第三十四話 忍び寄る香り
第一王子から届いた書状を、ライレイが開いたのは翌朝だった。
昨夜は結局、リンレイから届いた香水を最後まで楽しんだ。ベルガモットが消え、安息香と白檀だけが肌へ残る頃には夜も随分更けていて、机の端へ置かれた封書には一度も触れなかった。
朝になれば、そこにはまだ重い封蝋がある。
深い朱色。王家の紋章。
兄弟であっても、公的な書状には相応の形式が必要だ。
ライレイは窓辺の長椅子へ腰を下ろし、赤褐色の髪を片手で掻き上げながら封を切った。まだ朝の支度を完全には終えておらず、黒い内衣の襟元は少し緩んでいる。それでも金色の瞳だけは、紙面を追ううちに徐々に鋭くなっていった。
『スピネリアとの国交を香りのみに頼ることは、長き友好を考えればいささか心許ない。かの国は医薬、織物の技にも優れると聞く。薬品及び織物へ交易を拡大されてはいかがか。我が配下に、薬草と医薬に通じたレン家の者、また織物を広く扱うフー家の商人がいる。必要であれば紹介しよう』
「…………」
読み終える。
もう一度読む。
それからライレイは、紙を膝の上へ落とした。
「分かってて言ってるのが腹立つんだよね」
向かいに控えていた側近が、わずかに眉を動かした。
「何を、でしょうか」
「薬」
ライレイは書状の一箇所を指で叩いた。
「薬と毒なんて、境目ひとつだよ。誰が作ったか、どれだけ使ったか、何と一緒に使ったか。それだけで意味が変わる」
「第一王子殿下が、何か企んでおられると?」
「そこまでは書いてない」
「当然でございます」
「だから腹が立つ」
口元は笑っている。
けれど金色の瞳には、笑みと呼べるものがまるでなかった。
戦争を終えたシャンには、新しい産業が必要だった。香料だけでは足りない。それは事実だ。新領地で採れる薬草を医薬へ加工できれば、国の利益になる。スピネリアの技術とシャンの原料を結ぶことにも意味がある。
織物も同じだった。
第一王子の提案そのものは、驚くほど正しい。
だからこそ厄介なのだ。
「もし俺が兄上の紹介を受けて薬品交易を始める。その薬を使った誰かが、スピネリアで死んだら?」
側近の表情が変わった。
「……殿下の監督責任が問われます」
「それだけならいいけどね」
ライレイは頬杖をついた。
「俺、人を殺したことがあるから」
「殿下」
「事実だよ」
暗殺。
処刑。
戦場での虐殺。
一族単位での追放。
第八王子だった少年が王太子になるまで、血を流さずに済んだわけではない。
理由があった。
必要だった。
そう説明したところで、死んだ人数が減るわけでもない。
「毒殺事件が起きてみなよ。俺がやってなくても、『ライレイならやりかねない』って思う人間は出てくる」
「では、お断りになりますか」
「なんで?」
側近が瞬きをした。
ライレイはもう一度、兄の書状を持ち上げる。
「薬品も織物もいい提案だよ。やる」
「ですが」
「罠かもしれないからって、利益まで捨てる必要ないでしょ」
立ち上がる。
長い赤褐色の髪が肩の後ろへ流れた。
「紹介してもらおう」
「お二方とも?」
「二人とも」
金色の瞳が細くなる。
「兄上がわざわざ俺に何を寄越すのか、見てみたい」
*
それからおよそ一月後。
スピネリア王宮の会議室には、秋の柔らかな陽が差し込んでいた。
「レン家より参りました、レン・ユエと申します」
一人目の女が頭を下げる。
年はアデルたちと大きく変わらないように見えた。
艶のある黒髪を首の後ろで簡素にまとめ、濃い藍色の衣を纏っている。宮廷へ上がる貴族令嬢としては驚くほど装飾が少なく、腰には小さな革鞄まで下げていた。
目を引くのは瞳だった。
伏せている時には黒にも見える。
けれど顔を上げると、光の奥に深い赤が浮かぶ。
血のような鮮烈な赤ではない。乾いた薬草を煮詰めた時のような、暗く静かな赤だった。
「現在、レン家では薬舗と製薬工房を営んでおります。今回は交易候補となる薬草、調合薬、保存薬の品質鑑定を担当いたします」
声も静かだった。
愛想が悪いわけではない。
ただ、笑う必要がないので笑っていない、といった顔である。
その隣へ立つ男は、まるで逆だった。
「フー家長男、フー・リャンにございます。この度は栄えある機会を賜り、心より感謝申し上げます」
深々と礼をする。
三十に届くかどうかという年頃で、細身の身体を上質な衣へ包んでいる。黒髪は一筋の乱れもなく整えられ、長めの目元には柔らかな笑みが浮かんでいた。
商人だ。
それも、人に好かれることを知っている商人。
立ち方。
声の落とし方。
相手を見る時間。
すべてがよく計算されている。
リュシアンの隣に座っていたアデルは、二人を見比べた。
薬師と、織物商。
どちらも第一王子からの紹介だ。
その向かいでは、ライレイが椅子へ身体を預けている。
笑っている。
いつもの、人の懐へ入り込むような柔らかな笑顔。
けれどアデルは知っていた。
あれは、何も信用していない時の顔だ。
「ユエ」
「はい」
「兄上とは長いの?」
「第一王子殿下と、という意味でしたら数年ほど」
「随分贔屓にされてるって聞いたけど」
「ありがたいことです」
「じゃあ、兄上の配下?」
わずかな間もなかった。
「第一王子殿下にはご贔屓いただきましたが、配下と言われるほど忠誠した覚えはございませんね」
室内が少し静かになった。
アデルが瞬きをする。
リュシアンの灰青色の瞳が、ほんのわずかにユエへ向いた。
ライレイだけが笑った。
「それ、兄上の前でも言う?」
「尋ねられれば」
「怒られるよ」
「事実が変わるのでしょうか」
「変わらないね」
「では、問題ございません」
ユエは平然としていた。
「私は薬品の品質を保証するために参りました。殿下方が私を信用なさるかどうかは、業務とは別の問題です」
「すごいな」
「何がでしょう」
「俺に気に入られようって気が全然ない」
「必要がございますか?」
ライレイが一瞬黙った。
隣でリュシアンの口元がわずかに動いた。
「リュシアン」
「何だ」
「今、笑った?」
「気のせいだ」
ユエは二人のやり取りにも興味を示さず、手元の資料へ視線を落とした。
その横で、フー・リャンだけが穏やかに微笑んでいる。
「王太子殿下。もしよろしければ、我が家からも実物をご覧いただけますでしょうか」
従者が大きな箱を運んでくる。
蓋が開く。
中には何種類もの織物が、丁寧に畳まれていた。
薄い青。
象牙色。
朱。
濃紺。
光を受けるたび、絹の表面を水のような艶が走る。
「綺麗……」
アデルは思わず身を乗り出した。
「ありがとうございます」
フー・リャンの笑みが深くなる。
「こちらは我が国の東部で織られております。糸が細く、軽いわりに丈夫なのが特徴にございます」
「この艶は、織りだけで出るのですか?」
「仕上げにも工夫をしております」
「染めは?」
「色によって異なります」
話し始めると、アデルの瞳が明るくなった。
香り以外でも、素材や加工の話は好きらしい。
ライレイが向かいからそれを眺め、隣のリュシアンへ小声で言った。
「アデルちゃん、すごく楽しそう」
「見れば分かる」
「機嫌悪い?」
「別に」
「そう」
絶対に機嫌が悪い。
フー・リャンは気づいているのかいないのか、次の布を取り出した。
深い緑だった。
森の奥を思わせる濃い色なのに、光が当たると表面だけが柔らかく明るむ。緑一色ではない。折り目によって青が混じり、角度を変えれば黒に近い陰影まで現れる。
アデルの瞳が止まった。
「……素敵な色ですね」
「ありがとうございます」
フー・リャンが布を両手で広げる。
「実は、こちらを最もご覧いただきたかったのです」
「私に?」
「はい」
柔らかな笑みが、アデルへ向いた。
「アレクシア様のお瞳も、新緑の色でいらっしゃると伺っております」
アデルが目を丸くする。
「私の瞳は、光によっては紫にも見えるのですが」
「それはなお素晴らしい。この絹も光によって表情を変えます。アレクシア様がお召しになれば、さぞ美しいかと」
「商売上手だね」
ライレイが言った。
リャンは微笑んだまま頭を下げる。
「お褒めにあずかり光栄です」
「褒めてないよ」
「商人にとっては、何よりのお褒め言葉にございます」
よくできている。
ライレイの金色の瞳が細くなる。
後日、その深緑の絹を使ったガウンが、フー家からアデルへの献上品として王宮へ届いた。
王宮の通常検品を通し、仕立てや異物の有無に問題がないことも確認されていた。ただし、献上された織物の染料そのものを薬師に分析させるほどの理由は、その時点ではなかった。
*
交易使節団を迎える夜会は、その数日後に開かれた。
王宮の大広間には幾つもの燭台が灯され、高い天井から吊るされた硝子飾りが光を細かく散らしている。楽師たちの奏でる弦楽器の音に、杯の触れ合う音、人々の話し声が重なり、その間を何十種類もの香水が漂っていた。
薔薇。
橙花。
麝香。
樹脂。
花香と薫香と髪油が入り混じり、嗅覚の鋭いリュシアンにとっては相変わらず好ましい場所ではない。
それでも今夜は、隣にアデルがいる。
深緑のガウンを纏った彼女は、夜の照明の下では昼間とはまた違って見えた。白い肌と銀髪の間に濃い緑が入り、光を受けるたび、アレキサンドライトの瞳が新緑から紫へ曖昧に色を変える。首元には小さな灰青色の石を一つだけ飾り、華美ではないのに、不思議と人目を引いた。
「……見すぎです」
アデルが小声で言った。
「見てた?」
「ずっと」
「似合ってるから」
「昼間も聞きました」
「夜の方が似合う」
「では、ありがとうございます」
微かに頬が緩む。
その顔を見て、リュシアンも少しだけ肩の力を抜いた。
「リュシアン」
横からライレイが声をかける。
今日はシャンの正式な使節として、朱と黒を重ねた正装だった。赤褐色の髪は高い位置でまとめられ、金色の飾りがいくつか差されている。華やかな衣装にも負けない顔立ちと、笑うと鋭さの薄れる金色の瞳は、離れた場所からでもすぐに見つけられた。
「酒、飲まない?」
「あとで」
「アデルちゃん?」
「はい?」
「あっち」
ライレイが視線を向ける。
そこにいた女を見て、アデルは一瞬気づかなかった。
「……ユエ様?」
「はい」
返ってきた声で、ようやく確信する。
昼間は実務服に近い簡素な衣を着ていたユエも、今夜は貴族令嬢として正装していた。
艶のある黒髪は結い上げられ、細い金の髪飾りが一筋だけ差されている。黒に近い深紅のガウンは身体の線を上品に拾い、普段ほとんど装飾を身につけないせいか、白い首筋と整った顔立ちがかえって目立った。
伏し目がちな赤い瞳も、燭火の下では宝石のように透ける。
華やかというより、静かな美しさだった。
普段の無機質な印象が薄れたわけではない。
むしろ近寄りがたいほど整っている。
「お綺麗ですね」
アデルが素直に呟く。
「そう?」
ライレイは何でもないように答えた。
「リャンは商人だけど、ユエは貴族だからね。こういう席にも出る」
「レン家は貴族家門なのですね」
「一応ね」
言いながら、ライレイの金色の瞳はユエから離れない。
リュシアンが横目で見る。
「随分見てるな」
「兄上の紹介だから」
「信用していない方から目を離さないため?」
「さすが」
ライレイが笑った。
「まだ半分も信用してない」
ユエはそんな視線に気づいているのかいないのか、近づいてきた。
「王太子殿下。アレクシア様」
「ユエ様」
アデルが杯を軽く掲げる。
「せっかくですから、乾杯いたしませんか?」
「喜んで」
三つの杯が軽く触れる。
「交易の成功を祈って」
「良き結果になりますよう」
ユエは少量だけ口をつけた。
その仕草まで無駄がない。
アデルは以前から気になっていたことを思い出した。
「ユエ様は、いつから薬師の勉強をなさっているのですか?」
「幼少期からです」
「やはり代々薬師のお家なのですね」
「いいえ」
ユエが淡々と答える。
「わたくしの一家は、元々暗殺と諜報の一家でございました」
アデルが瞬きをした。
すぐ隣で、リュシアンの手も止まった。
「……暗殺?」
「はい」
「暗殺、ですか?」
「暗殺です」
ユエは何でもないことのように杯を持っている。
「潜入、諜報、毒物鑑定、必要であれば毒殺も。国王陛下の命を受け、代々そのような仕事をしておりました。その延長で毒を作っていたのです」
「まあ」
アデルの反応は、驚いているのか感心しているのか分からない。
ユエは少し考えて続けた。
「最近は平和になりましたので」
「はい」
「殺すより、生かす方が儲かるのです」
「まあ……」
二度目だった。
リュシアンは思わずライレイを見る。
「お前、よくこの女連れてきたな」
「俺じゃない。兄上の紹介」
「余計怖い」
「だから見てるんだよ」
ライレイは笑っている。
ユエは気にした様子もない。
「現在は解毒薬、傷薬、保存薬、感染症の予防薬などを主に扱っております。死人から代金はいただけませんので」
「合理的なのですね」
アデルが言う。
「はい」
「毒を知っているからこそ、薬も作れる?」
「その通りにございます」
アデルの瞳が興味深そうに明るくなる。
「今度、ぜひ工房のお話を――」
そこで言葉が止まった。
「アデル?」
リュシアンが顔を向ける。
「……何でもありません」
「何でもない顔じゃない」
先ほどまで白かった頬から、さらに色が失われている。
唇にも赤みがない。
アデルは一度、ゆっくり瞬きをした。
「少し、疲れたのかもしれません」
「座る?」
「大丈夫です」
そう答えながら、手にしていた杯を持ち直した。
指先に力が入りづらい。
リュシアンの眉が寄る。
正直、最初に声をかけた時は、ユエと楽しそうに話しているアデルを少し引き離したいくらいの気持ちだった。
だが違う。
これは本当に具合が悪い。
「アデル、少し休んだ方がいいんじゃないか?」
「ですが、まだご挨拶を」
「後でいい」
「リュシアン様」
「顔色が悪い」
アデル自身も、ようやく否定できなくなったらしい。
「……少しだけ、横になって参ります」
「俺も行く」
「夜会は?」
「父上も母上もいる」
リュシアンは迷わなかった。
ライレイが二人を見る。
「こっちは任せて」
「ああ」
「何かあったら呼んで」
「分かった」
ユエは静かにアデルの顔を見ている。
赤い瞳がわずかに細くなった。
けれど何も言わなかった。
*
王族居住区へ戻る頃には、アデルの足取りは目に見えて遅くなっていた。
「すみません」
「謝るな」
「せっかくの夜会でしたのに」
「夜会ならまたある」
「ですが」
「アデル」
リュシアンが足を止める。
「もういいから」
少し強い声だった。
アデルも黙った。
部屋へ入る。
扉が閉じる。
途端に、あれほど濃かった夜会の香水が遠ざかった。
薔薇も。
麝香も。
香油も。
薫香もない。
静かな私室。
そこで初めて。
リュシアンの鼻が、別のものを拾った。
「……待て」
「何でしょう」
「動くな」
アデルの肩へ顔を寄せる。
深緑のガウン。
首元。
袖。
「リュシアン様?」
「この匂い……」
「何か?」
金属のような。
乾いた薬草のような。
ごく微かな異臭。
夜会では他の香りに埋もれていた。
だが今なら分かる。
「アデル」
リュシアンの顔色が変わった。
「今すぐ脱いで湯浴みをするんだ!」
「え?」
「その服を脱げ。メリー!」
声に反応して、控えていたメリーがすぐに入ってくる。
「はい!」
「この衣装には素手で触るな。手袋をして脱がせろ。その後すぐに湯浴みを」
「承知いたしました」
「リュシアン様、これは」
「まだ分からない」
それでも灰青色の瞳は、深緑の布から離れなかった。
「でも、何かいる」
アデルが自分の袖を見る。
美しい緑。
新緑の瞳によく似合うと言われた色。
急に、その光沢が不気味に見えた。
*
翌朝。
アデルは寝台から起き上がれなかった。
「……身体が、重い」
声にも力がない。
白い寝具の上へ銀髪が広がり、いつもなら透き通るような白い頬から血の気が失われている。熱は高くない。それでも身体中に鉛を流し込まれたような倦怠感があり、指一本動かすことさえ億劫だった。
胸が悪い。
頭も重い。
食欲もない。
寝台の脇にはリュシアンがいた。
黒髪は朝から整えられておらず、白いシャツの上に濃紺の上着を羽織っただけだった。灰青色の瞳には眠気すらなく、昨夜からほとんど休んでいないことが分かる。
「昨日より悪いな」
「少し……眠いだけです」
「それを具合が悪いって言うんだ」
「調べたいことが」
「駄目」
「まだ何も」
「駄目」
「リュシアン様」
「今日は宮廷調香師じゃなくて患者」
有無を言わせない声だった。
アデルは少しだけ眉を下げる。
「……はい」
珍しく素直だった。
それだけ具合が悪いのだ。
扉が開いた。
「どう?」
ライレイだった。
今日は朱ではなく黒に近い濃灰色の衣を纏い、赤褐色の髪も簡単に束ねている。金色の瞳からは、普段の気安い笑みが完全に消えていた。
「悪化してる」
「医師は?」
「原因が分からない。食事も水も、同じものを口にした人間には異常がない」
「昨日の衣装は」
「隔離させた」
ライレイが寝台へ近づく。
「アデルちゃん」
「はい」
「昨日、ユエから何かもらった?」
アデルが考える。
「……午後に、喉が少し乾いていたので煎じ薬を」
「飲んだ?」
「はい」
ライレイが目を閉じた。
「最悪だなあ」
「私もそう思います」
扉の方から声がした。
レン・ユエだった。
今日は昨夜の正装ではなく、初日に見た濃い藍色の衣へ戻っている。黒髪も首の後ろでまとめられ、赤い瞳だけが静かに病床のアデルを見た。
「ですが、私の薬を疑うのであれば、残りを検めるのが先かと」
「ずいぶん落ち着いてるね」
「慌てれば成分が変わるのでしょうか」
「変わらない」
「では、必要ありません」
ユエはアデルの脈を取り、瞳を見て、いくつか短い質問をした。
「吐き気は?」
「少し」
「喉の痛み」
「ありません」
「手足の痺れは?」
「……少しだけ」
赤い瞳が細くなる。
「煎じ薬を飲まれたのは?」
メリーが答える。
「午後二時頃です」
「ガウンをお召しになったのは」
「四時前です」
「違和感を覚えられたのは?」
「夜会の途中でした」
リュシアンが言った。
「部屋へ戻ってから、衣装から妙な匂いがした」
ユエが顔を上げる。
「どのような?」
「説明しづらい。金属っぽいような、乾いた薬草みたいな……ただ、お前の薬とは違う」
「衣装を見せてください」
ライレイがユエを見た。
「信用していいの?」
「その判断は殿下のお仕事です」
「兄上の紹介なんだけど」
「存じております」
「第一王子派じゃない?」
ユエの赤い瞳がライレイへ向いた。
「第一王子殿下にはご贔屓いただきましたが、配下と言われるほど忠誠した覚えはございませんね」
「フー・リャンも同じ紹介状で来てる」
「紹介元が同じだけで仲間になるのでしたら、殿下と第一王子殿下も随分仲がおよろしいことになりますね」
「……嫌な言い方するなあ」
「事実です」
ライレイはしばらく彼女を見ていた。
「まだ信用してないよ」
「結構です」
「それでも調べろって言ったら?」
ユエは一礼した。
「御意にございます」
それ以上は何も言わなかった。
「リュシアン」
「ああ」
二人は同時に立ち上がった。
その時。
「兄様」
扉の前にリンレイが立っていた。
艶のある赤褐色の髪を高い位置で結い、大きく吊り上がった金色の瞳で室内を見ている。
「呼びましたか?」
「ああ」
ライレイが妹へ向き直る。
「リンレイ。アデルちゃんのそばにいて」
「看病ですか?」
「看病兼護衛」
リンレイの表情が変わる。
「俺かリュシアンが戻るまで、誰も近づけないで」
「誰も?」
「俺たちが許可した人間以外はね。食べ物も飲み物も、薬も、贈り物も。一度全部止めて」
「御意に――」
言いかけて、リンレイが少し止まる。
「……承知いたしました」
ユエがわずかにリンレイを見る。
ライレイは気づかなかった。
「任せた」
「はい」
今度の返事は短かった。
*
フー・リャンが王族居住区へ向かったのは、その日の午後だった。
「……思っていたより、脱ぐのが早かった」
誰にも聞こえないほど小さく呟く。
手には細長い箱を抱えていた。
中には、深い緑の絹のショール。
先日のガウンより薄い。
柔らかい。
首と肩へ直接触れる。
一度では足りなかった。
なら、もう一度。
王太子殿下の婚約者が寝込んでいると聞いた。
具合が悪いのであれば、見舞いの品を持っていくことに何の不自然もない。
扉の前にいた衛兵へ名を告げる。
やがて扉が少しだけ開いた。
出てきたのは、予想していた侍女ではなかった。
「第四王女殿下」
「フー・リャン殿」
リンレイだった。
赤褐色の髪を高く結び、大きな金色の瞳で真っ直ぐこちらを見ている。
まだ十五歳。
華奢な少女だ。
リャンは笑みを深くした。
「アレクシア様へ、お見舞いに参りました」
「現在、ご面会はお断りしております」
「存じております。ですので、こちらだけでも」
箱を開く。
深緑の絹が姿を見せた。
「アレクシア様へ絹のショールをお持ちしました」
「今は何も受け取るなと言われております」
「しかし、これはただのショールでございます」
「何も、です」
少女の声は変わらない。
「薬でも食べ物でもございません。触り心地だけでもアレクシア様にお確かめいただきましょう。お気に召さなければ、そのまま持ち帰ります」
一歩、踏み込む。
リンレイの金色の瞳が細くなった。
「それ以上踏み込めば、有害とみなします」
リャンは一瞬、止まった。
それから少女を見る。
小柄。
華奢。
王族とはいえ、十五歳。
「殿下。さすがに大袈裟では――」
もう一歩。
次の瞬間、風が鳴った。
リンレイの身体がわずかに沈み、長い脚が鋭く跳ね上がる。
靴底がリャンの胸元を正確に捉えた。
「っ――!」
身体が後ろへ飛ぶ。
廊下へ転がり出たリャンが石床へ肩を打ちつけた。
箱が落ちる。
深緑のショールが床へ滑った。
衛兵たちが一斉に剣へ手をかける。
「な、何を――」
リンレイは乱れた裾を軽く払った。
「有害とみなすと言いました」
淡々としている。
呼吸すらほとんど乱れていない。
リャンの顔から、初めて商人の笑みが消えた。
「私はただ、お見舞いを」
「知りません」
「第四王女殿下、これは外交上――」
「それ以上動かないでください」
金色の瞳が鋭く吊り上がる。
「兄様より、アデル様へ誰も近づけるなと命じられております。私は、シャン国王太子の命令を遂行しているだけです」
リャンが床へ落ちたショールへ手を伸ばしかける。
「触らないで」
リンレイの声が落ちる。
手が止まった。
リンレイも触れない。
代わりに靴先を布の端へ入れた。
ひょい、と蹴る。
深緑の絹がふわりと宙へ浮き、そのまま廊下へ落ちた。
「メリー様」
「はい」
室内で一部始終を見ていたメリーが、やや引きつった顔で返事をした。
「この布、ばっちいので捨てたいところですが」
「ばっちい……」
「この方、随分と押しつけが強かったので怪しいです」
リンレイは廊下のショールを指さした。
「リュシアン殿下に押収していただけますか?」
「すぐに手配いたします」
「私はアデル様から離れません」
「お願いいたします」
メリーはすぐに近くの侍女へ指示を出した。
「布には誰も触れないように。騎士を呼んでください。それから王太子殿下へ至急ご報告を」
「はい」
リャンが立ち上がろうとした。
衛兵二人が左右から肩を押さえる。
「お待ちください」
「私は客人ですぞ」
「存じております」
リンレイはもうリャンを見なかった。
扉を閉める。
鍵を掛ける。
そして寝台へ戻った。
白い寝具の中で、アデルが薄く目を開けている。
「……リンレイ殿下」
「起こしてしまいましたか?」
「今……何か、大きな音が」
「何もございません」
「でも」
「商人が一人、廊下へ出ただけです」
「……普通は、自分で出るものでは」
「細かいことはお気になさらず」
リンレイは椅子へ座った。
「兄様から、アデル様のお側にいるよう申しつけられております」
「ありがとうございます」
「ですから、眠ってください」
アデルは弱々しく笑った。
「ライレイ殿下と、そっくりですね」
「どこがでしょう」
「そういうところです」
「分かりません」
金色の瞳が少しだけ柔らかくなる。
それでもリンレイは、扉から視線を外さなかった。
*
「同じ匂いだ」
リュシアンの声が低く落ちた。
深緑のショールは、誰にも直接触れさせず、厚い布の上へ広げられていた。
隣には昨夜アデルが着ていたガウン。
二つともフー家の品だ。
リュシアンは距離を取りながら、ゆっくり息を吸った。
「間違いない」
「昨日の服と?」
「ああ」
ライレイの顔から笑みが消える。
ユエは二つの布を見比べた。
「私も、触れない方がよいと思います」
「理由は?」
「まだ確定はできません」
赤い瞳が絹の表面を追う。
「ですが、薬を飲んだことが原因だと考えるより、今はこちらを疑う方が合理的です」
「つまり」
リュシアンが言う。
「アデルは、口から毒を入れられたんじゃない」
「その可能性がございます」
沈黙。
ライレイが深緑の絹を見る。
美しい。
光の下では、森の葉のように色が変わる。
アデルの瞳によく似合うと、フー・リャンは言った。
「……アレクシア様のお瞳も、新緑の色でいらっしゃる、か」
ライレイが静かに呟いた。
リュシアンの灰青色の瞳が冷える。
「最初からアデルに着せるつもりだった」
「そう考えるのが自然だね」
「フー・リャンは」
「拘束させた」
ライレイは窓の外を見た。
秋の陽が傾き始めている。
「兄上、ずいぶんいい商人を紹介してくれたなあ」
「第一王子が命じた証拠はない」
「分かってる」
返事は軽い。
けれど金色の瞳だけは、ひどく冷たかった。
「フー・リャンが勝手にやった可能性もある。兄上はきっとそう言う」
「実際、その可能性もある」
「ああ」
ライレイは小さく笑った。
「だから面倒なんだよ」
その視線が、今度はユエへ向く。
「ユエ」
「はい」
「この布に何が使われているのか、特定できる?」
ユエは深緑の絹を見た。
黒髪の一筋が頬へ落ちる。
細い指でそれを耳へかけ、静かに一礼する。
「御意にございます」
ライレイはしばらく、その横顔を見ていた。
まだ信用はしない。
第一王子から紹介された女。
毒を知る家の娘。
疑う理由なら、いくらでもある。
それでも今は。
「頼む」
ユエは革鞄を開いた。
美しい深緑の絹だけが、誰にも触れられないまま、静かに卓上へ横たわっていた。




