第四十三話 山の花嫁の香り
風向きが変わるたび、香りは細くなったり、また戻ってきたりした。
雪と湿った土。針葉樹の樹脂。遠くで焚かれている薪。
その間を縫うように、知らない木の香りが混じっている。
甘い。
けれど花の甘さではない。乾いた木と樹脂を火にくべた時の、少し煙たく、どこか柑橘にも似た明るさのある香り。
アデルは山の奥を見つめた。
「人工的に焚かれた香の香りがします」
リュシアンも同じ方向を見る。
「距離は?」
「分かりません。風に乗っていますので。ただ、そう遠くはないかと」
先ほど報告に来た兵士と、崩落地点へ残る騎士たちが二人を見ている。
リュシアンは少し考え、すぐに決めた。
「人為的なものなら、大人数で動けばこちらの存在を悟られる。騎士団は先ほどの地震の影響を確認しろ。新しい亀裂と崩落箇所を洗い出して、街道に危険がないか見てくれ」
騎士の一人が眉を寄せた。
「殿下は?」
「香りの出所を見る」
「でしたら護衛を――」
「人数が増えれば、何かあった時の判断も遅れる」
灰青色の瞳がユリウスへ向く。
「ユリウス、アデル。行くぞ」
「承知いたしました」
「はい」
ユリウスが剣の位置を確かめ、先に山道へ足を向ける。
アデルがその後ろへ続こうとすると、リュシアンの手が一度だけ肩へ触れた。
「俺から離れるな」
昨日までなら、少し過保護だと返したかもしれない。
けれど今日は何も言わず、頷いた。
七人の娘が消えている。
その知らせを聞いた直後に、誰も住んでいないはずの山から香が流れてきた。
ただの偶然だと思うには、あまりにも出来すぎていた。
*
道と呼べるものがなくなってから、香りはかえって追いやすくなった。
「こちらです」
アデルが低く言う。
三人は針葉樹の間を縫うように進んだ。
雪の浅いところを選び、なるべく足跡を残さない。枝を踏まないよう気をつけながら斜面を上っていく。
最初は風の中に探さなければ見つからなかった香りが、少しずつ濃くなっていた。
乾いた木。
甘い煙。
その奥に、樹脂特有の少し重たい匂い。
「パロサント……」
アデルが呟く。
「知ってるのか?」
「香材としては。スピネリアではほとんど流通しておりません。火にくべて香を立てる使い方が多い木です」
「何のために?」
「土地によって違います。空間を清めたり、祈りに使ったり」
そこで言葉を止めた。
清めるため。
祈るため。
ならば、この先にあるのは。
ざり、と前を歩いていたユリウスの靴が止まった。
「声がします」
三人とも息を潜める。
確かに聞こえる。
歌とは少し違う。
低く、同じ言葉を繰り返しているような響き。
男も女もいる。
「右手に岩場があります。そこまでなら身を隠せます」
ユリウスの案内で斜面を回り込み、大きな岩の裏へ入る。
そこからさらに藪を抜けたところで、アデルは息を止めた。
谷の途中に、不自然なほど平らな場所があった。
中央には、人の背丈を超えるほどの大岩がある。
その周りを、数十人ほどの人々が囲んでいた。
誰も、スピネリアの街で見かける服を着ていない。
身体へ巻きつけるように重ねた厚い織布。幾何学模様の刺繍。革紐で留められた衣。腰や首には、磨いた石や骨、鳥の羽を束ねた装飾が揺れている。
古いスピネリアの服とも違う。
流行から取り残されているのではない。
最初から、別の文化の中で生きている人々だった。
「山の民……」
ユリウスが小さく呟いた。
「知っているのか?」
「存在だけは。麓の村とは昔から物々交換をしております。ですが、これほど奥に集落があるとは」
リュシアンが岩陰から視線だけを動かす。
「武器は?」
「腰に短刀を持つ者が数名。狩猟用の弓もあります。ただ、こちらへ警戒している様子はございません」
まだ気づかれていない。
アデルはそっと大岩の中央を見る。
そこで、身体が固まった。
岩の上に誰かいる。
少女だった。
白いドレス。
山の民が身につけている織布ではない。
町で仕立てられた、ごく普通のスピネリアの服だった。
ただし今は、その上へいくつもの奇妙な装飾が重ねられている。
胸の上には両手で抱かされた大きな黒い石。
磨かれているのか、冬の弱い陽を受けて濡れたように光っている。
頭には小さな白い花と赤い実を編み込んだ冠。
首元には、フクロウを思わせる灰褐色の鳥の羽を幾重にも重ねた飾り。
足首には、小さな鈴がいくつも結ばれていた。
顔には泥か顔料なのか分からない黒と赤の線が引かれている。
目を閉じた少女の頬を、額から顎へ向かって模様が走っていた。
その周囲で、年老いた女たちが煙を振りかけている。
木片を入れた器から、白い煙が絶え間なく上がっていた。
パロサント。
アデルたちをここまで導いた香りだった。
一人の女が少女の額へ水を垂らす。
別の女が足元の鈴を鳴らす。
集まった人々が、一斉に低い声を合わせる。
祈りのようにも聞こえた。
祝福のようにも。
けれど、岩の上の少女は一度も目を開かない。
「……ひっ」
アデルの喉から、ごく小さな悲鳴が漏れた。
隣でリュシアンの腕がすぐに伸び、口元へ指が添えられる。
声を出すな。
その意味を理解して、アデルは自分で口を押さえた。
ユリウスの顔からも、血の気が引いていた。
「……あの娘」
声にならないほど低く呟く。
リュシアンが横を見る。
「知っている?」
「はい。父の屋敷に出入りしております」
一度、唇を噛む。
「今朝、いなくなった娘です」
それだけで十分だった。
七人目。
辺境伯家に仕える家から消えた少女。
家族関係に問題はなく、持ち物もすべて残したまま姿を消した娘。
アデルはもう一度、岩の上を見る。
少女の手は黒い石を抱いているのではない。
指には力が入っていない。
置かれた石を、両腕ごと布で固定されている。
「助けないと」
身体が動きかけた。
すぐに手首を掴まれる。
「待て」
「ですが」
「分かってる」
リュシアンの声も低い。
灰青色の瞳は、少女から一度も離れていなかった。
「今ここで出たら、助けられるのはあの娘一人だけかもしれない」
「でも、このままでは」
「他の娘がどこにいるか分からない。あいつらの集落も、人数も、目的も分からない。俺たち三人が見つかれば、残りの娘を隠される」
アデルは言葉を失う。
「それに」
ユリウスが続けた。
「殿下と妃殿下がおられます。相手の人数も把握できていない状況で交戦するべきではありません」
正しい。
分かっている。
それでも目の前にいる。
手を伸ばせば届くような場所に、攫われた少女がいる。
アデルは拳を握った。
岩の周りでは、儀式が続いていた。
香煙をまとわせる。
額へ水を垂らす。
花冠を整える。
羽根飾りを胸元へ広げる。
時折、小さな鈴を鳴らす。
奇妙なのは、誰も少女を傷つけようとはしていないことだった。
むしろ大切なものを扱うように、丁寧に触れている。
「……殺すための儀式には見えません」
アデルが囁く。
「だから安心、とは言えないけどな」
リュシアンの表情は硬い。
やがて、岩のそばへ四人の男が進み出た。
少女の身体が白い布で包まれる。
黒い石も花冠も、そのままだった。
担架のような木枠へ乗せられる。
ちりん。
足元の鈴が鳴った。
一行が、さらに山の上へ向かって歩き始める。
「この先に何がある?」
リュシアンが問う。
ユリウスが斜面の向こうを見上げた。
「頂上近くに古い祠があると聞いたことがあります。東部の者もほとんど近づきません」
「そこへ連れていくつもりか」
「おそらく」
アデルは白い布が木々の向こうへ消えていくのを見つめた。
追いたい。
けれど今追えば、こちらが見つかる可能性が高い。
リュシアンが静かに息を吐いた。
「十分だ。戻る」
アデルが振り返る。
「リュシアン様」
「場所は分かった。相手も見た。失踪との繋がりも確認できた」
その目には迷いがなかった。
「次は、助ける準備をして来る」
その言葉に、アデルはようやく頷いた。
*
三人は来た道を慎重に戻った。
山を下るにつれて、パロサントの香りは薄れていく。
なのにアデルには、いつまでも鼻の奥へ残っているように感じられた。
本来なら、悪い香りではない。
乾いた木の甘さには静けさがあり、煙にはどこか心を鎮める柔らかさがある。
けれど今は、目を閉じるだけであの少女の顔が浮かんだ。
赤と黒の模様。
閉じた瞼。
胸に置かれた黒い石。
足首の鈴。
香りそのものに罪はない。
それでも人は、香りと一緒に記憶を覚えてしまう。
「アデル」
前を歩いていたリュシアンが振り返った。
「顔色が悪い」
「……少し、考えておりました」
「さっきのこと?」
「はい」
アデルは自分の外套の袖を鼻先へ寄せた。
微かに煙の匂いが移っている。
「あの香りは、おそらく清めるために焚かれていました」
「清める?」
「パロサントには、そういう使われ方がございます。それに、少女の身体へ煙をまとわせ、水を使っていた。もしあれが彼らにとって何か大切な儀式なのであれば……」
「殺すためじゃなく、何かにするため?」
「その可能性もあると思います」
リュシアンは少し考えた。
「何にするんだろうな」
答えはなかった。
ただ、山の上へ運ばれていった少女の姿だけが残る。
崩落現場まで戻ると、騎士たちはまだ斜面の亀裂を調べていた。
「殿下」
隊員が駆け寄ってくる。
「新たな崩落はございません。ただ、南側の斜面にいくつか深い亀裂が見つかりました。少なくとも数日は通行を止めるべきかと」
「分かった。詳しい報告は邸で聞く」
リュシアンは周囲を一度見回した。
「今日はここまでだ。全員、辺境伯邸へ戻る」
それ以上は何も言わなかった。
ユリウスも同じだった。
山で何を見たのか。
それは、人目のある場所でする話ではない。
*
辺境伯邸へ戻ったのは、夕暮れ前だった。
空が薄紫へ変わり、雪の残る屋根から暖炉の煙がまっすぐ上がっている。
けれど昨日とは違い、その煙の匂いに安堵する余裕はなかった。
夕食を後回しにし、すぐに会議が開かれた。
集められたのは、東部辺境伯、その長男、リュシアン、アデル、ユリウス。それに失踪事件の記録を管理していた家令と、地元兵の責任者だった。
「間違いないのですか」
辺境伯の顔が強張る。
「はい」
ユリウスが答える。
「今朝失踪した娘でした。顔に模様が描かれておりましたが、見間違える距離ではございません」
辺境伯が目を閉じる。
長男も険しい顔で卓上へ視線を落とした。
「山の民が……」
リュシアンが記録を手に取る。
「これまでに七件と言ったな」
「はい」
家令が答えた。
「ただし、現在も戻っていないのは五名です」
アデルが顔を上げる。
「二人は戻っているのですか?」
「はい。最初の失踪から数えて二人。いずれも姿を消してから二日ほどで、別の村道に倒れているところを発見されました」
「本人たちは何と?」
「何も」
「何も?」
「山へ入った記憶そのものがございません」
家令は記録を開いた。
「最後に覚えているのは、一人は夕方に井戸へ水を汲みに出たところまで。もう一人は隣村から帰る途中まで。その後は、目を覚ましたら自宅だった、と」
「発見時は?」
アデルが尋ねる。
「二人とも意識が朦朧としておりました。半日ほど眠り続け、その後も頭痛と吐き気があったと医師の記録にございます」
「薬……」
アデルが呟く。
「その可能性が高いな」
リュシアンが七人分の記録を並べていく。
「戻された二人と、戻っていない五人。何が違う?」
誰もすぐには答えなかった。
年齢。
住む村。
家格。
仕事。
髪や瞳の色。
アデルも一枚ずつ目を通していく。
その時、ユリウスの手が止まった。
「……戻された二人は、既婚者ですね」
全員の視線が集まった。
「そうなのか?」
「はい。一人は粉挽き職人の妻。もう一人は猟師の妻です」
家令が記録を確認する。
「間違いございません」
「残っている五人は?」
「全員、未婚です」
部屋の空気が静まった。
アデルの脳裏に、岩の上の少女が浮かぶ。
花冠。
香煙。
丁寧に身体を清める女たち。
「……花嫁」
気づけば、言葉が漏れていた。
「何?」
リュシアンが見る。
「いいえ。そう見えただけなのです」
アデルは慎重に言葉を選んだ。
「花冠を被せ、身体を香で清めていました。足には鈴。胸には黒い石。それに、皆があの少女を粗末には扱っていなかった。まるで……何かへ嫁がせる前のような」
「山頂の祠へ?」
「分かりません。ただ、既婚者だけが戻されているのであれば、婚姻の有無が何らかの条件になっている可能性はございます」
リュシアンが指先で記録を軽く叩く。
「まだ断定はしない。ただし調べる価値はある」
「御意に」
ユリウスが頷く。
リュシアンは今度は辺境伯を見る。
「山の民とは、これまでどういう関係だった?」
「問題らしい問題は、ほとんどございませんでした」
「ほとんど?」
「彼らは山の奥で暮らしており、こちらの法や暮らしとは距離を置いております。ですが冬前には毛皮や薬草を持って麓へ降り、塩や穀物と交換する。森の境界について揉めることもございましたが、話し合いで収まる程度でした」
「娘を攫うようなことは?」
「聞いたこともございません」
辺境伯はきっぱりと言った。
「少なくとも先代の首長の時代には」
リュシアンの瞳が細くなる。
「先代?」
一瞬の沈黙。
辺境伯が重く息を吐いた。
「半年前、首長が代替わりいたしました」
「どうして分かった?」
山の民は王国へ戸籍を届け出るわけではない。
使者を寄越すわけでもない。
それでも辺境伯は、はっきり「半年前」と言った。
「あの者たちには、首長が代わる時だけ行う古い習わしがございます」
辺境伯が窓の向こう、暗くなり始めた山を見た。
「大太鼓です」
「太鼓?」
「山頂近くに、祭礼に使う大きな太鼓があると伝わっております。普段は決して鳴らしません。首長が死に、新しい首長が立った時だけ鳴らす」
辺境伯の長男が続ける。
「半年前の夜、山の方角から低い音が響きました」
「ここまで?」
「はい」
ユリウスも僅かに眉を寄せた。
「王都におりましたので、自分は聞いておりません」
「かなりの音だった」
長男が弟を見る。
「窓硝子が震えたほどだ。最初は雷かと思った」
辺境伯が静かに続ける。
「一度鳴ると、山から山へ反響します。麓の村だけではない。この街まで届いた」
どん。
どん。
遠い山の腹で、何か巨大なものが脈打つような音だったという。
夜の空気を震わせ、長い間、尾根の向こうで反響し続けた。
「村の老人たちが言いました。『山の長が代わった』と」
「それが半年前」
「はい」
リュシアンが七人分の記録へ視線を戻す。
「最初の失踪は三月前だったな」
「左様でございます」
「首長が代わって三月後に、娘が消え始めた」
偶然。
そう片づけるには近すぎる。
「代替わりしてから、他に変わったことは?」
辺境伯はすぐには答えなかった。
その表情に、アデルは何かを見つけた。
「……ございますね?」
辺境伯の眉間に深い皺が寄る。
「山の者が、麓へ降りてこなくなりました」
「いつから?」
「太鼓が鳴ってからです」
部屋が静まり返った。
「毎年、冬前には必ず交換に来ていた。それが今年は一度もない。こちらから山へ近づいた者も、以前なら境界で声をかけられる程度だったものが、追い返されるようになりました」
「それを問題とは思わなかった?」
「新しい首長が外との交流を好まないのだろうと」
辺境伯は悔しそうに目を伏せる。
「山の民には山の民の暮らしがございます。それへ不用意に踏み込まぬことも、長く共存するために必要だと考えておりました」
リュシアンは責めなかった。
これまで百年近く成り立ってきた距離の取り方なら、それ自体は間違いではない。
問題は、その均衡がどこかで崩れたことだった。
アデルは自分の袖口を見た。
まだ、ごく僅かに残っている。
パロサントの香り。
清めの香。
山の花嫁。
そして、半年前の夜に街まで響いたという大太鼓。
「リュシアン様」
「うん」
「明日、もう一度あの山へ行くのでしたら」
アデルは顔を上げた。
「今度は、香りだけではなく――彼らが何をしているのか、知らなければなりません」
リュシアンはゆっくり頷いた。
「ああ」
卓上には、七人の娘の名前が並んでいる。
そのうち五人は、まだ帰っていない。
「今度は見に行くんじゃない」
灰青色の瞳が、静かに鋭くなる。
「連れ戻すために行く」




