第三十六話 選ぶ香り
アデルの部屋を出ると、回廊にはすっかり夜の気配が降りていた。高い窓の向こうでは陽が沈み、白い石壁に掛けられた燭台の炎だけが、磨き込まれた床へ細長い影を落としている。
ライレイはしばらく黙って歩いていた。
隣にはレン・ユエがいる。艶のある黒髪は首の後ろで簡素にまとめられ、身につけているのも使い慣れた濃藍の衣だった。昨夜、深紅のガウンを纏って夜会に立っていた令嬢と同じ女とは思えないほど飾り気がない。それでも伏し目がちな暗赤色の瞳や、白い頬から顎へ落ちる端正な線は隠しようもなく、華やかさを取り去った方がかえって彼女自身の輪郭がよく見えた。
使節用の客室へ続く角を曲がったところで、ライレイが口を開いた。
「今回の件があった。織物の交易品はすべて捨てて」
後ろに控えていた官吏が、僅かに足を止める。
「すべて、でございますか」
「全部。フー家から持ち込んだものはいったん処分。交易品の選定もやり直す」
軽い口調だったが、そこに迷いはなかった。戦場でも政務でも、ライレイは不要と判断したものを抱え続けない。切ると決めれば早い。それが彼の強さであり、恐れられるところでもあった。
「承知いたしました」
官吏が頭を下げる。
その横で、ユエが静かに言った。
「切り捨てるのが随分お早いですね」
ライレイの足が止まった。
以前にも、似たようなことを言われた気がする。
必要がないと判断した瞬間、次へ行く。
戦場では、それで生き残った。迷っている間に死ぬ人間を何人も見た。
ライレイはゆっくり振り返る。赤褐色の髪が肩の後ろへ流れ、燭火を受けた金色の瞳が細くなった。
「お前なら、捨てない選択を作れるのか」
ユエは少しだけ考えた。
焦りも、怯えもない。
「二日ほどいただければ」
「何をするの」
「フー家が持ち込んだ織物をすべて検分いたします。毒が一部の品だけに仕込まれたのであれば、無関係な品まで捨てる理由はございません」
「全部調べられる?」
「二日あれば」
「一人で?」
「必要な人手はお借りいたします」
即答だった。
ライレイはしばらくユエを見る。
捨てるのは簡単だ。
危険を避けるだけなら、その方が早い。
けれどこの女は、その間に別の道がないか探すらしい。
「進めろ」
ユエは静かに頭を下げた。
「御意にございます」
ライレイは再び歩き出す。
「それと、晩餐に行く。付き合え」
「わたくしが?」
「他に誰がいるの」
「第一王子殿下推薦の、毒殺者を輩出してきた家系ですが。よろしいので?」
「それくらいで俺は死ねない」
ユエの目が、ほんの僅かに動いた。
死なない、ではない。
死ねない。
その違いに気づいたのだろう。
けれど何も訊かなかった。
「かしこまりました」
「そこは?」
「何でしょう」
「御意にございます、じゃないの」
「食事まで命令でございましたか?」
「……普通に来て」
「では、喜んで」
ほんの一瞬、ユエの口元が緩んだように見えた。
ライレイが見直した時には、もういつもの無表情へ戻っていた。
*
その夜、使節団へ与えられた貴賓室の食卓には、スピネリアとシャン、両国の料理が並べられていた。香草と葡萄酒で蒸した白身魚、果実の酸味を添えた肉料理、シャンから持ち込まれた香辛料を使った温かな汁物。食卓の中央には、香りの弱い白い花だけが控えめに飾られている。
ライレイの正面にユエ。
その横にはリンレイが座っていた。
「兄様」
「ん?」
「アデル姉様は、いかがでしたか?」
ライレイの手が止まる。
「持ち直してきているよ」
「よかったです」
「それより、いつの間に呼び方変えたの」
リンレイが瞬きをした。兄と同じ赤褐色の髪を高い位置で結い、大きく吊り上がった金色の瞳には、本気で何を問われているのか分からないという色が浮かんでいる。
「何がでしょう」
「アデル姉様」
「先日からです」
「聞いてない」
「ご報告することですか?」
「……まあ、いいけど」
口では不満そうに言いながら、ライレイの目元は緩んでいた。リンレイがアデルに懐いているのは以前から分かっている。毒を盛られて寝込んだ彼女の側を任せたことで、さらに距離が縮まったのだろう。
「それで」
ライレイが杯を置いた。
「ユエ」
「はい」
「命を狙われたらどうする?」
唐突だった。
リンレイが兄を見る。
ユエは肉を切っていた手を止めただけだった。
「いつも狙う側でございましたので、新鮮ですね」
「そういう感想?」
「では、身元と目的の確認をさせていただきます」
「逃げないの?」
「逃げるより、拘束を優先したいところです」
「戦える?」
「最低限は」
ライレイの金色の瞳が、値踏みするように細くなる。
「どうやって? 暗殺者でしょ? 正面から迎え撃てるの?」
「暗殺者が必ずしも、不意打ちしかできないわけではございません」
ユエは何でもないことのように杯へ指を添えた。
「標的に気づかれた時点で任務を放棄するのであれば、暗殺者としては二流かと。潜入に失敗した後の制圧、拘束、逃走まで一通り叩き込まれております」
「へえ」
「もっとも、真正面から大人数を相手取るのは専門外にございます」
「一人なら?」
「問題ございません」
平然としている。
細身の身体にも、白く華奢な指にも、武人らしい逞しさはほとんどない。それでも冗談を言っている顔ではなかった。
リンレイがじっとユエを見る。
「……強いのですね」
「生き残る程度には」
「十分だよ」
ライレイは楽しそうに口元を緩めた。
「家門への忠誠は?」
「ございます」
「意外」
「家を嫌ってはおりませんので」
「でも第一王子への忠誠はない」
「家門と顧客は別です」
「顧客」
「ご贔屓いただいておりますから」
「兄上を顧客って呼ぶ奴、初めて見た」
「代金を払ってくださる方は、皆様お客様です」
リンレイが静かに茶を飲む。
兄の質問は止まらない。
「レン家でのお前の立ち位置は?」
「現在は薬舗と製薬工房の実務、それから国外へ出す品の鑑定を任されております。家督には特に興味はございません」
「当主の言うことは聞く?」
「合理的であれば」
「合理的じゃなかったら?」
「理由を伺います」
「それでも納得できなかったら?」
「従いません」
即答だった。
「強いね」
「普通かと」
「普通ではないと思います」
リンレイが静かに口を挟んだ。
ユエがそちらを見る。
「そうでしょうか」
「はい」
「では、リンレイ殿下は?」
「わたくしは……」
少し考えてから、リンレイは兄を見る。
「兄様の命令でも、納得できなければ訊きます」
「ほら」
ユエが言った。
「王女殿下も同じです」
「リンレイを基準にしないで」
「なぜです?」
「この子も大概だから」
「兄様」
「褒めてる」
「そうは聞こえません」
ライレイは笑い、再びユエへ視線を戻した。
「第一王子以外の王子に繋がりは?」
「ございません」
「本当に?」
「依頼を受けたことはございますが、継続的なお付き合いはありません」
「兄上から俺を探れって言われたことは?」
「ございます」
ライレイの手が止まった。
リンレイも止まる。
「……あるんだ」
「はい」
「で?」
「お断りしました」
「なんで」
「報酬が見合っておりませんでしたので」
ライレイが黙った。
リンレイも黙った。
ユエだけが何事もなかったように食事を再開する。
「……そこ?」
「はい」
「俺を探る仕事だよ?」
「存じております」
「第一王子からの依頼だよ?」
「存じております」
「それで、断った理由が金額?」
「危険度、必要日数、情報収集に要する人員を考えれば、提示額では赤字にございます」
そこでユエは一度だけ手を止め、暗赤色の瞳をまっすぐライレイへ向けた。
「加えて、王太子殿下がお相手とあれば、諜報員を数名失う損害リスクがございますので」
ライレイの眉が僅かに上がる。
「よく分かっているね」
口元に、薄い笑みが浮かんだ。
「自慢じゃないが、生きて帰らせてあげたことないんだ」
言葉だけなら冗談にも聞こえる。
けれど金色の瞳には、笑っていない部分があった。
ユエは怯えるでもなく、納得したように小さく頷く。
「やはりそうでしたか。お噂に違わぬようで」
「怖くない?」
「想定の範囲内にございます」
「それで報酬を上げれば受けた?」
「条件次第では」
「受けるんだ」
「仕事ですので」
ライレイは数秒黙ったあと、声を上げて笑った。
「ははっ。いいな、それ」
「ありがとうございます」
「褒めてるか分かってる?」
「王太子殿下のお顔を見る限りでは」
「ちゃんと見てるんだ」
「仕事ですので」
リンレイが兄とユエを交互に見た。
質問の内容が、段々とおかしくなっている。
「兄様」
「何?」
「尋問になってきております」
「そう?」
「はい」
「本人は嫌がってないけど」
ユエが顔を上げる。
「構いませんよ」
「ほら」
「わたくし、拷問の訓練は受けておりますので」
「…………」
リンレイが黙った。
ライレイも一瞬だけ黙る。
それから、金色の瞳が楽しそうに細くなった。
「気に入った」
「ありがとうございます」
ユエは素直に一礼した。
「王太子殿下にもご贔屓いただけますと、レン家としても――」
「俺の妃候補にしよう」
「は?」
初めて、ユエの顔から完全に平静が消えた。
伏し目がちだった赤い瞳が大きく開き、形のいい眉が僅かに上がる。
「へ?」
リンレイも同時に声を漏らした。
ライレイだけが、何事もなかったように杯を持ち上げる。
「安心してくれ。側室はとらないから」
「そこではございません」
「何が?」
「なぜ今のお話から、妃候補になるのでしょう」
「条件がいい」
「何の条件です?」
「俺の隣に置く人間として」
ユエが黙った。
リンレイは兄を見た。
そこでようやく分かった。
命を狙われた時の対応。
家門への忠誠。
王子たちとの繋がり。
家での立場。
兄は最初から、薬師としての能力だけを見ていたわけではない。
自分の隣へ置いても、誰かの派閥に飲まれず、自分の頭で判断し、必要なら王太子にすら異を唱えられる人間かどうかを見ていた。
「兄様」
「ん?」
「そういうことは、もう少し順序立ててお話しになった方がよろしいかと」
「そう?」
「はい」
ユエも静かに頷いた。
「第四王女殿下に同意いたします」
「じゃあ帰ったら正式にレン家に伺おう」
「…………」
ユエの赤い瞳が再び僅かに見開かれた。
「話を聞いておられましたか?」
「聞いたよ。順序が必要なんでしょ?」
「そういう意味では」
「じゃあ、まず家に挨拶」
「兄様」
リンレイが額を押さえた。
ユエも珍しく言葉を失っている。
ライレイだけが満足そうだった。
「これなら正式でしょ?」
「正式ではございますが……」
「じゃあ問題ない」
「問題しかございません」
すぐに返ってきた。
ライレイはまた笑った。
普段ほとんど崩れない女の顔を、自分が何度も崩している。
そのことが妙に面白かった。
*
二日後。
フー家から持ち込まれた織物の再検分が終わった。
「問題ございません」
検分用の広間で、ユエが帳面を閉じる。
卓上には色も織りも異なる絹や麻、薄布が分類して並べられていた。検分済みの札が一枚ずつ添えられ、別の卓には廃棄予定の布だけが隔離されている。
「全部?」
ライレイが訊く。
「大半は」
ユエは一箇所を示した。
「深緑の反物に直接触れて保管されていた部分だけ、同じ反応がございました。こちらは廃棄いたします。それ以外の織物からは異常を確認しておりません」
「つまり」
「交易品として扱えます」
ライレイは並んだ布を見る。
二日前なら、すべて捨てていた。
それが今は、ほんの一部を切り離すだけで済んでいる。
「……捨てずに済んだね」
「はい」
「いい仕事するなあ」
「ありがとうございます」
「褒めてる」
「承知しております」
ユエの表情は変わらない。
けれどライレイには、ほんの少しだけ得意そうに見えた。
「では」
帳面を受け取る。
「交易協議を再開しようか」
*
数日止まっていた交易協議は、予定を組み直して再開された。
会議室にはシャン側の使節団、スピネリアの商務官、リュシアン、ライレイ、リンレイ、そしてアデルも同席していた。体調はほぼ戻っているものの、リュシアンから「今日は座っていろ」と厳命され、珍しく最初から椅子についている。
その席へ、新たに一人の令嬢が招かれた。
「紹介する。ロザリー・ウェストン嬢だ」
リュシアンが言う。
柔らかな金髪を上品に結い上げたロザリーが、一礼する。淡い青のドレスは華美すぎず、それでもウェストン公爵家の令嬢らしい品格を損なわない仕立てだった。以前より香りもずっと控えめで、その分、本人の明るい表情や堂々とした立ち居振る舞いがよく目立つ。
「ウェストン公爵家は、スピネリアでも有数の交易網を持っている。国外市場については、王宮の商務官以上に詳しい部分も多い」
「買い被りですわ」
ロザリーはそう言いながら、少しも萎縮せず席についた。
「ですが、売ることに関してでしたら、多少はお役に立てるかと」
「心強いね」
ライレイが言う。
「シャンのものをスピネリアへ売りたい」
「でしたら、こちらからも条件がございます」
「聞こうか」
ロザリーは卓上の品目表へ目を落とした。
「スピネリアは平地が多く、金属、鉱物、宝石の多くを国外からの輸入に頼っております。シャンは山地も広く、新領地を含め鉱山資源をお持ちだと伺いました」
「ああ」
「鉄、銅、それから装飾用の石。安定して供給いただけるのでしたら、王室だけではなく職人街にも需要がございます」
「武器?」
ライレイが尋ねると、リュシアンが先に答えた。
「スピネリアでの軍事需要はそこまで多くないが、騎士団は保有している。仕事はほぼ、不正貴族の鎮圧だがな」
「へえ」
ライレイの金色の瞳が楽しげに細くなる。
「たまに合同訓練でもするかい?」
「悪くない」
「兄様」
リンレイが僅かに眉を寄せる。
ロザリーも二人の王太子を見比べてから、にこやかな表情のまま割って入った。
「話がずれております。武器だけではありません」
「はい」
ライレイが素直に戻る。
リュシアンも何事もなかったように黙った。
ロザリーは一つ咳払いをして続けた。
「農具、工具、建築用の金具、香水瓶の装飾、宝飾品。金属を使う仕事はいくらでもございます」
「なるほど」
「宝石も歓迎いたしますわ。ただし」
「ただし?」
「売るだけでは困ります」
ライレイが笑う。
「商人らしいね」
「当然です。代わりに、スピネリアのものもシャンに買っていただかなければ」
「何を売りたい?」
「香水はもちろんですが、それだけではございません。革製品、陶芸品、硝子器。それから葡萄酒も」
「酒は売れそう」
「でしょう?」
ロザリーの顔に、少しだけ得意げな笑みが浮かぶ。
隣でアデルも資料へ目を落とした。
「香水については、気候差も考えた方がよいかと思います。シャンでは直接肌へまとうより、衣や髪へ香を移す文化が強いですから」
「でしたら、香水そのものだけではなく、香料や薫香として売る方が適している地域もありそうですわね」
「はい」
「容器も変えた方がよさそう」
「輸送距離を考えますと、瓶ももう少し厚くした方が安心です」
ロザリーとアデルの間で、話がどんどん具体的になっていく。
ライレイはそれを眺めながら、手元の品目表へいくつか印をつけた。
悪くない。
いや、想像していた以上だった。
香料。
薬品。
織物。
鉱物。
金属。
宝石。
革。
陶器。
硝子。
一つの品に依存しない交易路ができれば、どれか一つの市場が崩れても関係そのものは残る。
「リンレイ」
「はい、兄様」
「聞いたか? 今の品々を交易候補に追加するように」
「はい、兄様」
一拍。
ライレイが妹を見る。
「こういう場では『王太子』と呼ぶんだよ」
リンレイの金色の瞳が少しだけ泳いだ。
「……はい、王太子殿下」
「よろしい」
ロザリーが口元を隠して笑う。
リュシアンも僅かに肩を揺らしていた。
「何?」
「いや」
「笑ってるじゃん」
「気のせいだ」
「絶対笑った」
会議は、そのまま予定していた時間を大きく越えた。
それでも誰も止めなかった。
成果は、上々だった。
*
さらに数日後。
シャン使節団の帰国の日が来た。
王宮正門には馬車が並び、荷の最終確認をする従者たちが忙しく行き交っている。秋の風は数日前より少し冷たくなり、馬の吐息にも薄く白いものが混じっていた。
アデルも見送りに出ていた。
体調はすっかり戻っている。白かった頬にはいつもの色があり、腰近くまである銀髪も今日はきちんと結い上げられていた。光を受ける瞳も、新緑の奥に紫を含んでいつものように澄んでいる。
それを確認してから帰ると、ライレイが言い張ったのだ。
「毎度うちの国が悪いねえ」
馬車の前で、ライレイがため息をつく。
「本当にね」
リュシアンが返した。
「否定してよ」
「今回は否定できない」
「冷たいなあ」
「お前も大変だな」
「ほんとにね」
ライレイは笑った。
軽い笑みだった。
けれど金色の瞳の奥には、まだ片づいていないものが残っている。
「でも、これで第一王子は潰せそうかな」
「血生臭いな」
「王位争いなんてそんなもんだよ」
「うちへ持ち込むな」
「今回で最後にしたいね」
「毎回そう言ってないか?」
「言ってないよ。たぶん」
「信用ならない」
少し離れたところでは、アデルとユエが話していた。
「こちら、ありがとうございました」
アデルが一冊の薄い帳面を胸へ抱える。
「毒物目録だけでは足りないと思いましたので、解毒に使う薬草の対応表も加えております」
「とても助かります。私も、香料として使われる植物のうち、量によって刺激や毒性が出るものを整理してお送りしますね」
「ありがたく」
「あと、先日仰っていた保存方法ですが」
「はい」
「樹脂系の香料と薬草は、同じ倉へ入れない方がよいかと」
「やはり香りが移りますか」
「種類によります。今度、比較試験をしてみましょう」
「ぜひ」
二人とも楽しそうだった。
ただし話題は、薬草の保管と毒性である。
リュシアンが横から言った。
「数日で随分仲良くなったな」
「はい」
アデルが素直に頷く。
「ユエ様のお話はとても興味深いです」
「アレクシア様も、香料について非常に詳しくていらっしゃいます」
「そうじゃない」
リュシアンが額を押さえた。
「何がでしょう」
二人同時だった。
「……似てるな」
「何がです?」
また同時だった。
ライレイが吹き出す。
「相性いいね」
「研究分野が隣接しておりますので」
ユエが淡々と答える。
「そういう意味じゃないんだけど」
「では、どういう」
「いや、いい」
ライレイは手を振った。
そして、リュシアンとアデルを見る。
「次に訪問できるのは、二人の結婚式かな」
アデルの白い頬に、薄く赤みが差す。
リュシアンは逆に当然の顔だった。
「来るだろ」
「招待待ってる」
「送る」
「ちゃんと豪華なのにしてね」
「招待状に豪華も何もあるか」
「金箔とか」
「自分で貼れ」
「ひどい」
リンレイが兄の隣へ来る。
「兄様」
「ん?」
「お気をつけて」
「ああ」
ライレイの声だけが少し柔らかくなる。
「何かあったらすぐ鷹を飛ばして」
「承知しております」
「無茶するなよ」
「兄様にだけは言われたくありません」
「最近みんなそれ言うなあ」
リンレイが少し笑った。
馬車の扉が開く。
ライレイが乗り込み、続いてユエも一礼して中へ入った。
「では」
黒髪の女が窓から顔を見せる。
「アレクシア様。どうぞお元気で」
「ユエ様も。またお会いしましょう」
「はい」
馬車が動き出す。
蹄の音が石畳へ響き、やがて使節団は王宮の門を抜けていった。
*
王都を離れてしばらくしてから、ユエが口を開いた。
「王太子殿下」
「ん?」
「一つ、確認してもよろしいでしょうか」
「どうぞ」
「第一王子殿下の指示であったという証拠は、ございませんね」
ライレイは窓の外を見たまま答える。
「そうだね」
フー・リャンは最後まで第一王子の名を出さなかった。
口を滑らせた。
命令されたとも言った。
だが、誰からとは言わなかった。
文書もない。
証人もいない。
今のままでは、第一王子まで罪を繋ぐことはできない。
ライレイが顔を戻した。
「ユエなら、どうする?」
軽い問いに聞こえる。
けれど違う。
食事の席で口にした言葉を、ライレイは忘れていなかった。
妃候補。
自分の隣へ置くなら。
こういう時、どう考える女なのか。
ユエは少しだけ窓の外へ視線を向けた。流れていく街道を赤い瞳が静かに追う。
「わたくしでしたら」
「うん」
「フー家にすべての罪を被せたまま、第一王子殿下へ贈り物をお返しいたしますかね」
ライレイの目が細くなる。
「贈り物?」
「例の布地は、まだ余っておりますから」
一瞬、馬車の中が静かになった。
それからライレイが笑う。
「悪くない返事だ」
「そうでしょうか」
「うん」
「それは何よりにございます」
「ちゃんと回収してきたんだね」
「使えるものを捨てるのは、もったいのうございますので」
「いい仕事をする」
「ありがとうございます」
ユエは微かに頭を下げる。
ライレイは背もたれへ身体を預けた。揺れる馬車の窓から、遠ざかっていくスピネリアの王都が見える。
「じゃあ、帰ったら仕上げをしようか」
ユエが一拍置いた。
「して、報酬のほどは?」
ライレイは窓枠へ頬杖をついたまま、にっこり笑った。
「そんなの、第一王子の財布から好きなだけどーぞ」
ユエの暗赤色の瞳が、僅かに細くなる。
「御意にございます」
馬車はそのまま、東へ向かって走り続けた。




