第三十三話 一年目の香り
夏の熱がようやく和らぎ始めた頃、スピネリア王宮の庭には、ごく薄く秋の気配が混じり始めていた。昼間の陽射しはまだ強いものの、朝夕に吹く風は少し軽くなり、庭園では盛夏の花に代わって遅咲きの薔薇や香草が目立つようになっている。
その日の午後、アデルは宮廷調香室で一冊の帳面を開いていた。
「……もうすぐ、一年」
何気なく口にしてから、自分で驚いた。
父から宮廷調香師の職を引き継ぎ、この部屋へ初めて入ったのは、去年の夏の終わりだった。
一年前には、ここにあるものすべてが父の物に思えた。
使い込まれた天秤も、壁一面に並んだ香料瓶も、歴代宮廷調香師の記録も。自分の名が刻まれた新しい帳面だけが場違いに新しく、椅子へ座るだけで背筋が伸びたものだった。
今では、必要な香料がどの棚の何段目にあるか考えることもない。右手を伸ばせばベルガモット、左奥にはラベンダー。頻繁に使う試香紙は作業台の二段目。シャンから届く香木は湿度の安定した奥の棚へ移した。
窓辺には、使いかけの記録帳。
作業台の端には、王太子妃教育の資料。
そして向かいには、いつの間にかリュシアン専用のようになってしまった椅子が一脚ある。
「……一年で、随分変わったわね」
王妃のお茶会に飾る花を選ぶだけで緊張した。
初代宮廷調香師の香りを追った。
事件に巻き込まれた。
誘拐までされた。
王太子妃選考へ参加し、シャンへ渡り、森の香りを知り、国と国を結ぶ交易にまで関わった。
春香祭では、自分が一つの香りを選ぶことで、工房だけでなく農家や商人、職人の仕事まで動くのだと知った。
そして。
リュシアンを好きになった。
婚約した。
今では婚礼の香りを、本人と一緒に作っている。
そこまで考えたところで、アデルは帳面をそっと閉じた。
「……濃い一年だったわ」
「何がです?」
突然、扉の方から声がして顔を上げた。
「リンレイ殿下」
「失礼いたします」
十五歳の王女が部屋へ入ってくる。
スピネリアへ来たばかりの頃はシャンの衣装を着ることが多かったが、今ではこちらの宮廷服にも随分慣れている。今日のガウンは青緑色で、若い身体に合わせて装飾を抑えた軽やかな仕立てだった。それでも艶のある赤褐色の髪には、故郷から持ってきた金細工を挿している。
大きく吊り上がった金色の瞳は相変わらず猫を思わせるが、初めて会った時の警戒心はもうほとんど残っていない。
「ちょうどよかったです。お茶になさいますか?」
「その前に、ご相談がございます」
「はい?」
リンレイが真剣な顔で椅子へ座る。
「来月、兄様の誕生日なのです」
「ああ」
アデルもすぐに分かった。
「ライレイ殿下ですね」
「はい」
リンレイは膝の上で両手を重ねた。
「何を贈ればよいでしょう」
「……私にお尋ねになりますか?」
「アデル姉様は先月、リュシアン殿下のお誕生日をお祝いされたでしょう?」
「そうですが」
「成功したと伺いました」
「誰からです?」
「リュシアン殿下からです」
「何を話していらっしゃるのでしょう、あの方は」
夜来香の話ならまだいい。
その後の話までしていたら困る。
アデルがわずかに眉を寄せるのを見て、リンレイは首を傾げた。
「兄様への贈り物は、毎年困るのです」
「欲しい物を聞いてはいかがです?」
「欲しい物は自分で手に入れます」
「……リュシアン様と同じですね」
「武器も、自分で選びます」
「はい」
「衣装も、兄様は似たような赤ばかりお召しになります」
「確かに」
「お酒は各国から山ほど届きます」
「そうでしょうね」
「女性からの贈り物も多いです」
「それは……」
「いっそ全部処分したいくらいです」
「リンレイ殿下」
兄への愛が少し強い。
アデルは笑いを堪えながら考えた。
「では、探しに参りませんか?」
「どちらへ?」
「城下へ」
リンレイの金色の瞳がぱっと明るくなる。
「よろしいのですか?」
「もちろんです。私もちょうど、少し外へ出たいと思っておりました」
「公務ではなく?」
「はい。今日は仕事ではありません」
言ってみると、自分でも少し不思議だった。
一年前なら、城下へ出る理由といえば香料を探すか、事件を調べるか、そのどちらかだった。
誰かへの贈り物を探しに、友人と店を巡る。
そんな時間を持つようになるとは、あの頃の自分なら想像もしなかっただろう。
*
午後の王都は、夏の名残と秋の気配が混じっていた。
強い陽射しを避けるため大通りには布の日除けが張られ、その下を人や荷車が行き交っている。果物を並べた露店には熟した葡萄や梨が積まれ、菓子屋の前からは焼いた木の実と蜂蜜の甘い匂いが漂っていた。
香りの国らしく、香水店も季節の変わり目を迎えている。
夏に多かった柑橘や薄荷の軽い香りに代わり、樹脂、香木、熟した果実を使った秋向けの品が店先へ並び始めていた。
「……あら」
三軒目の香水店へ入ったところで、アデルは棚を見上げた。
「どうかなさいました?」
「いえ」
細い硝子瓶を一つ手に取る。
その隣。
さらに向こう。
以前ならあまり見かけなかった、褐色や深い琥珀色の香液が並んでいる。
「どこの工房も、少しずつ東方調の香りが増えていますね」
「東方調?」
「白檀や樹脂を強めに使ったものです。以前のスピネリアでは、ここまで多くありませんでした」
リンレイも棚を見る。
「シャンの香料でしょうか」
「おそらく」
店員へ尋ねると、すぐに答えが返ってきた。
「はい。今年からシャン産の白檀と安息香が以前より安定して入るようになりまして。各工房がこぞって試しております」
「まあ」
アデルがリンレイを見る。
王女は黙っていた。
大きな金色の瞳が、棚に並ぶ香水を一つずつ追っている。
「リンレイ殿下」
「はい」
「リンレイ殿下の交易のおかげです」
ぱちりと瞬きをする。
「わたくしの?」
「はい」
「ですが、わたくしは商務官の方々と話をして、兄様へ手紙を書いていただけです」
「それが交易のお仕事でしょう?」
「……そうなのでしょうか」
「そうです」
アデルは微笑んだ。
「リンレイ殿下がシャンとスピネリアの間を繋いでくださったから、商人が安全に荷を運べるようになった。仕入れ量が読めるようになったから、工房も新しい香りを作れるのです」
リンレイはもう一度、棚を見る。
白檀。
安息香。
香木。
スピネリアの橙花や薔薇、ラベンダーと並び、異国の香料が当たり前のように硝子瓶へ収まっている。
数か月前まで、ここにはなかった景色だ。
「……本当に、変わるのですね」
「何がです?」
「わたくしが話したことが」
リンレイの声は小さかった。
「紙の上ではなく、店に並んでいる」
アデルには、その感覚が少し分かった。
宮廷調香師として初めて自分が選んだ香りが、翌日から街へ広がった時と似ている。
仕事とは、机の上で終わるものではない。
「頑張りましたね」
アデルが言うと、リンレイが少し驚いた顔をした。
「……はい」
やがて。
金色の瞳が柔らかく細まる。
「頑張りました」
十五歳らしい、少し誇らしげな笑顔だった。
*
「これはいかがでしょう」
店員が新しい試香紙を差し出した。
二人はすでに十本近く試している。
「兄様に花の甘い香りは似合いません」
「そうですね」
「柑橘だけでは軽すぎます」
「はい」
「薔薇も違います」
「それは最初から分かっていた気がします」
リンレイが少しだけ笑う。
「では、こちらを」
店員が選んだのは、やや深い青の硝子瓶だった。
「今年の新作です。シャン産の白檀と安息香を使っております」
試香紙へ一滴。
アデルが鼻先へ近づける。
最初に立ったのはベルガモットだった。
明るい。
けれど甘すぎない。
柑橘の鋭さと少し苦い青さが、すっと鼻を抜ける。
「最初はベルガモットですね」
「兄様には少し軽くありませんか?」
「少し待ってみましょう」
時間が経つ。
柑橘の輪郭が柔らぎ、その奥からセージの乾いた青さが出てきた。
ラベンダーもある。
清潔で落ち着いた香りなのに、どこか野性味を残している。
リンレイの表情が変わった。
「……これは」
「はい」
「さっきより、兄様に近いです」
「私もそう思います」
さらに時間を置く。
最後に現れたのは、安息香の温かな甘さだった。
その下に、静かな白檀。
異国で作られた香水なのに、最後にはシャンの香りが残る。
リンレイが試香紙を少し鼻元から離した。
「最初は違うと思いました」
「はい」
「でも、最後は兄様です」
「ふふ」
「何です?」
「私も同じことを考えておりました」
アデルはもう一度香りを確かめる。
最初のベルガモットは、人前でよく笑うライレイに似ている。
軽やかで、華やかで、誰とでも話す。
けれど時間が経てば、セージの鋭い青さとラベンダーの静けさが現れる。
外交官。
軍人。
次々と判断を下す王太子。
そして最後には白檀と安息香。
故郷。
「これ、ライレイ殿下に似ていますね」
「やはり?」
「はい」
リンレイが香水瓶を見る。
「こちらは、今年から作られたのですよね?」
「左様でございます」
店員が答える。
「シャンから安定して香料が入るようになりましたので、以前でしたら難しかった配合でございます」
それを聞いて、リンレイは迷わなかった。
「これにします」
「決まりですね」
「はい」
アデルが財布を出そうとすると、リンレイがすぐに制した。
「わたくしが買います」
「もちろんです」
「兄様への贈り物ですから」
香水瓶が丁寧に布へ包まれていく。
リンレイはその様子をじっと見ていた。
「兄様が好きそうだから、だけではないのです」
「はい?」
「この香りなら」
金色の瞳が、包まれていく瓶へ向く。
「兄様に、わたくしがこちらで何をしているのか伝えられる気がします」
アデルは少しだけ目を細めた。
「それが一番の贈り物かもしれませんね」
「そうでしょうか」
「きっと」
リンレイが小さく笑った。
*
帰り道、二人は少し遠回りをした。
王宮へ続く大通りの向こうには、高い尖塔が午後の光を受けて白く輝いている。
「アデル姉様」
「はい?」
「もうすぐ宮廷調香師になって一年なのですよね」
「よくご存じですね」
「先ほど、お店へ向かう途中でお話しされていました」
「そうでした」
アデルは王宮を見る。
「一年も経ったような気もしますし、まだ一年しか経っていないような気もします」
「最初から今のようだったのでは?」
「まさか」
「そうなのですか?」
「王妃様のお茶会のお花を選ぶだけでも、失敗しないかと緊張しておりました」
「アデル姉様が?」
「私も緊張くらいします」
「少し意外です」
「失礼ですね」
リンレイが笑う。
アデルもつられて笑った。
「でも、今も分からないことばかりですよ」
「そうなのですか?」
「はい。一年前は、香りだけ分かればよいと思っていました」
けれど今は。
香りの向こうに農家がいる。
職人がいる。
商人がいる。
国がある。
同じ香料でも、誰が育て、誰が運び、どこで使うのかによって意味が変わる。
「知らないことが増えました」
「普通は、知れば減るのでは?」
「私もそう思っていたのですが」
二人で笑う。
「では」
リンレイが王宮を見上げた。
「一年後は、どうなっているのでしょう」
「一年後……」
考える。
そしてすぐに、一つだけ確実なことに気づいた。
「結婚しておりますね」
「それは確実です」
「はい」
「王太子妃になって」
「宮廷調香師も続けて」
「もっとお忙しくなっていますね」
「……今は考えないことにします」
リンレイが声を上げて笑った。
秋を目前にした風が二人の髪を揺らす。
銀と赤褐色。
出会った頃には、こうして並んで街を歩く未来など、どちらも想像していなかった。
*
数日後。
シャンへ向かう伝書鷹の脚には、小さな書状が結ばれた。
香水瓶そのものは鷹では運べないため、正式な交易便へ託される。
箱の中には、深い青の硝子瓶と、リンレイの手紙。
『兄様、お誕生日おめでとうございます。スピネリアで今年から作られるようになった香りです。シャンの白檀と安息香も使われています。アデル姉様と選びました。』
その下へ、アデルも一筆添えた。
『ベルガモット、セージ、ラベンダー、安息香、白檀の調香です。時間を置いてお試しください。お誕生日おめでとうございます。――アデル』
横から覗いていたリュシアンが口を開く。
「俺も書く」
「ライレイ殿下へ?」
「ああ。友人として」
「どうぞ」
羽根ペンを渡す。
リュシアンは少し考え、短く書いた。
『誕生日おめでとう。そろそろ婚約者を探せ。――リュシアン』
アデルは無言で紙を見た。
「……それは、お祝いですか?」
「心配してる」
「余計なお世話では?」
「友人だからいい」
「そういうものでしょうか」
「そういうもの」
妙に自信満々だった。
アデルはこれ以上言うのを諦め、手紙を畳んだ。
*
ライレイの誕生日から数日後。
シャン王宮の執務室へ、スピネリアからの荷が届いた。
「リンレイから?」
ライレイは少し意外そうに箱を受け取った。
秋を迎えたシャンは、スピネリアより一足早く空気が乾き始めている。大きく開け放たれた窓から涼しい風が入り、机上に積まれた政策書類の端を揺らしていた。
赤褐色の髪は公務中らしく後ろへまとめられている。金色の瞳には朝から書類を読み続けた疲れが少しだけ残っていたが、妹の名を見た途端、その色が柔らかくなった。
「香水?」
箱から取り出した青い瓶を光へ透かす。
「珍しいな」
リンレイからの贈り物は、実用品か手紙が多い。
香水を選んで寄越したのは初めてだった。
ライレイは手首へほんの少しだけ落とした。
最初に立つのはベルガモット。
「へえ」
明るく、少し苦い。
「悪くない」
書類へ戻りながら、そのまま香りを馴染ませる。
しばらくすると、セージとラベンダーが出てきた。
乾いている。
静かで、それでいて甘すぎない。
「……結構好きかも」
そしてさらに時間が経つ。
書類を一枚読み終えた頃。
ふと、ライレイの手が止まった。
白檀。
安息香。
柔らかな甘さの奥に、幼い頃から知っている木の香りがある。
「……なるほどね」
リンレイの手紙を開く。
短い文章を読み、もう一度手首を鼻へ近づけた。
シャンの香りだ。
けれど、シャンにはなかった香りでもある。
ベルガモットもラベンダーも、こちらではこれほど頻繁には使わない。
妹が暮らしている国と。
自分たちの国が。
一つの瓶の中で混ざっている。
「ちゃんと仕事してるんだ」
小さく笑う。
近くで控えていた従者が顔を上げた。
「リンレイ殿下は、スピネリアでも随分お忙しくなさっていると伺っております」
「知ってる」
「交易量も増えております」
「ああ」
ライレイは香水瓶を指先で転がした。
十五歳。
自分が守らなければならないと思ってきた妹。
スピネリアへ行くと言い出した時は、正直、最後まで反対したかった。
外国に置く。
目の届かない場所へ行かせる。
それが安全だと思えるはずがなかった。
「最初はどうかと思ってたけど」
「何がでしょう」
「リンレイをあっちに置くこと」
金色の瞳が窓の外へ向く。
「でも、今のシャンの状況を見たら、あっちにいてくれた方が安心だな」
従者は何も言わなかった。
意味は分かっている。
戦争が終わったからといって、宮廷が穏やかになったわけではない。
むしろ敵が分かりやすかった頃より面倒なものが増えた。
軍。
新領地。
交易。
官僚。
そして兄弟。
以前なら、妹はそのすべての余波を自分のすぐ隣で受けていた。
今は違う。
遠く離れた国で、自分の仕事を持っている。
兄の庇護だけではない場所で、人と知り合い、国を動かし、とうとう一つの香りまで生み出した。
「もう十五だもんな」
「以前から十五歳でございます」
「知ってるよ」
ライレイが笑う。
「気分の話」
もう一度、香りを確かめる。
最後に残る白檀は、思っていた以上に心地よかった。
その時だった。
「ライレイ殿下!」
廊下から慌ただしい足音が近づいた。
扉が開く。
入ってきた若い従者は、息を整える間も惜しむように頭を下げた。
「……第一王子殿下より、通書でございます」
室内の空気が変わった。
先ほどまで笑っていたライレイの表情から、柔らかさが消える。
金色の瞳だけが、従者の手にある封書へ向いた。
驚きはなかった。
「……とうとう動いてきたか」
静かな声だった。
「すぐにお読みになりますか?」
ライレイはしばらく封書を見ていた。
それから、机上の香水瓶へ目を落とす。
ベルガモットはもう消えている。
残っているのは、安息香と白檀だけだった。
「そこ置いておいて」
「ですが――」
「あとで読む」
従者が迷いながらも、机の端へ書状を置いた。
重い封蝋が、乾いた音を立てる。
ライレイはそれ以上見なかった。
代わりに、妹から届いた香水瓶を手に取る。
「誕生日くらい」
口元だけで、わずかに笑った。
「最後まで祝わせてよ」
窓の外では、秋の風が王宮の旗を大きく揺らしていた。




