第二十七話 陽に灼ける香り
春香祭が始まってからというもの、王都は毎日違う香りに包まれていた。
一週間にわたって開催される祭りには、スピネリア各地から香水工房、香料商、石鹸職人、香油を扱う店が集まる。王宮前の大広場から大通りまで色とりどりの天幕が連なり、朝になれば新作の香水瓶が卓上へ並べられ、昼を過ぎる頃には買い物袋を提げた人々で道が埋まった。
アデルにとっても、春香祭は楽しむだけの行事ではない。
最終日には、国王、王妃、宮廷調香師がそれぞれ一点ずつ選んだ品が表彰される。
選ばれた工房には翌日から注文が殺到し、その香りは今年の流行として王都中へ広がっていく。まして宮廷調香師選ともなれば、職人にとっては技術そのものを認められた証になる。
だからこそ、一日で決めるわけにはいかなかった。
祭りが始まってから、国王、王妃、アデルの三人は、公務の合間を使って少しずつ出品作を試していた。一度に嗅ぐのは数点だけ。時間を置き、最初に立つ香りだけではなく、その後どのように変化していくのかまで確認する。
四日目の午後。
「こちらは、最初より今の方がよいですね」
アデルはムエットを鼻先から離しながら言った。
卓上には今日試す十二本の香水が並べられている。
「最初は少し軽いと思ったけれど、後から木の香りが出てくるのね」
王妃も手元のムエットを確かめた。
「はい。春の昼間より、夜会向きかと」
「なるほど」
国王が記録係へ短く所感を告げる。
アデルも自分の帳面へ書き込んだ。
次。
その次。
五本目まで進んだところで、王妃が小さな硝子瓶を手に取った。
「これは随分、春らしい色ね」
香液は淡い黄緑色をしていた。瓶にも若葉の意匠が施され、華やかではあるものの上品にまとまっている。
王妃が栓を開け、ムエットへ一滴落とした。
爽やかな香りが立ち上がる。
その瞬間。
アデルの指が止まった。
「……」
もう一度、細く息を吸う。
柑橘。
橙花の柔らかな甘さではない。
果皮を折った瞬間に弾ける、青さと苦みを含んだ香り。
「ビターオレンジ……」
「ええ。そうみたいね」
王妃は何気なく答え、もう一度ムエットを鼻元へ寄せる。
アデルは眉を寄せた。
香りの組み立てがおかしいのではない。
強すぎる。
柑橘を主役にした春の香水なら、ビターオレンジを前へ出すこと自体は珍しくない。だが、これは調香の中で強調されているのではなく、果皮油そのものの青い香りが不自然なほど残っている。
「王妃様」
「何かしら?」
「その香水、お手には触れましたか?」
王妃が自分の指先を見る。
「栓を開けた時に少しついたけれど」
アデルの顔色が変わった。
「王妃様、今すぐお手の洗浄を! 光毒性の香料の可能性がございます!」
室内の空気が一変した。
王妃付きの侍女がすぐに動く。
「王妃様、こちらへ」
「アデル?」
「今は陽の当たる場所へ出ないでください。よく洗い流してからお戻りを」
王妃は一瞬驚いたものの、問い返すことなく隣室へ向かった。
国王が卓上の瓶を見る。
「危険なものなのか?」
「香りを嗅ぐだけなら問題ございません。ただ、ビターオレンジの果皮から得た油の中には、肌についた状態で強い陽を浴びると炎症を起こすものがございます」
「この香水は、その量が多い?」
「肌へ使用する品としては、不自然なほどです」
アデルは瓶には触れず、王妃が使ったムエットだけを確認した。
やはり、強い。
そこへ廊下の向こうから足音が近づいてきた。
「何があった?」
リュシアンだった。
別の場所で公務をしていたはずだが、人の出入りが急に慌ただしくなったのを見て来たらしい。
「母上は?」
「お手を洗っていただいております」
「何か症状は?」
「今のところはございません」
リュシアンの視線が問題の瓶へ移る。
「それが原因か?」
「まだ断定はできません。ただ、ビターオレンジの果皮油が多すぎます」
「工房の配合ミス?」
「それもまだ分かりません」
アデルはすぐに顔を上げた。
「メリー」
「はい」
「この香水を作った工房を今すぐ調査して」
傍らに控えていたメリーが姿勢を正す。
「承知いたしました」
「春香祭が始まってから、同じ香水を使用した方から皮膚の異常について苦情が出ていないかも確認を。工房だけではなく、会場の係にも聞いてください」
「はい」
「同じ商品の試香も、一度すべて止めてもらって」
「すぐに」
メリーが部屋を出ていく。
「お前は?」
リュシアンが聞く。
「まず王妃様の状態を確認いたします。その後、メリーの報告を受け次第、私も工房へ」
「俺も――」
「リュシアン」
隣室から戻ってきた王妃が息子を止めた。
「あなたは仕事へ戻りなさい」
「ですが」
「アデルがいるでしょう?」
「……」
「それに、あなたも春香祭だからといって公務が減っているわけではないでしょう」
痛いところだったらしい。
リュシアンが黙る。
「何か分かったら、すぐ知らせてくれ」
「もちろんです」
「絶対に」
「分かっております」
ようやくリュシアンが引き下がる。
王妃は洗ったばかりの手をアデルへ見せた。
「これで大丈夫?」
「今日は念のため、手袋をなさってください」
「春なのに?」
「春だからです。陽が強くなっておりますので」
「分かったわ」
王妃は問題の瓶へ目を向けた。
「綺麗な香りなのにね」
「はい」
アデルも小瓶を見る。
香りが悪いのではない。
使われている香料が悪いわけでもない。
問題は、量だ。
そして。
これほどの量を、本当に職人が誤って入れるものだろうか。
*
一時間もしないうちに、メリーが戻ってきた。
「アデル様」
その声だけで、何か見つかったのだと分かった。
「ございました」
「苦情が?」
「はい。春香祭が始まってから、少なくとも五件」
アデルの表情が引き締まる。
「症状は?」
「手首や首筋の赤み。ひどい方は小さな水疱まで出ているそうです」
「どこで使用を?」
「全員、春香祭の会場です。この工房の柑橘系香水を肌へ試され、その後も祭りを回っていらしたそうです」
「屋外ですね」
「はい」
「購入した瓶を自宅で使用した方からは?」
「今のところ、同様の申し出は確認できておりません」
アデルは少し黙った。
おかしい。
工房で作った香水そのものに問題があるなら、販売された品からも同じ被害が出るはずだ。
「工房へ参ります」
アデルは立ち上がった。
*
問題の香水を作った工房は、王都でも長く商売を続けている老舗だった。
華美な店ではない。磨き込まれた木の棚へ硝子瓶が整然と並び、奥には蒸留器と調香台が見える。多数の香水を扱っているにもかかわらず、店内の香りが濁っていない。換気も保管もよく考えられているのだろう。
アデルが名乗るより早く、五十を少し越えたほどの工房主が深々と頭を下げた。
「宮廷調香師様。お待ちしておりました」
「事情は伺っていますか?」
「はい」
「こちらを確認してください」
アデルは布に包んで運んできた問題の瓶を卓上へ置いた。
工房主は直接肌へはつけず、新しいムエットへごく少量を取った。
香りを確かめる。
その表情がすぐに変わった。
「……何です、これは」
「やはり異常ですか?」
「異常も何も」
もう一度嗅ぐ。
「香りの骨格は、うちのものです。けれど、このビターオレンジは何です?」
「どの程度違います?」
「肌につける香水へ、こんな濃さでは使いません。まして春ですよ」
答えに迷いはなかった。
この職人は知っている。
ならば。
「同じ製造分の保存品はございますか?」
「もちろん」
工房主が棚の奥から一本を取り出した。
瓶の底には、小さな記号が刻まれている。
問題の瓶と同じだった。
「こちらが同じロットです」
新しいムエットへ一滴。
アデルが確かめる。
ビターオレンジは入っている。
けれど、ごく自然だ。
若葉や花の香りを明るく持ち上げ、その中へ溶けている。
「……違いますね」
「でしょう?」
工房主の顔に、怒りが浮かんだ。
「こんなものをうちの名で出されたら困ります」
「工房で調香された時点では正常だった可能性が高いですね」
「ええ」
「このロットは全部で何本?」
「百二十本です」
「すべて同じ番号を?」
「春香祭の目玉商品には毎年番号を入れております。何か問題が起きた時、いつ、どの原料で作ったものか遡れるように」
アデルは問題の瓶を見る。
正規品と同じ瓶。
同じロット番号。
見た目だけでは、工房の品と疑う理由がない。
「春香祭にあたり、工房で何かトラブルはありませんでしたか?」
「トラブル?」
「香料の仕入れ、人の出入り、運搬。普段と違ったことなら何でも構いません」
工房主は少し考え込んだ。
「……トラブルってほどでもないですが、仕入先を一つ変えました」
「何を?」
「柑橘です」
アデルが顔を上げる。
「昨年まではベルグ子爵領から仕入れていました。今年からは、マイヤー男爵領のものに」
「理由を伺っても?」
「品質です」
工房主は言いにくそうに眉を下げた。
「ベルグ子爵家とは、先代の頃から二十年以上の付き合いでした。できれば切りたくなかった。何度も改善をお願いしましたが、ここ数年どうにも」
「具体的には?」
「収穫時期が揃わない。傷んだ果皮まで混じる。絞った油の状態も以前ほどよくない。納品まで遅れるようになりまして」
「それで、マイヤー男爵領へ」
「はい。自然の豊かな土地で、果樹園の管理も丁寧です。今年の春香祭分から正式に切り替えました」
工房主は並んだ瓶を見る。
「皮肉なものです。この香水がここ数年で一番綺麗に仕上がったのも、仕入先を変えたからなんですよ」
ベルグ子爵家。
アデルはその名を頭に残した。
ただし、今のところは元納入先というだけだ。
「この香水は、販売前に工房の外へ出ていますか?」
「見本品と、それから贈答用くらいですね」
「贈答?」
「毎年、原料を納めてくださった家には完成品を一本ずつお送りします」
工房主が少し照れたように笑った。
「香水は、調香師だけで作るものではありませんから。花を育てる家も、果実を育てる家も、瓶を作る職人もいる。完成したものをお見せするのが礼だと思っております」
律儀な人なのだろう。
だからこそ、アデルは尋ねた。
「ベルグ子爵家にも?」
工房主の表情が少しだけ曇った。
「……今年も送りました」
「取引を打ち切ったにもかかわらず?」
「二十年以上の付き合いでしたから。最後のお礼のつもりで」
「同じロットを?」
「はい」
アデルの中で、先ほどまで離れていたものが一つだけ近づいた。
「記録を拝見できますか?」
「もちろんです」
帳簿が運ばれてくる。
贈答先と本数。
日付。
そして製造ロット。
その中に。
ベルグ子爵家、一瓶。
問題の香水と同じ番号が記されていた。
*
王宮へ戻ると、王妃の私室には国王ではなく、リュシアンとライオネルがいた。
「お帰り、アデル」
「ただいま戻りました」
「どうだった?」
王妃に問われ、アデルは工房で分かったことを説明した。
保存品は正常だったこと。
問題の瓶だけ、ビターオレンジ果皮油が不自然に増やされていること。
製造段階の事故ではなく、工房を出た後に細工された可能性が高いこと。
「つまり、誰かが工房の香水を利用した」
リュシアンが言う。
「その可能性が高いです」
「それなんだけど」
それまで黙っていたライオネルが口を挟んだ。
「その香水、僕のところにも直接送られてきたよ」
「……ライオネル殿下へ?」
「昨日ね」
アデルの顔色が変わった。
「ライオネル殿下! 香水には触れられましたか?」
「使ってないよ」
「本当に?」
「瓶は持ったけど、中身には触れてない。栓を開けたら橙の香りがかなり強かったから、侍従に下げてもらった」
アデルは明らかに安堵した。
「よかったです……」
「僕、柑橘は食べるなら好きだけど、香りだけだとそこまで好きじゃないからね。あまり公には言ってないけど」
それは以前エリーゼとの会話でも話していた程度の、個人的な好みだった。
「送られてきた瓶は残っているのか?」
リュシアンが聞く。
「もちろん」
「同じロットか調べよう」
「お願いいたします」
ライオネル宛の香水が同じロットなら、さらに意味が変わってくる。
「ライオネル殿下」
「何?」
「春香祭のご予定は?」
「ああ。城下の露店を回る約束をしていた」
「どなたと?」
「エリーゼと」
アデルは一瞬黙った。
以前、ライオネルの婚約者候補として名前を聞いた令嬢だ。
「エリーゼ嬢と」
「うん」
「念のため、警護を増やしてはいかがでしょうか」
「そうする」
「エリーゼ嬢にも、この香水へ触れないよう――」
「それは、わたしが言ってくるわ」
扉の方から声がした。
「メリル殿下」
メリルは当然のような顔で部屋へ入ってくる。
「エリーゼ嬢ね。念のため、わたしが周辺を調べておく」
「姉上?」
「何?」
「誰も頼んでないけど」
「あなたが頼まなくても調べるわよ」
メリルが腕を組む。
「今回も嫉妬絡みかしらね」
「まさか。姉上じゃないんだから」
「どういう意味よ」
「そのまま」
「ライオネル」
「はいはい」
王妃が小さく息を吐いた。
リュシアンだけは慣れた顔をしている。
やがてそのリュシアンが弟へ視線を向けた。
「お前は調査に行かないのか?」
「行かないよ」
「珍しいな」
「僕が狙われている可能性があるんでしょう?」
ライオネルは淡々としていた。
「だったら、今は大人しくしておく。僕が動けば護衛も動くし、犯人がこちらの動きを見ているなら、余計な反応をさせるかもしれない」
「なるほど」
「アデル嬢が工房を調べている。姉上はエリーゼのところへ行くんでしょう。それで十分じゃない?」
「俺は?」
「兄上まで動いたら大事になるよ」
「……それもそうだな」
少し間を置いてから、リュシアンが肩の力を抜いた。
「今回は俺の出番はなさそうだな」
「最初からそう言ってる」
「お前に言われると腹が立つな」
「知らないよ」
それでもリュシアンは、それ以上口を出さなかった。
「何かあれば言え」
「うん」
「エリーゼ嬢のことも」
「分かってる」
短いやり取りだった。
けれど、それで十分だった。
*
午後。
アデルは再び工房側の記録を追い、メリルはエリーゼのもとへ向かった。
二人が王宮へ戻ってきたのは、ほとんど同じ時刻だった。
「アデル」
「メリル殿下」
互いに歩みを止める。
「分かったわ」
「私もです」
一拍。
「先にどうぞ」
「ベルグ子爵家」
「……同じです」
メリルの眉が上がった。
「そっちも?」
「はい」
二人はそのまま王妃の私室へ向かった。
*
「エリーゼ嬢には、少し前まで別の縁談があったそうです」
メリルが卓上へ一枚の紙を置いた。
「相手はベルグ子爵家の長男」
王妃が目を細める。
「聞いた覚えがあります」
「エリーゼ嬢のお父様も、ほとんど承諾するつもりだったそうよ。家格は高すぎず低すぎず、昔は香料農園の経営も堅実だった」
「昔は?」
リュシアンが問う。
「今は借金まみれ」
メリルは容赦がない。
「王都の子爵邸は先月、差し押さえ。使用人もかなり減らしている。娘たちは今年、春のドレスを一着も新調していないそうよ」
アデルは少し眉を下げた。
娘たちまで今回の件に関わっているとは限らない。
「ベルグ子爵がエリーゼ嬢との縁談で期待していたのは、持参金です」
「相当な額?」
「ええ。あの家の借金をかなり整理できるくらいには」
そこへ。
ライオネルとの縁談の可能性が浮上した。
「エリーゼ嬢のお父様は、ベルグ子爵へ『少し待ってほしい』と返した。その少しが、長引いた」
王家から正式な話が出るのか。
出ないのか。
父親として待ちたいのは当然だったのだろう。
しかし、借金は待ってくれない。
「その間に子爵邸が差し押さえられた」
「そして、同じ頃です」
今度はアデルが口を開いた。
「ベルグ子爵家は、問題の工房との取引も失っています」
工房から聞いた内容を説明する。
傷んだ果実。
ばらついた収穫。
品質の落ちた果皮油。
遅れる納品。
「つまり、金がなくなったことで果樹園の管理まで悪化した」
「その可能性は高いと思います」
「悪循環ね」
王妃が呟く。
「はい。ただし、工房は突然契約を切ったわけではありません。何度も改善を求めています」
そして最後の贈答品。
アデルは工房の帳簿を卓上へ置いた。
「春香祭の目玉香水には毎年、製造時期や原料を追えるようロット番号が入れられています」
「問題の瓶にも?」
「はい」
リュシアンの視線が帳簿へ落ちる。
「工房は、原料を納めてくれた家へ完成した香水を毎年一本ずつ贈っていた」
「今年は取引を切ったベルグ家にも?」
「最後のお礼として、一瓶だけ」
アデルが該当箇所を示した。
ベルグ子爵家。
一瓶。
製造番号は、問題の香水と同じ。
「工房が罪を着せられた時、この番号があれば本物に見える」
リュシアンが言った。
「はい」
「でも、その番号があったせいで、どこへ渡った瓶なのか追える」
「そういうことになります」
犯人が利用しようとした工房の律儀さが、逆に足跡を残した。
「まだ、これだけではベルグ子爵がやった証拠にはならないわ」
メリルが言う。
「はい。ですから、そこからさらに調べました」
アデルはもう一枚、記録を出した。
ライオネルへ届いた瓶は、工房から直接発送されたものではなかった。
運送人は王都西側で荷を預かっている。
その場所は、ベルグ子爵家が使用していた倉庫に近い。
さらに春香祭初日、会場の試香瓶が一度だけ所在不明になった時間があった。混雑の中でほどなく元の位置へ戻っていたため、その時は誰も問題にしなかった。
その時間帯。
かつてベルグ子爵家で働いていた男が、会場裏手へ出入りしている。
「工房への恨みもあった」
王妃が静かに言う。
「そして、エリーゼ嬢との縁談も潰れかけていた」
「はい」
もう一つ、ベルグ家にはビターオレンジの果皮油がある。
当然だ。
つい最近まで、その生産者だったのだから。
「では、ライオネルへ送ったのも」
王妃が息子を見る。
ライオネルは少し考えてから言った。
「僕を傷つけるためじゃなかったのかもしれないね」
「なぜ?」
「僕が柑橘の香りを好まないことを知っていたなら」
その先を、アデルも理解した。
「ご自分では使用なさらない」
「うん」
「でも、春香祭ではエリーゼ嬢と一緒にいる」
メリルの表情が変わる。
「エリーゼに渡すと思った?」
「その可能性はある」
ライオネルの声から、先ほどまでの軽さが消えた。
「僕が使わないなら、同行する彼女へどうか、と渡すかもしれない」
しかも春香祭。
一日中、春の日差しの下を歩く。
首筋。
手首。
耳の後ろ。
香水をつける場所は、いずれも陽に当たりやすい。
「狙いは、ライオネル殿下ではなく」
「エリーゼ嬢」
アデルとメリルの言葉が重なった。
*
ベルグ子爵は、その日のうちに王宮へ召喚された。
最初はすべて否定した。
香水のことなど知らない。
工房との取引が切れたからといって恨みはない。
エリーゼとの縁談も正式に破談したわけではない。
しかし。
工房からベルグ家へ同じロットの瓶が贈られていた記録。
ライオネル宛の荷を運んだ者の証言。
春香祭会場へ出入りした元使用人。
ベルグ家に残る高濃度のビターオレンジ果皮油。
一つずつ事実を積み重ねるほど、否定する余地はなくなっていった。
「あと少しだったんだ」
やがて、ベルグ子爵が低く呟いた。
「何がです?」
アデルが尋ねる。
「あの娘との婚約さえ決まれば、持ち直せた」
顔に浮かんでいるのは、怒りより疲労だった。
「借金を返して、果樹園へ人を戻して、設備を直して……あと少しだった。なのに王子との話が出た途端、待てと言われた」
「エリーゼ嬢のせいではありません」
「工房まで、うちを切った!」
「それもエリーゼ嬢のせいではありません」
アデルの声は変わらない。
「香料の品質が落ちていたからです」
ベルグ子爵が黙る。
「資金がなく、人を雇えなかったことも、設備を直せなかったことも事情でしょう。ですが工房は何度も改善を求めています」
「……」
「エリーゼ嬢との縁談が止まったから品質が落ちたのではありません。品質が落ちたから、契約を失ったのです」
別々の問題だった。
けれど追い詰められた子爵の中では、それらがいつの間にか一つになっていた。
返事を待たせたエリーゼ家。
自分を切った工房。
そして、エリーゼとの婚約を奪ったように見えた王子。
そのすべてへ、一度に仕返しをしようとした。
ベルグ子爵は連れていかれた。
「娘たちは?」
メリルが聞いた。
「事情を知らなかったことが確認できれば、罪には問わない」
リュシアンが答える。
「当然ね」
「ああ」
メリルが短く息を吐いた。
娘たちもまた、父親の失敗によって家も暮らしも失おうとしている。
それ以上の罪まで背負わせる必要はなかった。
*
翌日。
ライオネルは、予定通りエリーゼと王宮前広場にいた。
春香祭は何事もなかったかのように続いている。
事件があったからといって春が止まるわけではない。天幕には色とりどりの香水瓶が並び、焼き菓子や砂糖菓子を売る露店から甘い香りが漂い、通りの向こうでは楽師が春の曲を奏でている。
もちろん、今日の護衛は普段より多い。
それでも会話を邪魔しない程度には離れていた。
「本当に、よろしいのですか?」
エリーゼが聞いた。
「何が?」
「今日のことです。事件があったばかりなのに」
「約束してたでしょう」
「ですが」
ライオネルは足を止めた。
普段の柔らかな笑みが、少しだけ薄くなる。
「エリーゼ」
「はい」
「今回のこと、僕がやったわけじゃない」
「もちろんです」
「でも、間接的ではあるけど、僕が君を危険にさらしたことは変わらないと思ってる」
「殿下」
「僕との縁談がなければ、少なくとも今回みたいな狙われ方はしなかった」
エリーゼはすぐには否定しなかった。
それが、ライオネルにはありがたかった。
「王子の婚約者って、たぶんこういう時がある」
少し困ったように笑う。
「僕が何もしてなくても、僕の隣にいるってだけで巻き込まれることがある。今回だけじゃないかもしれない」
「……はい」
「だから」
一度言葉を切った。
「守るから、僕についてきてくれるかな?」
エリーゼの瞳が大きくなる。
ほんの一瞬だけ。
そして。
「ええ。喜んで!」
迷いのない答えだった。
ライオネルの表情が一気に緩む。
「よかった」
「今さら断られると思っていらしたのですか?」
「少しくらいは不安になるよ」
「意外です」
「僕を何だと思ってるの」
「王子様です」
「それは合ってる」
二人で笑った。
そこから先は、ようやく普通の春香祭になった。
香油の露店を覗き、刺繍入りの香り袋を見て、花農家の天幕では今年最初の薔薇を眺める。
しばらく歩いたところで、エリーゼが菓子屋の前で足を止めた。
橙の皮を蜜で煮て、砂糖をまぶした菓子が硝子皿へ山盛りにされている。
「こちらでしたら、お好きでしたよね」
ライオネルが少しだけ目を丸くした。
それから、嬉しそうに笑う。
「よく覚えていたね」
「食べるのはお好きだと、以前伺いましたから」
「そう。これは好き」
「では、一ついただきましょうか」
「半分ずつにしよう」
「はい」
菓子を一つ買い、二人で分ける。
少し離れたところから、その様子をメリルが眺めていた。
「……やるじゃない」
「何がです?」
隣にいたアデルが聞く。
「ライオネル」
「とても楽しそうですね」
「そうじゃなくて」
「では?」
「……もういいわ」
メリルは小さく笑った。
弟のことが気になって仕方がないくせに、本人の前では絶対に認めない。
アデルはそれ以上聞かなかった。
「お前たち、何してるんだ」
後ろから声がした。
振り返ると、リュシアンが立っていた。
「リュシアン様」
「兄上に見つかった」
メリルが露骨に嫌そうな顔をする。
「俺を何だと思ってる」
「弟のデートまで見張りに来る兄」
「来てない」
即答だった。
「アデルを迎えに来ただけだ」
「本当に?」
「本当に」
リュシアンは少し遠くを歩くライオネルとエリーゼへ目を向けた。
二人で何か話しながら、また別の露店へ向かっている。
「……今回は本当に、俺の出番なかったな」
「最初からそう申し上げていたではありませんか」
「アデルまで言う?」
「ライオネル殿下は、ご自分で判断なさいました」
「ああ」
リュシアンの口元が少し緩む。
「なら、それでいい」
それ以上、兄として口を出す気はないようだった。
その時。
王宮の方角から鐘が鳴った。
一度。
二度。
午後の刻を知らせる鐘だった。
「あ」
アデルが顔を上げる。
「どうした?」
「戻らなくては」
「何かあったか?」
「何かあったか、ではございません」
慌てて手帳を開く。
今日の午後。
最終候補の再試香。
明日は春香祭の最終日。
そして夜には、表彰のパーティがある。
「表彰の選定が、まだ終わっておりません」
「ああ」
「忘れていらしたのですか?」
「事件が終わったから、つい」
「私は終わっておりません」
宮廷調香師の仕事は、事件を解決することではない。
本来はこちらだ。
一週間かけて集められた香りの中から、その年を代表する一つを選ぶ。
国王が一つ。
王妃が一つ。
そして宮廷調香師が一つ。
明日の夜、王宮では春香祭を締めくくる表彰のパーティが開かれる。
当然、王都の貴族はほとんど全員が集まる。
今年はどの工房が選ばれるのか。
誰がどの香りをまとって現れるのか。
どんな香りが、明日から王都の新しい流行になるのか。
すでに社交界では、その話でもちきりだった。
「帰ります」
アデルが歩き出す。
「待て。俺も行く」
「リュシアン様は選定には関係ありません」
「知ってる」
「では?」
「迎えに来たんだから、一緒に帰る」
当然のようについてくる。
後ろからメリルの呆れた声がした。
「兄上も大概よね」
「何か言ったか?」
「何も」
春の風が大通りを抜けていく。
花。
焼き菓子。
新しい香水。
湿った土。
今年の春香祭には、思いがけない事件の匂いまで混ざった。
それでも最後に残す香りは、まだ決まっていない。
王宮へ戻れば、候補の瓶が何十本も待っている。
アデルは少しだけ歩みを速めた。
明日の夜。
宮廷調香師アデル・アレクシアとして、初めて選ぶ「春の香り」が発表される。




