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第二十三話 王女の寝室の香り

 スピネリア王宮の尖塔が見えた時、アデルはようやく帰ってきたのだと実感した。

 見慣れた白い石壁と、深い青色の旗。遠くからでも分かる王家の紋章が風にはためき、その向こうには春を間近に控えた淡い陽を受け、王都の屋根が連なっている。

「……帰ってきましたね」

「ああ」

 隣に座るリュシアンの声にも、僅かな安堵が混じっていた。

 シャンを出てから数日。途中で宿を取りながらの長旅だったとはいえ、異国で過ごした一週間の疲れまで含めれば、二人ともそれなりに消耗している。

 それでも王宮が近づけば、自然と背筋が伸びた。

 王太子と、宮廷調香師。

 帰った瞬間から、それぞれの仕事が待っている。

 向かいでは、リンレイが窓の外へ身を寄せていた。

「大きい……」

 小さく漏れた声に、アデルが笑う。

「シャンの王宮も大きかったと思いますが」

「形が全然違います」

 リンレイの金色の瞳が忙しく動く。赤褐色の髪は旅の間邪魔にならないよう高い位置で結ばれていたが、長旅のせいで数本ほどけ、頬へ落ちていた。

「石が多いですね」

「スピネリアでは石造りの建物が多いですから」

「窓も大きい」

「花を育てるため、陽を取り込む建物が好まれるのです」

 説明するアデルの声を聞きながら、リュシアンが窓の外を見る。

「リンレイ殿下」

「はい」

「王宮へ入れば、まず父上と母上へ挨拶に向かう」

「承知しております」

「緊張しているか?」

 問われ、リンレイは少し考えた。

「しております」

「そうは見えないな」

「見せないようにしております」

 真顔だった。

 リュシアンが僅かに口元を緩める。

「大丈夫だ。父上も母上も、いきなり食ったりはしない」

「リュシアン様」

 アデルが咎める。

「緊張をほぐそうとした」

「逆効果では?」

 リンレイが二人を見比べ、それから小さく笑った。

「少しだけ、ほぐれました」

「ほら」

「結果論です」

 王宮の門が近づく。

 衛兵たちが一斉に姿勢を正し、門が大きく開いていく。

 帰ってきたのだ。

 アデルは知らず、胸の奥で息を吐いた。

*

 馬車を降りると、迎えの侍従や侍女がずらりと並んでいた。

「王太子殿下、お帰りなさいませ」

「アレクシア嬢も、ご無事で何よりでございました」

 次々と頭が下がる。

 その先で、見慣れた栗色の髪が揺れた。

「アデル様!」

「メリー」

 アデルの侍女、メリーだった。普段なら主人の前で走ることなどない彼女が、今日は一歩、二歩と足早に近づいてくる。

「お帰りなさいませ」

「ただいま戻りました」

 メリーはすぐにいつもの侍女らしい顔へ戻ったものの、目元にははっきりと安堵が滲んでいる。

「お怪我などは?」

「ありません。少し疲れただけです」

「本当に?」

「本当よ」

 答えてから、アデルは背後のリンレイを振り返った。

「こちらがシャン国第四王女、リンレイ殿下です」

 メリーがすぐに姿勢を正す。

「お初にお目にかかります、リンレイ王女殿下。アデル様付きの侍女を務めております、メリーと申します」

「リンレイです。これからお世話になります」

リンレイも丁寧に頭を下げた。

 その姿を確認したリュシアンが侍従へ向き直る。

「父上と母上は?」

「謁見の間にてお待ちでございます」

「分かった。荷物はそれぞれの部屋へ。リンレイ殿下の荷物については、先に整えてある客室へ運んでくれ」

「承知いたしました」

 リュシアンは歩き出しかけ、それから何かを思い出したようにアデルを見る。

「例の荷物も?」

「例の?」

「シャンでもらった」

 アデルは瞬きをした。

 教本と避妊薬が入った箱を思い出す。

「ございます」

「……そうか」

 何とも言えない顔をした。

「何ですか」

「いや」

「?」

「後でいい」

 メリーだけが不思議そうに二人を見ていた。

*

 謁見の間では、国王夫妻が待っていた。

 玉座に座るスピネリア国王は、リュシアンとは髪の色こそ違うものの、顔立ちがよく似ている。

 まっすぐな金髪を隙なく後ろへ撫でつけ、切れ長の灰青色の瞳、通った鼻筋、薄い唇。年齢を重ねた分だけ線は深くなっているが、リュシアンがあと二十数年もすればこうなるのだろうと思わせる、端正で硬質な容貌だった。

 その隣に座る王妃は、雰囲気が対照的である。

 肩の下まである亜麻色の髪は滑らかに整えられ、茶色の瞳には柔らかな光がある。口元にはいつも穏やかな笑みを浮かべているが、アデルはもう知っている。あの朗らかな表情の奥には、王妃として国と家族を守ってきた芯の強さがある。

「ただいま帰国いたしました」

 リュシアンが一歩前へ進み、礼を取る。

「長く国を空け、申し訳ございません」

「よい」

 国王の声は低く落ち着いていた。

「報告は早馬から受けている。今回の訪問は、当初の予定以上の成果を得たようだな」

「はい。詳細については改めて報告書を提出いたします」

「ご苦労だった」

 短い言葉だったが、灰青色の瞳が僅かに和らぐ。

「アデル嬢も」

「はい」

「遠路、ご苦労であった。シャンの森林資源について、お前の知識が大いに役立ったと聞いている」

「恐れ入ります。私一人の力ではございません。現地の猟師や、シャン国の皆様に教えていただいたことが多くございました」

「そうか」

 国王が頷く。

 それから視線がリンレイへ移った。

 金の瞳を持つ少女が、少しだけ身体を硬くした。

「シャン国第四王女、リンレイ殿下」

「はい」

 リンレイは一歩前へ出る。

「お初にお目にかかります。シャン国第四王女、リンレイと申します。このたび、我が国よりスピネリア王国へ派遣される駐在使節として参りました」

 練習したのだろう。声は僅かに硬いが、震えてはいない。

「シャン国とスピネリア王国、双方に益のある関係を築くため、力を尽くす所存でございます。何卒、よろしくお願い申し上げます」

 深く頭を下げる。

 国王は少女をしばらく見つめていた。

「顔を上げられよ」

 リンレイが顔を上げる。

「十五歳と聞いている」

「はい」

「よく決断した」

「……ありがとうございます」

「異国での暮らしは、不自由も多いだろう。正式な使節として、我が王室が責任をもって遇することを約束する」

 リンレイの表情から、ほんの少し緊張が抜けた。

「感謝いたします」

「それから」

 王妃が微笑む。

「公務とは別に、あなたはまだ十五歳でしょう。困ったことがあれば、遠慮せず私にも相談してくださいね」

「はい。王妃殿下」

「スピネリアへようこそ、リンレイ殿下」

 茶色の瞳が優しく細められた。

 その笑顔を見て、アデルも安心しかけた。

 けれど、何かがおかしい。

 ほんの僅かだった。

 国王がいつもより口数が少ない。

 王妃も笑ってはいるが、視線が時折、国王の方へ流れている。

 何より、リュシアンが気づいていた。

「父上」

「何だ」

 低い声で呼びかける。先ほどまで柔らかかった灰青色の瞳から、息子の顔が消えている。

 王太子の目だった。

「不在中、何か変わったことはございませんでしたか?」

 国王の指が、肘掛けの上で一度止まった。

 ほんの一瞬。

 だが、リュシアンは見逃さなかった。

 アデルも。

「……なぜそう思う」

「父上の顔を見れば」

「随分、生意気になったものだ」

「以前からです」

 いつもなら、国王も何か言い返したかもしれない。

 今日は違った。

 視線が僅かにリンレイへ向く。

 外国の正式な使節。

 しかも到着したばかりだ。

 この場で王家内部の問題を口にするわけにはいかない。

「大事はない」

 国王はそれだけ答えた。

 リュシアンの眉が僅かに寄る。

 追及しようとした、その時だった。

「そうですわ」

 王妃が穏やかに口を挟んだ。

「あなたたちは長旅を終えたばかりですもの。今日は公務のことは忘れなさい」

 それからアデルへ向き直る。

「アデル」

「はい」

「せっかく帰ってきたのだし、この後、お茶をしながらお土産話を聞かせてくれる?」

「喜んで、王妃殿下」

 アデルは即座に答えた。

 王妃の笑みはいつも通りだ。

 けれど、誘われた理由が旅の話だけではないことくらい分かる。

 隣を見る。

 リュシアンと目が合った。

 灰青色の瞳が僅かに細くなる。

 アデルもほんの少しだけ頷いた。

 やはり。

 何かあった。

*

「帰ってきて早々に悪いわね」

 王妃の私室へ場所を移し、侍女が茶を淹れ終えて退室したところで、最初にそう言われた。

「いいえ。お気になさらないでください」

 アデルは姿勢を正した。

 王妃の私室は以前と変わらない。窓辺には香りの弱い白い花。卓上には薄い柑橘の香りをつけた茶。リュシアンが幼い頃から出入りする場所だからなのだろう。強い薫香は焚かれていない。

 けれど、王妃の表情はいつもと少し違った。

 朗らかな笑みを消し、茶色の瞳を伏せる。

「実は、メリルのことで少し問題が起きているの」

「メリル王女殿下の?」

「ええ」

 アデルは王女の顔を思い出そうとした。

 もちろん、見たことがないわけではない。王宮で暮らしていれば式典や食事の席で同席することはある。ただ、言葉を交わした記憶はほとんどなかった。

 メリル・スピネリア王女。

 リュシアンの妹。

 王家の中では、兄のライオネル王子よりも父王によく似ている。

 王子であるライオネルは父譲りの金髪に、母譲りの茶色の瞳を持っている。顔立ちも王妃に似て朗らかで、笑えばその場の空気まで明るくなるような青年だ。

 対してメリル王女は、王妃と同じまっすぐな亜麻色の髪に、国王譲りの灰青色の瞳を持つ。眉はすっきりと整い、鼻筋は細く真っ直ぐで、口元も柔らかいというより端正だった。まだ少女らしさを残す年頃ではあるものの、黙っていれば凛とした印象が強く、兄のリュシアンとは髪色が違っても、王の血を感じさせる顔立ちをしている。

「メリル殿下に、何があったのでしょう」

 王妃は一度、茶器へ視線を落とした。

「一週間ほど前から、あの子の寝室で妙なことが起きているの」

「妙なこと?」

「朝になると、知らない香りが残っているそうなの」

 アデルの表情が変わった。

「香りですか」

「ええ。メリルが使っている香水でもなければ、侍女たちのものでもない。男物の香水のようだ、と」

「男物」

「それだけなら、侍従や護衛の香りが偶然残った可能性も考えたわ。でも、夜中に人影を見たという侍女まで現れて」

 王妃の声が僅かに低くなる。

「王宮ではもう、あの子が夜ごと男を寝室へ招いているのではないかと、くだらない噂まで出始めている」

「メリル殿下は、何と?」

「完全に否定しているわ」

 答えは早かった。

「それに、私はあの子を信じています」

 穏やかな声だが、そこに迷いはない。

「メリルは、隠し事が得意な子ではないの」

 王妃の口元に、ごく薄い苦笑が浮かぶ。

「竹を割ったような性格というのかしら。嫌なものは嫌。気に入らないものは気に入らない。兄たちにも父親にも、必要なら正面から言い返します」

「……頼もしい方なのですね」

「頼もしすぎることもあるわ」

 王妃が少しだけ笑う。

「幼い頃、ライオネルに人形を壊された時も、泣くより先に本人の部屋まで抗議しに行った子ですもの」

「ライオネル殿下が?」

「事故だったそうだけれど」

「なるほど」

「だから、秘密の恋人がいるのなら、私はむしろ『います』と言うと思うの」

 アデルは少し驚いた。

「そこまで?」

「それがメリルよ」

 王妃の笑みが消える。

「ただ……あの子も、今回は怖いのだと思う」

「扉の警備は?」

「夜通しついていたわ。窓にも鍵がかかっている。誰も出入りしていないと、衛兵は証言している」

 王妃の指が、茶器の取っ手をゆっくり撫でる。

「それでも、何かが入ってきている」

 声は静かだった。

 だからこそ、母親としての不安がよく分かった。

「メリルは平静を装っているわ。『騒げば相手の思う壺です』なんて言って」

「……」

「でも、昨日から寝台の横に剣を置いて寝ているそうよ」

 アデルは少し眉を寄せた。

 竹を割ったような性格。

 怖くても、怖いとは言わない。

 そんな少女なのだろう。

「王女殿下は今、どちらに?」

「午後の講義中よ。歴史と外交だったかしら」

「寝室には?」

「誰もいません。侍女が最低限の掃除だけ済ませて、そのままにさせています」

「香りは残っていますか?」

「今朝はまだ残っていたと聞いています。ただ、時間が経っていますから……」

「それでも構いません」

 アデルの声が少し変わった。

 長旅の疲れが消えたわけではない。けれど香りの話になれば、頭の中が自然と仕事へ切り替わる。

「本日、寝室を確認してもよろしいでしょうか」

「帰ってきたばかりよ?」

「香りは時間が経つほど薄れます。可能であれば、今日のうちに一度確認しておきたいです」

 王妃がアデルを見る。

 茶色の瞳が少し柔らかくなった。

「ありがとう」

「まだ何もしておりません」

「それでもよ」

 王妃は一度息を吐いた。

「ただし今日は香りの確認だけでいいわ。詳しい調査は明日からにしましょう。メリルは明日も午前中に授業、午後には音楽と礼法の稽古があるから、その間なら寝室を空けられる」

「承知いたしました」

「本人への聞き取りも、そのあとに」

「はい」

「アデル」

「何でしょう」

「メリルとは、あまり話したことがなかったわね」

「はい。ご挨拶をした程度かと」

「なら、その距離のままでいいわ」

 アデルは瞬いた。

「王女だからと遠慮する必要も、妹のように扱う必要もありません。あなたは宮廷調香師として呼ばれたのだから、まずは仕事として見てちょうだい」

「……はい」

 その方がありがたい。

 まだよく知らない相手へ、分かったような顔をするつもりはない。

「それから、リンレイ殿下にはまだ話さないでおきましょう」

「分かりました」

「外国の正式な使節として到着した初日に、王家の醜聞めいた噂を聞かせる必要はありません」

「同感です」

 王妃は頷き、ようやく少しだけ表情を緩めた。

「本当に、帰ってきたばかりなのにごめんなさいね」

「いえ」

 アデルは茶器を置いた。

「宮廷調香師の仕事ですから」


*


 その夜。

 久しぶりに戻った王太子の私室には、見慣れた香りがあった。

 磨かれた木の家具。紙。インク。洗い立てのリネン。そして、リュシアンのために香りを極力抑えて整えられた空気。

 シャンの客殿とは違う。

 本当に帰ってきたのだと、今度こそ身体が理解した。

 アデルは長椅子へ腰を下ろしていた。

 向かいでは、執務用の上着を脱いだリュシアンが葡萄酒ではなく水を飲んでいる。黒髪は湯浴みの後だからか少し湿り、普段より柔らかく額へ落ちていた。

「それで?」

「はい」

 王妃との茶会から戻った後は、リンレイの部屋の確認や、シャンから持ち帰った書類の整理に追われた。

 二人きりで話せたのは、結局この時間になってからだった。

「メリル殿下のお部屋で、夜ごと知らない香りがするそうです」

 リュシアンの灰青色の瞳が細くなる。

「知らない香り?」

「男物の香水に似たものだと」

「……あのメリルに限って、そんなことが?」

 思わず漏れた声だった。

「やはり、そう思われます?」

「秘密の男を寝室へ入れるような性格じゃない」

 即答だった。

「好きな男ができたなら、まず父上と母上の前に連れていって『この人と結婚します』くらい言う」

「王妃殿下も、似たようなことを仰っていました」

「だろうな」

 リュシアンは片手で額を押さえた。

「しかも、あいつは嘘が下手だ」

「そうなのですか?」

「ああ。隠し事をしていると、妙に態度が堂々とする」

「堂々と?」

「隠そうとして普段以上に普通にしようとする。結果、かえって不自然になる」

 アデルは少し笑った。

「よくご存じなのですね」

「妹だからな」

 何でもないことのように言ってから、リュシアンの表情が僅かに曇った。

「で、本人は怖がっているのか」

「王妃殿下のお話では、なるべく平静に振る舞っているそうです。ただ、寝台の横へ剣を置いて眠っていると」

 リュシアンの顔から笑みが完全に消えた。

「……あいつが?」

「はい」

「それは、相当だな」

「そう思います」

 しばらく沈黙が落ちる。

 リュシアンの指先が、膝の上でゆっくり組まれた。

「俺も行く」

「明日ですか?」

「ああ。メリルの部屋を見る」

 言ってから、リュシアンが止まった。

「……いや」

 眉間に皺が寄る。

「難しいな」

「シャンとの件ですか?」

「早馬で最低限の連絡は届いているが、正式な使節団が到着した以上、明日から評議会が動く。リンレイ殿下の身分確認、駐在使節としての権限、鷹舎の設置場所、交易協議の再開、新領地から運ぶ品の関税まで決めなければならない」

 アデルは黙って聞く。

 シャンでは、ライレイが国を離れられないことが問題になった。

 戻ってきたリュシアンも、同じだ。

 王太子は、身近な人に何か起きたからといって、好きに動けるわけではない。

「悪いが、調査に同行するのは難しそうだ」

 リュシアンは低く息を吐いた。

 その横顔には、王太子としての諦めと、兄としての不満が同時に浮かんでいる。

「お前一人に任せるのも気になるが」

「王宮内ですよ?」

「王宮内だから起きてるんだろう」

「……それはそうですね」

 正論だった。

 アデルは考える。

「ですが、王女殿下のお部屋へ大勢で入るわけにもいきません。私は香りを調べるだけですし、護衛を付けていただければ」

「護衛は当然つける」

「はい」

「侍女も残せ」

「もちろんです」

「変なものを見つけても、一人で触るな」

「はい」

「隠し通路を見つけても入るな」

「……ある前提なのですか?」

「誰も入っていないのに物が動いてるんだろう」

「確かに」

「アデル」

「はい」

「真面目に聞け」

「真面目です」

 リュシアンが疑わしそうに見る。

「前に誘拐された時も、お前は調べ始めると周りが見えなくなった」

「反省しております」

「本当か?」

「かなり」

「ならいい」

 まだ信用しきってはいない顔だった。

 アデルは少し考え、それから口元を緩めた。

「心配してくださっているのですね」

「当たり前だろう」

「ありがとうございます」

 素直に礼を言われると、リュシアンは少しだけ言葉に詰まった。

 灰青色の瞳が逸れる。

「……それと」

「はい」

「メリルのことも頼む」

 今度の声は、王太子のものではなかった。

 兄の声だった。

「怖がっているなら、あいつは多分、自分からは言わない」

「王妃殿下も、そのように仰っていました」

「強がるんだ。昔から」

 リュシアンが小さく息を吐く。

「転んで膝から血が出ても、『痛くない』と言いながら泣いてるような子だった」

「……可愛らしいですね」

「本人には絶対言うなよ」

「言いません」

「本当に?」

「私と王女殿下は、まだほとんどお話ししたこともありません」

「そうだったな」

「ですから、まずは宮廷調香師として伺います」

「ああ。それがいい」

 リュシアンの肩から、ほんの少し力が抜けた。

 アデルも背もたれへ身体を預ける。

 長旅の疲れが、今になって一気に戻ってきたような気がした。

「リュシアン様」

「何だ」

「そろそろ休みませんか」

「ああ。明日も早い」

「今日は、私は自分の寝室へ戻りますね」

 リュシアンの視線がアデルへ向いた。

 一瞬だけ何か言いたそうな顔をしたが、すぐに小さく頷いた。

「そうだな。俺も今日は自分の部屋で寝る」

「長旅でしたものね」

「ああ」

「明日からまた忙しくなりますし」

「……それもある」

「他にも?」

「別に」

 少し不満そうだった。

 アデルは思わず笑う。

「何ですか」

「いえ」

 立ち上がると、リュシアンも腰を上げた。

「送る」

「すぐ隣では?」

「それでも」

「では、お願いいたします」

 並んで私室を出る。

 王宮へ戻ってきた。

 同じ屋根の下にいて、扉一枚向こうに相手がいる。

 シャンでは当たり前になりかけていた距離とは少し違う。

 けれど、離れたわけではない。

「おやすみ、アデル」

「おやすみなさい、リュシアン様」

 それぞれの寝室へ戻り、扉が静かに閉まった。

 久しぶりに一人で眠る夜だった。

 けれど同じ頃。

 少し離れた王女の居住区では。

 誰もいない寝室の中に、また微かな香りが残り始めていた。

 革。

 煙。

 焦げた樹脂。

 そして、その奥に。

 まだ誰も気づいていない、もう一つの匂いが混じっていた。

翌朝、アデルは王女の寝室にいた。

 メリル本人は歴史の講義へ出ている。王妃の指示で、室内にはアデルとメリー、それから王女付きの侍女が一人だけ残された。

 大きな窓から、春を目前にした冷たい光が差し込んでいる。亜麻色の厚いカーテン、白を基調とした寝具、磨き込まれた家具。王女の私室としては意外なほど装飾が少なく、整然としていた。

 部屋の主の性格が、何となく分かる。

「まだ残っていますね」

 アデルはゆっくり室内を歩きながら、鼻から細く息を吸った。

 革。

 煙。

 焦げた樹脂。

 昨日、王妃から聞いた通りの香りだった。

 けれど、実際に嗅いでみると妙だ。

「男物……ではありませんね」

 王女付きの侍女が目を丸くする。

「ですが、私どもは皆、そのように」

「男物らしくはあります」

「違うのですか?」

「少なくとも、男性が自分で選んだ香りとは思えません」

 アデルは寝台のそばで足を止めた。

 スピネリアでは、男性も香りをまとう。

 香料の選び方には流行もあれば、身分や年齢、職業による傾向もある。革、煙、樹脂という素材そのものは珍しくないが、この組み合わせはあまりにも直接的だった。

 男らしいものを三つ挙げて、そのまま一つの瓶へ入れたような香り。

「男性の香りをよく知らない方が、『男性ならこういう香りだろう』と想像して作ったように思えます」

「では、犯人は女性?」

「まだ断定はできません。ただ、令息であれば、この香りがおかしいことには気づくと思います。おそらく、ご令嬢ではないかと」

 アデルは再び部屋を見回した。

 問題は、どうやって香りを残したのかだ。

 扉は夜通し警備されている。

 窓にも内側から鍵がかかっている。

 そもそも、誰かが室内へ入った形跡はない。

 アデルは窓辺へ近づいた。

 大きな硝子窓の向こうには、細い石造りのバルコニーがある。その先は王族居住区の庭へ面しているが、地上から直接上がれる高さではない。

「……?」

 窓枠へ顔を近づけた時だった。

 木製の枠の一部分だけ、光の反射が違う。

「メリー、こちらへ」

「はい」

 アデルは指先で触れず、顔だけを寄せた。

「窓枠のここにだけ、細い擦り傷がある?」

 針で何度も引っかいたような傷だった。

 そのすぐ下。

「その下には……染み?」

 淡い褐色の跡が残っている。

 アデルは鞄から細い硝子棒と試香紙を取り出した。染みに直接触れないよう、ほんの少しだけ表面から香りを拾う。

 鼻へ近づけた瞬間、目が細くなった。

「ここです」

「ここ?」

「香りは、この窓から入れられています」

 侍女が息を呑んだ。

「ですが、窓は施錠されております」

「開ける必要はありません」

 アデルは窓を横から確認する。

 閉じた硝子と木枠の間には、紙一枚ほどの隙間があった。

「細い管か、注入器のようなものをここへ差し込んだのでしょう。完全に密閉されているわけではありませんから」

「香水を?」

「ええ。ただし、かなり薄い」

 アデルは試香紙をもう一度嗅いだ。

「通常、香りを肌へ長く留めたいなら、香料の濃度を高くします。反対に、薄くすると持続時間は短くなりますが、その分、揮発しやすく、空気へ広がりやすい」

「つまり……」

「誰かが部屋に長時間いたような残り香を作りたかったのでしょう」

 寝台の周辺へ漂っていた香りが、窓へ近づくほど少し濃くなる。

 人が歩いて残した香りなら、こうはならない。

「犯人は入っていません」

 アデルは立ち上がった。

「最初から、メリル殿下のお部屋に男性が出入りしていると思わせることが目的です」


*


「なるほど」

 講義を終えて戻ってきたメリルは、説明を聞き終えても顔色一つ変えなかった。

 亜麻色の髪を背中へ真っ直ぐ流し、灰青色の瞳で窓枠を見下ろしている。まだ年若い王女でありながら、眉の形や真っ直ぐな鼻筋、考える時に唇を薄く結ぶ癖まで、どことなく国王に似ていた。

「つまり、私が夜な夜な男を連れ込んでいるという噂を作りたい人間がいるのね」

「その可能性が高いかと」

「くだらないわね」

 即答だった。

 ただ、腕を組んだ指先だけが少し強く袖を掴んでいる。

 怖くないわけではないのだ。

 アデルはそれを指摘しなかった。

「メリル殿下。失礼ですが、このようなことをされるお心当たりは……」

「あるわ」

「……あるのですか?」

「ありすぎるのが問題よ」

 メリルは椅子へ腰を下ろした。

「私、婚約話を何件断ったか分からないもの」

「なるほど」

「断った本人。断られた令息に思いを寄せる令嬢。私がどこかへ嫁ぐことで得をする家。逆に困る家。王女なんて、そのくらい恨まれるものよ」

 年齢の割に随分冷静な分析だった。

「最近お断りになった方々の一覧をいただけますか?」

「この場で言うから、書いて」

「は、はい!」

 アデルは慌てて筆記具を取り出した。

 膝の上へ紙を置く。

 メリルは少しも考え込まず、すらすらと言った。

「まず、ハーヴェイ侯爵家の次男、クレメント」

「はい」

「私より弱いから断った」

 羽根ペンが止まりかけた。

「……はい」

「何?」

「いいえ」

「次。ベルトラン伯爵家の長男、ユージン」

「理由は?」

「ある子爵令嬢からずっと追い回されているの。私と婚約すれば、その令嬢も諦めるだろうと思ったみたい」

「それは……」

「自分で断れば済む話でしょう」

「仰る通りです」

「次。北部辺境太公家のレオンハルト」

「はい」

「北へ行きたくないから断った」

 今度こそアデルの手が止まった。

「……メリル殿下側の理由ですね」

「悪い?」

「いいえ」

「寒いの嫌いなのよ」

「なるほど」

「それにこの方、かなり女性に人気があるわ。本人がどう思っているかは知らないけれど」

 そこからさらに三人続いた。

 多い。

 アデルは書き終えた紙を見下ろした。

 六人。

「随分、お断りになったのですね」

「何よ」

「いえ。メリル殿下は、どのような令息とのご結婚を希望されるのかと思いまして」

「王都で」

「はい」

「私より強い人よ」

 アデルは黙った。

(……いるのかな)

「今、何か失礼なことを考えたでしょう」

「いいえ」

「目に出てるわよ」

 この辺りも、リュシアンによく似ている。

「では、この方々に関わる令嬢を調べれば」

「全員を調べて回るの?」

「難しいですね」

 何より犯人が令嬢本人だとしても、夜中に王宮のバルコニーまで忍び込むとは考えにくい。

 自分で実行しているのではない。

「令嬢本人が夜中に香りを撒きに来ているとは思えません」

「そうね。王族居住区へ入り込めるなら、それだけで別の大問題だわ」

「まず、怪しい方を絞る必要があります」

 メリルは少し考えたあと、灰青色の瞳を上げた。

「お茶会をしましょう」

「お茶会?」

「リンレイ殿下の歓迎会。年齢の近い令嬢を何人か呼ぶのは自然でしょう」

 アデルは瞬きをした。

「その席で、この六人の話を?」

「全部は出さないわ。二、三人でいい。少し餌を撒いて、反応を見る」

「……」

「何?」

「いえ」

 アデルは妙な既視感を覚えた。

 仕事の話になると一瞬で決断し、必要な人間と必要な手段を組み立てていく。

(完全にリュシアン様だ……)

「アデル?」

「仰せのままに」


*


 翌日の午後。

 王宮の小広間には、十人ほどの若い令嬢が集まっていた。

 表向きは、シャンから来たリンレイ第四王女を歓迎するための小さなお茶会である。

 リンレイは淡い桃色のスピネリア式ドレスを着ていた。まだ完全に慣れてはいないらしく、時折スカートの裾を気にしているものの、初対面の令嬢たちへ向ける笑みには王女らしい落ち着きがある。

 一方のメリルは、実に自然だった。

「リンレイ殿下は、シャンでは乗馬もなさるの?」

「はい。母から教わりました」

「羨ましいわ。私は遠乗りをするとすぐ止められるの」

「なぜです?」

「速すぎるからです」

 近くの令嬢が笑う。

 その流れのまま、メリルは何でもないことのように話題を変えた。

「そういえば、レオンハルト様からも先日、一緒に遠乗りに行きましょうとお誘いいただいたわね」

 アデルは茶器を持つふりをしながら、令嬢たちを見る。

 一人。

 明らかに反応した。

 薄い菫色のドレスを纏った、金褐色の髪の少女。

 ほんの一瞬だけ顔を上げた。

 すぐに視線を伏せたが、遅い。

「まあ。北部辺境太公家のレオンハルト様ですか?」

 別の令嬢が楽しそうに食いついた。

「ええ。馬術には随分自信がおありみたい」

「お二人ならお似合いですわ」

「そうかしら」

 メリルは曖昧に笑い、茶器を持ち上げた。

「今度、もう一度お誘いいただけるかもしれないわね」

 菫色のドレスの令嬢の指に、明らかに力が入った。

 白磁の取っ手が微かに鳴る。

「……そうでしょうか」

 小さな声だった。

 メリルは聞こえなかったふりをした。

「何か?」

「いいえ」

 少女は笑った。

「何でもございません」

 その後も茶会は何事もなく進んだ。


*


「三人ね」

 客が退出した後、メリルは即座に言った。

「三人ですか?」

「反応したのは」

 アデルは自分の記憶を辿る。

「私は二人かと思いました」

「一人は顔じゃなくて手が止まったのよ」

「よく見ていらっしゃいますね」

「当然でしょう」

 メリルは三人の名前を書き出した。

 アデルはその紙を眺めながら、先ほどの推測を思い返す。

「この中で、お兄様かお父様と日常的に接する機会が少なく、男性が実際にどのような香りをまとうのかご存じない方が怪しいですね。ただ、家庭事情まで含めるとなると、どう調べましょう」

「一人いるわ」

「もう?」

「セシリア・オルブライト伯爵令嬢。父親はほとんど領地にいるわ。兄たちも父方についていて、一人は領地経営を手伝っている。本人は母親と王都暮らしよ」

 アデルは驚いてメリルを見る。

「よくご存じで」

「縁談を断る時には、相手とその周辺くらい調べるものよ」

「……」

「何?」

「公務中のリュシアン様に、本当に似ていらっしゃいます」

 メリルが露骨に嫌そうな顔をした。

「褒めてる?」

「とても」

「ならいいわ」

「ただ、まだ証拠がありません」

「いいわ」

 メリルは椅子から立ち上がった。

「相手がこの中の令嬢だと言うなら、受けて立ちましょう」

「メリル殿下が直接、ですか?」

「ええ」

 灰青色の瞳が鋭く細まる。

「アデル。宮廷調香師として依頼よ」

「はい」

「あの香りを検知して」

「……今夜?」

「おそらく今日も撒かれる。私が寝たふりをするから、あなたは部屋に隠れて控えていて」

 アデルは目を瞬いた。

(本当にリュシアン様だ……わたしよりお若いのに、すごいわ)

「仰せのままに」

「この中の令嬢が自由に動かせる人材なんて、自分の侍女くらいよ。怖がることはないわ」

「兵を待機させますか?」

「兵を動かすと大事になる」

 メリルは首を横へ振った。

「私が処理する」

「……」

「何?」

「いいえ」

「ちなみに、ローゼン伯爵家の名前が入っていたら、この方法はやめていたわ」

「なぜです?」

「諜報を担う一家だから」

「先に言ってください」

「入ってなかったでしょう?」

「結果論です」

 メリルが少し笑った。


*


『本日の夕食以降の時間は、メリル殿下とご一緒することになりました。帰りは遅くなると思いますので、どうぞ先にお休みください。――アデル』

 長い評議会を終えて私室へ戻ったリュシアンは、机の上の紙をしばらく見つめていた。

「……」

 朝からシャンとの使節協議。

 昼を挟んで鷹舎の建設候補地。

 午後は交易品の関税と、外務官たちとの調整。

 ようやく終わった。

 帰ればアデルがいる。

 そう思っていた。

「……ああ」

 リュシアンは片手で顔を覆った。

「俺の今日の癒しが……」

 妹に奪われた。

*

 夜。

 アデルは王女の寝室の片隅に身を潜めていた。

 窓からは死角になる、厚いカーテンと大きな衣装棚の間。

 メリルはすでに寝台へ入っている。

 室内の灯りも落としてあった。

 問題の窓は、庭ではなく細いバルコニーに面している。

 静かだった。

 時計の音だけが聞こえる。

 アデルは小さな硝子管を手にしたまま、息を潜めた。

 どれほど経っただろう。

 その時。

 窓の外で、ごく小さな音がした。

 金属が木に触れるような音。

 アデルの背筋が伸びる。

 窓枠の隙間から、細い管の先が差し込まれた。

 ――ぽたっ。

 一滴。

 さらに二滴。

(来た!)

 アデルはすぐに動いた。

 床へ落ちる前に、細い硝子管で液体を拾う。

 甘くない。

 革。

 煙。

 焦げた樹脂。

 間違いない。

 まだ揮発していないため、これまでよりずっと輪郭が鮮明だった。

 採取を終えると、アデルは左手に握っていた細い糸を引いた。

 糸の先は、寝台の上にあるメリルの指へ繋がっている。

 一度。

 合図。

 次の瞬間、メリルが跳ね起きた。

 寝台の脇に置いてあった細身の剣を掴む。

 亜麻色の髪を揺らしながら窓へ駆け、錠を外した。

「止まりなさい!」

 バルコニーへ飛び出す。

 短い悲鳴が聞こえた。

 アデルも慌てて後を追った。

 月明かりの下。

 メリルの剣先が、一人の少女の首元へ突きつけられていた。

 若い。

 貴族令嬢ではない。

 質素な侍女服。

 十代後半ほどの娘が、壁際で震えている。

「動かないで」

「ひっ……!」

「その手に持っているものを床へ置きなさい」

 娘は震える手で、細い注入器を置いた。

「誰に命じられたの?」

「……」

「黙るなら、このまま衛兵を呼ぶわ」

「お、お待ちください!」

 娘がその場へ膝をついた。

「申し訳ございません! 本当に、申し訳ございません!」

「誰?」

「……オルブライト伯爵令嬢です」

 アデルとメリルの視線が合った。

 当たりだった。

「なぜ従ったの」

「お金が必要だったのです!」

 娘の目から涙が零れる。

「妹が病気で……薬代が払えなくて……これを何日か窓から入れればいい、それだけでいいと言われて……!」

「中へ入れとは?」

「言われておりません! 王女殿下に触れることも、物を盗ることも絶対にするなと!」

「人影を見たという話は?」

 娘が俯いた。

「……一度だけ、わざとバルコニーで音を立てろと言われました」

「なるほど」

 メリルは剣を下ろした。

「顔を上げて」

 娘は恐る恐る顔を上げる。

「帰っていいわ」

「……え?」

 アデルも驚いてメリルを見る。

「メリル殿下?」

「明日、直接ご令嬢と話す」

 王女は淡々としていた。

「あなたは明日の朝、オルブライト伯爵令嬢へ伝えなさい。今日のお茶会について少し話したいので、城へ来るように、と」

「……」

「来なかったら」

 灰青色の瞳が細くなる。

「こちらから行くわ」

「は、はい!」

「逃げても無駄だとも伝えて」

「はい!」

「それから、妹の治療費の明細は明日持ってきなさい」

 娘が固まる。

「え……?」

「あなたが嘘をついていないか確認するためよ」

「はい……!」

「行きなさい」

 娘は何度も何度も頭を下げ、バルコニーから続く外階段へ消えていった。

 静かになってから、メリルが振り返る。

「アデル」

「はい」

「あの香りは採取できた?」

 アデルは持っていた硝子管を掲げた。

「はい。まだトップノートも十分に残っています。比較用であれば再現可能です」

「よし」

 メリルは剣を鞘へ戻した。

「それを持って、明日行くわよ」

「私もですか?」

「宮廷調香師でしょう?」

「……仰せのままに」


*


翌日。

 セシリア・オルブライト伯爵令嬢は、昨日と同じ菫色ではなく、淡い灰紫のドレスで王宮へ現れた。

 顔色が悪い。

 王女の私室へ案内され、メリルとアデルを見た瞬間、さらに白くなった。

「お掛けになって」

「……はい」

 セシリアが椅子へ腰を下ろす。

 メリルは向かいへ座った。

 卓上には、アデルが昨夜採取した香液の小瓶が置かれている。

「これ、知っている?」

 セシリアの視線が小瓶へ落ちる。

「……存じません」

「そう」

 メリルはアデルを見る。

「アデル」

「はい」

 アデルは小瓶の栓を開けた。

 ごく微量。

 香りが立つ。

 革。

 煙。

 焦げた樹脂。

 セシリアの肩が揺れた。

「昨日、お茶会でお会いした際には、この香りをまとっていらっしゃいませんでしたね」

「……」

「ですが、ご存じなのでは?」

「知りません」

「では、こちらは?」

 アデルはもう一つの小瓶を出した。

 同じ香料を基に、調香師として構成を整理して再現したものだった。

「革を意識した香料。樹脂を焦がした香り。そして煙を思わせる成分。男性用の香水を知らない方が、“男性らしさ”を想像して組み合わせたような香りです」

 セシリアの唇が震える。

「あなたのお父様は長く領地におられ、ご兄弟もそちらで過ごすことが多いと伺いました」

「それが何だと」

「何も」

 アデルは静かに答えた。

「それだけなら、何の証拠にもなりません」

 メリルが続ける。

「でも、あなたの侍女から聞いたわ」

 セシリアの顔から血の気が引いた。

「……あの子」

「責めるなら私を責めなさい」

 メリルの声が鋭くなる。

「病気の妹を抱えた侍女に金を積んで、王族の寝室へ細工させたのはあなたでしょう」

「私は……」

「なぜ?」

 沈黙。

「レオンハルト様?」

 セシリアの目が揺れた。

 それだけで十分だった。

「……王女殿下には、分からないでしょう」

「何が?」

 セシリアは膝の上で両手を強く握った。しばらく俯いていたが、やがて堪えるように唇を噛み、震える声で話し始めた。

「幼い頃からです。レオンハルト様のご領地と我が家の領地は隣同士で、父に連れられて何度もお会いしに行きました」

 遠い記憶を見つめるように、視線が落ちる。

「馬に乗ることも、森を歩くことも、最初に教えてくださったのはあの方でした。幼い頃は、これからもずっとお会いできるのだと思っていたのです」

 けれど、と声が小さくなる。

「父と母の仲が拗れてから、私は母と王都で暮らすことになりました。父は領地に残り、兄も父のそばで領地経営を手伝っています。私は……母について王都へ来るしかありませんでした」

 それからは、レオンハルトと顔を合わせる機会もほとんどなくなったのだろう。

「両親は政略結婚でした」

 セシリアはゆっくり顔を上げた。

「二人が互いを愛していないことは、子どもの私にも分かりました。それでも家のために結婚して、最後には顔を合わせれば争うようになって……だから、私は」

 声が詰まる。

「私は、お慕いした方のもとへ嫁ぎたかったのです」

 その言葉だけは、はっきりしていた。

「レオンハルト様なら、幼い頃から知っている。ずっとお慕いしていた。いつかもう一度近くへ戻れたらと思っていました。なのに、王女殿下との婚約話が出たと聞いて……昨日のお茶会でも、遠乗りのお誘いを受けたと仰ったから」

「ああ」

 メリルが納得したように頷いた。

「だから、昨日あんな顔をしたのね」

「私など、どうしたって勝てないと思いました」

「私、その婚約話は断ったわよ」

 セシリアが顔を上げた。

「……え?」

「とっくに」

「ですが、昨日は」

「あなたの反応を見るために、わざと言わなかったの」

「……」

「レオンハルト様から遠乗りに誘われたのは本当。でも、婚約とは別の話よ」

「そんな……」

「北へ行きたくないもの」

「……それだけで?」

「それは私には大事なことよ」

 セシリアは完全に言葉を失っていた。

 アデルは少しだけ胸が痛んだ。

 犯したことは許されない。

 それでも、彼女が何を怖がっていたのかは、先ほどより少しだけ分かった。

 愛のない結婚を見て育ったからこそ、自分だけは好きな相手と。

 その願いそのものまで、間違いだったわけではない。

「それに」

 メリルが腕を組む。

「レオンハルト様があなたを好きなの?」

「……分かりません」

「聞いたことは?」

「ありません」

「では、まずそこからでしょう」

 あまりにも真っ当だった。

「私の評判を落とすより先に、本人へ気持ちを伝えなさいよ」

「……」

「断られたら?」

「泣けばいいでしょう」

「……王女殿下」

「泣いたあと、次を探しなさい」

 セシリアの目から、ぽろりと涙が落ちた。

「でも」

 メリルの声が少し低くなる。

「今回のことを、恋をしたからで済ませるつもりはないわ」

 セシリアが息を止めた。

「あなたは王宮へ工作をして、私の名誉を傷つけようとした。処分は父上に委ねます」

「……はい」

「侍女の妹については、王宮の医師に診せます」

 セシリアが驚いて顔を上げた。

「なぜ……」

「あの子がしたことも許されない。でも、病人を盾に使ったのはあなたでしょう」

 メリルの灰青色の瞳が真っ直ぐ向けられる。

「そこは分けて考えるわ」

「……申し訳、ございません」

「私ではなく、まずあの子に謝りなさい」

「はい……」

 セシリアが深く頭を下げた。

 その様子を見ながら、アデルは思った。

 やはり、この王女は強い。

 ただ剣が使えるという意味ではない。怒るべきところを怒り、責任を分け、必要なところでは助ける。そして決めるのが早い。

(……本当に似ている)

「アデル」

「はい?」

「また兄上に似ていると思ったでしょう」

「……」

「顔に出てるわよ」

「申し訳ございません」


*


その夜。

 ようやく自分の部屋へ戻ったアデルは、夕食後、リュシアンの私室へ向かった。

 昨日置き手紙だけを残したこともあり、報告はしておいた方がいい。

 そう思って扉を叩くと、すぐに返事があった。

「入れ」

「失礼いたします」

 中へ入る。

 リュシアンは長椅子に座っていた。

 濃紺の上着はすでに脱ぎ、白いシャツの首元も少し緩められている。黒髪も公務中ほど整っておらず、額へ数本落ちていた。

 完全に一日の仕事を終えた顔だ。

 ただし。

「昨日は随分遅かったな」

 少し機嫌が悪い。

「事件がございましたので」

「知ってる。今朝、母上から聞いた」

「でしたら」

「それと、俺が昨日一人で夕食を食べたことは別問題だ」

 アデルは瞬いた。

「……寂しかったのですか?」

 リュシアンが黙る。

「リュシアン様?」

「悪いか」

 灰青色の瞳が逸れた。

 アデルは思わず笑ってしまった。

「笑うな」

「申し訳ございません。でも」

「でも?」

「少し嬉しいです」

 その一言で、リュシアンの表情が分かりやすく緩んだ。

「……それならいい」

 アデルは向かいへ座り、事件の経緯を一つずつ説明した。

 香りの正体。

 窓枠の傷。

 歓迎茶会。

 実行役の侍女。

 そして今日のセシリアとの面会。

 最後まで聞いたリュシアンは、眉間を軽く押さえた。

「我が妹ながら過激だな」

「リュシアン様にそっくりですね」

「……認めたくないが、否定しづらくなってきた」

 珍しく早々に折れた。

 リュシアンは長椅子の背へ身体を預け、今度はアデルをじっと見た。

「それより」

「はい」

「昨日、俺は一人だった」

「先ほど伺いました」

「今日も朝から公務だった」

「お疲れさまでございます」

「だから」

 リュシアンは真顔で言った。

「今日はアデルのベッドがいい。二日分、癒しが必要なんだ……」

「……」

 アデルは固まった。

 言っていること自体は、もうそこまで珍しくない。

 シャンでは同じ寝台で眠ることもあった。

 帰りの馬車でも、週に何日一緒に眠るかという妙な話までした。

 問題は。

(まだ、読んでいない)

 シャンから持ち帰った荷物の中。

 ライレイが笑いながら押しつけてきた、例の教本。

『上以外もちゃんと載ってる』

 あの言葉まで鮮明に蘇る。

(せめて、あれを一度読んでからの方が……)

 なぜ自分はこんなことを真剣に考えているのだろう。

 ただ一緒に眠るだけなら、今までと同じなのに。

 それでも、シャンを発つ前に避妊薬まで渡され、あの教本まで鞄に入っていると思うと、以前とまったく同じ気持ちでは寝台へ入れない。

 何より。

 王族教育として一応の知識を持っているリュシアンに対して、自分だけ何も知らないというのも、何となく落ち着かなかった。

「アデル?」

「はい!」

「どうした」

「何でもございません」

「顔が赤いけど」

「気のせいです」

「じゃあ、アデルの部屋に行こう」

「今日は駄目です」

 即答した。

 リュシアンの顔が止まる。

「……なぜ」

「準備が」

「準備?」

「いえ」

 まずい。

「何の準備?」

「何でもありません」

「アデル」

「明日です」

「何が」

「明日でしたら、考えます」

 リュシアンが目を細めた。

「今日と明日で何が変わるんだ?」

「色々です」

「何が」

「色々です!」

 これ以上聞かれたら、教本の存在まで辿り着かれる。

 それだけは避けたい。

 自分で読んでおきたい。

 先に。

 こっそり。

 アデルは立ち上がった。

「では、私はそろそろ休みます」

「待て」

「おやすみなさいませ」

「絶対何か隠してるだろ」

「気のせいです」

「アデル」

「二日分の癒しは、明日まとめてお願いいたします」

 言ってから、自分で何を言ったのか理解した。

 リュシアンも黙った。

 二人で見つめ合う。

 先に口元を緩めたのは、リュシアンだった。

「分かった」

 灰青色の瞳が、明らかに楽しそうに細くなる。

「明日な」

「……はい」

 逃げるように私室を出たアデルは、自分の寝室へ戻るなり扉を閉めた。

 そして、シャンから持ち帰った荷物を見る。

「……」

 少し迷ったあと、ゆっくり鞄を開いた。

 上等な絹。

 香木。

 茶葉。

 王家秘伝の避妊薬。

 その下。

 問題の教本がある。

 アデルは両手で持ち上げた。

「……勉強です」

 誰も聞いていないのに、言い訳をした。


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