第三十一話 ふたりで選ぶ香り
春香祭が終わり、王都を覆っていた浮き立つような香りも少しずつ落ち着き始めた頃、王宮では別の準備が本格的に動き出していた。
アデルとリュシアンの婚礼である。
「……こんなにあるのですか?」
王妃の私室で渡された書類の束を前に、アデルは思わず聞き返した。
「これでも、あなたが見る必要のないものは省いていますよ」
向かいに座る王妃は、亜麻色の髪を品よく結い上げ、いつもの朗らかな笑みを浮かべている。その隣では、リュシアンがすでに一冊目の予定表へ目を通していた。
黒髪は公務らしく整えられ、濃紺の執務着にも乱れがない。切れ長の灰青色の瞳が紙面を追う姿は完全に王太子のものなのに、アデルの方へ一瞬だけ視線を向けた時、口元がわずかに笑った。
「だから言っただろ。結婚は面倒だって」
「初めて聞きました」
「思ってた」
「言ってはいませんね」
「今言った」
「そうですね」
「あなたたち」
王妃が呆れたように笑う。
「話を聞きなさい」
「はい」
二人揃って返事をした。
卓上に並べられた予定表には、婚礼までに決めなければならない項目が細かな文字で記されている。
招待客。
祝賀行列。
婚礼衣装。
宝飾品。
料理。
式を執り行う礼拝堂の装飾。
祝宴の席次。
王太子妃として新たに用いる紋章。
婚礼後の公務日程。
さらには二人が暮らす王族居住区の部屋まで。
アデルは途中まで読んだところで、一度紙から顔を上げた。
「婚礼とは、大変なのですね」
「今さら?」
隣からリュシアンが言う。
「結婚すること自体は理解しておりましたが」
「うん」
「これほど多くの人が働くとは」
「王太子の結婚だからな」
「……そうでした」
「忘れてた?」
「少し」
リュシアンが笑った。
アデルにとって結婚とは、どうしても先に「リュシアンと夫婦になる」という個人的な部分が浮かぶ。だが王太子とその妃の婚礼となれば、二人だけの話ではない。
王都中が祝う。
国中から貴族が集まる。
外国からも使節が来る。
それに伴って、衣装職人、料理人、庭師、楽師、警備、侍従、侍女、馬車を扱う者まで動く。
自分たちが結婚するだけで、どれほどの人間が働くのだろう。
少し恐ろしくなった。
「全部を一度に決める必要はありません」
王妃が優しく言った。
「今日は、あなたたちで決めなければならないものから」
「私たちで?」
「ええ」
王妃が一枚の紙を取り出した。
「まず、婚礼の香り」
その言葉だけで、アデルの瞳が変わった。
リュシアンが横を見る。
「今、完全に宮廷調香師の顔になったな」
「仕事ですので」
「自分の結婚式なのに」
「それとこれとは別です」
「別なのか」
「別です」
王妃が口元を隠して笑う。
「スピネリア王家の婚礼では、礼拝堂と祝宴会場に共通する香りを一つ定めます。王家の記録にも残りますし、後年、同じ調香を再現することもあります」
「では、私が調香を?」
「当代の宮廷調香師ですもの」
当然のように返され、アデルは少し考えた。
仕事としてなら難しくない。
会場の広さ。
季節。
参列者の人数。
花との相性。
リュシアンの嗅覚への負担。
それらを考慮して、香りを組めばいい。
「テーマはございますか?」
「あなたたち」
「はい?」
「あなたとリュシアンを表す香りです」
「……」
アデルの手が止まった。
「難しくなりましたね」
「急に?」
リュシアンが笑う。
「はい」
「俺たちの香りだろ?」
「だから難しいのです」
仕事なら、目的がある。
誰のための香りか。
どのような場面で使うか。
何を印象づけたいのか。
それらを聞き取って答えを出す。
だが、自分たちを表す香りとは何だろう。
「薔薇では普通すぎますね」
「うん」
「白檀ではシャンとの交易の印象が強すぎます」
「そうだな」
「ヘリオトロープは……」
そこまで言って、アデルは口を閉じた。
リュシアンの表情も少しだけ変わる。
母の香り。
安心の記憶。
それは大切だ。
けれど、自分たちの婚礼に使うものではない。
「他に?」
「少し考えさせてください」
「珍しいな」
「何がでしょう」
「香りで即答しないアデル」
「私にも迷うことくらいあります」
「知ってる」
灰青色の瞳が柔らかく細くなる。
アデルはなぜか少しだけ居心地が悪くなり、もう一度予定表へ目を落とした。
「次は?」
「衣装です」
王妃が告げた。
*
衣装合わせは、その日の午後に行われた。
王室付きの仕立屋が何人も出入りし、広い衣装室には布地が所狭しと並べられている。白、銀、青、薄紫。絹、ビロード、繊細な刺繍布。金糸や銀糸の見本まで並び、アデルは途中から何が違うのか分からなくなってきた。
「こちらはいかがでしょう」
仕立屋が銀白色の布をアデルの肩へ当てる。
長い銀髪と白い肌によく馴染む。
「綺麗ですね」
アデルが答えると、少し離れたところで見ていたリュシアンが首を振った。
「白すぎる」
「では、こちらの青を重ねて」
「それはいい」
「リュシアン様」
「何?」
「私より真剣では?」
「婚礼衣装だぞ」
「私のです」
「だからだろ」
当然のように返される。
今日はリュシアンも衣装合わせを兼ねているため、普段の濃紺とは違い、何種類もの上着を試していた。黒髪と灰青色の瞳には深い青がよく映える。王家の象徴色でもあり、やはり一番自然だった。
「では、花嫁様のドレスは銀白を基調に、王家の深い青を刺繍と宝飾へ入れましょう」
「はい」
「殿下の方には、妃殿下のお瞳に合わせて、ごく僅かに緑を」
「緑?」
リュシアンが自分の袖を見る。
「アデルの目?」
「左様でございます」
リュシアンがすぐに頷いた。
「入れてくれ」
「即決ですね」
「いいだろ」
「嫌とは申しておりません」
むしろ。
自分の色が彼の衣装に入ることが、少し嬉しい。
そのことは黙っておいた。
「それから、婚礼翌朝のお披露目用のお召し物と」
仕立屋が帳面をめくる。
「初夜用のお召し物も採寸させていただきます」
「はい」
アデルは普通に頷いた。
横でリュシアンが止まった。
「……何用?」
「初夜でございます」
「聞こえた」
「では?」
「いや」
アデルが不思議そうに見る。
「寝間着でしょう?」
「そうだけど」
「では問題ございませんね」
「アデル」
「はい?」
「お前、前の教本の時と同じ顔してる」
「何のことでしょう」
「研究資料を見る顔」
「寝間着の採寸ですよ?」
「そうなんだけど」
仕立屋たちは完全に聞こえないふりをしている。
「こちらは胸元を少し――」
「普通ので」
リュシアンが遮った。
「殿下?」
「普通のでいい」
「ですが王家の慣例といたしまして、婚礼初夜はやや華やかなものを」
「華やかさは要らない」
「リュシアン様?」
「アデルは黙ってて」
「なぜです?」
「頼むから」
珍しく真剣な顔だった。
アデルは一度首を傾げたが、それ以上追及するのはやめた。
仕立屋は少し困ったように微笑む。
「では、品位は保ちつつ、控えめにいたしましょう」
「それで」
「私は構いませんけれど」
「アデル」
「はい」
「本当に黙ってて」
耳が赤い。
それを見て、ようやく少し面白くなってきた。
「ふふ」
「笑うな」
「笑っておりません」
「笑ってる」
*
衣装の次は、部屋だった。
婚礼後、二人が暮らす区画の図面が、リュシアンの私室の大きな卓上へ広げられている。
「現在の私室は残ります」
王室の住居管理を任されている侍従が説明した。
「アデル様の私室もそのまま。婚礼後は中央の居間を夫婦共用とし、こちらの寝室を主寝室として整える予定です」
アデルは図面へ顔を近づけた。
「調香室までの距離はこちらの廊下の方が近いですね」
「アデル」
「はい?」
「最初に見るところがそこ?」
「毎日通いますので」
「まあいいけど」
「こちらからでしたら、朝食後そのまま――」
「寝室は一つでいい」
「……」
アデルが顔を上げる。
「今は動線の話をしております」
「寝室は一つでいい」
「聞こえております」
「念のため」
「私室を残すと今ご説明いただいたばかりです」
「私室はいい。寝室は一つ」
「リュシアン様」
「何?」
「何をそんなに警戒なさっているのですか」
「婚礼後に『明日は早いので自室で寝ます』とか言いそうだから」
「必要なら申し上げます」
「ほら」
「仕事に支障が出る場合は仕方がないでしょう」
「じゃあ俺がそっちに行く」
「解決していません」
「一緒に寝られる」
「そこが問題なのでは?」
「俺には問題じゃない」
侍従が遠い目をしている。
アデルは軽く咳払いした。
「……ひとまず、主寝室はこのままでお願いします」
「かしこまりました」
「アデル」
「何でしょう」
「今、勝手に終わらせたな」
「公務中です」
「ずるい」
「王太子殿下、公務へお戻りください」
その呼び方をすると、リュシアンは不満そうにしながらも黙った。
*
夜。
いつもの調香室に戻ったアデルは、一人で香料瓶を並べていた。
婚礼の香り。
考えれば考えるほど決まらない。
春から初夏へ向かう季節なら、花は多い。
薔薇。
橙花。
菫。
アイリス。
どれも美しい。
だが、どれも何かが違う。
「……違うわね」
試香紙を置く。
次。
また違う。
いつもなら、目的を定めれば香りは自然と絞れていく。
今日は反対だった。
自分たちとは何かを考えるたび、候補が増える。
初めて会った時のヘリオトロープ。
リュシアンが好む、自分自身の匂い。
シャンで覚えた白檀。
春香祭で広がった若葉。
温室で育てている花。
どれも二人の記憶ではある。
けれど一つを選べと言われると、決められない。
「まだやってるのか?」
背後から声がした。
振り返る。
リュシアンが扉のところに立っていた。執務を終えたらしく、濃紺の上着は脱いで腕へ掛け、白いシャツの首元も少し緩んでいる。整えられていた黒髪は額へ落ち、灰青色の瞳にも一日の疲れが薄く残っていた。
「婚礼の香りを」
「見れば分かる」
「決まりません」
「珍しいな」
「本日二度目です」
「だって珍しいから」
リュシアンが作業台の向かいへ座る。
昔から、いつの間にか彼の席になった椅子だった。
「どれが候補?」
「多すぎます」
「じゃあ全部やめれば?」
「乱暴ですね」
「決まらないんだろ」
「だからといって」
リュシアンは並んだ試香紙を一本だけ取り上げた。
「これは?」
「薔薇です」
「綺麗だけど、アデルっぽくない」
「では、こちら」
「白檀?」
「はい」
「ライレイの顔が浮かぶ」
「私もです」
「却下」
「そこまで言わなくても」
「婚礼であいつを思い出したくない」
非常に私的な理由だった。
アデルは小さく笑い、別の試香紙を差し出す。
「こちらは若葉と橙花を」
リュシアンが鼻へ寄せる。
少し考える。
「悪くない」
「では」
「でも、これが俺たち?」
「……そこなのです」
アデルは肩を落とした。
「私には分からなくなってしまいました」
「何が?」
「私たちらしい香りが」
口にしてみると、情けない気がした。
宮廷調香師なのに。
他人の望む香りなら、いくらでも聞き出せる。
故人が残した香りも再現した。
事件で使われた香料も突き止めた。
国の産業を動かす香りまで選んだ。
なのに。
自分たちの香りが分からない。
「おかしいですよね」
「別に」
「ですが」
「アデル」
リュシアンが試香紙を置いた。
「一人で決めようとしてるからじゃないか?」
アデルが瞬きをした。
「一人で?」
「俺たちの香りなんだろ」
「はい」
「なら、二人で決めればいい」
あまりに当たり前のことを言われた。
それなのに。
「……考えておりませんでした」
「だろうな」
「なぜ分かったのです?」
「今日ずっとそうだったから」
「何がでしょう」
「婚礼のことになると、全部自分で答えを出そうとしてた」
リュシアンは長椅子ではなく、作業台越しにまっすぐアデルを見る。
「衣装も、部屋も、香りも。仕事みたいに」
「……」
「これは仕事じゃないだろ」
灰青色の瞳が少し柔らかくなる。
「俺たちが結婚する準備だ」
アデルは言葉を失った。
そうだった。
宮廷調香師として婚礼香を作ることばかり考えていた。
でもこれは、自分の婚礼でもある。
「リュシアン様は、どのような香りがお好みですか?」
「アデル」
「私ではなく香料です」
「じゃあ、アデルの匂い」
「ですから」
結局これである。
「真面目にお答えください」
「真面目だよ」
「香料として再現できません」
「じゃあ、無理に似せなくていい」
「では?」
リュシアンは少し考えた。
「強い香りじゃなくていい」
「はい」
「あとで同じ香りを嗅いだ時に、今日のことを思い出せるものがいい」
アデルの表情が変わった。
リュシアンは気づかず続ける。
「昔、ヘリオトロープを嗅いだ時みたいに」
母の記憶。
幼い頃の安心。
香りは、過ぎた時間を一瞬で連れ戻す。
アデルはそれを誰よりよく知っている。
「今度は」
リュシアンが言う。
「俺たちの記憶になる香りを作ればいいんじゃないか?」
「……」
「違う?」
「いいえ」
アデルはゆっくり笑った。
「とても、よいと思います」
「じゃあ決まり」
「香り自体はまだ決まっておりません」
「そこはこれから」
「はい」
アデルは新しい試香紙を取り出した。
「では、最初から一緒に考えていただけますか?」
「もちろん」
「好きな香りを教えてください」
「アデル」
「それは禁止です」
「なんで」
「調香が進みません」
「じゃあ」
リュシアンが考える。
「朝の温室の匂い」
アデルの手が止まった。
「温室?」
「ああ。まだ花より土とか葉の匂いが強い時」
「……それは、私も好きです」
「じゃあ一つ」
アデルは記録帳へ書き込む。
湿った土。
若葉。
まだ開ききらない花。
「他には?」
「葡萄酒の樽の木」
「婚礼に?」
「嫌?」
「面白いです」
「なら候補」
書く。
「アデルは?」
「そうですね……」
香料瓶の棚を見る。
考える。
「夜の白い花」
「強くないやつ?」
「はい。近づいた時だけ分かるくらい」
「それ、いいな」
また書く。
一つ。
もう一つ。
今度は、不思議と迷わなかった。
完成形はまだ見えない。
けれど、先ほどまでの焦りもなかった。
向かいにはリュシアンがいる。
自分とは違うものを選ぶ。
時には合わないと言う。
それなら別のものを探せばいい。
そうして、二人が好きだと思えるところまで調整する。
「アデル」
「はい?」
「楽しそう」
言われて、自分の口元が緩んでいることに気づいた。
「楽しいです」
「よかった」
「リュシアン様」
「ん?」
「結婚するというのは、こういうことなのでしょうか」
「何が?」
「一人で決めなくてよいことが、増えること」
リュシアンが少し目を見開いた。
それから、静かに笑った。
「たぶん」
「たぶんですか?」
「俺も初めてだから」
「そうですね」
二人で笑う。
アデルは空の小瓶を一つ、作業台の中央へ置いた。
「では、ここへ入る香りを一緒に探しましょう」
「ああ」
「婚礼の日までに」
「間に合わなかったら?」
「宮廷調香師として、それは許されません」
「そういうところは仕事なんだな」
「当然です」
窓の外では、春の終わりの風が王宮の庭を抜けていた。
若葉。
湿った土。
どこかで咲き始めた白い花。
まだ名前のない香りが、夜気の中で柔らかく混ざっている。
いつか、この季節を思い出す香りになるのかもしれない。
アデルはそう思いながら、リュシアンと並んで最初の一滴を選び始めた。




