第四十五話 朝を取り戻す香り
翌朝、リュシアンはもう一度、崩落した山へ向かった。
昨日まで同行していたアデルの姿はない。
辺境伯家の長男、ユリウス、王室騎士団の数名。それに地質と坑道に詳しい技師たちを連れ、再び百年前の旧道が姿を現した場所へ入る。
昨日より空は明るかった。
尾根の向こうから射す冬の陽が雪を白く照らし、崩れた岩肌の凹凸をはっきりと浮かび上がらせている。
洞窟の入口には、すでに簡易的な支柱が組まれていた。
「昨日の余震以降、大きな動きはございません」
技師が図面を広げる。
「ただ、内部へ入れたのはまだ二十歩ほどです。その先は落石が多く、天井の状態を確認してからでなければ危険です」
「風は?」
「ございます」
リュシアンが入口へ近づく。
ひやりとした空気が頬に触れた。
やはり奥から外へ向かって流れている。
「どこかへ抜けてるな」
「その可能性は高いかと」
辺境伯家の長男が古い地図を開いた。
「旧記録の方角と照らせば、このまま山中を抜け、シャン側へ続いている可能性はございます。ただ……」
「地震か」
「はい」
男は剥き出しの岩盤を見上げる。
「なにぶんこの一帯は地震が多い。昨日確認しただけでも、内部には新旧いくつもの亀裂がございます。入口が開いたからといって、道としてすぐ使えるとは申し上げられません」
リュシアンは頷いた。
道があることと、人を通せることは違う。
荷車を通すならなおさらだった。
「調査にはどれくらいかかる?」
「安全を優先するのであれば、相当な期間をいただきたく存じます。まず地盤を調べ、崩落箇所を記録し、どこまで旧道が残っているのかを確かめる必要がございます」
「構わない」
リュシアンは即答した。
「必要な費用は王家から出す。まず半年の調査見積もりから始めてくれ」
「半年、でございますか」
「半年で開通させろとは言ってない」
灰青色の瞳が洞窟の暗がりへ向く。
「半年かけて、何を調べれば安全性を判断できるのかを出してほしい。無理なら無理でいい。人命を賭けてまで二日縮める価値はない」
技師たちが顔を見合わせ、それから深く頭を下げた。
「承知いたしました」
「シャン側にも旧道の記録が残っている可能性がある。王都へ戻ったらリンレイに確認する。必要なら向こうからも資料を取り寄せよう」
山の向こうに国がある。
百年前には、人がこの道を歩いていた。
地震によって閉ざされ、忘れられ、昨日再び姿を現した。
開くべき道なのか。
閉じたままにすべき道なのか。
それを決めるのは、今ではない。
リュシアンはもう一度、冷たい風を感じてから入口を離れた。
「妃殿下は本日は?」
辺境伯家の長男が何気なく尋ねる。
「病院へ行った」
「昨日救出された娘たちのところへ?」
「ああ」
答えながら、少しだけ昨日の夜を思い出す。
自分から離れようとしなかったアデル。
胸元を掴んだ細い指。
香りが怖い、と震えた声。
今朝、目を覚ました時には隣にいた。
けれど朝食を終えたアデルは、
「今日は娘たちのところへ行ってまいります」
と、自分から言った。
なら、大丈夫なのだろう。
少なくとも。
怖いからと、香りから逃げるつもりはないらしい。
*
東部の病院には、朝から淡い陽が差していた。
石造りの建物ではあるものの、病室の窓は大きい。
冬の光を少しでも取り込むためなのだろう。
アデルが部屋へ入った時、五人の少女たちは昨日よりずっと人らしい姿へ戻っていた。
顔に描かれていた赤と黒の模様は綺麗に洗い落とされている。
髪から花冠も外され、鳥の羽も鈴もない。
清潔な寝間着。
白い寝具。
窓辺には水差し。
それだけで、昨日の祭壇がひどく遠いものに見えた。
けれど。
遠く見えるだけで、消えたわけではない。
「王太子妃殿下」
少女の一人が身体を起こそうとする。
「そのままで」
アデルは慌てて手を上げた。
「今日は王太子妃として来たのではありません。宮廷調香師として参りました」
「調香師……」
「はい」
アデルは持ってきた箱を開けた。
昨日の香り袋とは違う。
小瓶。
精製水。
少量の酒精。
いくつかの香料。
「眠る時に使える、薄い香水を作ろうと思いまして」
「香水?」
「枕や寝具へほんの少しだけ使うものです。もちろん、香りが嫌でしたら作りません」
五人の表情を順番に見る。
「昨日のことを思い出す香りもあるでしょうから」
パロサントとは言わなかった。
けれど何人かの少女は、その意味を理解したようだった。
アデル自身も、あの木片をここへ持ち込むことはできなかった。
まだ。
「皆様の好きな香りを聞いて、その場で作ろうと思っています」
一番年若い少女が、少しだけ目を丸くした。
「好きな香りで?」
「はい。花でも、食べ物でも、森でも。香水にならなそうなものでも構いません」
「パンでも?」
「もちろん」
「焼きたての?」
「それは少し難しいですが、考えてみます」
ようやく小さな笑い声が漏れた。
それだけで、アデルの肩から少し力が抜けた。
順番に話を聞いていく。
「私は林檎が好きです」
「甘い林檎と青い林檎なら?」
「青い方」
「では、少し爽やかな香りにしましょう」
「私は花がいい」
「どんな花です?」
「白い、小さい……名前は分からないけど、家の庭に咲くの」
「あとでご家族に聞いてみますね」
一人ずつ。
急がずに。
本人が話したいことだけを聞く。
やがて、窓に近い寝台へ座っていた少女の番になった。
一番長く祠へ閉じ込められていた娘だった。
まだ頬は痩せている。
手首にも力が戻りきっていない。
「好きな香りはありますか?」
アデルが尋ねる。
少女はしばらく答えなかった。
「……分からない」
「では、無理に作らなくても大丈夫ですよ」
「違うの」
少女が毛布を握る。
「わたし、暗いところが怖いの」
アデルの手が止まった。
「眠れないの」
静かな声だった。
「眠ったら、またあそこにいる気がする」
アデルは何も言わず、続きを待った。
「最初に目が覚めた時、体が重くて。手も足も少し痺れてた」
薬。
昨日の記録と一致する。
「真っ暗で、周りは全部岩だった」
少女の指が強く毛布を掴む。
「叫んだけど、誰も来なくて。どれくらい経ったのかも分からなかった」
アデルは胸の奥が痛くなるのを感じた。
暗い祠。
閉じた扉。
自分がどこにいるかも分からない。
昨夜、ただ想像しただけで怖かった場所に、この少女は実際にいた。
「朝になったんだって分かったのは、小さな穴から光が差し込んだから」
「穴?」
「岩の上の方に、小さいのがあって」
少女の表情が、ほんの少し変わる。
「光が入ってきて……それで、周りに水と食べ物があることが分かったの」
首長が夜のうちに補充していたものだろう。
「その時だけ、少し安心した」
「光があったから?」
「それも」
少女は考えるように目を伏せた。
「地面が温かくなる匂いがしたの」
アデルが瞬きをする。
「匂い?」
「朝日が入ると、冷たかった岩とか土が少しずつ温まるでしょう?」
「はい」
「その時の匂い」
少女が、初めて少しだけ笑った。
「やさしい土の匂い。あれだけは好きだった」
アデルは言葉を失った。
怖かった。
暗かった。
パロサントの香りは、恐怖と結びついた。
それでも。
同じ場所に、救いになった香りもあった。
「……そうですか」
自分でも驚くほど、ほっとした声が出た。
少女が不思議そうに見る。
「すみません」
アデルは少し笑った。
「私も、少し助けていただいた気がします」
「私が?」
「はい」
香りが怖い。
昨夜初めて、そう思った。
けれど香りそのものが恐怖なのではない。
あの場所にも、彼女を朝まで繋ぎ止めた香りがあった。
「やさしい土の香りであれば……アイリスを少し入れてみましょうか」
「アイリス?」
「根から作る香料です。花そのものより、少し乾いた土や木を思わせる香りがするんです」
アデルは小さな瓶を開けた。
すぐには少女へ差し出さず、自分の手元でごく薄く香らせる。
「少し嗅いでみますか?」
少女が頷く。
ゆっくり近づける。
乾いた。
柔らかな。
少し粉っぽく、静かな香り。
少女は目を閉じた。
「……好き」
その一言で、アデルの胸の奥にあったものが少しだけほどけた。
「では、これを中心にしましょう」
「朝の匂いになる?」
「そうできるよう、頑張ります」
ベルガモットをほんの少し。
アイリス。
柔らかな木の香り。
眠りを邪魔しない程度のラベンダー。
その場で少量ずつ重ねていく。
香りを怖いと思った翌日に。
また誰かのために香りを作っている。
昨日までなら、それを当たり前だと思っていた。
今日は違った。
一滴落とすたびに、慎重になる。
これは誰のための香りなのか。
何を思い出してほしいのか。
何を押しつけてはいけないのか。
「できました」
少女へ小瓶を渡す。
「最初は枕へ一滴だけ。それでも強ければ、使わなくて構いません」
「ありがとう」
「こちらこそ」
「?」
少女には分からなかっただろう。
それでよかった。
アデルは小さく頭を下げた。
香りは記憶を閉じ込める。
けれど。
新しい記憶を重ねることもできる。
それをもう一度、信じてみようと思った。
*
王都へ戻る馬車の中は、行きよりずっと静かだった。
窓の外では、東部の険しい山並みが少しずつ遠ざかっていく。
アデルとリュシアンが並んで座り、その向かいにユリウスがいた。
故郷を離れることについて、彼が何を思っているのかは分からない。
ただ、時折窓の外を見る灰色の瞳には、来た時よりも何か考えるような色があった。
「ユリウス」
リュシアンが書類から顔を上げた。
「はい」
「王城へ帰ったら、新しく一つ隊を編成しろ」
ユリウスが瞬きをする。
「……自分が、ですか?」
「ああ」
「何のための隊でしょうか」
「王族警護だ」
リュシアンは書類を膝の上へ置いた。
「今回の視察で分かった。今までの体制だと、王族が複数の場所へ動いた時に警護が分散しすぎる」
ユリウスの表情が仕事のものへ変わる。
「今回は自分の実家が東部にございましたので、現地兵との連携も容易でした」
「そう。毎回、お前の実家があるわけじゃない」
「当然でございます」
「今後、アデルも王太子妃として地方へ出る。俺と別行動することもある。メリルだって王都だけにいるわけじゃない」
アデルも黙って聞いている。
「だから王族警護を二系統に分ける」
「二系統」
「国王陛下、王妃陛下、ライオネルについては、現状の第一部隊を中心に警護する」
そして。
「俺とアデル、メリル。この三人を主に担当する新しい部隊を作る」
ユリウスが少し考える。
「合理的かと存じます。常時連携する者を固定した方が、緊急時の指揮系統も明確になります」
「だろ?」
「ただし」
「何だ?」
「隊を編成する権限は、副隊長代理の自分にはございません」
「知ってる」
あまりにも軽い返答だった。
ユリウスの眉が僅かに動く。
「ですので――」
「だから、お前が新部隊の隊長だ」
馬車の中が静まった。
アデルまで一度、瞬きをする。
「……はい?」
珍しくユリウスの反応が遅れた。
「聞こえなかった?」
「いえ。聞こえました」
「じゃあ問題ないな」
「問題しかございません」
リュシアンの口元が少し上がる。
「昇進の辞令は騎士団長と話をつけてある」
「いつの間に」
「お前が山へ交渉に行ってる間」
「早すぎませんか」
「仕事ができる人間を上げるのに、わざわざ半年待つ意味ある?」
「しかし、自分はまだ――」
「今回の視察で何をした?」
ユリウスが黙る。
「地震直後の現場で避難を指揮した。地元兵と第一部隊を繋いだ。旧道の調査計画にも関わった。山の民との交渉も成功させて、五人全員を連れ戻した」
灰青色の瞳が、真っ直ぐユリウスを見る。
「それでも経験が足りないと思うなら、隊を作りながら増やせ」
「……」
「平和な我が国で、騎士が実績を作る機会なんてそう多くないんだ」
リュシアンは少し苦笑した。
「だからって、戦争でも起こしてもらったら困るしな」
ユリウスの口元が、ごく僅かに緩んだ。
「仰る通りです」
「第一、隊長になったからって一人で全部やるわけじゃない。騎士団各隊から満遍なく使える人間を引き抜け」
「満遍なく、ですか」
「第一部隊だけから取ったらアルベルトに怒られる」
「確実に怒られますね」
「だから他からも取れ」
「殿下」
「何?」
「それは怒られる相手が増えるだけでは?」
アデルが口元を押さえる。
リュシアンは少し考えた。
「……確かに」
「今お気づきになったのですか?」
「でもやれ」
「最終的にはそこなのですね」
ユリウスは小さく息を吐いた。
それから背筋を正す。
「謹んで、お受けいたします」
「就任式と正式な辞令については、王城へ戻ってから別途連絡する」
「承知いたしました」
アデルが柔らかく笑った。
「隊長への昇進ですね。おめでとうございます、ユリウス」
「ありがとうございます、妃殿下」
黒髪の青年が頭を下げる。
アデルは嬉しく思った。
彼の働きは、自分もこの数日間ずっと見ていた。
当然の評価だと思う。
そして。
(これでメリル殿下も喜ばれますね)
その考えが浮かんだのは、ごく自然だった。
ただし。
そのメリル本人が今、王都で何を考えているのかまでは。
アデルもリュシアンも、まだ知らなかった。
*
「一週間」
王女メリル・スピネリアは、窓の外を睨みながら呟いた。
「一週間も視察に行っているのね」
誰に問いかけたわけでもない。
向かいの席で茶杯を持っていたリンレイが、静かに目を上げた。
シャンから駐在使節として残っている十五歳の王女は、最近すっかり王宮の空気にも慣れ、メリルと茶を飲むことも珍しくなくなっていた。
「東部視察でしたね」
「ええ」
「王太子殿下と王太子妃殿下が」
「それとユリウス」
返答が早い。
リンレイが一度瞬きをした。
「以前おっしゃられていた騎士様ですか」
「ええ。お兄様と東部へ行ったの」
メリルは頬杖をつく。
亜麻色の髪は今日はきちんと結われている。
けれど表情は完全に曇っていた。
「こんなに離れたこと、最近あったかしら」
「一週間ですよね」
「長いわ」
「そうでしょうか」
「長いのよ」
「左様ですか」
リンレイはそこで議論するのをやめた。
経験上、この手の話は正論で返すほど長くなる。
茶を一口飲む。
「東部視察の結果は気になりますね。旧道がシャンまで続いていれば、我が国にも関係があります」
「そうね」
「兄上にも報告が必要になるかもしれません」
「そうね」
「……メリル殿下」
「何?」
「まったく聞いておられませんね」
「聞いてるわよ」
全然聞いていない顔だった。
メリルが急に姿勢を直した。
「ねえ、リンレイ」
「はい」
「あなたなら、どうやって殿方に意識してもらう?」
リンレイの茶杯が止まった。
「なぜ私に」
「シャンの人って、恋愛に積極的でしょう?」
「国民性で一括りにしないでください」
「ライレイ殿下は積極的じゃない」
「あれを我が国の標準にされるのは困ります」
「でも、ユエ様を射止めたわ」
「……それは、まあ」
兄を思い浮かべる。
否定はできない。
「私は経験がございませんので、正直分かりません」
「役に立たないわね」
「急にひどいですね」
リンレイは少し考えた。
「ただ、兄上はユエにしか見せない顔があります」
メリルが僅かに眉を上げた。
「ライレイ殿下は、気持ちの表現がまっすぐよね」
「まっすぐというか、自分勝手というか」
「兄に対して随分な評価ね」
「本人にも言っています」
「強いわね、あなた」
リンレイは茶杯を置いた。
メリルの表情がまた少し曇る。
「私、あんなに素直になれるほど、可愛い女じゃないわ」
リンレイはその言葉に、すぐには返事をしなかった。
ユエを思い出した。
自分の兄が長い間追い続けた女性。
冷静で。
頭がよく。
決して愛想だけで人に好かれるような女性ではない。
それでも兄は、ずっと彼女を選んだ。
「自分を下げてしまうことは、思い人を悲しませますよ」
メリルが目を丸くした。
「……十五歳のくせに、たまに妙に大人ね」
「周囲に面倒な大人が多いので」
「ライレイ殿下?」
「主に」
少しだけ空気が和らぐ。
「他には?」
「何がです?」
「ライレイ殿下よ。ユエ様を振り向かせるために何をしていた?」
「兄上が?」
リンレイは真剣に考え始めた。
「そうですね……」
贈り物。
食事。
仕事への介入。
過剰な距離感。
周囲への宣言。
「あ」
「何?」
「かなり早い段階で閨へ連れていきますね」
「……なるほど」
「あと、逃げられないように外堀を埋めに行きます」
「外堀」
「はい。周囲へ先に話を通したり、本人が断りづらい状況を――」
メリルの灰青色の瞳が、急に輝いた。
「ああ! その手があるわね!」
「……はい?」
「それが一番早いじゃない」
「いえ」
「さすがライレイ殿下ね」
「メリル殿下?」
王女が勢いよく立ち上がった。
「早速準備しなくちゃ。お茶の途中で悪いわね、リンレイ」
「何の準備です?」
「色々よ」
「待ってください」
メリルはもう扉へ向かっている。
「メリル殿下」
「ごちそうさま!」
「冗談ですよ?」
扉が閉まった。
しん、と静かになる。
卓上には、まだ湯気の立つ茶が二つ。
リンレイはしばらく閉じた扉を見つめていた。
「…………」
兄の行動を参考にしてはいけない。
なぜ最初にそれを言わなかったのだろう。
とんでもないことを言ってしまった。
かもしれない。




