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第八話 掴みたい香り

 翌日、リュシアンは王妃の私室を訪ねた。

「王太子妃候補の件で、お話があります」

 そう切り出すと、母は茶器を置いて顔を上げた。王妃の私室には、午後の淡い光が高い窓から差し込み、深い青の絨毯へ長い影を落としていた。窓辺を飾るのは香りの弱い白い花で、卓上の茶からは、ごく薄い柑橘の気配が立っている。どれも王太子の過敏な嗅覚を刺激しないよう王妃が選ばせたものだ。

 長身のリュシアンは、濃紺の上着に銀糸の刺繍をわずかに施した執務着姿で、長い脚を組んで母の向かいに座っていた。整えられた黒髪は、午後ともなると前髪の一部が少し額へ落ちている。端正な顔立ちと灰青色の瞳は黙っていれば冷たく見えるが、今はむしろ妙に落ち着いていた。

「先日渡した資料には、目を通しましたか。今年中には選考を始めたいと考えています。すぐに婚約しろとは申しませんが、いつまでも先延ばしにはできませんよ」

「分かっています」

 王妃の指が、白磁の茶器を持ち上げたところで止まった。

「あら」

「何です?」

「もっと嫌がるかと思いました」

「俺もそう思っていました」

 少し前までの自分なら、面倒だと顔をしかめていただろう。知らない令嬢の経歴書を並べられ、家柄や領地、持参金、外交上の利点を説明される。その後は候補者たちと茶を飲み、香水の混ざり合う部屋で頭痛を堪えながら笑わなければならない。想像するだけでうんざりした。けれど今は、以前と事情が違う。選びたい女がいる。

 問題があるとすれば、その女自身が、自分が選ばれようとしているなど夢にも思っていないことくらいだった。

「母上」

「何でしょう」

「候補の選定方法ですが、俺に任せていただけませんか?」

 王妃の整った眉がわずかに上がった。息子からこの種の話を持ち出すこと自体が珍しいのだろう。落ち着いた瞳が、値踏みするようにリュシアンを見る。

「すべて?」

「最終的な承認は父上と母上、それから評議会にお願いします。ただ、候補を募る条件と選考方法は、俺に決めさせてください」

「随分と具体的ですこと」

「考えましたので」

 正確には、昨日の夜からほとんど眠らずに考えていた。目を閉じるたび、薄暗い場所で見つけたアデルの姿が浮かんだ。埃に汚れた銀髪。血の気を失った白い頬。そして自分を見つけた瞬間、夜の光に紫を帯びていた瞳から、張り詰めていたものがほどけていくあの表情。抱きしめた身体は、思っていたより細かった。腕の中にある。呼吸をしている。確かに生きている。

 それを確かめるまで、自分がどれほど怯えていたのか、リュシアン自身にも分かっていなかった。そして首筋へ顔を寄せたとき、ようやく戻ってきた。柔らかく乾いた、わずかに甘い香り。花でも香木でもない、アデル自身の匂い。もう二度と、あんな思いはしたくない。同時に、ひどく単純なことにも気づいてしまった。宮廷調香師だからそばに置きたいのではない。毎日顔を見たい。

 自分以外の男に誘われるのが嫌だ。茶を飲むのも、笑いかけるのも、自分の知らないところへ出かけるのも面白くない。あの淡い香りを、自分より近くで別の誰かに覚えられるのは、もっと嫌だった。つまり。欲しいのだ。アデル・アレクシアが。

「構いません」

 王妃の声に、リュシアンは思考から戻った。

「あなたのこれまでの公務を見ています。少なくとも、王太子妃選びで国を傾けるような愚かな真似はしないでしょう」

「ありがとうございます」

「ただし、私情だけで候補を決めることは許しません」

「……善処します」

「リュシアン?」

「冗談です」

 王妃から向けられる視線が露骨に疑わしげになった。リュシアンはそれを無視し、懐から折り畳んだ一枚の紙を取り出した。長い指で卓上へ差し出すと、王妃はそれを受け取り、ゆっくり目を通していく。読み進めるうちに、その表情が少しずつ変わった。最初は母親として、次に王妃として。最後まで読み終えると、彼女はもう一度、冒頭へ視線を戻した。

「なるほど」

「問題がありますか?」

「いいえ。理にはかなっています」

 スピネリアを支えるものは、香りだ。花を育てる農園があり、香料を抽出する蒸留職人がいる。瓶や香炉を作る工房があり、国外から希少な香料を運ぶ商人がいて、そのすべてを一つの香りへ組み上げる調香師がいる。香水は単なる貴族の贅沢品ではない。何千という人間がその産業に関わり、国の交易を支え、スピネリアという国そのものの顔になっている。ならば、その国の王太子妃にも。

「『王太子妃候補は、香料栽培、蒸留、調香、香料交易、その他香水産業に携わる家の未婚女性より広く募る』」

 王妃が読み上げる。

「『応募には一定以上の家格を要する。ただし家格のみを重視せず、第一に知見を問う。王太子妃とは王家へ嫁ぐだけの女性ではなく、王太子と共にこの国の未来を考える者である』」

 そこで一度言葉を切り、王妃は目の前に座る息子を見た。

「ずいぶん立派なことを考えましたね」

「王太子ですから」

「そうでしたね」

「何です、その言い方は」

「いいえ。続きを読みましょう。『この国の重大な文化であり産業である香水を、次の百年へどう残し、どう発展させるか。私にはない視点で国を見つめ、その答えを共に探せる女性を妃として望む』」

 読み終えた王妃が、紙を卓上へ置く。しばらく無言で眺められた。リュシアンは居心地の悪さを覚え、形のいい眉をわずかに寄せる。

「何です?」

「リュシアン」

「はい」

「あなた、もうどなたかいらっしゃるの?」

 リュシアンは答えなかった。灰青色の瞳をわずかに細め、視線だけを逸らす。その反応だけで十分だったらしい。王妃の口元に、ゆっくり笑みが浮かんだ。

「まあ」

「何です」

「いい笑顔ですこと」

「笑っていません」

「笑っていますよ」

「気のせいです」

「では、そういうことにしておきましょう」

 母親というものは、どうしてこういうところばかり妙に鋭いのだろう。リュシアンは話を打ち切るように立ち上がった。背の高い身体が伸びると、座っているとき以上に王太子らしい威圧感が出る。もっとも、今その顔に浮かんでいるものを知れば、宮廷で彼を冷徹と呼ぶ人間は首を傾げるだろう。

「公示の前に、一つ用事があります」

「どちらへ?」

「アレクシア侯爵を呼びます」

 とうとう王妃が声を上げて笑った。


*


「娘を、王太子妃候補へ?」

 アレクシア侯爵ほどの男でも、さすがにその一言には目を見開いた。王太子の執務室には、壁際の高い窓から午後の光が差し込んでいる。重厚な机の上には処理途中の書類が整然と積まれ、その向こうでリュシアンは椅子へ深く腰掛けていた。長い指を組み、侯爵を真正面から見ている。

「ああ」

「殿下。失礼を承知で申し上げますが、これは王命でしょうか」

「違う」

 即答だった。

「命令するつもりはない。アデルが嫌なら辞退して構わない」

 侯爵はしばらく黙っていた。娘と同じ銀の髪に、年齢相応の落ち着いた気配がある。娘ほど表情は分かりやすくないが、わずかに細められた目を見る限り、思うところはあるらしい。

「では、なぜ私をお呼びに?」

「公示を出しても、あいつは自分が候補になるとは思わない」

「……それは」

 侯爵が一度視線を落とした。否定しない。やはり父親も分かっているのだ。

「あいつは宮廷調香師として読む。王太子妃候補を選ぶための制度だと理解して、自分自身をその中へ入れない」

「よくご存じで」

「最近、分かってきた」

 それでもまだ、分からないことの方が多い。特に恋愛については、こちらが驚くほど鈍い。自分の嫉妬さえ、意味を理解するまで随分時間がかかった女だ。王太子が自分を妃にしたくて制度まで組み直したなどと、自力で辿り着くのを待っていたらいつになるか分からない。

「ですから、アレクシア家から正式に推薦していただきたいと?」

「ああ」

「ですが、殿下」

 侯爵は少し慎重に言葉を選んだ。

「娘は、結婚後も調香師を続けることを望んでおります」

「知っている」

「王太子妃となれば、今までのようにはいきません」

「同じにはできないだろうな」

 公務は増える。外交の場に出ることも、王家の一員として式典へ参加することもある。今までのように朝から晩まで工房へ籠もり、好きなだけ香料瓶と向き合う生活は難しくなるだろう。だが、それと仕事を失うことは同義ではない。

「だから辞めさせる、という結論にはしたくない」

 侯爵が顔を上げた。

「宮廷調香師が王太子妃になってはいけない理由はない。仕事の形は変える必要があるだろうが、続けられる方法を考える」

「……殿下」

「俺が欲しいのは、何もせず隣に座っているだけの妃じゃない」

 言ってから、一瞬考えた。いや。隣には座っていてほしい。できれば、かなり近く。そして公務を終えた夜には、ほどいた銀髪を眺めながら、あの首筋に顔を埋めて眠れたら最高だと思う。さすがに今、父親へ言うことではない。

「国を一緒に考えられる相手がいい。それなら、あいつから仕事を取り上げる意味がない」

 アレクシア侯爵は、しばらく黙ってリュシアンを見つめていた。やがて、その目元がほんのわずかに和らぐ。

「承知いたしました」

「では」

「家からの推薦を届けたうえで、娘に参加の意向を尋ねましょう。推薦は参加を強制するものではないと、はっきり伝えます」

「もちろんだ」

 そこだけは譲れない。選考へ出るところまでは道を作る。けれど、その先まで力ずくで連れていくつもりはなかった。アデルが自分で選ばなければ意味がない。

「それでいい」

 そこから先は。自分を選ばせる。そう考えた瞬間、口元が緩んだらしい。侯爵がわずかに眉を上げた。

「殿下」

「なんだ」

「いえ。随分、楽しそうでいらっしゃるなと」

「……帰っていいぞ」

「まだお話の途中ですが」

「終わった」

「左様ですか」

 今日会う大人は、揃いも揃って余計なところばかり見ている。


*


 三日後、その公示は王都を静かに、しかし確実に揺らした。王太子妃候補を、香水産業に関係する女性から選ぶ。

 従来のように血筋や外交上の利点だけで候補を絞るのではなく、一定以上の家格を条件としながらも、本人の知識と考えを重視する。しかも最初の選考には王太子本人が加わらず、王妃、香料評議会、王室財務官、花卉栽培を担当する農務官ら、それぞれ異なる立場の者が候補者の意見書を審査するという。題は一つ。

――この国の香りを、百年後へ残すために必要なこと。

 王宮では朝から、その話でもちきりだった。

「大胆ですわね」

「でも、スピネリアらしい選び方ではなくて?」

「王太子殿下は香水がお嫌いなのだと思っておりました」

「香水嫌いではなくて、香りに敏感でいらっしゃるのでしょう?」

「では、お妃様も香水をつけられない方が?」

「でも、香水に携わる女性からお選びになるのでしょう?」

 噂は次々と形を変え、当然、宮廷調香師の作業部屋にも届いた。

「……なるほど」

 アデルは公示文を両手で持ったまま、三度目を読み終えた。今日も仕事着だ。淡い灰青色の簡素なガウンに白いリネンの前掛けを重ね、長い銀髪は香料へ触れないよう低い位置で丁寧にまとめている。陽の差し方によって新緑にも紫にも変わる瞳は、今は窓から入る昼の光を受け、明るい緑色に見えていた。形のいい眉をわずかに寄せ、公示文をもう一度眺める。なかなか面白い。

 王太子妃を香水産業に携わる女性から選ぶという部分には最初こそ驚いたが、読めば筋は通っている。スピネリアの王太子妃となれば、国外からの賓客を迎え、産業振興にも関わる。香水はこの国を代表する文化であり産業なのだから、その知識があることは確かに大きな強みになる。何より。

「知見を重視する、か」

 細い指先で、その一文をなぞった。少し、殿下らしいと思う。人の肩書きや評判より、その人が何を見て、何を考えているかを気にする人だ。口は悪い。態度も悪い。時々、本当に王太子なのか疑いたくなるほど横暴でもある。けれど能力については、不思議なほど素直に認める。以前、薔薇の帳簿を調べたときもそうだった。

 自分には分からない香りをアデルが見つけ、アデルには分からない紙の違いをリュシアンが見つけた。あの人は、自分一人ですべてできると思っていない。だからこそ。

――私にはない視点で国を見つめ、その答えを共に探せる女性を妃として望む。

「……」

 胸の奥が、わずかにざわついた。立派だと思う。王太子として。とても。それだけのはずなのに。

「妃、か」

 呟いた途端、なぜか落ち着かなくなる。いつか誰かが、リュシアンの隣に立つ。朝も。夜も。公務でも。私生活でも。以前、初代宮廷調香師の手記を読んだときに抱いたものと似た感覚が蘇った。リュシアンが、自分の知らない女性へ笑いかける。あの灰青色の瞳を柔らかく細め、調香室で時折見せるような笑顔を向ける。その人と食事をして、話をして、同じ部屋へ帰っていく。やがて。

 調香室へ来ることも減るのだろうか。

「…………」

 アデルは唇をきゅっと結び、公示文を机へ置いた。考えても仕方がない。自分は宮廷調香師だ。妃が誰になろうと、求められた香りを作る。それが仕事なのだから。コンコン、と扉が鳴った。

「はい」

 入ってきた人物を見て、アデルは目を丸くした。

「お父様?」

 父が王宮の調香室まで来ることは珍しい。

「ちょうどよかったわ。これ、ご覧になりました?」

 公示文を持ち上げると、父は妙に真面目な顔のまま頷いた。

「ああ。そのことで来た」

「とても面白い選考ですよね。香料農園や商会に関わる家の方にも機会がありますし、何より知識を重視するというのが――」

「アデル」

「はい?」

「お前を、王太子妃候補として推薦した」

 アデルは動かなかった。光を受けて緑色に見えていた瞳が、大きく開かれる。聞こえた。言葉の意味も理解できた。けれど、頭が受け入れなかった。

「……もう一度、お願いします」

「アレクシア侯爵家は、お前を候補者として推薦した。ただし、参加を決めるのはお前だ。本人の署名がなければ、選考には進まない」

「なぜ!?」

 思わず立ち上がった拍子に、白い前掛けがふわりと揺れた。

「お前が条件に合うからだ」

「合いますけど!」

 合う。それはそうだ。侯爵令嬢、十八歳、未婚。香水産業に関わるどころか、現役の宮廷調香師である。条件だけなら、これ以上ないほど合っている。けれど。

「そういう話ではありません!」

「では、どういう話だ」

「私は、選ぶ側では!?」

「なぜだ」

「宮廷調香師ですから!」

「今回は審査員に宮廷調香師は入っていない」

「そうですけれど!」

 父は驚くほど冷静だった。混乱しているのはアデルだけである。

「お前はこの国の香水について、自分なりの考えを持っているだろう」

「あります」

「百年後へ何を残したい」

「それはもちろん、産地ごとの土壌と品種の記録をもっと体系化して、国外から入る香料についても――」

 そこまで言って止まった。父が笑っている。

「何です?」

「出ればいい」

「……」

「お前なら、書くことはいくらでもある」

「それと王太子妃になることは別です!」

「選ばれると決まったわけではない」

 その一言が胸へ落ちた瞬間。なぜか、少しだけ痛かった。

「……そうですね」

「アデル?」

「おっしゃる通りです。候補に入ったからといって、殿下が私を選ぶとは限りませんものね」

 自分で口にした言葉なのに、ひどく面白くなかった。候補になどなりたくないのだから、選ばれなければそれでいいはずなのに。父はそんな娘の顔をしばらく眺めたあと、何かを察したように眉を上げた。

「お前」

「何です?」

「いや」

 なぜか少し笑われた。

「殿下とよく似てきたな」

「どこがですか!?」


*


 十分後、アデルは王太子の執務室へ向かっていた。落ち着いて話すつもりだった。王太子妃選びは重要な国事で、リュシアンが考えた制度も筋が通っている。候補になったこと自体も、条件上はおかしくない。だから冷静に事情を聞く。そのつもりだった。

「殿下!」

 勢いよく扉を開ける。室内にいた補佐官が驚き、執務机の向こうに座るリュシアンも、灰青色の瞳を丸くして顔を上げた。

「アデル?」

「あ」

 そこでようやく気づいた。ノックをしていない。

「……失礼いたしました」

 一度閉める。コンコンコン。

「どうぞ」

 もう一度開けると、リュシアンが笑っていた。黒髪の下で、普段は冷たく見える灰青色の瞳がわずかに細まり、形のいい口元が明らかに緩んでいる。

「笑わないでください」

「笑ってない」

「笑っています」

「で、何だ」

 分かっている顔だ。腹が立つ。

「私が王太子妃候補になっています」

「知ってる」

「なぜですか」

「条件に合うからだ」

「その条件を決めたのは殿下でしょう!」

 補佐官が俯いた。肩が震えている。

「笑わないでください!」

「申し訳ございません」

 絶対に反省していない。リュシアンは椅子の背へ身体を預けた。長身のせいで大きな椅子ですら少し窮屈そうに見える。さっきまで書類を読んでいたのか、黒髪の前髪がわずかに額へ落ち、そのせいで王太子としての隙のない姿よりいくらか若く見えた。

「嫌なら辞退すればいい」

 アデルは口を閉じた。あまりにも簡単に言われた。

「……よろしいのですか?」

「ああ」

「殿下がお決めになった選考なのに」

「候補者を強制的に妃にする制度じゃない」

「それは、そうですが」

「辞退するか?」

 その問いだけは、少し違った。ふざけるような色が消え、灰青色の瞳がまっすぐこちらへ向く。見られた瞬間。誘拐されたあの日のことを思い出した。暗がりの中で自分を見つけたリュシアンの顔。普段ほとんど動かない表情が、あのときだけは明らかに崩れていた。そのまま強く抱きしめられて、苦しいと言っても離してもらえなかった。首元へ顔を寄せられたとき、耳元で低く落ちた声。

――生きてる。

 あれを思い出した途端、頬に熱が集まった。

「アデル?」

「……少々お待ちください」

「何を待つ」

「考えております」

「辞退するかどうかを?」

「はい」

 即答できない。なぜ。王太子妃になりたいと思ったことなど、一度もなかった。宮廷調香師になることしか考えてこなかったし、結婚するにしても、仕事を続けることを認めてくれる相手がいい。その程度だった。なのに。リュシアン以外の誰かに嫁ぐ自分を想像するより。リュシアンの隣に立つ自分を想像する方が、ずっと簡単だった。それに気づいてしまって、アデルの眉間に皺が寄る。困る。

 非常に困る。リュシアンが椅子から立ち上がった。

「殿下?」

 執務机を回り、こちらへ歩いてくる。長い脚で二歩ほど進めば、すぐ距離が縮まる。アデルは反射的に肩を強張らせた。それを見て、リュシアンが止まった。以前なら、そのまま距離を詰めてきたかもしれない。初対面から寝台へ押し倒し、首元へ平気で顔を埋めてきた男だ。けれど今は、手を伸ばしても届かないくらいの場所で止まっている。そのことに気づいて、アデルの胸が少しだけ痛んだ。

「イリスの香水を頼んだ日のこと」

「……はい」

「やりすぎたと思ってる」

 アデルが目を見開いた。リュシアンがこんなふうに言うとは思わなかった。本人も言い慣れていないのだろう。視線をわずかに横へ逸らし、片手で黒髪を掻き上げる。耳の先が少し赤い。

「お前なら気づかないと思って、調子に乗った」

「それは謝罪ですか?」

「一応」

「一応」

「でも」

 今度は逃げずに見られた。

「何もなかったことにする気はない」

 胸の奥で、心臓が一つ強く跳ねた。

「……殿下」

「だから、お前も考えろ」

「何をです?」

「俺のこと」

 以前にも言われた言葉が蘇る。

――もっと俺のことも考えろ。

 あれから。嫌でも考えている。むしろ考えすぎて困っている。

「もう、十分考えています」

 口にした瞬間。二人とも固まった。アデルの白い頬へ、見る間に赤みが広がっていく。リュシアンの目もわずかに大きくなった。

「…………」

「…………」

 先に顔を逸らしたのはアデルだった。

「今のは」

「十分?」

「言葉の綾です」

「俺のことを?」

「選考についてです」

「まだ何も始まってないだろ」

「では、王太子妃について」

「それ、俺の妃だぞ」

「分かっています!」

 完全に墓穴だった。リュシアンが笑う。今度は隠そうともしない。冷たい印象を与える細長い目が柔らかく細まり、口元に少年のような笑みが浮かぶと、普段の近寄りがたい王太子の面影が一気に薄れる。

「では、辞退しないんだな」

「まだ決めておりません」

「そうか」

「嬉しそうですね」

「気のせいだ」

「笑っています」

「笑ってない」

「先ほどより笑っています」

「うるさい」

 事件の翌日から、リュシアンはまた調香室へ顔を出すようになっていた。それでも残っていたぎこちなさが、今は少しほどけた気がする。事件の前、調香室へ来なくなったことが寂しかった。その事実を、アデルはまだ本人へ言えない。

「一つ、伺ってもよろしいですか?」

「何だ」

 アデルは胸元に公示文を抱え、少しだけ指先へ力を込めた。

「殿下は、どのような方をお妃にしたいのですか?」

 リュシアンの笑みが消えた。少し考えるように、目の前のアデルを見る。

「自分の意見を持っている」

「はい」

「仕事が好きで、それを誇りにしている」

「……はい」

「肩書きより、自分が大事だと思ったものを守ろうとする」

 アデルの眉がわずかに寄る。

「随分と具体的ですね」

「そうだな」

「それから?」

 リュシアンの視線が、ゆっくりと下がった。淡い光を弾く銀髪。すっと通った鼻筋。驚くと分かりやすく丸くなる、光によって色を変える瞳。そして白い首元。その視線の動きを追ってしまい、アデルの肩がわずかに強張る。

「香水をつけていない」

「それ、私以外ほとんど脱落しませんか?」

「だから困ってる」

「条件に入れないでくださいね!?」

「入れてないだろ」

「当然です!」

 リュシアンがまた笑った。けれど、次の言葉を口にするときには、表情が少し変わった。

「俺の体質を、面倒なだけだと決めつけない」

 アデルは黙る。

「苦手なものを無理に好きになれとも言わない。俺に分からないものがあれば教える。でも、俺にしか分からないことがあれば、それも使えばいいと言う」

 薔薇の帳簿を調べた日のことが蘇る。そして、誘拐されたとき。誰にも分からないと思いながら残した香りの道標を、リュシアンだけが追ってきた。

「……殿下」

「何だ」

「その方は」

 喉がわずかに乾いた。

「もう、いらっしゃるのですか?」

 今度はリュシアンが黙った。視線が合う。灰青と、新緑。どちらも逸らさない。

「いる」

 胸が鳴った。一度。大きく。

「……そう、ですか」

 なぜ、こんなに苦しいのだろう。選びたい女性がいるのなら、自分は候補になる必要などない。

「でしたら、その方を選べばよろしいのでは?」

「そのつもりだ」

「…………」

 胸の奥が今度ははっきり痛んだ。アデルはそれを隠すように、手にしていた公示文へ目を落とす。

「では、なぜわざわざこんな選考を」

「必要だからだ」

「何のために?」

 リュシアンは、すぐには答えなかった。目の前に立つアデルをしばらく見つめてから、静かに言う。

「俺が欲しいからって、それだけで連れてくるわけにはいかないだろ」

 アデルが瞬きをした。

「王太子妃になるなら、本人にも周囲にも、こいつだから選ばれたと言える理由が必要だ」

「……」

「俺の妃になることで、そいつが今まで積み上げてきたものまで否定されたくない」

 アデルの指先が、公示文を強く握った。

「だから、選考する」

 その声には、不思議なほど迷いがなかった。

「きちんと出てきてもらって」

 リュシアンの口元が、少しだけ上がる。いつもの気まぐれな笑い方ではない。狙ったものをもう逃すつもりがない男の顔だった。

「正面から取る」

「…………」

 誰を。聞けなかった。聞くのが怖かった。

「では、私は戻ります」

 踵を返しかける。

「アデル」

「はい」

 呼び止められて振り返る。

「意見書」

「……まだ出るとは言っておりません」

「期待してる」

「殿下」

「お前なら、百年先の香りくらい考えられるだろ」

 それを言われたら。調香師として黙っていられない。アデルの眉間に深い皺が寄った。

「……ずるいです」

「王太子だからな」

「権力の使い方を間違っています」

「まだ何も使ってない」

「父に何かおっしゃいました?」

 一瞬。リュシアンの灰青色の瞳が泳いだ。

「殿下?」

「仕事に戻る」

「おっしゃいましたね!?」

「忙しい」

「こちらを見てください!」


*


 頬を赤くして追及するアデルの声を聞きながら、リュシアンは久しぶりに心底気分がよかった。辞退すると言われなかった。今は、それだけで十分だ。いずれ王太子妃選定が終わって、アデルが自分を選び、誰にも遠慮する必要がなくなったら。朝も。夜も。あの柔らかく乾いた甘い香りを、もっと近くで感じられる。

 仕事を終えたアデルが銀髪をほどき、その首元へ顔を埋めたまま眠れる日が来たら、たぶん悪くない。そこまで考えたところで、リュシアンは自分でも少し呆れた。国を挙げて王太子妃を選ぼうとしている男の望みとしては、随分ささやかで。同時に。どうしようもないほど、具体的だった。


*


 調香室へ戻ったアデルは、公示文を作業机へ置き、椅子へ腰を下ろした。窓から差す夕方の光が、長い銀髪を淡い紫色に染めている。もう一度。最初から読む。

――私にはない視点で国を見つめ、その答えを共に探せる女性を妃として望む。

「…………」

 いる。殿下には。もう、選びたい女性がいる。それなのに。

「どうして、私を候補に……?」

 そこまで考え、アデルは小さく頭を振った。まとめた銀髪が肩の上で揺れる。違う。推薦したのは父だ。殿下ではない。たぶん。きっと。そうに違いない。その日の夕方。アデル・アレクシアは、王太子妃候補選定への参加書類に署名した。理由は。

――この国の香りを百年後へ残すため。

 少し迷った末、アデルは自分の中で、そういうことにした。


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