第四十話 夫婦になる香り
翌朝、アデルは目を覚ましてから、しばらく天蓋を見つめていた。
窓の外はすでに明るい。昨夜遅くまで降っていた雪は止んだらしく、厚いカーテンの隙間から差し込む冬の朝日が、寝室を淡い青白さで満たしている。暖炉にはまだ小さく火が残り、燃え尽きかけた薪と灰の乾いた匂いが、洗いたての寝具に残る石鹸の淡い香りへ混じっていた。
婚礼の日にまとっていた『朝を待つ香り』は、もうない。
朝露に濡れた温室も、イェライシャンも、最後に残っていたアイリスも、昨夜の湯浴みですべて消えた。
今あるのは、静かな朝の匂いと、すぐ隣で眠る人の体温だけだった。
昨日と違う朝。
何が、と問われれば、ほとんど全部が違う。昨日までは婚礼の日で、今日からは、その次の日である。
アデルはゆっくり身体を起こそうとして、
「……っ」
動きを止めた。
痛い。
正確には、身体のあちこちが普段とは違った。腰には鈍い重さが残り、脚にも妙な疲労感がある。寝返りを打つだけなら問題ないのに、起き上がろうとすると昨夜使った覚えのない場所まで存在を主張してくる。
理由は考えるまでもなかった。
考えるまでもないからこそ、朝から非常に困る。
「……やはり、これは避けられないのですね」
「何が?」
すぐ隣から声がした。
アデルは肩を揺らして振り返った。
「起きていらしたのですか」
「今起きた」
リュシアンが掛布の中から顔を上げる。
寝起きの黒髪は完全に乱れ、艶のある前髪が額だけでなく灰青色の瞳へまで何本も落ちていた。昨日、深い青と銀の婚礼衣装で大勢の前に立っていた王太子と同一人物とは思えないほど無防備で、白い寝間着の襟元も少し緩んでいる。
けれど、まだ眠たげだった灰青色の瞳は、アデルの表情を見た途端に目を覚ましたようだった。
「痛い?」
声音まで変わる。
アデルは一瞬迷ったものの、ここで誤魔化しても仕方がない。
「……多少は」
「多少?」
「それなりに」
「それなり、ってどのくらい?」
「聞き返されると、具体的に説明しなければならない気がして困ります」
「ああ……それはいい」
リュシアンはすぐに引いた。
そして、眉を少し下げる。
昨夜とはまるで違う顔だった。
「大丈夫?」
「動けないほどではございません。ただ、今日は階段を少しゆっくり歩きたいですね。急に立つと、腰も重く感じますし」
「……ごめん」
思いのほか素直に謝られて、アデルは瞬きをした。
「なぜ謝るのです?」
「俺が原因だから」
「リュシアン様だけの責任ではございませんよ」
「それ、朝から言われるとかなり困るんだけど」
「なぜでしょう」
「昨夜のアデルを思い出すから」
「…………」
今度はアデルが黙った。
触れた手。
近すぎる呼吸。
自分から「もう少し近くへ」と言ったこと。
そのあと、いつもより余裕をなくしていった灰青色の瞳。
途切れ途切れだった記憶が、一気に鮮明になる。
「アデル?」
「見ないでください」
「何で」
「思い出しました」
意味を理解したらしい。
今度はリュシアンまで一瞬黙った。
灰青色の瞳がわずかに横へ逸れ、耳の先へじわりと赤みが広がる。
昨夜はあれほど余裕をなくしていたくせに、朝になれば朝になったで恥ずかしいらしい。
アデルはその横顔を見ているうちに、妙に安心した。
「リュシアン様も恥ずかしいのですね」
「当たり前だろ」
「昨夜は、あまりそのようには見えませんでしたけれど」
「アデルだって結構――」
「朝食へ参りましょうか」
「今のは逃げただろ」
「お腹が空きました」
「絶対逃げた」
それでもリュシアンは笑っていた。
昨夜とは違う種類の照れくささが、二人の間に残っている。
けれど嫌な沈黙ではない。
同じことを思い出して、同じように恥ずかしくなる相手がいる。
そのことが、アデルには少し嬉しかった。
それも夫婦になるということなのかもしれない。
*
身支度を終え、二人が朝食の部屋へ入る頃には、雪雲の切れ間から冬の陽が差し始めていた。
窓の外には真新しい雪が残り、葉を落とした庭木の枝先で細かな氷が光っている。室内には焼きたてのパンの香ばしさと、温かな乳、薄く香草をきかせた卵料理の匂いが満ちていた。昨日一日、祝宴の華やかな料理ばかり見ていたせいか、素朴な朝食の香りが妙に落ち着く。
アデルが椅子へ座ろうとすると、腰へ僅かな痛みが走った。
顔には出さなかったつもりだった。
「ゆっくり」
すぐ隣から言われた。
「……分かりました?」
「分かるよ。さっきから歩幅も小さい」
「見すぎです」
「見るだろ。妻なんだから」
「早速、便利にお使いですね」
「アデルも昨夜使ってただろ」
それを言われると弱い。
リュシアンは当然のように椅子を引き、アデルがゆっくり腰を下ろすまで手を添えた。
侍従たちは何も見ていない顔をしている。
それが逆に恥ずかしい。
「今後も朝食はこちらでいただくのでしょうか」
膝へナプキンを広げながら話題を変えると、リュシアンも向かいの席へ腰を下ろした。
「基本は二人。ただ、今までより王家の朝食に呼ばれることは増えると思う」
「陛下と王妃様と?」
「ああ。メリルとライオネルもいる時がある。全員揃うことは少ないけど、予定が合えば一緒に食べる」
アデルは少し想像した。
国王。
王妃。
メリル。
ライオネル。
そして、自分とリュシアン。
今までなら、王族の家族の食卓へ自分が入るというだけで緊張しただろう。
けれど、もう「入る」のではない。
昨日から、自分もその家族の一人になった。
「……また実感が湧いてきました」
「何が?」
「結婚したことです」
リュシアンの口元が緩む。
「昨日から何回目?」
「数えていらっしゃるのですか?」
「面白いから」
「そのうち言わなくなりますよ」
「それは困るな」
「なぜです?」
「俺も、アデルがそう言うたび嬉しいから」
何でもない顔で言われ、アデルはパンを取るふりをして視線を落とした。
こういうところは昨日と変わらない。
むしろ結婚してから悪化している気さえする。
「今日は父上たちとは別でいいらしい。昨日の今日だし、国賓もまだいるからな」
「では、今日のご予定は?」
「午前から国賓対応。そのあとも多分ライレイだな。昨日は披露宴でほとんどまともに話せなかったし」
リュシアンが茶を一口飲む。
「アデルは?」
「私はリンレイ殿下とともに、ユエ様のおもてなしを。昨日は婚礼と披露宴で、こちらもほとんどゆっくりお話しできませんでしたので」
「俺も似たようなものだな。一日、ライレイと過ごすと思う」
「男女で分かれるのですね」
「たまたまだろ」
「そうでしょうか」
何となく、意図的に分けられた気もする。
けれどアデルはそれ以上考えなかった。
今のところ、ユエとゆっくり話せる方が嬉しい。
「ユエ様の婚約のお話も、もう少し伺ってみたいです」
「俺もライレイに聞くつもり」
「何をです?」
「前にここを出た時は、そんな素振りなかっただろう。それが数ヶ月後には婚約してる。何があったのか気になる」
「……確かに」
昨日はあまりにも突然すぎて、そこまで考えが回らなかった。
スピネリアを発った頃には、ライレイが一方的にユエを妃候補へすると言い出した程度だった。それが今では正式な婚約者である。
「何があったのでしょう」
「聞けば分かる」
「あとで教えてください」
「アデルもな」
「はい」
夫婦になって最初の朝食は、思っていたよりずっといつも通りに終わった。
*
「アデル様。改めまして、ご結婚おめでとうございます」
午前の陽が高くなった頃、王族居住区の小さな客間でユエが深く頭を下げた。
昨日の夜会とは、また違う姿だった。
黒に近い深紅ではなく、今日はシャンの貴族令嬢らしい淡い翡翠色の長衣を纏っている。薄い絹を幾重にも重ねた衣装は身体の線を拾いすぎず、それでも歩けば裾が水のように揺れた。艶のある黒髪は高く結い上げられ、金と翡翠の細い簪が一つ。白い肌に暗赤色の瞳が映え、薬草を前に袖を捲っていた時とはまるで別人に見える。
衣からは、シャンでよく使われる白檀に似た乾いた木の香りがごく淡く漂っていた。身体へ直接香水をまとうのではなく、焚いた香を衣へ移す文化の匂いだ。白檀の奥には、ほんの少し薬草の青さもある。
飾っていても、やはりユエなのだと分かる香りだった。
「ありがとうございます。ユエ様も、改めましてご婚約おめでとうございます」
「ええ。昨日は少々、お騒がせいたしました」
「少々でしょうか。リンレイ殿下は、かなり驚いていらっしゃいましたよ」
アデルが笑うと、ユエの伏し目がちな暗赤色の瞳が僅かに細くなった。
「それにつきましては、わたくしからも事前にお知らせするよう申し上げたのですが」
「やはり」
「殿下が『直接見た方が面白い』と仰いまして」
「ライレイ殿下らしいですね」
「左様でございます。困った方にございます」
声音は淡々としているのに、ほんの少しだけ諦めが混じっている。
それが妙に可笑しくて、アデルはまた笑った。
ユエは卓上の茶器へ目を落とした。茶からは柑橘の皮と乾燥させた花の淡い香りが立っている。
それから、珍しく自分から言葉を続けた。
「昨日のお二人のお姿は、本当に清らかで、美しゅうございました」
「……ユエ様がそのような感想を仰るのは珍しいですね」
「そうでしょうか」
「はい。薬や毒についてでしたら、よく所感を伺いますけれど」
「婚礼を毒物と同じように評するわけにも参りませんので」
「それはそうですね」
真顔で返され、アデルは口元を押さえた。
「でも、ありがとうございます。とても嬉しいです」
「王太子殿下も、普段とは随分違っておられました」
「そうでした?」
「はい。式のあいだ、ほとんどアデル様しかご覧になっておりませんでした」
「…………」
「事実にございます」
「分かりましたから」
朝から何度顔を赤くすればいいのだろう。
アデルは誤魔化すように茶を一口飲んだ。
「ユエ様のご婚礼の儀も、お美しいでしょうね」
「シャンの婚礼衣装は朱色にございますので、また雰囲気が異なるかと」
「朱色」
ライレイの赤褐色の髪と金色の瞳を思い出す。
そこに、黒髪と暗赤色の瞳を持つユエが並ぶ。
確かに、昨日の銀白色と深青の婚礼とはまったく違う景色になるだろう。
「楽しみにしております」
「まだ日取りも決まっておりませんが」
「それでもです」
「では、その折にはぜひ」
ユエの薄い唇が、ほんの少しだけ笑った。
その時、扉が開いた。
「失礼いたします」
リンレイだった。
昨日は華やかな王女の正装だったが、今日はスピネリアで公務を行う時の装いに戻っている。艶のある赤褐色の髪を高く結び、大きく吊り上がった金色の瞳は、部屋へ入った瞬間からまっすぐユエへ向いていた。
「リンレイ殿下」
「お待たせいたしました」
そう言いながら席へ着く。
けれど、どう見ても何か言いたそうだった。
茶が注がれるのを待つことすらできず、リンレイはユエを見た。
「ユエ様」
「はい」
「本当に、兄様でよろしいのですか?」
「リンレイ殿下」
アデルが思わず名前を呼ぶ。
しかしユエは驚かなかった。
「はい。条件としては、現時点で婚姻相手として申し分ございません」
「……条件としては、なのですか?」
「それ以外に何を基準といたしましょう」
淡々と返され、リンレイは言葉に詰まった。
兄が嫌いなわけではない。
それどころか、誰より大切に思っていることをアデルはもう知っていた。
十五歳の少女にとって、ライレイは幼い頃から自分を守ってきた兄だ。けれど同時に、王太子として多くの敵を持ち、戦場でも宮廷でも、生き残るためなら必要なものを選び、不要なものを切り捨てる人でもある。
そんな兄の隣へ立つ。
それがどれほど危険なことか、リンレイは誰より分かっている。
ユエなら生き残れる。
おそらく、それも分かっている。
でも、それだけでいいのだろうか。
兄にも、人を愛してほしい。
誰かから愛されてほしい。
その願いを、十五歳の少女はまだうまく言葉にできない。
ユエが茶杯を置いた。
「リンレイ殿下は、ご心配ですか?」
「……え」
金色の瞳が見開かれる。
「兄様のことを?」
「わたくしのことを、かもしれません」
「それは……」
言葉が止まった。
見透かされたのだろう。
リンレイは視線を落とし、細い指で自分の袖口をつまんだ。
「わたくしのような、婚姻の遅れた女を妃に迎えてくださるだけでも、ありがたいお話ではございます」
「そんなことは決してございません!」
リンレイが勢いよく顔を上げる。
アデルも眉を寄せた。
「ユエ様ほど優秀な方が、そのようなことを仰るものではございません」
「ありがとうございます。ですが、シャンでは、わたくしの年齢まで独身でいる令嬢は多くございませんので」
「おいくつであろうと関係ありません。兄様の方が、ユエ様を選んだのでしょう?」
「左様にございます」
「でしたら、兄様が幸運なのです」
ユエが黙った。
アデルも思わずリンレイを見る。
少女は真剣だった。
「兄様は、あれで敵が多いのです。余計なことを言いますし、人を怒らせますし、危険なことも平気でなさいます。だから、ユエ様が兄様の隣へ立つことも、それなりに危険だと思っております」
「リンレイ殿下は、わたくしをご心配くださっているのですね」
「……それもございます」
そこでリンレイは一度言葉を止めた。
金色の瞳が少しだけ伏せられる。
「でも、兄様のことも心配なのです。兄様は強いですし、滅多なことでは死にません。けれど、だからこそ全部一人で片づけようとしますから」
ユエは急かさず、その続きを待った。
「だから……ユエ様がいてくださるなら、少し安心できる気がするのです」
最後は小さな声だった。
ユエの暗赤色の瞳が、ごく僅かに柔らかくなる。
「承知いたしました。ですが、現時点ではそれ以上のお約束はできません」
「……そこまで現実的でなくても」
「できないことを約束する方が、不誠実にございます」
あまりにもユエらしい返事だった。
それでも少し間を置いて、
「ですが、わたくしは生き残ることには慣れております」
「……そこは心配しておりません」
リンレイが即答した。
アデルはとうとう笑った。
「では、やはりライレイ殿下の方がご心配なのでは?」
「アデル様まで!」
金色の瞳が大きくなる。
けれど、少しだけ頬が赤い。
アデルとユエは顔を見合わせた。
ユエの口元にも、ごく薄い笑みが浮かんでいた。
*
一方、その頃。
リュシアンは王宮の別棟にある小さな談話室で、ライレイと向かい合っていた。
窓の外には白い雪が残り、冬の日差しが磨かれた床へ淡く反射している。卓上には茶と小さな焼き菓子が用意され、香ばしい蜂蜜と木の実の匂いが、ライレイの衣から漂う白檀の乾いた香りへ混じっていた。
朱を抑えた濃い臙脂色のシャン正装に、長い赤褐色の髪。金色の瞳には、先ほどから隠す気もない笑みが浮かんでいる。
「昨日はどうだった?」
とうとう来た。
けれど、以前のリュシアンならともかく、今はそれだけで動揺する理由もない。
「何が」
「教本。役に立った?」
「まあな。全部そのまま使えるわけじゃなかったが、読む意味はあった」
ライレイが一瞬止まった。
今度はリュシアンの口元が僅かに上がる。
「何だ、その顔」
「いや。もっと狼狽えるかと思ってた」
「いつの話だよ。お前に散々からかわれてた頃とは違う」
「一晩でずいぶん余裕が出たねえ」
「おかげさまで」
茶を飲みながら返す。
以前なら「実地」だの「教本」だのと言われるたびに追い出したくなっていたが、一夜明けてみれば妙にどうでもよかった。
知識しかなかった昨日までと、今では確かに違う。
もっとも、その違いをライレイに詳しく話す気はない。
「それより、ユエ嬢はいくつなんだ?」
「二十六」
「……六つ上?」
「そう。俺も初めて聞いた時は驚いたよ」
リュシアンは少し考え、頷いた。
「道理で落ち着いてる」
「それ、どういう意味?」
「お前より大人でよかったという意味だ。いいんじゃないか、首輪を握ってもらえて」
「俺のことを何だと思ってるの」
「今のところ、首輪が必要な男」
「新婚初日の男に言われたくないなあ」
ライレイは口を尖らせたものの、本気で不満そうではない。むしろユエの話になった途端、金色の瞳から普段の鋭さが少し抜けている。
「まあ、ユエはそういうタイプじゃないよ。俺を管理したいわけでもないし」
「なら、どういうタイプなんだ?」
「放っておくタイプ」
「それはお前に合ってるんじゃないか」
「そうなんだけどねえ」
ライレイは焼き菓子を一つ取り、半分ほど齧った。
蜂蜜の甘い香りがふわりと立つ。
それを噛みながら、少し間を置いてから何でもないことのように呟いた。
「ユエ、消極的だから寂しいよ」
その声音だけが、妙に本気だった。
「……何が?」
「いろいろ」
言い方で分かった。
リュシアンは茶杯を置く。
「待て。婚前だよな?」
「婚前だね」
「……もう?」
「シャンではこんなものだよ。君たちみたいに清らかじゃないの」
「清らか?」
「ユエ、昨日そう言ってたよ。お二人のお姿は清らかで素敵でしたって」
リュシアンは少し眉を寄せる。
「婚礼衣装の話だけじゃなかったのか」
「もちろんそれもあるだろうけど。一年以上付き合って、結婚するまで待ったんでしょ?」
「……悪いか」
「全然。むしろ、ずいぶん大事にしてるなと思ったよ」
からかっているだけではないらしい。
リュシアンは少しだけ目を細めた。
「じゃあ、ユエ嬢もお前の全ページ制覇に付き合わされたのか?」
ライレイが吹き出した。
「いやいや。さすがにあれは若気の至りだよ。今は普通」
「……よかった」
「何、その安心」
「本当によかった。これからユエ嬢をどんな目で見ればいいのか分からなくなるところだった」
「失礼だなあ。俺だって今は節度があるよ」
「普通と節度の基準が信用できない」
「ひどい」
以前なら、ここでリュシアンの方が話を切り上げたくなっていた。
今は違う。
ライレイの話を聞きながら、昨夜のアデルの表情を思い出す余裕まである。
「それで、消極的って?」
「そのまま。嫌がってるわけじゃないし、俺が求めれば応じてくれる。むしろ何をしても妙に冷静で、こっちが困るくらい」
「お前が困ることもあるんだな」
「あるよ」
ライレイは頬杖をつき、金色の瞳を伏せた。
長い赤褐色の髪が肩からさらりと落ちる。
「分かってるんだよ。ユエはそういう性格だし、何でも気持ちを大きく見せるタイプじゃない。俺に応じるのだって、嫌なら絶対にしない女だってことも分かってる」
「ならいいだろ」
「よくない」
「何が」
「俺はもう少し、ユエからも欲しがられたいの」
ライレイが拗ねたように眉を寄せる。
「俺ばっかり寄っていって、俺ばっかり触って、俺ばっかり嬉しそうなの、ちょっと寂しいじゃない」
「……」
「たまには向こうから抱きついてきてもいいと思わない?」
リュシアンは返事に一瞬詰まった。
昨夜。
アデルの方から身体を寄せてきた瞬間。
『もう少し、近くへ』
あれを思い出しただけで、胸の奥が少し熱くなる。
確かに。
かなり嬉しかった。
「……分からなくはない」
「でしょ?」
ライレイがすぐに顔を上げる。
仲間を見つけたような顔だった。
「そうなんだよ。自分から求めるのもいいけど、相手から欲しがられると全然違うじゃない」
「ああ」
もう否定しなかった。
その返事に、ライレイは満足そうに頷いたものの、すぐまた眉が下がった。
「それにさ。ああ見えてユエ、自己評価低いのも寂しいんだよ」
「ユエ嬢が?」
「そう。『可愛げのない女ですから』とか、『貧相な身体でございますので、ご満足いただけるか分かりません』とか、普通に言うんだよ!」
最後だけ声が大きくなる。
リュシアンは思わず眉を上げた。
いつも冷静で、毒を前にしても表情一つ変えない女からは想像しづらい。
「そこは慰めるのがお前の仕事だろ」
「慰めてるよ。俺は毎回かなり真面目に否定してる」
「なら、それでいいじゃないか」
「よくない。本人が全然信じてない」
ライレイは焼き菓子をもう一つ取ったものの、今度は食べずに指先で弄び始めた。
「『殿下はお優しいですね』で終わるんだよ。優しいから言ってるんじゃないのに」
「じゃあ何で言ってるんだ」
「好きだからに決まってるじゃない」
あまりにも自然に出た。
言った本人も一瞬止まる。
リュシアンも止まった。
ライレイは数秒後、誤魔化すように焼き菓子を口へ放り込んだ。
「……何」
「いや。お前も普通に惚れるんだなと思って」
ライレイの金色の瞳が一瞬止まった。
「最初は俺だって、便利だなくらいだったよ」
思いのほか正直な返事だった。
「便利?」
「頭は切れる。毒も薬も分かる。政争にも動じない。それに、生き残る力もある。俺の隣へ置くなら、かなり都合がいいと思った」
「言い方」
「本人にも似たようなことは言ってる」
「よく婚約してもらえたな」
「俺もそう思う」
ライレイは肩を竦める。
それから、茶杯へ視線を落とした。
金色の瞳へ窓からの冬光が差し込み、先ほどまでのふざけた色が少し薄くなる。
「でもまあ、情もうつるじゃないか」
軽い言い方だった。
けれど、その声は思いのほか静かだった。
「一緒に仕事して、飯食って、こっちの嫌なところも平気な顔で見て、それでも離れない。俺が何をしても驚くより先に理由を考えるし、間違ってると思えば普通に止める」
ライレイの口元が少しだけ緩む。
「そういうのが続けば、最初と同じではいられないよ」
リュシアンは少し黙って目の前の男を見る。
便利。
使える。
条件が合う。
そこから始めた男が、今では相手からもっと求められたいと拗ねている。
「それで、たまには組み敷かれてみたい、と」
リュシアンが何気なく言うと、ライレイが勢いよく顔を上げた。
「そう! 毎回こっちからじゃなくて、一度くらいユエの方から『今日は逃がしません』くらいあってもいいと思わない?」
「……」
リュシアンは想像した。
アデルが。
自分から。
昨日よりさらに積極的に。
「……まあ、分からなくはない」
「でしょ?」
ライレイが本気で嬉しそうな顔をする。
今まで男女の話では常に一歩も二歩も先にいた男が、初めて同じ悩みを共有できる相手を見つけたような表情だった。
「リュシー、結婚した途端に言うこと変わったね」
「そうか?」
「昨日までこっち側だったのに」
「どっち側だよ」
「待てない側」
リュシアンは少し考えた。
確かに自分も婚礼を待ち遠しく思っていた。
けれど昨夜を迎えた今なら、その前に積み重ねた時間まで悪くなかったと思える。
「待ったから分かることもある」
「……何その余裕」
「一晩で変わったらしい」
「腹立つなあ」
「お前が散々やってきたことだろ」
「それはそう」
二人は顔を見合わせ、同時に笑った。
*
「ライレイ殿下とは、もう閨をお過ごしに!?」
同じ頃、アデルの声が客間に響いていた。
思っていたより大きな声が出たらしい。
自分でも驚いて口元を押さえる。
向かいのユエは、いつも通り静かな顔で茶杯を持っている。
「はい」
あまりにも普通の返事だった。
リンレイも横で額を押さえた。
「……兄様」
「婚約なさって、まだ間もないですよね?」
「左様にございます」
「それで、もう?」
「殿下曰く、『婚約者なら疲れた夫を癒すべきだ』と」
アデルは瞬きをした。
「まだ夫ではございませんよね?」
「わたくしも申し上げました」
「それで?」
「『細かいことはいい』と」
「兄様……」
リンレイの声が低くなる。
一方、アデルは少し考え込んだ。
「なるほど」
「アデル様?」
リンレイが振り返る。
アデルの顔から先ほどまでの驚きが消えていた。
代わりに、何か新しい知識を得た時の真剣な表情になっている。
新緑色に見えていた瞳が細くなり、無意識に指先まで顎へ添えていた。
「お疲れを癒す、という考え方もあるのですね」
「そこで勉強のお顔にならないでください」
「ですが、夫婦間の親密な行為には精神的な安心を与える面もある、と教本には」
「アデル様」
「はい」
「昨夜を思い出しておられませんか?」
「…………」
図星だった。
アデルは静かに茶を飲んだ。
柑橘の皮と乾燥花の香りが、妙に鮮明に鼻へ入る。
ユエが暗赤色の瞳を僅かに細めた。
「わたくしには、お疲れを癒す方法とはあまり思えませんでしたが」
「そうなのですか?」
また顔を上げてしまった。
リンレイが深くため息をつく。
「兄様に精神的な疲れはあれど、体力的な疲れはないでしょうからね」
「なんとまあ」
昨日までなら、そこで終わっていただろう。
けれど今のアデルは、もう知ってしまった。
教本の文字や図としてではない。
実際に身体を動かし、触れられ、触れ返し、今朝は腰まで痛い。
その経験を持って聞くと、話の恐ろしさが急に具体的になる。
「ライレイ殿下は……お元気なのですね」
「非常に」
ユエの返答には迷いがなかった。
「そのうえ、いたずら好きでいらっしゃいますので、少々体力にこたえまして」
「いたずら」
「詳しく伺っても?」
「アデル様」
リンレイが止めた。
「はい」
「止まりましょう」
「まだ何も」
「お顔が完全に調香室にいる時と同じです」
「勉強になるかと」
「何の勉強ですか」
「夫婦生活の」
「昨日始まったばかりでしょう!」
リンレイの頬まで赤くなっている。
ユエだけが平然としていた。
「幸い、途中で都合よく暗殺者が入ってまいりましたので」
アデルの思考が止まった。
「……都合よく、暗殺者が?」
「はい」
「暗殺者ですよね?」
「左様にございます」
「都合がよい?」
「わたくしとしては」
ユエは静かに茶杯を置いた。
白檀の淡い香りが衣から僅かに揺れる。
「処理を理由に、その夜は休ませていただきました」
「処理」
「始末したあと、毒物の有無と侵入経路を確認いたしましたので」
アデルは言葉を失った。
暗殺者が寝室へ入る。
普通なら一大事である。
いや、普通でなくても一大事だ。
それを「都合がよかった」と言える女性が、目の前で優雅に茶を飲んでいる。
「……ユエ様は、お強いのですね」
「自衛程度にございます」
「それを自衛程度とは申しません」
リンレイが即座に否定した。
それから少女は、何とも言えない顔で額へ手を当てた。
「兄様のお相手をしていただいたうえ、暗殺者まで処理していただくとは……妹として頭が上がりません」
ユエが僅かに首を傾げる。
「リンレイ殿下が頭を下げることではございません」
「ですが、兄様は昔から加減を知らないところがございますので」
「……そういう方なのですね」
アデルが神妙に頷く。
リンレイはすぐにアデルへ向き直った。
「アデル様まで納得なさらないでください。わたくしは兄様を悪く言いたいわけではございません」
「では、良いところも?」
「もちろんございます。ただし今の話題で思い浮かぶものがございません」
「リンレイ殿下」
さすがのユエも少し笑った。
白い頬が僅かに緩み、いつも冷静な暗赤色の瞳まで柔らかくなる。
「でもまあ、愛い方ではございますよ」
その一言で、今度はアデルとリンレイが揃って黙った。
「…………」
「…………」
ユエが瞬きをする。
「何でしょう」
「いえ」
先に答えたのはアデルだった。
「ユエ様も、きちんとライレイ殿下へ情がおありなのですね」
「情はございます」
即答だった。
けれど「好き」とは言わない。
そこがユエらしい。
「婚姻相手として好ましく思っております。判断は早く、政治的な感覚も優れている。わたくしが何をしても、驚くより先に面白がってくださいますし」
「それだけ聞くと、とても好意的ですね」
「多少面倒ではございますが」
「多少?」
リンレイが聞き返す。
ユエは一拍考えた。
「かなり、かもしれません」
「そこは同意いたします」
「リンレイ殿下」
「ですが兄様は、ユエ様のことをかなりお好きなのだと思います」
思い切ったように言うと、今度はユエがわずかに目を見開いた。
「そうでしょうか」
「はい。兄様は、気を許している者にしか見せない顔を、ユエ様にはしています」
リンレイは迷いなく言った。
「人前ではいつも笑っておりますけれど、あれは大半が相手を見ている顔です。本当に安心している時は、もっと力が抜けます。昨日ユエ様と並んでいた兄様は、そういう顔をしておりました」
ユエは何も答えなかった。
けれど、茶杯へ添えた指がほんの少しだけ止まった。
アデルも、その横顔を見た。
先ほどから気になっていた。
婚姻の遅れた女。
婚姻相手として申し分ない。
情はある。
いつもユエは、事実と条件で自分を説明する。
「ユエ様」
「はい」
「ご自身を、あまり高く評価なさらないのですね」
暗赤色の瞳が僅かに動いた。
「そのようなことは」
「ございます。先ほども、婚姻が遅れたと仰いました。ライレイ殿下に選ばれたことも、ご自身が望まれたからではなく、条件が合ったからのように」
ユエはしばらく返事をしなかった。
「……可愛げのある女ではございませんので」
「そんなことは」
「身体つきも華奢というより、貧相な方でしょう。殿下ほど経験のある方にご満足いただけるのかは、今でも少々疑問にございます」
「ユエ様!」
リンレイが悲鳴に近い声を上げた。
アデルも目を丸くする。
しかしユエは本気だった。
白い頬には僅かな赤みがあるものの、冗談を言っている顔ではない。
「それを、ライレイ殿下にも?」
「同じように申し上げましたら、随分長く否定されました」
アデルは思わず口元を緩めた。
想像できる。
普段は軽口ばかりのライレイが、そこだけは妙に真剣になっている姿が。
「でしたら、信じて差し上げてはいかがです?」
「殿下は、お優しい方にございますので」
「兄様が誰にでもそのようなことを言うとお思いですか?」
リンレイが呆れたように眉を寄せる。
ユエは少し考えてから、真顔で答えた。
「諜報筋の報告では、殿下は花街で随分と人気であられたとございましたので」
「…………兄様」
リンレイの顔から、一度すべての表情が消えた。
アデルは何も言えない。
ユエだけが平然としている。
数秒後、リンレイが深く息を吐いた。
「兄様の蒔いた種ではありますが、あれこそ諜報のためですからね。女性の方々から話を聞くために通っていたのです。もちろん、本人も多少楽しんでいたとは思いますけれど」
「多少でしょうか」
「そこは妹として深く考えたくありません」
「賢明かと」
「ですが、少なくとも普段の兄様は人を滅多に褒めません。慰めてもくれません。相手が落ち込んでいても、『じゃあ次はどうする?』で終わるような人です」
リンレイはユエへ身を乗り出した。
「そんな兄様が、何度も否定してくださったのでしょう?」
「はい」
「でしたら、本当にそう思っているのです」
ユエの暗赤色の瞳が僅かに揺れた。
「……そういうものでございましょうか」
「そういうものです」
今度ばかりはリンレイも譲らなかった。
アデルも小さく頷く。
「私も、そう思います」
「アデル様まで」
「はい。少なくともリュシアン様でしたら、慰めるためだけに同じことを何度も仰るとは思えません。ライレイ殿下も、そこは似ていらっしゃるのでは?」
ユエは少し黙ったあと、茶杯へ視線を落とした。
長い睫毛が白い頬へ影を落とす。
「……覚えておきます」
それだけだった。
けれど、先ほどより頬が少し赤い。
アデルはそれ以上追及しなかった。
「それにしても、ライレイ殿下も案外ご苦労なさっているのですね」
「そうでしょうか」
「はい。少し気の毒になってまいりました」
「お気遣いは不要かと」
「なぜです?」
ユエは茶杯を持ち上げ、淡い湯気の向こうで暗赤色の瞳を細めた。
「殿下は十分、ご自身のしたいようになさっておりますので」
その声に、少しだけ含みがあった。
アデルもリンレイも気づく。
「……ほかにも何かなさったのですか?」
リンレイが恐る恐る尋ねる。
「いくつか」
「ユエ様、詳しく伺っても?」
アデルが目を輝かせ、思わず少し身を乗り出した。
ユエはそんなアデルを見てから、その隣で身構えるリンレイへ視線を移した。
「わたくしは構いませんが、リンレイ殿下の前でお話しするには少々」
「…………」
リンレイの金色の瞳がゆっくり細くなる。
「聞かない方がよい内容なのですね」
「わたくしからは何とも」
「その答えでもう十分です」
「では、リンレイ殿下が席を外された後に」
「アデル様も聞かないでください!」
客間へ、三人の声と笑いが重なった。
*
しばらくして、ライレイがぽつりと言った。
「でもまあ、幸せそうでよかったよ」
先ほどまでの軽い笑みが少しだけ消え、金色の瞳が穏やかになる。
「初めて会った頃のお前、香水の国の王太子なのに香りが駄目で、人付き合いも面倒そうで。ずいぶん生きづらそうな男だと思ってたから」
「余計なお世話だ」
「うん。でも昨日は違った」
リュシアンは黙って続きを待った。
「ずっとアデルちゃん見てた」
「……見てたな」
「否定しないんだ」
「妻だぞ。見るだろ」
自然に答えられた。
ライレイが、ほんの一瞬だけ目を細める。
「本当に変わったね」
「そうかもな」
窓から射す冬の日差しが、茶の湯気を白く透かしている。暖かな茶葉の香りに混じって、ライレイの衣へ焚き染められた白檀が薄く漂っていた。
リュシアンは今朝のアデルを思い出した。
身体が痛いと言いながら、自分が申し訳なさそうにしているのを見て笑った顔。昨夜を思い出して赤くなった頬。それでも朝食では当然のように自分の向かいへ座り、今日の予定を話していた。
「悪くない」
「何が?」
「結婚」
口にすると、思った以上に素直な言葉だった。
ライレイが一瞬目を丸くして、それから笑う。
「それはよかった」
「お前のところは、まだ先だろ」
「そうだね。まず帰って父上たちと詰めないと。ユエの条件もあるし」
「仕事を続けること?」
「それも。レン家の薬業と研究は続ける。必要なら自分で地方にも行く。財産も王家へ取り込ませない。それから、妃になったからといってレン家の仕事へ王家が勝手に口を出さないこと」
「かなり具体的だな」
「だから婚約できたんだよ」
ライレイは何でもないように言ったあと、窓の外へ目を向けた。
冬の白い光を映した金色の瞳には、先ほどまでの拗ねた色がもうない。
「面倒でも全部やるよ。もう選んだから」
軽い口調だった。
けれど、その声にも眼差しにも迷いはなかった。
リュシアンはそれ以上何も言わなかった。
その顔を、自分も知っている。
最初は便利だからでもいい。
条件が合うからでもいい。
共に過ごして、知らなかった顔を知り、いつの間にか情が移ることもある。
誰を隣へ置きたいのか。
誰と生きたいのか。
最後にそこが決まっているのなら、始まり方など、それほど重要ではないのかもしれなかった。




