第四十二話 開かれた道の香り
新しい年が始まって、ひと月あまりが過ぎた。
王都にはまだ冬が残っている。朝には噴水の縁へ薄い氷が張り、石造りの回廊には夜の冷気が白く沈んでいる。それでも昼の陽射しには少しずつ力が戻り始め、宮廷調香室の窓辺では、冬を越した香草が小さな芽を覗かせていた。
春はまだ遠い。
けれど香りの国、スピネリアでは、季節はいつも暦より少し早く動き始める。
春香祭を見据え、王都では各工房が新作の調合を始めていた。南部からは花精油、西部からは葡萄酒と香油、北部からは獣脂や蜜蝋。そして東部からは、国境を越えてシャンから運ばれてくる香木、樹脂、薬草が届く。
その日の午後、アデル・スピネリアは宮廷調香室で、届いたばかりの白檀を確かめていた。
一年前までの名は、アデル・アレクシア。
代々宮廷調香師を輩出してきた侯爵家に生まれ、自身も父からその職を受け継いだ。腰近くまで伸びる銀髪と、光によって新緑から紫へ色を変えるアレキサンドライトの瞳は、アレクシア家の血を強く引いた証でもある。
結婚して王家の名を得ても、その姿だけはほとんど変わらなかった。
今日も淡い灰青色の仕事着に白い前掛けを重ね、銀髪を低い位置でまとめている。指先には宝石ではなく、薄く削った白檀があった。
「……いつもより乾いている」
鼻先へ近づければ、柔らかな木の甘さの奥に、ほんのわずかに粉っぽい乾燥が感じられた。
品質が落ちているわけではない。けれど輸送に、いつもより時間がかかったのだろう。
アデルが記録帳へ羽根ペンを走らせた、その時だった。
廊下を急ぐ足音が近づいてくる。
一人ではない。
そのうち一つには聞き覚えがあった。
扉が開く。
「アデル」
黒髪の青年が、数枚の書状を手に入ってきた。
リュシアン・スピネリア。
スピネリア王国の王太子であり、ひと月前からアデルの夫になった男である。
十九歳。濃紺の執務着に包まれた長身と、通った鼻筋、薄く形のよい唇。切れ長の灰青色の瞳は、黙っていれば冷ややかな印象を与えるが、アデルの前では以前ほどその色を保てなくなった。
もっとも、今は完全に王太子の顔をしている。
「何かございました?」
「東部から急報が入った」
後ろから続いて入室した侍従が、一礼して報告を引き継ぐ。
「昨夜未明、東部国境付近の山脈で地震が発生いたしました。複数箇所で崖崩れが起きております」
「人的被害は?」
アデルの声がわずかに強くなる。
「現時点で死者の報告はございません。山麓の家屋数棟に損傷があり、軽傷者が数名。ただし崩落した場所が多く、一部はシャンとの交易路に近いとのことです」
アデルは手元の白檀へ視線を落とした。
「こちらも、いつもより到着が遅れていました。地震の影響かもしれません」
「ああ。交易が止まれば、春香祭にも響く」
リュシアンが書状を作業台へ広げた。
「山脈と東部の視察は来月の予定だったが、繰り上げる」
「すぐに?」
「できるだけ早く出たい。地震の被害を見るだけなら現地へ任せればいいが、交易路まで絡むなら王都で報告を待つより自分の目で見た方が早い」
彼らしい判断だった。
リュシアンは王太子として、決断が早い。
その一方で、幼い頃から五感が人より遥かに鋭く、とりわけ嗅覚の過敏さには長く苦しんできた。香水の名産国の王子でありながら、人が集まる場所ほど香りに疲れ、社交から遠ざかった結果「冷徹」「女性嫌い」とまで呼ばれたこともある。
その体質が欠点ではなく、役に立つものなのだと初めて証明したのは、宮廷調香師になったばかりのアデルだった。
それから一年あまり。
二人は香りにまつわる事件を解き、国を跨いで仕事をし、互いを選び、夫婦になった。
「もう一つ、気になる報告がある」
リュシアンが一枚を抜き出す。
「地震で崩れた岩壁の奥に、空洞が現れた。辺境伯の見立てでは、ただの洞窟じゃないらしい」
「何かあるのですか?」
「人が削った痕跡が残っているそうだ」
アデルの瞳がわずかに見開かれる。
「道?」
「古い資料を調べさせた。百年ほど前まで、この山脈にはシャン方面へ抜ける街道があったらしい。大地震で埋まり、そのまま使われなくなった」
「もし、その道が残っていたら……」
「現在の交易路より相当短い可能性がある」
それまで災害報告として見ていた紙が、急に違う意味を帯びた。
アデルは白檀へ指先を触れた。
「この香木も、もっと早く届くようになりますね」
「香木だけじゃない。薬草も、織物も、人もだ」
「シャンとの距離そのものが縮まる」
「だから行く」
迷いのない答えだった。
アデルはしばらく夫を見つめ、それから小さく笑った。
「では、私も支度いたします」
「言うと思った」
「宮廷調香師として確認したいこともございます。それに」
前掛けへ手をかけたところで、ふと動きを止める。
「王太子夫妻としては、初めての地方視察ですね」
今度はリュシアンが黙った。
灰青色の瞳から公務の鋭さが少しだけ抜ける。
「……そういえば、そうだな」
「急に緊張してまいりました」
「結婚式であれだけ堂々としてた人間が?」
「あれは、緊張しすぎて逆に何も考えられなかっただけです」
「初めて聞いた」
「申し上げておりませんので」
「夫婦になったんだから、その辺も共有してくれない?」
「今、共有いたしました」
あっさり返され、リュシアンが苦笑する。
ついひと月前まで、何をしていても最後には婚礼の準備へ戻っていた。
けれど今は違う。
王太子と、その妻。
それぞれに仕事を持った二人が、同じ国を見るために外へ出る。
アデルは前掛けを外しながら、胸の奥に小さな高揚が生まれるのを感じていた。
*
東部へ近づくにつれ、冬の表情は険しくなった。
王都を出た頃には淡い陽が差していたのに、山へ入ると左右から高い尾根が迫り、陽射しは途端に細くなる。灰色の岩肌には雪が残り、針葉樹の枝には白い塊が重たげに積もっていた。
馬車の窓を少し開ける。
冷気とともに、樹脂の青い香りが流れ込んできた。
「王都とは、まったく違いますね」
アデルが窓辺へ身を寄せる。
湿った岩。雪解け水。針葉樹。遠くの民家で焚かれている薪。
その土地には、その土地にしかない匂いがある。
「顔を出すなよ」
向かいから低い声が飛んできた。
「出しておりません」
「その返事をする時は大体出す直前だろ」
「よくお分かりになりましたね」
「一年見てきたからな」
リュシアンが呆れたように窓を少し閉める。
「視察前に王太子妃が風邪をひいたら、俺が母上に怒られる」
「私ではなく?」
「当然俺だろ。『妻の体調管理もできないのですか』って」
「王妃陛下なら仰りそうです」
「だろ?」
同じ馬車の反対側では、一人の若い騎士が静かに外を見ていた。
ユリウス・フェルナー。
王室騎士団第一部隊の副隊長代理。短く整えた黒髪と淡い灰色の瞳を持ち、細身ながら無駄のない身体つきをしている。必要以上に喋らず、表情の変化も乏しい。
そして今回の目的地、東部辺境伯家の三男でもある。
「ユリウスは平気なのですか?」
アデルが尋ねる。
「何がでしょう」
「寒さです」
「今日は風がありませんので、比較的暖かい方かと」
アデルとリュシアンが同時に窓の外を見る。
雪。
凍った川。
黒い岩。
「……これで?」
「はい」
ユリウスはいたって真面目だった。
「閉めよう、アデル」
「そういたしましょう」
珍しく意見が一致した。
ユリウスの灰色の瞳が僅かに緩む。
王都では感情をほとんど見せない青年だが、故郷へ近づくにつれて、ごく微かな変化が増えているようだった。
*
辺境伯邸へ着いた頃には、山の向こうへ陽が沈み始めていた。
王都の邸宅とは趣がまるで違う。
分厚い石壁。小さめの窓。雪を落とすため急角度に造られた屋根。玄関を潜った瞬間、冷え切った身体へ暖炉の熱が触れた。
薪の煙。
乾燥させた薬草。
古い木材。
煮込み料理に使われている香辛料。
「……いい匂い」
思わずアデルが呟く。
「料理ですか?」
出迎えに立った辺境伯が笑う。
「それもございますが、この屋敷全体です。木の香りが強いのですね」
「この地方では、冬になると四六時中火を焚きますので。壁にも家具にも匂いが移っております」
「暮らしの香りですね」
アデルが嬉しそうに辺りを見回す。
その横でリュシアンは、一瞬だけ妻を見た。
知らない香りに出会うたび、彼女はこういう顔をする。
光によって色を変える瞳が明るくなり、調香師としての好奇心が隠せなくなる。
辺境伯夫妻と長男から挨拶を受け、明日の予定を確認する。
ユリウスは王室騎士として一歩後ろへ控えていたが、父である辺境伯と視線が合った瞬間、ほんの僅かに頭を下げた。
親子でありながら、今は互いに職務の立場にいる。
その距離感にも、この家の気風が表れているようだった。
夕食を終える頃には、外は完全な闇に沈んでいた。
翌朝は早い。
部屋へ案内されようとしたところで、年嵩の家令が遠慮がちに声をかける。
「殿下、王太子妃殿下。湯浴みについて、一つご了承いただきたいことがございます」
「何でしょう?」
「東部は夏を除き、夜の冷え込みが厳しゅうございます。古くから薪の消費を抑えるため、夫婦は同じ湯を使う習慣がございまして」
アデルが瞬きをする。
「まあ」
「ですが王太子殿下ご夫妻には、もちろんそれぞれ湯を――」
「必要ない」
リュシアンが即答した。
早い。
あまりにも。
アデルが横を見る。
「リュシアン様」
「郷に入れば郷に従え、だろう」
「その文化を今初めてお聞きになりましたよね」
「だから今から従う」
「妙に前向きでいらっしゃいますね」
「視察とは、その土地を知ることでもある」
「お風呂から?」
「生活文化は重要だろ」
もっともらしい。
もっともらしいのだが、灰青色の瞳が普段より明らかに生き生きしている。
家令も返答に困っている。
アデルは一応、土地の人間へ確認することにした。
「ユリウス。本当に一般的な習慣なのですか?」
「はい」
こちらも迷いなく答えた。
「冬場に一人ずつ湯を張れば、薪を倍使いますので。当家でも夫婦は同じ湯を使います」
「ほら」
なぜかリュシアンが勝ち誇る。
「では、わざわざ二つご用意いただく必要もありませんね」
「承知いたしました」
家令が頭を下げる。
その瞬間、隣の男の口元がほんの少し上がったのを、アデルは見逃さなかった。
「嬉しそうですね」
「文化交流に?」
「そういうことにしておきます」
*
辺境伯家の浴室には、大きな石造りの湯槽が一つ据えられていた。
王宮のような華美な装飾はない。香油も花弁も浮かんでおらず、壁際に置かれた薪から乾いた木の匂いがするだけだった。
むしろ、リュシアンには心地よかった。
香りに敏感な彼にとって、余計なものが何もないということは、それだけで贅沢だった。
「……生き返りますね」
湯の反対側で、アデルが肩まで身体を沈める。
銀髪は湯へ落ちないよう高くまとめられている。白い首筋には湯気のせいで淡い赤みが差し、外気に冷えていた頬にもようやく血色が戻っていた。
「だから窓閉めろって言っただろ」
「香りを知るには、外気も必要なのです」
「明日からは俺が開ける」
「リュシアン様が?」
「五秒だけ」
「短すぎません?」
「風邪をひかない程度で十分だ」
「過保護になられましたね」
「結婚したからな」
当然のように言われ、アデルが少しだけ笑う。
「それは理由になるのでしょうか」
「俺の中では」
湯気が二人の間をゆっくり流れる。
アデルは石の縁へ背を預け、天井を見上げた。
「王宮のお風呂より落ち着くかもしれません」
「香りが少ないから?」
「それもございますけれど……静かだからでしょうか」
窓の外には風の音だけがある。
王宮なら、どれだけ夜が更けても誰かが動いている。侍従の靴音。遠くの扉。警備の交代。
ここにはそれがない。
湯が石へ触れる小さな水音だけだった。
「アデル」
「はい?」
「こっち来ない?」
顔を向ける。
リュシアンが片腕を湯槽の縁へ乗せていた。
「なぜです?」
「寒い」
「先ほどまで暖かいと仰っていませんでした?」
「一人分くらい寒くなった」
「意味が分かりません」
「俺も今作った」
「でしょうね」
呆れながらも、アデルは立ち上がった。
湯が揺れる。
向かい側まで移動して、リュシアンの隣へ腰を下ろそうとしたところで、腰へ腕が回った。
「そこじゃない」
「では、どちらへ――」
軽く引かれる。
気づけば、リュシアンの膝の間に身体を収める形になっていた。
「リュシアン様」
「ここ」
「最初からそのつもりでしたね」
「否定はしない」
背中に胸が触れる。
湯より少し高い体温。
腰へ回された腕は強く締めつけるわけでもなく、ただそこにいることを確かめるように留まっている。
アデルは少しだけ身体の力を抜いた。
「これでは、お湯につかっているというより抱かれているような」
「両方でいいだろ」
「よくありません、とは申しませんけれど」
「じゃあ問題ない」
言いながら、リュシアンが顔を寄せた。
銀髪の生え際。
耳の後ろ。
白い首筋。
ゆっくり息を吸う。
「……やっぱり、これ」
「何です?」
「落ち着く」
アデルは振り返れないまま、少しだけ目を伏せた。
「私の匂いですか?」
「ああ」
昔からそうだった。
花でもない。
香水でもない。
石鹸でもない。
調香師であるアデル自身ですら説明できなかった、ごく淡い人間の匂い。
初めて触れた時から、リュシアンだけがそれを見つけた。
「王宮でなくても?」
アデルが小さく尋ねる。
「何が?」
「落ち着くのですか」
リュシアンは答える前に、もう一度その香りを吸い込んだ。
旅先。
知らない屋敷。
知らない土地。
明日には地震で崩れた山へ入る。
王太子としてなら、警戒すべきものはいくらでもある。
それなのに今は、不思議なくらい身体から力が抜けていた。
王宮だから安心していたわけではなかったのだと、今さら分かる。
「場所は関係ないのかもな」
「そうなのですか?」
「ああ」
腕の中の身体を少しだけ近づける。
「アデルがいれば、どこでもいい気がする」
今度こそ、アデルが黙った。
湯気の向こうで、耳が少し赤くなる。
「……急にそういうことを仰るのは、ずるいと思います」
「思ったから言っただけ」
「そういうところです」
「嫌だった?」
「いいえ」
答えは早かった。
そのことが嬉しくて、リュシアンは首筋へもう一度顔を寄せる。
「明日は早いですよ」
「分かってる」
「長湯は禁物です」
「あと少し」
「どのくらいです?」
「アデルが出るまで」
「結局、一緒ではありませんか」
「薪の節約だからな」
「まだそれを使うのですね」
アデルが笑う。
知らない土地で過ごす最初の夜は、思っていたより静かで、思っていたより暖かかった。
*
翌朝。
東部の空は、王都よりも近く感じられた。
夜のあいだに雪は降らなかったらしく、山肌には黒い岩と白い雪がまだらに覗いている。吐いた息は白く、馬の鼻先からも薄い蒸気が上がっていた。
アデルは厚手の調査用外套を着込み、銀髪をきっちりと編み込んでいる。足元も王宮用の靴ではなく、凍った道でも滑りにくい革の長靴だった。
リュシアンも濃紺の上着へ防寒用の外套を重ね、腰には細身の剣を帯びている。
その前では、ユリウスが地元の兵士たちへ指示を出していた。
「崩落地点から先は馬車が入りません。馬も途中で残します。縄と灯り、それから簡易担架を二つ。斜面側へ人を集めすぎないでください」
昨日までと同じ静かな声音なのに、故郷へ戻ってからは判断が一層早い。
兵士たちも迷わず従っている。
リュシアンがその様子を眺めた。
「お前、こっちだと随分手際がいいな」
「王都では悪いように聞こえますが」
「そうは言ってない。ただ、土地勘だけじゃないなと思った」
「幼少期から地震と崖崩れには慣れておりますので」
「慣れたくはないな」
「仰る通りです」
山道へ入る。
雪を踏む蹄の音と、枝から落ちる雫の音が続いた。
陽が高くなるにつれて、針葉樹の香りが少しずつ濃くなっていく。所々で土が露出し、崩れた斜面からは湿った地面の生々しい匂いが立ち上がっていた。
やがて森が途切れる。
「……これは」
アデルが馬上で息を呑んだ。
山の斜面が大きく抉られている。
土と岩が剥き出しになり、その中央に黒い穴が口を開けていた。
自然の洞窟には見えない。
入口の両側には、人が道具を使って削ったような直線が残っている。
辺境伯家の長男が、古い図面を広げた。
「記録上では、この辺りです。百年ほど前まで、シャンへ抜ける街道の一つが存在したとされております」
「本当に残っていたのですね」
「地震で入口ごと埋まったのでしょう。以後、この道を使ったという記録はありません」
リュシアンが馬を降りる。
黒い入口を見つめたまま、ふと表情を変えた。
「……待って」
全員の動きが止まる。
「どうなさいました?」
「変な音がする」
アデルも耳を澄ませる。
風。
枝。
遠くで鳴く鳥。
それ以外は聞こえない。
「どのような?」
「低い音。岩同士が……擦れてるような」
灰青色の瞳が鋭くなる。
「ユリウス。全員、斜面から離せ」
ユリウスは理由を聞かなかった。
「下がれ! 崖際から距離を取れ!」
兵士が一斉に動く。
リュシアンもアデルの腕を取り、その場から離れた。
数秒後。
足元が僅かに揺れる。
「……っ」
山の奥で鈍い音が響き、斜面から小石がばらばらと転がり落ちた。
大きな地震ではない。
けれど入口の近くに立ったままなら、危険だった。
「本当に聞こえていたのですね」
アデルが驚いたように夫を見る。
「俺も確信はなかった。ただ、昔から地震の前は嫌な音がする」
「昔から?」
「子供の頃、一度だけ聞いたことがある」
生まれつき鋭すぎた五感。
幼い頃は不快なものを余計に拾うだけだと思っていた。
今は違う。
アデルと出会ってから、その感覚が誰かを守ることに使えるのだと知った。
ユリウスが戻ってくる。
「全員、無事です。揺れも収まりました。ただ、内部へ入るのは安全を確認してからにすべきかと」
「ああ。今日は入口周辺までにする」
その判断に異論はなかった。
安全が確認された範囲だけを調べる。
削られた石壁。
半ば土へ埋もれた階段。
さらに奥へ続く暗闇。
リュシアンが入口へ近づき、何かを確かめるように顔を上げた。
「風がある」
「入口から入っているのでは?」
「逆だ。中から外へ流れてる」
アデルもそっと近づく。
冷たい空気が、確かに洞窟の奥から頬へ触れた。
「どこかへ抜けている」
「可能性は高そうだな」
百年閉ざされていた道。
もし国境の向こうまで続いているのなら。
スピネリアとシャンの距離は大きく縮まる。
アデルが暗闇の奥を見つめる。
「調べる価値がございますね」
「ああ。かなり大きな仕事になる」
リュシアンの視線が、兵士へ次々と指示を出しているユリウスへ向いた。
その横顔を、しばらく黙って見ていた。
*
昼過ぎ。
崩落地点の測量を地元の技師へ任せ、三人は少し離れた平地で休憩を取った。
簡素な卓上には地図が広げられている。
「仮に旧道がこのまま抜けていれば、現在の交易路より二日は短縮できるかと存じます」
ユリウスが指で線をなぞる。
「ただし、道として再利用するなら補強工事が必要です。山は今後も動きますので、一度通れたからといって安全とは限りません」
「管理する人間も必要になるな」
「はい。冬季の閉鎖基準も決めるべきでしょう」
リュシアンは地図を見ながら、何気なく口を開いた。
「そういえば、ユリウス」
「はい」
「メリルの見合い、また断ったぞ」
地図の上に置かれていた指が、ごく僅かに止まった。
「……左様ですか」
「これで七件目だ」
アデルも思わず顔を上げる。
「七件も?」
「あいつもいい加減、自分が何を求めてるのか説明してくれれば楽なんだがな」
「王女殿下のご縁談については、自分のような者がお伺いする内容ではないかと存じます」
ユリウスはいつも通り淡々としている。
「そうか?」
リュシアンが顔を上げた。
王太子ではなく、完全に妹を持つ兄の顔だった。
「将来、お前が警護する男になるかもしれないぞ」
「その意味でしたら、確かに無関係ではございませんね」
「だろ。じゃあ聞くが、どんな男なら安心してメリルを任せられる?」
アデルは、多少は考えると思った。
だがユリウスはほとんど間を置かなかった。
「そうですね。王女殿下は気がお強くていらっしゃいますので、穏やかで柔軟な方がよろしいかと存じます。ただし武芸は必須でしょう。王女殿下ご自身がかなり重視される点ですし、ご自分より弱い方では遠慮が生じると思われます。それから長髪はお嫌いです。以前、稽古中に顔へ髪がかかる男性を見て『鬱陶しそう』と仰っていましたので。馬術もできた方がよろしいでしょう。遠乗りがお好きですから、同程度に乗れれば行動範囲も合わせられます。可能であれば、稽古の後に乱れたお髪を手早く整えられる方ですとなお良いかと。王女殿下はご自身で結び直されると左右の高さがずれることが多く、それを鏡で見つけるとしばらくご機嫌を損ねられます。それから朝は――」
「待て」
リュシアンが片手を上げた。
「はい?」
「お前、何でそんなに知ってるんだ?」
ユリウスは不思議そうに瞬きをした。
「警護しておりますので」
「髪を結び直すのが下手なのも?」
「何度か拝見しております」
「朝の機嫌まで?」
「朝の警護もございますので」
「……そう」
リュシアンが何とも言えない顔になる。
アデルも黙って夫を見る。
どうやら同じことを考えているらしい。
ユリウス本人だけが、本当に何も分かっていない。
そして当人は、むしろ話を戻すように尋ねた。
「ちなみに、七人目はどのような方だったのでしょう」
「南部の伯爵家の長男。二十歳。馬術大会で入賞歴あり」
「武芸は?」
「剣も悪くない」
「髪は?」
「短い」
「お人柄は?」
「穏やかだと聞いている」
「…………」
初めて、間ができた。
「条件としては、随分よろしい方ですね」
「俺もそう思った」
ユリウスの灰色の瞳が地図へ落ちる。
少し考えてから、静かに問う。
「なぜ、お断りに?」
「さあな」
リュシアンの口元が、ごく薄く笑った。
「お前から聞いてみるのはどうだ?」
「自分が、ですか」
「ああ。随分詳しいんだから、本人に聞いた方が早い」
「王女殿下の縁談について、自分から尋ねるのですか」
「気になるんだろ」
「警護上の参考としてであれば」
「便利だな、その言葉」
今度ははっきり笑った。
「王都へ戻ったら聞いてみろ。俺も七件分、理由を知りたい」
「……機会がございましたら」
そう答えたユリウスは、再び地図へ向き直った。
けれど先ほどまで滞りなく進んでいた旧道の説明は、なぜか一度そこで途切れた。
*
午後、辺境伯邸へ戻るため山麓を下っていた時だった。
細い道の向こうから、一頭の馬が勢いよく駆けてくる。
東部辺境伯家の兵士だった。
「殿下!」
馬を降りるなり、雪を踏んで膝をつく。
「何があった」
「辺境伯閣下より、至急お耳へ入れるようにと」
兵士は乱れた呼吸を整えた。
「また一人、娘が姿を消しました」
リュシアンの目つきが変わる。
「また?」
「はい」
「何人目だ」
「……七人目です」
ユリウスの表情も消えた。
「いつからだ」
「最初は三月ほど前です。山麓の村から一人。その後、離れた集落からも一人ずつ。家出と考えられた者もおりましたが、本日未明、辺境伯家に仕える家の娘まで失踪いたしました」
「昨日、報告がなかったのは?」
「これまでの失踪に関連があると判断されておりませんでした。ですが今回の娘は、家族関係にも問題がなく、持ち物もすべて残しております」
「分かった。失踪者七人の年齢、身分、最後に目撃された場所を全部揃えろ。家族からも話を聞く」
リュシアンが即座に指示を出す。
「承知いたしました」
兵士が馬へ戻ろうとした。
その時だった。
「……お待ちください」
アデルが顔を上げる。
「どうした?」
返事をせず、風上へ向かって細く息を吸った。
雪。
湿った土。
針葉樹。
馬と革。
遠くの民家の薪。
そのすべての奥に、異質なものが混じっている。
ほんの僅か。
注意して探さなければ、森の匂いに紛れてしまう程度。
けれど宮廷調香師であるアデルには分かった。
「……香です」
リュシアンが山を見る。
「自然の匂いじゃない?」
「はい。誰かが、意図的に焚いています」
乾いた木の甘さ。
煙。
柔らかな樹脂。
この地方で日常的に焚かれている薪とは違う。
儀式めいた静けさを思わせる、不思議な香りだった。
「どこから来てる?」
アデルは目を閉じ、もう一度風を読む。
やがて一方向へ顔を向けた。
山の奥。
旧道とは少し外れた、人の住まないはずの森。
「……あちらです」
三人が同じ方向を見る。
黒い木々の向こうには、何も見えない。
鳥の声さえ、いつの間にか遠ざかっていた。
ただ冷たい冬の風だけが、山の奥から、知らない香りを運んできていた。




