第二十五話 あなたを祝う香り
冬の名残がようやく薄れ、スピネリア王宮にも春の気配が満ち始めていた。朝にはまだ石畳が白く冷えているものの、昼になると庭園の土が柔らかく湿り、菫や水仙の淡い香りが風に乗る。冬のあいだ枝だけだった木々にも小さな芽が膨らみ、王宮の回廊を歩けば、開け放たれた温室の窓から若葉と土の匂いが流れ込んでくるようになった。
その夜、アデルはいつものようにリュシアンの私室で過ごしていた。夕食を終え、二人掛けの長椅子へ並んで座る。リュシアンはすでに執務用の上着を脱いでおり、白いシャツの首元を少し緩めていた。朝には隙なく整えられていた黒髪も、今は前髪が何本か額へ落ちている。灰青色の瞳からも王太子としての張り詰めた色は消え、卓上の書類へ目を落としながら、時折思い出したように隣のアデルを見る。
アデルも仕事着ではなかった。淡い青灰色の室内着に着替え、腰近くまである銀髪を緩く編んで片側へ流している。窓辺には香りの弱い白い花が数輪だけ飾られ、春先の冷たい夜気と暖炉の熱が混じる部屋は静かだった。
「そういえば、メリル殿下とは随分お話しできるようになりました」
アデルが茶器を置くと、リュシアンが書類から顔を上げた。
「事件以来?」
「はい。リンレイ殿下ともご一緒することが増えましたし、先日は三人で随分長くお茶をしてしまいました」
「知ってる」
「ご存じなのですか?」
「メリルが夕食の席で話してた。リンレイ殿下を迎えに行ったはずなのに、自分まで居座ったと」
「楽しかったので」
素直に答えると、リュシアンの口元が少し緩んだ。
「よかったな」
「はい」
アデルも笑う。王宮へ勤め始めてから、人間関係の多くは仕事を通じて生まれた。国王夫妻も、王族も、貴族たちも、皆まず宮廷調香師として出会った相手である。それが最近になって、仕事とは関係のない話をする人が少しずつ増えてきた。香りの話をしなくてもいい。事件を解かなくてもいい。誰かのために何かを作らなくてもいい。ただ茶を飲み、くだらない話をして笑う。それが思っていた以上に心地よかった。
「明日からは、王太子妃教育にも戻ります」
「ああ」
「随分お休みしてしまいましたから」
「シャンへ行って、帰ってきたらメリルの事件だったからな」
「王妃殿下には、遅れた分を少しずつ戻していきましょうと言っていただきました」
「少しずつ、な」
「はい」
妙に念を押された。アデルが首を傾げる。
「何です?」
「いや。母上に詰め込まれすぎないようにと思って」
「王妃殿下はそのようなことなさいませんよ」
「お前が自分で詰め込むんだよ」
「……」
否定しようとして、できなかった。リュシアンが呆れたように笑う。
「宮廷調香師の仕事もあるんだから、ちゃんと休め」
「休んでおります」
「今日も朝から調香室にいたらしいな」
「仕事でしたので」
「午後は?」
「リンレイ殿下と外務官の方がお越しになりましたので、シャンから届いた香料の確認を」
「夕方は?」
「明日の教育の予習を」
「それを休んでるとは言わない」
正論だった。アデルは茶を飲んで誤魔化した。
リュシアンはしばらくそんなアデルを見ていたが、ふと思い出したように口を開いた。
「ところで」
「はい?」
「アデル、今欲しいものある?」
あまりにも唐突だった。
「欲しいもの?」
「ああ」
「急ですね」
「そうか?」
「はい」
「まあ、いいから。何かない?」
アデルは少し考えた。
「新しい精密天秤が欲しいです」
「仕事道具以外で」
「では、東方式の小型蒸留器を一度使ってみたくて」
「それも仕事だろ」
「そうですね」
「装飾品とか」
「特には」
「服」
「十分ございます」
「靴」
「足りています」
「本」
アデルの表情が少し明るくなった。
「南方香料の植生についてまとめた新刊が」
「やっぱり仕事じゃないか」
「読み物でもあります」
「お前にとってはな」
リュシアンが眉間を押さえた。随分難しい顔をしている。
「なぜそんなことをお尋ねになるのです?」
「別に」
「別に、でこれほど質問を?」
「参考までに」
「何の参考でしょう」
「色々だ」
今度はリュシアンが茶を飲んで誤魔化した。アデルはしばらく怪しんでいたが、やがて興味を失って手元の資料へ視線を戻した。
少しして。
「では」
まだ続くらしい。
「今まで誕生日にもらって、一番嬉しかったものは?」
アデルの指が止まった。
「誕生日……」
「ああ」
考える。考えて、ふと窓の外を見る。夜の庭園には、まだ葉の少ない枝が月明かりに浮かんでいる。春が近い。春。三月。
「そういえば」
「ん?」
「もう三月ですね」
「……お前」
「はい?」
リュシアンが信じられないものを見るような顔をした。
「自分の誕生日、忘れてた?」
「……はい」
「本気で?」
「本気です」
「何日?」
「それは覚えています」
「なら忘れてないだろ」
「日付を忘れたわけではなく、今日が何日かを意識していなかっただけです」
「それを普通は忘れてたって言うんだ」
アデルは少し困ったように笑った。
「昔から、あまり大きく祝う習慣がなかったので」
「侯爵家なのに?」
「父は宮廷にいることが多かったですし、母も領地に留まる方ではありませんでしたから」
リュシアンの表情が変わる。責めるようなものではない。ただ、少しだけ真剣になった。
「お母上も香りの仕事を?」
「はい。調香師だけでなく、蒸留職人や香料植物を育てる人材を探して、各地を回っていました。才能のある子どもがいると聞けば直接会いに行くような人でしたから」
「家を空けることが多かった?」
「かなり」
アデルは懐かしむように目を細めた。
「父も母も忙しかったのです。でも、寂しかったというほどではありません。工房にはいつも誰かいましたし、私自身も香料を触っていれば時間を忘れていましたから」
「誕生日も?」
「後から帰ってきた父に『そういえば先週だったな』と言われた年もありました」
「……」
「その翌日に香料を一瓶いただきました」
「それで喜んだ?」
「はい。珍しいベンゾインでした」
「そうか」
返事は短かった。それ以上、リュシアンは何も言わなかった。ただ、灰青色の瞳が一度だけ静かにアデルへ向けられた。
アデルはその意味を深く考えず、王太子妃教育の資料へ戻った。
*
数日後、スピネリア王宮の大広間には、春の淡い陽が高い窓から差し込んでいた。
婚礼ではない。それでも、王太子の正式な婚約宣誓である。広間には国王夫妻をはじめ、王族、宰相、評議会の重臣、主要諸侯、そしてアレクシア侯爵家の者たちが集まっていた。
アデルは大扉の前で、ゆっくり息を吸った。
今日の装いは、これまで着たどのドレスとも違っていた。王家の深い青を基調としたガウンに、銀糸で細かな蔓草と花の刺繍が施されている。胸元や袖口は華美になりすぎない程度に整えられ、腰から広がる長いスカートには、見る角度によって淡い紫を帯びる布が重ねられていた。
王家の青と銀。アレクシア家を思わせる、銀の髪と紫。二つの家を繋ぐ衣装だった。
長い銀髪は丁寧に結い上げられ、細い銀細工と小さなスピネルが挿されている。普段仕事中にはほとんど飾らない髪が整えられているせいか、鏡で見た自分はまるで別人のようだった。
「緊張なさっています?」
隣に控えるメリーが小声で尋ねる。
「少し」
「少し、ですか?」
「……かなり」
正直に言い直すと、メリーが小さく笑った。
「大丈夫でございます」
「何を根拠に?」
「王太子殿下が、先ほどから三度もこちらの扉をご覧になっていますので」
「……」
アデルは大扉の隙間から広間の中を覗く。
正面。国王夫妻の前に、リュシアンが立っていた。
正式な儀礼用の濃紺のダブレット。肩から掛かる短いマントには王家の銀糸の紋章があり、胸元には灰青色の大きなスピネルが留められている。腰には儀礼用の剣。黒髪は隙なく整えられ、灰青色の瞳にも普段私室で見せる柔らかさはない。
王太子だった。
ただ、こちらを見た瞬間、ほんの少しだけ目元が緩んだ。
(……大丈夫)
アデルは胸の奥で息を吐いた。
扉が開く。
名前が告げられ、一歩を踏み出した。広間に集まる人々の視線が一斉にこちらへ向く。何度経験しても慣れない。それでも、今日は一人ではなかった。
リュシアンの隣まで歩き、並ぶ。
「綺麗だな」
前を向いたまま、小さな声がした。
「今ですか?」
「今言いたかった」
「式中ですよ」
「まだ始まってない」
アデルは笑いそうになり、慌てて表情を整えた。
目の前では、宰相が婚約契約書を開いている。
両家の合意。アデルの王太子妃としての身分。婚礼後の居所。王室からの歳費。将来生まれる子の継承順位。そして、宮廷調香師としての職務を婚姻後も継続すること。
その一文が読み上げられた時、アデルの瞳が僅かに揺れた。
横を見る。リュシアンは前を向いたままだった。けれど、その口元がほんの少しだけ上がっている。
契約の読み上げが終わる。
国王が二人を見る。
「アデル・アレクシア」
「はい」
広い空間に、自分の声が思った以上に響いた。
「そなた自身の意思により、王太子リュシアン・スピネリアとの婚姻を望むか」
一瞬だけ、これまでのことが頭をよぎった。初めて会った日、突然押し倒された。最悪の出会いだった。それから香りを作り、一緒に事件を解き、離れ、また近づいた。嫉妬して、泣いて、笑って、外国まで行った。
そして今、隣にいる。
「はい」
アデルは顔を上げた。
「わたくし自身の意思にございます」
国王が頷く。今度は息子を見る。
「リュシアン・スピネリア。アデル・アレクシアを未来の妃として迎える意思に変わりはないか」
「ありません」
早い。本当に一瞬だった。
国王が僅かに眉を上げる。王妃は扇の向こうで笑っている。アデルも横目でリュシアンを見た。
「何だ」
「いいえ」
「何か?」
「早いな、と」
「迷う理由がない」
それもそうなのだろう。
続いて、二人は婚礼の日まで互いに誠実であること、両家を尊重すること、婚姻の準備を共に進めることを宣誓した。
最後にリュシアンが、小さな箱を受け取る。
蓋が開いた。
指輪だった。
細い銀色の輪の中央に、灰青色のスピネルが一石だけ留められている。大粒ではない。それでも光を受けると、青とも灰ともつかない深い色が揺れた。
王家の色。
リュシアンの瞳とよく似た色。
「手を」
促され、アデルは左手を差し出す。
長い指が、自分の指先をそっと支えた。指輪が通される。冷たい金属が肌へ触れ、すぐに体温へ馴染んでいく。
「似合う」
リュシアンが小さく言った。
「ありがとうございます」
それから二人は婚約契約書へ署名した。国王の印璽。アレクシア侯爵家の印璽。最後に国王が立ち上がる。
「本日をもって、アデル・アレクシアを、王太子リュシアン・スピネリアの正式な婚約者と認める」
その瞬間、広間にいた人々が一斉に頭を下げた。
アデルは息を呑んだ。
これまでも侯爵令嬢だった。宮廷調香師として敬意を向けられることもあった。けれど、これは違う。
未来の王太子妃へ向けられる礼。
(……本当に)
指輪を見る。
(本当に、なるのね)
その横で、リュシアンの手がほんの一瞬だけアデルの指先へ触れた。
誰にも分からないほど小さな接触。それだけで、張り詰めていたものが少しほどけた。
*
婚約宣誓から数日後。
アデルはすでに、自分の誕生日を再び忘れかけていた。
午前中は調香室。午後は王太子妃教育。夕方にはシャンから届いた香料の記録をまとめ、夕食後はいつものようにリュシアンの私室へ来ている。
婚約したところで、日常が突然劇的に変わるわけではない。
違うことといえば、左手に指輪が増えたこと。人前でリュシアンの隣に立つ機会が少し増えたこと。そして、王宮の人々が時々「王太子妃殿下」と呼びかけそうになって、まだ早いと訂正することくらいだった。
アデルは長椅子の端で、王室財政についての資料を読んでいた。
「アデル」
「はい」
「少し散歩しないか?」
頁をめくる指が止まった。
「……散歩ですか?」
「ああ」
リュシアンは何でもない顔をしている。
アデルは窓を見る。外はまだ明るい。春の夕暮れは冬より少し遅くなったとはいえ、陽はもう傾き始めていた。庭園では早咲きの水仙や菫が咲き始め、日中には窓を閉めていても時折花の香りが入ってくる。
「珍しいですね」
「何が?」
「リュシアン様から、お散歩に誘われるなんて」
「俺だって歩くくらいする」
「庭園へ?」
「いや」
「やはり」
「何だ、その納得した顔は」
「この時期の庭園は香りが増えますから」
リュシアンは香りに敏感だ。花の咲く庭園を自分から歩きたいと言い出すとは考えにくい。
「まあ、来い」
「どちらへ?」
「行けば分かる」
怪しい。けれど断る理由もない。
アデルは資料を閉じて立ち上がった。
王太子の居住区を出て、回廊を進む。庭園へ向かう道とは逆だった。
「本当にどちらへ?」
「もう少し」
執務棟の脇を抜ける。
アデルも何度か通ったことのある場所だが、普段はほとんど用がない。王太子執務室の外壁が見え、その上には大きな窓が並んでいる。
ふと、アデルの足が止まった。
「……?」
執務室の窓から見下ろせる位置。以前は何もなかったはずの場所に、小さな建物がある。
白い石造りの低い壁。大きな硝子窓。屋根の一部まで透明な硝子で覆われ、夕陽を受けて淡く光っていた。
温室だ。
「リュシアン様」
「ん?」
「あの建物は?」
「行けば分かる」
「先日までございました?」
「なかった」
「……新しく?」
「ああ」
ますます怪しい。
近づくほど、建物の全体が見えてくる。王宮の大温室ほど広くはない。むしろ個人で使うには十分すぎる程度の、こぢんまりとした建物だった。
扉の前まで来ると、リュシアンは懐から一本の鍵を取り出した。銀色の小さな鍵で、持ち手には蔓草のような細工が施されている。
「どうぞ」
鍵を回し、自ら扉を開いた。
アデルは中へ足を踏み入れる。
最初に感じたのは、新しい土の匂いだった。湿り気を含んだ柔らかな土と、まだ削ったばかりの木材、石壁に残る冷たさ。その中へ、芽吹いたばかりの若葉の青い匂いがほんの少し混じっている。
花の甘さは、ほとんどなかった。
王宮の大温室とはまるで違う。珍しい花が咲き乱れているわけでも、王家の威光を示すような装飾があるわけでもない。むしろ、まだ何もない場所だった。
壁沿いには鉢を並べるための棚があり、中央には作業台が一つ。奥には水場と、小さな蒸留器なら置けそうな石の台まである。
「……調香用の温室ですか?」
「半分は」
「半分?」
アデルは首を傾げた。
よく見ると、作業台が妙だった。いつも調香室で使っているものより、ほんの少し低い。アデルが立って乳鉢を使った時、肩へ余計な力が入らない高さだった。
「これ……」
「調香室の机と同じ寸法を測らせた。ただ、あっちのは少し高いだろ」
アデルはリュシアンを見る。
「お気づきだったのですか?」
「夕方になると、お前、右肩ばかり回してる」
「……」
知らなかった。
自分ですら意識していなかったことだった。
棚へ近づく。こちらも、最上段まで無理なく手が届く高さに揃えられている。壁には小さな引き出しがいくつも作られ、試香紙や筆記具、紐や布片のような細かなものをしまえるようになっていた。
「上に物を置くと椅子に乗るだろ、お前」
「時々です」
「危ないからやめろ」
「落ちたことはございません」
「落ちてからでは遅い」
いつもの言い方だった。
アデルは少し笑いながら奥へ進む。
そこで、足が止まった。
硝子窓から夕陽の差し込む一角だけ、明らかに温室らしくなかった。
小さな丸卓。二脚の椅子。壁際には、身体を預けられる程度の長椅子。その横には本棚まである。
「……本棚?」
「お前、休憩すると言っても本を読むだろ」
「それは休憩に含まれます」
「仕事の資料じゃなければな」
「……」
反論できない。
さらに卓上を見る。すでに茶器が一組置かれている。王宮で普段使う薄い白磁より、少し厚手だった。アデルが両手で持っても冷めにくいもの。
「これも?」
「熱い茶を入れて、三十分後に飲む人間がいるから」
「仕事をしていると忘れるのです」
「知ってる」
リュシアンは何でもないことのように言った。
その一言が、妙に胸へ残った。
知っている。
肩を回すことも、高い棚へ手を伸ばすことも、茶を淹れたまま忘れることも、気づけば本を読んでいることも。
誰かに説明した覚えなど、一度もなかった。
「それから」
リュシアンが長椅子の横にある小さな戸棚を開く。
中には薄い毛布が一枚畳まれていた。
アデルは黙った。
「……これは」
「冬、調香室で膝に布を掛けてただろ」
「見ていたのですか?」
「見てるよ」
ごく普通のことのように返される。
アデルは何と言えばいいのか分からなくなった。
温室そのものを贈られた時よりも、一つひとつを見つけるたびに、逃げ場がなくなっていく。どれも高価だから用意されたものではない。アデルがどう働き、どう休み、何を面倒がり、どこで無理をするのか。それを見ていなければ置けないものばかりだった。
「……随分、見ていらっしゃったのですね」
「ああ」
「いつから?」
「分からない」
リュシアンは少し考えた。
「気づいたら」
その答えが一番困る。
アデルは頬が熱くなるのを誤魔化すように、硝子窓の外へ視線を向けた。
そこから、王太子の執務室が見えた。
「あ」
先ほど通ってきた建物。その二階に並ぶ窓の一つ。
「リュシアン様の執務室」
「そう」
「偶然ですか?」
「いや」
即答だった。
アデルが振り返る。
「俺の机から、ここが見える」
「……」
「仕事の途中でお前がいるか分かる」
「監視では?」
「違う」
「では?」
「いるのが見えたら安心する」
今度こそ、何も言えなくなった。
リュシアンはそんなアデルを見て少しだけ笑い、それから懐へ手を入れた。
先ほど使ったものとは別の、小さな鍵を取り出す。
「これ」
アデルの掌へ載せられた。
「この温室の鍵?」
「ああ」
「先ほどのものとは違いますね」
「俺のは予備」
つまり。
「こちらが?」
「お前の鍵」
銀細工の持ち手へ、ほんの小さく文字が刻まれている。
A・S。
アデルは指先でなぞった。
「……アレクシアでは、ないのですね」
「違う」
リュシアンの灰青色の瞳が、真っ直ぐこちらを見る。
「未来のアデル・スピネリアに」
胸の奥が、ゆっくりと熱を持った。
今はまだアデル・アレクシア。けれど婚礼を終えれば、この王宮で別の名を名乗る。その未来を、彼はもう予定でも可能性でもなく、当然そこにあるものとして考えている。
「王家の敷地でしょう?」
「ああ」
「私が勝手に使ってよろしいのですか?」
「だから作った」
「ですが」
「ここは王室の温室じゃない」
リュシアンはゆっくり室内を見回した。
「お前の場所だ」
「……」
「誰かを入れたくなければ入れなくていい。使用人も、庭師も、俺も」
「リュシアン様も?」
「鍵の持ち主はアデルだからな」
少しだけ不満そうなのがおかしくて、アデルは笑った。
「では、来て欲しい時は?」
「呼べ」
「毎回?」
「ああ」
「面倒ですね」
「……予備の鍵を持ってる」
「では聞かなくても入れるではありませんか」
「勝手には入らない」
思いがけず真面目な返事だった。
アデルは掌の鍵を見る。
王宮の中。
王家の土地。
それでも、自分が誰を入れるか決めていい場所。
宮廷調香師の作業室とは違う。王太子妃の私室とも違う。役目によって与えられた場所ではない。
「アデル」
「はい」
「誕生日おめでとう」
「……ありがとうございます」
「好きなものを育てればいい」
「研究用の香料植物を?」
「それでもいい」
「それでも?」
「仕事に使わなくてもいい」
リュシアンは長椅子へ視線を向けた。
「ここで茶を飲んでもいい。本を読んでもいい。寝てもいい」
「温室で?」
「暖かいだろ」
「そういう問題でしょうか」
「何もしなくてもいい」
アデルの笑みが止まった。
「何かを作るためじゃなくても、ここにいていい」
静かな声だった。
「お前は、何でも仕事にするから」
「そのようなことは」
「花を見たら香料にできないか考える。木を見れば樹脂を採れるか考える。茶を飲んだら香りを分析する」
「……」
「誕生日の贈り物くらい、何の役にも立たなくていいだろ」
アデルは返事をしなかった。
返せなかった。
宝石でもない。香料でもない。宮廷調香師として必要な道具でもない。ここにあるのは、自分でも気づいていなかった癖を知っている人が、自分のためだけに考えたものだった。
少し低い机。
手の届く棚。
冷めにくい茶器。
毛布。
本棚。
そして、窓の向こうにリュシアンの執務室。
「……気に入りました」
ようやく言うと、声が少し掠れた。
「とても」
リュシアンの表情がほどける。
「よかった」
アデルはもう一度、掌の鍵を握った。それから、まだ何も植えられていない花壇へ目を向ける。
「ここ」
「ん?」
「何か植えてもいいのですよね?」
「好きにしろ」
「では」
アデルは細長い花壇の前へしゃがんだ。硝子越しの夕陽が、長い銀髪を淡い紫に透かしている。
「リュシアン様のお誕生日は、いつでした?」
「俺の?」
「日付は存じています。確認です」
「何を企んでる?」
「秘密です」
「花?」
「秘密です」
「香りは?」
「それも秘密です」
リュシアンが笑った。
「じゃあ、待つ」
アデルは柔らかな土へそっと指先を触れた。
「必要なだけ?」
「ああ。必要なだけ」
温室には、まだほとんど香りがなかった。新しい土と木の匂い。ほんの少しの若葉。そして、夕暮れの冷え始めた空気。
これから何を育てるのかは、まだ決まっていない。
けれど、この場所にはもう一つだけ、確かなものがあった。
未来のアデル・スピネリアのために、彼が見てきた時間が詰まっていた。




