第二十六話 春を好きになる香り
春が来ると、スピネリア王国は一年で最も忙しくなる。
雪解け水を含んだ土から若葉が伸び、王都の外に広がる花畑では、菫、水仙、早咲きの薔薇が順に色づいていく。冬の間は冷気の奥へ沈んでいた草木の匂いも、陽が長くなるにつれて少しずつ輪郭を取り戻し、市場には乾燥花や香草を積んだ荷車が増え始める。
香りをまとうことが礼儀であり、文化であり、産業でもある国にとって、春はただ暖かくなる季節ではない。
新しい香りが生まれる季節だった。
「今年も、ずいぶん出ましたね」
アデルは調香室へ届けられた一覧表を両手で持ち、感心したように呟いた。
紙には、王都内外から春香祭へ参加する工房の名がびっしりと並んでいる。香水工房だけではない。香油、薫香、石鹸、香り袋、香りを染み込ませた革手袋、髪へ使う香油まで、香りに関わる職人であれば広く出品できる。
春香祭は、一週間にわたって開かれる。
期間中、王宮前の大広場とそこから続く大通りには各工房の展示所が並び、新作が一般へ公開される。貴族だけではなく、王都で暮らす者であれば誰でも見て、香りを試し、気に入れば店で購入することができた。
そして最終日。
一週間の中で最も人が集まる日には、王家による表彰が行われる。
国王。
王妃。
そして、宮廷調香師。
それぞれが全出品作の中から一つずつ選び、その年の春を代表する品として表彰する。
「……私も選ぶのですよね」
何度確認しても変わらない事実を、アデルはもう一度口にした。
作業机の向かいに座っていたリュシアンが、書類から目だけを上げる。
「当然だろ」
「去年までは父が選んでいました」
「今年から宮廷調香師はアデルだ」
「分かっております」
「じゃあ何だ」
「急に責任の重さを感じただけです」
これまでは、父がどの香りを選ぶのか楽しみにする側だった。
選ばれた工房は、その翌日から注文が増える。特に宮廷調香師から選ばれたという事実は、調香師たちにとって技術そのものを認められた証になる。
今年から、それを決めるのが自分なのだ。
「今さら緊張するのか?」
「いたしますよ」
「王太子妃になる宣誓は平気だったのに?」
「平気ではございませんでした」
「そうだった?」
「メリーに聞いてください」
「じゃあ、今も同じ顔してる」
「どのような顔です?」
「真面目に考えすぎてる顔」
失礼な。
アデルが一覧表から顔を上げると、リュシアンの灰青色の瞳が少し笑っていた。濃紺の執務着に包まれた長身を、すっかり自分のもののようになった調香室の椅子へ預けている。春の光が大きな窓から入り、艶のある黒髪の輪郭を淡く照らしていた。
「そういうリュシアン様も、最終日はずっと会場にいらっしゃるのでしょう?」
「……そうなんだよな」
突然、声が暗くなった。
アデルは瞬きをする。
「お嫌なのですか?」
「嫌というか」
リュシアンが窓の外を見る。
王宮前広場では、すでに祭りの設営が始まっていた。木製の天幕がいくつも組まれ、職人たちが箱や台を運んでいる。風向きを確認しながら展示場所を決めている者もいた。
「去年までは、春香祭の一週間がほぼ地獄だった」
「地獄」
「どこへ行っても香水。城下へ出ても香水。王宮へ戻っても見本品。会う貴族も新作をつけてくる。最終日なんて何十種類嗅いだか分からない」
「……それは」
アデルは少し想像した。
今でこそ、リュシアンの周囲では香りの量がある程度管理されている。けれど以前は違った。
香りが強ければ強いほど華やかだと思う者も多い。春香祭ともなれば、職人も客も自慢の香りをまとって集まる。
五感の過敏なリュシアンにとっては、たしかに地獄だっただろう。
「だから今年は展示区画の間隔を広げました」
「ああ」
「試香も、一度に複数を肌へつけないよう案内を出しております。香りの強い薫香類は風下へまとめましたし、王宮側には無香の休憩所も設けました」
「知ってる」
「それでも難しいようでしたら、最終日は途中で――」
「いや」
思ったより早く遮られた。
「今年は大丈夫そうだ」
「そうなのですか?」
「ああ」
リュシアンが立ち上がり、開けてあった窓のそばへ寄る。
アデルもその横へ立った。
外から入ってくる風には、まだ強い花の香りはない。
湿った土。
刈られたばかりの若草。
遠くの天幕で試されているらしい、ごく薄い柑橘。
そして春の冷たさをわずかに残した風。
リュシアンが静かに息を吸った。
「……去年まで、春って全部臭かったんだよな」
「春に対して随分失礼ですね」
「俺にはそうだった」
「今年は?」
灰青色の瞳が、もう一度外を見る。
「土の匂いがする」
「はい」
「草も」
「はい」
「向こうから何か柑橘も来る」
「おそらくベルナール工房です。今日から展示の確認をしておりますので」
「ちゃんと別々に分かる」
アデルは少しだけ黙った。
リュシアンにとって、それが当たり前ではなかったのだ。
人よりよく分かる鼻を持っているのに、強すぎる香りに覆われれば、かえって何も分からなくなる。
だからアデルは、香りを減らした。
消したのではない。
一つずつ楽しめる量へ戻しただけだ。
「今年の春はいかがです?」
尋ねると、リュシアンが横目でこちらを見た。
「まだ始まったばかりだろ」
「では、今のところ」
「……悪くない」
少し考えてから、付け足す。
「初めてかもしれない」
「何がです?」
「春が来るのが嫌じゃないの」
アデルは自然と笑った。
「それはよかったです」
「軽いな」
「何と申し上げれば?」
「別に」
リュシアンも笑う。
その時だった。
調香室の扉が、珍しく慌ただしく叩かれた。
「王太子殿下、アレクシア様」
侍従の声だった。
「シャン国より、伝書鷹が到着いたしました」
二人同時に顔を上げた。
*
新しく整えられた王宮の鷹舎は、王族居住区から少し離れた場所にあった。
建物へ近づくにつれ、乾いた藁と羽毛、それから獣の体温を含んだ独特の匂いが強くなる。
中へ入ると、リンレイがすでにいた。
「アデル姉様」
赤褐色の長い髪を後ろへ結んだ少女が、大きな金色の瞳を明るくする。彼女の腕には厚い革の手袋が嵌められていた。
その少し先の止まり木に、一羽の大きな鷹がいる。
「この子です」
「無事に着いたのですね」
「はい」
リンレイの声には、普段より少しだけ弾んだ響きがあった。
シャンから連れてきた鷹たちは、すぐに山を越えさせたわけではない。スピネリアの鷹舎と周辺の地形を覚えさせ、鷹匠たちが何度も短い距離を飛ばし、ようやく今日、最初の長距離便が成功したのだという。
「かなり大きいですね」
アデルが近づきすぎないよう観察すると、リンレイが頷いた。
「母の一族が代々、伝書用に育ててきた鷹です。普通の狩りに使うものより少し大きい個体を選びます」
鷹の脚には、細い筒が括りつけられている。
思っていたより小さい。
「お手紙は、あちらに?」
「はい。通常は筒も含めて二十グラムまでです」
「二十」
アデルが即座に反応した。
「かなり軽いのですね」
「長い距離を飛ばせますが、重くすればそれだけ負担になりますから。急ぎの場合でも三十グラムまで。それ以上は複数の鷹へ分けます」
「では、紙だけではなく、何か小さなものも?」
「送れます。種でしたらかなり入りますし、乾燥させた薬草や、小さな樹脂片でしたら問題ありません」
アデルの瞳が明らかに輝いた。
「香料も」
「アデル」
横から声がした。
「まだ開通して数分だぞ」
「可能性を確認しているだけです」
「顔がもう仕事してる」
「大切でしょう?」
リンレイが小さく笑った。
「液体はおすすめいたしません。重いですし、容器が割れると危険なので」
「なるほど……。では精油ではなく樹脂や乾燥植物を」
「アデル」
「はい」
「手紙を先に読もう」
もっともだった。
鷹匠が脚の筒を外し、リンレイへ渡す。
中には薄く折られた紙が二枚入っていた。
一枚は正式なものだった。シャン王宮からスピネリア王宮へ、伝書路の開通を知らせる短い文書である。
もう一枚。
リンレイが表を見る。
「リュシアン殿下へ」
「俺?」
「兄様の字です」
嫌な予感しかしない。
リュシアンが受け取り、紙を開いた。
『リュシアンへ
着いた?
こっちはちゃんと飛んでいった。
これで山を越えて一日で文句を言えるね。
――ライレイ』
「…………」
「何と?」
アデルが尋ねる。
「何でもない」
「兄様からでしょう?」
リンレイも覗こうとする。
リュシアンは紙を折った。
「通信試験は成功だそうだ」
「それだけ?」
「それだけだ」
「兄様が?」
「……一日で文句を言えるようになったと」
リンレイが無言になった。
「すみません」
「なぜリンレイ殿下が謝るんです」
「兄ですので」
「謝らなくていい」
リュシアンは近くの机から紙と筆を借りた。
『ライレイへ
無事に着いた。
国家間通信を文句に使うな。
――リュシアン』
そこで筆が止まる。
少し考える。
シャンで見たものが、ふと脳裏へ浮かんだ。
兄王子たちに囲まれた会議。
国王。
戦で得た領土。
兵。
新しい交易路。
王太子になったライレイの周囲には、味方だけがいるわけではなかった。
むしろ、あの男が笑っている時ほど、その裏側にはいくつもの判断が重なっていた。
リュシアンは一行空けた。
『それより、お前も早くいい婚約者を探せ。
一人で全部背負うな。』
「……」
書いてから、少しだけ気恥ずかしくなった。
「リュシアン様?」
「何でもない」
紙を畳む。
「これを頼む」
「はい」
リンレイが受け取った。
「ずいぶん長いお返事ですね」
「読むなよ」
「読みません」
そう言いながら少し笑っている。
たぶん、何か察している。
リュシアンは気づかないふりをした。
*
同じ日の夕刻。
シャン王宮では、ライレイが積み上がった書類の前で額を押さえていた。
森林管理。
街道の整備。
兵の再配置。
交易条件。
王太子になって以降、決めても決めても次の問題が出てくる。
「殿下。スピネリアから戻りました」
その一言だけで、ライレイが顔を上げた。
「来た?」
侍従から筒を受け取り、すぐに紙を開く。
『無事に着いた。
国家間通信を文句に使うな。』
「使えるならいいじゃん」
誰も聞いていないのに答える。
続きを読んだ。
『それより、お前も早くいい婚約者を探せ。
一人で全部背負うな。』
ライレイの笑みが少しだけ止まった。
「……余計なお世話だよ」
口ではそう言ったが、紙を捨てることはしなかった。
婚約者を決めるだけなら難しくない。王太子になってから、縁談はいくらでも来ている。条件だけで選ぶなら、明日にでも決められるだろう。
ただ、自分には敵が多い。
妃を選べば、その女の家が動く。兄たちは警戒する。やがて子が生まれれば、その子まで権力の中心になる。
誰かを隣へ置くということは、その女まで自分の戦いへ巻き込むということだった。
それをライレイは、十五歳の頃からよく知っている。
「……面倒なんだよな」
軽く言って、椅子の背へ頭を預けた。
それでも一度だけ、この女なら隣にいてもいいと思ったことはある。
銀色の髪をして、珍しい香料を見つければ目を輝かせ、王太子相手でも間違っていると思えば平然と口にする女。
――側室は取らない。王妃にならないか。
あの言葉は、冗談だけではなかった。
アデルなら、自分の後ろへ隠れず隣に立つだろうと思った。
少しくらいは、本気だった。
けれど、リュシアンといる時のアデルを見れば、自分が入る場所ではないことくらい分かる。
ただ、一度でもそんなふうに思える相手がいたのなら。
「……絶対いないとは言えないか」
以前なら、結婚など国に必要ならすればいいと思っていた。
今は少しだけ違う。
スピネリアで、リュシアンがアデル一人いるだけで随分と生きやすそうにしているところを見てしまったからだ。
「余計なもの見せられたなあ」
呟きながら、ライレイは新しい紙を引き寄せる。
『リュシアンへ
余計なお世話。
婚約者は、いいのがいたら考える。
妥協して選ぶくらいなら一人でいい。
だから急かすな。
――ライレイ』
書き終えて、少し考える。
そして、小さく一行を足した。
『言いたいことは分かってる。ありがと。』
「……うわ」
自分で書いて、自分で顔をしかめる。
「送りたくなくなってきた」
それでも消さなかった。
紙を折る。
何の役にも立たないやり取りだ。
国境問題も解決しない。道路もできない。金も増えない。
だからこそ、よかった。
「持ってって」
筒を侍従へ渡し、ライレイはもう一度机へ向かった。
山の向こうに、余計なお世話を焼いてくる友人がいる。
それだけで、次の書類へ手を伸ばす気にはなれた。
*
その夜、アデルはリュシアンを自室の扉まで見送った。
夕食を終え、いつものように私室で茶を飲み、春香祭の話をしていたら、いつの間にか随分遅い時間になっていた。
「では、おやすみなさいませ」
「ああ。おやすみ」
リュシアンが答える。
けれど動かない。
アデルも扉へ手をかけたまま、少し待った。
「……何です?」
「いや」
「お部屋へ戻られないのですか?」
「戻るけど」
「では」
「アデル」
「はい」
「今日は?」
「何がです?」
聞き返した瞬間、リュシアンの眉がわずかに寄った。
「本気で言ってる?」
「ですから、何が」
「アデルのベッド」
「……」
思い出した。
以前、リュシアンから「今日はアデルのベッドがいい」と言われた夜。
教本をまだ読んでいなかったアデルは、明日なら考える、と答えた。
その明日は、とっくに過ぎている。
「まだ覚えていらしたのですか?」
「忘れるわけないだろ」
「随分前ですよ」
「二日分の癒しまで延期された」
「そこまで覚えているのですか?」
「数えてるからな」
「何を」
「断られた日数」
「やめてください」
アデルは思わず笑った。
リュシアンも少し笑う。
それから、静かになった。
以前なら、ここで何となく話を逸らしていたかもしれない。
けれど。
アデルは扉を少し大きく開いた。
「……来ますか?」
今度はリュシアンが黙った。
切れ長の灰青色の瞳が、わずかに見開かれている。
「いいの?」
「はい」
「本当に?」
「何度も聞かないでください」
「いや。でも」
「来ないのでしたら閉めます」
「行く」
即答だった。
「最初からそう言ってください」
「アデルが急に攻めてくるからだろ」
「お部屋へ入るだけです」
「分かってる」
本当に分かっているのだろうか。
少し怪しい。
けれどアデルは何も言わず、彼を部屋へ招き入れた。
*
寝支度を終えたアデルは、寝台の端に腰掛けた。
昼間はきっちりまとめている銀髪も、今は完全にほどいている。腰を越える長さの髪が白い寝間着の背を流れ、灯りを受けて淡い紫色に透けていた。
リュシアンも上着を脱ぎ、白い寝間着へ着替えている。
何度か同じ寝台で眠ったことはある。
シャンでもそうだった。
それでも、この部屋では初めてだった。
アデルの寝台。
アデルの枕。
アデルが毎晩眠っている場所。
リュシアンは横になりながら、何となく落ち着かない自分を自覚した。
「随分静かですね」
「何を話せばいいか考えてる」
「普段は勝手にお話しになるのに」
「場所が違う」
「寝台は寝台でしょう?」
「アデルはそういうところあるよな」
「どういうところです?」
「分からないならいい」
アデルも隣へ横になる。
窓の隙間から、春の夜気がほんの少しだけ入り込んでいた。昼間のような花の香りはほとんどなく、湿った土と若い葉、それから洗いたての寝具の匂いが静かに混じっている。
そして、その中に。
リュシアンがもう何度も覚えた、アデル自身の淡い香りがあった。
近い。
それだけで身体から余計な力が抜けていく。
「……やっぱり、ここいいな」
「私の寝台が?」
「アデルがいるから」
「それでしたら、どこでも同じでは?」
「そうとも言う」
アデルが小さく笑った。
しばらくして。
「そういえば」
リュシアンが思い出したように言った。
「はい?」
「あの教本」
アデルの表情が止まった。
「……何でしょう」
「読み終わった?」
「はい」
「全部?」
「はい」
「どうだった?」
「大変勉強になりました」
「それだけ?」
「それ以上、どのような感想をお求めです?」
「具体的なやつ」
「聞くのですか?」
「聞きたい」
即答された。
アデルは少し黙った。
暗い室内でも、頬が熱くなっていくのが自分で分かる。
けれど。
読んだ。
最後まで。
そして、実際に試せそうだと思ったものが一つだけあった。
「……ひとつだけ」
「ん?」
「実践できそうなものがありました」
リュシアンが固まった。
「え?」
「ですから」
「待って」
「はい」
「今、何て?」
「ひとつだけ、実践できそうなものが」
「聞こえてた」
「では、なぜ聞き返したのです?」
「心の準備」
「必要でしょうか」
「必要だろ」
アデルにはよく分からない。
少しだけ身体を起こす。
「では、いたします」
「今?」
「今です」
「アデル」
「口付けをします」
「それはもう――」
最後まで言わせず、アデルは顔を寄せた。
唇を重ねる。
何度かしたことのある、柔らかな口付け。
触れて、離れる。
リュシアンが少しだけ笑おうとした。
おそらく、それなら知っている、と言うつもりだったのだろう。
だからアデルは、もう一度唇を重ねた。
今度は、ほんの少しだけ深く。
唇の間へ触れるように舌先を差し入れ、リュシアンの舌へそっと触れた。
一瞬。
本当に、それだけだった。
けれど。
リュシアンの呼吸が止まった。
もともと彼の感覚は、人より多くを拾いすぎる。
香りだけではない。
衣服の縫い目。
寝具の肌触り。
食べ物の温度。
風が肌へ触れるわずかな変化まで、嫌でも鮮明に感じ取ってしまう。
ずっと、厄介なだけの体質だと思っていた。
今は違った。
柔らかな唇の温度も。
重なる呼吸も。
アデルの髪が頬へ触れる感触も。
そして舌先へ触れた、ほんのわずかな熱まで。
驚くほど鮮明だった。
触れた場所から一気に感覚が広がったような気がして、身体の奥がぞくりと震える。痛くも苦しくもない。ただ、あまりにもはっきり感じるせいで、頭が一瞬その先を考えることをやめた。
アデルが唇を離す。
「そして、このようにすると、なお良いとのことです」
「…………」
「リュシアン様?」
「ちょっと待って」
「はい」
「今、感覚が追いついてない」
「過敏ですものね」
「そういう冷静な分析をするな」
アデルが瞬きをする。
「不快でした?」
「逆」
「逆」
「かなり」
声がいつもより低い。
アデルは少しだけ頬を赤くした。
「それでしたら、教本は正しいようですね」
「教本の検証だったの?」
「実践です」
「もう一回」
「はい?」
「復習」
「……必要でしょうか」
「必要」
妙に真剣だった。
「今日は寝るだけですよ」
「分かってる」
「本当に?」
「分かってるから、口付けだけ」
「……」
「だめ?」
灰青色の瞳が間近からこちらを見る。
アデルは少し迷って。
今度は自分から目を閉じた。
「一度だけです」
「うん」
返事だけは非常に素直だった。
もう一度、唇が重なる。
今度はリュシアンからだった。
先ほどアデルがしたことを確かめるように、けれど急がず、触れて、離れる。
過敏な自分の感覚が、今だけは嫌ではない。
むしろ、もっと感じ取れればいいと思った。
離れたあと、リュシアンはアデルの腰へ腕を回した。
「これも?」
「教本には書いてありません」
「じゃあ俺」
「そうですか」
「駄目?」
「今日は寝るだけなのでしょう?」
「抱いて寝るだけ」
アデルは少し考えて、その腕を退かさなかった。
「……それでしたら」
「よかった」
リュシアンの表情が目に見えて緩む。
「本当に分かりやすいですね」
「何が」
「嬉しい時」
「アデルの前だけだからいいだろ」
そう言われると、何も返せない。
アデルは少しだけ身体を寄せた。
昼間、春香祭の準備で王都中に漂っていた香りは、もうここにはない。
花も。
香水も。
薫香もない。
静かな春の夜と、互いの体温だけだった。
しばらくして、リュシアンがぽつりと言った。
「今年の春、初めて好きかもしれない」
「春香祭が?」
「春全部」
アデルは少しだけ顔を上げた。
「そうですか」
「ああ」
「それはよかったです」
「やっぱり軽いな」
「だって、良いことではありませんか」
「……まあ、いいけど」
リュシアンが笑う。
そのままアデルの銀髪へ顔を寄せる。
香水ではない。
誰かが作った香りでもない。
ただ、アデルがいる。
今年の春が違う理由など、それだけで十分だった。
*
翌朝。
いつもより少し遅く目を覚ましたリュシアンは、自分の私室へ戻るより先に鷹舎へ向かった。
まだ朝靄の残る中、鷹匠が驚いた顔で頭を下げる。
「殿下。このようなお時間に」
「シャンへ出る鷹は?」
「午前の便が一羽ございます」
「これを頼む」
差し出した紙は、驚くほど短かった。
『ライレイへ
教本は役に立った。
礼を言う。
――リュシアン』
鷹匠は当然、内容など読まない。
紙は細く畳まれ、小さな筒へ収められた。
やがて鷹が翼を広げる。
朝の空へ舞い上がり、そのまま山脈の方角へ小さくなっていった。
*
その日の夕方。
シャン王宮で手紙を受け取ったライレイは、最初の一行を読んだところで動きを止めた。
「…………」
もう一度読む。
『教本は役に立った。
礼を言う。』
金色の瞳がゆっくり細くなる。
「へえ」
口元が上がった。
すぐに新しい紙を取る。
『リュシアンへ
で、何頁まで実践した?
俺は全部やった。
おすすめが必要なら頁番号まで教えるよ。
――ライレイ』
非常に満足そうな顔で送り出した。
翌朝。
返事が来た。
『ライレイへ
まだアデルしか読んでいない。
次はメリルが読むそうだ。
頁数を聞くな。
――リュシアン』
「……は?」
ライレイは一度、紙から顔を上げた。
もう一度読む。
「メリル殿下も?」
そして。
「ははっ!」
執務室に笑い声が響いた。
「何これ。もはやスピネリアの公式教本化してるじゃん」
椅子の背へ身体を預け、しばらく笑う。
朝から続いていた会議の疲れも、兄たちから届いた面倒な書類も、一瞬だけどうでもよくなった。
何の役にも立たない手紙だった。
だからこそ、いい。
ライレイは笑いながら、また筆を取った。
『メリル殿下には、できれば結婚が決まってから渡して。
俺でもそこはちょっと責任持てない。
あと、頁数の件は諦めてない。
――ライレイ』
そこまで書いて。
少しだけ考える。
昨日のリュシアンの手紙が、机の端に残っていた。
『一人で全部背負うな。』
視線をやり、それから小さく笑う。
くだらない話をして、くだらない返事が返ってくる。
昔なら、そんなものに時間を使う意味など分からなかっただろう。
けれど今は、それも悪くない。
王太子ではなく、ただ十八歳の男として笑える時間くらい、あってもいいのかもしれない。
ライレイは最後に一行だけ足した。
『婚約者の件は、いいのがいたら考える。急かすな。』
そして紙を折る。
「さて」
次の書類を手に取る。
窓の外では、伝書鷹が山脈へ向かって飛び立っていった。
春は、スピネリアだけではなく、シャンにも少しずつ近づいていた。




