第三十八話 朝を迎える香り
新しい年の最初の朝、アデルはまだ空が暗いうちに起こされた。
「アデル様。朝でございます」
「……はい」
返事をしたものの、身体はなかなか寝台から動かなかった。眠れなかったわけではない。むしろ、昨夜リュシアンと別れたあと、驚くほどあっさり眠ってしまった。
目を閉じる直前までは、明日結婚するのだと思っていたはずなのに、目を開ければ、その明日になっている。
「本日ですよ」
メリーが少し笑った。栗色の髪をいつもよりきっちりまとめ、すでに一日の仕事を始める侍女の顔をしている。
「分かっています」
「でしたら起きてくださいませ」
「……はい」
諦めて身体を起こす。
窓の外では、昨夜降っていた雪が王宮を薄く覆っていた。屋根も回廊の手すりも庭園の植え込みも白く縁取られ、まだ誰も踏んでいない中庭には、青みを帯びた雪面が静かに広がっている。東の空だけが夜の紺から淡い灰青へ変わり始め、遠くの尖塔の輪郭が少しずつ浮かび上がっていた。
新年。
そして婚礼の日。
「不思議ですね」
「何がでございます?」
「昨日と今日で、何も変わっていないように見えるのに」
庭園も。
王宮も。
自分の手も。
いつもと同じだ。
「ですが、今日からアデル様は王太子妃殿下でございます」
「……それです」
「はい?」
「まだ慣れません」
鏡の中で、寝起きの自分が眉を寄せている。腰まで流れた銀髪は少し乱れ、光の足りない室内では瞳も深い緑に沈んでいた。
「今のうちに慣れてくださいませ」
「無理を仰いますね」
「今日から皆様がお呼びになりますので」
確かに逃げられない。
そうこうしている間にも支度は始まった。
湯浴みを済ませ、髪を乾かし、肌を整える。腰近くまである銀髪は何人もの侍女の手で丁寧に梳かれ、上半分だけを緩く編み上げて留められた。残した髪は背中へ流し、細い銀の飾りと、王家を象徴する灰青色のスピネルをいくつか散らしていく。冬の弱い朝日が差し始めると、銀髪の表面には淡い青紫の光が浮かんだ。
化粧は薄く。もともと白い肌にはほとんど色を重ねず、頬と唇へわずかに血色を足す程度に留める。光の加減で新緑から紫へ色を変える瞳は、そのままで十分に目を引いた。
最後に、銀白色の婚礼衣装。
何度も仮縫いを繰り返したはずなのに、完成したものへ袖を通すと、まったく別の衣装に思えた。
胴から腰へ沿う布地は銀を含んだ白。胸元と袖にはスピネリア王家の深い青が細く刺繍され、裾へ向かうにつれて蔓草と小さな花へ変わっていく。長く引く裾にも同じ文様が続き、歩くたび銀糸が冬の光を拾って静かに揺れた。
「お綺麗です」
メリーが言う。
「ありがとうございます」
「本当に」
「二回目です」
「何度でも申し上げます」
いつもなら仕事の邪魔にならないよう簡素にまとめている銀髪も、今日は背中を覆うほど豊かに流れている。灰青と銀をまとった自分は、確かに鏡の中にいるのに、少し遠い人のようにも見えた。
「では、最後に」
メリーが小さな硝子瓶を取り上げる。
アデルの表情が自然と緩んだ。
『朝を待つ香り』
栓が開く。
肌へ直接まとうのではなく、婚礼衣装の裾と手袋、それから髪飾りへ、本当にわずかだけ香りを移していく。
最初に感じるのは、朝露に濡れた温室の土。
ローズマリー。
ジュニパーベリー。
カシスの葉。
まだ陽が昇りきらない朝、冷えた硝子窓の内側で葉を撫でた時のような、湿り気を含んだ青い香り。
リュシアンから、アデルへ。
初めて彼女個人のためだけに贈られた温室。
少し時間が経てば、そこへイェライシャンが開く。
アデルから、リュシアンへ。
初めて彼だけのために育て、贈った夜の花。
最後に残るのは、アイリス。
二人で作った、婚礼の香りだった。
「できました」
メリーの声に、アデルは鏡の中の自分をもう一度見た。
先ほどより、少しだけ自分に見える。
「……行きましょう」
「はい」
扉を開けると、部屋の外には父が待っていた。
「お父様」
「アデル」
アレクシア侯爵は娘を見るなり、一瞬だけ動きを止めた。
いつもなら香料の状態にも帳簿の数字にも即座に言葉を返す父が、何も言わない。
「何でしょう」
「いや」
目尻を少しだけ下げる。
「大きくなったなと思ってな」
「十八歳になってから、それほど身長は変わっておりませんが」
「そういう意味ではない」
「では?」
「……お前は本当に、こういうところは父親に似たな」
「何のお話でしょう」
父は答えず、困ったように笑った。その目元には、いつもより深い皺が寄っている。
「行こうか」
「はい」
差し出された腕へ、手を添える。
幼い頃、香料畑を歩いた時にも、こうして父の腕へ掴まったことがあった。春には花を見て、夏には葉を摘み、秋には種を取り、冬には眠る土を教えてもらった。
あの頃は、いつか父のような宮廷調香師になりたいと思っていた。
なった。
そして今、その先へ行こうとしている。
*
王宮礼拝堂の扉が開く。
最初に聞こえたのは、弦楽器の低く柔らかな音だった。そこへ澄んだ笛の音が重なり、石造りの高い天井へ静かに響いている。
冬の朝日が色硝子を通り、礼拝堂の床へ青や赤の淡い光を落としていた。外には雪が残っているのに、室内には常緑樹と冬でも手に入る白い花が飾られ、枝葉についた水滴が光を拾っている。
ただし、香りの強い花はほとんどない。
リュシアンのためでもあるが、今日はもう一つ理由があった。
この場所に残す香りは、一つでいい。
『朝を待つ香り』
衣装から微かに立ち上がる湿った土と葉の香りが、冷えた礼拝堂の空気へ溶けていた。
列席者の視線が集まる。
王族。
国内の諸侯。
各国から招かれた国賓。
これまで仕事で顔を合わせた者もいれば、名前しか知らない者もいる。
その中に、リンレイがいた。
今日は外交官としての控えめな装いではなく、シャン王女として華やかな正装を纏っている。艶のある赤褐色の髪を高く結い上げ、金の飾りを散らし、大きな吊り目をした金色の瞳がアデルを見つけた途端、猫のような鋭さを失って柔らかく細められた。
少し離れた国賓席には、ライレイもいる。
朱と黒を重ねたシャンの礼装に、赤褐色の長い髪。戦場では鋭さを帯びる金色の瞳も、今日は楽しそうに笑っている。
その隣にはレン・ユエ。
黒に近い深紅の衣を纏い、艶のある黒髪には細い金の飾りが一つだけ差されていた。白い肌に暗赤色の瞳が映え、普段の薬師としての簡素な姿とは違う。けれど、伏し目がちで静かな表情だけは変わらない。
(来てくださったのね)
それだけ確認して、アデルの視線は礼拝堂の最奥へ向いた。
リュシアンがいる。
黒髪は一筋の乱れもなく整えられ、王家の深い青を基調とした婚礼衣装には銀糸の刺繍が施されていた。長身をすっきりと見せる細身の仕立てで、左胸から袖へ伸びる一筋だけが、新緑に近い色をしている。
アデルの瞳の色。
以前、仕立屋から聞いていた。
実際に見るのは今日が初めてだった。
切れ長の灰青色の瞳が、まっすぐこちらを見ている。
その顔から、いつもの余裕が少し消えていた。
いつもなら何か言う。
笑う。
少しからかう。
けれど今日は何も言わず、ただアデルだけを見ている。
アデルは父とともに歩き始めた。
一歩。
また一歩。
長い裾が石床を滑り、衣装に移した若葉の香りが僅かに揺れる。
毎日のように会っている。
昨日だって話した。
夜には自室の前まで来た。
それなのに今は、初めて会う人のところへ歩いているような緊張があった。
やがてリュシアンの前へ着く。
父の腕から手を離し、代わりに差し出された長い指へ自分の手を重ねた。
「アデル」
いつもより少し低い声だった。
「はい」
「綺麗」
灰青色の瞳がわずかに細くなる。
「……ありがとうございます」
今、ここで言うのか。
思わず口元が緩んだ。
「笑った?」
「少し」
「何で」
「いつも通りだなと思いまして」
「悪い?」
「いいえ」
むしろ、安心した。
司祭が二人を見る。
二人ともさすがに黙った。
式が始まる。
古い婚礼の言葉が読み上げられる。
互いを敬うこと。
その意思を尊重すること。
喜びも困難も分かち合うこと。
王族である二人には、もう一つ。
それぞれの務めを果たしながら、ともに国と民へ責任を負うこと。
色硝子を通った冬の光が少しずつ移動し、リュシアンの黒髪やアデルの銀髪の上をゆっくり滑っていく。
言葉を聞きながら、アデルは隣の男を見た。
一人でもできる仕事はある。
宮廷調香師の仕事は、基本的にはそうだった。香料を選び、調合し、記録し、自分で考えて答えを出す。
けれど、この一年で一人では作れないものも知った。
香りも。
国も。
おそらく、暮らしも。
「リュシアン・スピネリア」
名を呼ばれ、リュシアンが顔を上げる。
「はい」
「アデル・アレクシアを妻として迎え、生涯これを敬い、その意思を尊び、ともに歩むことを誓いますか」
「誓います」
返事までに間はなかった。
横顔は穏やかだったが、重ねた手には少しだけ力が入っている。
「アデル・アレクシア」
「はい」
「リュシアン・スピネリアを夫として迎え、生涯これを敬い、その意思を尊び、ともに歩むことを誓いますか」
アデルはリュシアンを見る。
初めて会った日と同じ灰青色の瞳。
けれど、もう怖くはない。
「誓います」
指輪が運ばれる。
細い銀の輪には、スピネリア王家を象徴する灰青色のスピネルと、アレクシア家を象徴する小さなアレキサンドライトが並んでいた。アデルの瞳と同じように、緑を基調としながら、角度によって赤紫の光を宿す。
まずリュシアンがアデルの指へ通す。
次に、アデルがリュシアンの指へ。
その時になって、自分の手が僅かに震えていることに気づいた。
「緊張してる?」
小声で聞かれる。
「しております」
「俺も」
「そうは見えません」
「かなりしてる」
「本当ですか?」
「手、触れば分かる」
式の途中で何を言っているのだろう。
けれど、確かに彼の指先も少し冷たかった。
思わず目が合う。
リュシアンの口元がほんの少しだけ上がった。
司祭が最後の言葉を告げる。
二人の婚姻が成立したこと。
今日よりアデル・アレクシアが、スピネリア王家の一員となったこと。
「王太子殿下。王太子妃殿下へ、祝福を」
礼拝堂が拍手に包まれた。
アデルは一瞬、自分が呼ばれたことに気づかなかった。
「アデル」
「はい?」
「王太子妃殿下」
「……私ですね」
「そうだよ」
リュシアンが笑う。
その瞬間、先ほどまで張り詰めていた王太子の顔が、いつもの彼へ戻った。
次の瞬間、腰へ腕が回る。
「リュシアン様」
「もういいだろ」
「何が――」
唇が触れた。
短い。
けれど、人前でされたことを理解するには十分だった。
礼拝堂から笑いと拍手が起こる。
アデルの白い頬が一気に赤くなる。
「……聞いておりません」
「婚礼だぞ」
「存じております」
「なら普通」
「普通なのでしょうか」
「多分」
「多分なのですか」
すぐそばでリュシアンが笑う。
「やっとだな」
昨夜と同じ言葉だった。
アデルも少し笑った。
「はい。やっとですね」
*
婚礼祝宴が始まる頃には、冬の短い陽がすでに西へ傾き始めていた。
雪を残した王都の屋根が夕暮れの薄紫に染まり、王宮の窓には次々と灯りがともっている。
大広間には幾百もの蝋燭が灯され、新年を祝う白と金の装飾へ王家の深い青が加えられていた。磨かれた床には炎が揺れ、硝子杯や銀器が光を返す。
普段の夜会ならば、ここへさらに何十種類もの香水が重なった。
今日は違う。
招待客には事前に、強い香りを控えるよう伝えられていた。
代わりに広間へ薄く漂うのは、婚礼の香りだった。
朝の時点では鮮やかだった土と葉の青い香りはすでに落ち着き、イェライシャンの柔らかな甘さも少しずつ遠ざかっている。今はその奥から、アイリスの静かな余韻が現れ始めていた。
「王太子妃殿下」
声をかけられる。
「……はい」
少し遅れて振り返った。
「まだ慣れない?」
隣のリュシアンが笑う。
式を終えたせいか、朝よりも表情が柔らかい。隙なく整えられていた黒髪も、前髪が一本だけ額へ落ちている。
「今日だけで何度呼ばれたと思ってる」
「数えておりません」
「俺は数えてる」
「なぜです?」
「毎回反応が遅いから面白い」
「そのうち慣れます」
「それは寂しい」
「なぜです?」
「面白くなくなる」
「私は困っております」
リュシアンは楽しそうだった。
長い祝宴では、国王夫妻、国内の諸侯、遠方から迎えた国賓と、次々に人の輪ができてはほどけていく。新年の祝いも兼ねているため、冬の保存肉、木の実を使った焼き菓子、熟成させた葡萄酒まで、王国各地の冬の味が卓上へ並んでいた。
そんな中。
「アデルちゃん」
聞き覚えのある声がした。
「ライレイ殿下」
「結婚おめでとう」
ライレイは朱と黒を重ねたシャンの正装姿だった。長い赤褐色の髪を高くまとめ、金色の瞳をいつものように楽しそうに細めている。冬のスピネリアでは華やかな異国の色がひときわ目立った。
「ありがとうございます」
その隣にいる女へ気づき、アデルの顔が明るくなる。
「ユエ様」
「本日は誠におめでとうございます、アデル様」
黒に近い深紅の衣を纏ったユエが一礼する。黒髪は滑らかにまとめられ、金の細工が一つだけ飾られている。華美ではないのに、白い肌と暗赤色の瞳の対比が鮮やかだった。
「ありがとうございます。まさかユエ様にも来ていただけるとは、うれしい限りです!」
ユエの暗赤色の瞳が僅かに柔らかくなった。
「公務ではございますが、わたくしもうれしゅうございます」
「公務?」
アデルが瞬く。
「婚約したんだよね!」
ライレイが横から明るく言った。
「…………」
アデルの笑顔が止まる。
隣のリュシアンも、杯を口へ運びかけた姿勢で止まった。
そして少し離れた場所で貴族たちと話していたリンレイが、ものすごい勢いでこちらを振り返った。結い上げた赤褐色の髪から金の飾りが揺れ、大きな金色の瞳が見開かれる。
「兄様!?」
広間を通る声だった。
ライレイが片手を上げる。
「リンレイ」
「今、婚約と仰いました?」
「うん。ユエと」
「聞いておりません!」
「言ってないからね」
「兄様!」
リンレイがこちらへ向かってくる。長い裾を踏まないぎりぎりの速さで、かなり速い。
アデルもようやくユエへ顔を戻した。
「本当に?」
「はい。十日ほど前、正式に婚約いたしました」
いつもの静かな声だった。
けれど、頬にはほんのわずかに赤みがあるようにも見える。
「おめでとうございます!」
「ありがとうございます」
「俺も聞いてない」
リュシアンがライレイを見る。灰青色の瞳が呆れたように細められている。
「言ってないし」
「なぜだ」
「驚くかなと思って」
「驚かせる必要がどこにある」
「面白い」
「お前な」
「兄様」
到着したリンレイの声が低い。
兄妹で同じ金色の瞳をしているのに、今はライレイの方だけが明らかに逃げ腰だった。
「私はシャン国の駐在使節です」
「そうだね」
「王太子の婚約を知らされていないのは問題です」
「……ごめん」
そこだけは素直だった。
リュシアンが呆れたように息を吐く。
「前はそんな素振りなかっただろう」
「帰ってからちゃんと考えたんだよ」
「ちゃんと?」
「レン家へ挨拶して、父上にも話して、ユエとも条件を詰めた」
「周囲の方々に整えていただいた部分も多うございますが」
ユエが淡々と訂正する。
「細かいな」
「事実です」
ライレイは口を尖らせたが、ユエを見る金色の瞳には不満より楽しさの方が強い。
アデルは二人を見比べる。
「ユエ様は、ご婚約後もお仕事を?」
「もちろんにございます」
返事は即座だった。
「婚姻後もレン家の薬業と研究へ関わることは、条件としてお伝えしております」
「それから側室なし」
ライレイが付け加える。
ユエの暗赤色の瞳が横へ動く。
「それは殿下ご自身がお決めになったことでしょう」
「でも条件には入ってる」
「左様でございますね」
アデルは少し笑った。
自分も宮廷調香師を続ける。
王太子妃になったからといって、それまでの自分を捨てるわけではない。
ユエも同じなのだろう。
「改めて、おめでとうございます」
「ありがとうございます、アデル様」
「王太子妃殿下だよ」
ライレイが言う。
「まだ慣れていないので、今は結構です」
「毎回一拍遅れてる」
リュシアンが言う。
「リュシアン様」
「事実」
「じゃあアデルちゃんで」
「外交儀礼をお守りください」
ユエが即座に止める。
「ユエまで?」
「当然にございます」
「婚約したら味方になるものじゃないの?」
「元より味方と申し上げた覚えはございません」
ライレイが何とも言えない顔をした。
その横ではリンレイがようやく怒りを収め、代わりにユエをまじまじと見ている。
「……ユエ様」
「はい」
「後ほど、お話を」
「御意にございます」
「兄様抜きで」
「え?」
「御意にございます」
「ユエ」
アデルはとうとう笑った。
婚約しても、この二人はこの二人らしい。
*
祝宴は夜まで続いた。
窓の外では冬の日が完全に沈み、雪の残る庭園が月明かりを淡く返していた。外気は冷え込んでいるはずなのに、大広間は暖炉と蝋燭、人々の熱気で春先のように暖かい。
新年の音楽が流れ、料理が運ばれ、何度も杯が満たされた。途中、ライレイが「次はこっちの婚礼に来てね」と言い出し、ユエから「日取りも決まっておりません」と止められていた。
メリルはその様子を見て笑い、リンレイはまだ兄へ少し怒っている。
王妃は扇の向こうで楽しそうに目を細め、国王は今日一日で何度目か分からないため息をついていた。
アデルも笑った。
こんなに長く人前にいて、こんなに多くの人から祝われて、疲れているはずなのに不思議と嫌ではなかった。
「アデル」
「はい」
隣から呼ばれる。
もう祝宴も終わりに近い。
リュシアンも朝より少しだけ疲れて見えた。一筋の乱れもなかった黒髪は今では数本が額へ落ち、婚礼衣装の襟元もわずかに緩んでいる。けれど、こちらを見る灰青色の瞳には朝よりも柔らかな光があった。
「疲れた?」
「少し」
「俺も」
「楽しかったです」
「ああ」
広間には、今日一日の香りがまだ残っている。
朝露の温室。
青い葉。
イェライシャン。
そして今は、ほとんどアイリスだけ。
「香りも、最後まで残りましたね」
アデルが言う。
リュシアンが少し近づき、彼女の銀髪へ顔を寄せた。
「本当だ」
「人前ですよ」
「嗅いだだけ」
「近いです」
「今日くらいいいだろ」
「今日だからこそ、皆様が見ております」
「もう結婚した」
「そういう問題では」
言いかけて、止まった。
結婚した。
式もした。
指にはスピネルとアレキサンドライトの指輪がある。
それでも、改めて言われると胸の奥がくすぐったい。
「何?」
リュシアンが覗き込む。
「……何でもありません」
「顔赤いけど」
「この広間が暖かいのです」
「冬だぞ」
「広間は暖かいです」
「そう」
形のいい唇が僅かに上がる。
絶対に信じていない。
やがて王妃が二人のもとへやってきた。
「そろそろ下がって構いませんよ」
「母上」
「朝からずっとでしょう。残りはこちらで引き受けます」
「よろしいのですか?」
「今日はあなたたちの婚礼ですよ」
王妃が笑う。
「いつまでもここにいては、二人になれないでしょう」
「…………」
アデルは黙った。
その言い方には別の意味がある。
当然だ。
分かっている。
分かっているから困る。
隣を見る。
リュシアンと目が合った。
すると、今まで余裕のあった灰青色の瞳がほんの少しだけ逸れた。耳の先も、蝋燭の光だけでは説明できない程度に赤い。
(……あ)
珍しい。
リュシアンも緊張している。
そう思った瞬間、逆に少し落ち着いた。
「では、お言葉に甘えます」
アデルが答える。
「アデル?」
「何でしょう」
「いや」
「行きましょう」
「……ああ」
二人で大広間を出る。
厚い扉が閉じると、音楽も人々の声も急に遠ざかった。
夜の回廊は静かだった。
高い窓の外には雪の残る庭園が広がり、冬の月が青白い光を落としている。暖かな大広間を出たばかりの頬へ、窓硝子から伝わる冷気が心地よかった。
新年最初の夜。
二人並んで歩く。
もう、アデルの部屋へ送るためではない。
リュシアンの私室へ戻るためでもない。
向かう先は、二人の部屋だった。
「リュシアン様」
「ん?」
「本当に結婚したのですね」
「今?」
「今です」
「式の時は?」
「思いました」
「指輪つけた時は?」
「思いました」
「キスした時は?」
「それは必要な確認でしょうか」
「思った?」
「……思いました」
リュシアンが笑う。
「じゃあ何回目だよ」
「何度思ってもよいでしょう」
「まあな」
そう言って、手を繋ぐ。
誰もいない回廊で、長い指がアデルの指の間へ自然に収まった。
アデルも握り返した。
部屋の前へ着く。
扉の向こうには、何ヶ月もかけて二人で整えた部屋がある。
本棚。
二つの机。
暖炉。
長椅子。
そして、その奥には主寝室。
衣装に移した『朝を待つ香り』も、朝の土と葉はとうに消え、イェライシャンの甘さももうほとんど感じない。
最後に残っているのは、柔らかなアイリスだけだった。
朝を待っていた香りは、新しい朝を迎え、一日を終えようとしている。
「アデル」
「はい」
扉へ手がかかる。
リュシアンの横顔には、披露宴で見せていた余裕がもうなかった。黒髪の下で灰青色の瞳がわずかに揺れ、薄い唇が何かを言いかけて閉じる。
アデルは一度、自分の指にある婚礼指輪を見た。
スピネル。
アレキサンドライト。
二つの石が、廊下の燭火を受けて並んで光っている。
それから、隣にいる夫を見上げる。
「入りましょうか」
リュシアンの瞳がアデルへ戻る。
「ああ」
扉が開いた。




