第六話 アデルの香り
無事に十一月を乗り切ったアデルは、いそいそと帰り支度を始めていた。
「手帳は持った。道具は工房にもあるから大丈夫。あとは……」
作業台の上に並べた荷物をひとつずつ確かめながら、肩へ落ちてきた銀色の髪を指先で払う。普段は低い位置で編み込んでまとめている髪も、今日は長旅に備えて少しきつめに結い上げていた。光を受けるたび淡い青紫の陰を宿す髪は、ほどけば腰近くまで届くほど長いのだが、調香の邪魔になるため、アデルが人前で下ろすことはほとんどない。忘れ物はないはずだった。
そう思って部屋を見渡したとき、棚の一角に置かれた紫色の小瓶が目に入る。初代宮廷調香師の手記をもとに、自分が作った『始まりの香り』。
「……持っていこうかな」
伸ばしかけた指が、瓶に触れる寸前で止まった。
アデルは仕事中には香水を使わず、普段もほとんどまとわない。香水をまとうことが身だしなみの一部とされるスピネリアでは珍しいことだが、幼い頃から香料に囲まれて育ったせいか、自分まで何かをまとう必要性を感じたことがなかった。まして、これから帰るのはアレクシア侯爵家である。香料も道具も王宮に負けないほど揃っているのだから、この小瓶を持っていく理由などどこにもない。
それでもしばらく迷った末、アデルは小瓶を布で丁寧に包み、荷物の隅へそっと収めた。
宮廷調香師として王宮に住み込みで働き始めて、三か月と少し。最初は借り物のようだった調香室も、今ではどこに何があるのか目を閉じても分かるほど、自分の場所になっている。乳鉢、天秤、香料瓶、冬の冷気を映す窓、その向こうの鉛色の空。そして作業机の向かいには、いつの間にか一脚増えた椅子がある。頼んだ覚えはない。ただ、そこへ座る人間はほぼ決まっていた。
濃紺の上着に長い脚、艶のある黒髪。切れ長の灰青色の目を持つ、黙っていれば物語に出てくる王子そのものの、整いすぎた顔。
――黙っていれば、だが。
「……よし」
余計なことを考えるのをやめて荷物を持ち、扉のところまで行ったところで、アデルはなぜかもう一度だけ振り返った。数日離れるだけなのに、いつも使っている作業台が妙に遠く感じる。
「さようなら」
ぽつりと落ちた自分の声に、アデルは少しだけ眉を下げた。自分でも、妙な気分だった。
*
スピネリア王国の王太子、リュシアン・スピネリアに入れない場所はほとんどない。国王夫妻の私室や女性たちの着替え部屋、せいぜいその程度である。少なくとも宮廷調香師の作業部屋は違う。最近ではむしろ、本人より長くいるのではないかと思うほど入り浸っている。それなのに今、リュシアンはその扉の前で立ち尽くしていた。
「……アデル?」
返事はない。切れ長の灰青色の瞳がわずかに細くなる。まっすぐ通った鼻筋に、薄く形のいい唇、やや直線的な眉。元々、笑っていなければ近寄りがたい顔立ちなのだが、不機嫌になるとその印象はいっそう強くなった。廊下を通りかかった侍女が、視線を合わせないままそっと歩幅を速める。リュシアンはそんなことには気づかず扉を開けた。
「アデル」
いない。作業台は綺麗に片づき、いつもなら開きっぱなしになっている調香帳も、途中まで使った試香紙も、小さな乳鉢も見当たらなかった。嫌な予感がした。隣室、廊下、庭園、食堂。普段なら長い手足を持て余すように悠々と歩く男が、その日に限って妙に足早に王宮内を探し回り、ようやく根本的なことに気づいた。今日、一度もアデルを見ていない。
「……アデル、俺に何も言わずどこに行ったんだ」
誰もいない調香室へ戻り、いつもの椅子へ腰を下ろす。彼の長身には少し小さな椅子で、長い脚を持て余すように組んでみても落ち着かない。普段なら目の前に銀髪の娘がいて、こちらを無視するように香料瓶を並べたり、ときどき呆れた顔を向けてきたりするはずなのに、今日はその姿がないせいか、室内が妙に広く感じられた。探しに行くか、と一瞬本気で考えた。
宮廷調香師を、王太子が、行き先も知らないまま。
「……それは、さすがに駄目だと分かるな」
「殿下……」
背後から、ひどく弱々しい声がした。振り返れば、補佐官が廊下に立っている。
「そろそろ公務に戻っていただけますとぉ……」
語尾からして、ほぼ死んでいる。この王太子が、宮廷調香師一人見当たらないだけで朝から王宮内をうろついていることを、彼も察しているのだろう。
「分かっている!」
そう言いながら立ち上がる。濃紺の上着が大きく揺れ、長身を包む上質な衣装も、今の表情と合わさると、王族というより機嫌を損ねた十八歳にしか見えなかった。
*
執務室へ戻って十分。
「……臭い」
補佐官の肩が跳ねた。
「何がでございましょう」
リュシアンが長い指で書類を持ち上げる。
「これ。香水臭い」
「先ほどまで普通にお読みになっていた書類でございます」
「今日は臭い」
「左様で……」
窓を見る。開けたいが、外は十二月の冬空で、庭木は冷たい風に枝を揺らしていた。
「……寒いな」
「冬ですので」
「分かってる」
諦めて次の書類へ目を移す。花、香油、革、人の手を渡ってきた書類には、それぞれ生活の匂いが染みついている。今までも、ずっとあった。それなのに今日は、ひとつひとつがひどく鼻についた。リュシアンは眉間へ指を当てる。普段なら、こうなったときに逃げる場所がある。王宮の中で、ほとんど唯一と言っていいほど香水の匂いがしない場所だ。
そこには銀灰色の髪をまとめ、光によって青緑にも紫にも見える瞳で香料瓶を覗き込んでいる娘がいる。白く細い指で試香紙を持ち、何か考え込むと薄い唇をほんの少し尖らせる癖があって、こちらが余計なことを言えば、その綺麗な目を呆れたように細める。紙と、石鹸と、わずかな柑橘。その奥にある、未だ正体の分からない柔らかな香り。今日は、それがない。机の端の水を取り、一口飲む。
「……水さえ変な匂いがする気がする」
補佐官は静かに天井を仰いだ。
*
その頃、アデルはアレクシア侯爵家へ到着していた。馬車を降りれば、見慣れた灰色の石造りの屋敷と冬枯れの庭が目に入る。王宮ほど壮麗ではないが、歴史ある侯爵家らしい落ち着きがあり、冷たい空気の中には土や乾いた葉、木、そして少し離れた工房から漂う淡い香料の気配が混じっていた。アデルは深く息を吸う。
「ただいま戻りました」
「姉様!」
小さな影が飛び出してくる。
「ねえさまだ〜!」
もう一人。
「わっ」
左右から抱きつかれ、細身の身体が少しよろめいた。
「お帰りなさいませ、アデルお嬢様」
侍女たちが笑い、アデルも自然と顔を綻ばせる。宮廷では知的で涼しげに見えるアーモンド形の瞳が柔らかく細まり、まだ十八歳らしい丸みの残る頬も、実家では少し幼く見えた。
「ただいま、ルシア、テオ。元気にしていた?」
「元気よ!」
十歳の妹、ルシア。
「僕も!」
八歳の弟、テオドール。二人とも、アデルと同じ両親から生まれたきょうだいではない。アレクシア家では昔から、血筋だけを理由に技術を継承することはしなかった。調香、栽培、香料の選別。一族の傍系に類い稀な才能を持つ子が生まれれば、本人と生家の同意を得た上で、本家へ迎えることがある。ルシアも、テオドールもそうだった。
「ルシア。お花たちは?」
「元気よ。毎日お話していたもの」
胸を張る。
「今年は寒くなるのが早かったでしょう?」
「ええ。でも北側の子たちは平気。南側の子たちは少し元気がなかったから、藁を増やしたわ」
ルシアには草花の状態を見る目がある。葉の色、茎の張り、土の乾き。ほんの小さな変化まで、まるで植物から直接聞いたかのように見抜いてしまうから、本人はそれを「花と話す」と表現していた。
「テオは?」
「僕も元気! あとね」
テオドールが得意げに自分の鼻を指差す。
「アデル姉様が今日帰ってくるって決めたの、僕だよ」
「ええ。聞いているわ」
テオドールには、香料が最良の状態になる瞬間を嗅ぎ分ける鼻がある。まだ八歳で、知識も経験もアデルには遠く及ばないが、香りを捉える一点だけなら、大人たちが息を呑むことさえあった。今回の帰省も、彼の判断によるものだ。
「もういいの?」
アデルが尋ねると、テオドールが大きく頷いた。
「うん。あのイリス、今だと思う」
幼い顔に浮かんだ真剣さを見て、アデルの表情も変わった。光の加減で紫がかった色を見せる瞳が、弟をまっすぐ捉える。
「分かった」
アレクシア家が育てる、最高級のイリス。香料に使うのは花ではなく、その地下に育つ根茎である。育て、掘り上げ、丁寧に洗い、乾燥させ、何年も熟成させる。掘った直後には青臭さの残る根が、長い時間を経ることで柔らかく、乾いた甘さを持つ香料へ変わっていく。だからこそ、最後の工程で失敗するわけにはいかない。
ルシアは職人たちに教わりながら次の根茎になる株を育て、テオドールは熟成を終えた根茎の時を見極める。そしてアデルが、最後の加工を担う。世代をまたいで続いてきた仕事へ、今は三人も加わっていた。
「三人でお茶をしたら、早速始めましょうか」
「はい!」
「は〜い!」
二人の声が重なり、アデルは笑った。王宮も随分と居心地のいい場所になった。けれど、ここは自分が何者になるより前から、帰る場所だった。
*
その頃、リュシアンではなく、正確にはリュシアンの補佐官が限界を迎えていた。今までも厳しいお方ではあった。判断は早く、間違いによく気づき、細かく、そして容赦がない。だが今日の王太子は、何かが違う。勤務そのものが重罰のような――。
「これ」
「はい」
「数字が違う」
「申し訳ございません!」
「こっち」
「はい!」
「文章が長い」
「修正いたします!」
「これ」
「はいぃ!」
リュシアンが顔をしかめた。整った顔立ちなだけに、眉間へ皺を寄せると余計に怖い。
「香水臭い」
「それは私にはどうにもできません!」
ついに言った。灰青色の瞳が補佐官を見る。補佐官は泣きそうだった。
「で、殿下」
「なんだ」
「あの、発言をしてもよろしいでしょうか」
「あ?」
リュシアンが椅子へ深く腰掛ける。高い背丈と長い脚のせいで、大きな執務机さえ少し小さく見えた。
「何についてだ。この書類、全部やりたいって話か?」
「……!!!」
「殺される……仕事で」
聞こえるか聞こえないかの声が漏れた。補佐官は必死に首を横へ振った。
「宮廷調香師様の、本日のご予定についてでございます!」
リュシアンの動きが止まる。
「は?」
「ですから、アデル・アレクシア様の――」
「なんでお前が知っている!? 俺も聞いてないのに!」
「そこに怒られるのですか!?」
「どこだ」
「はい?」
「アデルはどこにいる」
「アレクシア侯爵家でございます」
「実家?」
「はい」
「なぜ」
「イリスでございます」
「イリス?」
補佐官はようやく説明を始めた。アレクシア侯爵家では、王室へ納める最高級のイリス香料を代々生産している。毎年ではなく、熟成させていた根茎が最高の状態を迎えたと判断されたときだけ、宮廷に勤めている者も領地へ戻り、重要な加工工程へ参加する。
「出立の届けは昨日、こちらへ届いております。日程表にも記しました。歴代の宮廷調香師様も参加なさる工程でございますので」
リュシアンは机の端の日程表を見た。確かに、そこに書かれていた。リュシアンは黙った。逃げたわけではない。辞めたわけでもない。自分に嫌気が差したわけでも、おそらくない。目に見えて肩の力が抜ける。
「いつ帰ってくる」
「作業が終わり次第かと」
「何日だ」
「それは香料次第でございます」
「……」
「殿下?」
リュシアンは椅子へ座り直した。補佐官がほっと息を吐く。ようやく仕事に戻ると思ったのだろう。
「馬車を用意しろ」
「はい?」
「アレクシア侯爵家へ行く」
「なぜ!?」
「視察だ」
「何のです!?」
「王室へ納める香料の」
「今考えましたよね!?」
「早くしろ」
立ち上がりながら、乱れた黒髪を手で整える。出かける気満々である。
「公務は!?」
リュシアンは机の上に積まれた大量の書類を見て、それから補佐官を見る。
「俺の決裁が要るものは馬車へ。残りの整理を頼む」
「重罰!!」
*
アレクシア侯爵家の工房は、屋敷から少し離れた場所に建っている。香料によっては非常に強く香るため、生活空間とは分けられていた。王宮では白い前掛けと端正な仕事着を身につけているアデルも、ここでは昔から着慣れた、少しくたびれた工房用の服を着ている。袖は肘近くまで捲られ、普段は低くまとめている銀髪も、今日は邪魔にならないよう高い位置で編み上げられていた。
細い首筋が、いつもよりよく見える。もちろん本人は、そんなことを気にしていない。
「姉様、これ」
「ありがとう。ルシア、次はこちらをお願い」
「はい」
「テオ。この状態で合っている?」
テオドールが真剣に香りを確かめる。一度、二度。
「うん」
「分かった」
アデルは細い指を動かし、慎重に作業を進めていく。香りが少しずつ姿を変え、柔らかく乾いた甘さが立ち上った。花のようでいて花ではなく、どこか土を思わせる静けさを含みながら、粉雪のように淡く残る。
「いい香り」
ルシアが笑う。
「ええ」
アデルも笑った。そのとき、外が急に騒がしくなった。馬の音、人の声、使用人たちが慌ただしく動く気配。
「何かしら」
アデルが顔を上げる。扉が開いた。
「アデル!」
一瞬、誰か分からなかった。工房の入口を、長身の男がほとんど塞いでいる。冬の外気をまとった艶のある黒髪、その下から灰青色の瞳がまっすぐこちらを見ていた。濃紺の上着に長い脚、細身ではあるが、仕立てのいい衣服の下には意外としっかりした肩と胸板がある。
夜会に立っていれば、令嬢たちが目で追うのも分かるほど整った姿なのに、今その顔に浮かんでいるのは王族らしい威厳ではなかった。
「いた」
安堵だった。切れ長の目がわずかに緩み、険しかった眉間から力が抜けている。
「……殿下?」
なぜ、王太子が自分の実家の工房にいるのだろう。
「本当にいた」
「実家ですからね」
リュシアンが工房へ入ってくる。そのままいつものようにアデルのところまで来ようとして、途中で止まった。鼻がわずかに動く。
「……これは?」
「イリスです」
リュシアンが息を吸う。眉間に皺は寄らず、顔色も変わらない。
「平気そうですね」
「ああ」
むしろ、何かを探すようにもう一度香りを吸い込んでいる。その横顔を、アデルは少し不思議な気持ちで見た。高い鼻筋、長い睫毛、引き締まった顎の線。正面から睨まれていると鋭さばかりが目につくのに、横から見ると、本当に綺麗な顔をしている。
「殿下」
「ん?」
灰青色の瞳がこちらを向く。見ていたことに気づかれそうで、アデルは慌てて問いかけた。
「なぜこちらへ?」
「視察」
即答だった。
「何のです?」
「王室へ納める香料の」
「……」
「なんだ」
「今、考えませんでした?」
「考えてない」
嘘だと思う。
「姉様」
ルシアがアデルの袖を引いた。
「こちらの方は?」
「ああ」
完全に忘れていた。
「リュシアン・スピネリア王太子殿下よ」
二人の子どもの視線が、下から上へ動く。無理もない。子どもの目には、ただでさえ背の高いリュシアンは巨大に見える。しかも、黙っていればかなり怖い顔をしている。次の瞬間。
「えええええ!?」
声が工房へ響いた。
「姉様! 王太子殿下とお知り合いなの!?」
「専属調香師ですから」
「姉様すごい!」
「アデル姉様、偉い人だったの!?」
「宮廷調香師だからね」
なぜ今知った。ルシアがリュシアンをじっと見上げる。
「リュシアン殿下」
「なんだ」
「姉様にご用ですか?」
「そうだな。主に」
「殿下」
アデルがすぐ口を挟む。
「視察では?」
「それもある」
やっぱり。アデルは額を押さえた。
*
「作業が終わるのは、早くても明日です」
「明日?」
「順調に進めば、ですが」
「今日じゃないのか」
「香料に急げと言っても仕方ありません」
もっともである。リュシアンは工房の椅子へ腰掛けていた。身体が大きいせいで、昔からある木製の椅子が妙に小さく見える。長い脚を少し持て余しながら片膝へ肘を置き、こちらを見ている。帰る気配はない。
「殿下。王宮へお戻りにならなくてよろしいのですか?」
「今日の予定は終わらせてきた」
馬車へ持ち込んだ書類は片づけたらしい。補佐官へ残した仕事の量までは、アデルには分からない。
「ですが」
「泊まる」
「はい?」
アデルの瞳が大きくなる。
「侯爵にも許可をもらった」
「いつの間に」
「さっき」
父。何をしている。いや、王太子に泊めろと言われて断れるわけがない。
「客室まで用意してもらった」
「そうですか……」
「だから続けろ」
「何をです?」
「仕事。俺は見てる」
当然のように言う。アデルはしばらく黙ってから、諦めたように息を吐いた。
「邪魔だけはなさらないでくださいね」
「しない」
「香料に触らない」
「分かった」
「勝手に瓶を開けない」
「分かった」
「ルシアとテオの作業を急かさない」
「……分かった」
今、少し嫌そうだった。作業が再開する。ルシアが状態を見て、テオが香りを確かめ、アデルが手を動かす。
*
リュシアンは本当に、ただ見ていた。王宮とは違うアデルを。普段、銀髪は低くまとめられ、服装も宮廷調香師らしく端正で、姿勢も言葉遣いもきちんとしている。ここでは違う。
「テオ、そこ危ない」
「はーい」
「ルシア、髪が落ちてきているわ」
「結んで」
「もう。こちらへいらっしゃい」
妹の後ろへ立ち、器用な指で髪をまとめ直す。その拍子に、自身の銀髪からも細い後れ毛が落ち、白い頬を撫でた。
「姉様、これでいい?」
「ええ。上手よ」
「本当?」
「本当」
笑う。リュシアンは頬杖をついたまま、その顔を見ていた。王宮でも笑う。けれど少し違う。肩の力が抜けていて、瞳も柔らかく、普段よりずっと幼く見える。銀色の後れ毛が頬にかかっても気にせず、弟妹へ向けている笑顔には、宮廷では見せない無防備さがあった。自分の知らない顔だった。それがなぜか、少し面白くない。
自分の知らないアデルを、この屋敷の人間たちは当たり前のように知っている。けれど、知らなかった顔を知ること自体は、不思議と嫌ではなかった。むしろ。もっと見たいと思った。
*
夜、リュシアンは客室で目を覚ました。見慣れない天井を見上げ、一瞬だけ自分がどこにいるのか分からなくなる。身体を起こすと寝間着の襟元が少し乱れ、昼間きっちり整えられていた黒髪も、今は柔らかく額へ落ちていた。静かだ。王宮より、ずっと。香水をまとった人間もいないし、大量の書類もない。リュシアンは寝台を降り、寝間着の上から外套を羽織って廊下へ出た。そこで足が止まる。
「……ん?」
知っている。何か、知っている匂いがした。紙でも、石鹸でも、柑橘でもない。もっと奥にあるもの。ずっと分からなかったもの。裏口から庭へ出ると、別棟の工房にまだ明かりがついていた。冬の空気に肩をすぼめ、灯りへ向かって歩くにつれ、知っている甘さが少しずつ濃くなった。扉を開ける。
「アデル」
「殿下?」
振り返ったアデルは、まだ作業を続けていた。昼間よりさらに髪が崩れ、高くまとめた銀髪から細い後れ毛がいくつも落ちて、白い首筋へ張りついている。袖は肘まで捲ったままで、疲れのせいか頬にはわずかに赤みが差していた。化粧も宝石もない。それなのに、いや、だからなのか。リュシアンは一瞬だけ黙った。
「どうなさいました?」
アデルが首を傾げる。青緑の瞳が、灯りの下では少し紫を帯びて見えた。長時間の作業で眠たげになっているせいか、普段より目元も柔らかい。リュシアンは答えず、工房の奥へ入った。ゆっくり息を吸う。同じだ。正確には、似ている。
「これ」
「はい?」
「何の匂いだ」
「イリスですが」
アデルが容器を示す。近づいて香りを確かめる。乾いていて、柔らかく、ほのかな甘さがある。土のような静けさを持ち、派手ではないのに不思議と落ち着く香りだった。
「……これだ」
「何がです?」
「お前の匂い」
アデルの動きが止まった。
「またそのお話ですか」
「いや。前から分からなかったやつ」
「分からなかった?」
「紙と、石鹸と、少し柑橘。その奥」
*
真剣に言われ、アデルは瞬きをした。心当たりはある。生まれたときから、この屋敷にはイリスがあった。工房にも、保管庫にも、乾燥中の根茎にも。紙や衣類に残る工房の香りには、すっかり慣れていた。帰省に使った鞄や実家から届く布にも、同じ香りがごく淡く残っているのかもしれない。
「多分、幼い頃からここで育ちましたから」
「やっぱり」
リュシアンが少し笑った。ほんのわずかに口元を緩めただけなのに、普段は冷たく見える灰青色の瞳まで柔らかく見える。綺麗な顔。そう思ってしまい、アデルはすぐに打ち消した。整った顔だということなど、初めから分かっていたはずだ。
「でも、それなら殿下がお感じになっていたのは、私の香りというより、アレクシア家の工房の香りでは?」
リュシアンが黙る。もう一度イリスを嗅ぎ、それからアデルを見る。視線が、銀髪から頬へ、そこから露わになった首筋へ落ちた。一歩、近づく。
「殿下」
アデルも一歩下がる。
「確認する」
「何をです?」
さらに近づいてくる。寝間着姿とはいえ、相手は背の高い男だ。距離が縮まれば、視界の大半をリュシアンが占める。切れ長の目、高い鼻筋、乱れた黒髪、薄い唇。普段なら気にも留めない部分が、近いと妙に目についた。
「殿下」
鼻先が首元へ寄る。
「殿下!」
アデルは両手で胸を押した。思っていたより硬い。
「やっぱり違う」
「何をなさっているんですか!」
「イリスだけじゃない」
「それはそうでしょう! 人間ですから!」
「紙」
「はい」
「石鹸」
「はい」
「柑橘」
「はい」
「イリス」
「はい」
リュシアンが眉を寄せる。
「あと何かある」
「知りません!」
「本人なのに?」
「自分の匂いなんて分かりません!」
明らかに不満そうな顔をされても困る。
「殿下、夜中です」
「ああ」
「私は作業中です」
「そうだな」
「寝てください」
「分かった」
珍しく素直に扉へ向かう。アデルはほっとした。扉のところで、リュシアンが振り返る。
「アデル」
「はい」
「明日、一緒に帰るぞ」
「作業が終われば」
「終わらせろ」
「香料に言ってください」
扉が閉まる。一人になった静かな工房で、アデルは無意識に自分の首元へ手を当てた。さっき、リュシアンの鼻先が近づいた場所。
「……もう」
頬が少しだけ熱かった。
*
翌日の午後、無事にイリスの香料は仕上がった。
「できた……」
アデルが息を吐く。長い銀髪もすっかり乱れ、疲れは隠せない。それでも表情は晴れやかだった。
「やった!」
ルシアが飛び跳ねる。
「できたー!」
テオドールも続く。
「二人とも、お疲れさま」
「姉様も!」
三人で笑う。少し離れたところで、リュシアンは出来上がった香料を受け取った。大きな手の中では、小さな容器がさらに小さく見える。鼻元へ近づけ、息を吸う。
「どうです?」
「好きだ」
即答だった。アデルの目が丸くなる。
「本当ですか?」
「ああ」
嬉しい。素直に、そう思った。自分の家で、妹と弟と、長い時間をかけて作った香り。それをこの人が好きだと言った。
「それは、よかったです」
アデルが笑う。新緑色に見える瞳が柔らかく細められ、疲れの残る白い頬が少しだけ緩む。その表情を見ていたリュシアンは、ふとルシアとテオドールへ目を向けた。
「お前たち」
「はい!」
「は、はい!」
二人が反射的に背筋を伸ばす。
「もっと頑張れ」
「……?」
ルシアが首を傾げる。
「何をですか?」
「全部」
「殿下」
雑すぎる。
「ルシアは栽培。テオドールは香料の見極め。早く一人前になれ」
「殿下?」
アデルが嫌な予感を覚える。
「必要な支援があるなら言え。王室で出す」
「えっ」
「本当!?」
「殿下。突然どうなさったのです?」
リュシアンは当然の顔で答えた。
「二人ができるようになれば、アデルが毎回帰ってこなくてもいいだろ」
三人とも黙った。
「殿下」
「なんだ」
「私を何だと思っているんです?」
「俺の専属調香師」
即答。
「その前にアレクシア家の人間です!」
「帰るなとは言ってない。帰りたいときは帰ればいい」
「では」
「でも、仕事のために絶対帰らなきゃならないのは困る」
「何が困るんです?」
「俺が」
また即答だった。アデルが固まる。ルシアがリュシアンを見て、姉を見て、もう一度リュシアンを見る。
「殿下」
「なんだ」
「姉様がいないと、寂しいの?」
「そうだな」
アデルが咳き込んだ。
「殿下!?」
「何だ」
「何でそんなに普通に答えるんですか!」
「聞かれたから」
「そういう問題ではありません!」
ルシアがにやにやし始める。テオドールはよく分かっていない。
「じゃあ僕、いっぱい頑張る!」
「よし」
「殿下!」
「早く姉様の代わりになればいい?」
「テオ」
アデルがしゃがみ、弟と同じ高さまで目線を下げる。銀髪が肩から滑り落ちた。
「それは違うわ」
「違うの?」
「ええ。誰かの代わりになる必要はないの。あなたたちは、あなたたちにしかできないことを覚えればいいのよ」
「うん」
「はい」
弟の頭を撫でていると、リュシアンの視線を感じた。顔を上げるより先に、静かな声が落ちてくる。
「……そうだな」
アデルが顔を上げる。
「殿下?」
「アデルの代わりじゃなくていい。お前たちの仕事をできるようになれ」
「はい!」
「うん!」
「その結果、アデルが帰る回数が減ればなおいい」
「結局そこですか!」
工房に笑い声が響いた。
*
仕上げた香料の状態を一日置いて確かめたあと、アデルはリュシアンと同じ馬車で王宮へ戻っていた。
「別の馬車でもよかったのでは?」
「なぜ」
「なぜ、と申されましても」
王太子の馬車である。侯爵令嬢とはいえ、宮廷調香師が当然のように王太子と同じ馬車で帰るものなのだろうか。向かいではリュシアンが長い脚を組んでいる。黒髪も王宮へ戻るため綺麗に整えられ、濃紺の上着には一分の乱れもない。細身ではあるが長い身体によく似合う服で、窓から入る冬の光が、鋭い輪郭と灰青色の瞳をいっそう冷たく見せていた。
数日前、寝間着姿で工房へやって来た男と同一人物とは思えない。
「同じところへ帰るのに、二台使う必要ないだろ」
「それは、まあ」
正論である。窓の外には冬の景色が流れていく。葉を落とした木々、薄い雲、乾いた街道。アデルは少しだけ笑った。同じところへ帰る。リュシアンは、王宮をそう言った。以前なら、アデルにとって帰る場所はアレクシア侯爵家だけだった。今も実家は変わらず大切だ。それでも王宮へ向かう馬車の中で「帰る」と言われても、不思議と違和感はなかった。
*
王宮へ戻った翌日。
「アデル」
「はい」
「イリスの香水を作ってくれ」
アデルは顔を上げた。
「殿下に?」
「ああ」
少し驚いた。リュシアンは香水そのものを好まない。これまで頼まれたのは、身近に置く香り袋や香片、それから『始まりの香り』の再現だった。今回は、自分の身にまとうための香水がほしいという。
「気に入ってくださったのですね」
「うん」
嬉しい。アデルの表情がぱっと明るくなる。
「承知いたしました。イリスを中心に、殿下でも使いやすいよう軽く仕上げますね」
「頼む」
その日から何度も試した。イリスの柔らかさは残し、重くしすぎず、甘くしすぎず、リュシアンが苦手とする香料は避ける。その間も彼はいつもの椅子に座り、書類を読んだり、ときどきアデルの作業を眺めたりしていた。香料瓶を選ぶときも、頬に落ちた銀髪を耳へかけるときも、顔を上げるとなぜか彼と目が合った。何か気になるのかと尋ねても、リュシアンは首を振るばかりだった。
*
数日後。
「できました」
アデルが小瓶を差し出す。
「こちらです」
リュシアンが受け取り、試香紙へ一滴落とした。静かなイリス。少しの柑橘。木の気配。柔らかく、清潔で、ごく淡い。
「いかがです?」
アデルは期待した顔で見つめている。リュシアンはもう一度香りを確かめた。
「……違う」
「え」
笑顔が消える。
「違います?」
「ああ」
「強すぎました?」
「いや」
「甘い?」
「違う」
「でしたら、木の香りを――」
「そうじゃない」
リュシアンは試香紙を置いた。
「アデルの匂いじゃない」
「……」
アデルは黙った。
「殿下。私はイリスの香水を作れと伺いました」
「ああ」
「作りました」
「ああ」
「では何が――」
リュシアンが立ち上がった。座っていると分かりにくいが、やはり大きい。アデルとの間には、かなりの身長差がある。嫌な予感がした。
「殿下?」
近づいてくる。
「またですか」
「何が」
「その距離です」
「確認」
「しなくて結構です」
アデルが一歩下がり、リュシアンが一歩進む。さらに下がったところで、背中が棚へ当たった。逃げ場がない。目の前には濃紺の上着。顔を上げれば、灰青色の瞳とまともに目が合う。近い。整った顔というのは、遠くから見る分にはいい。近いと困る。高い鼻筋も、黒い睫毛も、少し薄い唇も、全部が見えすぎる。
「ちょっと」
リュシアンの視線が、アデルの目から銀髪へ落ちる。一房を指に取った。
「殿下」
鼻先を寄せる。
「髪にもある」
「やめてください!」
その手を避けようと身体をひねった、その瞬間だった。腰に腕が回る。
「え」
細い腰を、大きな手がしっかりと掴んだ。
「殿下?」
そのまま、ぐっと引き寄せられる。背中が棚から離れ、代わりに身体の前側がリュシアンへ近づいた。胸元が触れそうなほど距離が縮まり、アデルは反射的に両手を彼の胸へついた。硬い。思ったよりずっと近い。
「逃げるから」
「逃げますよ!」
「確認できない」
「しなくていいと言っています!」
腰を支える手は離れない。細い身体なら片腕で簡単に引き寄せられることが気に入らない。見上げれば、リュシアンは困ったようでも悪びれたようでもなく、むしろ何かを真剣に確かめる目をしていた。次の瞬間、顔が首元へ落ちてくる。
「殿下――」
鼻先が触れそうな距離まで近づき、銀髪を分けるようにして息を吸われる。
「ひゃっ」
肩が跳ねた。
「やっぱり、こっち」
「何がこっちですか!」
「イリスだけじゃない」
「それはそうでしょう!」
リュシアンは、もう一度ゆっくり息を吸った。
「紙」
「離れてください」
「石鹸」
「殿下」
「柑橘」
「聞いています?」
「イリス」
「もう分かりましたから!」
アデルが身を捩る。けれど、腰を押さえる手に少し力が入り、逃げようとした身体がまた引き戻された。
「殿下!」
「動くな」
「なぜです!?」
「分からなくなる」
「何がですか!」
「あと一つ」
「知りません!」
リュシアンの声は、耳のすぐ近くで聞こえた。低い声が距離のせいで妙に近く感じられ、アデルの背筋がぞくりとする。そのとき。首筋に。柔らかいものが触れた。
「――っ」
一瞬だった。息かと思った。けれど違う。唇。ほんのわずかに、触れただけ。キスと呼ぶにはあまりにも短く、偶然だったと言われれば、そうなのかもしれない。それでも。そこだけ急に熱を持ったように感じた。アデルの身体が固まる。リュシアンも動きを止めた。
「……」
「……殿下」
声が出るまで、少し時間がかかった。リュシアンがゆっくり顔を上げる。灰青色の瞳と目が合う。いつもなら何を考えているのか分からないほど淡々としているその顔が、今だけはほんの少し驚いたように見えた。けれど。腰の手は離れない。
「今」
アデルの声が震える。
「唇、当たりませんでした?」
リュシアンは一度だけ瞬きをした。
「当たったな」
「当たったな、ではありません!」
「お前が動くから」
「私のせいですか!?」
「半分くらい」
「全部殿下のせいです!」
真っ赤になったアデルが胸を押す。それでもリュシアンは、今度はすぐには離れなかった。むしろ目の前のアデルをじっと見た。その視線が髪から頬へ移り、逃げ切れずに彼の胸へ置いたままの両手へ落ちた。見られていると意識するほど、頬が熱くなる。リュシアンの目が、わずかに細くなる。
「……やっぱり」
「何ですか」
「こっちの方がいい」
「何がです」
「香水より」
「だから、香水がこちらにあるではないですか!」
アデルは必死に作業台を指差した。
「殿下のために作ったんです!」
「それは使う」
「なら、そちらを嗅いでください!」
「でも、アデルの方がいい」
「比べないでください!」
「だって違う」
「何が!」
リュシアンは少しだけ考える。それから、まだ腕の中にいるアデルの首元へ視線を落とした。
「ここから媚薬の匂いがする」
アデルは固まった。聞き覚えがある。ものすごく。宮廷調香師として働き始めた初日、寝室で押し倒され、首元を嗅がれて。あのときも、似たようなことを言われた。
「……殿下」
「なんだ」
「冗談はやめてください!」
「冗談では――」
「なお悪いです!」
思い切り胸を押すと、今度はようやく腰を掴んでいた腕が緩んだ。アデルは一歩下がり、反射的に首元を手で覆う。熱い。触れられた場所だけではない。顔も、耳も。全部。リュシアンはそんなアデルを見て、少しだけ笑った。本当に楽しそうに。普段なら冷たく見える灰青色の瞳まで柔らかい。
「笑わないでください!」
「悪い」
「全然そう思っていませんね!?」
「でも」
リュシアンは作業台の香水を見る。それから、またアデルを見る。顔を見つめられ、アデルは先ほど唇の触れた首筋を隠すように、指で押さえた。
「これも嫌いじゃない」
「……」
「でも、やっぱりアデルの方が好きだな」
「――っ」
一瞬、息が止まった。好き。何が。香りが。そう。香りの話だ。絶対に、そうに決まっている。なのに顔が熱い。さっき触れた唇の感触まで、急に思い出してしまう。
「……もう知りません」
アデルは真っ赤な顔で作業台へ向き直った。背中を向ける。仕事をする。何でもいい。とにかく今、この顔を見られたくない。背後で、リュシアンが作ったばかりの香水をもう一度嗅ぐ。
「なあ、アデル」
「知りません」
「これ、使うから」
「ご随意に」
「でも、こっちも」
「もう絶対に嗅がせません!」
リュシアンが笑った。初めて会った日、同じように首元へ顔を寄せられたときは、ただ意味が分からなかった。失礼で、横暴で、変な王太子だと思った。今も意味は分からない。分からない、はずなのに。アデルはそっと、自分の首元へ触れた。ほんの少し唇が触れただけなのに、そこにはまだ熱が残っている気がした。なぜだろう。あのときほど、嫌ではなかった。むしろ。
そう思ってしまったことの方が、ずっと困った。




