第四十一話 続いていく香り
その夜、アデルは寝室へ戻ってから、妙に落ち着かなかった。
昨日と同じ部屋である。白い寝具も、淡い灰青色の天蓋も、窓辺に置かれた小さな卓も変わらない。暖炉では薪が静かに爆ぜ、窓の向こうには新年二日目の雪が細く降り始めていた。王宮の夜は深く、遠くを巡回する衛兵の靴音が、ときおり石造りの回廊を伝ってくる。
けれど香りは、昨日とは違う。
婚礼のために作った『朝を待つ香り』はもうどこにもない。代わりにあるのは、乾いた薪の匂いと、洗いたての寝具に残る石鹸、それから湯浴みを終えたばかりの自分自身の淡い匂いだった。
二日目だからだろうか。
初めてではない。だからといって、慣れたわけでもない。
湯浴みを終えたアデルは、真珠色の寝間着の上へ薄い室内着を羽織り、腰まである銀髪を下ろしたまま長椅子へ腰掛けていた。昨夜ほど身体の痛みは強くないものの、一日中動いたせいで腰にはまだ鈍い疲労が残っている。
昼間、ユエから聞いた話が頭から離れなかった。
『婚約者なら疲れた夫を癒すべきだ、と』
ライレイの方便だったことは分かっている。
けれど、夫の疲れを癒す。
その考え方自体は、悪くないように思えた。
「……妻のつとめ」
小さく呟いたところで、隣室の扉が開いた。
「何が?」
「ひゃっ」
アデルは肩を跳ねさせた。
「驚きすぎだろ」
リュシアンが笑いながら入ってくる。
彼も湯浴みを終えたばかりらしい。黒髪はまだ僅かに湿り、普段より柔らかく額へ落ちている。白い寝間着の襟元から覗く肌も湯上がりの熱を残し、灰青色の瞳からは昼間の王太子としての緊張がすっかり抜けていた。
「聞いていらしたのですか」
「最後だけ。妻の何?」
「……何でもございません」
「気になる」
「でしたら」
アデルは一度口を閉じた。
昼間、ライレイの話を聞きながら妙に真剣な顔をしていたユエを思い出す。
そして、勇気を出して立ち上がった。
「リュシアン様」
「うん?」
「本日は、私が……」
そこまで口にしたところで、急に恥ずかしくなった。
暖炉の火が頬へ近いせいではない。自分でも分かるほど、顔が熱い。
リュシアンの灰青色の瞳が少し大きくなる。
「えっ」
「まだ何も申し上げておりません」
「いや、雰囲気が」
「雰囲気とは何でしょう」
「続けて」
そう言われると、余計に言いづらい。
それでもアデルは一度息を吸い、背筋を伸ばした。
「私が、お疲れを癒させていただきます」
沈黙が落ちた。
リュシアンはしばらく瞬きをしなかった。
昼間、ライレイが言っていた。
『俺はもう少し、ユエからも欲しがられたいの』
昨夜、アデルの方から「もう少し近くへ」と言われた時のことを、今でも鮮明に覚えている。
だから一瞬、期待した。
かなり期待した。
けれどアデルは寝台へ向かわなかった。
「では、少々お待ちくださいませ」
小卓へ行く。
「……うん」
リュシアンは黙って見守った。
アデルが硝子のポットへ湯を注ぎ、乾燥させた小さな花を落とす。白い湯気が立ち上り、部屋へ林檎を思わせる柔らかな甘さが広がった。
「カモミール?」
「はい。心を落ち着かせ、眠りを助けます」
続いて小さな蜜蝋の蝋燭へ火を灯す。
蜜の甘さの奥から、ごく薄いラベンダーとマジョラムが立った。香りは弱い。リュシアンの嗅覚なら十分に分かるが、決して頭へ重く残らない濃度である。
「こちらも、リュシアン様用に調整いたしました」
「いつ作ったの?」
「夕方に少し」
「……俺のために?」
「はい」
その一言だけで、胸の中にあった「思っていたのとは違う」という感覚が少し薄れた。
アデルが湯気の立つ茶杯を差し出す。
「どうぞ」
「ありがとう」
一口飲む。
ほのかな甘さと、花というより乾いた草に近い穏やかな匂いが鼻へ抜けた。
「美味しい」
「よかったです。では次に」
「まだある?」
「ございます」
アデルは長椅子へ腰を下ろし、自分の膝を軽く叩いた。
「こちらへどうぞ」
「……膝枕?」
「はい」
「本気?」
「もちろんです」
非常に真剣な顔である。
リュシアンは思わず笑った。
「何がおかしいのでしょう」
「いや。可愛いなと思って」
「真面目にしております」
「だから可愛いんだよ」
「……もう結構です」
「待って。やる」
機嫌を損ねられては困る。
リュシアンは素直に長椅子へ身体を横たえ、アデルの膝へ頭を預けた。
思っていたより柔らかい。
そして近い。
銀髪が肩から滑り、鼻先へふわりと落ちてくる。
石鹸の名残。
湯上がりの肌の温かさ。
その奥にある、柔らかく乾いた甘さ。
香水ではない。
何度嗅いでも安心する、アデル自身の匂いだった。
「……これは、いいな」
「本当ですか?」
「うん。ずっとやっててほしいくらい」
アデルの口元が嬉しそうに緩む。
細い指が黒髪へ触れた。
恐る恐る前髪を撫で、それから額へかかっていた髪をゆっくり梳き上げる。
触れ方はまだぎこちない。
けれど、それがかえって心地よかった。
「リュシアン様」
「ん?」
「いかがでしょう。きちんと妻としての役目を果たせておりますか?」
リュシアンは閉じていた目を開けた。
「アデル」
「はい」
「妻は役目じゃないよ」
指が止まる。
「王太子妃には役目がある。公務もあるし、国民に対する責任もある。でも妻は役職じゃないだろ」
真下から見上げると、アデルのアレキサンドライトの瞳が暖炉の火を映して赤紫に揺れていた。
「俺も夫だからアデルに何かしてあげなきゃ、とは思ってない。したいからする。アデルも同じでいいんじゃない?」
アデルは少し考えた。
「……確かに、そうかもしれません」
「誰かに何か言われた?」
「ユエ様です」
「何を?」
「夫の疲れを癒すのも妻の役目だと言われ、ライレイ殿下の閨へ行かれたそうです」
灰青色の瞳が細くなった。
「……あいつ、そんな誘い方したのか」
「はい。ですが、実際には疲労回復にはならなかったと」
「だろうな」
「大変ないたずら好きで、体力がもたず、途中で都合よく暗殺者が入ってきてくれたので助かったと仰っていました」
リュシアンはゆっくり起き上がった。
「全然、普通でも節度があるでもないじゃないか」
「何のお話です?」
「昼間、あいつ『若気の至りだよ。今は普通』って言ったんだよ」
「……基準が異なるのでは?」
「異なりすぎるだろ」
アデルが小さく笑う。
「でも、ライレイ殿下はユエ様を随分大切に思っていらっしゃるようですね」
「ああ。ユエ嬢からもっと自分を求めてほしいって、拗ねてた」
「まあ」
「俺も意外だった。男女の話なら何でも余裕がある男だと思ってたから」
そこでリュシアンは少し黙った。
アデルを見る。
「……でも、気持ちは分かる」
「リュシアン様も?」
「昨日、アデルから来てくれたの、嬉しかったから」
先ほどまで夫を癒すと張り切っていたアデルが、ぴたりと止まる。
「だから、今日も少し期待した」
「……何をでしょう」
「今の流れで本当に聞く?」
アデルの頬が赤くなる。
「ですが」
「無理しなくていい。そもそも身体、まだ痛いだろ」
今度はアデルが目を見開いた。
「……分かりました?」
「今朝から見てる」
「見すぎです」
「妻だから」
「便利ですね、その言葉」
「でも、今日は休んだ方がいい」
リュシアンはそう言って、アデルの手を取った。
「俺が欲しいからって、アデルが痛いのにするのは違う」
その言葉に、アデルの表情が少し柔らかくなる。
「では、本日はこのまま癒されてくださいますか?」
「喜んで」
「カモミールティーも」
「飲む」
「膝枕も?」
「むしろお願いします」
今度は二人とも笑った。
アデルが再び座り、リュシアンが膝へ頭を預ける。
銀髪が頬へ触れる。
カモミールとラベンダーの香りが、暖炉の熱の中でゆっくり薄くなっていく。
「リュシアン様」
「ん?」
「でも、何かしたいと思ったのは本当です」
リュシアンが目を開ける。
アデルが少し迷ってから身を屈め、その額へ軽く口付けた。
「これは、妻の役目ではなく、私がしたかったことです」
リュシアンは何も言わなかった。
ただ、目元が柔らかくほどけていく。
「……今の、すごく好き」
「でしたら、よかったです」
「もう一回」
「一度で十分でしょう」
「癒しが足りない」
「先ほど十分と仰ったではありませんか」
「増えた」
「疲労が?」
「欲が」
「それは癒せません」
「冷たい」
口ではそう言いながら、リュシアンは笑っていた。
この夜、二人はただ同じ寝台へ入り、手を繋いだまま眠った。
夫だから。
妻だから。
そうするのではない。
触れたい時には触れ、休みたい時には休む。
互いの身体も気持ちも、もう少しずつ知っていけばいい。
アデルの髪から漂う石鹸の匂いを最後に感じながら、リュシアンは思った。
夫婦二日目としては、悪くない夜だった。
*
同じ頃。
「なぜ、婚約者なのに殿下と同室なのでしょうね」
ユエは使節用客室へ入るなり、静かに尋ねた。
部屋の中央には、二人で眠るには十分すぎるほど大きな寝台が一つだけ置かれている。窓辺ではシャンから持ち込んだ薫香が細く煙を上げ、白檀と沈香の乾いた香りが、スピネリアの冷たい夜気と暖炉の熱の境目をゆっくり漂っていた。
ユエは寝台を見る。
次に、ライレイを見る。
ライレイは臙脂色の上着を脱ぎながら、悪びれもせず笑った。
「俺が招待の返事に、妻と行くって書いたから?」
「妻ではございません」
「婚約者」
「婚約者にございます」
「そのうち妻になるじゃない」
「まだなっておりません」
「細かいなあ」
「殿下が大雑把すぎるのです」
ユエは金の簪を外した。
艶やかな黒髪がするりと肩へ落ちる。昼間の貴族令嬢らしい装飾が外れていくにつれ、毒や薬を扱っている時の静かなユエへ戻っていく。
ライレイは何とはなしに、その姿を見ていた。
「何でしょう」
「綺麗だなと思って」
「ありがとうございます」
「……終わり?」
「何か必要でしょうか」
「そういうところなんだよねえ」
ライレイは寝台の縁へ座り、長い赤褐色の髪を片手で掻き上げた。
昼間、リュシアンへ散々愚痴をこぼしたせいだろうか。
今までなら笑って流せた言葉が、今夜は少し胸に引っかかった。
「殿下」
「何?」
「わたくしを見張っておきたいので?」
ライレイの手が止まる。
「何でそうなるの」
「レン家の人間を他国の王宮で自由に動かすより、殿下のおそばへ置いておく方が管理しやすいでしょう」
「……ユエ、本気で言ってる?」
「合理性はございます」
「寂しいなあ」
いつもの笑みが、少しだけ薄くなった。
その変化を見て、ユエもようやく何かを読み違えたらしいと気づいた。
「では、理由を伺っても?」
「一緒にいたいだけ」
「……そのために?」
「そのために」
金色の瞳がまっすぐユエを見ている。
「管理したいだけなら護衛を増やせばいい。俺が同じ部屋で寝る必要なんてないでしょ」
「確かに」
「納得するの早いなあ」
苦笑したあと、ライレイは一度視線を落とした。
「俺、今日リュシーにも話したんだけど」
「何をでしょう」
「ユエが俺のこと、あんまり好きじゃない気がして寂しいって」
「……そのようなことを他国の王太子殿下へ?」
「友達だから」
「いつからでしょう」
「俺は最初からそのつもり」
「リュシアン殿下は?」
「最近は諦めてくれてる」
「左様でございますか」
「そこじゃない」
ライレイはとうとう笑った。
けれど、金色の瞳に浮かぶものまで誤魔化すつもりはないらしい。
「ユエさ。俺が何を言っても、あんまり信じないでしょ。綺麗だって言っても、可愛いって言っても、慰めだと思う」
「殿下は女性の扱いに慣れておられますので」
「何でそう思うの?」
ユエは少し間を置いた。
「こちらにも諜報筋というものがございますので」
ライレイの眉がぴくりと動く。
「何を仕入れたの」
「花街で大変人気でいらっしゃったと」
「…………」
今度はライレイが言葉を失った。
ユエは淡々と続ける。
「ゆえに、殿下が女性へ向けられる褒め言葉を、そのまま額面通りに受け取るのはいささか危険かと判断しております」
「仕事も多かったんだよ」
「多かったということは、全てではない」
「若かったんだって」
「今も十分お若いかと」
「そこ、リュシーと同じこと言わないで」
ユエの口元がほんの少し緩む。
その小さな笑みに、ライレイも肩の力を抜いた。
「まあ、最初は俺だって、ユエのことを便利だと思っただけだったよ」
「存じております」
「そこ即答する?」
「殿下ご自身が仰いましたので」
「そうだったね」
ライレイは肩を竦めた。
「頭がいい。毒も薬も分かる。政争を怖がらない。何より、生き残る力がある。俺の隣に置くなら、これ以上ないと思った」
「合理的な評価にございます」
「でも、今は違う」
薪が小さく爆ぜた。
白檀と沈香の煙が、黒髪と赤褐色の髪の間をゆっくり通り抜けていく。
「一緒にいたい。触りたい。ユエに来てほしい。俺がいない時に少しくらい寂しがってほしい」
いつもなら笑みを絶やさない金色の瞳が、今だけは少し幼く見えた。
「暗殺者が来た時もさ。俺より暗殺者の方に集中されたの、地味に傷ついたんだからね」
「殿下がお強いことは存じております」
「だったら俺に任せてくれても」
「でも」
ユエはそこで、言葉を選ぶように目を伏せた。
「わたくしが役に立ちたかったのです」
ライレイの表情が止まった。
「俺の?」
「はい」
「俺一人でも対処できたのに?」
「存じております」
ユエは静かに顔を上げる。
「それでも、わたくしにできることがあるのであれば、殿下のために使いたかったのです」
初めて聞く種類の言葉だった。
ライレイは返事をしなかった。
ユエも急かさない。
「殿下がお怪我をなされば不快です。危険なことをなされば、腹立たしく思います。長くお姿を見なければ、何をしておられるのか気になります」
その一つ一つを確かめるように口にする。
「ほかの方であれば、ここまでは考えません」
ライレイの金色の瞳が、ゆっくり柔らかくなった。
「ユエの中の特別に入れている気がして、うれしい」
ユエが瞬きをする。
「特別、でございますか」
「俺はそう思う。ユエは好きって言葉より、今みたいな言い方の方が本当なんだろうね」
「まだ、好きという感情がどこからどこまでを指すのか、よく分かりませんので」
「いいよ。急がなくて」
意外だったのか、ユエの暗赤色の瞳が僅かに見開かれた。
「待てるのですか?」
「俺だって待てるよ」
「実績を鑑みれば」
「信用ないなあ」
ライレイは苦笑した。
「でも、俺のことを特別だと思ってくれてるなら、今は十分」
「左様でございますか」
「ああ」
「では、殿下がお褒めくださることも、全て慰めだとは考えないようにいたします」
「本当に?」
「努力いたします」
「そこは信じるって言ってほしいけど、まあいいか」
ライレイは寝台の上へ片手を伸ばした。
「こっち来て」
「何をなさるおつもりで?」
「一緒に寝ようって誘ってる」
「寝るだけで?」
「……今、俺の信用試してる?」
「確認にございます」
「寝るだけでもいいよ。別案がないとは言わないけど、無理にはしない」
ユエはしばらくライレイを見ていた。
笑っている。
けれど、人前で見せる軽薄そうな笑みとは違う。
リンレイが言っていた。
『兄様は、気を許している者にしか見せない顔を、ユエ様にはしています』
今の顔が、きっとそうなのだろう。
ユエは一歩近づいた。
差し出された手へ、自分の手を重ねる。
「……では、今夜はわたくしから参ります」
ライレイが固まった。
「殿下?」
「……いや」
次の瞬間、重ねた手をぐっと引かれる。
「きゃっ」
珍しく声が出た。
身体が前へ傾き、そのまま寝台へ座ったライレイの膝の上へ乗せられる。
腰へ腕が回る。
近い。
ほどけかけた赤褐色の髪がユエの頬へ触れ、白檀の乾いた香りの奥から、体温を含んだ彼自身の匂いがした。
「で、何をしてくれるのかな」
ライレイの金色の瞳は、隠しきれない期待に輝いていた。
戦場では獣のように鋭くなり、政務では相手の思惑を探るために細められる目が、今は驚くほど無防備である。
ユエは返事を忘れ、一瞬見入った。
「ユエ?」
「……失礼いたしました」
「何が?」
「少々、見惚れておりました」
今度はライレイが完全に黙った。
褐色がかった白い頬から耳まで、分かりやすく赤くなる。
ユエはその変化を興味深そうに見たあと、静かに言った。
「まずは、本日の労いを」
「労い?」
「はい」
ユエはライレイの頭を、自分の胸元へそっと抱き寄せた。
「……え?」
先ほどまで期待に満ちていた声が、一気に間の抜けたものになる。
構わず、ユエは長い赤褐色の髪を束ねていた紐を解いた。
一つ。
もう一つ。
結い上げられていた髪が肩から背へ落ち、燭火の中で赤金色に艶めく。
「お綺麗な髪でございますね」
「……そう?」
「はい。リンレイ殿下とよく似ておられますが、殿下の方が少し深い色をしていらっしゃいます」
ユエは指を櫛のように使い、根元から毛先へゆっくり髪を梳いた。
そして、ときおり頭を撫でる。
一定の速さで。
優しく。
何かを求めるのではなく、ただ労るように。
ライレイの肩から、少しずつ力が抜けていった。
「俺、子供じゃないんだけど」
胸元へ額を預けたまま、くぐもった声がする。
「存じ上げております」
「じゃあ何で頭撫でるの」
「わたくしが、ずっとこうしてみたかったのです」
「……俺に?」
「はい」
それだけだった。
けれどライレイは、それ以上何も言えなくなった。
母が死んだのは十五の頃だった。
もっと幼かった頃、草原の民だった母は、王宮の侍女へ任せるより、自分で子供たちの髪を整えることを好んだ。夜になると赤褐色の髪を梳き、武芸の稽古で疲れて帰れば、眠くなるまで頭を撫でてくれた。
王位争いも。
兄たちとの殺し合いに近い政争も。
自分が負ければリンレイまで危険になるという焦りも。
まだ知らなかった頃。
母が死んでから、誰かに頭を撫でられたことはない。
王子へそのように触れる者などいなかったし、自分も欲しいと思ったことはなかった。
今までは。
「……殿下?」
「何でもない」
少し恥ずかしい。
子供扱いされているような気もする。
けれど。
悪くない。
むしろ、止められる方が嫌だった。
「もう少し」
「何でしょう」
「そのまま。撫でてて」
口にしてから、ライレイは自分で笑った。
「さっき子供じゃないって言ったのに」
「訂正なさいますか?」
「しない」
「御意にございます」
ユエの指が、またゆっくり赤褐色の髪を梳いた。
白檀と沈香。
暖炉の火。
細い指が髪を通る感触。
ライレイが想像していた「ユエから来てほしい」とは、随分違う。
けれど。
ユエが自分からしたいと思ったことが、これなのだ。
誰かを甘やかすことに慣れていない女が、自分にだけしてみたかったという。
その事実が、思っていたよりずっと胸へ響いた。
「ユエ」
「はい」
「俺、今日リュシーに、たまには組み敷かれてみたいって言ったんだけど」
髪を梳いていた手が止まった。
「左様でございますか」
「うん」
「では、これはご期待に沿えておりませんね」
「いや」
ライレイはユエの腰へ回していた腕を少しだけ強めた。
「こっちの方がいいかもしれない」
ユエの暗赤色の瞳が僅かに丸くなる。
「意外にございます」
「俺も」
ライレイは小さく笑い、もう一度胸元へ額を預けた。
「今夜は、このままがいい」
「寝台へ横にならなくても?」
「あとで」
「首が痛くなりますよ」
「じゃあ痛くなる前に教えて」
「ご自分でお分かりにならないのですか」
「今ちょっと甘やかされたい気分だから」
「……仕方のない方ですね」
そう言いながら、ユエはまた髪を撫でた。
声は呆れていた。
けれど指先は、先ほどより柔らかかった。
*
翌朝。
王宮正門前には、シャンへ帰国する一行の馬車が並んでいた。
昨夜から降っていた雪は朝には止み、澄んだ冬空の下、白い息がいくつも重なっている。馬の蹄が雪を踏むたび、乾いた音が響いた。
アデルは厚手の外套の襟元を押さえながら、見送りに出ていた。
隣にはリュシアン。
少し離れたところには、今日から再びスピネリアへ残るリンレイと、王室の外務官たちもいる。
そして。
「ユエ様」
「はい」
アデルは目の前のユエを見た。
いつも通り、黒髪はきっちりとまとめられている。翡翠色の外套も乱れ一つなく、伏し目がちな暗赤色の瞳にも普段通りの静けさがあった。
ただ、目元には薄い影がある。
白い頬にも、普段より少し疲労が残っていた。
リンレイも見た。
リュシアンも見た。
誰からともなく、視線がライレイへ向く。
「何?」
本人だけが非常に機嫌がいい。
誰も答えなかった。
ユエが小さく息を吐く。
アデルはそこで、自分が手にしていた小さな香り袋を思い出した。
「ユエ様。お疲れのご様子ですので、よろしければこちらを」
「これは?」
「香り袋です。カモミール、ローズマリー、レモングラスを少量ずつ合わせました。気持ちを落ち着けながら、頭が重くなりすぎないようにしております」
布袋を受け取ったユエが鼻元へ近づける。
林檎に似たカモミールの柔らかな甘さの後ろから、ローズマリーの青い香りが立ち、最後にレモングラスの明るい柑橘調が抜けていった。
ユエは目を閉じ、ゆっくり息を吸う。
「……沁みます」
実感のこもった声だった。
アデルは何も聞かなかった。
「お役に立てれば何よりです」
「ありがとうございます」
ユエは香り袋を手の中へ収め、それから後ろを見た。
ライレイはリュシアンと話している。
昨日までなら、そこへ向ける視線はもっと観察に近かっただろう。
今日は、ほんの少しだけ柔らかい。
「ですが、殿下とは少し近くなれたように思いますので、よかったと思っております」
アデルの瞳が明るくなる。
「まあ。それは何よりです」
「はい」
ユエの薄い唇にも、ごく小さな笑みが浮かんだ。
アデルもにっこりと笑う。
詳しく聞きたい。
非常に聞きたい。
けれど今は見送りの場である。
宮廷調香師としても王太子妃としても、節度は必要だった。
「今度、ゆっくりお話を」
「御意にございます」
後日なら聞いてよいという意味だろうか。
アデルは、そう解釈しておくことにした。
*
「それで、これからどうするの?」
少し離れた場所では、ライレイが馬車の準備を眺めながらリュシアンへ尋ねていた。
「新婚旅行?」
「一旦置いておく。新婚だからって、仕事がなくなるわけじゃない」
「夢がないなあ」
「お前に言われたくない」
リュシアンは冬の空へ白い息を吐いた。
「まず春香祭の準備。その次が山脈の地質調査だ」
ライレイの金色の瞳が、王太子らしい鋭さを取り戻す。
「ああ。山脈の件ね。シャン側も進めるよ。端だけ少し掘って終わりじゃ意味がないから、こっちは中央部寄りから地質を取るつもり」
「スピネリア側も同じだ。東側から調査隊を入れる。その関係で、春までに一度、東部へ視察に行くことになりそうだ」
「新婚早々忙しいね」
「王太子だからな」
「便利な肩書きだ」
「お前もだろ」
「俺は適当にほかの王子使ってやろうかな」
「便利だな」
「王太子なので」
二人は顔を見合わせ、同時に笑った。
次に国を継ぐ者。
聞こえだけなら華やかだが、自分一人ですべてを抱える役職ではない。誰に何を任せるか。どこへ自分が行くべきか。その判断まで含めて王太子の仕事なのだろう。
「山脈の調査が進めば、交易路そのものも変わるかもしれない」
リュシアンが言う。
「鉱物資源があるならなおさらだね。香木や薬草だけの話じゃなくなる。こっちも本格的に人を出すよ」
「最初から二国で調査した方がいい」
「異論なし」
ライレイは頷いたあと、白い息を吐きながら遠くの雪山へ目を向けた。
「ただ、シャンの方はこれから国内が忙しくなるんだよね」
「王位争いか」
「第一王子の兄上は病床だから、ご苦労さんって感じだけど」
口調は軽い。
けれど金色の瞳から、先ほどまでの笑いが消える。
「問題は第一王子だけじゃないんだよ。俺、第八王子だからさ」
「……そうだったな」
「兄が七人いるんだよ」
改めて数字にされると多い。
リュシアンの眉がわずかに寄る。
「多いな」
「多いでしょ? 第三王子は敵って感じでもないから、除外して考えるとして……六人?」
「第一王子を含めて六人だろ」
「そう。病床で動けない兄上を差し引けば、現実に警戒する相手はもう少し減るけど、それでも多いんだよね」
「十分だな」
「でしょう?」
ライレイは肩を竦める。
「全員が王位を欲しがってるわけでもないし、第一王子みたいに俺へ明確な敵意を持ってるとも限らない。でも本人が何も考えてなくても、母方の家とか側近が勝手に動くんだよ。俺が王太子になったからって、はい終了、とはならない」
「面倒だな」
「本当に。母親も派閥も全部違うから、兄弟というより、小さな国が七つ王宮の中にあるようなものだよ」
笑って言っている。
けれど、その言葉が冗談ではないことくらいリュシアンにも分かった。
十五の頃から、ライレイはその中で勝ち続けてきたのだ。
「第三王子は話も通じるし、使える。ほかにも敵に回す必要のない兄はいるから、全部まとめて斬るつもりはないよ。使えるところは使う」
「お前らしい」
「王太子なので」
「便利な言葉だな」
「本当に便利だよ」
ライレイは笑った。
「そんなわけで、国内を整理するまでは婚礼も先になる。使節としてこっちへ来るのも、しばらく難しいかな」
リュシアンは少し黙った。
ユエを正式な妃として迎えるなら、婚礼の前に王宮内の権力関係を片づけておく必要があるのだろう。
「じゃあ」
「うん?」
「新婚旅行はシャンに行こうか?」
ライレイの表情が一気に明るくなった。
「それは嬉しいね! 今度こそちゃんともてなすよ。事件が起きないように」
「事件は本当に勘弁してくれ」
「大丈夫。毒入りの衣装も、密猟も、誘拐もなし」
「お前が列挙すると不安になる」
「暗殺もなし」
「増やすな」
ライレイが声を上げて笑った。
そこへ、出発の準備が整ったらしい侍従が近づいてくる。
「殿下。いつでも出発できます」
「分かった」
ライレイが振り返る。
少し離れたところで、ユエがアデルと話していた。
手には小さな香り袋。
黒髪が冬の日差しを受け、青みを帯びて艶やかに光っている。
昨日までなら、ライレイはその場から声をかけ、ユエが来るより先に自分から歩いていったかもしれない。
「ユエ」
呼ばれて、ユエが振り返る。
ライレイは動かなかった。
その場で待っている。
ユエが僅かに目を見開き、それからアデルへ一礼した。
「では、アデル様。また」
「はい。どうぞお気をつけて」
ユエが歩き出す。
ライレイのもとへ来ると、今度は彼の方から歩調を合わせた。
手を引かない。
先へ行かない。
ただ、隣へ並ぶ。
その距離が、昨日までよりわずかに近い。
リュシアンは二人を見て、自然と口元を緩めた。
「リュシー」
「何だ」
「何笑ってるの?」
「別に」
「新婚になってから顔が緩いよ」
「お前に言われたくない」
「そう?」
「ああ」
ライレイは笑いながら、ユエへ手を差し出した。
「じゃあ行こうか。ユエ」
昨日までなら、ユエは差し出された手を見て一拍考えただろう。
けれど今日は違った。
暗赤色の瞳が一度だけ金色の瞳を見上げ、そのまま自然に手を重ねる。
「はい、殿下」
ライレイの金色の瞳が、穏やかに細くなった。
馬車の扉が閉じる。
車輪が雪を踏み、ゆっくりと動き始めた。
白い息。
冬の冷たい空気。
馬車の中へ持ち込まれた白檀と沈香の残り香に、アデルが渡したカモミール、ローズマリー、レモングラスの香りが重なる。
異なる国の香りが一瞬だけ混じり合い、やがて冬風の中へ薄れていった。
「行ってしまいましたね」
いつの間にか隣へ戻ってきたアデルが言った。
「ああ」
「少し寂しいです」
「また会えるよ」
「そうですね」
銀髪が冬風に揺れる。
リュシアンはその一房を手で押さえ、アデルの耳へかけた。
「今度は俺たちが行く」
「シャンへ?」
「ああ。新婚旅行」
アデルのアレキサンドライトの瞳が丸くなる。
「決められたのですか?」
「今決めた」
「私にご相談なく?」
「嫌?」
「いいえ」
アデルは少し考えたあと、柔らかく笑った。
「シャンの森も、また見たいです」
「仕事する気だろ」
「少しくらいなら」
「旅行だからな」
「分かっております」
「本当に?」
「もちろんです」
信用できない。
けれど、それも含めてアデルなのだろう。
新年三日目。
婚礼は終わった。
王太子妃選考も終わった。
二人が互いを選び、夫婦になるまでの物語も、ここでひとまず一区切りを迎えた。
けれど春になれば、春香祭がある。
山脈の調査が始まる。
東部へ行けば、まだ知らない土地がある。
シャンへ渡れば、知らない香りも、知らない人々も待っているだろう。
王太子と王太子妃として。
宮廷調香師と、その最も厄介で、最も熱心な嗅ぎ手として。
夫と妻として。
二人の暮らしは、むしろここから始まる。
「アデル」
「はい?」
「帰ろう。寒い」
「そうですね」
リュシアンが手を差し出す。
アデルは迷わず、その手を取った。
王宮へ向かって歩き出す二人の背後で、新年の雪がまた静かに降り始めた。
真冬の空気には、まだ春の花の香りはない。
けれど雪の下では土が眠り、そのさらに奥では、新しい芽が次の季節を待っている。
今はまだ、何の香りもしない。
だからこそ、これからどんな香りが生まれるのかを、二人は楽しみに待つことができた。




