第三十九話 最後に残る香り
扉が開いた。
「お帰りなさいませ、殿下、王太子妃殿下」
揃った声に迎えられ、アデルは思わず足を止めた。
夫婦の居室には、まだ人がいた。メリーをはじめとする侍女たちと、リュシアン付きの侍従たちが左右へ分かれて控えている。暖炉には新しい薪が足され、冬の夜気に冷えた部屋は柔らかく暖められていた。卓上には湯気の立つ茶と水、奥の浴室からは細く白い湯気まで流れてきている。
先ほどまで、大広間を出たあとの静かな回廊を並んで歩き、二人きりになることばかり意識していた。
けれど考えてみれば、王太子夫妻の婚礼初夜といえど、扉を閉めた途端にすべての使用人が消えるわけではない。一日中身につけていた婚礼衣装は、一人で簡単に脱げる代物ではなかった。
アデルは隣を見た。
リュシアンも、ほんのわずかに肩の力を抜いている。
「……今、少し安心なさいました?」
「それ、アデルが言う?」
「私は否定しておりません」
「なら俺も否定しない。正直、ちょっと安心した」
素直に認められて、アデルは目を瞬いた。
今夜のリュシアンは、いつもより少し正直だ。
「王太子妃殿下はこちらへ。殿下のお支度はあちらでございます」
メリーが何事もなかったように告げる。
「分かった」
リュシアンは返事をしたものの、アデルが東側の支度部屋へ向かおうとしたところで、その指先を軽く捕まえた。
「アデル」
「はい?」
呼ばれて振り返る。
朝には一筋の乱れもなかった黒髪は、長い一日を終えて何本か額へ落ちていた。深い青の婚礼衣装も襟元がわずかに緩み、そこに立っているのは王太子というより、一日中緊張を抱え続けた十九歳の青年に見える。
灰青色の瞳が、しばらくアデルを見た。
「……あとで」
それだけだった。
昼間なら何でもない言葉なのに、今夜聞くと意味が違う。
アデルの白い頬へ、じわじわと熱が広がった。
「はい。あとで」
答えると、リュシアンの張っていた口元がようやくほどけた。
そのまま二人は、それぞれ反対方向へ連れていかれた。
*
「では、失礼いたします」
メリーの声とともに、まず髪飾りが外された。
一つ、また一つ。
朝、何人もの侍女が時間をかけて挿した銀細工と灰青色のスピネルが、卓上の柔らかな布の上へ順番に並べられていく。
飾りが減るたび、複雑に編み込まれていた銀髪がほどけていった。
鏡の中で、朝から作り上げられていた「花嫁」の姿が少しずつ消えていく。
耳飾りを外し、首飾りを解き、手袋を取る。長いヴェールが肩から離れても、左手の薬指にある婚礼指輪だけは残った。
灰青色のスピネルと、小さなアレキサンドライト。
朝にはなかったものだ。
けれど今はもう、自分の手の一部のようにそこにある。
「お疲れではございませんか?」
背後からメリーに尋ねられ、アデルは鏡越しに目を合わせた。
「疲れてはおります。ですが……思っていた疲れ方とは少し違いますね」
「と申しますと?」
「もっと、早く一人になりたいと思うのかと。大勢の方とお話ししましたし、一日中見られておりましたから」
「今は違うのでございますか?」
「楽しかったのです」
自分で言って、少し驚いた。
婚礼など、もっと疲れるものだと思っていた。
けれど今日は、何度も笑った。
父と歩いた。
リュシアンと誓った。
リンレイと話し、ライレイに呆れ、ユエの婚約を知った。
知らない者からも、よく知る者からも祝われた。
「……よい一日でした」
「はい」
メリーが鏡越しに微笑む。
「とても」
その言葉に、胸の奥が少し温かくなった。
背中の留め具が一つずつ外されていく。
銀白色の婚礼衣装が緩み、肩から布が離れた瞬間、アイリスがふわりと香った。
「あ……」
アデルが小さく声を上げた。
「どうなさいました?」
「まだ、残っています」
袖口を鼻元へ寄せる。
『朝を待つ香り』
朝露に濡れた温室の土も、ローズリーも、ジュニパーベリーも、カシスの葉も、もう分からない。リュシアンへ贈ったイェライシャンも、披露宴が終わる頃にはほとんど消えていた。
最後に残っているのは、アイリスだけだった。
柔らかく、少し粉を含んだような静かな香り。
新しい年の最初の朝から、ずっと身につけていた香り。
「明日には、もう消えてしまいますね」
「香水でございますから」
「ええ」
分かっている。
香りは消える。
だからこそ、調香師は時間まで含めて香りを作る。
最初に何を感じ、何が花開き、最後に何が残るのか。
そして最後の一滴まで消えた時に、どんな記憶が残るのか。
メリーたちの手で婚礼衣装が身体から離れ、大切そうに別の台へ移される。
香りも一緒に遠ざかった。
重い衣装がなくなると、肩が驚くほど軽い。
鏡の中には、もう王家の深い青も、銀糸の刺繍もない。最後に髪が完全にほどかれると、腰より長い銀髪がさらりと背中へ落ちた。
王太子妃になるために朝から整えられていた姿が解かれ、見慣れた自分が戻ってくる。
「湯浴みのご用意ができております」
「はい」
アデルは立ち上がった。
*
浴室は暖かな湯気に満たされていた。
淡灰色の石造りの浴槽には透明な湯が張られ、香料は何も入っていない。リュシアンの嗅覚に配慮し、この区画では普段から強い香りの入浴剤を使わない。今夜も同じだった。
アデルはゆっくり湯へ身体を沈めた。
「……気持ちいい」
一日中締めつけられていた身体が、ようやく緩む。
肩まで湯に浸かると、自分でも思っていた以上に疲れていたことに気づいた。婚礼、誓い、披露宴。何十人、何百人もの視線。そして何度呼ばれても一拍遅れてしまった「王太子妃殿下」という新しい名前。
そこへライレイとユエの婚約まで飛び込んできた。
本当に、長い一日だった。
メリーが銀髪を丁寧に濡らし、香りをほとんど含まない石鹸で洗っていく。
髪に残っていたアイリスが、湯気の中へほんの一瞬だけ立った。
そして、流される。
アデルは濡れた自分の髪を一房取った。
「……もう、分かりませんね」
「婚礼の香りでございますか?」
「はい」
「朝から十分に役目を果たされたかと」
「そうですね」
少し寂しい。
でも、不思議と嫌ではなかった。
今日という一日が終わるから、香りも終わる。
アデルは湯の中で左手を持ち上げた。
指輪だけが、白い湯気の向こうで変わらず光っている。
「こちらは消えませんね」
「はい。そちらは香りではございませんので」
メリーの返事に、アデルは少し笑った。
「確かに」
*
湯浴みを終えたあと、アデルの前へ用意された寝間着を見て、その笑みは消えた。
「…………」
真珠色に近い白。
布地は薄く滑らかだが、決して露出が多いわけではない。肩も胸元もきちんと覆われ、裾は足首まである。袖口と襟元には、ごく細い銀糸の刺繍。
ただし、普段の寝間着より明らかに柔らかく、身体の線に沿う仕立てになっていた。
「……これですね」
「はい」
「初夜用の」
「左様でございます」
以前、仕立屋に採寸された時には、ただの寝間着だと思っていた。
今なら分かる。
ただ寝るためだけの衣服ではない。
「リュシアン様が『普通ので』と何度も仰っていた理由が、今になって分かりました」
「殿下はかなり強くご希望されておりました」
「何をです?」
「アデル様が落ち着いてお召しになれるものを」
意外な答えに、アデルは寝間着へ視線を戻した。
「……そうなのですか」
「はい。もう少し華やかな意匠も候補にはございましたが、すべて即座に却下されました」
「想像できます」
真剣な顔で「普通のでいい」と繰り返していた姿を思い出し、少しだけ笑う。
妙なところで気を遣う人だ。
その事実が、今はありがたかった。
寝間着へ着替え、濡れた銀髪を乾かす。
化粧もない。
香油もつけない。
婚礼の香りも、もうない。
「何か香りをお使いになりますか?」
最後にメリーが尋ねた。
アデルは少し考えてから首を振った。
「今夜は、何も」
「承知いたしました」
メリーはそれ以上聞かず、寝間着の裾を整えた。
「では、おやすみなさいませ。王太子妃殿下」
「……メリー」
扉へ向かいかけた背中が止まる。
「はい」
「少しだけ、緊張します」
口に出してみると、想像していたより素直な言葉になった。
メリーは驚きもせず、いつもと同じ穏やかな目でアデルを見る。
「殿下も同じかと存じます」
「そうでしょうか」
「はい。朝から、アデル様をご覧になるお顔が普段と違っておられましたので」
「……そんなに?」
「長くお仕えしておりますので」
メリーは微笑む。
「きっと、アデル様より緊張しておられます」
そこまで言われると、少し見てみたい。
そう思った自分に気づき、アデルは小さく笑った。
*
少しして、隣室との間の扉が叩かれた。
「アデル?」
「はい。どうぞ」
声を聞いただけで、心臓が速くなる。
扉が開いた。
そこにいたリュシアンを見て、アデルは思わず口元を緩めた。
彼も湯浴みを終えたらしい。艶のある黒髪は完全には乾いておらず、重みを含んで額へ落ちている。白い寝間着は簡素で、昼間の深青の正装よりずっと柔らかな印象だった。
けれど何より、耳が少し赤い。
「……何?」
「何でもございません」
「絶対何かある」
「メリーは正しかったのだな、と」
「何を言われた?」
「秘密です」
「それ今日二回目だぞ」
「夫婦でも秘密の一つや二つは必要かと」
「もう夫婦を使いこなしてる」
不満そうに言いながらも、リュシアンの口元には笑みがある。
ただ、部屋へ入ってから、彼はアデルを見たまま動かなかった。
「リュシアン様?」
「見てる」
「それは分かります」
「似合ってる」
灰青色の瞳が寝間着へ落ち、すぐに顔へ戻る。
「仕立屋の方へお伝えください」
「違う。アデルが似合ってる」
「……ありがとうございます」
結局、婚礼衣装の時と同じだった。
「髪も好き」
「普段も夜は下ろしておりますよ」
「知ってる。でも今日は違う」
「何がです?」
しばらく考えて、リュシアンは少し照れたように目を細めた。
「俺の部屋でも、アデルの部屋でもなくて、二人の部屋だからかな」
アデルは返事をしなかった。
代わりに頬へまた熱が集まる。
リュシアンがゆっくり近づいた。
目の前へ来ると、わずかに息を吸う。
すぐに眉が動いた。
「……ない」
「何がです?」
「婚礼の香り」
「湯浴みしましたから」
「ああ。分かってる」
そう言いながら、もう一度、今度は少し近くで息を吸う。
「リュシアン様。嗅いでいらっしゃいます?」
「嗅いでる」
否定すらしない。
「何もつけておりませんよ」
「だから分かる」
「何がでしょう」
リュシアンは答える代わりに、アデルの銀髪を一房すくった。
洗ったばかりの髪には、石鹸の名残がごく淡く残っている。
その奥、近づかなければ分からないところに、アデル自身の匂いがある。
「アデル」
「……はい」
「ちゃんといる」
妙な言い方だった。
「湯浴みしても私は消えませんよ」
「知ってる。ただ、婚礼の香りが全部なくなったら、どんな感じなんだろうと思ってた」
「それで?」
「こっちの方が分かりやすい。アデルの匂い」
灰青色の瞳が柔らかく細められる。
胸の奥が、小さく鳴った。
「そんなに私の匂いがお好きなのですか?」
「好き。香水とは比べるものじゃない」
「宮廷調香師としては複雑ですね」
「今日は宮廷調香師は禁止」
「そうでした」
「俺も王太子じゃない」
「では、何です?」
尋ねた瞬間、リュシアンの口元が上がった。
「夫」
「…………」
「便利だな、この言葉」
「そのように使うための言葉ではございません」
「でも間違ってないだろ?」
返せない。
アデルが視線を逸らしかけると、頬へ手が触れた。
湯上がりの指先は温かい。
銀髪を耳へかけ、そのまま白い頬を包む。
灰青色の瞳が近づいた。
「アデル」
「はい」
「こっち見て」
もう見ている、とは言わなかった。
唇が重なる。
披露宴で交わしたものとは違う。
あれは、大勢の祝福の中で交わした王太子と王太子妃の口付けだった。
今は誰も見ていない。
急ぐ理由もない。
一度触れた唇が離れ、呼吸を挟んで、もう一度重なる。
頬を包んでいた手が銀髪の中へ入り、後頭部を支えるように添えられた。
アデルは目を閉じる。
香水の匂いはない。
朝露の温室も、イェライシャンも、アイリスも、もう何もない。
洗いたての髪。
石鹸。
暖炉の薪。
そして、近すぎる人の肌と吐息。
唇が離れたあとも、リュシアンはすぐには身体を離さなかった。
額が触れそうな距離で、ゆっくり呼吸を整えている。
普段なら白い頬には僅かに熱が差し、切れ長の灰青色の瞳もいつもより潤んで見えた。
「リュシアン様」
「ん?」
「今は、つらくありませんか?」
灰青色の瞳が近くで柔らかく揺れる。
「俺は平気。むしろ」
「むしろ?」
「かなり困ってる」
少し低くなった声に、アデルは眉を寄せた。
「体調が?」
「違う」
「では、何が――」
「それ以上聞いたら、あとで恥ずかしがるのアデルだからな」
何となく意味を察した。
アデルは口を閉じる。
「……聞きません」
「賢い」
薄い唇が笑う。
今さら理解した自分が恥ずかしくなり、アデルは少しだけ視線を逸らした。
「ですが、五感が過敏なのは事実でしょう。私には心地よいことでも、リュシアン様には刺激が強すぎることもあるのではないかと」
笑っていた目元が、少しだけ真面目になる。
「大丈夫」
「本当に?」
「ああ。今日は、嫌なものが一つもない」
アデルは顔を上げた。
リュシアンにとって、世界はいつも少し強すぎた。
香りが濃すぎる。
布が擦れる。
人が近い。
音が重なる。
ほかの人なら気にも留めない刺激が、彼には逃げ場のない不快感になる。
だからずっと、この人は「感じすぎないこと」を求めてきた。
香りを薄くする。
人を遠ざける。
静かな場所へ逃げる。
それなのに今は、触れた頬も、重なる吐息も、すぐそばにある体温も、どれも避けようとはしていない。
「……よかった」
アデルが素直に言うと、リュシアンの目元が柔らかくほどけた。
「それより、教本より難しいなと思ってる」
「今、この時に教本を思い出されたのですか?」
「一瞬だけ。でも読んでる時は、もっと簡単だと思ってた」
「随分詳しい教本でしたでしょう?」
「だからだよ。書いてあることは分かる。何を気をつければいいのかも、身体がどう違うのかも。でも」
リュシアンの親指が、アデルの頬をゆっくり撫でる。
「そこにアデルのことは書いてない」
アデルは黙った。
それは調香にも似ている。
香料の性質は、本で学べる。
どの程度薄めればよいか。
何と合わせればどう変化するか。
けれど実際に肌へ乗せれば、人によって香りは変わる。
知識だけでは、最後まで分からない。
「では、私を見ていてください」
静かに言うと、リュシアンが少し笑った。
「ずっと見てる」
「そういう意味ではありません」
「分かってるよ」
灰青色の瞳は笑っているのに、視線だけは真剣だった。
「アデルも俺を見て」
「はい」
それだけで十分だった。
もう一度、唇が触れる。
今度はアデルの方から少し身体を寄せた。
腰へ回った腕が、ほんの僅かに強くなる。
その反応だけで、嬉しいのだと分かった。
以前の自分なら、そこまで気づかなかっただろう。
アデルは今まで、リュシアンに見られてきた。
表情を読まれ、照れているのか、本当に困っているのかを見分けられ、自分より先に自分の感情を知られることさえあった。
けれど今は、自分もこの人を見ている。
灰青色の瞳の揺れ。
呼吸。
いつもより速い鼓動。
余裕がなくなると少し下がる眉。
それを知ることが、妙に嬉しかった。
「リュシアン様」
「ん?」
「かなり緊張していらっしゃいますね」
「……かなり」
素直な返事だった。
アデルは思わず笑った。
「何で笑うんだよ」
「安心しました。私ばかり緊張しているのだと思っておりましたので」
「俺だってするよ。ずっと待ってたんだから、余計に」
「そういうことを言われると、また緊張するのですが」
「じゃあ黙る」
「急に黙られるのも困ります」
「難しいな」
「そうですね」
顔を見合わせて、二人とも笑った。
張りつめていたものが、少しずつほどけていく。
もう一度近づく。
今度は、先ほどより自然だった。
「アデル」
「はい」
「これ以上近づくと、本当に余裕なくなる」
耳元へ落ちた声は低かった。
「先ほどから、あまり余裕があるようには見えません」
「誰のせいだと思ってる」
「私でしょうか」
「他に誰がいるんだ」
頬が熱くなる。
それを誤魔化すように、アデルは少し笑った。
「香りのせいでは?」
冗談半分だった。
けれど、リュシアンはすぐに答えなかった。
アデルを見る。
笑みが消えたわけではない。
ただ、その奥の感情だけが急に真っ直ぐになる。
「違う」
「……」
「何もつけてないだろ」
「はい」
「婚礼の香りもない。もちろん媚薬もない」
「当然です」
「それでも、触りたい」
胸が大きく鳴った。
一年以上前。
この人は香りに惑わされたと思い込み、アデルを寝台へ押し倒した。
『媚薬だ』
『媚薬ではございません。香りです』
そこから始まった。
けれど今夜は、婚礼香も洗い流した。
香水も、香油も、何一つまとっていない。
「アデルだからだよ」
その一言だけは、どんな香料より強く残った。
アデルはしばらく何も言えなかった。
「……それは」
「うん」
「かなり、恥ずかしいですね」
「言った俺も恥ずかしい」
「そうは見えません」
「今かなり頑張ってる」
よく見れば、耳まで赤い。
アデルはそれを見て、少しだけ安心した。
「では、一緒ですね」
「ああ」
自然に、手を伸ばした。
リュシアンの胸元へ掌を置く。
寝間着越しにも、鼓動が速い。
「本当に速い」
「確認するな」
「興味深くて」
「研究も禁止」
「では、研究ではなく」
掌を離さず、アデルは灰青色の瞳を見る。
「覚えておきます。今のリュシアン様を」
今度は、リュシアンが黙った。
薄い唇が僅かに開き、灰青色の瞳が一瞬だけ見開かれる。
「……それ、反則」
「何がです?」
「無自覚なのが一番困る」
抱き寄せられた。
けれど苦しくはない。
アデルも腕を伸ばし、リュシアンの背へ回す。
何度も同じ寝台で眠った。
抱きしめられた。
口付けもした。
以前なら、その一つ一つに驚いていた。
でも今夜は違う。
夫婦になったから何かをしなければならないのではない。
ただ、もっと近づきたい。
触れられるだけではなく、自分から触れたい。
その気持ちが、身体のどこに生まれるのか。
ようやく分かった。
「リュシアン様」
「ん?」
「もう少し、近くへ」
口にした途端、自分で顔が熱くなった。
けれど、言葉を引っ込めるより先に、リュシアンの灰青色の瞳が大きくなった。
やがて、どうしようもなく嬉しそうに細められる。
「ちゃんと言えたな」
「……今のは忘れてください」
「絶対忘れない」
「では、言いませんでした」
「もう遅い」
今度の口付けは、二人とも少し笑っていた。
やがて言葉が途切れる。
暖炉の火がゆらりと揺れ、窓の向こうでは新しい年の最初の雪が静かに降り続いている。
その夜、二人は教本の頁ではなく、互いの表情を見ながら少しずつ距離をなくしていった。
触れるたび、アデルはリュシアンの顔を見た。
いつも涼しげな灰青色の瞳が熱を宿し、余裕を失っていく。その変化を知ることが、自分でも驚くほど嬉しかった。
リュシアンもまた、アデルが目を伏せれば待ち、もう一度見上げれば近づいた。銀髪が白い寝具へ広がり、新緑にも赤紫にも見える瞳が揺れる。その一つ一つが、彼にはあまりにも鮮明に届いた。
アデルが知ったのは、触れられることより、自分から触れたいと思うことの方がずっと恥ずかしく、そして嬉しいということだった。
リュシアンが知ったのは、今まで五感が鋭いことを苦しいとしか思えない人生だったとしても、一夜でそれが幸福へ変わることがあるということだった。
髪が頬を滑る感触も、指先の温度も、吐息が触れる気配も、近くでしか分からないアデル自身の香りも、これまでは世界から押し寄せてくる刺激だったものが、今夜だけは一つ残らず、もっと感じたいものへ変わっていた。
感じすぎることが、こんなにも幸福な夜がある。
そのことを、リュシアンは初めて知った。
*
夜が深くなった頃、アデルは白い寝具の中でゆっくり目を開けた。
暖炉の火は随分小さくなり、寝室は淡い橙色の闇に沈んでいる。窓の向こうでは、まだ細かな雪が降り続いていた。
すぐそばにリュシアンがいる。
黒髪は完全に乱れ、昼間の端正な王太子の面影はほとんどない。切れ長の灰青色の瞳も眠たげに細まり、白い頬にはまだ僅かな熱が残っている。
アデル自身も同じだった。
昼間あれほど時間をかけて整えてもらった銀髪は、今では枕いっぱいに好き勝手に広がり、何本かは頬へ張りついている。
「……ひどい髪ですね」
「俺もかなりひどい」
「リュシアン様は、いつもより少し崩れている程度です」
「アデルも可愛いよ」
「今は褒めても何も出ません」
「本当なのに」
寝たまま、頬へ張りついた銀髪を指で払われる。
その仕草があまりに自然で、アデルは少し笑った。
「眠い?」
「少し。でも、まだ眠りたくない気もいたします」
「どうして?」
「今日が終わるので」
リュシアンが少しだけ目を開いた。
「婚礼の日が?」
「はい。随分長い一日でしたけれど、終わってしまうと思うと少し惜しいです」
「明日からも一緒だけど」
「分かっています」
「毎日?」
「そうですね」
「それでも?」
アデルは少し考えた。
「今日と同じ日は、もうございませんから」
それを聞いて、リュシアンの表情が柔らかくなった。
「じゃあ覚えておこう」
「何をです?」
「全部」
随分大きく出た。
「忘れますよ」
「忘れたらアデルが教えて」
「では、私も忘れられませんね」
「それでいい」
アデルは笑って、身体を寄せた。
胸元へ頬を預ける。
腕が自然に背へ回った。
「……アデル」
「はい?」
「近い」
「嫌なのですか?」
「まさか」
「でしたら、よいでしょう」
「いいけど。前は俺が近づくだけで怒ってたなと思って」
「勝手に首を嗅がれれば怒ります」
「今は?」
「勝手には困ります」
少し考えてから、リュシアンが聞く。
「じゃあ、嗅いでいい?」
アデルは思わず顔を上げた。
「今さら許可を取られると、それはそれで妙ですね」
「どっちなんだよ」
「……どうぞ」
「素直」
「夫ですので」
言い返した。
今度はリュシアンの方が目を丸くする。
「それ、俺が使うとずるいって言っただろ」
「使ってみると便利でした」
「覚えたな」
「はい」
笑いながら、銀髪を片側へ避けられる。
白い首筋へ顔が寄った。
ゆっくり息を吸われる。
少しくすぐったい。
「……どうです?」
「いる」
「何が?」
「アデル」
「またそれですか」
「だって本当に分かる」
もう婚礼の香りはない。
朝露の温室も、イェライシャンも、アイリスも、湯浴みですべて洗い流した。
それでも、近づけば分かる。
柔らかく乾いた甘さ。花のようでいて花ではなく、どこか土を思わせながら重くない。
名前のない、アデル自身の匂い。
「やっぱり、これが一番好き」
「宮廷調香師としては、やはり複雑です」
「まだ言う?」
「一生言うかもしれません」
「じゃあ一生聞く」
さらりと返される。
アデルは一瞬黙ったあと、今度はこちらからリュシアンの胸元へ鼻先を寄せた。
「何?」
「私も確認します」
「宮廷調香師は禁止じゃなかった?」
「これは妻としてです」
「便利に使い始めたな」
無視して、静かに息を吸う。
石鹸。
洗った髪。
暖炉の煙。
その奥に、もう何度も覚えたリュシアン自身の匂いがある。
「どう?」
アデルは目を閉じたまま答えた。
「分かります」
「何が?」
「リュシアン様です」
頬の下で、鼓動が一度大きく鳴った。
顔を上げると、リュシアンが驚くほど嬉しそうに笑っている。
「それ、かなり嬉しい」
「そうなのですか?」
「ああ。俺ばっかりアデルを分かるの、少しずるいと思ってた」
「では、これからは私も覚えます」
「ずっと?」
「ずっと」
今度は、努力すると言わなかった。
重ねた手には、それぞれ同じ婚礼指輪がある。
灰青色のスピネル。
アレキサンドライト。
二つの石が、消えかけた暖炉の光を受けて僅かに輝いた。
婚礼のために作った『朝を待つ香り』は、もうどこにも残っていない。
けれど、それでよかった。
朝露に濡れた温室も、夜に咲いたイェライシャンも、最後のアイリスも、すべて消えたあとに二人自身が残る。
名前をつけなくても分かる。
近づけば分かる。
目を閉じても、きっと分かる。
アデルは夫の胸元へ頬を寄せた。
規則正しい鼓動と、腕の温度と、名前のない香りに包まれながら、ゆっくり瞼を閉じる。
もう、朝を待つ必要はなかった。




