第二十二話 持ち帰る香り
一週間というのは、こんなにも短かっただろうか。
アデルは開いた旅行鞄を前に、しばらく考え込んだ。
シャン国へ着いた時には、随分遠くまで来てしまったような気がした。それなのに帰国の日を翌日に控えた今は、まだ昨日到着したばかりのような感覚がある。
実際、ゆっくり異国を楽しむ暇などほとんどなかった。
あの御前会議の翌朝から、王宮は慌ただしく動き始めた。
リンレイに同行する外務官、書記官、商務官、護衛の選定。新領地へ送る調査官と、第三王子の兵から森林警備へ転属する者たちの名簿作成。香木、樹脂、薬草の採取量を記録するための新しい帳簿まで用意され始めた。
スピネリアへは、最も速い馬を使って使者が送り出された。
王女を正式な駐在使節として受け入れること。シャンから実務官を伴わせること。将来的には森林資源の交易及び技術協力を拡大したいこと。
リュシアン自身が署名した書状を持たせ、途中の宿駅で馬を替えながら昼夜を問わず走らせる。
シャン王宮には伝書鷹という、馬より遥かに速い通信手段もあった。
だが、それはどこへでも手紙を運んでくれる便利な鳥ではない。
鷹を育て、扱う技術を持つ者同士で初めて成立するものだった。
その技術をシャンへ持ち込んだのは、かつてライレイとリンレイの母が生まれた草原の民だという。今も同じ一族の者たちが王宮の鷹舎を管理している。
ライレイとリンレイ自身も、幼い頃に母から扱い方を教えられたらしい。
だからこそ、リンレイがスピネリアへ行く意味がある。
王女と共に鷹を扱える者が渡り、向こうに新たな鷹舎と受け取り手を置く。そうして初めて、山脈を越えて一日で文書を届ける道ができるのだ。
今はまだ、その道はない。
だから馬が走っている。
人が走り。
書類が積み上がり。
会議が増え。
アデルも森から持ち帰った香木と樹脂の試料を分類し、スピネリアへ持ち帰るものとシャンに残すものを仕分け、加工に向く可能性のある香材について簡単な所見までまとめた。
気づけば帰国前日だった。
「……観光をした記憶がありません」
アデルが呟くと、背後で布を畳んでいた侍女が困ったように笑った。
「王都の市場も美しいのですよ」
「見たかったです」
「またお越しくださいませ」
「そうします」
答えながら、アデルは鞄の中を見る。
閉まらない。
来た時より荷物が増えている。
原因は明白だった。
「アデルちゃん、いる?」
扉の向こうから聞き覚えのある声がした。
「おります」
「入るね」
返事を待つ時間が短い。
扉が開き、赤褐色の髪を軽く束ねたライレイが顔を覗かせた。
その後ろに、四人の侍従がいた。
全員、箱を抱えている。
アデルは無言になった。
「何、その顔」
「ライレイ殿下」
「うん」
「そちらは?」
「土産」
「全部ですか?」
「全部」
一箱目が置かれる。
二箱目。
三箱目。
四箱目。
「入りません」
「別便で送るから大丈夫」
「そういう問題でしょうか」
「違う?」
「違う気がいたします」
ライレイは気にせず最初の箱を開けた。
「これはシャンの服。アデルちゃん、こういうの好きそうだったから」
深い青緑の布地に、細い銀糸で草花が刺繍されている。スピネリアのドレスとは違い、身体の線を締めつけず、布を重ねて纏う形だった。
「こちらは?」
「寝巻き」
「寝巻きまで」
「絹だから気持ちいいよ」
二つ目の箱には、淡い水色と白の薄絹が入っている。
三つ目には絹の反物。
さらに茶葉、菓子、香木、小さな香炉、髪飾り。
「随分いただいてしまいます」
「いいの。ワタシからじゃなくて、シャンからのお礼だと思って」
公の意味を持たせる時、ライレイの一人称が変わる。
アデルはそれにもう気づいていた。
「あなたが来てくれなかったら、新領地の森をどう扱うか、まだ揉め続けていたと思うから」
「私は、見つけたものを申し上げただけです」
「そういうところだよね」
ライレイは苦笑した。
「最後に、これは個人的なお土産」
急に声が軽くなった。
嫌な予感がする。
細長い包みを差し出される。
「リュシアンに渡して」
「何でしょう」
「開けていいよ」
紐を解く。
本だった。
表紙を見た瞬間、アデルは首を傾げた。
「……寝室作法?」
「そう」
非常に詳しそうな挿絵が見える。
「例の教本?」
いつの間に入ってきたのか、背後から低い声がした。
振り向く。
黒髪を整えたリュシアンが、入り口で本を見ていた。
灰青色の瞳が明らかに嫌そうに細くなる。
「そう。お前の教本より絶対いいよ」
「いらん」
「上以外もちゃんと載ってる」
「余計にいらん」
「図解も多い」
「燃やす」
「アデルちゃん、没収しといて」
「はい」
「アデル」
「資料として興味があります」
「興味を持つな」
ライレイが腹を抱えて笑った。
「やっぱ持たせて正解だった」
「これを土産に数えるな」
「じゃあ、こっちがちゃんとした方」
もう一つ、小さな箱をアデルへ差し出した。
先ほどまでとは違い、黒い木箱だった。王家の紋章が小さく刻まれている。
「これは?」
「シャン王家で昔から使われてる避妊薬」
アデルは瞬いた。
リュシアンが固まった。
「……ライレイ」
「何」
「お前は」
「これは真面目な土産」
ライレイの金色の瞳から、からかう光が少し消えた。
「王家の女性が使ってきたものだよ。詳しいことは中に書いてある。スピネリアの薬師に成分を確認してもらってから使えばいい」
箱を持ったまま、アデルはまじまじと見る。
「貴重なものでは?」
「外にはほとんど出さないね」
「では、いただいてよろしいのでしょうか」
「だからあげるの」
ライレイは軽く肩を竦めた。
「使うかどうかはアデルちゃんが決めればいい。こういうのは男が勝手に決めるものじゃないから」
隣でリュシアンが黙った。
アデルは少し考え、箱を両手で持ち直す。
「ありがとうございます。帰国後、薬師と確認いたします」
「うん」
「おい」
「何です?」
「なぜそんなに冷静なんだ」
「薬ですので」
「そういう問題か?」
「薬では?」
ライレイがまた吹き出した。
「本当にお似合いだよ、二人」
「黙れ」
「帰る前にもう一回くらい教本の講義しようか?」
「必要ない」
「実地は?」
「必要ない」
「そう?」
「お前はもう出ていけ」
「俺の国なんだけど」
結局、教本はアデルの鞄へ入った。
避妊薬の箱も、その隣へ収まった。
リュシアンは最後まで複雑そうな顔をしていた。
*
翌朝。
王宮正門の前には、出立のための馬車が並んでいた。
スピネリアから来た一行に加え、今度はシャンの使節団も加わる。
リンレイ付きの外務官、書記官、商務官。護衛の兵士たち。そして、草原の民の装束を一部残した数名の鷹匠。
鷹を運ぶための籠も積まれていた。
スピネリア側で鷹舎を整え、通信の拠点を作るのだという。
その中心にリンレイが立っている。
旅装へ着替えた少女は、淡い杏色の衣の上から厚手の外套を羽織っていた。長い赤褐色の髪は邪魔にならないよう高い位置で一つにまとめられている。
金色の瞳には緊張があった。
けれど、以前のように伏せられてはいなかった。
正面から兄を見ている。
「薬は?」
「あります」
「冬物は?」
「あります」
「鷹の餌は?」
「鷹匠が持っています」
「護衛は?」
リンレイが自分の周囲を見た。
「十人以上おります」
「増やす?」
「不要です」
「本当に?」
「兄様」
「はい」
「さっきから同じ確認ばかりしています」
「してないよ」
「しております」
ライレイが口を尖らせた。
王太子というより、完全に妹を送り出したくない兄だった。
「向こうで嫌なことされたら?」
「報告します」
「誰に?」
「リュシアン殿下に」
「俺にも鷹飛ばして」
「内容によります」
「なんで?」
リンレイが少し考える。
「急を要する場合は」
「うん」
「回し蹴りをします」
ライレイが止まった。
アデルも瞬いた。
「……回し蹴り?」
「母様に教わりました」
リンレイは平然としている。
「最近使っていないので、少し練習が必要ですが」
「リンレイ」
「はい」
ライレイの金の瞳が、ゆっくり細くなった。
なぜか、とても嬉しそうだった。
「母上に似てきたね」
「褒めています?」
「最高に褒めてる」
リンレイの口元にも、小さな笑みが浮かぶ。
「でも、できれば蹴る前に逃げろよ」
「状況によります」
「そこは『はい』って言って」
「はい」
「今絶対適当に返事したよね?」
「気のせいです」
「本当に似てきたなあ」
笑いながら言った声が、最後だけ少し揺れた。
ライレイは一歩近づき、妹の外套の襟を直した。
「……帰りたくなったら、帰ってこいよ」
リンレイの目が少しだけ大きくなる。
「途中でも?」
「途中でも」
「失敗しても?」
「失敗しても」
ライレイは迷わなかった。
「何もできなくてもいい。嫌になったら帰ってきていいから」
リンレイはしばらく兄の顔を見ていた。
「兄様」
「何?」
「兄様もです」
「俺?」
「全部、一人で成功させなくてもよいのですよ」
ライレイが黙る。
「誰かに任せても、助けてもらっても、兄様が王太子でなくなるわけではありません」
「……」
「わたくしも、おります」
少し前なら、こんなことを自分から言う少女ではなかったのかもしれない。
ライレイは妹を見つめた後、困ったように笑った。
「十五歳に説教されてる」
「兄様が手のかかる方だからです」
「誰に似たんだろう」
「兄様では?」
「それ昨日も聞いた」
「事実です」
ライレイがリンレイの頭を撫でる。
今度は、子どもを扱うような撫で方ではなかった。
「行ってこい」
「はい」
「ちゃんと帰ってきて」
「はい」
リンレイが深く頭を下げた。
兄妹の話が終わったのを見計らったように、リュシアンが近づく。
「ライレイ」
「ん?」
ライレイが顔を上げる。
二人の王太子が向かい合った。
初めてスピネリアで会った時とは随分違う。
あの頃は互いに笑いながら、どこまで信用できる相手か測っていた。
今は、ライレイが先に拳を差し出した。
「妹、頼む」
「ああ」
リュシアンも拳を軽く合わせた。
「何かあれば俺からも知らせる」
「鷹、ちゃんと覚えてよ」
「まずは鷹舎を作らせる」
「覚える気ない?」
「ある。だが、王太子が直接扱う必要はあるのか?」
「あるよ。便利だし」
「それだけか」
「夜中に愚痴送れる」
「送るな」
「お前も送っていいよ」
「考えておく」
「そこは否定しないんだ」
ライレイが笑う。
それからふと、遠くに見える山脈へ顔を向けた。
朝靄の向こうに、青黒い稜線が連なっている。
スピネリアとシャンを隔ててきた山だ。
「なあ、リュシアン」
「何だ」
「あれ、邪魔じゃない?」
「……山脈のことか?」
「うん」
「今さら何を言っている」
「俺たちが王位につくまでにさ」
ライレイは金の瞳を細めた。
「ぶち抜こうぜ」
リュシアンが黙った。
「……何を?」
「山」
「それは分かっている」
「道作ろうよ。馬車が普通に通れるくらいの」
ライレイは山を指差す。
「いつまでも人と荷物が何日もかけて山越えしてたら、西との商売なんか増えないだろ。だったら街道を作る。必要なら隧道も掘る」
「簡単に言うな。莫大な金がかかる」
「だからさ」
ライレイが振り返る。
「王になるんじゃん」
リュシアンの灰青色の瞳が、僅かに見開かれた。
やがて、その口元が上がる。
「国庫を空にするなよ」
「そっちも出してよ」
「なぜ半分出す前提なんだ」
「共同事業」
「割合は交渉する」
「いいね」
ライレイが手を差し出す。
「俺たちの代で、山に道を通そう」
リュシアンはその手を見る。
それから、握った。
「ああ」
「約束ね」
「忘れるなよ」
「そっちこそ」
強く握って、離す。
戦争をするために越える山ではない。
商人が通り、技術者が通り、香木や葡萄酒を積んだ馬車が行き来する道を作る。
それがいつになるのか、今は誰にも分からない。
それでも二人は、当たり前のようにその先の話をしていた。
「ところで」
ライレイの口元が悪戯っぽく上がる。
「教本、ちゃんと読んでね」
「今の約束を返せ」
「道が完成する頃には成果出てる?」
「全部台無しだ」
「進捗は鷹で」
「絶対に送らん」
ライレイが笑う。
リュシアンも、今度は隠さず笑った。
アデルはその少し離れた場所から、二人を見ていた。
ライレイと目が合う。
「アデルちゃん」
「はい」
呼ばれて近づく。
ライレイの表情から、先ほどまでの軽さが少し消えた。
背筋を伸ばす。
「改めて、礼を言わせて」
声も変わる。
「今回、あなたが来てくれたことに、シャン王太子として感謝します」
アデルも自然と姿勢を正した。
「ワタシたちは、森から何を取れるかばかり考えていました」
金色の瞳が、遠くの山を見る。
「麝香鹿を何頭狩ればいくらになる。香木をどれだけ伐れば金になる。ずっと、そういう計算だった」
「……」
「でも、残す方が利益になるものもある。兵士に弓を捨てさせなくても、鹿を殺す以外の仕事を作れる。そんな勝ち方もあるんだって、あなたたちに教えてもらった」
「私は、森にあったものを申し上げただけです」
ライレイは少し笑った。
「やっぱり、そう言うと思った」
「事実です」
「うん。そういうところも含めて、ありがとう」
アデルは一度目を伏せ、礼をした。
「私も、多くのことを学ばせていただきました」
「また来てよ」
「はい」
「今度は仕事抜きで」
「できれば」
「リュシアン抜きでもいいよ」
「駄目だ」
すぐ後ろから返事が来た。
「お前に聞いてないよ」
「俺も来る」
「だから呼んでないって」
「知るか」
ライレイが肩を竦める。
「まあいいや。三人でも」
「リンレイ殿下もお連れします」
アデルが言うと、ライレイの目が柔らかくなった。
「うん」
短い返事だった。
「連れて帰ってきて」
*
馬車が王都を離れてから、リンレイは長い間、窓の外を見ていた。
朱色の城壁が遠ざかる。
屋根が小さくなる。
やがて王都そのものが見えなくなり、代わりに広い空と街道が続く。
怖くないと言えば、嘘になる。
生まれて初めて、国を離れる。
兄とも離れる。
自分の名前で、他国の王宮に立つ。
これまでは、できるだけ目立たずに生きてきた。
王家に生まれたからといって、すべての王子王女が同じように守られているわけではない。
母はすでに亡く。
兄は戦場にいた。
自分が問題を起こせば、それは兄の弱点になる。
誰かに何かを欲しいと言えば、それを利用されるかもしれない。
誰かを嫌いだと言えば、その相手が兄の敵になるかもしれない。
だから、何も言わない方がよかった。
笑うべき時に笑い。
黙るべき時に黙り。
必要以上に誰かへ近づかない。
息を小さくしていれば、兄の邪魔にならない。
そう思っていた。
けれど。
リンレイは膝の上に置いた手を開いた。
小さな香り袋がある。
セージと白檀。
兄の香り。
『ずっと兄様だけに、わたくしを守らせ続けるつもりはありません』
自分で言った言葉を思い出す。
もう、息を殺して生きるのはやめる。
兄が自分を守るために剣を取ったのなら。
自分は、兄がもう剣を取らなくてもよい国を作る側へ行く。
戦場には立てない。
兄ほど強くもない。
けれど、鷹を飛ばすことはできる。
母に教わった。
空の見方も、風の読み方も。
腕に止まった猛禽を怖がらず、革手袋の上で静かに待つことも。
スピネリアに鷹舎を作れば、兄と一日で言葉を交わせる。
その一羽が山を越えるたびに、二つの国の距離も少しずつ縮まるのだ。
リンレイは香り袋を握った。
「……大丈夫」
誰にも聞こえない声で呟いた。
兄に言うためではない。
自分に言うためだった。
「何かございましたか?」
向かいに座るアデルが顔を上げた。
銀色の長い髪が、馬車の揺れに合わせて肩からさらりと滑る。
「いいえ」
リンレイは首を横に振った。
「少し、考え事をしていただけです」
「酔いました?」
「大丈夫です」
「具合が悪くなったら仰ってください」
「ありがとうございます」
それだけだった。
まだ、たくさん話す関係ではない。
それでよかった。
これから時間はいくらでもある。
リンレイは再び窓の外を見た。
前方には山脈がある。
その向こうが、これから自分が暮らす国だった。
*
「……疲れた」
珍しく、リュシアンがそう言った。
山道へ入ってしばらく経った頃だった。
向かいに座っていたアデルは目を瞬いた。
「リュシアン様が口に出して疲れたと仰るのは珍しいですね」
「俺を何だと思ってる」
「丈夫な方かと」
「疲れる時くらいある」
そう言いながら、リュシアンは座席の背へ深く身体を預けた。
黒髪も出立時より僅かに乱れている。
灰青色の瞳の下にも、薄く疲労が滲んでいた。
一週間。
慣れない国で、森へ入り、外交の会議へ出て、国王や王子たちと話し、帰国の手配をした。
さらに夜は。
アデルはそこまで考えて、ふと思った。
「リュシアン様」
「何だ」
「帰国したら、私たちは別々に寝るのでしょうか」
リュシアンの目が開いた。
「……何?」
「寝室です」
「それは分かる」
「シャンでは事情がありましたので、同じ部屋で眠ることが多かったですが」
「ああ」
「王宮へ戻れば、私には私の部屋があります」
「あるな」
「では、別々に」
「待て」
妙に早かった。
アデルは首を傾げる。
「何でしょう」
リュシアンは口を開き、閉じた。
少し視線を逸らす。
「……別に、毎日別々でなくてもいいだろう」
「そうなのですか?」
「そうだろう」
「婚約前ですが」
「それは分かっている」
「王宮内で問題になりません?」
「……なるかもしれない」
「では別々ですね」
「待てと言っている」
真剣だった。
アデルも真剣に考える。
「では、週に何日くらいが適切でしょう」
「回数制なのか?」
「毎日ではないのでしたら、そうなるかと」
「そういう話では」
リュシアンが額を押さえた。
向かいの隅で、リンレイが静かに窓の外を見た。
何も聞いていない顔をしている。
けれど、少しだけ耳が赤い。
「……週三日」
リュシアンが言った。
「はい?」
「いや」
灰青色の瞳が真剣に揺れる。
「四日」
「増えましたね」
「半分以上がいい」
「では四日で」
「決めるのか」
「リュシアン様が提案されたのでは?」
「そうだが」
アデルは少し考えた。
「私も、リュシアン様と一緒の方がよく眠れます」
リュシアンが黙った。
「ですので、四日で構いません」
「……そうか」
明らかに嬉しそうだった。
表情を隠そうとしているが、口元が僅かに緩んでいる。
「五日でもいい」
「増やさないでください」
「交渉だ」
「では帰国後、改めて」
「ああ」
そこまで話すと、急に眠気が押し寄せてきた。
緊張が切れたのだろう。
アデルが小さく欠伸をすると、リュシアンが隣の座席を軽く叩いた。
「寝ろ」
「ですが」
「まだ先は長い」
アデルは素直に隣へ移った。
肩へ頭を預ける。
もう、この体勢にも慣れた。
リュシアンの肩から力が抜ける。
「リンレイ殿下も、お休みになってください」
アデルが言うと、リンレイが振り返った。
「よろしいのですか?」
「長旅ですから」
「……はい」
リンレイも背を預けた。
手の中には、まだ香り袋がある。
セージと白檀。
アデルの鼻にも微かに届く。
シャンで覚えた香りが、馬車の中に残っている。
持ち帰るものは、多かった。
香木。
樹脂。
薬草の記録。
絹。
茶。
妙な教本。
使うかどうか分からない薬。
そして、一人の王女。
それだけではない。
山の向こうに、これから何度も言葉を交わす人々ができた。
アデルは目を閉じた。
「スピネリアに着くまで、少し眠ります」
「ああ」
リュシアンの声が近くで聞こえた。
馬車が揺れる。
やがて、三人分の呼吸が静かに重なった。
*
その頃。
スピネリア王宮の一角では、一人の侍女が青ざめていた。
王女の寝室。
朝の支度を終え、主が部屋を出た後だった。
寝台を整え、窓を開ける。
昨夜も確かに閉めたはずの窓だ。
鍵にも異常はない。
侍女は室内を見回した。
化粧台。
長椅子。
本棚。
小さな丸卓。
どこにも人が隠れられる場所などない。
それでも。
「……また」
鼻を押さえる。
知らない香りがする。
王女が使っている香水ではない。
侍女たちのものでもない。
甘くない。
革と、煙と、何か焦げた樹脂のような匂い。
男物の香水に似ている、と最初に言ったのは若い侍女だった。
それから噂が始まった。
王女殿下が、夜ごと誰かを部屋へ招いているらしい。
深夜、バルコニーに人の影を見た者までいるという。
けれど。
「そんなはず……」
寝台は一人分しか乱れていない。
王女本人も、誰かを招いたことなどないと言っている。
背中が冷たくなる。
扉が開いた。
「どうしたの?」
別の侍女が入ってくる。
すん、と鼻をたてて相手の顔から血の気が引いた。
窓は閉まっていた。
扉の前には、夜通し衛兵がいた。
知らない男の香りだけを残して、消えている。




