第四十四話 祈りをほどく香り
「最近、地震が多いのか?」
七人分の記録を見つめたまま、リュシアンが尋ねた。
東部辺境伯は少し考え、傍らの長男へ目を向ける。
「日誌を」
「はい」
長男が書棚から分厚い革表紙の帳面を取り出した。
辺境伯家では、代々、領内で起きた災害や天候、収穫量まで記録しているらしい。黄ばんだ紙を何枚か繰り、古い記述を確かめる。
「大きなものだけを拾えば、百年ほど前。そのさらに百年ほど前にも、山脈一帯で地震が続いた記録がございます」
「百年程度の周期?」
「正確とは申し上げられませんが、おおよそは」
辺境伯が古い地図を卓上へ広げた。
「この山脈は、古くから二つの大地が互いに押し合い、盛り上がってできたものだと、この地方では伝えられております。山が今も少しずつ形を変えているのだ、と」
アデルは昼間に見た崩落跡を思い出した。
折れた岩。
開いた旧道。
地面の奥から響いてきた低い音。
「だから地震も珍しくないのですね」
「はい。東部領では、石壁の補強や家具の固定、冬の備蓄と同じように、地震への備えが昔から暮らしの中にございます。小さな揺れであれば、領民もあまり気に留めません」
リュシアンが椅子へ深く座り直した。
「周期的なものだったとしても、首長が変わった途端に地震が始まったように見えた者はいるかもしれないな」
部屋が静かになる。
ある日、長が変わった。
その後、山が揺れた。
崖が崩れた。
何度も大地が鳴った。
地質の記録を持たない者が、それを何と結びつけるのかは、何を信じて生きているかによる。
「新しい首長が山に認められていない、と?」
アデルが尋ねる。
「そう考えた人間がいてもおかしくない」
リュシアンの指が卓上を軽く叩く。
「ただ、首長本人が娘を攫っているとは限らない」
ユリウスが顔を上げた。
「司祭が独断で動いている可能性もございます」
「司祭?」
「山の民には、首長とは別に祭祀を取り仕切る老婆がいると聞いております」
「役割が分かれているのか」
「はい。首長は狩猟や交易、争いごとを決める。祈りや祖先、山に関わる事柄は、その老婆が決めるそうです」
辺境伯も頷いた。
「麓では『大婆』と呼んでおります。正式な呼称までは分かりませんが」
アデルは昼間の光景を思い返した。
大岩。
白い煙。
少女の額へ水を垂らしていた年老いた女。
「……いました」
「何が?」
「老婆です。祭壇のすぐそばに」
リュシアンも目を細める。
「確かにいたな。ほとんどの儀式をあの老婆が動かしていた」
「少女に触れていたのも、その方だったと思います」
沈黙が落ちる。
やがてリュシアンはユリウスを見た。
「山の民との交渉は、ユリウス。頼めるか?」
ユリウスが僅かに目を見開いた。
「自分に、でございますか」
「ああ」
「殿下がお出になられた方が、話は早いのでは」
「早すぎるんだ」
リュシアンは即答した。
「俺が王太子として兵を連れて山へ入れば、向こうには王家が信仰を潰しに来たように見えるかもしれない。そうなれば、娘を返す以前の問題になる」
ユリウスは黙って聞いている。
「お前は東部辺境伯家の人間だ。王都から来た俺より、あちらにとってはまだ近い」
「……承知いたしました」
「それと」
リュシアンの表情が少し厳しくなる。
「伝えてくれ。我が国は、あの者たちを国民として、その文化ごと受け入れるつもりだ」
辺境伯も顔を上げた。
「娘を誘拐したことは許容できない。そこは譲らない。ただ、何を信じ、何に祈り、どんな儀式を行うのかまで否定するつもりはない」
アデルは横顔を見つめた。
昨日、岩の上の少女を見た時、最初に止まったのもリュシアンだった。
助けるのを躊躇したのではない。
知らないものを、知らないまま敵と決めつけなかった。
「王家は、お前たちの神を裁きに来たのではない、と」
リュシアンが続ける。
「だが、人を攫うことだけはやめろ。それが条件だ」
ユリウスは深く頭を下げた。
「必ず、お伝えいたします」
*
翌朝。
ユリウスは東部兵を二人だけ連れ、山へ入った。
大人数では行かない。
武器も腰の剣だけだった。
山の民が姿を見せたのは、昨日アデルたちが祭祀を目撃した場所よりさらに手前だった。
木々の間から、弓を持った男が三人現れる。
誰も矢はつがえていない。
けれど歓迎されているわけでもなかった。
ユリウスは手を剣から離したまま、一歩前へ出た。
「東部辺境伯家のユリウス・フェルナーだ」
反応はない。
「昨日、麓の娘がここへ連れてこられたことを確認した」
男たちの目が動く。
「王太子殿下は、兵を入れることを望んでおられない」
今度は明らかに表情が変わった。
「お前たちの祈りをやめさせるために来たのではない」
ユリウスはゆっくり言葉を選ぶ。
「攫った娘たちを返してほしい。それだけだ」
長い沈黙のあと、一人の男が山の奥へ消えた。
待った。
雪の上に立ったまま、ただ待つ。
やがて男が戻ってくる。
「長が会う」
初めて聞いた声は、スピネリア語だった。
少し古い発音ではあったが、十分に理解できた。
*
首長は、思っていたより若かった。
二十代の終わりほどだろうか。
褐色の肌に肩まで伸びた黒い髪。額には赤い糸を編んだ細い帯を巻き、首元には昨日見たものと同じ、黒く光る石の飾りを下げている。
顔には疲れが深く刻まれていた。
「王子は来なかったのだな」
「王太子殿下です」
「同じようなものだ」
「かなり違います」
ユリウスが真顔で訂正すると、首長は初めて少しだけ笑った。
「東部辺境伯の息子だと聞いた」
「三男です」
「なら、山の外の人間の中では話が近い」
火の前へ座るよう促される。
小さな住居だった。
石と木を組み合わせた壁。天井からは乾燥させた薬草と肉が吊るされ、火のそばには見覚えのある木片が積まれている。
パロサント。
ユリウスは少女たちのことから聞いた。
「五人とも生きている」
首長はすぐに答えた。
「どこに?」
「山頂の祠だ」
「すぐに返していただきたい」
「かまわない」
あまりにも簡単な返答だった。
ユリウスが目を細める。
「抵抗なさらないのですか」
「返したかった」
首長の声が低くなる。
「最初から」
「では、なぜ」
「止められなかった」
火が小さく爆ぜた。
「大婆が始めた」
「昨日、祭祀を取り仕切っていた老婆ですか」
「ああ」
首長はしばらく炎を見ていた。
「前の長が死んだ時、大婆は自分の孫を次の長にしたかった」
「しかし、あなたが選ばれた」
「長は血だけで決まらない。狩り、交渉、争いを収める力。家々の長がそれを見て決める」
結果、選ばれたのは彼だった。
「大婆の孫は?」
「若い。悪い男ではない。だが、人を率いるにはまだ早い」
首長の口元に、僅かな苦さが浮かぶ。
「大婆は納得しなかった」
そして、首長が代わった年に山が揺れ始めた。
「山が怒っている、と?」
「そう言った」
新しい長が山に認められていない。
だから山の花嫁を捧げなければならない。
そうすれば怒りは鎮まる、と。
「花嫁の儀式そのものは以前からある」
首長が言う。
「だが、本当に女を閉じ込めるものではない」
もともとは、未婚の娘が花冠をつけ、香で身を清め、一晩だけ祠で祈る祭りだったという。
朝になれば家へ戻る。
豊穣と、山の安全を願うためのもの。
「外の娘を攫うことは?」
「ない」
「薬を使うことも?」
「ない」
「では、すべて大婆が?」
「ああ」
首長の顎に力が入る。
「一人目の花嫁を捧げても山は揺れた。二人目でも止まらない。三人、四人、五人」
それでも地震は続いた。
自然の周期なのだから、当然だった。
だが大婆にとって、それは別の意味を持つ。
「五人でも鎮まらなければ?」
首長はしばらく答えなかった。
やがて、自分の胸元にある黒い石へ触れた。
「次は、俺だっただろう」
ユリウスの目が僅かに細くなる。
「首長を、生贄に?」
「山に認められぬ長だから災いが続く。花嫁を五人捧げても山が静まらないなら、長そのものを返せばよい」
首長は淡々と言った。
けれど、その声音の奥には長く押し殺してきたものがあった。
「そうすれば長の座が空く」
「そして、大婆の孫を」
「ああ」
火の向こうで、首長が目を伏せる。
「大婆さまも、もう年だ。自分の孫が長になる姿を見たかったのかもしれない」
信仰。
血縁。
野心。
その境目は、もう本人にさえ分からないのかもしれなかった。
「あなたには止められなかった?」
「大婆は祈りを決める。長は祈りを決められない」
「しかし、娘たちは山の民ではありません」
「分かっている」
首長が両手を握る。
「だから夜に祠を開けた」
ユリウスが顔を上げた。
「水も、食べ物も、毛布も入れた。病んだ者には薬草を置いた」
「大婆には?」
「知られていない」
首長は自嘲するように笑った。
「長のくせに、それしかできなかった」
「亡くなった者は?」
「いない」
即答だった。
「暗い場所に長くいた。弱っている娘はいる。怖い思いをした。それは俺たちの罪だ」
首長は真っ直ぐユリウスを見た。
「連れて行ってかまわない」
「五人全員?」
「ああ」
少し間を置く。
「すまなかったと伝えてほしい」
その声に言い訳はなかった。
*
山頂の祠は、岩壁を削って作られていた。
重い木戸を開くと、冷たい空気が流れ出す。
中にはいくつか小さな部屋がある。
最初の部屋に一人。
次の部屋に二人。
奥にも二人。
五人。
全員、生きていた。
突然入ってきたユリウスを見るなり、身を固くする娘もいた。
「大丈夫です」
ユリウスはその場で膝をついた。
目線を合わせる。
「東部辺境伯家の者です。迎えに来ました」
一人の少女が、唇を震わせた。
「……帰れるの?」
「はい」
「本当に?」
「必ず」
泣き声が上がった。
一番長く祠にいた娘は、自力では立てなかった。
頬は痩せ、唇も乾いている。
それでも意識はある。
担架へ乗せられた時、何度も「帰れる」と呟いていた。
首長は祠の外に立ったまま、中へは入らなかった。
少女たちが運び出されるのを黙って見ている。
最後の一人が通り過ぎた時、深く頭を下げた。
誰も何も言わなかった。
やがてユリウスが尋ねる。
「大婆については」
首長の顔が変わった。
「山の民のことは、山の民の方法で解決する」
それだけだった。
「二度と、麓の者を攫わないと約束していただけますか」
「約束する」
「なら、それ以上は伺いません」
王家が裁こうとすれば、また別の争いが始まる。
信仰を壊すことが目的ではない。
ユリウスは少女たちを連れ、山を下りた。
*
辺境伯邸の門が開いた時、待っていた人々の間から悲鳴にも似た声が上がった。
「エマ!」
「お姉ちゃん!」
家族が駆け寄る。
泣く者。
抱き合う者。
その場へ崩れ落ちる者。
医師たちはすぐに少女たちを屋内へ運び、状態を確認していった。
アデルは離れた場所から、その様子を見ていた。
「全員、生きて戻ったな」
隣に立ったリュシアンが言う。
「はい」
胸が詰まる。
本当によかった。
けれど、少女たちが近くを通った時。
アデルの身体が僅かに強張った。
パロサント。
髪に。
衣服に。
肌に。
あの香りが染みついていた。
その瞬間、昨日の光景がほとんど形を変えずに蘇った。
白い煙。
黒い石。
鳥の羽。
花冠。
鈴。
岩の上に横たわった少女。
胃の奥が冷たくなる。
アデルは思わず半歩、後ろへ下がった。
「アデル?」
リュシアンの声で我に返る。
「……申し訳ありません」
「どうした?」
答えようとして、できなかった。
香りが怖かった。
それを口にすること自体が、信じられなかった。
生まれた時から香りの中で育った。
香りを学び、香りを作り、香りで人を助けてきた。
事件の痕跡も、嘘も、思い出も、アデルにとって香りはいつも知るためのものだった。
それが初めて。
嗅ぎたくないと思った。
「……少しだけ、あとで」
そう答えるのが精一杯だった。
アデルはその日のうちに、辺境伯邸の薬草庫を借りた。
カモミール。
ラベンダー。
どちらも穏やかで、馴染みのある香りだった。
乾燥させた花を少量ずつ布へ包み、小さな香り袋を五つ作る。
強くしすぎない。
嫌なら捨てられるように。
寝台のそばへ置くかどうかも、本人が選べるように。
一番年若い少女へ渡す時、アデルはそう説明した。
「これを使えば、忘れられるのでしょうか」
少女が聞いた。
アデルは少し迷い、首を振った。
「いいえ」
忘れられるとは言えなかった。
「香りで記憶を消すことはできません」
少女の目が伏せられる。
「でも、違う香りと、違う時間を少しずつ重ねることはできます」
「違う時間……」
「今夜、安心して眠れたら。その時にこの香りがあれば、次に嗅いだ時、今日の夜も一緒に思い出せるかもしれません」
少女が袋を握る。
「使いたくなければ、使わなくて大丈夫です」
「……使います」
小さな声だった。
アデルはそれ以上、何も言わなかった。
どうか。
あの煙の記憶だけが、この先ずっと彼女たちを支配しませんように。
*
その夜。
リュシアンは妙なことに気づいた。
夕食を終えて立ち上がる。
アデルも立つ。
書類を取りに部屋を移る。
アデルも来る。
侍従へ翌日の予定を確認するため廊下へ出る。
やはり来る。
「アデル」
「はい?」
「今日、ずっとついてきてない?」
「……そうでしょうか」
「そうだよ」
責めているわけではない。
むしろ普段より近くにいるのは嬉しい。
けれど、いつものアデルなら一人で調香記録を整理しているような時間まで、今日は離れようとしない。
湯浴みへ向かう時もそうだった。
「今日もご一緒してよろしいですか?」
「いいよ。この地方の文化だからな」
リュシアンが当然のように答える。
アデルは少しだけ口元を緩めた。
「文化、信仰よりも生活的な響きですね」
「薪の節約だからな」
「昨日は随分嬉しそうに文化を尊重なさっていた気がしますけれど」
「今日は生活文化を尊重してる」
「便利ですね、その言い方」
昨日と同じ石造りの浴室。
今日は最初から同じ側へ入った。
アデルはほとんど何も話さず、リュシアンの肩へ頭を預けている。
湯から上がり、寝間着へ着替えてからも同じだった。
暖炉の前で本を読むリュシアンの隣へ座り、自分の本を開く。
けれど一向に頁が進んでいない。
「読んでる?」
「読んでおります」
「十分くらい同じ頁だけど」
「内容が難しいのです」
「それ、香草図鑑だろ」
「……今日は難しいのです」
リュシアンは本を閉じた。
アデルが僅かに肩を強張らせる。
「まだ残ってる?」
「何がでしょう」
「あの香り」
指が止まった。
パロサント。
「……はい」
実際には、もうこの部屋にはない。
服も着替えた。
髪も洗った。
湯にも入った。
それなのに思い出しただけで、鼻の奥に蘇る。
甘い木。
煙。
清めの香り。
そして暗闇。
「怖かったんだろ」
リュシアンが言う。
アデルはすぐには頷けなかった。
「……香りが怖いと思ったのは、初めてです」
その言葉を口にした途端、胸の奥がきゅっと縮んだ。
「嫌な匂いだったわけではないのです。むしろ、香りだけなら穏やかで、良い香りでした」
「うん」
「だから、もっと怖かった」
自分の両手を見る。
「人を清める香り。祈るための香り。あの方たちにとっては、きっと正しいものだった」
けれど少女たちにとっては。
暗い祠へ連れて行かれる前の香り。
自由を奪われる前の香り。
恐怖が始まる合図。
「同じ香りなのに」
声が少し震えた。
「信じるものが違うだけで、こんなにも意味が変わるのですね」
アデルにとって香りは、ずっと世界を知るためのものだった。
見えないものを形にする。
思い出を蘇らせる。
人を慰める。
誰かの心を繋ぐ。
だから、香りそのものを疑ったことなどなかった。
けれど今は違う。
香りは、人を優しい記憶へ連れて行くこともできる。
同じように、逃げられない記憶の中へ閉じ込めることもできる。
祈りの意味を強めることも。
恐怖を身体へ染み込ませることも。
「私が信じてきたものは、一体何なのでしょう」
リュシアンが少しだけ眉を上げた。
「香り?」
「それも、です」
アデルは目を伏せる。
「私はずっと、香りは人を助けるものだと思っていたのかもしれません」
「でも今日、助けただろ」
「え?」
「カモミールとラベンダー」
アデルが顔を上げる。
「怖い香りがあるからって、全部怖いわけじゃない」
「……そうでしょうか」
「少なくとも、あの子たちは受け取った」
リュシアンはそれ以上、答えを決めてやろうとはしなかった。
「今すぐ整理しなくてもいいと思う」
「ですが」
「十九歳で、自分が信じるもの全部決めなくていいだろ」
あまりにも普通に言われて、アデルは少しだけ笑った。
「王太子殿下に言われると、不思議な説得力がございますね」
「俺だって分からないことだらけだからな」
「そうなのですか?」
「そうだよ」
リュシアンが銀髪を一房だけ指へ絡める。
「だから、その都度考える」
アデルはしばらくその手を見ていた。
それから、また少し身体を寄せた。
寝台へ入ってからも、いつもより近かった。
背中へ腕を回される。
聞こえるのは規則正しい呼吸と、時折、暖炉で薪が弾ける音。
「今日は本当に離れないな」
しばらく返事はなかった。
やがて、胸元に額を押しつけるようにして、アデルが呟いた。
「……離れたら、何か暗いところにいってしまいそうで……」
リュシアンの腕が止まった。
冗談を言う気にはならなかった。
そのまま背中へ回した腕を、少しだけ強くする。
「じゃあ、離れなくていい」
アデルは何も言わなかった。
ただ、寝間着を掴む指に少し力が入った。
目を閉じる。
白い煙が見える。
黒い石。
花冠。
鈴。
パロサントの甘い香り。
暗い祠。
閉ざされた扉。
香りが怖い。
そんなふうに思う日が来るとは、考えたこともなかった。
それでも、その記憶の向こうには、カモミールとラベンダーの香り袋を握った少女の手がある。
そして今、自分を包んでいるのは、ほとんど香りのないリュシアンの胸元だった。
信じるということは、何なのだろう。
目に見えないものを正しいと思うことなのか。
分からないものに意味を与えることなのか。
それとも、怖くて仕方がない時に、それでも手を伸ばせるもののことなのか。
答えは出なかった。
その夜、アデルの眠りは浅かった。
何度か夢と現実の境目まで浮かび上がる。
そのたびに、隣の体温を確かめた。
リュシアンは一度も、その手を離さなかった。




