第二十九話 頑張った香り
宮廷調香師にとって一年で最も大きな舞台である春香祭が終わっても、アデルの生活が暇になることはなかった。むしろ、終わったからこそ積み上がっていた仕事が一斉に戻ってきたような気がする。
午前中は宮廷調香師として調香室へ入り、春香祭で選んだ薫香に関する問い合わせや、各工房から届く試作品へ目を通す。午後になれば王太子妃教育へ向かい、王室儀礼、外交、領地経営、歴史、財政と、これまで調香師としては触れてこなかった分野を学ぶ。
どちらも中途半端にはしたくない。
結果、忙しい。
リンレイも同じだった。春香祭でシャン産の白檀を使った薫香が宮廷調香師選に選ばれて以来、交易に関する問い合わせが急増している。シャンからどれほどの量を安定して運べるのか。価格はいくらになるのか。誰が輸送を担うのか。十五歳の王女は金色の瞳を輝かせ、外務官や商務官の間を忙しく行き来していた。
メリルは相変わらず騎士団へ出入りし、時間さえあれば剣を握っている。
ライオネルは歴史と経済の講義が続いているらしく、先日会った時には「数字ばかり見ていると頭が固まりそうだよ」と笑っていた。
事件もない。
誰かが倒れることも、香りを使った妙な騒ぎが起きることもない。
皆がそれぞれ、自分のやるべきことへ没頭している。
そんな、平和な春の終わりだった。
その日の午後。
「アデル・アレクシア様。王太子殿下がお呼びです」
調香室へ来た侍従に告げられ、アデルは手を止めた。
「リュシアン様が?」
「はい。執務室へお越しくださいとのことです」
「承知いたしました」
乳鉢へ蓋をし、記録帳を閉じる。白い前掛けを外そうとして、少し考え、そのままにした。
呼ばれた理由は分からないが、私用なら執務室へ正式に呼びつけたりはしない。
つまり仕事だ。
銀髪を低い位置でまとめ直し、袖口を整えてから王太子の執務室へ向かった。
*
「失礼いたします」
「入れ」
扉を開ける。
久しぶりだ、と思った。
何が、とはうまく言えない。
リュシアンとは毎日のように顔を合わせている。食事もする。夜になればどちらかの私室にいることも珍しくなくなった。
けれど。
王太子の執務机の向こうに座る彼を、こうして正式に訪ねるのは久しぶりだった。
濃紺の執務着には銀糸の刺繍が控えめに入り、白い襟元はきっちりと整えられている。艶のある黒髪にも乱れはなく、切れ長の灰青色の瞳には、私室で見せる柔らかな色がない。
王太子、リュシアン・スピネリア。
その顔だった。
アデルも自然と背筋を伸ばした。
「宮廷調香師アデル・アレクシア、参りました」
「ああ。座ってくれ」
「失礼いたします」
向かいの椅子へ腰を下ろす。
リュシアンは机上の書類を一枚取り、こちらへ滑らせた。
「スピネリアの春は比較的長いが、夏はぐっと暑くなる」
「存じております」
「騎士団から、消臭のための調香依頼が来ている」
アデルが書類へ目を落とす。
王室騎士団。
夏季勤務時に使用する消臭用品について。
「今回は聞き取りから任せる」
「仰せのままに」
「王族警護を担当する第一部隊を優先してくれ。式典や夜会にも同行する。肌へ使うのか、装具へ使うのかも現場で確認を」
「承知いたしました」
「毎日使うものになるなら、原価も見てほしい」
「はい。高価な香料を使って継続できなくなっては意味がありませんから」
「そういうことだ」
完全に仕事の会話だった。
少し前までなら、この部屋へ入っても途中で雑談が混ざったり、リュシアンが調香室へ逃げ込んできたりしていたのに、今は互いに役職を背負って向き合っている。
不思議だった。
嫌ではない。
むしろ、少し嬉しい。
自分たちはこういう形でも隣に立てるのだ。
「では、明日中に騎士団へ伺います」
「頼む」
アデルが書類を揃える。
これで終わりかと思ったところで、リュシアンが「ああ、それと」と続けた。
「はい?」
ほんの少し。
灰青色の瞳から、公務の硬さが抜けた。
「騎士団に行ったら、メリルが迷惑をかけてないか様子を見てきてくれ」
アデルは瞬きをした。
それから、笑う。
「ふふ」
「何だ」
「お兄様の方のリュシアン様、ですね」
「悪いか」
「いいえ」
執務机の向こうで、リュシアンが少しだけ眉を寄せる。
「最近、あいつは暇さえあれば騎士団にいる」
「剣術がお好きですものね」
「知ってる。だから余計に誰も強く言えない」
「メリル殿下がお強いからでしょうか」
「それもある」
「では、様子も拝見してまいります」
「頼んだ」
「ご安心ください、お兄様」
「その呼び方はやめろ」
今度こそ、公務は終わったらしい。
*
翌日、王室騎士団の訓練場へ足を踏み入れた瞬間、アデルは鼻から細く息を吸った。
土。
革。
鉄。
馬。
乾きかけた汗。
香水の国であっても、ここだけは王宮の他の場所と空気が違う。
広い訓練場では何組もの騎士が剣を合わせ、乾いた金属音が一定の間隔で響いている。春の終わりとはいえ昼の陽射しはもう強く、革の胸当てや厚い訓練着を身につけた騎士たちの額には汗が浮かんでいた。
「あ」
その中に、見慣れた亜麻色の髪を見つけた。
「メリル殿下」
声をかける前に、剣がぶつかった。
メリルは訓練用の細身の剣を片手に、年上の騎士を相手にしている。普段は肩へ流している亜麻色の髪を高い位置できつくまとめ、額に張りついた数本だけが汗で濃くなっていた。灰青色の瞳は獲物を追うように鋭く、ドレス姿で茶を飲んでいる時とは別人のように生き生きしている。
一歩踏み込む。
相手の剣を受け流す。
次の瞬間、切っ先が騎士の胸元で止まった。
「そこまで!」
周囲から歓声が上がった。
メリルが剣を下ろす。
「ありがとうございました」
「こちらこそ……相変わらず容赦がありませんね、殿下」
「手加減して勝っても意味ないでしょう?」
もっともである。
(リュシアン様が心配する理由も、少し分かるわ)
少なくとも、王女らしく大人しく座っている姿ではない。
けれど本人は非常に楽しそうだった。
「アデル?」
こちらに気づいたメリルが目を丸くした。
「何してるの?」
「仕事です」
「騎士団で?」
「騎士団から依頼がございましたので」
「ああ、あれね」
「ご存じなのですか?」
「聞いたわ。臭いって」
「その言い方は少々」
「本人たちが言ってるもの」
どうやら隠すような話ではないらしい。
「アレクシア嬢」
低く落ち着いた声に振り返る。
騎士団長が歩いてきた。
五十代ほどの大柄な男で、短く刈った灰色の髪と日に焼けた肌が長い軍歴を物語っている。
アデルはすぐに姿勢を正した。
「宮廷調香師アデル・アレクシアです。本日はご依頼の件で参りました」
「わざわざありがとうございます」
「まず、どのような状況でお困りなのか伺えますか?」
「……お恥ずかしいのですが」
騎士団長が珍しく言いにくそうな顔をした。
「夏は汗をひどくかくものでして」
「それはそうでしょうね」
「『このままでは結婚できない』『婚約者に振られる』『夜会で令嬢に近づけない』などという声が、とにかくうるさいのです」
「まあ」
アデルは少し目を丸くした。
「皆様、紳士ですね」
「単に気にしすぎなだけだと思いますが」
「身だしなみを気になさることは悪くありません」
「昨年までは『予算がない、自分でなんとかしろ』で押し切っていたのですが」
「はい」
「今年は予算の承認が通りまして……」
「申請されたのですか?」
「三年連続で」
アデルは黙った。
「熱意が実りましたね」
「ようやくです」
騎士団長の目が遠くなる。
「城下を回る担当の騎士は一旦よいので、まず王族警護の隊を優先していただけますと助かります」
「第一部隊ですね」
「はい。王族のすぐそばで警護する者は、式典や夜会にも立ちますので」
「かしこまりました。使用環境を詳しく確認したいので、何名かお話を伺えますか?」
「今、隊をまとめている者を呼びましょう」
騎士団長が近くの騎士へ合図を出した。
しばらくして、三人の青年がこちらへ向かってくる。
最初に歩いてきたのは、二十代半ばほどの長身の男だった。淡い金髪を短く整え、深い紺色の瞳は細く切れ上がっている。端正ではあるものの笑顔は少なく、いかにも規律を重んじる騎士という印象だった。
「第一部隊隊長、アルベルト・クロイツです」
その隣には、対照的な青年が立つ。
短い茶髪。大きな黒い瞳。口元にはすでに人懐っこい笑みが浮かんでいる。
「副隊長のマルセル・デュランです。よろしくお願いします」
最後の一人は、さらに若かった。
黒髪をすっきりと短く整え、瞳は薄い灰色。華奢に見えるほど無駄のない身体つきで、三人の中では最も静かだった。
「副隊長代理、ユリウス・フェルナーです」
低く落ち着いた声。
二十歳前後だろうか。
少年と青年の境目のような顔立ちなのに、立ち姿には妙な隙がない。
(この三人の中に)
アデルはちらりとメリルを見る。
王室騎士団の人。
メリルが「追いついてくるのを待っている」と言った相手。
けれど当の本人は、三人を平等に眺めているだけである。
分からない。
「では、まず普段どこで最も汗をかかれますか?」
仕事に戻る。
アルベルトは真面目に答えた。
「首、背中、脇でしょうか。鎧の下はどうしても熱がこもります」
「長時間の警護では?」
「手袋の中もかなり」
マルセルが自分の革手袋を持ち上げる。
「あと、靴ですね」
「装具そのものにも臭いが残りますか?」
「残ります。毎日手入れはしますが、真夏は追いつきません」
「虫は?」
「多いです」
ユリウスが初めて口を開いた。
「城外警護では特に。夕刻以降は蚊や小さな羽虫が増えます」
「なるほど」
アデルは手帳へ書き込んだ。
「では、一種類ではなく分けましょう」
「分ける?」
「肌へ使うものと、装具へ使うものです。肌用は刺激を抑えます。清涼感を出すためにペパーミントを少量、そこへ香りを整えるものを加えます。装具用にはレモングラスやユーカリを使い、虫除けの効果も持たせましょう」
「消臭だけではないのですね」
「せっかく毎日お使いになるなら、一つの役割だけより便利でしょう」
マルセルの黒い瞳が輝いた。
「助かります」
「ただし」
「はい?」
「香りで汗そのものを覆うつもりはございません」
アデルはきっぱり言った。
「汗の上から強い香りを重ねても、混ざるだけです。洗浄した後に使うもの。装具も、汚れを落とした後に用いるものとして作ります」
「承知しました」
「では、この方向で。近いうちに試作品を持ってまいります」
アルベルトが頭を下げる。
「よろしくお願いいたします」
「これで結婚できる」
横でマルセルが呟いた。
アデルは思わず振り返った。
「婚約者がいらっしゃるのですか?」
「いません」
「では何のご心配を?」
「未来です」
真顔だった。
周囲から笑いが起こる。
「未来のためにも、使用量は守ってくださいませ」
「はい」
聞き取りは滞りなく終わった。
*
数日後。
アデルは完成した二種類の試作品を持って、再び第一部隊を訪れた。
肌用は、ペパーミントの清涼感を残しながら刺激を抑えたもの。香りが強く残りすぎないよう調整し、汗を洗い流した後に少量使う。
装具用はレモングラスとユーカリを少し強め、革や布に残る不快な臭いを抑えながら、虫除けにも使えるようにした。
「おお」
最初に試したマルセルが、腕を嗅いで目を丸くした。
「涼しい」
「つけすぎないでくださいね」
「もう一度」
「駄目です」
「まだ一回ですよ」
「一回で十分です」
「厳しい」
前回とほとんど同じやり取りになった。
隊長のアルベルトは首筋へごく少量を使い、しばらく待ってから頷く。
「香りが残りすぎませんね」
「警護中に王族の方の香りと混ざってはいけませんので」
「ありがたいです」
試作品は概ね好評だった。
何人かが笑いながら交換し、装具用を手袋や外套へ試している。
その中でユリウスも小瓶を受け取った。
少し離れたところにいたメリルは何も言わない。
ただ、その姿を一瞬だけ見てから視線を逸らした。
アデルは気づいた。
(ユリウス様なのね)
ようやく分かった。
メリルは、彼にだけ話しかけない。
見ないようにしている。
けれど、他の誰より見ている。
使用試験が終わり、騎士たちが持ち場へ戻り始める。
「アデル、今日はもう帰る?」
「はい。記録をまとめます」
「そう」
メリルが頷き、それからふと顔を上げた。
「ユリウス」
「はい、殿下」
黒髪の青年がすぐに姿勢を正す。
「私室までの警護をお願い」
一瞬だけ。
第一部隊の空気が妙に静かになった。
「かしこまりました」
ユリウス本人の表情は変わらない。
けれど、マルセルは何かを察したように素早く横を向き、アルベルトは急に書類の確認を始めた。近くにいた騎士たちも誰一人として余計なことを言わない。
(……皆様、ご存じなのね)
知らなかったのは、おそらくアデルくらいだった。
「では、アデル。また明日」
「はい。お気をつけて」
メリルが先に歩き出す。
その数歩後ろを、ユリウスが静かについていった。
*
王族居住区へ続く回廊には、夕方の光が差し込んでいた。白い石壁が淡い金色に染まり、開け放たれた窓からは、春の終わりを告げる濃い若葉の香りが流れ込んでいる。
メリルは前を歩いていた。
ユリウスは数歩後ろ。
少し右へずれた位置。
王女と護衛騎士として、正しい距離だった。
横には並ばない。
二人しかいない回廊でも、ユリウスはその位置を崩さない。
昔からそうだった。
王女として扱う。
敬語を崩さない。
近づきすぎない。
それが彼の誠実さだと分かっている。
だからこそ、もどかしい。
「ユリウス」
「はい」
すぐ後ろから返事が返る。
メリルは足を止め、振り返った。
灰色の瞳が静かにこちらを見る。
「あなたは、そのままでいいわ」
「……なんのことでしょう」
「使用試験」
ユリウスがわずかに瞬きをした。
「ですが、試験では?」
「そうよ」
「でしたら、私も使用しなければ正確な報告ができません」
「分かってる」
メリルはまた前を向いた。
数歩歩く。
言わなければよかったかもしれない。
けれど、言い始めておいて引っ込める方が嫌だった。
「汗って、頑張った香りでしょう」
後ろの足音が、ほんの少しだけ乱れた。
「剣を振って、走って、誰かを守るために汗をかくのでしょう?」
「……はい」
「だったら」
メリルはもう一度振り返った。
西日を受けた亜麻色の髪が淡く透ける。普段は迷いなく人を射抜く灰青色の瞳が、今だけ少し落ち着かない。
「あなたのなら、そのままでいい」
ユリウスの足が止まった。
いつも表情の薄い青年の灰色の瞳が、わずかに見開かれる。
「……殿下」
「何?」
「そのようなことを、護衛中に仰られるのは」
「駄目?」
「……困ります」
「嫌なの?」
「そういう意味ではありません」
返事だけは早かった。
メリルの口元が少し緩む。
「ならいいわ」
「よくありません」
「何が?」
「こちらにも、心の準備というものがあります」
今度はメリルが瞬きをした。
そして、笑った。
「あなた、そういうこと言えるのね」
「私を何だと思っていらっしゃるのですか」
「無口な騎士」
「間違ってはいません」
表情はほとんど変わらない。
けれど耳が赤い。
それを見つけただけで、妙に嬉しかった。
「行きましょう」
「……はい」
二人はまた歩き出す。
最後まで横には並ばなかった。
王女と騎士。
今はまだ、その距離のまま。
それでも私室へ着くまでの道は、いつもより少しだけ短く感じられた。
*
その夜。
「第一部隊での使用試験は、概ね問題ございませんでした」
アデルはリュシアンの私室で、膝の上に置いていた記録帳を閉じた。
夕食はとうに終わっている。
二人とも公務用の服から室内着へ着替え、今日は長椅子へ並んで座っていた。
リュシアンは白いシャツの首元を緩め、長い脚を楽な姿勢で伸ばしている。朝の執務室では隙なく整えられていた黒髪も、今は何本か額へ落ちていた。灰青色の瞳からも王太子としての緊張は消え、完全にいつものリュシアンへ戻っている。
「肌用と装具用は分けたまま進めます。装具用はもう少し虫除けを強めても問題なさそうです」
「分かった。そのまま進めてくれ」
「はい」
仕事の話は終わり。
アデルが帳面を卓上へ置いたところで、今日のもう一つの出来事を思い出した。
「そういえば」
「ん?」
「メリル殿下のお待ちになっている方が分かりました」
リュシアンの顔が変わった。
「……誰?」
アデルは少し笑った。
王太子から、兄へ戻るのが早い。
「第一部隊の副隊長代理、ユリウス様です」
「副隊長代理?」
「はい」
「何歳?」
「存じません」
「家は?」
「存じません」
「騎士団に入って何年だ」
「存じません」
リュシアンの形のいい眉が寄る。
「何なら知ってるんだ」
「メリル殿下が、ユリウス様の汗の匂いをお好きだということなら」
「待て」
「はい?」
「何を聞いてきた?」
「メリル殿下がお話しになったことです」
「俺が知りたいのはそこじゃない」
「ですが、重要なのでは?」
「どこがだ」
アデルは少し考えた。
「私は分かりますけれど」
「何が?」
「香水をつけていない、好きな方そのものの香りがよいと思うことです」
言ってから。
リュシアンが黙った。
灰青色の瞳がゆっくりこちらへ向く。
「それ、俺?」
アデルは一瞬きょとんとした。
それから、ふっと笑う。
「ふふ、やっぱりご兄妹ですね」
「どういう意味だ」
「メリル殿下もリュシアン様も、好きな方の自然な香りがお好きなのですね」
「いや」
リュシアンは妙に真面目な顔で首を振った。
「俺の方が重いと思う」
「何を競っていらっしゃるのですか」
「アデルの香りに埋もれて寝たいと何度思ったことか」
「……」
アデルの笑顔が止まった。
リュシアンも止まった。
数秒。
「初耳です」
「……言ってなかった?」
「一度も」
「そうか」
「そのような穏やかな顔で済ませないでください」
「でも、もう言ったからな」
「開き直りましたね」
灰青色の瞳が少しだけ笑う。
どうやら、墓穴を掘ったこと自体はもう気にしないことにしたらしい。
*
寝支度を終え、二人で寝室へ入った頃には、夜も随分深くなっていた。
灯りを落とせば、薄い月明かりだけが帳越しに差し込む。
アデルは長い銀髪をほどき、寝台へ入った。白い寝具の上へ流れた髪は、月の光を受けると淡い青にも紫にも見える。
その隣へリュシアンが横になる。
アデルの髪が彼の腕へかかった。
「……本当に埋もれていますね」
「いいだろ」
「先ほどの発言を実践なさっているのですか?」
「そうとも言う」
「そうですか」
もう追及する気はなかった。
リュシアンは満足そうに銀髪の一房を指先へ絡め、しばらく眺めていた。
やがて、何かを思い出したように口を開く。
「そういえば」
「はい?」
「ライレイから、しつこく何ページまで進んだか聞かれるんだ」
アデルはすぐに何の話か理解した。
「教本ですか?」
「ああ。鷹で手紙を寄越すたびに聞いてくる」
「ライレイ殿下は全ページ実施されたと」
リュシアンの指が止まった。
「……なんで知っている?」
「リンレイ殿下から聞きました」
「…………」
返事がない。
「どうなさいました?」
「いや」
暗がりでも、何とも言えない顔をしているのが分かった。
少しの沈黙。
そして。
「……俺も読んでおく」
アデルが瞬きをした。
「結局、読まれるのですか?」
「しつこいからだ」
「ライレイ殿下が?」
「ああ」
もっともらしく答える。
違う。
本当は、全頁試したと言われて、男として妙に負けた気がしたからだ。
もちろん、そんなことをアデルへ言うつもりはない。
「そうですか」
幸い、アデルは疑っていないらしい。
「では、明日お渡ししますね」
「……ああ」
「最初からお読みくださいませ」
「分かってる」
「途中を飛ばしてはいけませんよ」
「なんでお前が教官みたいになるんだ」
「私は先に読んでおりますので」
「それはそうだけど」
アデルがくすりと笑う。
リュシアンは少しだけ眉を寄せたものの、結局それ以上言い返さなかった。
銀髪へ顔を寄せれば、香水ではない、もうすっかり覚えてしまったアデル自身の匂いがする。
今日も、嫌ではない。
むしろ。
「リュシアン様」
「ん?」
「明日は王太子妃教育がありますので、もう寝ます」
「分かった」
「教本は明日の夜に」
「ああ」
「感想も伺います」
「それは要らないだろ」
「私には感想をお聞きになったではありませんか」
「…………」
「楽しみにしております」
アデルは満足そうに目を閉じた。
その隣でリュシアンだけが、まだ見ぬ教本の厚みと、ライレイが本当に全頁試したという事実を少しだけ気にしていた。




