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第三十二話 夜にほどける香り

 婚礼の準備が本格的に始まってからというもの、月日は驚くほどの速さで過ぎていった。

 午前中は宮廷調香師として調香室へ入り、婚礼に使う香りの試作を重ねる。午後には王太子妃教育があり、その合間を縫って衣装の仮縫い、宝飾品の選定、招待客の確認、婚礼後に使う部屋の調整まで入ってくる。夕方になればリュシアンと婚礼の香りについて話し合い、夜には翌日の仕事に必要な資料を読む。

 アデル自身、一日ごとに何をしていたかは覚えている。

 けれど、気づけば春の淡い緑はすっかり濃くなり、王宮の庭園には夏の陽射しが落ちるようになっていた。

 石造りの回廊でさえ、昼を過ぎれば壁に熱がこもる。庭師たちは朝早くと夕方に水を撒き、昼間は温室の窓を大きく開けて風を通していた。騎士団へ納めた夏用の香りも正式に配備され、時折すれ違う騎士から薄荷の涼しい匂いがする。

 夏は、いつの間にか盛りを迎えていた。

「……七月十三日」

 その日の朝、予定表を確認していたアデルの指が止まった。

 王太子殿下生誕祝賀。

 太い文字で記されている。

「リュシアン様のお誕生日……」

 口に出した瞬間、妙な緊張が生まれた。

 誕生日。

 春先、自分自身の誕生日を忘れていたことで、アデルはようやく自覚した。

 自分は誕生日というものに、かなり疎い。

 アレクシア侯爵家に愛情がなかったわけではない。父も母も娘を大切にしてくれたし、幼い頃には祝いの菓子や贈り物を受け取った記憶もある。

 ただ、一日をかけて誰かを喜ばせるために何かを考える、という習慣にはあまり馴染みがなかった。

 まして今回は王太子である。

 アデルが何もしなくても、国中が祝う。

 宝石。

 絵画。

 酒。

 武具。

 書物。

 名馬。

 各地の名産品。

 おそらく、考え得るものの大半は誰かが贈るだろう。

「……何を差し上げればよいのかしら」

 宝石はいくらでも持っている。

 衣装も同じだ。

 香水は論外に近い。リュシアンの体質を考えれば、むしろ贈らない方が喜ばれる。

 では何を。

 しばらく予定表を見つめたあと、アデルはふと窓の外へ目を向けた。

 王族居住区の先。

 庭園の奥に、小さな硝子張りの屋根が見える。

 自分の温室。

 リュシアンから、十八歳の誕生日に贈られた場所。

 その中で今、一つだけ、アデルが春から大切に育てている花があった。

「……間に合いそうね」

 アデルは小さく笑った。

*

 七月十三日の朝、王宮は普段より早くから騒がしかった。

 日の出とともに祝砲が上がり、王都の主要な広場には王家の旗が掲げられた。王宮正門前には朝から献上品を積んだ馬車が並び、侍従たちは届いた箱や書状を次々と受け取っていく。

 この日ばかりは、リュシアン・スピネリアという一人の青年の誕生日ではない。

 次代の国王となる王太子の生誕を祝う、国の行事だった。

「殿下、お誕生日おめでとうございます」

「ああ。ありがとう」

 朝から何度同じ言葉を返したか、もう分からない。

 リュシアンは深い紺を基調にした正装を身につけていた。上着には銀糸で王家の紋章が細かく刺繍され、肩から胸元へかけて儀礼用の飾緒が渡されている。艶のある黒髪は一分の乱れもなく整えられ、灰青色の瞳にも王太子としての隙はない。

 黙って玉座の隣へ立っていれば、絵画の中から抜け出してきた王子そのものだった。

 ただし、アデルには分かる。

 少し疲れている。

 笑顔の角度は変わらない。受け答えにも乱れはない。それでも人の列が途切れた瞬間だけ、灰青色の瞳からわずかに力が抜ける。

 当然だろう。

 朝から国王夫妻との礼拝。

 その後は王都の代表者から祝辞を受け、昼には重臣や貴族を招いた会食、夕方からは外国使節まで参加する祝宴が控えている。

 しかも、今日は普段より香りが多い。

 アデルが事前に会場の装花や薫香をかなり抑えたとはいえ、祝いの場に出席する貴族たちが皆無香というわけにはいかない。

「リュシアン様」

「ん?」

 ほんの少し人波が途切れたところで、アデルは隣から小さく声をかけた。

 今日のアデルも普段とは違う。

 婚約者として王太子の隣へ立つため、銀白色のドレスをまとっていた。胸元から腰へかけて王家の深い青が細く入り、光を受けると銀糸の刺繍が水面のように淡く揺れる。腰近くまである銀髪は半分を結い上げ、残りを背へ流していた。

 髪飾りには、リュシアンの瞳に似た灰青色のスピネル。

 婚約指輪と同じ色だった。

「少し、お休みになった方がよいのでは?」

「まだ大丈夫」

「本当に?」

「ああ」

 答えたあと、リュシアンの口元が少しだけ緩んだ。

「アデルが隣にいるから、今年はかなり楽」

「それならよいのですが」

「あと少しだ」

「夜までございますよ」

「……思い出させるな」

 王太子の顔が一瞬だけ崩れた。

 アデルは思わず笑いそうになり、唇を引き結んだ。

 その時だった。

「殿下。シャン国より贈答品が届いております」

 侍従が恭しく告げた。

「シャンから?」

「はい。国王陛下並びに王太子殿下より」

 運び込まれたのは、細長い大箱だった。

 蓋を開くと、何反もの絹が丁寧に巻かれて収められている。深い藍。銀灰。夜の空を思わせる濃紺。どれも触れなくても上質と分かるほど滑らかで、光の角度によって水面のように艶が変わった。

「見事ですね」

 アデルが感嘆すると、リュシアンも絹へ指先を滑らせた。

「ああ」

「シャンでも最高級のものだそうです」

 リンレイが説明する。今日の彼女は使節として、淡い朱に金糸を合わせたシャンの正装をまとっていた。長い赤褐色の髪を高く結い、金色の瞳にも普段より公的な緊張がある。

「父上からは正式な祝辞がございます。それから」

 リンレイが小さな紙を差し出した。

「兄様から、こちらを」

「手紙?」

「はい。私信です」

 リュシアンが封を切る。

 中身は驚くほど短かった。

『直接祝えなくて残念だよ。早く結婚式に招待してくれ。おめでとう、リュシー。』

「……」

 リュシアンが黙った。

 アデルが横から顔を覗く。

「ライレイ殿下ですか?」

「ああ」

「何と?」

「早く結婚式に呼べって」

「まあ」

「その前に一応、誕生日も祝ってる」

 呆れた口調だった。

 けれど。

 灰青色の瞳が、先ほどまでとは違う柔らかさを帯びている。

 リュシアンはもう一度、短い手紙を読み返した。

「嬉しそうですね」

 アデルが言う。

「そう見える?」

「はい」

「……そうか」

 一度、手紙へ目を落とす。

「嬉しいよ」

 今度は否定しなかった。

「かなり」

 国王夫妻から祝われることは、生まれた時から当たり前だった。

 メリルやライオネルからも、毎年のように祝いを受けてきた。

 貴族や臣下が祝辞を述べることにも慣れている。

 けれど。

 国でも、身分でも、利益でもなく。

 遠い異国から、一人の友人として誕生日を覚えていてくれる相手は、これまでほとんどいなかった。

「あとで返事を書く」

「何と?」

「結婚式の日程が決まったら最初に知らせてやる」

「喜ばれますね」

「多分、その日のうちに鷹が飛んでくる」

 想像できた。

 二人は顔を見合わせ、小さく笑った。

*

 祝宴が終わる頃には、夜もかなり深くなっていた。

 王宮の大広間から最後の楽師たちが退き、香りと熱を含んだ空気がようやく静まり始める。

 リュシアンは襟元を少し緩め、長く息を吐いた。

「終わった……」

 今日初めて聞くほど力の抜けた声だった。

「お疲れ様でございました」

「誕生日って、こんなに疲れるものだったか?」

「毎年なさっているでしょう?」

「毎年疲れてる」

「そうでしたか」

「今年はまだまし」

 黒髪も朝ほど完璧ではない。額へ数本落ち、切れ長の灰青色の瞳にも疲労が滲んでいる。

 ようやく王太子ではなく、十九歳の青年へ戻り始めていた。

「リュシアン殿下」

 そこへリンレイが近づいてきた。

 手には細長い包みを持っている。

「まだ何か?」

「はい」

 リンレイは妙に平静だった。

「こちらも兄様からです」

「さっき絹をもらったけど」

「そちらはシャン王家から王太子殿下へお贈りした、公式の品です」

「……これは?」

「公式的なものではなく、兄様からの個人の贈り物とのことです」

 リュシアンの眉が寄った。

「嫌な予感がする」

「そうでしょうか」

「する」

「アデル様用の御衣装だそうです」

「俺の誕生日なのに?」

 アデルも目を瞬いた。

「私に?」

「はい」

「なぜ?」

「兄様ですので」

 説明になっていなかった。

 だが、妙に納得できてしまう。

 リンレイが包みを差し出す。

「開けても?」

「もちろんでございます」

 アデルが紐をほどいた。

 中から現れたのは、薄い絹だった。

「……」

 広げる。

 アデルの手が止まった。

 シャンの衣装であることはすぐに分かる。

 けれど、昼間に着るものではない。

 淡い銀紫色の薄絹を何枚か重ね、肩や背中が大きく開くよう仕立てられている。胸元もスピネリアの一般的な寝間着よりずっと軽く、腰から下へ流れる布も、身体の輪郭を隠すというより柔らかく見せるためのものに近い。

 寝間着と呼べなくはない。

 ただし、かなり扇情的な寝間着だった。

「……」

 リュシアンが無言になる。

 リンレイは平然としている。

 アデルは布を指先で確かめた。

「とても良い絹ですね」

「見るところそこ?」

「肌触りも非常に滑らかです」

「アデル」

「縫製も綺麗です」

「形は?」

「見ております」

「……そう」

 リュシアンはもう一度衣装を見る。

 アデルを見る。

 また衣装へ戻る。

 灰青色の瞳が少しだけ細くなった。

「兄様が、アデル姉様にはこの色が似合うと」

 リンレイが付け加える。

「選んだのもあいつ?」

「はい」

「…………」

 数秒の沈黙。

 そして。

「悪くない仕事だ」

「リュシアン様?」

「あとで手紙を書く」

「お礼ですか?」

「ああ」

 至極真面目な顔で答える。

「今回はちゃんと礼を言う」

 リンレイの金色の瞳が、一度だけ衣装へ落ちた。

 何かを理解したらしい。

「兄様も喜ぶと思います」

「だろうな」

 二人の間だけで何かが通じた。

 アデルは少し眉を寄せる。

「……何のお話ですか?」

「何でもない」

「そうですか?」

「何でもない」

 妙に機嫌がよくなっている。

 怪しい。

 だが追及する前に、リンレイが一礼した。

「では、私は失礼いたします。改めまして、お誕生日おめでとうございます、リュシアン殿下」

「ありがとう。リンレイ殿下」

 赤褐色の髪が遠ざかっていく。

 残された寝間着を見て、アデルはもう一度首を傾げた。

「私への贈り物が、なぜリュシアン様のお誕生日祝いなのでしょう」

「そこは深く考えなくていい」

「そういうものですか?」

「そういうもの」

 絶対に違う。

 けれど今日は彼の誕生日である。

 ひとまず、そういうことにした。

*

「リュシアン様」

「ん?」

 王族居住区へ戻る途中、アデルは足を止めた。

 人の減った回廊には夏の夜気が流れ込み、開け放たれた窓の外からは虫の声が聞こえている。

「少しだけ、お時間をいただけますか?」

 リュシアンが振り返る。

 先ほどまでの疲れを残した灰青色の瞳が、少し不思議そうに細められた。

「まだ何かある?」

「はい」

「どこへ?」

「来てください」

 アデルはそれだけ答え、先を歩いた。

 向かったのは私室ではない。

 庭園。

 昼間には強かった夏の熱も、夜になれば随分和らいでいる。月明かりが植え込みの輪郭を銀色に縁取り、昼間とは違う静けさが庭全体を包んでいた。

「……温室?」

 途中でリュシアンが気づいた。

「はい」

「俺があげたところ?」

「そうです」

 小さな硝子温室は、夜の庭園の奥にひっそりと建っていた。昼間は陽を受けて明るく輝く屋根も、今は月を映して淡い青色に見える。

 アデルが鍵を開ける。

「どうぞ」

 扉を開いた瞬間だった。

 甘い香りが、柔らかく流れ出した。

 リュシアンの足が止まる。

 薔薇ほど濃厚ではない。

 香水のように輪郭が鋭いわけでもない。

 夜気に溶け込むような、白い花の甘さ。少し青さを残しながら、近づけば近づくほど穏やかに存在を知らせる香りだった。

「……これ」

 温室の奥。

 春にはまだ空いていた一角に、細い蔓を伸ばした植物が育っている。

 小さな星形の花。

 色は淡い黄緑を帯びた白で、華やかさだけなら薔薇や百合には到底かなわない。

 けれど、夜の中では不思議なほど存在感があった。

「夜来香です」

「イェライシャン?」

「はい。東方から伝わった花で、夕方から夜にかけて香りが強くなります」

 リュシアンがゆっくり花へ近づく。

 鼻から小さく息を吸った。

「……いい匂いだな」

 その一言に、アデルの肩から少し力が抜けた。

「よかった」

「これを?」

「はい」

「ずっと育ててた?」

 アデルは頷く。

「春からです」

「……俺のために?」

「はい」

 灰青色の瞳がアデルへ向いた。

 今日一日、何度も祝いの言葉を受けた目だった。

 けれど今だけは、王太子でも、未来の国王でもない。

 ただ驚いている。

「何を差し上げるべきか、分からなかったのです」

 アデルは夜来香の葉へ指先を近づけた。

「宝石も、衣装も、お酒も、リュシアン様は私より良いものをたくさんお持ちでしょう?」

「まあ」

「香水は喜ばれませんし」

「それは確実」

「ですので、育てることにしました」

「どうしてこの花?」

「リュシアン様に、合うと思ったからです」

「俺に?」

 アデルは夜来香を見る。

「リュシアン様は、一日中香っているものより、この方がお好きかと思いまして」

「どうして?」

「昼間は、お仕事がありますから」

 今日一日を思い出す。

 王族へ挨拶し、臣下から祝いを受け、笑い、話し、判断し続けていたリュシアン。

「人に会って、考えて、決めて。昼間はずっと王太子殿下でいらっしゃるでしょう?」

「ああ」

「だから」

 アデルは少し笑った。

「夜くらいは、休んでいただきたいのです」

 リュシアンが黙る。

「いつも香っていなくていいと思いました。昼間は静かにしていて、ゆっくり過ごせる時間になったら、少しだけ優しい香りがするくらいで」

 アデルの指先が、花の横へ添えられる。

「何も考えなくてよい時間を思い出せる花になれば、と」

 沈黙が落ちた。

 温室の外では虫が鳴いている。

 開けた窓から夜風が入り、夜来香の細い蔓をわずかに揺らした。

「この温室をいただいて、最初に育てようと決めた花です」

「……ずっと、俺の誕生日のために?」

「はい」

 リュシアンはしばらく何も言わなかった。

 やがて視線を花からアデルへ戻す。

 黒髪は一日の終わりらしく少し崩れ、整いすぎた王太子の顔からもすっかり緊張が抜けていた。

 灰青色の瞳だけが、静かに柔らかい。

「アデル」

「はい」

「この温室、俺がアデルのために作ったんだけど」

「存じております」

「そこで俺への贈り物を育てるの、ずるくない?」

「何がでしょう」

「嬉しい」

 あまりに素直に言われ、アデルは瞬きをした。

 それから頬を少し緩める。

「お誕生日、おめでとうございます。リュシアン様」

「……ありがとう」

 今日、何度も言ったはずの言葉だった。

 けれど、その「ありがとう」はどれとも違って聞こえた。

 二人は温室の奥に置かれた小さな卓へ移った。

 リュシアンが贈った場所だから、ここには最初から二脚の椅子がある。

 アデルは冷やしておいた茶を注いだ。祝宴の豪華な酒でも、王宮一の料理人が作った菓子でもない。薄い茶と、小さな焼き菓子だけ。

 それでもリュシアンは、今日一番くつろいだ顔をしていた。

「誕生日って、昔からあまり好きじゃなかったんだ」

 不意に言う。

「そうなのですか?」

「祝ってもらうのが嫌なわけじゃない。ただ、一日中王太子でいないといけないだろ」

「今日のように?」

「ああ」

 椅子へ深く身体を預け、リュシアンが息を吐く。

「誕生日なのに、むしろ普段より仕事してる気分になる」

「確かに」

「でも」

 灰青色の瞳が夜来香へ向く。

「今年は違った」

「なぜでしょう」

「最後がこれだから」

 アデルは少しだけ笑った。

「では、来年もここでお祝いしましょうか」

「いいの?」

「はい」

「約束」

「分かりました」

 答えてから。

 アデルは一瞬考えた。

「来年は」

「ん?」

「もう、夫婦ですね」

 二人の間に、ごく短い沈黙が落ちた。

 婚礼の準備は毎日のようにしている。

 衣装も選んだ。

 部屋も決めた。

 香りも一緒に作っている。

 分かっていることなのに、来年の誕生日という具体的な未来に置いてみると、不意に現実味を帯びた。

「……そうだな」

 リュシアンが笑う。

「来年は夫婦だ」

「何だか不思議です」

「俺は楽しみ」

「私もです」

 アデルも素直に答えた。

 夜来香がまた、柔らかく香る。

 いつかこの香りを嗅いだ時。

 今日の夜を思い出すのだろうか。

 国中が祝った盛大な宴ではなく。

 夏の夜。

 小さな温室。

 隣に座る人の、少し疲れた笑顔を。

「そろそろ戻りましょうか」

「ああ」

 立ち上がる。

 アデルが温室の灯りを一つずつ落とし、最後に夜来香を振り返った。

「来年も咲かせられるよう、株を増やしておきますね」

「よろしく」

 二人で扉の外へ出る。

 夜風が、祝宴の残り香をすっかり薄めていた。

 リュシアンが温室へ鍵をかけるアデルを見ている。

 銀髪が月明かりを受け、白く淡く光っていた。

「アデル」

「はい?」

 振り返る。

 リュシアンが手を差し出した。

 アデルが自然にその手を取る。

 指を絡めたところで、彼の口元が少しだけ笑った。

「もうひとつお願いがあってね」

「……」

 アデルの足が止まった。

 数時間前。

 リンレイから受け取った薄い絹が、非常に鮮明に頭へ浮かぶ。

 リュシアンの灰青色の瞳が、明らかに楽しそうに細められた。

「その顔、分かった?」

「聞く前から嫌な予感がいたします」

「奇遇だな」

「何がです?」

「俺も今日、同じこと言った」

 夏の夜。

 夜来香の甘い匂いが、二人の背後からもう一度だけ追いかけてきた。


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