第四十八話 帰る場所の香り
多い。
ユエは走りながら肩越しに背後を確認した。追ってくる男は二十人近い。手にしているのは刀と槍ばかりで、弓を持つ者はいなかった。
(殺すつもりではない。拘束が目的のようですね)
ならば、囲まれた時点で終わる。こちらは一人、相手は二十人だ。全力で逃げ続ければ一時的には距離を稼げても、体力を使い果たせばその先がない。王太子宮まで戻るための余力を残しながら、人数差を潰さなければならなかった。
(広い場所は不利。橋か細道へ退避して、一度に相手をする人数を減らす)
夕闇の宮廷を、長い黒髪を翻して走る。背後では複数の足音が重なり、一定の距離を保ったまま追ってくる。焦りはある。それでも頭の中では、いつも通り冷静に王宮内の地形を辿っていた。
第七王子ルオシン。ライレイを一方的に敵視している王子であり、今朝報告に上がっていた不穏な私兵の動きも、やはり彼のものだったらしい。
そこで、数刻前のライレイの声が蘇った。
『何があっても、絶対俺のところに帰ってきて』
ユエの足がわずかに速くなる。
(殿下は、分かっていたのでしょうか。だから毎日のように、泊まっていけと)
第四王妃だけではなく、ルオシンの動きにも警戒していた。けれどライレイは、自分を閉じ込めるような真似はしなかった。
あの人らしい、と今さら思う。
「……帰ったら、問い質しましょう」
そのためにも、帰らなければならない。
前方の木立が途切れ、宮廷庭園の池が見えた。月の昇り始めた空を映した水面の中央に、人が二人並べば余裕のなくなる細い石橋が架かっている。
(ここなら)
ユエは橋の中央まで走ると踵を返した。
息を整える暇はほとんどない。袖の内側へ指を滑らせ、細い毒針を一本取り出す。
幼い頃から何度も繰り返してきた動作だ。狙いを定め、投げる。それだけなら、考える必要すらない。
相手が二十人でなければの話ではあるが。
最初の男が橋へ踏み込んだ瞬間、ユエの手首がしなった。月光を掠めた銀色の針が首筋へ刺さり、男は二歩進んだところで刀を取り落とした。
「毒だ!」
「致死性ではございません」
二本目を指に挟みながら、ユエは淡々と答える。
「麻痺毒です。三日ほど身体が不自由になる程度ですので、ご安心くださいませ」
「安心できるか!」
もっともな怒号が返ってきたが、それに構う必要はない。
二本目、三本目、四本目。
(あと八本)
橋の狭さが効いている。一度にこちらへ迫れる人数は二人程度。首筋、手首、腿。厚い衣に阻まれない場所を選んで打ち込む。
五本目、六本目、七本目。
(あと五本)
そこで追手の動きが変わった。
「お前、前へ出ろ!」
後方から押し出されたのは、他より明らかに装備の粗末な兵だった。
ユエの眉がわずかに寄る。
(気づきましたか。毒針が一人につき一本必要なことに)
階級の低い者を盾にして、手持ちを使い切らせるつもりらしい。
「随分と仲間思いでございますね」
槍の穂先を半身になってかわし、柄を掴んで軌道を逸らす。その陰から迫った男へ八本目を放った。
九本目。
(あと三本)
呼吸が速くなってきた。肺が熱い。走り続けた脚にも重さが出始めている。
十本目、十一本目。そして最後の一本を放る。
男が肩を押さえ、石橋の上へ崩れた。
袖へ指を滑らせても、もう何も触れない。
「尽きましたね」
残った兵たちが、それを聞いてじりじりと距離を詰めてくる。
ユエは腰に差していた短剣を抜いた。毒と暗器がレン家の本領であり、正面から刃を交えることは専門ではない。それでも扱えないわけではなかった。
「せめて五人くらいまで減らして退却したいところですね」
刀を受け流し、柄で一人の顎を打つ。よろめいた男の膝裏を蹴り、欄干へ叩きつけた。背後から伸びた腕を沈み込むようにかわし、振り向きざまに鳩尾へ肘を入れる。
一人、二人。そこから急激に苦しくなった。
短剣を握る右手が痺れ、呼吸は完全に上がっている。王太子宮まで退却するための体力を考えれば、すでにかなり厳しい。
(残り六人。あと一人だけでも)
そう思った瞬間、槍の柄が手首を打った。
短剣が弾かれ、乾いた音を立てながら石橋を滑っていく。拾うより先に背後から腕を取られ、反対側から肩まで押さえ込まれた。
ユエは荒い呼吸の合間に、小さく息を吐いた。
「殿下の言うこと、たまには聞くべきでした」
*
同じ頃、湯浴みを終えたライレイは、一人で寝台に寝転がっていた。
赤褐色の髪はまだ少し濡れ、額へ無造作に落ちている。薄い寝衣の襟を寛げ、片腕を枕代わりにしながら、いつもユエがいるあたりへ目を向けた。
(ユエがいないと、広く感じるな)
寝台の大きさなど変わっていない。それなのに、ここ数日で感覚の方が変わってしまったらしい。
昨日はその場所にユエがいた。正確には、隣どころか自分の上にいた。
思い出した途端、口元が緩んだ。
「リンレイに返事書かなくちゃ」
妹から届いた手紙は、寝台脇の卓へ置いたままだ。
(なんて書こう。毎日ユエと一緒に寝てるよー、とか?)
確実に呆れられるだろう。けれど嘘ではないのだから仕方がない、と考えるだけで、また笑みが零れる。
その一方で、頭の片隅には別の面倒事もあった。
(今日も来るんだろうか。いい加減にしてほしいんだけどな)
第四王妃の送り込んでくる女は、昨夜追い返したばかりだ。ユエを自分の上に乗せた状態で見せつけたのだから、普通なら多少は諦めてもいいはずだが、あれで退く相手とも思えない。
コンコン、と扉が鳴った。
ライレイの笑みが消える。
(来ちゃったか)
「なに? 人手ならいらないよ」
「第四王妃様より、書状でございます」
ライレイは眉間に皺を寄せた。侍女なら追い返せる。しかし王妃名義の書状を無視すれば、それはそれで後が面倒だ。
「……分かった。受け取る」
扉が開き、若い女が入ってきた。見覚えはない。両手には確かに封書がある。
「そこに置いて」
女は止まらなかった。一歩、さらに一歩と寝台へ近づいてくる。
金色の瞳が細くなった。
「早く渡して帰っ――」
バシャッ、と冷たいものが顔から胸元へ浴びせられた。
「っ……!」
反射的に息を止めたものの、間に合わなかった。
甘い。異様なほど濃い花の匂いが、一瞬で鼻腔を満たす。
視界が揺れた。頭がくらつき、心臓が急に速くなる。身体の内側から熱がせり上がり、皮膚の下を何かが這い回るような不快な感覚に襲われた。
(薬……)
女が封書を放り出し、そのまま寝台へ膝を乗せてくる。
ライレイは伸びてきた手首を掴んだ。
「触らないで」
「殿下……」
「聞こえなかった?」
呼吸は乱れている。それでも金色の瞳だけは冷たかった。
女がなおも身体を寄せようとする。
ライレイは掴んだ手首へ力を込めた。
「これ以上は力加減できないよ」
いつもの軽い調子は消えていた。
「次は殺すしかない。いいの?」
*
ユエが完全に拘束された頃には、池の上まで月が昇っていた。
(さすがに二十人は厳しかったですね)
十二人を毒針で麻痺させ、二人を近接戦で行動不能にした。残り六人。
両腕を後ろから押さえられ、石橋の上へ膝をつかされている。右腕には鈍い痛みが走り、呼吸もまだ整わない。
(それに、第七王子本人へ手を出せないのが、かなりやりにくい)
王族への傷害となれば、正当防衛だけで片づくとは限らない。
その王族本人が、兵たちの間から歩いてきた。
「思ったより抵抗されて驚いたよ。本当に第八は、いいものばかり持っているな」
「わたくしは殿下のものではございません」
「お前の意思なんて関係ない。あいつばかり、いつもだ」
ユエは視線だけを周囲へ走らせた。
橋の中央は見晴らしがいい。遠くからなら、何か起きていることくらいは分かるはずだった。
(誰かが気づいたとして、助けに来るでしょうか)
そこまで考えて、すぐに自分で否定する。
(いえ。王子同士の厄介事に首を突っ込む阿呆など、そうそうおりませんね)
「お前たち、もういい」
ルオシンが兵たちへ顎をしゃくった。
「弱った女くらい、俺でも拘束できる。代われ」
両腕を押さえていた力が緩む。
ユエはすぐに身体を捻ろうとした。だが、疲労した身体は思ったほど速く動かなかった。
肩を強く押され、背中が石橋へ叩きつけられる。
「っ……」
肺から空気が抜けた。
ルオシンが上から跨がり、片手だけでユエの両手首を頭上へ押さえ込む。
力が強い。ライレイほどではないにしても、ルオシンも戦場を経験した王子だ。疲れ切った今のユエでは、純粋な腕力で勝つことは難しかった。
空いた手が襟元を掴み、布を乱暴に引く。
月光の下へ白い鎖骨が露わになる。陶磁器のような肌には、細い身体を縁取るように肋骨の影がうっすらと浮かんだ。
「第八のものにしては、随分貧相だな」
ユエは息を乱しながらも、正面からルオシンを睨み返した。
「殿下は、よく褒めてくださいますのよ?」
精一杯の虚勢だった。けれど声だけは震わせなかった。
ルオシンの手が脚へ触れる。
「俺に汚されたら、あいつもお前を捨てるかな」
(嫌だ)
相手の目的を理解したことよりも先だった。
なぜ自分を狙ったのか。どこまで計画していたのか。ここからどう逃げるか。普段なら、まず情報を整理したはずだった。
今は何一つ浮かばない。
(嫌)
ただ、それだけだった。
触られたくない。
ライレイ以外には。
ユエは掴まれていた脚を力任せに引き抜いた。
「なっ――」
反応が一瞬遅れたルオシンの首へ脚を絡める。そのまま腰を捻り、一気に締め上げた。
「殿下!」
離れていた私兵たちも、自分たちの王子が直接反撃を受けるとは思っていなかったらしい。一歩、出遅れた。
ルオシンの身体から力が抜ける。
ユエはすぐに脚を外し、その下から抜け出した。
(第七王子に手を出してしまいました)
王族へ危害を加えた。レン家にも影響が出るかもしれない。
普段なら、その先の処理まで自分で考えていただろう。
今は一つしか浮かばなかった。
(殿下に責任を取っていただきましょう)
乱れた衣も、ほどけた髪も直さない。残った力を振り絞って走り出す。
ライレイなら、何とかしてくれる。
そう思えることが、不思議なほど心強かった。
一人ですべて背負わなくてもいい。帰れば、あの人がいる。
それだけで、限界に近い脚がもう一度動いた。
*
王太子宮へ辿り着いた頃には、ユエの呼吸は完全に乱れていた。
黒髪はほどけ、衣の襟元も乱れたまま。手首には赤い痕が残り、膝には擦り傷ができている。
それでも寝所へ向かう足は止めなかった。
心のどこかで、少しだけ期待していた。
『だから泊まっていけって言ったじゃん』
そう言って、呆れたように笑われる。それから抱きしめられる。
自分はきっと「申し訳ございません」とでも返すのだろう。
そんな光景を想像していた。
扉を開くまでは。
寝台の上に、女がいた。
ライレイの上に跨り、身体を寄せている。
その下でライレイは女の両手首を掴み、必死に距離を取ろうとしていた。赤褐色の髪は乱れ、頬は異様に赤い。普段なら余裕を失わない金色の瞳にも、苦しそうな熱が滲んでいる。
その瞬間、ユエは初めて知った。
頭に血が上る、という感覚を。
視野が一気に狭くなる。焦点がうまく合わない。目の前だけが、本当に赤く染まったような気さえした。
「ライレイ様に触らないで!」
自分がこれほど大きな声を出せることも知らなかった。
身体が勝手に動いた。
寝台へ駆け寄り、女の脇腹へ蹴りを叩き込む。
「きゃっ――」
女の身体が寝台から弾き飛ばされ、部屋の端まで転がった。柱へ頭を打ちつける鈍い音が響き、そのまま床へ崩れ落ちる。
「ユエ?」
ライレイの声で、視界が戻った。
ユエは我に返り、すぐに寝台へ駆け寄る。
「殿下、ご無事ですか?」
「無事。たぶん」
額には汗が浮かび、呼吸は速い。寝衣からは、普段この部屋にはない濃厚な甘い香りが漂っていた。
「これは……媚薬でしょうか」
「たぶんね。かけられたとき、少し吸い込んだみたい」
ユエは衣についた液体へ顔を寄せ、慎重に香りを確かめる。指先へごくわずかに取り、舌先で性質を確かめた。
「致命的な毒ではございません。強い興奮作用と血流促進……かなり濃いですね」
「熱い」
ライレイが眉を寄せ、寝衣の襟を引っ張った。
「とりあえず、服脱がせて」
「上衣のみです」
「そこは厳密なんだ」
「当然でございます」
ユエは濡れた寝衣を脱がせ、乾いた布を肩へ掛けた。肌へ触れた指先に、普段より明らかに高い体温が伝わる。
「解毒剤を作ってまいりま――」
「いい」
立ち上がろうとした手首を掴まれた。
思ったより弱い力だった。
「今は、そばにいて」
ユエは動きを止める。
「ですが、薬効を抑えるには」
「分かってる。でも今、一人にされる方が嫌だ」
薬で頬は赤く、金色の瞳にも薄い霞がかかっている。それでも視線はまっすぐだった。
「……御意にございます」
ユエが寝台へ腰を下ろすと、ライレイはその身体へ寄るように腕を伸ばした。
「暑い」
「はい」
「身体の中、ずっと落ち着かない」
「薬効です。ゆっくり呼吸してくださいませ」
「無理」
「努力なさってください」
「冷たいなあ」
「十分お優しくしております」
いつもの調子に近い言葉が返ってきたことに、ユエは密かに安堵する。
「ユエ」
「はい」
「帰ってきた」
「はい」
「ちゃんと俺のところに帰ってきたね」
「殿下がお命じになりましたので」
「珍しく言うこと聞いた」
「たまには」
弱々しく笑ったライレイが、そこでようやくユエの姿をまともに見た。
ほどけた黒髪。乱れた襟元。赤く擦れた手首。傷のある膝。
笑みが消える。
「ユエ」
「はい」
「誰にやられた?」
熱に浮かされていた声が、一瞬で低くなった。
「第七王子殿下と、私兵二十名ほどにございます」
「二十?」
「十二名を毒針で、二名を体術で行動不能にしました。残り六名の時点で拘束されました」
「それで?」
ユエは一瞬だけ黙った。
「第七王子殿下に押し倒されました」
ライレイの表情が消えた。
「……何された?」
「衣を乱され、触れられました」
金色の瞳が冷たく細まる。
「それで?」
「嫌でしたので、首を締めて気絶させました」
数秒、沈黙が落ちた。
「王族へ手を出してしまいましたので、レン家へ影響が及ぶ可能性も――」
「ないよ」
即答だった。
「俺がなくす」
「随分簡単に仰いますね」
「簡単だよ。二十人で襲って拘束して、自分で無理やり触ったんでしょ」
ライレイは身体を起こそうとして、すぐに薬の熱に顔をしかめた。それでも声音だけは冷えている。
「それを止めたユエが悪いわけない」
「しかし」
「ここから先は俺の仕事」
その言葉を聞いた瞬間、ユエの身体からふっと力が抜けた。
一人で戦った。一人で逃げた。一人で判断し続けた。それでも、帰った後まで一人ですべて背負わなくていい。
「……少し、疲れました」
「うん」
「二十人は、多うございました」
「普通は一人でも多いからね」
「次は十五人程度でしたら」
「次を想定しないで」
少し強く返され、ユエの口元に薄い笑みが浮かぶ。
「殿下」
「なに?」
「よく我慢なさいましたね」
「何を?」
ユエは床の隅で気絶している女へ目を向ける。
「あの女性を。殺さなかったのでしょう?」
「かなり頑張った」
「そうですか」
「もっと褒めて」
「よく我慢なさいましたね」
「うん」
ほんの少し嬉しそうな顔をするので、ユエはとうとう息を吐いた。
「少し横になりましょう。わたくしも、もう立っているのが億劫でございます」
「ユエも?」
「わたくしも二十人に追われたばかりなのですが」
「ああ、そうだった。ごめん」
「お忘れにならないでくださいませ」
ユエは寝台の奥へ身体を滑らせ、そのまま仰向けになった。走り続けた脚を伸ばした途端、全身に溜まっていた疲労が一気に押し寄せ、深い息が漏れる。
ライレイもその隣へ横になった。普段ならすぐに抱き寄せるところだろうが、今は自分の状態を分かっているらしく、わずかな距離を残したままユエの方を向いている。
「……遠い」
「十分お近くです」
「触ってもいい?」
「手だけでしたら」
「厳しいなあ」
「今の殿下には必要な制限です」
差し出された手を、ユエは自分の手のひらへ重ねた。指を絡めるだけなら、熱に浮かされた身体でも加減を誤ることはない。
ライレイはそれだけで満足したらしく、少しだけ目元を緩める。
「これ、いいね」
「そうですか」
「ユエも休めるし」
「最初からそうすべきでした」
「ごもっとも」
横になったことで、ユエもようやく肩の力を抜いた。身体のあちこちが痛む。手首も、膝も、短剣を握り続けた右腕も重い。
「ライレイ様」
「ん?」
「殿下は、わたくしが狙われる可能性をご存じだったのですか」
「可能性だけね」
「だから毎晩泊まれと?」
「それもある」
「それも」
「ユエと一緒にいたかったのも本当」
「……やはり」
「そこ疑ってた?」
「いいえ」
ユエは繋いだ手を見ながら、少しだけ目を伏せた。
「今日、分かりましたので」
「何が?」
「殿下がおられるところへ、帰りたいと思いました」
ライレイの金色の瞳がゆっくり開いた。
「……今それ言う?」
「何か問題がございますか」
「俺、薬効いてるんだけど」
「存じております」
「嬉しすぎる。今すぐ押し倒したいけど、たぶん加減できないなあ」
言葉とは裏腹に、ライレイは一歩も近づかなかった。繋いだ指だけをわずかに強くし、それ以上は動かない。
「では、忘れてくださいませ」
「絶対忘れない」
熱の残る顔で、ひどく嬉しそうに笑う。
ユエはその自制を見て、少しだけ指を握り返した。
「それとさ」
「まだございますか」
「さっき、『ライレイ様に触らないで』って言ったよね」
ユエの指が止まる。
「……聞こえておりましたか」
「すごく」
「忘れてくださいませ」
「それも絶対忘れない」
「殿下」
「ユエもちゃんと、俺を取られたくないんだ」
何も答えずにいると、ライレイの笑みがますます深くなる。
「ね?」
「薬が効いておりますと、随分お喋りになりますね」
「普段から喋ってるよ」
ユエは空いている手でライレイの額へ触れた。先ほどよりはましだが、まだ明らかに熱い。
「そろそろ解毒剤を作った方がよろしいかもしれません」
「今は、そばにいてくれる方が効く」
「医学的根拠がございません」
「俺にはある」
「どのような?」
「ユエがいると安心する」
あまりにも当然のように言われ、ユエは返す言葉を一瞬失った。
「……それは薬効とは別の問題では?」
「じゃあ、なおさらいて」
「本当に欲張りでございますね」
「今日くらいいいでしょ」
繋いだ手は離さないまま、ライレイは目を閉じた。
ユエもそれ以上起き上がろうとはしなかった。正直なところ、今から作業部屋まで歩いていき、薬棚から必要な材料を揃えることを考えるだけで脚が重い。
窓から入る夜風が、部屋に残った甘すぎる薬の匂いを少しずつ薄めていく。
「ライレイ様」
「なに?」
「普段、わたくしで遊んでいらっしゃいますよね」
「遊んでるつもりはないけど」
「ございます」
「断言された」
ユエは枕の上で顔だけをライレイへ向けた。疲労でいつもより力の抜けた暗赤色の瞳に、ごく淡い悪戯心が宿る。
「こういうときくらい、わたくしが殿下で遊んでも構いませんね」
「……何する気?」
「何もしません」
「それが一番怖いんだけど」
「失礼ですね」
ユエは繋いでいた手を一度離し、ライレイの頬を軽く摘んだ。
「……それだけ?」
「何を期待なさったのですか?」
「いや、別に」
「残念そうなお顔でございます」
「薬のせい」
「便利ですね、その薬」
普段ならまず見せない情けない顔で見つめられ、ユエはとうとう小さく笑った。
それを見たライレイも、つられるように笑う。
「やっぱり、ユエがいるといいな」
「そうですか」
「うん」
再び手を伸ばしてくるので、ユエは今度は何も言わずにその指を取った。
今日一日で、ひどく多くのことがあった。
二十人に追われ、戦い、捕まり、逃げた。
ライレイもまた、王妃の差し向けた女に薬を浴びせられ、それでも最後まで自分を失わなかった。
二人とも、もう十分頑張った。
「ライレイ様」
「なに?」
「もう少し、このままでいてもよろしいでしょうか」
一瞬、ライレイが驚いたように目を開いた。
「それ、俺が頼む側じゃなかった?」
「わたくしも疲れておりますので」
「そっか」
今度は何も茶化さなかった。
「もちろん」
繋いだ手がゆっくりと握り返される。
ユエは目を閉じた。
帰る場所があるということは、守られなければ生きられないという意味ではない。一人で戦えないという意味でもない。
自分は今日も、一人で十四人を倒した。
それでも、最後に帰ってきた場所で「ここから先は俺の仕事」と言ってくれる人がいる。
その安心を知ってしまったら、もう以前と同じではいられない。
「殿下」
「ん?」
「明日は、責任を取ってくださいませ」
「もちろん」
「第七王子殿下も、第四王妃様も」
「任せて」
「床で倒れている女性も」
「……いたね」
「忘れないでくださいませ」
「ユエが帰ってきたから忘れてた」
「困った王太子殿下ですね」
「知ってる」
ライレイは目を閉じたまま少し笑う。
「今日はもう何も考えなくていいよ」
「よろしいのですか」
「ここから先は俺の仕事」
先ほどと同じ言葉が、今度はもっと深く胸へ落ちた。
「では、お任せいたします」
「うん」
甘ったるい薬の匂いは、夜風の中へほとんど消えていた。
二人の間にはまだ少しだけ距離がある。今のライレイがその距離を越えれば、自分で止まれなくなるかもしれないからだ。
けれど、指先だけは繋がっている。
それで十分だった。
ユエは疲れ切った身体を柔らかな寝具へ沈め、隣にある体温を感じながら、ようやく深く息を吐いた。




