第四十七話 守りたい香り
スピネリア王国の離宮で、リンレイは窓辺に立っていた。細く開けた窓から吹き込む冷たい風が、長い赤褐色の髪を束ねた毛先をさらさらと揺らしている。机の上には書き上げたばかりの小さな紙片があり、彼女はそれを細く巻くと、窓枠に留まっている鷹の脚へ慣れた手つきで括りつけた。
『こちらでは山脈に洞窟が見つかり、シャンに続いている可能性があるそうです。現在、調査が進められています。兄様はお変わりないですか?』
最後の一文を思い返し、金色の瞳をわずかに細める。兄が「変わりない」と返してくるとは、リンレイ自身あまり思っていなかった。
「お願いね」
腕を上げると、鷹は大きく翼を広げた。冬の澄んだ空へ舞い上がった黒い影は、やがて東の山脈の向こうへと消えていった。
*
「変わり、あるんだよなあ。残念ながら」
数日後。シャン王宮の執務室で妹からの文を読み終えたライレイは、長椅子の背へだらりと身体を預けた。
陽光を受けた赤褐色の髪は、普段より明るく見える。精悍な顔立ちに浮かべた笑みだけを見れば、いつもの気楽な王太子そのものだったが、金色の瞳の奥には、ここ数日の面倒事に対する明らかな倦怠が滲んでいた。
「ねえ、ユエ?」
声を掛けられたユエは、机の脇で書類を整理していた手を止めた。艶のある黒髪を低い位置でまとめ、深い藍色の官服を隙なく着こなした姿は、王太子の婚約者というより有能な官吏にしか見えない。暗赤色の瞳もいつも通り静かだったが、答えるまでにほんのわずかな間があった。
「そうですね。寝所に見知らぬ侍女や女官の訪問が続いておりますから」
「そうなんだよねえ」
ライレイは手紙を卓上へ置いた。
「しかも、みんな道を間違えるのが夜なんだよ。昼間は間違えないのに不思議だね」
「夜は暗うございますから」
「ユエまでそういうこと言う?」
「申し訳ございません」
まったく申し訳なさそうではなかった。
執務室には文官が数人控えている。皆が一様に視線を文書へ落としているのを確認したライレイは、わざとらしくユエの方へ身を乗り出した。
「今日はこのあと、一緒に湯浴みして、そのまま寝ようよー」
筆の動きが二本止まった。
ユエは周囲を一瞥したあと、何事もなかったように書類を重ねる。
「ここは職場です。皆様、気まずそうでございます」
「聞こえないふりしてくれてるから平気」
「殿下がお気になさらないだけかと」
「じゃあユエは嫌?」
「その確認もここでする必要はございません」
否定されなかったことに満足したのか、ライレイは機嫌よく笑った。
*
夜の王太子宮は、昼間とは別の静けさに包まれる。
浴室には香木ではなく、ユエが選んだ刺激の少ない薬草だけが使われていた。広い石造りの浴槽から立つ白い湯気が燭台の灯をぼかし、水面には二人の影がゆっくりと揺れている。
「やっぱりユエの身体って綺麗だよね」
向かいにいたユエの眉が、ほんの少し寄った。
長い黒髪は濡れないよう高くまとめられ、いつも衣服に隠されている細い首筋が露わになっている。湯気に温められた白い肌には淡く朱が差し、冷静な印象の強い暗赤色の瞳も、今は幾分柔らかく見えた。
「無駄がないっていうか。細いのに、ちゃんと動ける身体してる」
「……貧相なのでは」
「それは言わない約束でしょー」
ユエは一瞬だけライレイを見て、それから思い出したように目を伏せた。
「……そうでしたね」
以前、慰めだと思わないと自分から口にした。今さら褒め言葉のたびに疑う方が失礼なのだろう。
ライレイは満足そうに口角を上げた。
「やっと覚えてくれた」
「忘れていたわけではございません」
「じゃあ、膝乗って」
「話の繋がりが見えませんが」
「俺には見えてるよ」
ライレイが当然のように両腕を広げる。
ユエはしばらく無言でその姿を眺めていたが、結局は湯を揺らしながら近づき、その膝へ横向きに腰を下ろした。すぐ腰へ腕が回ってくる。
「いい年をした女が、このようなことをしてよいものでしょうか」
「いいんだよ。俺にとってはただの可愛い婚約者なんだから」
「ただの、ではございません」
「じゃあ、ものすごく可愛い婚約者」
「そういう意味では」
「知ってる」
軽く笑われ、ユエは呆れたように息を吐いた。それでも離れる気配はない。片手をライレイの胸元へ添え、そのまま少し身体を預けると、腰を抱く腕が満足そうに深くなった。
「ユエ」
「はい」
「好き」
「存じております」
「そこは『わたくしも』って言うところじゃない?」
「毎回申し上げなければなりませんか」
「何回でも聞きたい」
「非常に欲張りでございますね」
「好きな女の言葉なら、欲張りにもなるよ」
あまりにも迷いなく言うので、ユエはわずかに視線を逸らした。湯気のせいだけではない赤みが頬に広がる。
「……わたくしも、好きでございます」
「もう一回」
「お断りいたします」
「今の流れで?」
「一日一回で十分かと」
「少ないなあ」
声音は不満そうなのに、金色の瞳は嬉しそうに細められている。その表情を見ると、本気で困らせたいわけではないことくらい、もうユエにも分かる。
「殿下」
「なに?」
「熱いです」
「じゃあ寝台に行こうか」
「なぜそうなるのでしょう」
「涼しいよ?」
「絶対にそれだけではございませんね」
「ユエ、俺のこと分かってきたね」
「不本意ながら」
そう答えながらも、ユエはすぐには膝を下りなかった。
*
湯浴みを終えたあと、二人は寝所へ移った。
ユエは薄い寝衣の上から羽織を重ね、濡れた黒髪を背へ流している。化粧を落とした顔は日中より幼く見えるものの、伏せた暗赤色の瞳には彼女特有の静かな理性が残っていた。
対するライレイは寝台へ腰を下ろし、襟元を寛げたままその姿を眺めている。
「ユエ」
「何でしょう」
先ほどまでの気の抜けた声音が消えた。
金色の瞳が戸口を一瞬だけ確認したのを、ユエは見逃さなかった。
「俺の上に乗って」
「……対策でございますか」
「たぶん、そろそろ来る」
何が、とは聞かなかった。
ユエは迷うことなく寝台へ膝をつき、仰向けになったライレイの腰を跨いだ。細身の身体とはいえ、身のこなしに淀みはない。黒髪が肩から滑り落ち、白い寝衣の襟元へさらりとかかる。
ライレイはその腰に片手を添えながら、面白そうに笑った。
「似合うね」
「何がでしょう」
「俺を押し倒してるユエ」
「必要があれば可能ではございます」
「知ってる。俺より強いとは思ってないけど」
「試してみますか?」
「今は別の意味に聞こえるからやめよう」
そのときだった。
扉の外から控えめな声が響く。
「失礼いたします」
ライレイの表情から笑みが薄れた。
「なに?」
「殿下のお身体のお世話をしに参りました」
返事を待たず、扉がゆっくりと開いた。
顔を覗かせた若い女官は、一歩中へ入ったところで完全に動きを止めた。
寝台では王太子が仰向けになり、その上に婚約者であるユエが跨っている。ユエの長い黒髪はほどかれ、ライレイの寝衣も襟元が大きく開いていた。状況だけを見れば、説明の必要などない。
ライレイはユエの腰へ腕を回したまま、実に自然な声で告げた。
「お世話なら、今まさにしてもらってるところなんだ」
「さ、左様でございましたか。失礼いたしました」
女官の頬から見る間に血の気が引く。
「それと」
ライレイが呼び止めると、女官の肩が揺れた。
「第四王子の宮は北だよ」
一瞬だった。
それまで作られていた女官の表情に、明確な怯えが走った。
「……失礼、いたしました」
今度こそ深々と頭を下げ、女官は逃げるように去っていく。扉が閉じるまで見届けたユエは、自分を抱く腕の中で静かに息を吐いた。
「第四王妃様の差し金でございますか」
「たぶんね。確証があるまでは知らないふりしてあげる」
「お優しいことで」
「王族の女を勝手に殺すと面倒だから」
「それを優しいとは申しません」
ライレイは悪びれもせず笑った。
「これの対策のためでございましたか」
「しつこいからねえ」
「他に方法はないのですか?」
「あるよ」
「どのような?」
「殺す」
「……困りましたね」
「でしょ? だからこっちの方が平和」
ユエはしばらく考え、まだ自分がライレイの上に跨ったままであることに気づいた。
「もう十分かと存じます」
「えー」
「目的は達成されたのでしょう」
「俺は役得だけどね。続きは? してくれないの?」
いたずらめいた笑顔を浮かべているものの、腰へ添えられた手には無理に引き留める力はない。
ユエはその手を一度見てから、ライレイへ視線を戻した。
「そういえば」
「うん?」
「今日のご褒美が、まだでしたね」
ライレイの眉がわずかに上がる。
ユエは身を屈め、その唇へ自分から口付けた。
最初は軽く触れるだけのつもりだった。それでもライレイが追ってこないため、ほんの少し長く重ねる。唇を離したとき、普段ならすぐに冗談を口にする男が珍しく黙っていた。
「……ユエ」
「何でしょう」
「今の、好きだな。もっと欲しい」
「左様でございますか」
ライレイの指が寝衣の紐へ触れた。するりと美しい絹の滑る音がし、白い布がわずかに緩む。
「今日頑張った分のご褒美がほしいな」
「随分と都合のよい制度でございますね」
「働いた人には報酬が必要でしょ?」
「王太子殿下には相応の俸禄が支払われております」
「それは国から。これは婚約者から」
「別会計なのですね」
「もちろん」
あまりにも当然のように言うので、ユエの口元にごく薄い笑みが浮かんだ。
「ライレイ様」
「ん?」
呼んでおきながら、それ以上は言葉にしなかった。
ユエはさらに身を屈め、開いた寝衣から覗く胸元へ唇を触れさせる。短い口付けではなく、少しだけ時間を置いてから顔を上げると、白い肌に小さな赤い跡が残っていた。
ライレイが珍しく目を瞬く。
「……ユエ?」
「少しは女避けの効果がありますでしょうか」
金色の瞳がゆっくり細められた。
「ひとつじゃ足りないかな」
「欲張りでございますね」
「さっきも言われた」
「では、あと二つほど」
「三つでもいいよ」
「増やさないでくださいませ」
「見えるところにも欲しいな」
「公務に差し支えます」
「じゃあ見えないところ」
「もっと駄目です」
「なんで?」
「調子に乗られるからです」
「もう乗ってる」
「存じております」
ユエがもう一度ゆっくりと身体を寄せた。黒髪が肩からこぼれ、ライレイの胸へ柔らかく触れる。急がず距離を縮めるたび、余裕のある笑みを浮かべていた男の呼吸が少しずつ深くなる。
その変化を感じ取ったのか、ユエの暗赤色の瞳に微かな悪戯心が宿った。
「ライレイ様は、じっくりされるのがお好きですものね?」
「……誰に教わったの、それ」
「殿下ご自身にございます」
「俺?」
「急がず、ゆっくり、と何度も」
「それ覚えてたんだ」
「わたくし、記憶力は悪くありませんので」
「そういうところで発揮する?」
「お嫌でしたか?」
「まさか」
答えは早かった。
ライレイは苦笑しながら、ユエの頬へ落ちた一房の黒髪を指先で耳の後ろへ払う。頬へ触れた手は、いつもの戯れのような軽さではなく、ひどく丁寧だった。
「むしろ、もう少し続けて」
「お願いなさるのですね」
「ユエにはね」
「王太子殿下ともあろう方が」
「ここには王太子はいないよ」
「では、どなたがいらっしゃるのでしょう」
「ユエの婚約者」
ユエの動きがわずかに止まった。
「……ずるいですね」
「なにが?」
「そう仰れば、わたくしが断らないとご存じなのでしょう」
「知ってる」
ライレイは、満足そうではなく、どこか嬉しそうに笑った。
「最近分かってきたから」
「何がでしょう」
「ユエも俺に甘い」
「……否定はいたしません」
「それ、すごく嬉しい」
今度はライレイの方から身を起こす。けれど唇が重なる直前で止まり、至近距離からユエの顔を覗き込んだ。
普段は鋭い金色の瞳が、今はひどく柔らかい。
「もう一回、好きって言って」
「先ほど一日一回と申し上げました」
「ご褒美」
「それも既に差し上げました」
「足りない」
「本当に欲張りでございますね」
「うん」
ユエは困ったように息を吐いた。
以前なら、これほど真っ直ぐに好意を向けられるたび、どう返せばよいのか分からなかった。何か見返りを求められているのではないか、正しい反応を返さなければならないのではないかと、無意識に考えてしまっていた。
今は少し違う。
この男は欲しいものを欲しいと言う。ただそれだけなのだ。
「……好きでございます、ライレイ様」
ユエはそう囁き、自分から残りの距離をなくした。
触れるだけの口付けをひとつ。そのまま離れようとすると、今度はライレイの腕が背へ回る。
「これでよろしいですか?」
「全然」
「では、もう知りません」
「それも好き」
「何を申し上げても喜ばれるのですね」
「ユエが言うならね」
ユエはとうとう小さく笑った。
愛されることにも、少しずつ慣れてきたらしい。
それならば、自分から愛することにも慣れてみてもいいのかもしれない。
「では、もう一つだけ」
「跡?」
「ご褒美です」
「……ほんと可愛いね、ユエ」
「それはもう結構でございます」
答えながらも、ユエの口元から笑みは消えなかった。
*
翌朝、ライレイの前には二通の報告書が置かれていた。
一通は、第四王妃リジェンの周辺から王太子宮へ侍女や女官が頻繁に送り込まれているというもの。昨夜訪ねてきた女官も、その家門と繋がりのある者だった。
もう一通には、第七王子ルオシンの私兵が最近になって妙な動きを見せていると記されている。人数は二十前後。表向きは護衛訓練だが、王都の内側で行うには不自然な規模だった。
「面倒だ」
机に頬杖をついたライレイは、昨日までの甘い空気などどこにも残していなかった。
王太子として仕事をするときの顔は、よく研がれた刃に似ている。笑っていても目が笑わないことはあるが、今はその笑みすらない。金色の瞳だけが報告書の文字を追い、頭の中でそれぞれの動きを組み上げていく。
そこへ扉が叩かれた。
「ライレイ、僕だよ」
「おー、第五の」
扉を開けて入ってきた青年が、露骨に眉を寄せた。
「名前で呼んでよ。君を王太子として認めている数少ない兄弟なんだよ」
第五王子セイランは、ライレイより柔らかな顔立ちをしている。母譲りの穏やかな目元のせいか一見すると温厚に見えるが、今日ばかりは薄い唇を不満げに結んでいた。
「ありがとねー。でも兄弟で差別すると言われると困るし」
「君はそういうところだけ妙に律儀だね」
「それで、何?」
「言っておきたいことがあってね」
「聞くかどうか分かんないけど、どうぞ」
セイランは一度息を整えた。
「第四王妃様が進めている側妃候補の件。僕は関わっていない」
「だろうね」
「ただし」
そこで声音が硬くなる。
「個人的には、側妃を迎えること自体には賛成している」
ライレイの表情が消えた。
「なんで? 俺、側妃は取らない主義なんだよね」
「知ってる。でもレン家の者が王妃になるのは、僕は気が進まない」
室内の空気が変わった。
開いた扉の少し先で、ユエの足が止まる。
書類を届けに来ただけだった。中へ入ろうとした瞬間に自分の姓が聞こえ、声を掛ける機会を失った。
「ユエ本人を見て言ってる?」
「本人だけの問題じゃない。王妃になれば、その背後には必ず家がつく。レン家は毒と諜報を扱ってきた一族だ。僕は、あの家を信用できない」
「俺はしてるよ」
「君がユエ殿を信用していることは知ってる。でも僕はレン家を信用していない」
「じゃあ、それは俺たちの意見が違うだけだね」
ライレイの声は軽かった。
それだけに、譲る気が一切ないことが分かる。
「俺の妃はユエだけ。側妃もいらない。これは変わらないよ」
「ライレイ」
「セイランが俺を王太子として認めてくれてることには感謝してる。でも妃を選ぶのは俺だ」
セイランはしばらく黙っていたが、やがて諦めたように息を吐いた。
「……分かった。今日はそれを言いに来ただけだから」
「うん。ありがと」
ユエは音を立てないよう一歩退いた。
胸の奥に沈んだものが何なのか、自分でもすぐには分からなかった。
*
午後になる頃には、ユエの表情はいつも通りに戻っていた。
少なくとも、ライレイにはそう見せているつもりだった。
「ユエ、今日も一緒に――」
「殿下」
言葉を遮ったユエは、整えた衣の前で両手を重ねる。
「本日は実家にて所用がございますので、これより戻らせていただきます」
「そっか」
ライレイはそれ以上尋ねなかった。
ただ、出ていこうとするユエを呼び止める。
「ユエ」
「はい」
「気をつけてね」
「御意にございます」
「あと」
金色の瞳が、まっすぐユエを捉えた。
「何があっても、絶対俺のところに帰ってきて」
ユエは一瞬だけ目を見開き、やがていつもの静かな表情へ戻った。
「承知いたしました」
扉が閉まる。
その向こうから足音が遠ざかっていくのを聞きながら、ライレイは机へ肘をついた。
本音を言えば、行かせたくなかった。
第四王妃が動き、第七王子の私兵まで不自然な動きを始めている今、ユエを自分の目の届く場所へ置いておくのが一番安全だ。
そんなことを考えた自分自身に、少し笑えてくる。
昔は、守らなくていい女が欲しいと思っていた。
王太子という立場に就けば、命を狙われることも、人質を取られることもある。だから自分で自分の身を守れ、毒も刃も見抜ける女を選んだ。
ユエは理想通りだった。
毒を知り、戦え、判断も早く、自分がいなくても生きていける。
それなのに今では、その女を誰より守りたいと思っている。
「矛盾してるなあ」
小さく呟いた声は、誰にも聞かれなかった。
*
レン家へ向かう道を、ユエは一人で歩いていた。
王都の大通りから一本外れると、人通りは急に少なくなる。高い塀の向こうから木々の葉擦れが聞こえ、夕方の風が黒髪を揺らした。
セイランの言葉が、何度も頭へ戻ってくる。
自分がライレイに認められていれば、それで十分だと思っていた。
彼が自分を選び、自分も彼を選んだ。それだけでいいのだと。
けれど王太子妃は、ただ一人の男に愛されていれば務まる立場ではない。
レン家の名を嫌う者もいる。毒と諜報に関わってきた一族を恐れる者もいる。ライレイの側に立つだけで、自分自身だけではなく、家そのものが政治の中心へ引き出されていく。
「……簡単ではございませんね」
独り言が、乾いた風に溶けた。
それでも戻るつもりはなかった。
ライレイに愛されることを知ってしまった。
自分も彼を愛していると知ってしまった。
ならば、その立場ごと引き受けるしかない。
そう考えながら角を曲がり、ユエは足を止めた。
道の先に人影がある。
一人ではない。
十人。
さらにその後ろにもいる。
ざっと数えただけで、二十人ほど。
中央に立っている男を認めた瞬間、ユエの暗赤色の瞳から迷いが消えた。
シャン王家特有の金色の瞳。端正ではあるものの、ライレイとは異なる険のある顔立ち。こちらを見るその目には、隠す気すらない敵意が滲んでいる。
第七王子、ルオシン。
「これはこれは」
ルオシンが薄く笑った。
「王太子殿下の未来の妃が、お一人とは」
ユエは返事をせず、袖の内側へ指を滑らせた。
毒針は十二本。
目の前にいる私兵は、およそ二十。
足りない。
それでも、表情は変えなかった。
「第七王子殿下」
静かな声だけが、人気のない道に響く。
「大勢で、何の御用でございましょう」
ルオシンの笑みが、ゆっくりと深くなった。




