュシアンを見る。そして、机上の森林政策へ視線を落とした。
「……現状では、それが最も現実的か」
「父上」
第七王子が声を上げたが、国王が見るだけで口を閉じた。
「リンレイ一人に国交を任せるわけではない。外務官、書記官、商務に通じる者、護衛を付ける。必要な人員を選定せよ」
「御意」
宰相が頭を下げる。
「リンレイ」
「はい」
「遊びに行くのではないぞ」
「承知しております」
「ならば進めよ」
それだけだった。
戦争とは違う。
剣も振らず、血も流さず、国の進む道が変わる。
国王が立ち上がり、宰相が会議の終了を告げた。
兄たちはそれぞれに不満や思惑を残した顔で退出していく。第三王子だけは、ライレイの横を通る際に一度足を止めた。
「いい妹だな」
「今それ言う?」
「今だから言っている」
「俺は全然よくない」
「だろうな」
大きな手で肩を一度叩かれた。
「だが、お前の妹だ」
「……知ってるよ」
第三王子が去り、最後の扉が閉まった。
その瞬間、ライレイは妹へ向き直った。
「なんで勝手なことをした!」
リンレイの肩が跳ねた。
「聞いてないんだけど!」
「言っておりませんから」
「なんで!」
「止めるでしょう」
「止めるよ!」
「ですから言いませんでした」
「そういう問題じゃない!」
怒ったライレイの顔からは、普段の軽さが完全に消えていた。
金の瞳が鋭く細まり、獲物を前にした狼のようになる。母方の一族は、かつて草原を馬で駆け、弓を手に戦ったという。アデルは彼らを見たことがない。それでも今のライレイを見れば、その血が彼の中にあることだけは分かった。
「お前が行く必要はない」
「あります」
「ない」
「あります」
「リンレイ」
「決めたことです」
「だから勝手に決めるなって言ってるんだよ!」
リンレイは唇を結んだ。
しばらく兄を見つめた後、静かに言う。
「兄様。わたくしは十五歳です」
「知ってる」
「兄様が初めて戦場へ出たのも、十五歳でしたね」
ライレイの表情が止まった。
「……それは」
「母様が亡くなった後です」
「リンレイ」
「兄様は、わたくしを守るために戦場へ出たのでしょう」
「違う」
「嘘です」
迷いのない返事だった。
「兄様は、わたくしがいたから負けられなかったのでしょう」
「……」
「なら、わたくしも十五歳で兄様を守ってはいけませんか?」
ライレイが目を見開いた。
「ずっと兄様だけに、わたくしを守らせ続けるつもりはありません」
「お前は何も分かってない」
「分かっています」
「外国だぞ」
「はい」
「山の向こうだ」
「鷹なら一日です」
「お前は鷹じゃないだろ!」
「知っています」
「だったら――」
「兄様」
リンレイが一歩近づいた。
そして突然、ライレイの胸へ抱きついた。
「……リンレイ?」
ライレイの両手が行き場を失う。
妹の赤褐色の髪が胸元に触れた。
その距離で、リンレイは小さく息を吸った。
「兄様の好きなお香の香り、セージと白檀でしたね」
ライレイの顔から、怒りが消えた。
「スピネリアで寂しくなったら、焚きます」
「……何、それ」
「兄様の香りですから」
ライレイは答えなかった。
セージと白檀。
以前、アデルが彼に勧めた香りだった。
王太子になり、戦場を離れ、眠れない夜が増えた男のために選んだ香り。
アデルにとっては、心を落ち着けるための調香だった。
けれど、リンレイにとっては違った。
それはいつの間にか、兄が生きて帰ってきた後の香りになっていた。
「昔の兄様は、いつも鉄の香りがしましたね」
リンレイの声が、ライレイの胸元で少し籠もる。
「……そうだった?」
「はい」
血と、剣と、鎧。
戦場から帰ってきた兄の服には、いつも消えない鉄の匂いがあった。
「わたくし、あれはもう嗅ぎたくないです」
ライレイの喉が動いた。
「兄様が帰ってくるたび、嫌でした。怪我をしていなくても、あの匂いがすると怖かった」
「……リンレイ」
「今の香りの方が好きです」
妹の腕に少し力が入った。
「だから、兄様はもう戦場へ戻らないでください」
「戻らないよ」
返事は思っていたより早く出た。
「うん。戻らない」
ようやくライレイの手が動いた。
妹の背に触れる。
十五歳。
あの頃の自分と同じ歳だ。
けれど腕の中にいる妹は、記憶の中よりずっと大きい。
「……ずるいなあ、お前」
「何がですか」
「そういうこと言われたら怒れないじゃん」
「では、怒らないでください」
「それは別」
リンレイが顔を上げた。
「兄様一人に、全部背負わせるのは嫌です」
「……」
「戦争が終わってからの兄様の方が、苦しそうです」
その言葉に、ライレイは視線を逸らした。
アデルは黙って兄妹を見ていた。
自分には兄弟がいない。
だから、本当のところは分からない。
それでも、リンレイが兄に抱きついた瞬間、ようやく分かったことがある。
守られていた子供が、いつまでも守られるだけの存在でいるとは限らないのだ。
「ライレイ殿下」
「……何、アデルちゃん」
「私には兄弟がおりませんから、本当のところは分かりません。でも、リンレイ殿下がライレイ殿下を大切に思っていらっしゃることは分かります」
ライレイは何も言わなかった。
「ライレイ殿下がリンレイ殿下を守りたいのと、同じなのではないでしょうか」
長い沈黙の後、ライレイが妹の赤褐色の髪へ顎を乗せた。
「それでもさ」
「はい」
「お前を外国に置いていくなんて、俺は嫌だよ」
王太子ではなく、兄の声だった。
「わたくしも、兄様一人に全部背負わせるのは嫌です」
「……」
「決めたことです」
「頑固だな、お前」
「兄様の妹ですから」
「俺、そんな頑固?」
「とても」
「誰に似たんだろうね」
「兄様です」
「最悪」
リンレイが笑った。
ライレイはその頭を一度だけ撫でると、腕を解いた。
「……ちょっと頭冷やしてくる」
「兄様」
「今は無理。これ以上話すと、やっぱり連れて帰るって言うから」
それだけ言って、部屋を出ていった。
私室へ戻ったライレイは、長椅子へ腰を下ろしたまま動かなかった。
衣服に微かに香が残っている。
セージと白檀。
いつからこれが、自分の香りになったのだろう。
アデルに勧められたから使い始めただけだった。それを妹が覚えていた。
昔は鉄の香りがした。
言われて初めて知った。
自分では気づかなかった。戦場では、誰もが似たような匂いをしていたから。
扉が叩かれた。
「誰」
「俺だ」
聞き慣れた低い声に、ライレイは扉を見た。
「入っていいよ」
扉が開き、リュシアンが入ってくる。片手には一本の瓶を提げていた。
「何それ」
「葡萄酒」
「見れば分かるよ」
「前にお前の国の酒をもらったからな。今日はこっちのを持ってきた」
リュシアンはそう言って、向かいではなくライレイの隣へ腰を下ろした。
慰めるために来たとは言わない。
だが、一人にするつもりもないらしい。
ライレイは金の瞳を細め、少しだけ口元を緩めた。
「慰めに?」
「酒を飲みに来た」
「俺と?」
「他に誰がいる」
「ふうん」
「何だ」
「友達みたいだなと思って」
リュシアンが怪訝そうに眉を寄せた。黒髪の隙間から覗く灰青色の瞳は、本当に意味が分からないという顔をしている。
「違うのか?」
今度はライレイが瞬いた。
「……お前、そういうの普通に言うんだ」
「何がおかしい」
「いや。いいよ」
ライレイは笑いながら身体を起こした。
「そういうところ、結構好き」
「気持ち悪い」
「ひど」
リュシアンが栓を抜く。
熟した葡萄の甘さに、樽の木香が重なって広がった。シャンの酒とは違う、柔らかな香りだ。
二つの杯へ注ぎ、一つをライレイへ渡す。
「ほら」
「ありがと」
ライレイは杯を軽く掲げた。
「何に乾杯する?」
「必要か?」
「必要でしょ」
リュシアンは少し考えた。
「……妹の独立に」
「やめて。泣く」
「泣くのか」
「泣かないけど」
「面倒だな」
「じゃあ、お互い面倒な王太子になったことに」
「もっと嫌だ」
そう言いながら、リュシアンは杯を合わせた。
澄んだ音がする。
二人で飲む。
「うま」
「そうか」
「もっと嬉しそうにしなよ」
「俺が造ったわけではない」
「お前、本当にそういうところだよ」
ライレイは長椅子の背へ身体を預けた。
しばらく、どちらも喋らなかった。
沈黙は重くない。
何かを話さなければならない相手ではないのだと気づいて、ライレイは少しだけ笑った。
「俺さ」
「ん?」
「八番目だったんだよね」
「知っている」
「最初は王太子になるなんて、誰も思ってなかった」
杯の中で赤い酒が揺れる。
「母上の身分も低かったし。草原から嫁いできた人だったから」
「戦士の一族だったと聞いた」
「うん。馬に乗って、弓を引いて。下手な男より強かったらしいよ。俺が知ってるのは、後宮にいた母上だけだけど」
ライレイは赤褐色の前髪を掻き上げ、少し笑った。
「怒ると怖かった」
「お前が言うなら相当だな」
「どういう意味?」
「そのままの意味だ」
「喧嘩売ってる?」
リュシアンの口元が僅かに緩む。灰青色の瞳にも、ほんの少し笑いが浮かんだ。
「今笑ったな」
「笑っていない」
「笑った」
「話を続けろ」
「はいはい」
ライレイも笑い、それから杯へ視線を落とした。
「でも、殺された」
リュシアンの笑みが消える。
「王子を産んだから。それだけで」
ライレイは酒を一口飲んだ。
リュシアンは何も言わない。ただ、持っていた杯を膝の上へ下ろした。
「俺一人なら、どうでもよかったんだよ。でもリンレイがいた」
母が死んだ夜。
泣き疲れて眠った、小さな妹。
あの子を残して死ぬわけにはいかないと思った。
「俺が死んだら、次はあいつだと思った」
「それで戦場へ出たのか」
「うん」
後宮で兄たちと争うより、外で功績を上げる方が早かった。
功績があれば兵がつく。兵がつけば発言権が生まれる。発言権があれば、妹を守れる。
「戦争は簡単だったな」
リュシアンが眉を寄せた。
「……簡単?」
「勝てばいいから」
「お前な」
「本当にそうだったんだよ。敵がいる。倒す。城を取る。領土を取る。帰る。分かりやすいだろ?」
ライレイは指を一本ずつ折る。
「今は誰を倒せばいいのかも分からない。商人は倒せないし、兄上たちを全員倒したらさすがに怒られる」
「当たり前だ」
「父上も倒せない」
「倒すな」
「国庫は?」
「もっと駄目だ」
ライレイが吹き出した。
リュシアンも肩を揺らして笑う。
「王太子はそうはいかない」
「知ってるよ。だから困ってる」
ライレイは長椅子へ深く沈んだ。
リュシアンも背を預ける。肩が触れるほどではないが、近い。
「俺は、生まれた時から王太子だった」
「うん」
「お前とは逆だ」
「そうだね」
「だが、今は同じだ。自分で動いた方が早くても、動けない。他人へ任せなければならない」
リュシアンは杯を傾けながら、小さく息を吐いた。
「間違っているかもしれないと思っても、簡単に相談できる相手もいない」
「俺がいるじゃん」
あまりにも軽く返されて、リュシアンが横を向いた。
ライレイは自分を指差している。
「俺、他国の王太子だよ。お前の臣下じゃないし、国王でもない。間違ったこと言っても、たぶん国は滅びない」
「たぶん、なのか」
「絶対って言うと責任重いじゃん」
「急に頼りなくなったな」
「相談料も取らないよ」
「そこは最初から取るな」
「リンレイがスピネリアに行ったら、鷹も飛ばせるし」
「王家の伝書鷹だぞ」
「『今日の会議、最悪だった』くらい送ってくれば?」
「外交用の鷹で?」
「いいじゃん。俺も送るよ」
「何を」
「『リンレイが言うこと聞かない』」
「本人がそこにいるだろう」
「あ」
ライレイが真顔になり、リュシアンが堪えきれず笑った。
「今の忘れて」
「嫌だ」
「忘れろって」
「断る」
「お前、意外と性格悪いよね」
「お前にだけは言われたくない」
また杯が触れた。
今度は乾杯するつもりではなかった。ただ、笑った拍子にぶつかっただけだった。
ライレイは葡萄酒を注ぎ足す。
「まあ、リンレイのことは頼むよ」
「ああ」
「本当に」
ライレイの声が少しだけ低くなる。
リュシアンはすぐに頷いた。
「王宮での身の安全は俺が保証する。使節としても相応に遇する。十五歳の王女一人に実務を押しつけるつもりもない」
「うん」
「それに、アデルがいる」
ライレイの肩から、僅かに力が抜けた。
「それが一番安心なんだよね」
「……そうか」
「何、その顔」
「別に」
「リンレイ、アデルちゃんのこと大好きだよ」
「知っている」
「毎日お茶すると思う」
「構わない」
「部屋にも入り浸るよ、たぶん」
「好きにすればいい」
「そのうち一緒に寝るとか言い出すかも」
リュシアンの灰青色の瞳が僅かに細くなった。
ライレイはその変化を見逃さず、杯の陰で笑う。
「今、嫌だった?」
「……少し」
「認めた」
「お前には隠しても仕方ない」
「いいねえ。だいぶ素直になったじゃん」
「誰のせいだ」
「アデルちゃんでしょ」
「それはそうだ」
あっさり認められて、ライレイが笑う。
「好きだねえ」
「ああ」
「うわ」
「何だ」
「そこは照れろよ」
「事実だ」
「こういうところだけ強いんだよなあ」
ライレイは呆れたように笑い、葡萄酒を飲んだ。
そこで何か思いついたように、金の瞳を悪戯っぽく細めてリュシアンを見る。
「で、どこまでしたの?」
リュシアンの杯が止まった。
「何が」
「アデルちゃん」
「……」
「口づけは知ってる」
「なぜ知っている」
「見れば分かるよ」
「分かるわけがない」
「お前、アデルちゃん見る時だけ顔違うし」
「それと口づけは関係ないだろう」
「じゃあ、してないの?」
「……した」
律儀に答える。
ライレイはにやりと笑った。
「その先は?」
リュシアンが露骨に視線を逸らした。黒髪の隙間から覗く耳が、うっすら赤い。
「お」
「何だ」
「分かりやす」
「うるさい」
「触った?」
「……」
「どこ?」
「そこまで答える必要があるか?」
「友達でしょ?」
「便利に使うな」
「相談相手にもなるよ?」
「相談するとは言っていない」
「じゃあ質問」
「同じだろう」
ライレイは楽しそうに長椅子の背へ肘を乗せた。
「何? スピネリアは夜伽の教育もないの?」
「ある」
「あるんだ」
「王族として必要な教育は受けている」
「へえ。じゃあ何をそんなに困ってるの?」
「困っているとは言っていない」
「顔が困ってる」
「お前が変なことを聞くからだ」
「俺、実地は得意だよ」
「……それは何の自慢だ」
「必要なら教えてあげようか?」
「何を教える気だ」
「色々?」
ライレイの口角が上がる。
完全に面白がっている。
「上がいいの? 下がいいの?」
「……何が?」
「そこから?」
「待て。何の話だ」
「体勢」
「分かっている!」
思ったより大きな声が出た。
ライレイが腹を抱えて笑う。
「分かってんじゃん!」
「お前が言わせたんだろう!」
「で、どっち?」
「知らん!」
「知らない?」
「教本には上しかなかった!」
言ってから、リュシアンが固まった。
ライレイも一瞬止まった。
灰青色と金色の瞳が、しばし無言で見つめ合う。
やがて、ライレイの口元がゆっくり歪んだ。
「その教本、微妙なんじゃない?」
「うるさい」
「上しか載ってないの?」
「基本的な知識を教えるものだ!」
「いや、でも実践するなら選択肢は多い方が」
「何の話をしているんだ、俺たちは」
「夜伽」
「分かっている!」
「今日一番声出てるよ」
ライレイはとうとう長椅子へ倒れ込んで笑い始めた。
リュシアンは片手で顔を覆った。指の間から覗く耳まで赤い。
「笑うな」
「だって……教本には上しか……」
「繰り返すな」
「真面目に勉強したんだ?」
「王族教育の一環だ!」
「偉い偉い」
「馬鹿にしているだろう」
「してないって」
ライレイは目尻に浮かんだ涙を指で拭った。
「でも、そっか。お前そういうところも真面目なんだな」
「普通だろう」
「普通かなあ」
「では、お前はどうした」
「俺?」
ライレイは悪びれもせず、葡萄酒を一口飲んだ。
「花街でお姉様方に可愛がってもらったよ」
リュシアンの灰青色の瞳が止まった。
「……お前」
「何?」
「何歳の話だ」
「そこ気になる?」
「気になるだろう」
「大丈夫。ちゃんと遊べる歳になってから」
「本当か?」
「何その疑い」
「十五で戦場に出た男だから聞いている」
「ああ」
ライレイは納得したように笑い、赤褐色の髪を掻いた。
「戦場にいる間は、街に戻った時くらいしか遊べなかったからね。みんな行ってたし。俺、顔可愛かったから結構人気あったよ」
「自分で言うのか」
「事実だもん」
「今は?」
「格好いいでしょ?」
「聞いた俺が馬鹿だった」
「さっきもそれ言ってたよ」
ライレイは楽しそうにリュシアンの肩を小突いた。
「だから実地は得意だって言ったじゃん」
「誇るな」
「お姉様方、優しかったよ。教本よりよっぽど丁寧に教えてくれた」
「比較対象に俺の教本を出すな」
「だって上しか載ってないんでしょ?」
「まだ言うのか」
「それ、絶対改訂した方がいいって」
「国へ帰ったら燃やす」
「なんで。俺、見てみたい」
「絶対に見せない」
二人で笑った。
ライレイは笑いながらリュシアンの肩へ一度頭を預け、すぐに離れる。
「まあ、でも」
まだ笑みを残したまま、少しだけ声を落とした。
「アデルちゃん相手なら、教本通りにしようとしない方がいいんじゃない?」
「……なぜだ」
「教本にアデルちゃんのこと書いてないでしょ」
「当たり前だ」
「だったら本人見れば?」
ライレイは肩を竦めた。
「嫌そうならやめる。気持ちよさそうなら続ける。もっとって顔してたら、もうちょっと頑張る」
「お前は言い方を選べ」
「分かりやすいでしょ?」
「分かりやす過ぎる」
「でも間違ってない」
リュシアンは反論しかけて、やめた。
「……まあ」
「ほら」
「ただし、お前から聞いたとは絶対に言わない」
「なんで?」
「アデルに何を話したのか聞かれたら困る」
「全部言えば?」
「言うわけがないだろう」
またライレイが笑う。
「大丈夫だよ。男同士の秘密にしといてあげる」
「その言い方も信用ならない」
「じゃあ困ったら鷹飛ばして」
「夜伽の相談を伝書鷹で送れるか」
「暗号決めようよ」
「嫌だ」
「『白檀が足りない』でどう?」
「香料の発注と混同する」
「じゃあ『葡萄酒もう一本』」
「お前が飲みたいだけだろう」
「ばれた?」
リュシアンが呆れた顔をする。
だが、灰青色の瞳にはもう笑みがあった。
「お前と話していると馬鹿らしくなる」
「いい意味?」
「……今はな」
「それ褒めてる?」
「ああ」
ライレイは一瞬だけ目を丸くした。
それから、金の瞳を柔らかく細めた。
「じゃあ、また飲もうよ」
「そうだな」
「今度はアデルちゃんとの進捗報告ね」
「それはしない」
「教本にない体勢まで行ったら教えて」
「絶対にしない」
「下も試したら?」
「ライレイ」
「はいはい」
ライレイは笑いながら杯を掲げた。
「じゃあ、友人に」
リュシアンは一瞬、言葉を止めた。
酒のせいか、先ほどまでの話のせいか、黒髪の下の耳にはまだ僅かに赤みが残っている。
それでも灰青色の瞳を逸らさず、杯を持ち上げた。
「ああ」
二つの杯が触れた。
澄んだ音が、小さく部屋に響いた。
扉の外で、アデルの手が止まった。
隣にいるリンレイも、同じように扉を見ている。
本当は様子を見に来ただけだった。
リュシアンが酒を持って入ってからしばらく経ったので、そろそろ声をかけてもよいかと思ったのだ。
『何? スピネリアは夜伽の教育もないの?』
非常によく聞こえた。
『教本には上しかなかった!』
もっと聞こえてはいけないものまで聞こえた。
アデルは扉を叩こうとしていた手を、静かに下ろした。
「……」
「……」
リンレイと目が合う。
「……兄様は」
「はい」
「元気そうですね」
「そうですね」
『その教本、微妙なんじゃない?』
『うるさい』
アデルは無言になった。
リンレイが少しだけ困った顔をする。
「……いつもの兄様です」
「そうですね」
「よかったです」
「……はい」
リンレイが小さく笑った。
先ほどまで震えていた金の瞳は、もう穏やかだった。
扉の向こうから、ライレイの笑い声が聞こえる。
アデルは、隣に立つ少女から微かに漂う香りに気づいた。
セージと白檀。
先ほど兄に抱きついた時に移ったのだろう。
自分がライレイに勧めた香りだった。
心を鎮め、眠りへ導くために選んだもの。
けれど今は、もうそれだけではない。
リンレイにとっては、兄が戦場から帰ってきた後の香り。
鉄ではない、兄の香り。
「アデル様」
「はい」
「スピネリアでも、白檀は手に入りますか?」
「もちろんです。セージもあります」
「では、持っていかなくても大丈夫ですね」
「ええ」
リンレイは少し考えてから、首を振った。
「でも、少しだけ持っていきます」
「なぜですか?」
「シャンのものと、スピネリアのものでは、きっと香りが違いますから」
アデルは瞬いた。
それから、微笑んだ。
「そうですね。では、両方焚いて比べてみましょう」
「はい」
リンレイも笑った。
同じ香木でも、育った土地が違えば香りは変わる。
けれど、違うからこそ、並べて初めて分かるものがある。
人も。
国も。
きっと同じなのだろう。
扉の向こうでは、二人の王太子がまだ何かを言い合っている。
リンレイの袖から漂う白檀の香りは、もう鉄の匂いを思わせなかった。




