第七話 結ぶ香り
リュシアンが、調香室に来なくなった。正確には、まったく顔を見せないわけではない。必要な香りがあれば侍従を通して依頼が届き、確認が必要ならこちらが呼び出される。廊下ですれ違えば挨拶もするし、公務の場では以前と変わらない王太子殿下だった。ただ、以前のように用もないのに調香室へやってきて、長い脚を持て余すように椅子へ腰を下ろし、今日は何を作っている、それは何の香りだと作業台越しに尋ねてくることがなくなった。
「……静か」
乳鉢を回しながら呟いて、アデルは自分の声に少しだけ眉を寄せた。窓から入る午後の光が長い銀髪を淡く透かし、低い位置で束ねた毛先を白く光らせている。静かなのは当たり前だ。ここは宮廷調香師の作業部屋であって、王太子殿下が毎日のように居座るための部屋ではない。むしろ、今までがおかしかったのだ。
仕事をしていれば勝手に入ってきて、気づけば書類を読んでいる。端正な横顔を伏せ、黒髪が額へ落ちるのを時折うるさそうに払うくせに、こちらが香料瓶を開ければ灰青色の目だけはすぐに上がる。香りを試してほしいと言えば露骨に嫌そうな顔をするのに、結局は作業台まで来る。そういう小さな動きが、知らないうちに部屋の風景の一部になっていたらしい。
「……仕事は捗ってるもの」
誰に聞かせるでもなく言ってみたが、返事はない。当然なのに、それが妙に気に障った。
アデルは乳棒を置き、窓へ顔を向けた。外光を受けた瞳は緑が強く見え、伏せれば奥に紫が混じる。あのイリスの一件以来、自分でもどう振る舞えばいいのか分からなくなっていた。以前なら何も考えず話せた相手なのに、今は目が合うだけで余計なことを思い出すし、あの灰青色の瞳が少し長く自分に留まるだけで、何か意味があるのではないかと考えてしまう。
だから少し距離ができた方がいいのだと思っていた。自分だって、以前のように無邪気には振る舞えない。それでも来ないなら来ないで、寂しい。
「……面倒」
自分に向けたのか、彼に向けたのか分からない呟きに重なるように、扉が叩かれた。
「はい」
「失礼いたします」
入ってきたのは、交易や物資管理に携わる王宮の文官だった。香料の輸入記録や古い交易路を調べる際、何度か世話になっている人物で、柔らかな物腰と人のよさそうな微笑みをいつも崩さない。
「アレクシア嬢。先日お探しだった東方交易の記録ですが、別の保管庫にも残っておりました」
「本当ですか?」
ぱっと顔を上げたアデルの瞳に、今度は紫がかった光が差す。
「ええ。閲覧できるよう手配しておきます」
「ありがとうございます。助かります」
礼を返しながら、以前この文官と交わした会話を思い出した。図書室で資料探しを手伝ってもらった礼に茶を飲んだ時、彼は最近王都で起きているという妙な事件について話してくれた。
「そういえば最近、調香師を狙った誘拐が続いているそうですよ」
「調香師を?」
「なんでも、貴重な香料をちらつかせて誘ってくるのだとか」
その時のアデルは、思わず笑ってしまったのだ。
「香料で?」
「アレクシア嬢には効きませんか」
「王宮におりますと、大抵のものは一度は見せていただけますから。珍しいというだけで、知らない方について行ったりはしません」
「なるほど。宮廷調香師を誘うには使えない手ですね」
その場では、それで終わった。王都のどこかでそんな事件が起きているらしい、というだけの話で、自分にはあまり縁がないと思っていた。文官は今日も同じ穏やかな顔で、手にした書類を胸元へ揃えた。
「それと、もう一点。王太子殿下からご依頼です」
アデルの指が、香料瓶へ伸びる途中で止まった。
「……殿下から?」
「はい。城下へ入った香料の状態を視察するように、とのことです。保管場所まで馬車をご用意しております」
「承知しました」
できるだけ平然と答えたつもりだったが、胸の奥が少し沈んだ。依頼すら、直接言ってくださらないのね。以前なら本人が来た。それどころか、仕事に関係がなくても来た。今は文官を通して仕事だけが届く。その事実が思いのほか寂しくて、アデルはそれを悟られないよう、銀色の睫毛を伏せて手元へ視線を落とした。
「アレクシア嬢?」
「いえ。すぐに支度いたします」
気まずいのはこちらも同じなのだから、相手ばかりを責められない。それに仕事は仕事だ。白い前掛けを外し、淡い灰青色の外出着の上に厚手の上着を重ねる。筆記具と鑑定道具を鞄へ収め、いつも持ち歩いているレモンとペパーミントの香り袋も確かめた。その下で指先が小さな硝子瓶へ触れ、アデルはほんの少し動きを止める。
『始まりの香り』。
あの日、初代宮廷調香師が王妃へ抱いていた想いを知りたくて作った香りだった。けれど最近になって、思うことがある。本当に、初代様だけを思ってあれを作っていたのだろうか。調合している間、何度も頭に浮かんだ人がいた。黒髪、灰青色の瞳、いつも少し不機嫌そうな顔。それなのに、ふとした瞬間だけ驚くほど無防備に笑う人。
――もっと俺のことも考えろ。
あんなことを言うからだ。忘れろと言われたのに、忘れられなかった。それ以来、ときどき瓶を開けては香りを確かめ、また蓋をするようになった。身につけるわけでも、誰かに嗅がせるわけでもない。ただ手元に置いているだけなのに、不思議と落ち着く。お守りみたいなものだと思っている。何のお守りなのかは、まだ自分でもよく分からない。
「行ってまいります」
調香室を出た今日も、リュシアンには会わなかった。
*
「王太子妃候補を選びなさい」
母の言葉に、リュシアンはわずかに眉を寄せた。深い色の上着に包まれた長身を椅子へ預け、頬杖こそつかなかったものの、灰青色の瞳には露骨な気乗りのなさが浮かんでいる。
「急ですね」
「急ではありません。あなたが先延ばしにし続けているだけです」
王妃は優雅に茶器を置き、卓上の書類を息子の前へ滑らせた。
「候補となる令嬢の資料は以前から揃えてあります。全員と会えとは言いませんから、まずは目を通しなさい」
「……分かりました」
「まあ」
「なんです」
「もっと嫌がるかと思いました」
「嫌がったところで、いずれ必要でしょう」
「そうですね」
母が妙に楽しそうに微笑む。その視線が自分の顔を探るように見えて、リュシアンは黒髪のかかる額へわずかな皺を寄せ、それ以上話す気をなくしたように資料へ目を落とした。家名、年齢、領地、語学、教養。王太子妃候補として選ばれただけあって、どの令嬢も申し分のない経歴だった。それなのに一文字も頭に入ってこず、代わりに浮かぶのは淡い銀髪だった。最近、調香室へ行っていない。
行けばアデルはいるだろう。低い位置で銀髪を束ね、白い前掛けをつけ、瓶を光へ透かしながら仕事をしている。こちらに気づけば、光の加減で緑にも紫にも見える瞳を上げて「殿下」と呼ぶ。ただ、自分が以前と同じように振る舞える自信がなかった。
イリスの一件では、少しやりすぎたと思っている。アデルは鈍いから大丈夫だと、どこかで侮っていたのかもしれない。何を言っても、何をしても、恋愛に結びつけない。それなら自分も意味など考えずに近づいていられた。けれど今は違う。
あれ以来、アデルも明らかにこちらを意識している。目が合えば僅かに頬が熱を帯び、以前なら即答したことにも言葉を探すようになった。その変化が分かると、今までよりもっと近づきたくなるから困る。だから行かない。我ながら面倒だと思う。
そのうえ最近は、アデルの周囲に妙に男が増えた。騎士の一人に食事へ誘われ、図書室で資料を探してくれた文官とは礼に茶を飲み、先日は商家の催しにも声をかけられたらしい。どれも問題ではない。アデルは未婚の侯爵令嬢なのだから、誰と茶を飲もうが、誰から誘われようが自由だ。それを制限する権利など自分にはないし、ましてこちらは今、王太子妃候補の資料を母から渡されている。
自分は妻を選ぶのに、アデルには他の男を見るなと言うのか。さすがに筋が通らない。母の私室を辞し、執務室へ戻ってからも、そんな考えばかりが頭を巡っていた。
「……殿下」
「なんだ」
補佐官の声に顔を上げると、相手が何とも言えない顔でこちらを見ていた。
「その資料、先ほどから一ページも進んでおりませんが」
「読んでる」
「逆さです」
リュシアンは無言で資料を回した。整った顔立ちに浮かんだわずかな気まずさを、補佐官は見なかったことにした。
*
馬車が目的地を通り過ぎたことに、アデルが気づいたのは城下へ入ってしばらくしてからだった。香料商の倉庫が集まる地区はすでに後ろへ流れている。初めは別の保管場所なのだろうと思っていたが、店が減り、住宅が減り、窓の外から人影まで少なくなっていくにつれて、胸の奥に小さな違和感が膨らんだ。
「あの、視察する場所はどちらでしょうか」
返事はない。御者は振り返りもせず、馬車は速度を上げていく。その先に城門が見えた瞬間、アデルの顔から血の気が引いた。
「あの! ここで降ろしてください!」
扉を叩いても返事はなく、何度呼びかけても御者は前を向いたままだった。銀髪が頬へかかるのも構わず身を乗り出し、もう一度強く扉を叩いたが、馬車は止まらない。まずい。あの文官から聞いた話が、一気に頭をよぎる。調香師を狙った誘拐。貴重な香料をちらつかせて誘ってくる。
――知らない方について行ったりはしません。
そう笑った。知らない人ではなかった。何度も顔を合わせ、資料探しまで手伝ってくれた王宮の文官だった。それに、王太子殿下からの依頼だと言われた。
「……殿下からじゃない」
口に出した途端、恐怖が現実になった。扉は開かず、走る馬車から飛び降りればただでは済まない。アデルは震え始めた指を強く握り、鞄を開いた。最初に触れたのはレモンとペパーミントの香り袋だった。いつも持っている。リュシアンも知っている。けれど、これでは一度しか場所を示せない。それにレモンもペパーミントも珍しい香りではなく、この街道で拾える保証はなかった。
その下に、小さな硝子瓶がある。
『始まりの香り』。
これは普段の仕事では使わない。持ち歩いていることも、誰にも言っていない。それでも、リュシアンならこの配合を覚えている。あの日、彼の目の前で作った香りだから。蓋を開けた瞬間、胸が強く締めつけられた。なぜこれを選んだのか、考えている暇はない。ただ一つだけ、妙な確信があった。殿下なら、この香りが分かる。
窓をわずかに押し開け、石畳へ一滴落とす。少し進んで、また一滴。城門を抜ける直前、最後にもう一滴落としながら、アデルは紫がかった瞳をぎゅっと閉じ、祈るように呟いた。
「……気づいて」
*
「アレクシア嬢が戻っていない?」
報告を受けたリュシアンが顔を上げた。その瞬間、灰青色の瞳から先ほどまでの気怠さが消え、整った顔立ちが一気に鋭くなる。
「はい。城下へ香料の視察に出たと伺っております」
「誰の指示で」
「殿下のご依頼と」
「出してない」
低い声が落ちた。室内の空気が変わり、補佐官の表情からも色が消える。
「いつ出た」
「二刻ほど前です」
「誰が伝えた」
「交易管理部の文官だと聞いております」
「名前を確認しろ。城門の記録も調べろ。すぐに騎士を出せ」
リュシアンは椅子を押して立ち上がった。長身が一気に伸び、いつもは端正に整っている黒髪が勢いで額へ落ちる。
「殿下」
「俺も行く」
「しかし」
「俺の名を使って連れ出したんだろ」
それ以上の反論を許さず歩き出す。その横顔は驚くほど静かだったが、薄く結ばれた唇と顎の硬さだけで、内側にどれほど強い感情が渦巻いているかは分かった。二刻。遅い。もっと早く気づけたはずだった。自分が調香室へ顔を出していれば、少なくとも今日アデルが城下へ出ることくらいは知っていた。それをしなかったのは、ただ自分の感情を持て余したからだ。
距離を置いた方がいいなどと考えた。その結果がこれか。
「殿下!」
呼ばれて振り返ると、駆けてきた騎士が息を整えながら告げた。
「アレクシア嬢を乗せたと思われる馬車が、東門から出ています」
「追う」
「ですが、その先で複数の街道に分かれます」
「まず門まで行く」
馬へ跨がり、東門へ向かう。冬の風が黒髪を乱し、王都の匂いが一気に押し寄せる。人、馬、煙、料理、酒、香水、革――普段ならどれも不快なほど鮮明なのに、今はただ邪魔だった。探したいものは一つしかない。東門の手前で、不意に手綱を引いた。
「殿下?」
「止まれ」
馬を降り、石畳の端へ近づく。泥、馬糞、屋台の油、轍に溜まった水。その中へ、ごく細い一本の香りが紛れていた。スミレ、沈丁花、ローズマリー。灰青色の瞳が大きく見開かれる。
「……なんで」
知っている。あの日、アデルが何度も配合を変えながら作っていた、初代宮廷調香師の秘めた想いを写した香り。
「殿下、何か?」
「こっちだ」
「香りがあるのですか」
「アデルが作ったものだ」
少し先へ進むと、また同じ香りがあった。その先にも、ほんのわずかに続いている。偶然ではない。
「追うぞ」
「しかし、なぜアレクシア嬢がこの香りを」
「俺に残したんだ」
口にした瞬間、胸の奥が熱くなった。アデルは考えたのだ。連れ去られながら、自分なら分かると。だから、この香りを選んだ。リュシアンの灰青色の目が、街道の先を射抜くように細められる。
「絶対に見失うな」
再び馬へ飛び乗った。
*
郊外の林で馬車が止まり、開いた扉の向こうに立つ人物を見た瞬間、アデルは息を呑んだ。
「……あなた」
あの文官だった。
「申し訳ありません、アレクシア嬢」
図書室で資料を探してくれた時と同じ、穏やかな顔で男は微笑んだ。その変わらなさが、かえって不気味だった。
「少々、予定が変わりまして」
「殿下からの依頼ではなかったのですね」
「ええ」
「調香師の誘拐事件について教えてくださったのも」
「本当の話ですよ」
文官は悪びれもせず肩をすくめる。
「まさか宮廷調香師ご本人を連れ出せるとは、私も思っておりませんでしたが」
その背後には男が二人いる。アデルは唇を引き結び、光を失いかけた瞳で素早く周囲を確認した。逃げ切るのは難しい。
「私をどうするつもりですか」
「あなたほどの調香師を欲しがる国はいくらでもあります」
「人を香料のように売るのですね」
「香料より高く売れますよ」
吐き気がした。それでもアデルは顔を背けなかった。
「移動します」
「どこへ?」
「それをお教えするほど親切ではありません」
腕を取られ、とっさに身を引く。その拍子を装って、握っていた瓶を大きく傾けた。
「あっ」
香水が文官の靴へかかる。彼が眉を寄せた。
「何を」
「……ごめんなさい」
「香水ですか?」
「大切なものだったのに」
アデルは悔しそうに眉尻を下げ、残り少なくなった瓶を胸元へ抱えた。男は香水を惜しんでいるだけだと思ったらしく、靴を一瞥するとアデルから視線を外した。
「乗せろ」
文官は御者へ指示を渡すと、王都へ戻るらしい別の馬車へ乗り込んだ。押し込まれたのは、先ほどとは違う荷馬車だった。窓は小さく、中はほとんど暗い。それでも足を踏み入れた瞬間、積まれているものが分かった。ミルラ。甘さの中に薬めいた癖を持つ樹脂香、その奥にはベンゾインの柔らかな甘みと、乾いたフランキンセンスの香りも混じっている。どれも東方から運ばれてくる香料だ。
木箱へ触れてみると状態はよくなく、湿気を吸ったのか、商品にならないほど状態の悪いものも混じっている。だからこそ、ひとつの考えが浮かんだ。樹脂は、火にくべれば強く香る。瓶から垂らす一滴とは比べものにならないほど遠くまで、煙とともに広がっていく。
アデルは目を閉じ、震える呼吸をゆっくり整えた。薄暗い荷台の中、青白い横顔には恐怖が滲んでいる。それでも考えることだけはやめなかった。今はまだ駄目だ。走っている馬車で火を使えば、自分まで危険になる。機会を待つ。調香師だから分かることがある。自分にしかできないことがある。そして、あの人なら。自分が残したものを、きっと読んでくれる。
*
夜になり、野営の焚き火が少し小さくなった頃、アデルはようやく動いた。監視の男が水を取りに離れ、もう一人が御者と話している。その隙に荷台の端へ積まれていた、売り物にならない樹脂を砕けた欠片を、両手でひとつかみ取る。暗闇の中、白い指先が細かく震えている。それでも、掴んだ。今しかない。焚き火へ投げる。ぱち、と火が爆ぜ、白い煙が立ち上った。
ミルラ、ベンゾイン、フランキンセンスが熱を受け、一気に夜気へ広がっていく。
「何してる!」
見つかった。男が駆け寄り、燃えかけた樹脂を蹴り出す。
「出るぞ! 今すぐだ!」
「今からですか?」
「こいつ、目印を残してやがる!」
腕を掴まれ、乱暴に立たされる。痛みに顔をしかめ、銀髪が乱れて頬へ落ちる。それでもアデルは立ち上った煙を見つめた。大丈夫。消されても、もう遅い。この場所は知らせた。再び馬車へ押し込まれ、暗い街道を走り出す。アデルは窓の隙間から白い手を伸ばし、残り少なくなった小瓶を傾けた。一滴落とすたび、自分でも気づかないほど唇が震える。お願い。もう一滴。気づいて。さらに一滴。
見つけてください。殿下。
*
その頃、リュシアンたちは、アデルが馬車を乗り換えさせられた場所で足を止めていた。香りはそこから途切れ、周囲の街道を確かめるうちに、日はすっかり落ちていた。
「ここまでです」
騎士が馬を降り、地面へ残った複数の轍を確かめる。
「馬車を替えた可能性があります」
リュシアンは答えず、目を閉じた。ここまで集中して嗅覚を使い続けたせいで鼻の奥は焼けるように痛み、額には薄く汗が滲んでいる。血色も悪く、いつもの涼やかな灰青色の瞳には疲労が濃く浮かんでいた。
「殿下、一度お休みを」
「黙れ」
「しかし」
「アデルは休めてると思うか」
低く返された声に、補佐官が口を閉じる。土、草、馬、革、遠くの民家の薪。風に乗る無数の匂いを一つずつ削ぎ落としていく。風向きが変わった。リュシアンの眉が動く。
「……待て」
甘い。あの香水ではない。もっと重く、樹脂特有の厚みがある。
「この匂いはおかしい」
「え?」
「香りの知識があるこの国ではこんな焚き方はしない」
顔を上げた灰青色の瞳に、再び強い光が戻った。
「東だ」
「香料を運ぶ馬車では?」
「だったら、こんな匂い方はしない」
アデルが香を扱う姿を何度も見てきた。必要な量しか使わず、素材を無駄にすることを嫌う彼女が、屋外で複数の樹脂をまとめて燃やすはずがない。
「アデルが燃やした」
「目印として?」
「そうだ」
間違いない。あいつはまだ考えている。まだ諦めていない。その事実だけで、張り詰めていたリュシアンの表情がほんの一瞬だけ緩む。
「行くぞ」
*
野営跡には、まだ熱が残っていた。
「少し前までここにいたようです」
「出発したばかりだ」
リュシアンは焚き火跡の前へしゃがみ、焦げた樹脂を指先で拾った。いつもなら触れることさえ嫌がりそうな煤が白い手袋を汚しても、気にする様子はない。アデルがここにいた。ほんの少し前まで。それなのに、また連れて行かれた。
「街道は二つに分かれています」
「……待て」
立ち上がり、もう一度息を吸う。鼻の奥は焼けるように痛み、頭も割れそうだった。それでも灰青色の目を細め、暗闇の向こうへ意識を集中する。あった。
『始まりの香り』。
「こっちだ」
今度は迷わなかった。暗い街道の先へ、ほんのわずかずつ続いている。細く、途切れそうで、それでも確かに自分のところまで伸びていた。
「アデル」
無意識に名前を呼んだ。返事などあるはずがない。それでも馬を走らせる。次の一滴、その次の一滴と、願うように残された香りを追ううち、ようやく恐怖が形を持った。もし、この香りが途切れたら。最後の一滴まで使い切って、それでも見つけられなかったら。
もう二度と、あの銀色の髪を見られなかったら。調香室へ行ってもアデルがいなくて、光によって色を変えるあの瞳が二度と自分を見ず、あの声で殿下と呼ばれることもなくなったら。端正な顔が苦しそうに歪んだ。
「……ふざけるな」
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からない。もっと速く。馬の腹を蹴る。やがて、遠くに灯りが見えた。
「いたぞ!」
騎士の声と同時に荷馬車が視界へ入る。その後のことを、リュシアンはあまり覚えていない。騎士たちが前へ出て、怒号と馬の嘶きが夜道へ響き、剣を抜く音がした。荷馬車の扉が開き、その向こうに銀色が見えた瞬間には、もう身体が動いていた。
「アデル!」
彼女が顔を上げる。低く結んでいた銀髪はすっかり乱れ、頬には土がつき、青ざめた顔の中で大きな瞳だけが濡れたように揺れている。光の乏しい夜の中では紫が強く見えるその瞳が、自分を捉えた。
「……殿下?」
生きている。その事実が胸へ落ちるより先に、リュシアンはアデルを腕の中へ引き寄せていた。
「殿下、あの」
「黙ってろ」
「でも、苦しいです」
「少しだけ黙ってろ」
強く抱きしめすぎていることは分かっていた。長い腕で細い身体をほとんど閉じ込めるように抱き込んでいる。それでも緩めることができなかった。腕の中にいる。温かい。呼吸をしている。髪には土と煙の匂いが移り、服にはミルラもベンゾインも、馬や革や知らない男たちの匂いまで染みついていた。それでも、その全部の奥に確かにある。
柔らかく乾いた甘さ。花のようでいて花ではなく、どこか土を思わせるのに重くない、近くにいなければ分からないほど淡い香り。アデル自身の匂いだった。リュシアンは彼女の肩口へ顔を伏せ、ようやく長い息を吐いた。普段は隙のない美しい横顔が、今だけはひどく疲れ、張り詰めたものが崩れそうになっている。
「……生きてる」
「はい」
アデルの声も、わずかに震えていた。
「生きています」
それを聞いても、腕の力はなかなか抜けない。
*
アデルは最初こそ戸惑っていたものの、やがて抵抗するのをやめた。頬に触れる黒髪は少し乱れ、いつもより低い位置まで落ちている。耳元で聞こえる呼吸も荒い。殿下も、怖かったのだ。そう気づいた瞬間、自分の中で張っていた糸まで切れた。捕まってからずっと、考えることをやめなかった。香りを残すこと、樹脂を燃やすこと、相手の顔を覚えること。考えている間は怖がる暇がなかった。
今はもう、考えなくていい。アデルの細い指が、ためらいながらリュシアンの上着を掴んだ。
「……殿下」
「なんだ」
「少しだけ、このままでいてもいいですか」
口にしてから、自分でも驚いた。リュシアンも一瞬動きを止め、肩口へ埋めていた顔を少しだけ上げた。灰青色の瞳が近い。疲労で少し赤くなった目元の奥に、驚きと、隠しきれない安堵が浮かんでいる。
「最初からそのつもりだ」
低く返し、もう一度アデルを抱き寄せる。今度は先ほどより少しだけ優しかった。アデルは目を閉じた。頬がリュシアンの胸元へ触れ、夜気と馬の匂い、その奥にある彼自身の香りが近い。いつから、自分はこの匂いまで覚えていたのだろう。そう思った瞬間、遅れて頬に熱が集まる。けれど、まだ離れたくなかった。
「殿下」
「今度はなんだ」
「見つけてくださったのですね」
「当たり前だ」
「香り、分かりました?」
「全部分かった」
アデルが顔を上げる。リュシアンはひどく疲れた顔をしていた。端正な顔立ちはいつも通りなのに、目の下には薄く影が落ち、黒髪は風に乱れたまま、白い頬も普段より血の気がない。
「……顔色が悪いです」
「誰のせいだと思ってる」
「誘拐犯です」
「お前も少し入ってる」
「理不尽です」
「こんなに長く匂いを追わせた」
「好きで長く誘拐されていたわけではありません」
いつもの言い合いになり、二人とも少しだけ黙った。こんな状況なのに、そこだけは以前と同じだった。そのことが、妙に嬉しい。リュシアンの視線が、アデルの手に残った小瓶へ落ちる。
「それ、ほとんど空だな」
「道中で使いましたから」
「なぜ、あれにした」
「え?」
「レモンとペパーミントを持ってるだろ。俺も知ってる。そっちでもよかったはずだ」
問われて、アデルは答えようとした。けれど、言葉が出なかった。理由なら、いくらでもつけられる。香り袋は一つしかないから、香水の方が何度も残せた。初代の香りなら特徴がある。リュシアンが知っている可能性も高い。どれも間違いではない。でも、それだけではなかった。あの馬車の中で、怖くて、誰かに気づいてほしいと願った時、頭に浮かんだのは一人だけだった。
「……分かりません」
「は?」
「正確には、あの時は分からなかったんです」
「今は?」
リュシアンの灰青色の瞳が、じっとこちらを見る。逃げられないような視線だった。アデルは小瓶へ目を落とす。あの日、この香りを作った時もそうだった。初代の想いを辿っているつもりで、何度も浮かんだのはリュシアンだった。そして今日も、助けを求めるために選んだのは、この香りだった。
「今は……少しだけ、分かる気がします」
「何が」
聞かれて、アデルは困ったように眉尻を下げた。白い頬には、ほんのりと赤みが戻っている。そこまで言葉にしたら、何かが変わってしまう気がする。
「秘密です」
「は?」
「まだ、私にも全部は分かりませんから」
「なら秘密じゃなくて未解決だろ」
「そうとも言います」
「誤魔化したな」
「殿下も、よくなさいます」
リュシアンが不満そうに眉を寄せる。その顔を見たら、アデルは少しだけ安心した。いつもの殿下だ。アデルは小瓶を握り直した。
「でも、これだけは分かります」
「なんだ」
「殿下なら、見つけてくださると思いました」
リュシアンの表情が止まった。鋭さを残していた灰青色の目が、わずかに見開かれる。
「不思議なんです。騎士の方が探してくださるとか、お父様が捜索してくださるとか、そういうことは考えませんでした。殿下なら、この香りに気づいてくださる。それだけは、最初から疑わなかったんです」
なぜだろうと、アデル自身も思う。嗅覚が優れているからだけではない。この人なら、自分が残した意味まで分かってくれると思った。それが何を意味するのか、まだ言葉にするのは怖い。
「……そうか」
リュシアンが低く答える。その右手がアデルの頬へ伸びかけた。けれど途中で止まり、わずかに迷った末、乱れた銀髪へ触れる。指先で小さな葉を取り除き、そのまま頬へ触れることはせず手を離した。アデルはその動きを、なぜか惜しいと思った。
「俺も、見つけられると思ってた」
「本当に?」
「途中で香りが途切れた時は、さすがに殺してやろうかと思ったけど」
「誰をですか」
「全員」
「駄目です」
「分かってる」
口ではそう言うものの、灰青色の瞳の奥にはまだ冷たい怒りが残っていた。アデルはそこを見つめて、ようやく気づく。この人も、本当に怖かったのだ。自分を失うのが。胸の奥に何かが柔らかく落ちた。
「殿下」
「なんだ」
「……来てくださって、ありがとうございます」
リュシアンはしばらく何も答えなかった。やがて端正な顔を少しだけ横へ向ける。暗い夜でも、耳の先が薄く赤いのが分かった。
「礼を言うところじゃない」
「では、何と言えば?」
「次から気をつけろ」
「ですから誘拐です」
「それは分かってる」
「では、殿下もご自分の名前を勝手に使われないよう気をつけてください」
「勝手に使う奴へ、先回りして言っておけと?」
「……それも無理ですね」
「だろうな」
アデルが吹き出す。その笑顔を見たリュシアンも、ほんの一瞬だけ表情を緩めた。笑うとこんな顔をする。アデルは以前から知っていたはずなのに、今夜はなぜか目を逸らせなかった。
*
帰りの馬車には、当然のようにリュシアンが乗り込んできた。
「殿下も?」
「駄目か」
「いえ。騎乗されるのかと思っていました」
「もう鼻が限界だ」
言われて、アデルはようやく彼がどれほど無理をしていたのか思い出す。隣へ座ったリュシアンは長身を背もたれへ預け、眉間を押さえて目を閉じている。乱れた黒髪が額へ落ち、普段よりずっと若く、疲れて見えた。
「頭、痛いですか」
「少し」
「少しの顔ではありません」
「お前に言われたくない」
言われて自分の姿を見る。淡い色の服は泥と煤で汚れ、袖には擦れた跡があり、銀髪も乱れたままだ。返す言葉がなく黙っていると、リュシアンは目を開き、自分の外套を脱いでアデルの肩へかけた。
「寒いだろ」
「殿下は?」
「平気だ」
「でも」
「今は俺の言うことを聞け」
いつになく強い口調だった。アデルはそれ以上逆らわず、深い色の外套へ身体を包ませる。長身の彼に合わせたそれは大きく、肩から膝近くまで覆ってしまった。そこに残るリュシアンの匂いに気づいた途端、先ほどまで平気だった心臓が急に落ち着かなくなる。困った。さっきはあんなに近くにいても平気だったのに、安全だと分かった途端、今度は近かったことそのものを意識してしまう。
頬が熱くなるのを誤魔化すように外套の襟元を少しだけ開くと、リュシアンがすぐに気づいた。
「寒いのか」
「逆です」
「熱がある?」
「そういう意味でもなくて」
「じゃあ何だ」
「何でもありません」
これ以上聞かれたら困る。窓の外へ顔を向けると、ガラスへ自分の顔が薄く映った。土で少し汚れた頬が、それでも分かるほど赤い。しばらくして、手の甲に何かが触れた。リュシアンの手だった。馬車が揺れた拍子かと思い、アデルは少しだけ手を引く。すると、その長い指が追ってきた。今度は明らかに意図的だった。
「……殿下?」
「何だ」
「手」
「あるな」
「ありますけど」
「嫌なら離せ」
リュシアンは窓の外を見たままだった。整った横顔には平然とした表情を作っているが、指先だけが少し強くアデルの手を包んでいる。嫌なら離せ。そう言われると、離しづらい。それに。嫌ではなかった。
「嫌では……ないです」
「そうか」
それだけ言って、リュシアンは指を絡めることもなく、ただ手を包んだ。恋人のような繋ぎ方ではない。そこにいることを確かめているようだった。そのまま、どちらも話さなかった。馬車の車輪が一定の音を刻み、夜の街道を進んでいく。やがてアデルの緊張が解け、急に重い眠気が押し寄せた。
「寝ていい」
「でも」
「着いたら起こす」
「……手は?」
思わず聞いてしまった。リュシアンの灰青色の目がこちらを向き、一瞬だけ意外そうに揺れる。
「このまま」
答えは早かった。アデルは少し迷ってから目を閉じる。握られている手が温かい。肩を覆う外套からは、リュシアンの匂いがする。不思議なくらい安心した。眠りへ落ちる直前、小さな硝子瓶のことを思い出す。
『始まりの香り』。
初代宮廷調香師は、誰にも言えない想いを香りへ閉じ込めた。では、自分は。そこまで考えたところで、意識が途切れた。
*
王宮へ戻った後も、リュシアンは医師の診察が終わるまで帰らなかった。
「殿下、お仕事は」
「後でやる」
「でも」
「お前は今日、俺の仕事だと言われて誘拐されたんだぞ。少しくらい責任を取らせろ」
「殿下の責任ではありません」
「分かってる」
「では」
「俺がいたいだけだ」
あまりにも自然に言われ、アデルは口を閉じた。リュシアン本人も言ってから気づいたらしく、灰青色の瞳が僅かに揺れ、すぐに視線を逸らした。
「……今のは」
「聞きました」
「忘れろ」
「最近、そればかりですね」
「うるさい」
アデルの口元が緩む。リュシアンは不機嫌そうに眉を寄せたが、その表情も以前ほど怖くは見えなかった。診察を終えた医師が大きな怪我はないと告げた時、リュシアンの肩から目に見えて力が抜けた。その一瞬を、アデルは見逃さなかった。帰り際、扉の前で彼が足を止める。
「明日」
「はい」
「調香室に行く」
アデルは目を瞬いた。
「お仕事ですか?」
「用事がないと行っちゃ駄目なのか」
「いえ」
「じゃあ行く」
それだけ言い残して、リュシアンは出ていった。閉まった扉をしばらく見つめたあと、アデルは自分の肩にまだ彼の外套が残っていることに気づいた。
「……返し忘れた」
明日返せばいい。そう思いながら襟元へ触れる。夜気と革、その奥に残るリュシアン自身の香りが、まだ微かに残っていた。アデルの指が止まる。
『始まりの香り』を作った日、自分は誰を思っていたのか。
誘拐された馬車の中で、誰に見つけてほしいと願ったのか。そして今、どうしてこの外套をすぐ侍女へ渡せないのか。鏡の中で、銀髪に囲まれた自分の顔がみるみる赤くなっていく。いつもは落ち着いて見える瞳も、今は紫と緑の境目が曖昧になるほど揺れていた。
「……少しだけ、分かったかも」
誰にも聞こえない声で呟き、アデルは外套の襟元を胸元へ引き寄せた。
*
アデルの証言を受け、交易管理部の文官はその夜のうちに身柄を押さえられた。王都へ戻っていた男は、騎士の姿を見てもなお、何かの間違いだと繰り返したという。
三日後、リュシアンは執務室に運ばれた記録へ目を通していた。捕らえた御者と護送役の供述、城門の出入りの記録、文官の私室から見つかった書簡。連れ去った相手を香料の仕入れ先へ引き渡すための、いびつな交易の輪郭が見え始めている。
「お呼びでしょうか、殿下」
騎士に付き添われ、文官が入ってきた。穏やかな声を保っているが、袖口から覗く指は固く握られている。
「そこに立て」
「私は、何度も申し上げた通り――」
「まず、そこだ」
男が数歩進んだ、その瞬間に分かった。洗っている。靴も、服も、おそらく何度も。別の香油まで重ねている。それでも革の奥に、わずかに残っていた。スミレ、沈丁花、ローズマリー。
「その靴、どうした」
「……靴、でございますか?」
「随分と念入りに洗ったな」
「雨で汚れましたので」
「そうか」
リュシアンは机の上の供述書へ指を置いた。
「アデルは、お前の靴へ香水をかけたと言っている」
男の喉が動いた。
「王宮では、あの方とお会いする機会もございます。どこかで偶然――」
「郊外の林で、馬車を替えさせられる直前だそうだ」
「記憶違いでは」
「御者も同じ林を指した。お前が待っていたことも、次の馬車を手配したことも話している」
文官が口を閉じる。灰青色の瞳を上げ、リュシアンはその顔を見据えた。香りだけで決めつけるつもりはない。だがアデルの証言は、御者の供述にも、城門の記録にも、今ここに残る香りにもつながっている。
「娘一人の勘違いで済ませられると思ったか」
「殿下、私は」
「座れ」
長身の王太子が立ち上がると、男は椅子の背へ手をかけたまま動かなくなった。リュシアンは机から一通の書簡を取り、向かいへ置く。
「ここにある商会の名を、一つずつ確かめる」
「…………」
「誰に渡すつもりだった。ほかの調香師たちはどこにいる」
逃げ道を探すように泳ぐ目を、リュシアンは黙って待った。
「長くなるぞ」
その日の夕方、文官は引き渡し先の名を口にした。供述をもとに騎士が向かった王都郊外の倉庫では、先に連れ去られた調香師たちが発見され、保護された。翌朝には補佐官から報告が届いた。国外の買い手と、仲介に使われた商会の捜査はまだ続く。それでも、連れ去られた者たちは生きて戻った。リュシアンは報告書を閉じ、ようやく息を吐いた。
*
その夜、執務室には王太子妃候補の資料がまだ残っていた。リュシアンは一人で椅子へ座り、一枚ずつ目を通していく。伯爵令嬢、侯爵令嬢、公爵家の姫君。どの候補も美しく聡明で、教養があり、語学にも秀でている。慈善事業へ熱心な者もいれば、領地経営について学んでいる者もいた。素晴らしいと思う。それなのに、何も感じなかった。資料を机へ置くと、あの夜の光景が蘇る。乱れた銀髪。
土のついた白い頬。夜の中で紫色を強く映していた瞳。そして、ミルラ、ベンゾイン、フランキンセンスの中を細く続いていた、『始まりの香り』。アデルは自分を信じた。自分なら見つけると信じて、あの香りを残した。もし間に合わなかったら。考えたくもないのに、考えてしまう。
アデルがいない調香室。誰も立っていない作業台。二度と見られない銀髪も、笑うと少し柔らかくなる目元も、聞き慣れた声も。誰かに連れ去られるのも嫌だ。他の男と結婚するのも嫌だし、自分の知らないところで笑っているのも嫌だった。その男が毎朝アデルを見て、自分より近くであの淡い香りを覚えていくのだと思うと、それだけで腹が立つ。嫉妬なら、とっくに知っていた。
アデルが他の男のことばかり考えているのが嫌だった。他の男に好かれるための香りをつけるのも、他の男に笑うのも面白くなかった。けれど、それだけではない。あの夜、腕の中で「少しだけ、このままでいてもいいですか」と言われた時、自分がどれほど安堵したのかを思い出す。帰りの馬車で、眠ったアデルの手を離せなかったことも。
医師が無事だと告げるまで、帰る気になれなかったことも。専属調香師だから傍にいてほしいのではない。香りを作ってほしいからでもない。毎日会いたい。くだらない話にも付き合ってほしい。調香室へ行けば、そこにいてほしい。できるなら明日だけではなく、その先も。一年後も、十年後も。
朝、目を覚ました時にあの銀髪が近くにあって、顔を寄せればあの淡い香りがするくらいの距離にいてほしい。そこまで考えて、リュシアンは片手で口元を覆った。
「……そういうことか」
ようやく腑に落ちた。自分が欲しいのは、宮廷調香師ではない。
「アデルが欲しい」
誰もいない部屋で、初めてはっきり口にした。アデル・アレクシアという、一人の女が。机の上には、王太子妃候補の資料が並んでいる。リュシアンはしばらくそれを見つめてから、一枚目へ手を伸ばした。今度は逆さではない。一人目の名前を読む。二人目。三人目。やはり違う。誰でもいいわけではない。
「……アデルじゃなきゃ嫌だ」
言ってしまえば、驚くほど簡単だった。一度分かってしまえば、次に考えることも決まっている。どうすれば、アデルを自分の隣へ連れてこられるか。灰青色の瞳が、先ほどまでとは違う光を帯びる。リュシアンは王太子妃候補の資料を閉じた。明日、母に話をしよう。王太子妃候補を選べと言われた。ならば、選べばいい。




