第二十四話 春待ちの香り
春が近づくと、スピネリア王宮の香りは少しずつ変わる。
まだ朝晩の空気は冷たく、日陰には薄く霜が残っている。それでも昼になれば石畳を濡らしていた氷が解け、湿った土の匂いが庭園から立ち上がるようになった。冬の間は閉ざされていた温室の窓も少しずつ開けられ、菫や水仙、芽吹き始めた若葉の青い香りが、冷たい風に混じって回廊まで流れてくる。
香りの国では、春は暦より少し早くやってくる。
王都の香水店ではすでに春向けの新作が並び始め、宮廷調香室にも、菫、アイリス、若葉を思わせる香りの試作依頼が届いていた。
そんな朝。
アデルは一冊の本を抱え、自室の中央で立ち尽くしていた。
昨夜、寝る前に読もうと思った。実際、寝台へ持ち込み、枕元の灯りまでつけた。表紙も開いた。最初の数頁までは読んだ。
そこで、無理だと思った。
「……寝室で読むものではないわ」
誰に聞かせるでもなく呟く。
理由は単純だった。
落ち着かない。
シャンから持ち帰ったその本は、ライレイが餞別だと言って押しつけてきた、夫婦の夜について記された教本である。
内容そのものは、思っていた以上に真面目だった。婚姻した男女が互いにどう意思を確認するのか。子を望む場合と望まない場合。相手の体調への配慮。王侯貴族の場合には、世継ぎという問題まで関わってくる。
そこまではいい。
非常に勉強になる。
問題は、その先である。
昨夜、一頁めくったところで、あまりにも分かりやすい図が出てきた。
アデルは静かに本を閉じた。
もう一度開いた。
やはり同じ図があった。
当然だった。
「……勉強なのよ」
昨夜に続き、朝からもう一度、自分へ言い聞かせる。
それでも寝台の上で読むと、どうしてもリュシアンの顔が浮かぶ。
『今日はアデルのベッドがいい。二日分、癒しが必要なんだ……』
思い出した。
「ここでは駄目」
アデルは本を胸に抱え、自室を出た。
次に向かったのは調香室だった。
扉を開ければ、見慣れた香料瓶と蒸留器が並んでいる。朝の淡い光が硝子瓶を透かし、卓上には昨日届いたばかりの春用香料がいくつか置かれていた。乾燥させた菫、アイリスの根、まだ青さを残した若葉。
窓を少し開ければ、庭園から湿った土の匂いも入ってくる。
ここなら落ち着く。
そう思い、いつもの作業机へ本を置いた。
椅子へ座る。
表紙を見る。
その横には、昨日途中までまとめた調香記録がある。
アデルは無言で本を持ち上げた。
「……仕事場で読むものでもないわ」
宮廷調香師の仕事場で、何を勉強しているのか。
万が一、父が突然入ってきたら立ち直れない。
何より、この部屋にはもう一つ大きな問題がある。
リュシアンが来る。
むしろ自分の部屋より来る。
最近では、本人がここを第二執務室くらいに思っている節さえあった。
「図書室……」
言ってから、即座に首を横へ振る。
論外だった。
庭園。
もっと論外。
結局アデルは、本を布で包み直したまま作業机の前に座り、真剣に考え込んだ。
読まなければいいのではないか。
その選択肢だけは、なぜか最初から存在しなかった。
コンコン、と扉が叩かれた。
アデルの肩が跳ねた。
反射的に本へ両手を置く。
「ど、どうぞ」
「失礼いたします」
入ってきたのはリュシアンではなかった。
「リンレイ殿下」
ほっとした。
あまりにも分かりやすかったらしい。扉の前に立ったリンレイが、大きな金色の瞳をぱちりと瞬かせた。
「……わたくしでは困りました?」
「いいえ。むしろ助かりました」
「助かる?」
「こちらの話です」
リンレイは小さく首を傾げながらも、それ以上は追及しなかった。
スピネリアへ来て数日。今日のリンレイはシャンの衣ではなく、こちらで仕立ててもらった淡い青緑色のガウンを着ていた。身体に沿う身頃や大きく広がる裾にはまだ慣れないらしく、歩くたび時折気にしているが、赤褐色の長い髪にはシャンから持ってきた金細工を挿している。
異国の衣装の中にも、故郷の色が残っていた。
「今日はどうなさったのです?」
「午前中の予定が一つなくなりました」
「外務官とのお打ち合わせでは?」
「昨日、終わりました」
「鷹舎の方は?」
「一昨日、確認してまいりました」
「お忙しいですね」
「使節ですから」
十五歳とは思えない返事だった。
リンレイは空いていた椅子へ腰掛ける。
「仮の鷹舎ですが、風向きも悪くありません。鷹を休ませる場所も十分に取っていただけました。同行した鷹匠も、これなら使えると」
「では、もうライレイ殿下へお手紙を?」
尋ねると、リンレイの表情が少し曇った。
「まだです」
「まだ?」
「鷹がこの土地を覚えるまでは、無理に飛ばさない方がよいので」
「なるほど」
「兄様なら、絶対に『一羽くらい大丈夫』と言いますけれど」
「仰りそうですね」
「だから、わたくしが我慢します」
口調は立派だった。
ただ、金色の瞳が少しだけ寂しそうだった。
アデルは棚から茶器を取り出した。
「お茶にいたしましょうか」
「よろしいのですか?」
「私も少し休みたかったので」
本当は教本をどこで読むか悩んでいただけだが、それは言わない。
今日はシャンから持ち帰った茶を淹れることにした。
細い茶葉に混じっているのは、東方の春に咲く桜の花弁だという。湯を注ぐと、乾いて縮んでいた淡紅色の花がゆっくりと開き、茶器の中へ春の色が浮かんだ。
香りそのものは強くない。柔らかな茶葉の青さの奥に、花と若葉を合わせたような淡い甘さがある。
「綺麗ですね」
アデルが言うと、リンレイも茶器を覗き込んだ。
「シャンでも春になると飲みます」
「桜の香りは、とても淡いのですね」
「はい。兄様は『ほとんどお湯じゃん』と言っていました」
「ライレイ殿下……」
「風情がありません」
リンレイが呆れた顔をする。
アデルは笑いながら、シャンから持ち帰った胡麻と蜂蜜の菓子も皿へ並べた。
「こちらへ来てから、いかがですか?」
「思っていたより忙しいです」
「そうでしょうね」
「ですが、嫌ではありません」
リンレイは桜花の浮かぶ茶器を両手で包み、少し考えるように視線を落とした。
「昨日はスピネリアの外務官の方々と、シャンから運ぶ品と必要な書類について話しました。その前の日は王都の地図を見せていただいて、商館と鷹舎、それから王宮までの道を確認しました」
「もうそこまで」
「分からないことばかりですので、覚えるしかありません」
「大変では?」
「大変です」
リンレイはあっさり認めた。
「でも、自分で決めたことですから」
その言い方に、アデルは少しだけ笑った。
以前なら「大丈夫です」と答えていた気がする。
大変だと言いながら、それでもやる。リンレイは少しずつそういう子になっていた。
「メリル殿下のお茶会もございましたね」
「はい」
リンレイの口元が緩む。
「あれは、歓迎会だけではなかったのでしょう?」
アデルの手が止まった。
「お気づきでした?」
「途中で」
「いつから?」
「メリル殿下が、令嬢方のお顔より手元ばかり見ていらしたので」
「よく見ていらっしゃいますね」
「兄様の妹ですから」
少しだけ得意そうだった。
「何か事情があるのだろうと思いましたので、聞かないようにしておりました」
「ありがとうございます。無事に解決しました」
「それならよかったです」
リンレイは素直に頷いた。
「メリル殿下は、お強い方ですね」
「私もそう思います」
「少し兄様に似ています」
「ライレイ殿下に?」
「決めたら早いところが」
「私はリュシアン様に似ていると思いました」
「リュシアン殿下にも似ています」
二人で少し考えた。
「王族は、似るのでしょうか」
「どうでしょう」
アデルが笑ったところで、ふと思い出した。
「そういえば」
「はい?」
「ライレイ殿下といえば、シャンでリュシアン様とお酒を飲んでいらした時に、花街でお姉様方に可愛がってもらった、と」
リンレイの動きが止まった。
「……扉の前で聞いた話ですね」
「リンレイ殿下もいらっしゃいましたね」
「本当にお恥ずかしいです」
耳まで少し赤くなっている。
「何のお話?」
ちょうどその時、扉の向こうから別の声がした。
二人が振り返る。
「メリル殿下」
亜麻色の髪を高く結い上げたメリルが立っていた。
今日は乗馬の稽古でもあったのか、裾の広いドレスではなく、濃紺を基調とした動きやすい乗馬服を着ている。すっきりとした眉と灰青色の瞳は父王によく似ているが、今は年相応の好奇心が隠しきれていない。
「リンレイ殿下を探していたのだけれど、楽しそうな話が聞こえたから」
「どこから聞いていらしたのです?」
「花街」
「一番聞かれたくないところからですね」
リンレイが額を押さえる。
「ライレイ殿下の話?」
「はい」
アデルが答えると、メリルは迷いなく空いている椅子へ座った。
「確かに、友好の宴でも令嬢方に囲まれていたわね」
リンレイの顔が上がった。
「そうだったのですか?」
「ずっとではないけれど。かなり人気だったわよ」
「……」
「どうしました?」
「次にお会いする機会があったら、令嬢方へ危ないのでやめた方がよいとお伝えください」
アデルが首を傾げた。
「危ない、のですか?」
「はい」
「ですが、ライレイ殿下は私に、側室は取らないから王妃にならないかと仰ってくださったので、一途な方なのかと」
メリルの手が止まった。
リンレイも止まった。
数秒。
「……アデル」
「はい?」
「それ、兄上には言ってないわよね?」
「リュシアン様に?」
「そう」
「言っておりませんが」
「絶対言わない方がいいわ」
「なぜです?」
「ライレイ殿下、かなりきつめの尋問を受けると思う」
「外交問題になりません?」
「兄上なら、外交問題にならないぎりぎりまでやるわ」
非常に具体的だった。
「それはアデル姉様だからです」
リンレイが言った。
アデルは一度瞬きをした。
「……姉様?」
言った本人も気づいたらしい。
リンレイの金色の瞳が揺れた。
「その……嫌でしたら」
「いいえ」
アデルは少し笑った。
「嬉しいです」
「……では、そのままで」
「はい」
ほんの少し照れたように視線を落としてから、リンレイは話を戻した。
「アデル姉様は、兄様にとってかなり特別なのだと思います。基本的には、一晩で令嬢を抱き潰すような体力お化けですので」
「…………」
アデルは黙った。
メリルも黙った。
「リンレイ殿下」
「はい」
「抱き潰す、とは」
「アデル、聞かなくていい」
メリルが即座に止めた。
しかしリンレイは、兄の恥を暴露することに躊躇がなかった。
「教本の最初から最後まで全部試してみた、と聞きましたね」
「…………」
アデルの視線が、ゆっくり作業机へ向いた。
布に包んで置いてある、一冊の本。
「今、読もうとしている本……」
「兄様からの贈り物です」
「リンレイ殿下!」
「事実です」
あっさり裏切られた。
メリルの灰青色の瞳も本へ向く。
「何、それ」
「何でもありません」
「兄様からいただいた教本です」
「リンレイ殿下」
「題名は?」
「お答えしなくて結構です!」
アデルは慌てて本を抱え込んだ。
それを見たメリルの目がますます細くなる。
「余計気になるわね」
「いけません」
「どうして?」
「どうしてもです」
「宮廷調香師アデル・アレクシア」
「その呼び方はずるいです」
「王女として命じたら?」
「私的な所有物ですので拒否いたします」
「強くなったわね」
「おかげさまで」
メリルが笑った。
事件の最中にはほとんど見せなかった、年相応の悪戯っぽい顔だった。
結局、アデルは表紙だけを見せることになった。
題字を読んだメリルは、一度眉を上げただけだった。
「ふうん」
「……それだけですか?」
「結婚するなら知っておくべきことでしょう?」
「そうなのですが」
「何?」
「もう少し恥ずかしがられるかと」
「なぜ?」
強い。
やはり強い。
「アデル、それ読み終わったら貸してね」
「えっ」
「私もいずれ必要になるもの」
「メリル殿下には、すでにお相手が?」
リンレイが尋ねた。
メリルは少しだけ黙った。
「いるにはいるわ」
アデルも顔を上げる。
「いらっしゃるのですか?」
「王室騎士団の人」
「王妃殿下はご存じで?」
「知らないと思う」
「国王陛下は?」
「絶対知らない」
きっぱりしている。
「先日、王都で、メリル殿下より強い方がよいと仰っていましたね」
「ええ。あれはその人も含めてる」
「では、なぜ婚約のお話を?」
「まだ早いから」
「メリル殿下が?」
「違う。あの人が」
メリルは桜花茶を一口飲んだ。
「まだ出世していないの」
「待っていらっしゃるのですか?」
「ええ」
「メリル殿下が?」
「何か変?」
「いいえ。ただ……」
王女である。
その気になれば、相手を引き上げることだってできるだろう。
メリルはアデルの考えを読んだらしい。
「私が王女だからって、先に地位を与えたら意味がないでしょう。あの人が自分の力で上がってくるのを待つの」
「どのくらいまで?」
リンレイが尋ねる。
「父上の前で名前を出した時、『誰だそれは』で終わらないくらい」
灰青色の瞳が、少しだけ柔らかくなる。
事件の最中には見せなかった顔だった。
「ご本人は、メリル殿下のお気持ちを?」
「知らないわ」
「……」
先日のセシリアと同じではないか。
そう思ったのが顔に出たらしい。
「何よ」
「セシリア嬢へ『本人に伝えなさい』と仰っていたな、と」
メリルが黙った。
「私は事情があるの」
「出世待ち?」
「そう。今言ったら、王女に取り入って昇進したみたいになるでしょう。それが嫌なの」
なるほど。
そこは一理ある。
「だから待つわ」
「必要なだけ?」
「必要なだけ」
迷いはなかった。
リンレイはしばらくメリルを見つめていた。
「スピネリアでは、そういう結婚もできるのですね」
「そういう?」
リンレイは茶器の中に浮かぶ桜を見つめた。
「シャンでは、わたくしの上に三人の姉上がおりました」
過去形だった。
「三人とも、戦争が終わるたび、かつて敵だった国へ嫁がされました」
柔らかな春の香りの中で、その言葉だけが少し重く落ちた。
「姉上たちが、その方々を好きだったかどうかは知りません。誰も尋ねませんでしたから」
「……」
「戦が終わった証として王女が嫁ぐ。次の戦を起こさないために子を産む。それが、王女の結婚なのだと思っていました」
アデルは黙って聞いた。
メリルも、先ほどまでの勢いを少し収めている。
「だから、好きな方が出世するまで待つ、と聞いて」
リンレイの金色の瞳がメリルへ向いた。
「自分で待つことを選べるのだな、と」
メリルはしばらく何も言わなかった。
やがて、少しだけ眉を下げる。
「全部自由にはならないわよ」
「はい」
「私だって王女だから、国の都合は無視できない。でも、何も言わなければ、本当に何も選べなくなるでしょう」
「……はい」
「だから言うの。嫌なものは嫌。欲しいものは欲しいって」
リンレイは静かに頷いた。
「覚えておきます」
「十五歳なら、まだ時間はあるわ」
「兄様も同じことを言います」
「なら、たまには兄の言うことも聞きなさい」
「内容によります」
「強いわね」
「最近、母に似てきたと兄様に褒められました」
「それは褒めてるの?」
「兄様は最高に褒めているつもりでした」
三人で顔を見合わせる。
少し重くなった空気が、ゆっくりほどけた。
そこからは、国も身分も忘れたような昔話になった。リンレイは母から初めて鷹を腕へ乗せてもらった日に怯えて動けなくなった話をし、メリルは幼い頃に兄たちの剣術稽古へ勝手に混ざろうとして大人たちから一斉に叱られた話をした。アデルも、父の工房で高価な香料瓶を割ってしまい、泣きながら混ざった香料を嗅ぎ分けた失敗を白状した。
誰が一番叱られたか。誰が一番恥ずかしいか。そんなことで笑い合える程度には、いつの間にか三人の間から遠慮が消えていた。
気づけば、午前中だけ空いていたはずのリンレイは昼近くまで居座り、メリルも乗馬へ戻る時間を二度延ばした。
そして問題の教本は、結局一頁も進まなかった。
*
同じ頃。
王太子執務室では、別の意味で春の準備が進んでいた。
「婚約宣誓式の日程ですが」
補佐官が予定表を机へ置く。
「王妃陛下からは、三月上旬で調整可能とのことです」
「三月上旬……」
リュシアンは羽根ペンを止めた。
黒髪をきっちり整え、濃紺の執務着を纏った姿はいつもの王太子そのものだったが、灰青色の瞳だけが予定表を見ながら少し難しい色になる。
「アデルの誕生日と被りそうだな」
「アレクシア嬢のお誕生日も三月でございましたね」
「ああ」
「婚約宣誓式と合わせてお祝いになさいますか?」
「いや」
答えは早かった。
「分ける」
「では日程をずらしますか」
「その方がいい」
リュシアンは予定表へ視線を落としたまま考える。
「婚約式は王室の行事だろう。アデルの誕生日までそのついでみたいにしたくない」
補佐官が一瞬だけ顔を上げた。
「何だ」
「いえ」
「言え」
「殿下も随分変わられたな、と」
「仕事を増やすぞ」
「失礼いたしました」
即座に書類へ視線が戻った。
「誕生日の贈り物は?」
「それも考えている」
「宝飾品でしたら、王室御用達の店を」
「宝石だけで喜ぶと思うか?」
「……」
二人で少し考えた。
「新しい蒸留器でしょうか」
「それは仕事道具だろう」
「ですが、アレクシア嬢なら宝石より喜ばれる可能性が」
「否定できないのが困る」
リュシアンが眉間を押さえる。
「両方にするか」
「予算は?」
「俺の私費」
「でしたら止めません」
「あと春の花を」
「花束ですか?」
「香りが強くないものにしろ。あいつは仕事以外でまで香りに囲まれてる」
「承知いたしました」
補佐官が淡々と書き込んでいく。
「それから、その日は夜の予定を空けておいてくれ」
「お二人の?」
「俺とアデルの」
「承知いたしました」
そこでリュシアンが少し考えた。
「……いや」
「何でしょう」
「婚約式の前に誕生日が来るなら」
「はい」
「その夜、一緒にいていいのか?」
補佐官の筆が止まった。
「それを私にお尋ねになりますか?」
「日程上の話だ」
「絶対に違うと思います」
「仕事に戻れ」
「はい」
補佐官は賢明にも、それ以上聞かなかった。
*
「では、午後の打ち合わせへ行ってまいります」
リンレイが立ち上がった。
メリルも腰を上げる。
「私も今度こそ乗馬場へ戻るわ」
扉まで行ったところで、メリルが振り返った。
「アデル」
「はい」
「本、忘れないでね」
「忘れてください」
「読み終わったら貸して」
「考えておきます」
「約束ね」
「しておりません」
メリルは笑いながら出ていった。
リンレイもその後を追いかけ、扉の前で一度だけ振り返った。
「アデル姉様」
「はい」
「今日は、楽しかったです」
金色の瞳が柔らかく細まる。
「私もです」
「また来ても?」
「もちろん」
「ありがとうございます」
扉が閉まる。
静かになった調香室で、アデルはしばらくその扉を眺めていた。
窓の外では、冷たい風が庭園の枝を揺らしている。まだ花の数は少ない。それでも土はもう冬の匂いではなかった。湿り気の奥に若葉の青さが混じり、遠くでは早咲きの菫がわずかに香っている。
シャンから一人でやって来た十五歳の王女。
好きな人が追いつくのを待っているスピネリアの王女。
そして、三月になれば婚約宣誓を控えている自分。
同じ王宮にいても、結婚というものの形はずいぶん違う。
「……さて」
アデルは机へ戻った。
布に包まれた教本を見る。
今度こそ。
静かだ。
誰も来ない。
意を決して椅子へ座り、布をほどいた。
表紙を開く。
一頁。
二頁。
昨夜閉じたところまで辿り着く。
「……」
アデルは真剣な顔で図を見た。
「なるほど……」
確かに、知らなかったことは多い。
もう少し読む。
さらに頁をめくる。
「…………」
じわじわと頬が熱くなってきた。
それでも閉じない。
「勉強ですから」
誰もいない部屋で、三度目の言い訳をした。
その瞬間。
扉が開いた。
「アデル、いるか?」
「っ!」
聞き慣れた声だった。
反射的に本を閉じ、両腕で抱え込む。
リュシアンが扉の前で止まった。
先ほどまで公務をしていたのだろう。濃紺の執務着を纏い、黒髪もまだきちんと整えられている。ただ、こちらを見た灰青色の瞳からはすでに王太子の硬さが抜けかけていた。
その目が、真っ赤な顔をしたアデルと、胸元に抱え込まれた本をゆっくり往復する。
「……何してた?」
「仕事です」
「その本で?」
「勉強です」
「何の?」
「色々です」
昨日と同じ答えだった。
リュシアンの目が細くなる。
「その本」
「はい」
「ライレイからもらったやつ?」
「……」
ばれている。
「アデル」
「何でしょう」
リュシアンの口元が、ゆっくり上がった。
「勉強、進んだ?」
「出ていってください!」
窓の外では、まだ咲ききらない春の香りがしていた。




