第三十五話 暴く香り
レン・ユエが深緑の絹を調べ始めてから、二刻ほどが過ぎていた。
王宮の一室に急ごしらえされた作業台には、大小の硝子瓶と白磁の皿が所狭しと並んでいる。深緑のガウンとショールから切り取られたごく小さな布片は、それぞれ別の皿へ置かれ、ユエはそこへ何種類もの試薬を順に加えていた。
黒髪は邪魔にならないよう高い位置で束ねられ、袖も肘の少し下まできっちり捲られている。昨夜の夜会で見せた貴族令嬢らしい華やかさは完全に消え、今は細い指先と暗赤色の瞳だけが、目の前の変化へ集中していた。
液体を落とす。布を浸す。別の容器へ移す。温める。沈んだものを確かめる。同じ作業を、比較用に用意した別の染料でも繰り返していく。
リュシアンには何をしているのか半分も分からなかった。ただ、ユエが一つの反応だけで結論を出そうとしていないことは分かる。
少し離れたところでは、ライレイが壁へ背を預けている。腕を組み、口元にはいつもの薄い笑みがあるものの、金色の瞳は作業台からほとんど動かなかった。
「……まだ?」
「まだにございます」
「即答だね」
「殿下がお急ぎになっても、反応は早まりません」
「はいはい」
しばらくして、ユエが小さな硝子器を光へ翳した。底に淡い沈殿が生じている。
赤い瞳が細くなる。
さらに別の試薬を用意し、同じ布から抽出した液を分ける。今度は反応を確かめるまで、先ほどより長い時間を置いた。
やがてユエは手を止めた。
「……一致いたしました」
ライレイの笑みが消えた。
「何と?」
「砒素にございます」
その一言で、室内の空気が変わる。
リュシアンは卓上の深緑の布を見た。
「砒素」
「正確には、砒素を含む物質が染料、もしくは仕上げに使われた薬剤へ混入しております。ガウンからも、ショールからも同じ反応が出ました」
「自然に入ることは?」
ライレイが訊く。
「この量では考えにくいかと」
「事故でも?」
「同じ仕上げを施した他の布に異常がなければ、さらに可能性は下がります」
「つまり」
リュシアンの声が低くなる。
「アデルが身につけるために用意された二点だけに仕込まれた」
「現段階では、その可能性が高いと申し上げられます」
ユエはもう一枚の紙へ目を落とした。
「症状も矛盾いたしません。倦怠感、吐き気、手足の違和感、顔色不良。昨夜のまま長時間着用を続けていれば、さらに状態が悪化していたでしょう」
「死ぬ量だった?」
ライレイが訊いた。
ユエは一瞬だけ黙った。
「少なくとも、追加で同じものへ触れ続ければ、命に関わる可能性はございました」
リュシアンの顎が強張る。
あの夜、自分が気づかなければ。夜会だからと我慢させていたら。アデルが「大丈夫です」と笑うのを信じ、そのまま宴席へ戻していたら。
灰青色の瞳が、卓上の布へ冷たく落ちる。
「治せるのか」
「体内へ入った量は、おそらく致命的なものではございません。早い段階で衣装を脱ぎ、湯浴みもされています。それは幸いでした」
「薬は?」
「処方いたします」
ユエは迷わず答えた。
「身体の回復を助けるものと、胃腸を守るものを。水分も十分に取っていただきます。数日は倦怠感が残るでしょうが、経過が良ければ回復なさるかと」
「その薬を作るのも、君?」
ライレイだった。
「はい。わたくしが」
「…………」
ユエが顔を上げる。
「ご不安でしたら、別の薬師に成分を確認させてくださいませ」
「随分あっさり言うね」
「疑われる理由は理解しております」
「兄上の紹介で来た毒の専門家だから?」
「それもございます。そして昨日、アレクシア様が口になさった煎じ薬を処方したのも、わたくしです」
リュシアンも黙っていた。
理屈では分かる。ガウンとショールから同じ毒が見つかった。ユエの薬からは何も見つかっていない。フー・リャンは明らかに不審な行動を取っている。
それでも、アデルへ新しい薬を飲ませる。その一線だけは、簡単には越えられなかった。
「……アデルに聞こう」
リュシアンが言った。
ライレイが横を見る。
「本人に?」
「ああ」
「寝込んでるよ」
「意識はある」
「まあ、それが一番か」
*
「飲みます」
アデルは迷わなかった。
寝台の上で上半身だけを起こし、銀髪を背中へ流している。顔色はまだ白く、いつもの透明感とは違う頼りなさがあったが、新緑色の瞳には思ったよりしっかりと光が戻っていた。
リュシアンが眉を寄せる。
「もう少し考えてもいい」
「考えました」
「今?」
「はい」
「短くないか?」
「十分です」
アデルは寝台の脇に立つユエを見る。ユエはいつもの濃藍の仕事着のまま、小さな薬杯を手にしていた。
「ユエ様」
「はい」
「私の衣装を調べてくださったのですよね」
「はい」
「昨日いただいた薬からは?」
「異常は見つかっておりません」
「では、私はユエ様を信じます」
あまりにも素直だった。
ライレイの金色の瞳が少し動く。
「アデルちゃん」
「はい?」
「ワタシたちはまだ疑ってるんだけど」
「存じております」
「それでも?」
「はい」
「怖くない?」
アデルは少しだけ考えた。
「怖くないわけではありません」
それから、ユエを見る。
「ですが、疑っていることと、必要な治療を拒むことは別かと思います」
ライレイが一瞬黙る。
リュシアンも何も言わなかった。
アデルは二人を順番に見た。
「それに、私の身体ですから」
最後の一言は穏やかだった。けれど、はっきりしていた。
リュシアンが息を吐く。
「……分かった」
ライレイも肩を竦めた。
「本人がそう言うなら、尊重する」
ユエへ視線を向ける。
「ユエ」
「はい」
「頼む」
ユエは静かに頭を下げた。
「御意にございます」
薬を受け取ったアデルは、一口飲んだところで盛大に顔をしかめた。
「……苦い」
「薬ですので」
「もう少し何か」
「甘くすれば飲みやすくはなりますが、今はこのままお飲みください」
「そうですか……」
「全部です」
「はい……」
病人に容赦がない。
リュシアンは少しだけ肩の力を抜いた。
*
フー・リャンの尋問は、その日の夕刻に行われた。
場所は王宮地下の取調室だった。華美な装飾など一つもない。灰色の石壁と机、椅子が数脚。高い位置にある細い窓から、沈みかけた夕陽がわずかに差し込んでいる。
リャンは手枷こそされていなかったが、扉の前には騎士が二人立っていた。
向かいには二人の王太子。
リュシアンとライレイが並んで座っている。
「何度申し上げれば分かるのでしょう」
リャンは困惑した表情を作った。
「私は何もしておりません」
昼間までと同じ、穏やかな商人の顔だった。
「ガウンを仕立てたのはスピネリアの仕立て屋です。毒が仕込まれていたというのなら、まずそちらをお調べになるべきでは?」
「調べたよ」
ライレイが答える。
声は軽い。しかし一人称は、もう「俺」ではなかった。
「毒が出たのは、君のところから届いた布の一部だけ」
「なら、輸送の途中では?」
「荷を扱った人間も全員調べた」
「染色工房の者が勝手に」
「同じ反物から切り出した残りの布は無事だった」
リャンの口元が、ごくわずかに止まる。
「……では、あの薬師では?」
「ユエ?」
「はい。レン家は毒を扱ってきた家でしょう。第一王子殿下からも懇意にされていると伺っております。彼女ならば毒を扱うことなど容易い」
「うん」
ライレイは頬杖をついた。
「簡単だと思うよ」
リャンの目に一瞬、希望が浮かぶ。
「では」
「でも、ユエがアデルちゃんを殺して得するものがない」
「それは」
「君にはある」
声は柔らかいままだった。けれど、金色の瞳からは完全に笑みが消えている。
「ワタシが始めた交易で、スピネリアの未来の王太子妃が毒殺される。シャンとの国交は悪化。新規交易は停止。責任者であるワタシは失脚」
指を折りながら数えていく。
「よくできてるよね」
「何のお話か」
「兄上らしいなと思って」
「第一王子殿下を侮辱なさるおつもりですか」
「全然」
ライレイは笑った。
目だけが笑っていない。
「兄上は残念なことに、戦はあまり得意じゃなくてね。文官系なんだよ。学問も法も財政も得意。宮廷で根回しするのも上手い。平和な時代なら、そういう王子が評価されるのはワタシも分かる」
そこで金色の瞳が細くなった。
「なのに戦争が始まった。そこで第八王子だったワタシが戦で成り上がった。軍を持って、領土を得て、王太子になった。戦争が終わったと思ったら、今度は森の管理だ、香料交易だ、薬品だ、織物だって政治にも首を突っ込み始めた」
ライレイは薄く笑う。
「そりゃあ、目障りだよね」
「……存じません」
「本当に?」
「王家の事情など、一商人の私には」
「じゃあ、商人の話をしようか」
リャンの指が僅かに動く。
「フー家は織物商として大きい。でも、王室御用達ではない」
「……」
「なりたい?」
「商人であれば、誰しも誉れとは考えるでしょう」
「兄上に言われた?」
「何をでしょう」
「『自分の方が平和な世の王太子に相応しい』」
リャンの目が揺れた。
ほんの一瞬。
けれど十分だった。
「『自分が立太子したら、フー家を王宮御用達にしてやる』」
「――」
肩が、びくりと動いた。
ライレイはそれを見て笑った。
「当たりか」
「違います」
「まだ何も聞いてないよ」
「今のは、その」
「商売の話なら分かりやすいよね。王太子が代われば交易の利権も変わる。まして最初から恩を売っておけば、新しい王太子の時代にフー家がどれだけ儲かるか」
「憶測です」
「そうだね」
ライレイはあっさり認めた。
「だからワタシは、兄上が命令したとは一言も言ってない」
リャンが黙る。
「でも君、随分分かりやすいね」
「……」
「商人なら、もう少し顔に出さない方がいい」
リャンの額に汗が浮かび始める。
ライレイは椅子の背へ身体を預けた。
「それにさ」
声が少し低くなる。
「君、もう兄上から切られてると思うよ」
「……何を」
「失敗した駒を助けるために、自分まで疑われるような馬鹿な真似、兄上はしない」
「第一王子殿下は、そのような」
「するよ」
即答だった。
「ワタシならする」
室内が静まった。
「君が捕まった時点で終わり。だから、せめて素直に自白したら?」
「私は何もしておりません」
「うん」
「証拠もない」
「あるよ」
「何が」
「二点目」
リャンの呼吸がわずかに止まった。
「ガウンでアデルちゃんが体調を崩した翌日に、同じ色のショールを持ってきた」
「見舞いです」
「何も受け取るなと言われたのに?」
「善意で」
「部屋に入るなと言われたのに?」
「第四王女殿下が過剰に」
「リンレイを舐めてたんでしょ」
笑みが消えた。
「十五歳の女の子なら、押せば通れると思った」
「そのような」
「で、蹴られた」
「……」
「格好悪いね」
リャンの頬が引きつる。
その隣で、リュシアンが初めて口を開いた。
「フー・リャン」
低い声だった。
リャンがそちらを見る。
艶のある黒髪の下で、切れ長の灰青色の瞳が冷たく細められている。怒鳴らない。睨みつけもしない。ただ、相手がどこまで人として扱う価値のある存在なのかを測るような目だった。
「尋問で終わるか、拷問が必要かは、お前の態度次第だ」
リャンの顔が強張る。
ライレイが横目でリュシアンを見た。
昔、聞いたことがある。
強い香水を嫌い、女性を遠ざけ、夜会ではほとんど笑わず、誰に対しても冷たい。
スピネリアの冷徹王子。
本人を知ってからは、随分誤解された呼び名だと思っていた。
けれど今の顔を見れば、そう呼ばれた理由も少し分かる。
「私は何も」
「なら話せ」
「話しております」
「嘘を並べることを、スピネリアでは供述とは呼ばない」
淡々と告げる。
「ガウンで足りなかったから、ショールを持ってきた」
「違います」
「何が」
「あれは、ただ」
「ただ?」
「死ぬほどのものでは――」
言った。
言ってから、リャン自身が固まった。
ライレイの口元が、ゆっくり上がる。
「へえ」
「……」
「死ぬほどじゃないって知ってるんだ」
「違う、私は」
「ワタシたち、毒の量について君に説明したっけ?」
「それは……一般論として」
「一般論?」
「砒素だと聞きました。なら」
ライレイの目が止まった。
「誰から聞いたの?」
「……」
「砒素だって、まだ公表してないよ」
リャンの顔から血の気が引いた。
沈黙が落ちる。
「私は」
「うん」
「アレクシア様を殺そうとしたわけではございません」
「アデルちゃんね」
「まだ正式な王太子妃ではないと聞いておりました」
止められなかった。
「まだ婚約者であるなら、王族殺害には当たらない。ならば、そこまでの危険はないと――」
ライレイが目を閉じた。
リュシアンは微動だにしなかった。
リャンだけが、今自分が何を言ったのか理解するまで数秒かかった。
「……違」
「死罪だな」
リュシアンが言った。
灰青色の瞳には何の感情も浮かんでいない。
「決まりだ」
「王太子殿下!」
「この国で、王位継承者の正式な婚約者に対する故意の殺害未遂は死罪だ」
「私は殺害など」
「今、自分で認めた」
「違う!」
初めてリャンの声が大きくなる。
「私は命令されただけだ!」
ライレイの金色の瞳が開く。
「誰に?」
リャンの唇が止まる。
「……」
「兄上?」
「…………」
「言えば?」
ライレイの声は、ひどく優しかった。
「どうせ兄上から切られるんだよ? せめて素直に自白したら?」
「第一王子殿下は関係ございません」
「そう」
「私が……私が勝手に」
「そこは守るんだ」
ライレイはしばらくリャンを見つめた。やがて、わずかに肩を竦める。
「まあいいや。君が全部被りたいなら、好きにすればいい」
立ち上がる。
朱色の衣の裾が石床を掠めた。
「でも覚えておきなよ」
金色の瞳がリャンを見下ろす。
「兄上は、君のためには何もしない」
返事はなかった。
ライレイは扉へ向かう。
「リュシアン、行こう」
「ああ」
リュシアンも立ち上がった。
最後に一度だけリャンを見る。
「次に口を開く時は、考えてから話せ」
それだけ言い残し、部屋を出た。
*
王族居住区へ戻るまで、二人はほとんど話さなかった。回廊へ差し込む夕暮れの光が、白い石床を赤く染めている。
しばらく歩いたところで、ライレイが口を開いた。
「怖かった」
「何が」
「リュシアン」
「俺?」
「久々に冷徹王子見た」
「誰が冷徹王子だ」
「昔そう呼ばれてたじゃん」
「勝手に呼ばれてただけだ」
「でも今の顔なら納得」
「お前も大概だっただろ」
「俺はいつも優しいよ」
「さっきまで『ワタシ』だった奴が何言ってる」
「仕事終わったから」
「切り替え早いな」
「大事だよ」
二人の口調が少しずついつものものへ戻っていく。
アデルの部屋の前へ着く頃には、リュシアンの表情にも人らしい温度が戻っていた。
ただ、扉の前でライレイが足を止める。
「リュシアン」
「何だ」
「先に謝らせて」
さっきまでとは違う声だった。
再び、王太子のものになる。
リュシアンは何も言わず、扉を開けた。
*
アデルは先ほどより少し顔色を取り戻していた。
寝台の上で背に枕を重ね、膝の上には薄い毛布を掛けている。銀髪もメリーに整えてもらったらしく、片側へ緩く編まれていた。
その傍らにはユエもいた。
小さな机へ薬瓶を並べ、飲んだ量と時刻を記録している。黒髪を簡素にまとめた横顔には、病人の部屋にいるからといって過度に気遣う様子もなく、普段通りの静けさがあった。
ライレイが入ってきたのを見ると、アデルの新緑色の瞳が少し明るくなる。
「ライレイ殿下」
「寝てなくていいの?」
「寝すぎて眠くなくなりました」
「病人あるあるだね」
いつもの調子で答えかけて、ライレイは止まった。
寝台から少し離れた場所で姿勢を正す。
「アデル・アレクシア嬢」
呼び方が変わった。
アデルもそれに気づいたらしい。
ライレイは深く頭を下げた。
「このたびは、シャン国からワタシが連れてきた者によって、あなたを危険に晒しました」
「ライレイ殿下」
「交易使節団の責任者はワタシです。フー・リャンを紹介したのが第一王子であっても、最終的に同行を認め、スピネリアへ連れてきた責任はワタシにあります」
普段の軽い声音がない。
「シャン国王太子として、正式に謝罪します。本当に申し訳ありませんでした」
アデルが何か言うより先に、リュシアンが口を挟んだ。
「ライレイ。お前の責任じゃないとは言わない。でも、全部お前の責任でもない」
ライレイが顔を上げる。
「最初から警戒していた。俺にも伝えていた。それでも交易を受け入れたのはスピネリアだ」
「リュシアン」
「スピネリア王太子として言う。今回の件は両国で捜査する。それでいい」
ライレイはしばらく親友を見ていた。
それから、小さく息を吐く。
「……ありがとう」
「それと」
「ん?」
「本人にも聞け」
二人の視線が寝台へ向く。
アデルは二人を交互に見た。
「私は、ライレイ殿下に謝罪していただくより、今後も交易を続けていただきたいです」
「アデルちゃん」
「今回の事件で薬品も織物も危険だとして止めてしまえば、第一王子殿下の思惑通りになってしまうのでは?」
ライレイが瞬きをする。
「……病人のくせに鋭いなあ」
「病人でも頭は動きます」
「仕事しようとしてリュシアンに止められてたけど」
「それは」
「止めた」
リュシアンが即答する。
「寝かせてくださいませ」
「寝ろ」
「眠くないのです」
「目を閉じてろ」
「それは退屈です」
さっきまでの冷たい王太子はどこへ行ったのだろう。
ライレイは二人を見比べる。
「……俺、もう謝らなくていい?」
「十分です」
アデルが答えた。
「よかった」
ライレイはようやくいつもの笑顔に戻る。
「じゃあアデルちゃん、お詫びに何か欲しいものある?」
「ございません」
「遠慮しないで」
「では」
アデルが少し考えた。
「ユエ様を、しばらくお借りしてもよろしいですか?」
「……わたくしを?」
記録を書いていたユエが顔を上げる。
「はい。毒と薬について、もっと教えていただきたくて」
「駄目」
リュシアンが即答した。
「なぜです?」
「治ってからにしろ」
「今なら寝台におりますので、講義を受けるだけです」
「休め」
「ですが」
「アデル」
「はい」
「毒殺されかけた翌日に毒の勉強を始めるな」
非常にもっともだった。
アデルが口を閉じる。
「王太子殿下のおっしゃる通りかと」
ユエまで加勢した。
「ユエ様まで」
「回復なさってからでしたら、わたくしでよろしければ、いくらでも」
「本当ですか?」
途端にアデルの瞳が明るくなる。
「はい」
「では、砒素以外にも衣服へ」
「アデル」
「……はい」
リュシアンに止められた。
ライレイが吹き出す。
「ははっ」
「笑うな」
「いや、アデルちゃん変わんないなと思って」
「何がでしょう」
「普通、毒殺されかけたら毒を嫌いになるでしょ」
「知識に罪はございません」
「ほら」
ライレイが楽しそうにリュシアンを見る。
「相変わらずだね」
「知ってる」
リュシアンは呆れたように答えながら、寝台の脇へ腰を下ろした。
そして自然にアデルの手へ触れる。
「まだ冷たいな」
「そうでしょうか」
「そう」
片手で包み、もう片方の手を額へ伸ばす。熱を確かめる指先が、銀色の前髪をそっと避けた。
「熱は?」
「先ほどより下がっております」
ユエが答える。
「今夜ぶり返さなければ、ひとまず安心かと」
「そうか」
リュシアンの表情が少し緩む。
アデルは包まれた自分の手を見た。
「リュシアン様」
「何だ」
「近いです」
「昨日死にかけた人間が何言ってる」
「死にかけてはいません」
「重篤になる可能性があった」
「ユエ様がそう仰ったのですか?」
「ああ」
「では」
アデルが少し考える。
「もう少し近くても構いません」
「……」
ライレイが黙った。
リュシアンも黙った。
ユエだけが、静かに二人を見ている。
「寒いので」
「今それ言う?」
ライレイが呆れたように言った。
「何かおかしいでしょうか」
「いや、俺そろそろ帰ろうかなって」
「ライレイ」
「何?」
「帰れ」
「冷たいなあ。さっき尋問であれだけ話を合わせてやったのに」
ライレイがわざとらしく肩を落とす。
「それとこれは別だ」
「はいはい」
ライレイは肩を竦めて扉へ向かった。
「じゃあ、お大事に。ユエ、薬は?」
「今夜もう一度様子を見ます」
「じゃ、任せた」
「御意にございます」
ユエも薬瓶を片づけ始める。
「では、わたくしもいったん失礼いたします」
「ありがとうございました、ユエ様」
「いいえ」
ユエは一礼し、そこでふと視線を上げた。
リュシアンはまだアデルの手を握っている。
アデルも離そうとしていない。
ユエの暗赤色の瞳が二人を一往復した。
「アレクシア様」
「はい?」
「随分、愛されておいでですね」
「…………」
アデルの顔が止まった。
次の瞬間、白かった頬に一気に赤みが戻る。
「ユ、ユエ様」
「顔色が戻りました」
淡々としている。
「薬より効いたかもしれません」
「お前」
リュシアンが額を押さえる。
ライレイは扉の前で肩を震わせていた。
「ユエ、好きだなあ」
「何がでしょう」
「いや、何でもない」
「では、失礼いたします」
本人だけが何も分かっていない顔で頭を下げる。
「御用がございましたらお呼びくださいませ」
ユエとライレイが部屋を出ていく。
扉が閉じた。
二人きりになる。
「…………」
「…………」
アデルはまだ赤い。
リュシアンは握っていた手を離さなかった。
「アデル」
「はい」
「もう少し近くていいんだったな」
「今それを確認なさるのですか?」
「自分で言っただろ」
「言いましたけれど」
リュシアンは椅子を寝台へ寄せた。
抱きしめもしない。口付けもしない。ただ、包んでいた手だけは離さない。
「早く治れ」
「命令ですか?」
「命令」
「王太子として?」
「婚約者として」
アデルの口元がゆっくり緩む。
「では」
「うん」
「御意にございます」
一瞬の沈黙。
リュシアンの眉が寄った。
「それ、ユエの真似だろ」
「分かりました?」
「やめろ」
「なぜです?」
「似合わない」
「そうでしょうか」
「アデルは普通に『はい』でいい」
「はい」
「……それでいい」
ようやく、リュシアンも笑った。




