↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
48/73

第四十八話 帰る場所の香り

 多い。

 ユエは走りながら肩越しに背後を確認した。追ってくる男は二十人近い。手にしているのは刀と槍ばかりで、弓を持つ者はいなかった。

(殺すつもりではない。拘束が目的のようですね)

 ならば、囲まれた時点で終わる。こちらは一人、相手は二十人だ。全力で逃げ続ければ一時的には距離を稼げても、体力を使い果たせばその先がない。王太子宮まで戻るための余力を残しながら、人数差を潰さなければならなかった。

(広い場所は不利。橋か細道へ退避して、一度に相手をする人数を減らす)

 夕闇の宮廷を、長い黒髪を翻して走る。背後では複数の足音が重なり、一定の距離を保ったまま追ってくる。焦りはある。それでも頭の中では、いつも通り冷静に王宮内の地形を辿っていた。

 第七王子ルオシン。ライレイを一方的に敵視している王子であり、今朝報告に上がっていた不穏な私兵の動きも、やはり彼のものだったらしい。

 そこで、数刻前のライレイの声が蘇った。

『何があっても、絶対俺のところに帰ってきて』

 ユエの足がわずかに速くなる。

(殿下は、分かっていたのでしょうか。だから毎日のように、泊まっていけと)

 第四王妃だけではなく、ルオシンの動きにも警戒していた。けれどライレイは、自分を閉じ込めるような真似はしなかった。

 あの人らしい、と今さら思う。

「……帰ったら、問い質しましょう」

 そのためにも、帰らなければならない。

 前方の木立が途切れ、宮廷庭園の池が見えた。月の昇り始めた空を映した水面の中央に、人が二人並べば余裕のなくなる細い石橋が架かっている。

(ここなら)

 ユエは橋の中央まで走ると踵を返した。

 息を整える暇はほとんどない。袖の内側へ指を滑らせ、細い毒針を一本取り出す。

 幼い頃から何度も繰り返してきた動作だ。狙いを定め、投げる。それだけなら、考える必要すらない。

 相手が二十人でなければの話ではあるが。

 最初の男が橋へ踏み込んだ瞬間、ユエの手首がしなった。月光を掠めた銀色の針が首筋へ刺さり、男は二歩進んだところで刀を取り落とした。

「毒だ!」

「致死性ではございません」

 二本目を指に挟みながら、ユエは淡々と答える。

「麻痺毒です。三日ほど身体が不自由になる程度ですので、ご安心くださいませ」

「安心できるか!」

 もっともな怒号が返ってきたが、それに構う必要はない。

 二本目、三本目、四本目。

(あと八本)

 橋の狭さが効いている。一度にこちらへ迫れる人数は二人程度。首筋、手首、腿。厚い衣に阻まれない場所を選んで打ち込む。

 五本目、六本目、七本目。

(あと五本)

 そこで追手の動きが変わった。

「お前、前へ出ろ!」

 後方から押し出されたのは、他より明らかに装備の粗末な兵だった。

 ユエの眉がわずかに寄る。

(気づきましたか。毒針が一人につき一本必要なことに)

 階級の低い者を盾にして、手持ちを使い切らせるつもりらしい。

「随分と仲間思いでございますね」

 槍の穂先を半身になってかわし、柄を掴んで軌道を逸らす。その陰から迫った男へ八本目を放った。

 九本目。

(あと三本)

 呼吸が速くなってきた。肺が熱い。走り続けた脚にも重さが出始めている。

 十本目、十一本目。そして最後の一本を放る。

 男が肩を押さえ、石橋の上へ崩れた。

 袖へ指を滑らせても、もう何も触れない。

「尽きましたね」

 残った兵たちが、それを聞いてじりじりと距離を詰めてくる。

 ユエは腰に差していた短剣を抜いた。毒と暗器がレン家の本領であり、正面から刃を交えることは専門ではない。それでも扱えないわけではなかった。

「せめて五人くらいまで減らして退却したいところですね」

 刀を受け流し、柄で一人の顎を打つ。よろめいた男の膝裏を蹴り、欄干へ叩きつけた。背後から伸びた腕を沈み込むようにかわし、振り向きざまに鳩尾へ肘を入れる。

 一人、二人。そこから急激に苦しくなった。

 短剣を握る右手が痺れ、呼吸は完全に上がっている。王太子宮まで退却するための体力を考えれば、すでにかなり厳しい。

(残り六人。あと一人だけでも)

 そう思った瞬間、槍の柄が手首を打った。

 短剣が弾かれ、乾いた音を立てながら石橋を滑っていく。拾うより先に背後から腕を取られ、反対側から肩まで押さえ込まれた。

 ユエは荒い呼吸の合間に、小さく息を吐いた。

「殿下の言うこと、たまには聞くべきでした」

*

 同じ頃、湯浴みを終えたライレイは、一人で寝台に寝転がっていた。

 赤褐色の髪はまだ少し濡れ、額へ無造作に落ちている。薄い寝衣の襟を寛げ、片腕を枕代わりにしながら、いつもユエがいるあたりへ目を向けた。

(ユエがいないと、広く感じるな)

 寝台の大きさなど変わっていない。それなのに、ここ数日で感覚の方が変わってしまったらしい。

 昨日はその場所にユエがいた。正確には、隣どころか自分の上にいた。

 思い出した途端、口元が緩んだ。

「リンレイに返事書かなくちゃ」

 妹から届いた手紙は、寝台脇の卓へ置いたままだ。

(なんて書こう。毎日ユエと一緒に寝てるよー、とか?)

 確実に呆れられるだろう。けれど嘘ではないのだから仕方がない、と考えるだけで、また笑みが零れる。

 その一方で、頭の片隅には別の面倒事もあった。

(今日も来るんだろうか。いい加減にしてほしいんだけどな)

 第四王妃の送り込んでくる女は、昨夜追い返したばかりだ。ユエを自分の上に乗せた状態で見せつけたのだから、普通なら多少は諦めてもいいはずだが、あれで退く相手とも思えない。

 コンコン、と扉が鳴った。

 ライレイの笑みが消える。

(来ちゃったか)

「なに? 人手ならいらないよ」

「第四王妃様より、書状でございます」

 ライレイは眉間に皺を寄せた。侍女なら追い返せる。しかし王妃名義の書状を無視すれば、それはそれで後が面倒だ。

「……分かった。受け取る」

 扉が開き、若い女が入ってきた。見覚えはない。両手には確かに封書がある。

「そこに置いて」

 女は止まらなかった。一歩、さらに一歩と寝台へ近づいてくる。

 金色の瞳が細くなった。

「早く渡して帰っ――」

 バシャッ、と冷たいものが顔から胸元へ浴びせられた。

「っ……!」

 反射的に息を止めたものの、間に合わなかった。

 甘い。異様なほど濃い花の匂いが、一瞬で鼻腔を満たす。

 視界が揺れた。頭がくらつき、心臓が急に速くなる。身体の内側から熱がせり上がり、皮膚の下を何かが這い回るような不快な感覚に襲われた。

(薬……)

 女が封書を放り出し、そのまま寝台へ膝を乗せてくる。

 ライレイは伸びてきた手首を掴んだ。

「触らないで」

「殿下……」

「聞こえなかった?」

 呼吸は乱れている。それでも金色の瞳だけは冷たかった。

 女がなおも身体を寄せようとする。

 ライレイは掴んだ手首へ力を込めた。

「これ以上は力加減できないよ」

 いつもの軽い調子は消えていた。

「次は殺すしかない。いいの?」

*

 ユエが完全に拘束された頃には、池の上まで月が昇っていた。

(さすがに二十人は厳しかったですね)

 十二人を毒針で麻痺させ、二人を近接戦で行動不能にした。残り六人。

 両腕を後ろから押さえられ、石橋の上へ膝をつかされている。右腕には鈍い痛みが走り、呼吸もまだ整わない。

(それに、第七王子本人へ手を出せないのが、かなりやりにくい)

 王族への傷害となれば、正当防衛だけで片づくとは限らない。

 その王族本人が、兵たちの間から歩いてきた。

「思ったより抵抗されて驚いたよ。本当に第八は、いいものばかり持っているな」

「わたくしは殿下のものではございません」

「お前の意思なんて関係ない。あいつばかり、いつもだ」

 ユエは視線だけを周囲へ走らせた。

 橋の中央は見晴らしがいい。遠くからなら、何か起きていることくらいは分かるはずだった。

(誰かが気づいたとして、助けに来るでしょうか)

 そこまで考えて、すぐに自分で否定する。

(いえ。王子同士の厄介事に首を突っ込む阿呆など、そうそうおりませんね)

「お前たち、もういい」

 ルオシンが兵たちへ顎をしゃくった。

「弱った女くらい、俺でも拘束できる。代われ」

 両腕を押さえていた力が緩む。

 ユエはすぐに身体を捻ろうとした。だが、疲労した身体は思ったほど速く動かなかった。

 肩を強く押され、背中が石橋へ叩きつけられる。

「っ……」

 肺から空気が抜けた。

 ルオシンが上から跨がり、片手だけでユエの両手首を頭上へ押さえ込む。

 力が強い。ライレイほどではないにしても、ルオシンも戦場を経験した王子だ。疲れ切った今のユエでは、純粋な腕力で勝つことは難しかった。

 空いた手が襟元を掴み、布を乱暴に引く。

 月光の下へ白い鎖骨が露わになる。陶磁器のような肌には、細い身体を縁取るように肋骨の影がうっすらと浮かんだ。

「第八のものにしては、随分貧相だな」

 ユエは息を乱しながらも、正面からルオシンを睨み返した。

「殿下は、よく褒めてくださいますのよ?」

 精一杯の虚勢だった。けれど声だけは震わせなかった。

 ルオシンの手が脚へ触れる。

「俺に汚されたら、あいつもお前を捨てるかな」

(嫌だ)

 相手の目的を理解したことよりも先だった。

 なぜ自分を狙ったのか。どこまで計画していたのか。ここからどう逃げるか。普段なら、まず情報を整理したはずだった。

 今は何一つ浮かばない。

(嫌)

 ただ、それだけだった。

 触られたくない。

 ライレイ以外には。

 ユエは掴まれていた脚を力任せに引き抜いた。

「なっ――」

 反応が一瞬遅れたルオシンの首へ脚を絡める。そのまま腰を捻り、一気に締め上げた。

「殿下!」

 離れていた私兵たちも、自分たちの王子が直接反撃を受けるとは思っていなかったらしい。一歩、出遅れた。

 ルオシンの身体から力が抜ける。

 ユエはすぐに脚を外し、その下から抜け出した。

(第七王子に手を出してしまいました)

 王族へ危害を加えた。レン家にも影響が出るかもしれない。

 普段なら、その先の処理まで自分で考えていただろう。

 今は一つしか浮かばなかった。

(殿下に責任を取っていただきましょう)

 乱れた衣も、ほどけた髪も直さない。残った力を振り絞って走り出す。

 ライレイなら、何とかしてくれる。

 そう思えることが、不思議なほど心強かった。

 一人ですべて背負わなくてもいい。帰れば、あの人がいる。

 それだけで、限界に近い脚がもう一度動いた。

*

 王太子宮へ辿り着いた頃には、ユエの呼吸は完全に乱れていた。

 黒髪はほどけ、衣の襟元も乱れたまま。手首には赤い痕が残り、膝には擦り傷ができている。

 それでも寝所へ向かう足は止めなかった。

 心のどこかで、少しだけ期待していた。

『だから泊まっていけって言ったじゃん』

 そう言って、呆れたように笑われる。それから抱きしめられる。

 自分はきっと「申し訳ございません」とでも返すのだろう。

 そんな光景を想像していた。

 扉を開くまでは。

 寝台の上に、女がいた。

 ライレイの上に跨り、身体を寄せている。

 その下でライレイは女の両手首を掴み、必死に距離を取ろうとしていた。赤褐色の髪は乱れ、頬は異様に赤い。普段なら余裕を失わない金色の瞳にも、苦しそうな熱が滲んでいる。

 その瞬間、ユエは初めて知った。

 頭に血が上る、という感覚を。

 視野が一気に狭くなる。焦点がうまく合わない。目の前だけが、本当に赤く染まったような気さえした。

「ライレイ様に触らないで!」

 自分がこれほど大きな声を出せることも知らなかった。

 身体が勝手に動いた。

 寝台へ駆け寄り、女の脇腹へ蹴りを叩き込む。

「きゃっ――」

 女の身体が寝台から弾き飛ばされ、部屋の端まで転がった。柱へ頭を打ちつける鈍い音が響き、そのまま床へ崩れ落ちる。

「ユエ?」

 ライレイの声で、視界が戻った。

 ユエは我に返り、すぐに寝台へ駆け寄る。

「殿下、ご無事ですか?」

「無事。たぶん」

 額には汗が浮かび、呼吸は速い。寝衣からは、普段この部屋にはない濃厚な甘い香りが漂っていた。

「これは……媚薬でしょうか」

「たぶんね。かけられたとき、少し吸い込んだみたい」

 ユエは衣についた液体へ顔を寄せ、慎重に香りを確かめる。指先へごくわずかに取り、舌先で性質を確かめた。

「致命的な毒ではございません。強い興奮作用と血流促進……かなり濃いですね」

「熱い」

 ライレイが眉を寄せ、寝衣の襟を引っ張った。

「とりあえず、服脱がせて」

「上衣のみです」

「そこは厳密なんだ」

「当然でございます」

 ユエは濡れた寝衣を脱がせ、乾いた布を肩へ掛けた。肌へ触れた指先に、普段より明らかに高い体温が伝わる。

「解毒剤を作ってまいりま――」

「いい」

 立ち上がろうとした手首を掴まれた。

 思ったより弱い力だった。

「今は、そばにいて」

 ユエは動きを止める。

「ですが、薬効を抑えるには」

「分かってる。でも今、一人にされる方が嫌だ」

 薬で頬は赤く、金色の瞳にも薄い霞がかかっている。それでも視線はまっすぐだった。

「……御意にございます」

 ユエが寝台へ腰を下ろすと、ライレイはその身体へ寄るように腕を伸ばした。

「暑い」

「はい」

「身体の中、ずっと落ち着かない」

「薬効です。ゆっくり呼吸してくださいませ」

「無理」

「努力なさってください」

「冷たいなあ」

「十分お優しくしております」

 いつもの調子に近い言葉が返ってきたことに、ユエは密かに安堵する。

「ユエ」

「はい」

「帰ってきた」

「はい」

「ちゃんと俺のところに帰ってきたね」

「殿下がお命じになりましたので」

「珍しく言うこと聞いた」

「たまには」

 弱々しく笑ったライレイが、そこでようやくユエの姿をまともに見た。

 ほどけた黒髪。乱れた襟元。赤く擦れた手首。傷のある膝。

 笑みが消える。

「ユエ」

「はい」

「誰にやられた?」

 熱に浮かされていた声が、一瞬で低くなった。

「第七王子殿下と、私兵二十名ほどにございます」

「二十?」

「十二名を毒針で、二名を体術で行動不能にしました。残り六名の時点で拘束されました」

「それで?」

 ユエは一瞬だけ黙った。

「第七王子殿下に押し倒されました」

 ライレイの表情が消えた。

「……何された?」

「衣を乱され、触れられました」

 金色の瞳が冷たく細まる。

「それで?」

「嫌でしたので、首を締めて気絶させました」

 数秒、沈黙が落ちた。

「王族へ手を出してしまいましたので、レン家へ影響が及ぶ可能性も――」

「ないよ」

 即答だった。

「俺がなくす」

「随分簡単に仰いますね」

「簡単だよ。二十人で襲って拘束して、自分で無理やり触ったんでしょ」

 ライレイは身体を起こそうとして、すぐに薬の熱に顔をしかめた。それでも声音だけは冷えている。

「それを止めたユエが悪いわけない」

「しかし」

「ここから先は俺の仕事」

 その言葉を聞いた瞬間、ユエの身体からふっと力が抜けた。

 一人で戦った。一人で逃げた。一人で判断し続けた。それでも、帰った後まで一人ですべて背負わなくていい。

「……少し、疲れました」

「うん」

「二十人は、多うございました」

「普通は一人でも多いからね」

「次は十五人程度でしたら」

「次を想定しないで」

 少し強く返され、ユエの口元に薄い笑みが浮かぶ。

「殿下」

「なに?」

「よく我慢なさいましたね」

「何を?」

 ユエは床の隅で気絶している女へ目を向ける。

「あの女性を。殺さなかったのでしょう?」

「かなり頑張った」

「そうですか」

「もっと褒めて」

「よく我慢なさいましたね」

「うん」

 ほんの少し嬉しそうな顔をするので、ユエはとうとう息を吐いた。

「少し横になりましょう。わたくしも、もう立っているのが億劫でございます」

「ユエも?」

「わたくしも二十人に追われたばかりなのですが」

「ああ、そうだった。ごめん」

「お忘れにならないでくださいませ」

 ユエは寝台の奥へ身体を滑らせ、そのまま仰向けになった。走り続けた脚を伸ばした途端、全身に溜まっていた疲労が一気に押し寄せ、深い息が漏れる。

 ライレイもその隣へ横になった。普段ならすぐに抱き寄せるところだろうが、今は自分の状態を分かっているらしく、わずかな距離を残したままユエの方を向いている。

「……遠い」

「十分お近くです」

「触ってもいい?」

「手だけでしたら」

「厳しいなあ」

「今の殿下には必要な制限です」

 差し出された手を、ユエは自分の手のひらへ重ねた。指を絡めるだけなら、熱に浮かされた身体でも加減を誤ることはない。

 ライレイはそれだけで満足したらしく、少しだけ目元を緩める。

「これ、いいね」

「そうですか」

「ユエも休めるし」

「最初からそうすべきでした」

「ごもっとも」

 横になったことで、ユエもようやく肩の力を抜いた。身体のあちこちが痛む。手首も、膝も、短剣を握り続けた右腕も重い。

「ライレイ様」

「ん?」

「殿下は、わたくしが狙われる可能性をご存じだったのですか」

「可能性だけね」

「だから毎晩泊まれと?」

「それもある」

「それも」

「ユエと一緒にいたかったのも本当」

「……やはり」

「そこ疑ってた?」

「いいえ」

 ユエは繋いだ手を見ながら、少しだけ目を伏せた。

「今日、分かりましたので」

「何が?」

「殿下がおられるところへ、帰りたいと思いました」

 ライレイの金色の瞳がゆっくり開いた。

「……今それ言う?」

「何か問題がございますか」

「俺、薬効いてるんだけど」

「存じております」

「嬉しすぎる。今すぐ押し倒したいけど、たぶん加減できないなあ」

 言葉とは裏腹に、ライレイは一歩も近づかなかった。繋いだ指だけをわずかに強くし、それ以上は動かない。

「では、忘れてくださいませ」

「絶対忘れない」

 熱の残る顔で、ひどく嬉しそうに笑う。

 ユエはその自制を見て、少しだけ指を握り返した。

「それとさ」

「まだございますか」

「さっき、『ライレイ様に触らないで』って言ったよね」

 ユエの指が止まる。

「……聞こえておりましたか」

「すごく」

「忘れてくださいませ」

「それも絶対忘れない」

「殿下」

「ユエもちゃんと、俺を取られたくないんだ」

 何も答えずにいると、ライレイの笑みがますます深くなる。

「ね?」

「薬が効いておりますと、随分お喋りになりますね」

「普段から喋ってるよ」

 ユエは空いている手でライレイの額へ触れた。先ほどよりはましだが、まだ明らかに熱い。

「そろそろ解毒剤を作った方がよろしいかもしれません」

「今は、そばにいてくれる方が効く」

「医学的根拠がございません」

「俺にはある」

「どのような?」

「ユエがいると安心する」

 あまりにも当然のように言われ、ユエは返す言葉を一瞬失った。

「……それは薬効とは別の問題では?」

「じゃあ、なおさらいて」

「本当に欲張りでございますね」

「今日くらいいいでしょ」

 繋いだ手は離さないまま、ライレイは目を閉じた。

 ユエもそれ以上起き上がろうとはしなかった。正直なところ、今から作業部屋まで歩いていき、薬棚から必要な材料を揃えることを考えるだけで脚が重い。

 窓から入る夜風が、部屋に残った甘すぎる薬の匂いを少しずつ薄めていく。

「ライレイ様」

「なに?」

「普段、わたくしで遊んでいらっしゃいますよね」

「遊んでるつもりはないけど」

「ございます」

「断言された」

 ユエは枕の上で顔だけをライレイへ向けた。疲労でいつもより力の抜けた暗赤色の瞳に、ごく淡い悪戯心が宿る。

「こういうときくらい、わたくしが殿下で遊んでも構いませんね」

「……何する気?」

「何もしません」

「それが一番怖いんだけど」

「失礼ですね」

 ユエは繋いでいた手を一度離し、ライレイの頬を軽く摘んだ。

「……それだけ?」

「何を期待なさったのですか?」

「いや、別に」

「残念そうなお顔でございます」

「薬のせい」

「便利ですね、その薬」

 普段ならまず見せない情けない顔で見つめられ、ユエはとうとう小さく笑った。

 それを見たライレイも、つられるように笑う。

「やっぱり、ユエがいるといいな」

「そうですか」

「うん」

 再び手を伸ばしてくるので、ユエは今度は何も言わずにその指を取った。

 今日一日で、ひどく多くのことがあった。

 二十人に追われ、戦い、捕まり、逃げた。

 ライレイもまた、王妃の差し向けた女に薬を浴びせられ、それでも最後まで自分を失わなかった。

 二人とも、もう十分頑張った。

「ライレイ様」

「なに?」

「もう少し、このままでいてもよろしいでしょうか」

 一瞬、ライレイが驚いたように目を開いた。

「それ、俺が頼む側じゃなかった?」

「わたくしも疲れておりますので」

「そっか」

 今度は何も茶化さなかった。

「もちろん」

 繋いだ手がゆっくりと握り返される。

 ユエは目を閉じた。

 帰る場所があるということは、守られなければ生きられないという意味ではない。一人で戦えないという意味でもない。

 自分は今日も、一人で十四人を倒した。

 それでも、最後に帰ってきた場所で「ここから先は俺の仕事」と言ってくれる人がいる。

 その安心を知ってしまったら、もう以前と同じではいられない。

「殿下」

「ん?」

「明日は、責任を取ってくださいませ」

「もちろん」

「第七王子殿下も、第四王妃様も」

「任せて」

「床で倒れている女性も」

「……いたね」

「忘れないでくださいませ」

「ユエが帰ってきたから忘れてた」

「困った王太子殿下ですね」

「知ってる」

 ライレイは目を閉じたまま少し笑う。

「今日はもう何も考えなくていいよ」

「よろしいのですか」

「ここから先は俺の仕事」

 先ほどと同じ言葉が、今度はもっと深く胸へ落ちた。

「では、お任せいたします」

「うん」

 甘ったるい薬の匂いは、夜風の中へほとんど消えていた。

 二人の間にはまだ少しだけ距離がある。今のライレイがその距離を越えれば、自分で止まれなくなるかもしれないからだ。

 けれど、指先だけは繋がっている。

 それで十分だった。

 ユエは疲れ切った身体を柔らかな寝具へ沈め、隣にある体温を感じながら、ようやく深く息を吐いた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。