第二十八話 国を動かす香り
春香祭の最終日を翌日に控え、アデルは宮廷調香室の床に座り込んでいた。
正確には、座り込むつもりなどなかった。棚の最下段から古い記録を引き出し、机まで運ぶのが面倒になって、そのまま絨毯の上へ広げただけである。
周囲には、歴代宮廷調香師の選定記録、春香祭の受賞一覧、香料の収穫量をまとめた帳簿、国内各地から届いた市場価格の報告書が積み上がっていた。いつもの作業机の上もすでに紙で埋まり、香料瓶を置く場所すらない。
「……こんなに考えるものだったのね」
独り言が、静かな調香室へ落ちる。
窓の外では、春香祭の最終日に向けた準備が進んでいる。王宮前広場には新しい花飾りが運び込まれ、夜の表彰パーティに使う灯りが一つずつ確認されていた。開けた窓からは湿った土と若葉、それから大通りで試されている新作香水の気配が、春の風に薄く混じって届いてくる。
明日、アデルはその中から一つを選ぶ。
国王が一つ。
王妃が一つ。
宮廷調香師が一つ。
ただ、それだけのはずだった。
けれど、選ぶ側になってみると、その「一つ」が思っていたよりずっと重い。
アデルは膝の上に置いた候補一覧へ目を落とした。
完成度だけを見れば、迷う必要はない。
今年の出品作には、非常に美しいアンバーグリスの香水があった。最初は軽い花の香りなのに、時間が経つほど肌へ馴染み、最後には温かな甘さだけが残る。技術だけを見るなら、間違いなく受賞候補だった。
けれど。
「アンバーグリス……」
別の帳面を開く。
昨年の輸入量。
今年の在庫。
市場価格。
どれも、よい数字ではない。
元々貴重な香料だ。今年は特に入荷が少なく、すでに価格が上がっている。
もし、宮廷調香師である自分がその香水を選べば。
翌日から注文が増える。
貴族たちは欲しがる。
工房も作りたがる。
商人は原料を確保しようとする。
価格はさらに上がる。
場合によっては、小さな工房では手に入らなくなる。
「……だめね」
アデルは候補の横に小さく線を引いた。
よい香りだからこそ、選ばない。
その判断が正しいのか、自分でもまだ確信はない。
けれど、宮廷調香師が「素晴らしい」と言えば、それだけで市場が動く。
スピネリアでは、香水が単なる嗜好品ではない。花を育てる農家がいて、果樹園を管理する者がいて、蒸留職人がいる。硝子瓶を作る職人も、遠くから香料を運ぶ商人も、店で売る者もいる。
一つの香りの後ろに、何百という仕事がある。
だからこそ、宮廷調香師が流行を作るということは。
「……産業の向きを決めることに、近いのね」
口に出してみると、急に重みが増した。
アデルは少し眉を寄せ、隣に積んでいた古い選定記録へ手を伸ばした。
去年。
父が選んだのは水仙の香水。
一昨年は、白薔薇を中心にした香油。
その前は、橙花。
さらにその前。
頁をめくる。
「……?」
ふと、手が止まった。
水仙を選んだ年。
別の帳簿を見る。
水仙、豊作。
白薔薇の年。
豊作。
橙花。
これも、例年より収穫量が多い。
「……まさか」
アデルは立ち上がった。
今度は市場記録を持ってくる。
父が選んだ年の翌年。
その香料の取引量が増えている。
しかも、極端な値上がりはしていない。
生産量が十分にある年に需要を作っているからだ。
別の年には、新しい蒸留所ができた地方の香料を選んでいる。その翌年、その地域から王都へ入る香料の量が増えていた。
「お父様……」
アデルはしばらく帳簿を見つめた。
父は、ただ一番好きな香りを選んでいたわけではない。
もちろん品質は見ていた。
技術も。
けれど、その先にあるものまで見ていた。
今年、何が採れたのか。
どの地方を伸ばすべきなのか。
どの職人に仕事を回すべきなのか。
宮廷調香師として、国の香りそのものを見ていた。
アデルはゆっくり息を吐いた。
「……そういうことなのね」
自分は調香師だ。
香りを作る。
香料を選ぶ。
その知識で事件を解くこともある。
けれど。
ただの調香師ではない。
宮廷に仕えている。
国王の名のもとで仕事をする、宮廷調香師だ。
ならば見るべきなのは、一つの香水瓶の中だけではない。
国全体。
その先。
国外まで。
そこまで考えた瞬間、アデルの頭に一つの香りが浮かんだ。
「シャン……」
立ち上がる。
棚の上段。
シャンから運ばれてきた新しい香料の見本。
香木。
樹脂。
薬草。
その中から、小さな木箱を取り出す。
蓋を開けた瞬間、柔らかな木の香りが立った。
白檀。
甘い。
けれど重すぎない。
樹木の温かさの奥に、静かで乾いた気配がある。
シャンでは、この香りを身体へ濃くまとうのではなく、焚いて部屋へ漂わせ、衣や髪へ薄く移す。
スピネリアとは違う香り方。
アデルは、しばらくその香りを嗅いだ。
そして。
「……これだわ」
*
春香祭最終日の夜、王宮は昼間とはまるで違う顔を見せていた。
大広間には無数の灯りがともされ、磨き上げられた床へ金色の光が落ちている。高い窓には春の花を束ねた飾りが掛けられ、壁際には各工房から献上された香水瓶や香炉が並んでいた。
王都の貴族たちは、ほとんど全員が集まっている。
当然だった。
今夜の結果が、明日からの流行を決める。
令嬢たちは新作の香水をまとい、紳士たちも春らしい軽い香りを選んでいた。あちこちから違う香りが立っているにもかかわらず、今年は展示位置や使用量が管理されているため、以前ほど空気は濁っていない。
そのことに気づいているのだろう。
リュシアンは、会場の中央近くに立っていた。
王太子としての正装は濃紺を基調に、銀糸の刺繍が肩から胸へ流れている。黒髪はきちんと後ろへ整えられ、灰青色の瞳にも公の場らしい落ち着きがあった。去年までなら、この時間にはすでに香りで疲れきっていただろう。
けれど今年は違う。
アデルと目が合うと、ほんの少しだけ口元が緩んだ。
大丈夫。
そう言われた気がした。
アデルも小さく頷く。
今日は、アデルも宮廷調香師としての正装だった。
銀髪は後ろで複雑に編み込み、細い銀細工と灰青色の宝石で留めている。淡い青灰色のガウンには、裾と袖だけ控えめな刺繍が入り、宮廷調香師の徽章が胸元に留められていた。
侯爵令嬢としてではない。
未来の王太子妃としてでもない。
今日は、この国の宮廷調香師として壇上へ立つ。
楽師たちの演奏が止んだ。
ざわめいていた広間が静まる。
最初に国王が立った。
金色の髪を隙なく後ろへ撫でつけた国王は、灰青色の瞳で広間を見渡し、その年の受賞工房を告げる。
発表された瞬間、会場から穏やかな拍手が上がった。
「ああ、今年はこちらか」
「順番なら、そろそろだと思っていた」
そんな声も聞こえる。
国王は毎年、王室御用達として長く王家を支えてきた工房を、ある程度順番に選んでいる。
驚きは少ない。
けれど、それには意味がある。
王家が長く続く工房を忘れていないこと。
老舗の技術を守ること。
安定した仕事を保証すること。
次は王妃だった。
亜麻色の髪を美しく結い上げ、淡い金色のドレスをまとった王妃が立つ。表情は普段より華やかで、少し楽しそうですらある。
選ばれたのは、希少な花油と高価な樹脂を贅沢に使った香水だった。
発表と同時に、今度は少し大きなどよめきが起こる。
「さすが王妃陛下」
「今年も高価なものを」
「でも、あれは確かに素晴らしかったわ」
王妃本人は純粋に好きなものを選んでいる。
けれどアデルは、この数日で別の意味も知った。
高価な香りには、それだけの原材料費がかかる。
工房は先に大きな金を出して、希少な香料を仕入れている。
ならば選び、売れさせ、元手を回収させる。
王妃なりの職人への支援だった。
そして。
「続きまして、宮廷調香師選を発表いたします」
名前を呼ばれた。
アデルは一歩前へ出た。
広間に集まった視線が、一斉にこちらへ向く。
心臓が少しだけ速くなる。
けれど、不思議と怖くはなかった。
数日前なら、ただ一番よい香りを選ばなければと思っていた。
今は違う。
自分が何を選ぶのか。
なぜ選ぶのか。
もう決まっている。
アデルは壇上へ進み、正面を向いた。
「本年度、宮廷調香師として私が選びましたのは――」
一拍。
「香水ではございません」
広間がざわついた。
予想していた反応だった。
春香祭。
香水の国、スピネリア。
その宮廷調香師が、香水を選ばない。
注目が集まる。
「シャン国産の白檀を用いた、薫香です」
さらにざわめきが大きくなる。
壇上の脇には、受賞品として小さな香炉が置かれていた。
細い煙がゆっくりと上がり、白檀の柔らかな甘さが広間へ薄く溶けている。
強くない。
近づけば分かる。
離れれば消える。
その程度の香りだった。
「スピネリアは香水の国です。身体に香りをまとい、装いの一部として楽しむ文化を、長く育ててまいりました」
アデルは広間を見渡した。
「ですが、香りの楽しみ方は一つではございません」
リンレイの姿が見えた。
シャンの衣装をスピネリア風の正装へ合わせた少女は、長い赤褐色の髪を高く結い上げ、金色の瞳を真っ直ぐこちらへ向けている。
「シャンには、香を焚き、空間へ漂わせ、衣や髪へ僅かに移す文化がございます。強くまとうのではなく、柔らかく香らせる。その方法を、私はとても美しいと思いました」
リュシアンの灰青色の瞳が、わずかに細くなる。
アデルは続けた。
「そして今、スピネリアとシャンの間には新しい交易が始まろうとしております。これまでこの国には少なかった香料が届き、新しい文化も入ってまいります」
ただ輸入するだけではない。
「シャンから香料をいただき、スピネリアの職人が調え、ここで新しい香りとして育てる。そうして両国に新しい仕事が生まれれば、香りはただの贅沢品ではなく、国と国を結ぶものになります」
一度、息を吸う。
「宮廷調香師として、今年はその始まりとなる香りを選びたいと思いました」
静かだった広間に、最初の拍手が響いた。
国王だった。
すぐに王妃も続く。
その次にリュシアン。
やがて広間全体へ拍手が広がった。
思っていたより大きい。
アデルは一瞬だけ目を見開き、それから深く頭を下げた。
*
壇上を降りると、すぐにリンレイがやってきた。
「アデル姉様」
金色の瞳が完全に仕事の色になっている。
「はい」
「白檀の供給量を確認いたします」
「今ですか?」
「今です」
「表彰のパーティ中ですよ?」
「だからです。明日から注文が増えます」
正しい。
正しすぎる。
「兄様にも手紙を出します。採取量と加工量、今年どこまで出せるのか確認しなければ」
「リンレイ殿下」
「はい」
「少しだけパーティも楽しみましょう」
リンレイが止まった。
「……あとで」
「絶対ですよ」
「はい」
非常に怪しい返事だった。
「アデル」
今度は別の声がする。
振り返ると、ロザリー・ウェストン公爵令嬢が立っていた。
艶のある髪を華やかに結い上げ、深い赤紫のドレスを着ている。以前なら強い香水を好んでいた彼女も、今日は会場の規則に合わせてかなり控えめな香りだった。それでも姿勢の良さと堂々とした立ち居振る舞いのせいか、人混みの中でもすぐに分かる。
「ロザリー様」
「やるじゃない」
「ありがとうございます」
「白檀、本気で流行らせるつもりでしょう?」
「そのつもりで選びました」
「でしょうね」
ロザリーが笑う。
「なら、お父様に話しておくわ」
「公爵閣下に?」
「うちは交易が仕事よ。シャンから山を越えて持ってくるなら、運送も倉庫も必要になる。王都へ入ってから各工房へ回すなら、そこもね」
もう動いている。
アデルが選んだ、その瞬間から。
「……ありがとうございます」
「お礼はまだ早いわ。商売の話ですもの」
「それでもです」
「なら、今度ちゃんと条件を詰めましょう」
「はい」
「リンレイ殿下も」
ロザリーがそちらを見る。
リンレイの金の瞳がさらに輝いた。
「ぜひ」
始まった。
アデルは思わず笑った。
一つの香りを選んだだけ。
けれど、それをきっかけに人が動き、国を越えて物が動こうとしている。
本当に。
父はずっと、これを見ていたのだ。
「アデル」
低い声がすぐ近くからした。
「リュシアン様」
リュシアンが立っている。
先ほどまで王族や貴族に囲まれていたはずなのに、いつの間に抜けてきたのだろう。
「お疲れ」
「ありがとうございます」
「格好よかった」
急に言われ、アデルは少しだけ瞬きをした。
「……ありがとうございます」
「香りだけじゃなく、その先まで見てたんだな」
「宮廷調香師ですから」
「うん」
リュシアンは少し笑った。
「だから、アデルらしいと思った」
その顔を見て、アデルの肩から少しだけ力が抜けた。
「それに」
「はい?」
「俺としても助かる」
「何がでしょう」
「強い香水だけが流行るより、ああいう香り方が増えた方がいい」
「あ」
「今年の春、だいぶ楽だったからな」
そうだった。
リュシアンにとって、これは産業の話だけではない。
「では、来年はもっと楽になるかもしれませんね」
「そうなるといい」
「いたします」
「頼もしいな」
灰青色の瞳が柔らかく細くなる。
アデルはその表情を見て、ようやく実感した。
終わったのだ。
初めての春香祭。
初めての宮廷調香師選。
事件まであった。
それでも。
自分は最後まで、宮廷調香師として仕事をした。
*
大役を終え、湯浴みまで済ませて自室へ戻った頃には、アデルの身体にはっきりと疲れが出ていた。
長い銀髪は完全には乾かしきれず、背中へ湿ったまま流している。正装の重いガウンも宝石も外し、今は柔らかな白い寝間着の上へ薄い室内着を羽織っただけだった。
メリーには、
『本日はもう何もなさらず、お休みくださいませ』
と念を押された。
もちろんそのつもりである。
明日の記録整理も。
受賞工房への正式な文書も。
シャンとの交易量の確認も。
全部、明日だ。
部屋へ入る。
「……疲れた」
誰もいないと思っていたからこそ、珍しく素直な言葉が漏れた。
「うん。見てれば分かる」
「……」
アデルは扉の前で止まった。
窓際の長椅子に、リュシアンがいた。
表彰パーティで着ていた正装はもう解いている。濃紺の上着はなく、白いシャツの襟元も緩められ、黒髪も少し崩れて額へ落ちていた。灰青色の瞳には、公の場で見せていた張り詰めた色はない。
「なぜいらっしゃるのですか」
「待ってた」
「ご自分のお部屋でお待ちください」
「それだとアデルが来ないだろ」
「今日は参りませんよ」
「だから来た」
非常に分かりやすい。
けれど、いつものように呆れる気力もほとんど残っていなかった。
アデルは扉を閉め、そのまま長椅子の反対側へ腰を下ろした。
「……本当に疲れました」
「お疲れ」
今度の声には、からかう響きがなかった。
リュシアンが少しだけ身体をこちらへ向ける。
「今日はよく頑張ったな」
「はい」
「事件も片づけた。選定もやった。表彰も終わった」
「はい」
「交易の仕事まで増やした」
「……それは明日からですね」
「だから今日は考えるな」
「努力します」
「努力じゃなくて、考えない」
「難しいことをおっしゃいますね」
リュシアンが笑う。
「今日は褒める日だから」
「そのような日があるのですか」
「今作った」
「勝手ですね」
「王太子だからな」
「そういう権力の使い方はいかがなものかと」
ようやく少し笑うと、リュシアンの表情も緩んだ。
それから、手を差し出してくる。
「おいで」
「どちらへ?」
「こっち」
自分の隣を軽く叩いている。
「すでに隣におります」
「もっと」
「十分近いでしょう」
「今日は言うこと聞いて」
「なぜです?」
「疲れてるから」
理由になっているような、なっていないような。
それでもアデルは少しだけ身体を寄せた。
すると当然のように肩を抱かれ、そのまま頭を胸元へ預けさせられる。
「リュシアン様」
「今日は何もしない」
「まだ何も申し上げておりません」
「先に言っとこうと思って」
その言葉通り、腕は回されたものの、それ以上は何もしてこない。
湯浴みを終えた身体には、リュシアンの体温が妙に心地よかった。
しばらく黙っていると、頭の上から声が落ちてくる。
「アデル」
「はい」
「今日は頑張ったから」
「はい」
「どんなおねだりも聞くよ」
アデルは顔を上げた。
「どんな?」
「どんな」
「本当に?」
「俺にできることなら」
随分、大きく出た。
アデルは真剣に考えた。
新しい精密天秤。
違う。
シャンの香料を保管する棚。
それも仕事だ。
欲しい研究書はいくつかある。
でも、おそらく今求められている答えではない。
「……難しいですね」
「何が?」
「急に欲しいものを聞かれましても」
「物じゃなくてもいい」
「では」
アデルは少し迷い、それから背中へ流れた銀髪へ触れた。
「髪を乾かしていただけますか?」
リュシアンが瞬きをした。
「それでいいの?」
「はい」
「もっとあるだろ。宝石とか服とか、どこかへ連れていけとか」
「今は髪を乾かしていただきたいです」
「……分かった」
少しだけ拍子抜けした顔をしながらも、リュシアンは立ち上がった。
アデルを鏡台の前へ座らせ、乾いた布を手に取る。
「痛かったら言って」
「はい」
長い銀髪をいくつかに分け、布で丁寧に水気を取っていく。
思っていたより手つきが優しい。
「お上手ですね」
「妹がいるからな」
「メリル殿下の髪を乾かしたことが?」
「小さい頃だけ。今やったら斬られる」
「でしょうね」
二人で笑う。
濡れた銀髪を扱う長い指が、時折頭皮へ触れた。
それが思いのほか気持ちよく、アデルは少しずつ肩の力を抜いていく。
「眠い?」
「少し」
「寝てもいいよ」
「髪が終わってからにいたします」
「じゃあ、終わったら?」
「寝ます」
「一人で?」
アデルが鏡越しに見る。
灰青色の瞳が、非常に分かりやすくこちらを見ていた。
「……どんなおねだりも聞く、とおっしゃいましたね」
「言った」
「では」
少しだけ迷う。
「今夜も、一緒に寝てください」
リュシアンの手が止まった。
「それ、おねだり?」
「そうですが」
「もっと早く言って」
「なぜです?」
「かなり嬉しい」
「……そうですか」
鏡の中で、リュシアンの顔が目に見えて緩んでいる。
「では、もう一つ」
「まだございますか?」
「俺から」
「それでは、私のおねだりを聞く話では?」
「髪が乾いたら、すぐ寝よう」
「はい」
「仕事の話は禁止」
「……」
「明日の予定も考えない」
「努力します」
「努力じゃなくて禁止」
「厳しいですね」
「今日は休ませるって決めたから」
最後の一房を丁寧に拭きながら、リュシアンが言う。
「宮廷調香師は、明日からまた頑張ればいい」
鏡越しに目が合った。
灰青色の瞳は、どこまでも穏やかだった。
「今夜くらい、ただのアデルでいて」
アデルはしばらく彼を見つめた。
今日一日。
国王と並び。
王妃と並び。
何十もの香りを比べ。
過去の記録を読み。
国の産業を考え。
大勢の前で、自分の選択を口にした。
宮廷調香師として。
ずっと。
だからなのだろうか。
その言葉が、思っていたより深く身体へ落ちた。
「……では、そういたします」
「うん」
「その代わり」
「何?」
「寝るまで、そばにいてください」
リュシアンの目元が柔らかく細くなる。
「それくらいなら、おねだりに数えなくても聞くよ」
「そうなのですか?」
「ああ」
乾いた銀髪を最後に指先で整えて、リュシアンが笑った。
「お疲れ、アデル」
今度は、アデルも素直に笑った。
「ありがとうございます、リュシアン様」




