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第四十六話 待っていた香り

 東部視察から一行が王都へ戻った翌日。

 王宮には、まだ旅の荷解きも終わらないうちから、新しい人事の噂が広がっていた。

 王族警護を担う新部隊の設立。

 そして、その隊長にユリウス・フェルナーが任命されるという。

 メリルがその話を聞いたのは朝食の席だった。

「……隊長?」

「そうよ」

 王妃は何でもないことのように紅茶へ口をつける。

「正式な就任式は数日後になるそうだけれど、辞令そのものはもう決まっているわ」

 メリルは一度、瞬きをした。

 それから。

「そう」

 なるべく普通の顔でパンへ手を伸ばした。

 けれど口元は、どうしても少し上がる。

 王妃は当然それを見ていた。

「嬉しそうね」

「え?」

「何が、とは言っていないけれど」

「……別に」

 メリルはジャムを塗る。

 少し多すぎた。

 やっとだった。

 ユリウスはずっと優秀だった。

 目立たないだけで。

 誰かの後ろへ立つことを当然のように受け入れ、自分から功績を語ることもなく、必要な時だけ前へ出る。

 王女であるメリルを警護する時だってそうだった。

 自分が褒められることより、事故が起きないことを優先する。

 稽古場では誰より早く異変に気づき、遠乗りでは黙って一番危険な側を走る。

 乱れた髪を結び直しても、礼を言えば「警護の一環です」としか返さない。

 腹が立つくらい、そういう男だった。

 メリルが新しい手袋を贈った時も。

『冬の警護は指先が冷えるでしょう』

『装備までお気遣いいただき、ありがとうございます』

 で終わった。

 遠乗りのあと、二人きりで茶を飲もうと誘った時も。

『護衛報告はこちらでよろしいでしょうか』

 と帳面を出された。

 本人の中では、おそらくすべてが「王女と騎士」の範囲に収まっている。

 どれだけ近くにいても。

 どれだけ自分のことを知っていても。

 その境界だけは、驚くほど疑わない。

 だからこそ。

 いつか誰かが、ちゃんと見つけると思っていた。

 そして。

 そろそろ本人にも見つけてほしかった。

「お母様」

「なあに?」

「新しい部隊のことなんだけど」

 王妃の目が少しだけ楽しそうになる。

「私の予定、今後はユリウスにも直接共有することにして」

「隊長ですもの。当然でしょうね」

「それから、公務以外で私が王宮を出る時も、できるだけ新しい隊に担当してもらいたいの」

「どうして?」

 分かっているくせに。

 メリルは母を見た。

「警護の連携を早く取った方がいいでしょう?」

「そうね」

「新設の隊なんだから、実地で慣れた方がいいわ」

「ええ」

「だから」

「分かったわ」

 あっさりだった。

 メリルの方が拍子抜けする。

「いいの?」

「警護上必要なのでしょう?」

「……ええ」

「では、そのように手配しておくわ」

 王妃が微笑む。

「頑張りなさいね」

「何を?」

「新しい警護体制に慣れることを」

「もちろんよ」

 メリルは胸を張った。

 王妃はそれ以上何も言わず、また紅茶へ口をつけた。

 娘は誤魔化せたつもりらしい。

 非常に分かりやすかった。

*

 ところが。

「何で帰ってからの方が忙しいのよ」

 メリルは三日後、とうとう呟いた。

 廊下の向こうを、書類の束を抱えたユリウスが足早に通り過ぎていく。

「ユリウス」

 呼ぶ。

 止まる。

「殿下」

 短く整えた黒髪。

 淡い灰色の瞳。

 いつも通り落ち着いた顔をしているが、その腕には明らかに持ちすぎな量の書類があった。

「今からどこへ行くの?」

「第二部隊です。候補者の勤務記録を確認してまいります」

「その後は?」

「第三部隊の隊長と面談を」

「その後」

「新部隊の訓練日程を騎士団長へ提出いたします」

「夜は?」

「第一部隊の夜間警備を確認して――」

「忙しすぎない?」

 ユリウスが少し考える。

「隊を一つ作ることになりましたので」

「そうでしょうけど」

 東部へ一週間。

 ようやく戻ったと思った。

 なのに、今度は一日中王宮のどこかを走り回っている。

 以前なら、メリルの警護でそばにいる時間の方がずっと長かった。

 これでは出世を待っていた意味がない。

 ……いや。

 そういう問題ではない。

 メリルは少しだけ自分へ言い聞かせた。

「今夜は?」

「二十時以降でしたら、予定はございません」

「なら空けて」

「何かございましたか?」

「就任祝いしましょう」

 ユリウスの目が僅かに開く。

「……自分の、でしょうか」

「他に誰が隊長になったのよ」

「ありがとうございます」

「私室に来て。あまり堅苦しいものじゃないから」

「承知いたしました」

「……二人でね」

 一応、付け加える。

 ユリウスは一瞬だけ考えた。

「個別にお言葉をいただけるということですね」

「…………そうね」

 違う。

 いや、間違ってはいない。

 そこまで説明しなければならないのか。

 ユリウスは何も疑わず、一礼して去っていった。

 その背中を見ながら、メリルは小さく息を吐く。

「……よし」

 昨日リンレイから聞いた言葉を思い出す。

 外堀。

 二人きり。

 距離。

 そこから先は、自分で考える。

 ライレイのように振る舞えるとは到底思えない。

 あそこまで真っ直ぐになれるほど、自分は器用でもない。

 それでも。

 何もしなければ、ユリウスは一生「警護ですので」で済ませる。

 それだけは確信があった。

*

 二十時を少し過ぎた頃。

 ユリウスは約束通りメリルの私室を訪れた。

「失礼いたします」

「どうぞ」

 入った瞬間、いつもと少し違うことには気づいた。

 大きな食卓ではなく、暖炉の前に小さな卓が用意されている。

 軽い食事。

 二人分の杯。

 果実酒。

 メリルも夜会のような正装ではなく、柔らかな青灰色の室内着だった。

 肩の力を抜いた装いなのに、普段の稽古着よりずっと大人びて見える。

 亜麻色の髪も半分だけ結い上げ、残りを肩へ流していた。

 ユリウスは一瞬だけ視線を止めた。

 すぐに逸らす。

 王女が私室で寛いでいるのだから、宮廷行事と装いが違うのは当然だ。

 そう結論づけた。

「座って」

「はい」

 ユリウスは向かいの椅子へ腰を下ろした。

「そんなに固くならなくていいわよ。今日は仕事の話じゃないから」

「承知しました」

「……本当に分かってる?」

「就任祝いと伺っております」

「ならいいわ」

 メリルは自分で果実酒を注いだ。

 ユリウスの杯にも注ぐ。

「隊長就任、おめでとう」

「ありがとうございます」

 二人で杯を合わせる。

 薄い果実の香りが立つ。

 メリルは一口だけ飲んだ。

「本当に、よかった」

「殿下?」

「あなたが出世するの、ずっと待ってたんだからね」

 ユリウスが僅かに目を見開いた。

 予想していなかったのだろう。

 すぐに姿勢を正す。

「メリル王女殿下にそう言っていただけて、光栄です」

「……それだけ?」

「はい?」

「まあ、いいわ」

 やっぱりこうなる。

 メリルはもう一口飲んだ。

「昔から、あなたはちゃんと仕事ができたでしょう」

「恐縮です」

「そういう返事が欲しいんじゃないの」

 思わず笑ってしまう。

「私は見てた、って言ってるの」

 ユリウスが黙った。

 王族が警護役の働きを見ている。

 隊長へ昇る人間としては、これ以上ない評価だった。

 ユリウスはそう受け取った。

「誰かが見ている時だけ頑張る人じゃないでしょう。誰も見てなくても同じことをする。困っている人がいたら先に気づくし、自分の手柄にならなくても放っておかない」

「……」

「なのに、自分から何も言わないから」

「言う必要もございませんので」

「そういうところよ」

 メリルは少しだけ眉を下げた。

「だから、そのうち絶対に上へ行くと思ってた」

 ユリウスは静かに聞いている。

「やっとね」

 メリルが笑う。

「やっと、みんながあなたを見るようになった」

 しばらく返事がなかった。

 いつもなら礼を言って終わるところだ。

 けれど今日は少し違った。

「……ありがとうございます」

 声が僅かに低い。

「殿下にそう言っていただけるとは、思っておりませんでした」

「どうして?」

「自分の仕事をそこまでご覧になっているとは」

「見てるわよ」

 即答した。

 ユリウスの灰色の瞳が、少しだけ揺れる。

 メリルはその変化を見逃さなかった。

「それに」

 一度、息を整える。

「能力を買って期待しているから、だけじゃないわ」

「ほかには何でしょう?」

「……なんだと思う?」

 かなり頑張った。

 メリルとしては。

 ユリウスは真剣に考え始めた。

 仕事上の評価ではない。

 ならば、長年警護を務めてきたことへの信頼だろうか。

 それ以外の可能性が、そもそも思考の候補に上がらない。

 王女メリル・スピネリア。

 王位継承権を持つ王家の娘。

 自分は東部辺境伯家の三男で、王室騎士。

 日々、彼女のもっとも近くへ立つことを許されているのは、身分が近いからではない。

 剣を持った警護役だからだ。

 ユリウスにとって、その線引きはあまりにも当然だった。

「長く王女殿下の警護を務めておりますので、信頼いただいている、ということでしょうか」

「……間違ってはいないわ」

「では」

「でも、それだけでもない」

 ユリウスはさらに考える。

「難しいですね」

「そうね。あなたには難しいみたい」

 メリルは苦笑した。

「じゃあ、ヒントをあげる」

「ヒント?」

 立ち上がる。

 ユリウスの前まで歩く。

「少しじっとして」

「はい」

 黒い上着の襟元が僅かにずれていた。

 メリルはそこへ手を伸ばす。

「東部から帰ってきて、すぐ仕事ばかりしてるからよ」

 襟を整える。

「申し訳ございません」

「謝ってほしいわけじゃないの」

 少しだけ乱れていた前髪にも触れる。

 指で整えて。

 そのまま、ほんの一度。

 頭を撫でた。

 ユリウスの身体が固まった。

「……殿下?」

「何よ」

「いえ」

 なぜ頭を撫でられたのか。

 労い。

 おそらく、それだろう。

「子供扱いしてるわけじゃないわよ」

「分かっております」

 本当に分かっているのか。

 灰色の瞳が珍しく落ち着かない。

 メリルの胸も、同じくらい落ち着いていなかった。

 それでも。

 ここまで来た。

 引きたくない。

「じゃあ、もうひとつヒント」

「はい」

 メリルは一度だけ息を吸った。

 そして。

 ユリウスの膝へ腰を下ろした。

「……」

 ユリウスが完全に停止した。

 膝の上に、柔らかな重みが加わる。

 亜麻色の髪が肩へ触れた。

 果実酒とは違う、メリルが普段使う淡い花の香りが近い。

 近い。

 あまりにも。

 警護中に身体を支えたことはある。

 落馬しかけた時に腰を抱いたことも。

 稽古で手を取ることもある。

 けれど、これはそのどれにも当てはまらない。

 そこまで考えて。

 ユリウスの思考は止まった。

「……殿下?」

 ようやく出た声は、いつもより少し低かった。

 メリルも平気ではない。

 心臓が痛いくらい鳴っている。

 それでも、きちんと言った。

「嫌なら、おろしてくれていいのよ?」

 ユリウスは動かなかった。

 腕を掴むことも。

 押し返すことも。

 立ち上がることも。

 何をすることが正解なのか分からない。

 ただ一つ分かるのは。

 降りていただきたいとは、思わなかった。

 その事実だけだった。

 メリルは少し待った。

「……おろさないのね」

「……はい」

 返事が出た。

 それだけで、少し勇気が湧いた。

「じゃあ、もうひとつヒント」

「まだあるのですか」

「あるわよ」

 ここまでやって、まだ分からない方がおかしい。

 でも。

 きっとユリウスなら分からない。

 メリルは数秒迷った。

 それから片手を伸ばす。

「目、瞑ってて」

「なぜでしょう」

「いいから」

 手のひらで、ユリウスの目元を覆う。

 睫毛が手の内側へ触れた。

 ユリウスは言われた通り、目を閉じた。

 メリルは彼の顔を見る。

 いつも自分を見ている淡い灰色の目が隠れるだけで、急に知らない男の人のように見えた。

 通った鼻筋。

 薄い唇。

 いつも静かな顔。

(無理かも)

 今さら思う。

 けれど。

 ここで逃げたら、一生言えない気がした。

 メリルは顔を近づけた。

 ほんの短く。

 唇を重ねる。

 触れて。

 すぐに離れた。

 ユリウスの目が開く。

 完全に何も考えられていない顔だった。

 王女に口づけられた。

 その事実だけが頭の中にある。

 なぜ。

 何のために。

 そこから先へ思考が進まない。

 メリルが自分を婚姻相手として見ている、という一番単純な答えだけが、最初から選択肢に存在していなかった。

(やった)

 そう思った瞬間。

 ユリウスの腕が反射的に動いた。

 膝の上で身体が僅かに傾いたメリルの腰を支える。

「ひゃっ」

 思わず声が出た。

 腰を抱かれた感触に、身体がびくりと跳ねる。

「……ユリウス」

「申し訳――」

「離さないでいて」

 言った。

 自分で言ってから顔が熱くなる。

 ユリウスの手は腰に残ったまま。

 メリルも膝から降りない。

 静かだった。

 暖炉の薪が弾ける音だけが響く。

 互いの呼吸が分かるほど近い。

 ユリウスの視線が、初めて逃げた。

 頬が少し赤い。

 メリルはそれを見て、ようやく思う。

(……意識した)

 その時。

 コンコン。

 二人とも止まった。

「ユリウス隊長、失礼いたします。騎士団長より至急――」

 沈黙。

「隊長?」

 メリルが目を閉じた。

 最悪のタイミングである。

 ユリウスがようやく我に返り、そっとメリルを降ろした。

 腰から手が離れる。

 それが少し惜しいと思った自分に、さらに腹が立った。

「……失礼いたします」

「ええ」

 ユリウスが扉へ向かう。

 メリルは杯を取り、何でもない顔をしようとした。

 無理だった。

 顔が熱い。

 扉へ手を掛けたユリウスが止まる。

「殿下」

「……何よ」

 振り向かないまま、ユリウスが言った。

「先ほどの“ヒント”ですが」

 メリルの指が杯の脚を強く握る。

「明日、続きを伺います」

 扉が開いた。

 閉じた。

「…………」

 一人になった。

 メリルはしばらく動かなかった。

 やがて両手で顔を覆う。

「……何なのよ」

 意識させたかった。

 確かにそう思った。

 でも。

(私の方が死にそうじゃない)

*

「隊長」

 廊下では、若い騎士が書類を持って待っていた。

「何だ」

「いえ」

「用件を」

「騎士団長がお呼びです。新部隊の人選について確認があると」

「分かった」

 ユリウスは歩き出す。

 部下もその横へ並ぶ。

 二十歩ほど進んだところで。

「隊長」

「何だ」

「お顔が赤いですが」

「暖炉が近かった」

「王女殿下のお部屋の?」

「ああ」

「そうですか」

「何だ」

「いえ」

 部下はそれ以上聞かなかった。

 ただ。

 隊長の右手が、先ほどから妙に落ち着かない。

 何度か開いては閉じている。

 何かの感触を確かめるように。

「……隊長」

「まだ何かあるのか」

「ありません」

「なら黙って歩け」

「はい」

 いつもより声が少しだけ低かった。

 その夜。

 ユリウスは結局、ほとんど眠れなかった。

 王女が自分の膝へ乗った。

 口づけをした。

 腰へ触れても、離さないでと言われた。

 好意。

 そこまでは、さすがに理解できる。

 問題は、その先だった。

 王女が辺境伯家の三男である自分と正式に婚姻する。

 それは考えなかった。

 考える前に、あり得ないものとして切り捨てていた。

 なら。

 王女が一人の男として自分を望んでいるとして。

 婚姻ではないのなら。

 残る答えは何なのか。

 ユリウスは夜半まで真剣に考え続けた。

 そして。

 見事に、間違えた。

*

 翌日の午後。

 メリルとユリウスは王宮西棟の回廊を歩いていた。

 新部隊設立に伴い、メリルの警護予定を確認するためである。

 少なくとも、表向きは。

 メリルは落ち着かなかった。

 昨日のことを思い出すたび、唇が妙に意識される。

 ユリウスはいつも通りに見えた。

 それも腹立たしい。

「殿下」

「何?」

 来た。

「昨日の件ですが」

「……ええ」

 メリルは覚悟した。

 とうとう。

 さすがに。

 あれだけやれば。

 ユリウスが足を止めた。

 メリルも止まる。

 淡い灰色の瞳が、真剣にこちらを見る。

「殿下は、自分を愛人にされたいのでしょうか」

「はあ?!」

 声が回廊へ響いた。

 遠くの侍女が驚いて振り返る。

「わたしが?! なんで?!」

「違うのでしょうか」

「どう考えたらそうなるのよ!」

 ユリウスはかなり真面目だった。

「昨夜から考えました」

「考えない方がよかったんじゃない?!」

「自分は東部辺境伯家の三男です」

「知ってるわよ!」

「家督を継ぐ立場でもございません。権力にもさほど興味がありません」

「それが何よ」

「王女殿下が自分を個人的に好いてくださっていることは、昨日ようやく理解いたしました」

 メリルの顔が赤くなる。

「だったら!」

「ですが、婚姻相手として自分をお考えになるとは思いませんでしたので」

 メリルが止まった。

 ユリウスは真剣な顔のまま続ける。

「ですので、婚姻とは別に、個人的に自分をおそばへ置かれたいのかと」

 メリルは絶句した。

 昨日。

 あれだけ。

 頑張って。

 キスまでして。

 出てきた答えがこれ。

「……あなた、昨日何を考えて帰ったの?」

「かなり真剣に」

「それは聞けば分かるわよ!」

「では、どういった意味なのでしょう」

 もう嫌だ。

 全部言う。

「そんなの関係ないわよ!」

「何がでしょう」

「三男だとか、家督だとか、権力だとか!」

 メリルはユリウスを睨んだ。

「あなたが隊長になるまで、私が何件縁談を断ったと思っているの?」

 ユリウスが止まった。

「……自分が、隊長になるまで?」

「そうよ!」

 灰色の瞳が僅かに見開かれる。

 ユリウスの中で、何かが繋がった。

 東部へ向かう途中。

 リュシアンから聞かされた七件目の縁談。

『なぜ、お断りに?』

『お前から聞いてみるのはどうだ?』

 昨夜。

『あなたが出世するの、ずっと待ってたんだからね』

『能力を買って期待しているから、だけじゃないわ』

 膝の上の重み。

 唇。

 腰に触れた自分の手。

 そして。

 これまでのこと。

 髪を結び直すたびに妙に機嫌がよかったこと。

 遠乗りの警護へ自分を指定することが多かったこと。

 見合い相手の話をした日は、決まって稽古で剣筋が荒くなったこと。

 全部知っていた。

 全部見ていた。

 なのに、理由だけ考えたことがなかった。

「……そういう」

「そういうことよ!」

 メリルの顔はもう真っ赤だった。

「何でそこまで言わせるのよ!」

「申し訳ございません」

「謝らないで!」

「はい」

「返事だけしないで!」

「……はい」

 一度黙る。

 ユリウスはまだ驚いている。

 それでも、ようやく理解した。

 メリルが縁談を断っていた理由。

 自分の出世を喜んだ理由。

 昨日の口づけ。

 そして。

 自分が拒まなかった理由も。

 ユリウスはゆっくり息を吐いた。

「殿下」

「何よ」

「確認してもよろしいですか」

「今さら何を」

「自分が、正式に殿下へ婚姻を申し込んでもよい、という意味でしょうか」

 メリルが一瞬黙る。

 ここまで言わせておいて。

「……そうよ」

「承知いたしました」

 ユリウスが深く頭を下げた。

「早く縁談申し込みなさいよ!」

「はい。急ぎます」

「…………」

 今度はメリルが止まった。

「え?」

「本日中に父へ連絡いたします」

「本日中?」

「まず東部辺境伯家から国王陛下へ正式な申し入れを行う必要がございますので」

「ちょっと待って」

「遅いでしょうか」

「そうじゃなくて」

「では、何か問題が?」

 メリルは昨日までの自分を思い出した。

 さっさと既成事実を作ればいい。

 外堀を埋めればいい。

 早く縁談を申し込め。

 全部、自分が言った。

 ところがユリウスは、理解した瞬間から速かった。

「……心の準備が」

「殿下?」

「何でもない!」

「ですが」

「早く申し込みなさい!」

「はい」

 ユリウスが頷く。

 それから二人は再び歩き出した。

 数歩。

 メリルは横目でユリウスを見る。

 いつもの無表情。

 けれど。

 耳が少し赤い。

 それだけで、妙に嬉しくなる。

「ユリウス」

「はい」

「昨日の続き」

 足が止まる。

 メリルは少しだけ笑った。

「縁談を申し込んでからね」

 ユリウスが珍しく、完全に言葉を失った。

 今度はメリルの方が先に歩き出す。

 背後から足音が追ってくる。

 ようやく。

 本当にようやく。

 待っていた人が、こちらへ向かって歩き始めた。


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