第三十七話 朝を待つ香り
深緑のガウンの事件から、ひと月ほどが過ぎた。
王宮の庭園では遅咲きの薔薇が終わり、乾いた葉が石畳の端へ積もるようになっていた。朝の空気は日に日に冷たくなり、開け放していた温室の窓も、今では昼の暖かい時間だけ細く開けられている。
アデルの生活も、ようやく以前の調子へ戻っていた。
「もう少し、こちらを詰めてもよろしいでしょうか」
「はい」
両腕を軽く広げたまま答えると、仕立屋がアデルの腰へ布を寄せた。
今日は婚礼衣装の最終仮縫いである。
銀白色を基調としたガウンには、スピネリア王家の深い青が細い刺繍として入り、裾へ近づくにつれて蔓草と小さな花の意匠へ変わっていく。以前見た時にはまだ布の状態だったものが、今はすっかり衣装の形になっていた。
袖を通し、紐を締め、長い裾が床へ落ちる。
鏡の中に映った自分を見て、アデルは少しだけ息を止めた。
「……本当に、着るのですね」
思わず漏れた。
「何を今さら」
背後から声がする。
振り返らなくても分かった。
「リュシアン様」
「似合ってる」
窓際に立っていたリュシアンは、最初からずっとこちらを見ていたらしい。濃紺の執務着に黒髪をきちんと整え、王太子らしい隙のない姿をしているくせに、灰青色の瞳だけがひどく柔らかい。
「まだ完成しておりません」
「完成してなくても似合ってる」
「ありがとうございます」
「もう一回回って」
「なぜです?」
「後ろも見たい」
「仕立屋の方ではないのですから」
「花婿なんだけど」
「存じております」
言われるまま半分だけ身体を回すと、長く取られた裾が床の上を滑った。
その瞬間、わずかに衣擦れの音がした。
アデルの指が止まる。
ほんの一瞬だった。
深緑の絹。
金属を思わせる乾いた匂い。
身体から力が抜けていった夜。
記憶だけが、不意に蘇った。
「アデル」
近くで声がした。
気づけば、リュシアンが目の前にいた。
「大丈夫です」
「何も聞いてない」
「でも、そのお顔は聞いていらっしゃいます」
「……まあな」
灰青色の瞳が衣装へ落ちる。
事件以降、王家へ届けられる布地については検品方法が見直された。婚礼衣装に使う布も例外ではなく、産地、染料、仕上げに使った薬品まで記録され、アデル自身も一部を確認している。
安全だ。
理屈では分かっていた。
「この布には何もない」
「はい」
「匂いも?」
「いたしません」
「ならいい」
リュシアンの手が伸びかける。
けれど、人前であることを思い出したらしく途中で止まり、代わりに銀白色の袖口を指先で軽く摘んだ。
「綺麗だ」
「布が?」
「アデルが」
「……ありがとうございます」
最近は、こういう言葉を真正面から言われても、以前ほど取り乱さなくなった。
慣れたわけではない。
諦めたのである。
「殿下のお衣装も、ほぼ完成しております」
仕立屋が口を挟んだ。
「午後に最終確認をお願いいたします」
「ああ」
「アデル様のお瞳に合わせた刺繍糸も、予定通り入れておりますので」
「緑?」
リュシアンが自分の袖を見る。
「左様でございます」
すぐに口元が緩んだ。
「見たい」
「リュシアン様」
「何?」
「先ほどまで私の衣装をご覧になっていたでしょう」
「両方見たい」
「随分楽しそうですね」
「楽しいよ」
即答だった。
少し前まで、結婚は面倒だと言っていた男とは思えない。
「婚礼準備がお好きだったのですね」
「違う」
「では?」
「アデルと結婚する準備が好き」
仕立屋たちが一斉に聞こえないふりをした。
アデルは目を閉じる。
「そういうことは、二人きりの時に仰ってください」
「分かった」
一拍置いて。
「あとで言う」
「言わなくて結構です」
「なんで」
楽しそうな声だった。
アデルはため息をつきながらも、鏡の中の自分をもう一度見た。
銀白色の衣装。
深い青。
銀髪。
そして、光の加減で緑から紫へ変わる瞳。
最初にこの王宮へ来た頃には、自分がこんな衣装を着る未来など考えたこともなかった。
宮廷調香師になることだけを考えていた。
それだけで十分だったはずなのに。
「アデル?」
「何でもありません」
鏡越しにリュシアンと目が合う。
「ただ」
「うん」
「もうすぐなのだな、と」
リュシアンが少し笑った。
「ああ」
婚礼まで。
あと、三ヶ月を切っていた。
*
秋が深まるにつれて、婚礼準備は目に見えるものより、目に見えないものの方が増えていった。
衣装や宝飾品なら、選べば終わる。
料理も花も、専門の者たちが形にしてくれる。
けれど、王太子妃になるということは、その日だけ美しい衣装を着れば済む話ではない。
「こちらが、婚礼後の公務予定です」
王妃の私室で渡された紙を見て、アデルは黙った。
午前。
午後。
夜。
その横には翌日、さらに翌日。
「……多いですね」
「減らしたのですよ」
「これで?」
「これでも」
王妃は穏やかに茶を飲んでいる。
その隣ではリュシアンが資料をめくり、向かいには国王まで座っていた。
正式な婚約をしてから何度も受けてきた王太子妃教育も、最近では内容が変わっている。儀礼や歴史を学ぶだけではなく、実際に婚礼後の予定を見ながら、どこへ同行し、どこを任され、何を自分で判断するのかを決める段階へ入っていた。
「問題がございます」
アデルは紙から顔を上げた。
「何だ」
国王が聞く。
「このままですと、調香室へ入る時間がほとんどございません」
室内が少し静かになった。
リュシアンだけは驚かなかった。
むしろ、やはりそこかという顔をしている。
「アデル」
王妃がゆっくり茶器を置く。
「あなたは、婚礼後も宮廷調香師を続けたいのですね」
「はい」
迷わず答えた。
そのためにここまで来た。
宮廷調香師は、王太子妃になるまでの仕事ではない。
「ですが」
アデルは少し考えて続ける。
「王太子妃としての責務を軽んじるつもりもございません」
「分かっています」
「どちらか一方を選ばなければならないのであれば――」
「選ばなくていい」
隣からリュシアンが言った。
アデルが顔を向ける。
「ですが」
「だから、そのために今日は予定を組み直してるんだろ」
「……」
「最初から辞めさせるつもりなら、こんな紙いらない」
言われて、アデルは卓上へ目を落とした。
確かに。
王妃が笑う。
「リュシアンの言う通りです」
「母上」
「珍しく正しいことを言いましたね」
「珍しくは余計です」
国王が小さく息を吐いた。
「宮廷調香師は王家に仕える職だ。王太子妃となったからといって、能力ある者をわざわざ退ける理由はない」
「陛下」
「ただし」
国王の視線がアデルへ向く。
「今までと同じ働き方はできぬ」
それは、アデル自身も分かっていた。
「はい」
「すべてを自分でやろうとするな」
「……」
図星だった。
リュシアンが横で笑う。
「何です?」
「いや」
「笑いましたね」
「父上にまで同じこと言われてると思って」
「リュシアン」
国王に名を呼ばれ、リュシアンが黙った。
今度は王妃が一枚の紙を差し出す。
「調香室に、補佐を置きましょう」
「補佐?」
「記録、在庫管理、納品の日程調整、試料の整理。あなたでなくてもできる仕事は、少しずつ任せなさい」
アデルは紙を見る。
「ですが、香料の管理には知識が必要です」
「だから、あなたが選ぶのです」
「私が?」
「宮廷調香師として」
その言葉に、指が止まった。
これまでのアデルは、父から受け継いだ仕事を、自分一人でこなすことばかり考えていた。
けれど。
いつか自分も、誰かへ渡す側になる。
その前に、誰かと仕事を分けることくらい覚えなければならないのかもしれない。
「……承知いたしました」
「よい返事です」
「選定には時間をいただきます」
「もちろん」
「香料の知識だけではなく、記録をきちんと取れる方がよいです。それから、強い香りを身につけない方」
「もう始まったな」
リュシアンが呟く。
「何がです?」
「仕事」
「必要でしょう」
「ああ」
笑いながら頷く。
「そこはアデルが決めればいい」
アデルは予定表へもう一度目を落とした。
午前の公務。
午後の調香。
逆の日もある。
式典が続く週は調香室へ入れない日もある。
代わりに、何もない日は丸一日使える。
これまでとは違う。
でも、なくなるわけではない。
「リュシアン様」
「ん?」
「ありがとうございます」
「俺に?」
「はい」
「何で」
「続けてよいと、最初から思ってくださっていたのでしょう?」
「当たり前だろ」
本当に、何でもないことのように言った。
「アデルから調香を取ったら、半分くらい別人になる」
「半分も?」
「もっと?」
「そこまででしょうか」
「仕事してる時、楽しそうだから」
その言葉に、アデルは少し黙った。
「俺は、その顔も好きだよ」
また。
こういうことを。
「……ここには陛下と王妃殿下がいらっしゃいます」
「知ってる」
「知っていて仰るのですね」
「もう諦めなさい、アデル」
王妃が笑った。
国王だけが遠い目をしていた。
*
十一月が終わる頃には、王宮の空気から秋の匂いが消えた。
木々の葉はほとんど落ち、朝になれば庭園の端へ薄い霜が降りる。外へ出る時には外套が必要になり、王宮の暖炉にも一日中火が入るようになった。
婚礼後に二人が使う部屋も、ほぼ整っていた。
「これで最後です」
メリーが小さな木箱を卓上へ置いた。
「ありがとうございます」
「本当に最後でしょうか」
「おそらく」
「昨日もそう仰いました」
「昨日は最後だと思っていたのです」
メリーが何とも言えない顔をする。
アデルは悪びれず箱を開いた。
中身は香料瓶ではない。
本だった。
「また?」
扉から入ってきたリュシアンが言った。
「また、とは何です?」
「三箱目」
「本は必要です」
「知ってる」
婚礼後の共用居間には、すでにアデルの本がかなり持ち込まれている。
調香に関するもの。
植物。
医学。
交易。
歴史。
最近は財政や外交の本まで増えた。
一方、リュシアンの蔵書も元から相当な量である。
結果。
「棚、足りる?」
「足りませんね」
「増やさせるか」
「壁が埋まりますよ」
「まだ一面空いてる」
「絵を飾る予定だったのでは?」
「本の方が読む」
「合理的ですね」
「だろ」
メリーが静かに退室していった。
二人だけになる。
アデルは改めて部屋を見回した。
最初に図面で見た時には、ただの線だった場所。
今は、長椅子がある。
机が二つある。
窓際には茶を飲むための小さな卓。
本棚。
暖炉。
リュシアンが仕事へ持っていく書類を一時的に置く棚。
アデルが読みかけの本を積む場所。
まだ使い始めてもいないのに、少しずつ二人のものになっている。
「不思議ですね」
「何が?」
「ここに私の物があることが」
「もう何ヶ月も隣の部屋に住んでるだろ」
「それとは違います」
「どう違う?」
問われ、アデルは考えた。
「戻さなくてよいのです」
「……ああ」
以前、警護のために王太子居住区へ移った時には、一時的なものだと思っていた。
いずれ元の部屋へ戻る。
借りているだけ。
だから物を増やさないようにしていた。
けれど今は違う。
この本も。
机も。
椅子も。
婚礼後も、ここにある。
「戻さなくていいよ」
リュシアンが言った。
「はい」
「むしろ、もっと持ってきていい」
「本棚が足りません」
「増やす」
「そればかりですね」
「部屋はある」
「王宮ですからね」
「そう」
リュシアンが少し近づく。
「アデルの物が増えるの、結構好き」
「なぜです?」
「ここにいる感じがする」
アデルは目を瞬いた。
昔。
リュシアンが調香室へ勝手に椅子を増やしていた。
気づけば、そこが彼の席になっていた。
今度は逆なのかもしれない。
彼の暮らしていた場所へ、自分の物が増えていく。
「では」
アデルは箱から本を一冊取り出した。
「こちらへ置いておきます」
「何の本?」
「シャンからいただいた教本です」
「待て」
リュシアンの手が止まる。
「それは主寝室に置こう」
「なぜです?」
「なんで共用居間に置こうとした?」
「本ですので」
「客も来る」
「読まれることはないと思いますが」
「背表紙の文字が読める人間はいる」
「シャン語ですよ?」
「リンレイ殿下」
「……」
「あと、ライレイ」
「なるほど」
非常に正しかった。
アデルは本を抱え直す。
「では、寝室へ」
「そうして」
「勉強熱心ですね」
「違う」
「何がでしょう」
「その言い方やめろ」
耳が少し赤い。
アデルは笑いを堪えながら、主寝室へ続く扉へ向かった。
その背中へ。
「アデル」
「はい?」
「あと一ヶ月ちょっとだな」
足を止める。
「……そうですね」
婚礼。
まだ先だと思っていた。
春に準備を始め、夏が過ぎ、秋も終わった。
「緊張してる?」
「少し」
「式?」
「それも」
「他は?」
アデルは腕の中の本を見る。
「……色々と」
リュシアンが笑った。
「俺も」
「リュシアン様も?」
「するよ」
「意外です」
「ひどくない?」
「殿下は何でも平然となさるので」
「平然としてるふりが上手いだけ」
それは。
少し分かるようになった。
一年以上近くにいる。
灰青色の瞳がほんの少し泳ぐ時。
黒髪へ手をやる回数が増える時。
いつもより口数が減る時。
昔なら気づかなかった。
「では」
アデルは少し笑う。
「一緒ですね」
「ああ」
「安心しました」
「俺も」
二人の間に、静かな笑みが落ちた。
*
十二月に入ると、王都では新年の準備と王太子の婚礼準備が完全に重なった。
大通りには冬の飾りが下げられ、広場には新年の市が立つ。王宮へ出入りする荷車は日ごとに増え、食材、酒、花、布、蝋燭、食器、贈答品が次々と運び込まれてきた。
外国からの使節も、少しずつ到着し始めている。
「兄様は二十八日に着くそうです」
リンレイが言った。
午後の調香室。
アデルの作業台には、婚礼の香りの最終試作品が置かれていた。
「随分ぎりぎりですね」
「シャンでも年末の政務がございますので」
「ユエ様も?」
「同行なさるそうです」
「そうなのですね」
思わず声が明るくなる。
リンレイがこちらを見る。
「アデル様、ユエ様がお好きですね」
「お話がとても面白いので」
「兄様も同じことを申しておりました」
「ライレイ殿下が?」
「はい。『話していて飽きない』と」
アデルは少し考えた。
「仲良くなられたのですね」
「……どうでしょう」
リンレイが微妙な顔をする。
「兄様からの手紙には、ユエ様のお名前がよく出てまいります」
「それは仲がよろしいのでは?」
「半分ほどは文句です」
「では、なおさらでは?」
「そうなのでしょうか」
アデルは自分の経験を思い返した。
リュシアンも最初は、随分と文句が多かった。
調香室へ来ては、香りが強い、これは嫌だ、それは何だ、今日は何を作っていると、頼んでもいないのに毎日のように顔を出した。
思えば、かなり分かりやすかった。
「おそらく」
「そうですか」
リンレイはまだ納得していないらしい。
「ところで」
「はい」
「こちらが婚礼の香りですか?」
卓上には、小さな硝子瓶が一本置かれている。
「ほぼ完成です」
「嗅いでも?」
「もちろん」
アデルは試香紙へ一滴落とし、差し出した。
リンレイが鼻元へ寄せる。
最初に立ち上がるのは、華やかな花ではなかった。
朝露に濡れた温室の土と、瑞々しいハーブ。
そこへローズマリー、ジュニパーベリー、カシスの葉が重なる。
冷たい朝の空気の中で葉を撫でた時のような青さと、湿った土の柔らかさ。まだ花々が開ききる前の、静かで瑞々しい香りだった。
「……温室?」
リンレイが顔を上げた。
アデルは少し嬉しくなって頷く。
「はい。リュシアン様から、初めて私個人のためにいただいた贈り物をイメージしております」
宮廷調香師のためでも。
未来の王太子妃のためでもない。
仕事に使わなくてもいい。
何も作らなくてもいい。
ただアデルが好きなように過ごせる場所として、リュシアンが贈ってくれた温室。
朝露の残る土と、そこで育つ草木の香りを、最初に置いた。
「では、この花は?」
時間とともに、青い葉の輪郭が少しずつほどけていく。
その奥から現れるのは、夜に咲く白い花の甘い香りだった。
華やかでありながら重すぎず、近づいた時にだけ気づくような柔らかな甘さ。
「イェライシャンです」
「ああ」
リンレイも知っている。
「リュシアン殿下のお誕生日に?」
「はい」
今度は、アデルからリュシアンへ贈ったものだった。
国中からあらゆる贈り物を受け取る王太子へ、何を贈ればよいのか分からなくて。それでも、自分だからこそ渡せるものを考えた末に選んだ花。
「ですから、この香りは」
アデルは小瓶へ目を落とした。
「私たちが初めて、お互いのためだけに選んだ贈り物を、一つの香りにしたものなのです」
リュシアンからアデルへ贈られた、朝の温室。
アデルからリュシアンへ贈った、夜に咲くイェライシャン。
一日の始まりと、一日の終わり。
二つの贈り物を重ねた香りだった。
そして、花の甘さがゆっくり薄れていく頃。
最後に肌へ残るのは、アイリス。
柔らかく、少し粉を含んだような静かな余韻が、土と葉と花をひとつにまとめる。
「最後はアイリスなのですね」
「はい」
アデルは微笑んだ。
「華やかな香りだけではなく、時間が経ったあとにも、静かに残るものが欲しかったのです」
リンレイはもう一度、試香紙へ鼻を寄せた。
「……思っていたより静かな香りですね」
「はい」
「王家の婚礼ですから、もっと華やかなものかと」
「私も最初はそう考えておりました」
けれど、二人で考え直した。
誰かへ見せるための豪華な香りではなく。
いつか同じ香りを嗅いだ時、この日までのことを思い出せる香りにしよう、と。
「だから、『朝を待つ香り』なのですね」
リンレイの言葉に、アデルは少しだけ目を細めた。
「ええ。まだ何も始まっていない朝の温室で、これから花が開くのを待つような香りです」
扉が開く。
「何が花開くんだ?」
リュシアンだった。
「ごきげんよう、殿下」
「リュシアン殿下。失礼しております」
「別にいい。それより」
灰青色の瞳が試香紙へ向く。
「できた?」
「ほぼ」
「ほぼ?」
「最後の確認をお願いしたくて」
「俺?」
「はい」
リンレイがすぐに立ち上がる。
「では、わたくしは失礼いたします」
「もう?」
「お邪魔でしょうから」
「別に」
「お邪魔ですね」
アデルが言う。
リュシアンがこちらを見る。
「アデル?」
「最終調整ですので」
「……そういう意味か」
「他に何が?」
「いや」
リンレイが小さく笑い、頭を下げて出ていった。
扉が閉じる。
「何だと思ったのです?」
「何でもない」
「そうですか」
「それより香り」
「はい」
アデルは新しい試香紙へ一滴落とした。
「どうぞ」
リュシアンが受け取る。
鼻元へ寄せ、目を閉じた。
アデルは黙って待つ。
この香りを作り始めてから、何度試しただろう。
温室の土の気配を強くしすぎれば湿りすぎる。
ジュニパーベリーを立てすぎれば鋭くなる。
カシスの葉を増やせば青さが勝ち、ローズマリーを加えすぎれば朝の静けさが失われる。
その上にイェライシャンを重ねても、甘さが早く出すぎれば意味がない。
最後のアイリスが粉っぽくなりすぎれば、リュシアンには重い。
少しずつ。
本当に少しずつ。
二人で変えてきた。
今日のものが、最後の候補だった。
「……これ」
「はい」
「温室だ」
アデルの表情が緩む。
「やはり、そう思われます?」
「ああ」
リュシアンがもう一度嗅ぐ。
「朝の」
「はい」
「まだ花が全部開いてなくて、葉と土の匂いの方が強い時」
「ええ」
もう少し時間を置く。
リュシアンの目元が僅かに変わった。
「イェライシャン」
「分かります?」
「これは分かる」
誕生日の夜。
アデルが彼のために育てた花。
「俺がもらったやつだ」
「はい」
「その前は、俺がアデルに贈った温室」
「はい」
リュシアンが試香紙から目を上げる。
「そういう香りにしたんだ」
「正確には、そういう香りになりました」
「違う?」
「最初から考えていたわけではございません。二人で好きなものを挙げて、少しずつ組み合わせていったら」
アデルは小瓶を見る。
「結果として、私たちが初めて互いへ贈ったものが残りました」
リュシアンはしばらく何も言わなかった。
再び香りを確かめる。
「最後は?」
「アイリスです」
「うん」
「強すぎませんか?」
「大丈夫」
「本当に?」
「ない」
「王太子としてではなく?」
「リュシアンとして」
アデルは小瓶を見た。
「では」
「決まり?」
「はい」
そう答えた瞬間、不思議なほど肩の力が抜けた。
婚礼の香り。
何ヶ月も前から作り続けてきたもの。
王室の記録へ残る。
礼拝堂にも。
祝宴にも。
婚礼の日の衣装にも、ほんの僅かに移される。
そしていつか。
何年も先に。
この香りを嗅いだら。
朝露に濡れた温室と。
夜に咲いたイェライシャンと。
今日までの時間を思い出す。
「名前は?」
リュシアンが聞く。
「必要でしょうか」
「記録に残すならいるだろ」
「そうですね」
アデルは考える。
朝露。
土。
若い葉。
これから開く花。
夜のイェライシャン。
最後に残るアイリス。
まだ何も始まっていない時間。
これから新しい一日が始まる、その少し前。
「……『朝を待つ香り』」
「朝を?」
「はい」
「婚礼は朝からだけど」
「そういう意味ではございません」
「分かってる」
リュシアンが笑った。
「いいと思う」
「では、これで」
アデルは調香帳を開き、最後の配合を書き込んだ。
その横に。
『朝を待つ香り』
名前を記す。
完成。
ペンを置く。
「できました」
「ああ」
リュシアンの声が近い。
顔を上げた時には、もうすぐそばにいた。
「お疲れ」
「リュシアン様も」
「俺は嗅いでただけ」
「何度も駄目出しをなさいました」
「必要だっただろ」
「はい」
確かに。
「ありがとうございました」
「どういたしまして」
額へ唇が触れる。
ごく短く。
昔なら、これだけで固まっていた。
今はもう、目を閉じるくらいの余裕がある。
離れたあと、アデルは小瓶を光へ翳した。
透明な香液が、冬の午後の光を受けて淡く揺れる。
「これで、婚礼に必要なものはすべて揃いましたね」
「ほぼ」
「ほぼ?」
「花嫁」
「おります」
「まだ婚約者」
「それは、婚礼までは仕方ございません」
「あと何日?」
「二十六日です」
「長い」
「今まで一年以上お待ちになれたでしょう」
「結婚すると決まってからの方が長い」
「そういうものでしょうか」
「そういうもの」
リュシアンは心底不満そうだった。
アデルは笑った。
*
そして。
二十六日は、思っていたより早く過ぎた。
招待客が到着した。
礼拝堂の装飾が完成した。
厨房では夜明け前から仕込みが始まり、祝宴会場には何百もの杯が並べられた。
シャンからライレイも到着した。
予告通り、レン・ユエを伴って。
王宮へ着くなり金箔の招待状ではなかったことに文句を言い、リュシアンから「帰れ」と言われ、リンレイに呆れられた。
メリルは婚礼衣装を見たいと何度もアデルの部屋へ来た。
メリーはそのたびに追い返した。
王妃は最終確認の名目で毎日のように顔を出し、国王は忙しくなるほど口数が減った。
父と母も、アレクシア侯爵領から王宮へ入った。
そうして。
気づけば。
年の最後の日になっていた。
窓の外では、今年最初の雪が降っている。
大粒ではない。
細かな白い粒が、夜の王宮へ音もなく落ちていた。
アデルは自室の窓辺に立ち、それを眺めていた。
明日の朝には、この部屋を花嫁として出る。
そして。
戻ってくる時には。
「王太子妃……」
口に出してみる。
まだ、自分のこととは思えない。
宮廷調香師。
アデル・アレクシア。
それなら、もう馴染んでいる。
でも明日からは。
アデル・スピネリア。
王太子妃。
それでも、宮廷調香師。
「多いわね」
一人で呟いて、少し笑った。
扉が叩かれる。
「はい」
「俺」
開ける前から分かった。
「リュシアン様?」
扉を開く。
そこには外套を羽織ったリュシアンが立っていた。
「どうなさいました?」
「顔見に来た」
「今夜はお会いにならない方がよいと、王妃殿下から」
「部屋には入ってない」
「扉の前まで来ております」
「駄目?」
灰青色の瞳がこちらを見る。
その顔をされると弱い。
「……少しだけですよ」
「うん」
結局、部屋へは入れなかった。
二人で扉の前の回廊に立つ。
窓の外には雪。
王宮のどこかでは、まだ人が忙しく行き来している気配がする。
「眠れそう?」
リュシアンが聞いた。
「分かりません」
「俺も」
「リュシアン様でも?」
「だから、俺も緊張するって言っただろ」
「そうでした」
少し黙る。
「アデル」
「はい」
「明日」
「はい」
「やっとだな」
その声には、冗談がなかった。
アデルはリュシアンを見る。
一年前。
寝室で押し倒された。
首元へ顔を埋められ。
媚薬だと疑われた。
あり得ない出会いだった。
それから、香りを作った。
事件を解いた。
喧嘩もした。
離れた。
追いかけてもらった。
国を越えた。
仕事をした。
恋をした。
そして今。
「はい」
アデルは笑った。
「やっとですね」
リュシアンの手が伸びる。
指先だけが触れた。
明日になれば、もう人目を避けてこうして触れる必要もなくなるのだろうか。
そう思うと、少しおかしい。
「おやすみ、アデル」
「おやすみなさい、リュシアン様」
「次に会う時は?」
「明日の朝です」
「違う」
「では?」
リュシアンが笑う。
「結婚する時」
胸の奥が、静かに熱くなる。
「……はい」
指が離れる。
リュシアンが廊下の向こうへ歩き出す。
途中で一度振り返った。
アデルも、まだ扉を閉めていなかった。
「おやすみ」
「二度目です」
「知ってる」
「おやすみなさいませ」
今度こそ、扉を閉める。
静かな部屋へ戻ると、卓上には婚礼衣装と、小さな硝子瓶が用意されていた。
『朝を待つ香り』
朝露に濡れた温室から始まり。
夜に咲くイェライシャンを経て。
最後にアイリスが残る。
二人が初めて、お互いのためだけに選んだ贈り物を重ねた香り。
明日。
新しい年の、最初の日。
この香りとともに。
アデルは、リュシアン・スピネリアの妻になる。




