第三十話 知りすぎる香り
翌朝、朝食を終えたリュシアンの前に、アデルは一冊の本を差し出した。
「リュシアン様。こちらです」
「……これか」
「はい。昨日のお約束の」
受け取った瞬間、思っていた以上の重さが手にかかった。濃い藍色の革表紙には金の箔押しでシャンの文字が刻まれ、背表紙もかなり厚い。片手で気軽に読むというより、机へ置いて腰を据えて読む類の本である。
リュシアンは表紙とアデルを交互に見た。
「随分厚いな」
「詳しく書かれておりますので」
アデルはいつも通りだった。淡い灰青色の仕事着に白い前掛けを重ね、腰近くまである銀髪は低い位置でまとめている。朝の光を受けた瞳は新緑に見え、その顔には照れも動揺もない。
「内容はとてもよくまとまっておりますよ」
「……そう」
「王侯貴族向けですので、世継ぎや体調管理についても詳しくございました」
「そう」
「それから」
「まだある?」
「私が気になったところには、細い紙を挟んでおります」
リュシアンの手が止まった。
「……気になったところ?」
「はい」
「どういう意味で?」
「興味深かったところです」
「だから、その興味の種類を聞いている」
アデルが不思議そうに首を傾げる。銀色の前髪が頬へ落ち、彼女は何でもないようにそれを耳へかけた。
「読めばお分かりになるかと」
「今の言い方だけ訂正してから行ってくれない?」
「なぜでしょう」
「何でもない」
「では、王太子妃教育がありますので失礼いたします」
「ああ」
「最初からお読みくださいませ」
「分かってる」
「図だけ先にご覧になるのは駄目ですよ」
「しない」
「では」
軽く頭を下げ、アデルは部屋を出ていった。
扉が閉まる。
静かになった室内で、リュシアンはもう一度、手の中の本を見る。
「……図だけって何だよ」
聞けばよかった。
いや。
聞かなくてよかった気もする。
*
最初の数十頁までは、むしろ感心する内容だった。
婚姻した男女が互いの意思を確かめること。どちらかが体調を崩している時には無理をしないこと。子を望む時期と望まない時期について事前に話し合うこと。王侯貴族の場合、後継ぎという問題が本人たちだけでなく国全体へ影響するからこそ、夫婦の間で認識を合わせる必要があること。
「……普通に勉強になるな」
リュシアンは執務室の長椅子へ座り、頁をめくった。
正直なところ、ライレイが寄越した本という時点で、もっとふざけたものを想像していた。
だが内容は驚くほど真面目だった。
男女の身体差。
相手へ触れる際の配慮。
感覚の個人差。
特にそこは、リュシアン自身にも関係する。
彼は昔から、匂いだけではなく五感全体が人より鋭い。布が肌へ擦れる感触も、指先へ触れる温度も、吐息が近づく気配も、人より鮮明に拾ってしまう。
「なるほど……」
思わず頷いた。
次の頁をめくる。
「…………」
図があった。
しばらく見る。
頁を戻した。
もう一度めくる。
やはりあった。
「……なるほど」
先ほどとは、意味が違った。
さらに頁をめくる。
「…………」
また図。
説明文もかなり具体的だった。
リュシアンは静かに本を閉じた。
机へ置く。
茶を一口飲む。
窓の外を見る。
数十秒後。
再び開いた。
「勉強だからな」
誰も聞いていないのに言った。
その日の読書は、そこで終わった。
*
二日目。
続きを読んだ。
さらに詳しくなった。
三日目。
まだ続いた。
四日目。
「……こんなに種類がある必要ある?」
思わず本へ聞いた。
当然、答えはない。
しかも困るのは、文字を追えば追うほど、頭の中に具体的な相手が浮かんでくることである。
銀髪。
白い肌。
光によって新緑にも赤紫にも変わる瞳。
自分を見る時だけ少し柔らかくなる表情。
「…………」
リュシアンは頁を閉じた。
これはよくない。
少なくとも一人で考えるにはよくない。
そう判断した彼は、机の端に置かれていた小さな便箋を取った。
シャンとの伝書鷹の路線が開通して以来、ライレイとは以前より遥かに気軽に手紙を交わせるようになっている。
しばらく考え、筆を取る。
『一応、聞いておいてやる』
書き出したところで、自分でも少し偉そうだと思った。
だが直さない。
『あの教本の中で、令嬢から反応がよかった頁はどこだ』
少し止まる。
『別に困っているわけではない。参考までに聞くだけだ』
完璧だ。
相談ではない。
情報収集である。
リュシアンは満足して紙を折った。
*
シャン王宮。
「ぶっ……」
届いた手紙を開いた瞬間、ライレイは噴き出した。
「ははっ、何これ!」
執務机へ片肘をつき、赤褐色の髪を揺らしながら声を上げて笑う。手紙を持つ指先まで震えている。
「一応、聞いておいてやる?」
もう一度読む。
「参考までに?」
金色の瞳に涙まで浮かんだ。
「リュシー、可愛いなあ」
本人が聞けば確実に怒る。
ライレイは笑いを堪えながら、新しい紙を引き寄せた。
『やっとそこまで来た?』
まず、それを書く。
『令嬢から反応がよかったのは、確か二十七頁と四十一頁あたりかな』
少し考える。
『六十三頁も評判がよかった気がする』
さらに考える。
『七十二頁もおすすめ』
そこで筆を止めた。
自分で書いた数字を眺める。
肩がまた震えた。
『ま、適当なんだけどね』
『とりあえず全頁制覇を目指してたから、どれがどれだったか覚えてないよ』
最後に一行付け足す。
『頑張ってね、リュシー』
「よし」
非常に満足した。
ライレイは手紙を鷹の筒へ収め、窓辺へ向かった。
大きな翼が広がる。
「ちゃんと届けてね」
鷹は空へ飛び立った。
*
二日後。
「……殺す」
返事を読んだリュシアンは、低く呟いた。
もちろん実行するつもりはない。
だが次に会ったら、一度くらい殴っても許されると思う。
何が二十七頁だ。
何が七十二頁だ。
全部適当ではないか。
結局。
「最初から読む」
妙な意地が出た。
人に聞いたのが間違いだった。
こうなったら自力で読む。
律儀にも最初の頁へ戻り、前に読んだ部分まで改めて確認しながら進めた。
そして数日後。
最後の頁を読み終えた。
リュシアンは本を閉じた。
無言でしばらく表紙を見た。
「…………」
便箋を取った。
『あれを全ページ、一晩で、一人の令嬢相手に試したって、お前は獣なのか?』
余計な挨拶は書かなかった。
鷹を飛ばす。
返事は翌日に来た。
『やっと読んだの? 遅いよ』
『あと失礼だなぁ。ちゃんと加減したよ』
リュシアンは額を押さえた。
問題はそこではない。
そしてもう一つ。
もっと大きな問題がある。
「……アデルは、なんで平気なんだ」
あれを全部読んだのだ。
自分より先に。
しかも読み終えた後も普通だった。
普通に食事をし。
普通に隣へ座り。
普通に一緒に眠った。
それどころか、以前は教本の内容を参考にしたと言って、自分から口付けまで深めてきた。
「…………」
今になって思う。
すごくないか。
何が、とは言いたくない。
だが、すごい。
リュシアンはもう一度、頭を抱えた。
*
その日の夕食。
「本日は王妃殿下から、領地経営について教えていただきました」
「ああ」
「春香祭の影響で、白檀を扱いたいという工房がさらに増えているそうです」
「ああ」
「リンレイ殿下も、輸送量について商務官の方々と――」
「ああ」
「リュシアン様」
「何?」
顔を上げる。
食卓の向こうで、アデルが不思議そうにこちらを見ていた。
夕食時なので銀髪は仕事中より少し緩くまとめられ、耳元には小さな灰青色の宝石が揺れている。光を受けた瞳は今日は緑が強い。
「先ほどから、お肉をほとんど召し上がっておりません」
「食べてる」
「同じところをずっと切っていらっしゃいます」
見る。
確かに。
肉が細かくなっているだけだった。
「……考え事」
「公務ですか?」
「違う」
「では?」
「何でもない」
アデルの眉が少し下がる。
心配している顔だ。
「体調がお悪いのでしたら、早めにお休みになった方が」
「大丈夫」
「本当に?」
「ああ」
リュシアンは肉を口へ運んだ。
味があまり分からない。
向かいのアデルはしばらくこちらを見ていたが、やがて納得しきれないまま食事へ戻った。
問題は。
夜だった。
*
初夏が近づき、夜になっても冷え込まなくなってきた。
いつものようにリュシアンの私室へやってきたアデルも、寝支度を終えた後はすっかり夏向けの装いになっていた。
薄い白銀色の寝間着。
冬に着ていたものより布地が軽く、袖も短い。首元も広く開いているため、細い鎖骨から白い胸元までが普段よりよく見えた。
長い銀髪も完全に下ろされ、背中から腰へ柔らかく流れている。
普段なら。
ただ、綺麗だと思う。
今夜は。
「…………」
教本が悪い。
全部あの本が悪い。
「リュシアン様?」
「何?」
アデルが長椅子へ座る。
いつもの距離。
なのに近い。
リュシアンは無意識に少しだけ姿勢を正した。
アデルが隣を見る。
「何かお悩みごとでも?」
「ない」
「ございますね」
「ない」
「夕食の時から様子がおかしいです」
アデルが少し身体を寄せた。
ふわりと銀髪が揺れる。
石鹸と、アデル自身の柔らかな匂い。
首元が近い。
「公務でしょうか」
「違う」
「体調?」
「違う」
「では?」
「……」
「リュシアン様」
新緑の瞳がまっすぐ覗き込んでくる。
逃げられない。
「……教本」
「ああ」
途端にアデルの顔が明るくなった。
「読まれたのですね」
「読んだ」
「全部ですか?」
「全部」
「まあ」
嬉しそうだった。
なぜ嬉しそうなのか。
「どうでした?」
「どうって……」
「興味深い内容も多かったでしょう?」
「まあ」
「実践できそうと思うものはありましたか?」
「へっ?」
聞いたことのない声が出た。
アデルが目を瞬いた。
「実践です」
「聞こえてる」
「では?」
「そんな普通に聞くな」
「なぜでしょう」
本気で分かっていない。
リュシアンは額を押さえた。
一方のアデルは、もう完全に何かを検討する顔になっていた。調香室で新しい香料の配合を考える時と同じである。
「私はございました」
「……何が?」
「実践してみたいものです」
「いくつ?」
「三つほど」
「三つ」
「はい」
嫌な予感がした。
だが聞いてしまった。
「何?」
アデルは少し考える。
「まず、口付けの深め方について。以前一度試しましたが、教本では呼吸の取り方についても記述がありましたので、もう少し比較できるかと」
「比較」
「はい。それから、口付けの痕がどの程度残るのか」
リュシアンの顔が固まる。
「……痕?」
「はい」
アデルは平然としている。
「そして」
一度言葉を切った。
「特に、大きさの確認ですね」
「…………」
リュシアンは完全に黙った。
アデルは少し首を傾げる。
「優先順位としては、こちらが一番です」
「優先順位までつけてるの?」
「研究するなら当然では?」
「研究じゃない」
「未知のものを事前に確認するという点では、かなり近いと思います」
「全然違う」
「そうでしょうか」
「そう」
断言した。
アデルは納得していない顔だった。
強い。
この女は強い。
「リュシアン様には、ございました?」
「……何が」
「試してみたいものです」
逃げ道がない。
リュシアンは一度、深く息を吐いた。
「……一つ」
「どちらです?」
「俺が選ぶ」
せめてそこくらいは主導権を取りたい。
「はい」
アデルは素直に頷いた。
リュシアンは身体を向ける。
目の前にアデルがいる。
白い肌。
細い首。
薄い寝間着の襟元から見える鎖骨。
教本の頁が、非常に余計な精度で頭の中へ浮かんだ。
(落ち着け)
肩へ手を置く。
アデルは逃げなかった。
むしろ。
じっと見ている。
「……そんなに見ないで」
「観察しております」
「やめて」
「必要かと」
「必要ない」
灰青色の瞳を細め、リュシアンは顔を寄せた。
まず首筋へ軽く唇を触れる。
アデルの肩がわずかに揺れた。
それだけで、自分の鼓動まで速くなる。
もう少し下。
鎖骨のすぐ下、普段なら衣服で隠れる位置へ口付ける。
一度。
少しだけ強く。
柔らかな肌へ熱が移る。
「……」
離れる。
白い肌に、小さな赤い跡が残っていた。
アデルが視線を下げる。
「なるほど」
「なるほどって言うな」
「本当に残るのですね」
「教本に書いてあっただろ」
「実際に見るのとは違います」
「…………」
リュシアンの方が明らかに顔が赤い。
もう無理だった。
「今日はここまでで」
「もうですか?」
「ここまで」
「そうですか」
少し残念そうに見える。
「なんで残念そうなの?」
「私も試したいことがあったのですが」
リュシアンの身体が固まった。
聞きたくない。
本当に聞きたくない。
でも。
「……一応、聞くけど」
「はい」
「何?」
アデルが少しだけ目を逸らした。
ここにきて、ようやく頬へうっすらと赤みが差す。
「その」
「うん」
「大きさの確認を」
「…………」
知っていた。
さっき聞いた。
なのに改めて言われると破壊力が違う。
「聞きたくないけど、何の?」
アデルの視線が戻ってくる。
「リュシアン様の、です」
「何で?」
「覚悟、でしょうか?」
「覚悟」
「個人差がかなりあると書かれておりましたので」
「その説明はいらない」
「事前に把握しておいた方が、心構えができるかと」
「アデル」
「はい」
「今日は本当にここまで」
「そうですか」
「そう」
即答した。
アデルは少し考えたあと、素直に頷いた。
「分かりました」
それから胸元へ残った小さな赤い跡を、もう一度眺める。
「こちらは興味深かったです」
「感想を言うな」
「教本通りでした」
「もう寝よう」
「はい」
リュシアンは逃げるように寝台へ向かった。
アデルも当然のようについてくる。
長い銀髪を広げて隣へ横になり、掛布を胸元まで引き上げた。
「リュシアン様」
「何」
「次回は」
「次回の話を今するな」
「まだ何も申し上げておりません」
「大きさだろ」
「はい」
「寝る」
アデルがくすりと笑った。
「おやすみなさいませ」
「……おやすみ」
ほどなくして、隣から規則正しい寝息が聞こえ始めた。
リュシアンだけが眠れない。
月明かりの中、隣を向く。
白い寝具に広がる銀髪。
眠るアデルの穏やかな横顔。
そして寝間着の襟元から、先ほど自分が残した小さな赤い跡がわずかに覗いている。
「…………」
教本へ目を向けた。
もう一度読んだ方がいいだろうか。
いや。
全部読んだ。
最初から最後まで。
それでも全く心の準備ができていない。
「……ライレイに聞くんじゃなかった」
小さく呟く。
隣でアデルが寝返りを打ち、無意識にこちらへ少し近づいた。
リュシアンはしばらく黙ったあと、その銀髪をそっと肩へ掛け直した。
今夜は。
本当に、ここまででいい。




