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第五話 秘められた香り

 十一月は、スピネリア王国でもっとも香りが美しくなる月だと言われている。夏ほど強く立ち上がらず、冬ほど空気の奥へ閉じこもらない。冷え始めた風の中では花も木も香料もそれぞれの輪郭を少しだけ鮮明にするから、この季節になると国全体が香りを口実に浮き足立ち、香料店には新しい香油が並び、街角には香り袋を売る露店が増え、各地の工房は競うように新作を発表する。

 王宮でも例外ではなく、十一月には毎年、王室香芸展が開かれる。歴代王族のために作られた調度品や装飾品、国宝に指定された香木、王室御用達の工房から献上された香水。普段は宝物庫に眠っている品々が一年に一度だけ人前へ姿を見せる催しで、宮廷調香師になって二か月と少しのアデルにとっては、今年が初めてだった。

「……ない」

 三度目の確認を終えて棚を閉じ、念のためと思ってもう一度開いた。

「ないわ」

 四度目だった。正確には、探しているもの以外なら何でもある。歴代宮廷調香師の調香帳、王族ごとの嗜好を記録した帳面、香料の仕入れ記録、過去の展示目録、それから父の字で書かれた、読めるけれどできれば読みたくないほど細かな研究記録。

 棚の端には革張りの古い手記も一冊あり、朝のうちに一度開いてみたものの、日付、天候、収穫量、市場価格と実務的な記録ばかりだったので、調香帳ではないと判断して戻してある。つまり、必要なもの以外は、ほとんど全部そろっている。

「どうして初代様のレシピだけないの……?」

 今年の王室香芸展でアデルに与えられた役目は、歴代王族へ献上された香りの再現だった。中でも目玉になるのが、初代宮廷調香師の手によるとされる『始まりの香り』。

 宮廷調香師という役職が正式に設けられた約二百年前、スピネリア産の香料のみを用いて作られた最初の王室献上香で、現在ではその献香の伝統が国宝として保護され、毎年この時期になると当代の宮廷調香師による再現香が展示される。初代が使った器や関連資料も、その伝統を伝える品として保管されていた。アデルも幼い頃から何度もそれを見てきた。

 去年も、その前の年も、父が当然のように再現していたから、当然レシピが存在するものだと思っていたのだ。けれど、考えてみればアデルは一度もそのレシピを見たことがない。父が『始まりの香り』を調香するところさえ、まともに見せてもらった記憶がなかった。

「……そういえば」

 幼い頃、一度だけ父に訊いたことがある。

『お父様、初代様の香りって、どんなレシピなの?』

 父は教えてくれなかった。ただ、手にしていた何かを棚へ戻しながら、『お前が宮廷調香師になれば分かる』と、それだけ言った。どの棚だったのか、何を戻したのかまでは覚えていない。当時のアデルは、秘伝だから娘にも教えないのだろうと勝手に納得していたけれど、宮廷調香師になった今なら分かる、そのはずだったのに、肝心のレシピが見つからない。

「……できる作業から、やっていくのよ」

 声に出して自分を宥め、机へ戻る。俯いた拍子に、まとめていた銀髪から一房こぼれて頬へ落ちた。朝から棚をひっくり返していたせいで、ずいぶん乱れてしまったらしい。髪を耳へかけ、展示予定の香料一覧を開く。再現する香り、各工房から届く献上品、展示位置の確認。やることはいくらでもあるのに、文字が少しも頭へ入ってこない。

 初代様のレシピが見つからなかったら、展示に間に合わなかったら、宮廷調香師になって最初の王室香芸展で、国宝を再現できませんでした、なんて。

「……だめだ。不安だ」

 こんな時、誰かと話せれば少しは気が紛れるのだろう。父にはすでに手紙を出してあるが返事はまだないし、王妃陛下に相談するには、もう少し自分で調べてからの方がいい。だったら。

(殿下でも来てくださったら、少しは気が紛れ……)

「……何を考えているんだろう。相当だわ」

「ずっと一人でぶつぶつ言っているな。珍しい」

「殿下!?」

 椅子から落ちかけて振り向くと、リュシアンが工房の入口に立っていた。背が高いので古い木扉が実際より小さく見える。今日は儀礼用の正装ではなく、深い紺色の上着に装飾を抑えた白いシャツという比較的軽い装いだった。それでも仕立ての良さと長い手足のせいで王族らしさは隠しようがなく、漆黒の髪はきっちり撫でつけられず何本かが額へ落ちている。

 整った顔に浮かんでいるのは、呆れと面白がっている気配が半分ずつで、世間で噂される冷徹な王太子とはやはり少し違う。

「いつからいらしたのですか!」

「さっき来たところだ。挨拶もしないから、そっとしておいた」

「あ、失礼いたしました。ごきげんよう、殿下」

「ごきげんよう」

 律儀に返したあと、リュシアンの視線がアデルの顔のあたりで止まった。

「なんですか」

「いや」

「何かついています?」

「髪」

「髪?」

「跳ねてる」

 言われて触ってみるものの、どこなのか分からない。

「そこじゃない」

 リュシアンが一歩近づき、伸ばしかけた手を途中で止めた。

「……触るぞ」

「どうぞ」

 指先が、こめかみの近くにあった一房をそっと整える。ほんの一瞬のことなのに、顔を上げれば思っていた以上に近くにリュシアンの顔があり、通った鼻筋に薄い唇、長い睫毛の奥にある灰青色の目が妙にはっきり見えた。黙っていれば、確かに近寄りがたいほど整っている。ただアデルはもう、その顔が案外よく笑うことも知っている。

「直った」

「ありがとうございます」

 リュシアンが一歩離れると、なぜかさっきより空気が冷えた気がした。

「で、何を考えていたんだ?」

「それは、殿下が来てくださったら……」

 そこまで言って口が止まり、リュシアンの眉が上がる。

「俺が来たら?」

「…………」

 これは言わなくていい。

「……ご相談したいことがありました」

「ほう。これもまた珍しい」

「帰っていただいても結構ですよ」

「相談される」

 即答だった。

「まだ何も言っていません」

「言え」

 帰る気はないらしい。アデルは諦めて事情を説明した。


*


「つまり、初代宮廷調香師の調香帳がなくなった?」

「はい」

 リュシアンはアデルの向かいへ座り、長い脚を組んだ。工房用の小さな椅子は、この人には少し窮屈そうに見える。

「最後に見たのは?」

「私は見たことがありません」

「……ないのか?」

「はい」

「父親が使っていたところは?」

「それも見たことがありません」

 リュシアンは眉間にわずかな皺を寄せた。考え込む時、この人はこういう顔をする。アデルはいつの間に、そんなことまで知ったのだろう。

「待て。お前は、何がなくなったのを確認したんだ?」

「ですから、初代様の調香帳です」

「その調香帳が存在するのを見たことは?」

「…………」

 ない。

「でも、『始まりの香り』は毎年展示されていました」

「それは香りが存在した証拠だろ。調香帳が存在した証拠じゃない」

 言われてみれば、その通りだった。

「では、父は何を見て再現していたのでしょう」

「それを探した方が早いんじゃないか? 初代の時代の資料は?」

「調香帳はありません」

「調香帳以外だ」

 その一言で、朝に一度だけ開いたものを思い出した。

「……あります」

 棚の端から革張りの古い一冊を取り出す。

「これです。手記だと思います。今朝も見ましたが、日付や天候、収穫量ばかりだったので」

「初代のものか?」

「そこまでは確認していません」

「なぜ?」

「レシピを探していましたから」

「なるほど」

 言われてみると、ひどく間抜けだ。表紙を開くと、やはり日付、天候、花の収穫量、市場価格と、朝に見た内容が並んでいる。

「やっぱり調香帳では――」

「アデル」

「はい?」

 いつの間にかリュシアンが隣に立っていた。長い腕がアデルの横から伸び、ページの隅を指す。

「これ」

 顔のすぐ横で声がした。近い。先ほど髪を直された時にも近かったのに、今度はなぜか少し気になる。肩越しに落ちた黒髪がアデルの銀髪へ触れそうで、紙と石鹸、それからアデルが作ったレモンとペパーミントの香りがした。リュシアンのために調整した香りだ。アデルは一歩だけ横へずれた。

「なんで逃げる」

「逃げていません」

「今、動いただろ」

「見やすい位置へ移動しました」

「そうか」

「そうです」

 不思議そうに見つめてくる青い目から逃げるように、示された場所へ視線を落とすと、小さな紋章が押されていた。

「……アレクシア家の紋章ではありません」

「でも、宮廷調香師の保管棚にある」

「はい」

 胸の奥がざわつく。さらにページをめくると、少し先に署名があり、その名を見た瞬間、息が止まった。

「……初代様」

 探していた資料は朝からずっとそこにあった。ただアデルは、レシピではないという理由だけで見落としていたのだ。


*


 手記を最初から読み直すと、初代宮廷調香師がアレクシア家の人間ではなかったことが分かった。地方の香料商の家に生まれ、若い頃から植物に詳しかった彼は王都へ出て調香師となった。当時のスピネリアが穀物の生産には恵まれない一方で、花や香草、香木になる木々には適した気候を持っていることに目をつけたらしい。

 国内で育つ芳香植物を産業として整備し、加工し、他国へ輸出する。香水だけではなく、香油、香薬、石鹸、香木。何度も国王へ進言し、生産地を整え、職人を育て、品質基準まで作り上げた。

「……すごい人」

 二百年後の今、スピネリアは香りの国と呼ばれている。その始まりを作ったのが、この人だった。

「でも、どうしてここまで……」

 ページをめくっていくうちに、一人の人物の名前が妙に多いことに気づいた。

「王妃陛下……」

 春の香り、夏の香油、舞踏会、誕生日。王妃が体調を崩した日、遠方へ向かった日、帰ってきた日。国王への献上記録も残されているのに、個人のために作った香りは、ほとんど王妃に集中していた。

『今年も陛下のお側でお仕えできる』

『王妃陛下は白い花を好まれる』

『来年も作ろう』

「……この方、王妃陛下がお好きだったのでしょうか」

「今気づいたのか?」

「やはりそうなのですか?」

「どう読んだらそうじゃないと思えるんだ」

「どこにも書いてありません」

「書いてなくても分かるだろ」

「分かりません」

 リュシアンはしばらく黙ったあと、何かを思い出したように「ああ」と呟いた。

「なんですか」

「お前、こういうの本当に分からないんだったな」

「どういう意味ですか」

「そのままの意味だ」

(失礼だ)

 アデルは手記へ視線を戻した。

「でも、すごいですね」

「何が」

「一人の方を思って、ここまでできるなんて。国の産業を興して、宮廷調香師という役職まで作って、それでもなお王妃陛下のために香りを作り続けている」

 自分でも知らないうちに、声に熱がこもっていたらしい。

「私には、まだよく分かりませんけど……知りたいです。初代様が、どんな気持ちだったのか」

 返事がないので顔を上げると、リュシアンは手記ではなくアデルを見ていた。先ほどまで柔らかかった目元が、ほんの少しだけ険しくなっている。

「殿下?」

「いや。なんでもない」

 すぐに視線を外された。アデルは気にせず、また文字を追い始める。しばらくして。

「アデル」

「はい」

「茶でも飲まないか」

「今ですか?」

「ああ」

「まだ読み始めたばかりですよ」

「……そうだな」

「では、あとで」

「分かった」

 声が少しだけ不満そうだったけれど、その時のアデルは、単に退屈したのだろうと思っていた。


*


 読み進めれば進めるほど、初代様のことが分かってくる。同時に、分からないことも増えていった。

「殿下。初代様は、王妃陛下のどんなところがお好きだったのでしょう」

「知らん」

「ですよね。お二人は、王妃陛下がご結婚なさる前から知り合いだったのでしょうか。いつから――」

「アデル」

「はい」

「さっきから、そいつの話ばかりだな」

「初代様の手記を読んでいるので」

「分かってる」

「では?」

「……なんでもない」

 リュシアンは頬杖をついた。長い指が頬に沿い、端正な顔が露骨に面白くなさそうに歪む。整っている人は、不機嫌な顔まで妙に様になる。そう思ってから、アデルは手記へ目を戻した。

「もしかして、殿下は初代様がお嫌いですか?」

「会ったこともない男を嫌えるか」

「それもそうですね」

 またページをめくる。

「それにしても、初代様は――」

「またそいつか」

「はい?」

「いや。続けろ」

 リュシアンが眉間を押さえる。変なの。

「……初代様は、かなり一途な方だったのですね」

「アデル」

「はい」

「そいつのことを考えるの、楽しいか?」

「楽しい?」

「朝からずっと楽しそうだから」

「楽しいというより……興味深いです」

「興味深い」

「はい」

「そうか」

 短い返事を最後にリュシアンは黙ったが、今度は何を気にしているのか少しだけ分かる気がした。

「殿下。私が初代様のお話をするの、嫌ですか?」

 青い目がこちらを向く。

「嫌というほどじゃない」

「では?」

「少し、面白くない」

「なぜです?」

「それが分からないから面白くないんだろ」

「難しいですね」

「誰のせいだと思ってる」

「初代様?」

「もういい」

 リュシアンが顔を背け、その拍子に髪の隙間から見えた耳の先が、ほんの少しだけ赤かった。


*


 さらに手記を読み進めていると、ところどころに妙な文章が混ざっていることに気づいた。

『たとえお心がどこにあろうとも、誠実でありたい』

「……これ、急に手記らしくない……と思いませんか?」

 リュシアンが肩越しに覗き込む。また近い。以前なら、強い香りを避けるため、人との距離を必要以上に詰めることのなかった人だ。それなのに、この工房では少しずつ距離が縮まっている。そしてアデルは、それを止めなくなっている。

「確かに」

 低い声が耳の近くで響き、アデルは意味もなくページをめくった。

『季節が巡り、立場が変わろうとも、この想いだけは変わらない』

『いつかこの身がお側を離れたとしても、記憶まで失われるわけではない』

「……重いですね」

「お前も分かるようになってきたじゃないか」

「文章の話です」

「そうか」

「なんですか、その残念そうな顔は」

「なんでもない」

 普段の字は驚くほど速く、インクが掠れ、文字同士がつながっているところさえある。それなのに、その三か所だけは一文字ずつ確かめるように書かれ、途中で何度も筆を止めた跡が残っていた。

「殿下、ここだけ字が違います」

「ああ。……この書き方、花に意味を持たせる時の言い回しに似ていないか?」

「へっ?」

「誠実。変わらない想い。記憶。普段の日記なら、わざわざこういう言葉を選ぶ必要はない」

「……ほんとうだ」

 言葉を探し、選び、残している。

「花の意味……」

 アデルは立ち上がり、古い植物誌と香料記録を棚から引き抜いた。初代様の時代から国内で栽培されていた植物、その中で香料として使え、なおかつ言葉の意味が重なるものを、一つずつ照合していく。

「……スミレ」

 最初の一節、『たとえお心がどこにあろうとも、誠実でありたい』。誠実、貞節。

「スミレです」

「一つ目だな」

 次は、『季節が巡り、立場が変わろうとも、この想いだけは変わらない』。植物誌を何度も行き来した末、ひとつの花で指が止まった。

「沈丁花」

「意味は?」

「永遠の想い」

 リュシアンが黙る。横顔を見ると、青い目は手記へ落ちていた。

「……随分まっすぐだな」

「手記には書かなかったのに?」

「書けなかったから、花にしたんじゃないか」

 なるほど。好きだとも、愛しているとも、一度も書いていない。それでも香りにしてしまえば、誰にも知られず王妃のそばへ置いておける。最後の一節、『いつかこの身がお側を離れたとしても、記憶まで失われるわけではない』。

「これは……ローズマリー。記憶、追憶です」

 三つの名前を紙に書く。スミレ、沈丁花、ローズマリー。誠実であり続ける。この想いは永遠に。そして、あなたを忘れない。書き終えた瞬間、少しだけ怖くなった。

「殿下。これ、告白では?」

「だからずっとそう言ってる」

「一言も好きと書いていないのに」

「書いてないな」

「愛しているとも」

「ないな」

「なのに?」

「なのに、だ」

 やっぱり恋は分からない。

「殿下、もう少し恋というものを教えてください」

「何を」

「恋を」

「その言い方はやめろ」

「なぜです?」

「……なんでもない」

 視線を逸らしたリュシアンの耳が、また少し赤くなっている。この人は照れると耳に出る。そんなことまで、いつの間にか知っていた。

「殿下なら、想い人が離れてしまうならどうしますか?」

「俺が迎えに出るな」

「なるほど。では、その方が別の方と微笑んでいたら?」

「そいつの家を潰すかな」

 アデルは顔を上げた。リュシアンは真顔だった。

「殿下。それは恋なのですか?」

「知らん」

「犯罪の相談をしている気がしてきました」

「実際にはやらない」

「今、一瞬考えましたよね?」

「考えるのとやるのは違う」

 というより。

「……私のお見合いの時も、似たようなことをおっしゃっていませんでした?」

 リュシアンが黙る。

「殿下?」

「次の質問は?」

「誤魔化しましたね」

「次」

 怪しい。けれど、そこでふと逆の場合を考えた。リュシアンが誰かと微笑んでいる。王太子なのだから令嬢と話すことなど珍しくないし、艶やかな髪に宝石を飾った、王太子の隣に立っても見劣りしない美しい女性がリュシアンを見上げて笑うこともあるだろう。その女性へ、リュシアンがアデルの前で見せるような、目尻を少しだけ下げる柔らかな笑い方を向ける。嫌だ。

 そう思った瞬間、自分で驚いた。

「アデル?」

「少々お待ちください。今、非常に不可解なことが起きました」

「お前の中で?」

「はい」

 もう一度想像してみる。漆黒の髪、灰青色の目、高い背丈、黙って立っていれば近寄りがたいほど整った顔。王太子という身分まであるのだから、当然女性には好かれるだろうし、誰かがリュシアンを好きになり、リュシアンもその人を好きになることだってある。

「……嫌です」

「何が?」

「殿下が他の女性と微笑んでいるところを想像したら、嫌でした」

 リュシアンが固まり、青い目を大きく見開いた。

「これは、なんでしょう」

「俺に聞くのか?」

「今は殿下に教えていただいているので」

「そうだったな……」

 額を押さえる指の隙間から、耳が赤くなっていくのが見える。

「嫉妬、でしょうか」

 口に出してみる。意味は知っている。

「でも、おかしいですね。殿下は私のものではありません。ですから、私が嫌がる理由がありません」

「アデル。もう少し、そのまま考えてみろ」

「そのまま?」

「どうして嫌なのか」

 考える。リュシアンが他の女性を見るのは嫌だ。楽しそうに話すなら、もっと嫌だ。最近になってアデルには見せるようになった笑顔を、その女性にも向けるとしたら。

「……それは、かなり嫌です」

「具体的になったな」

「なぜでしょう」

「知らん」

 そう言いながら、リュシアンの口元は少し笑っている。

「殿下、嬉しそうですね」

「気のせいだ」

「笑っています」

「笑ってない」

「笑っています」

「次の質問をしろ」

 誤魔化された。ただ、さっきまでの不機嫌そうな顔はすっかり消えている。そこでようやく、朝からの様子が一本につながった。

「殿下。もしかして、殿下も嫉妬していたのですか?」

 笑みが消えた。

「初代様に。私が初代様のお話ばかりしていたから?」

「…………」

「殿下?」

「今、俺も同じことを考えていた」

「では」

「たぶん、そうなんだろうな。お前が他の男のことばかり考えてるのが、面白くなかった」

「でも、二百年前に亡くなっていますよ?」

「知ってる」

「王妃陛下をお好きだった方です」

「それも知ってる」

「私に恋愛感情を抱く可能性もありません」

「分かってる」

「では、なぜ」

「だから俺にも分からなかったんだ」

 リュシアンが片手で顔を覆い、深く息を吐く。

「相手が誰かじゃないらしい」

「では?」

 指の隙間から、青い目がこちらを見た。

「お前が、俺以外の男のことばかり考えてるのが嫌だった」

 胸の奥が小さく跳ねる。

「……なるほど。嫉妬ですね」

「分析するな」

「でも、私と同じです。私は殿下が他の女性を見るのが嫌で、殿下は私が他の男性を考えるのが嫌」

 そこまで言って、言葉が止まった。

(同じ? 私たちは、同じ感情を持っているの?)

 リュシアンも同じことに気づいたらしく、視線がぶつかった。さっきまでなら平気だったのに、なぜか今は長く見ていられない。

「……次の質問をします」

「ああ」

「では、その方が殿下を必要としていなかったら?」

 今度は、リュシアンの表情から笑みが消えた。長い睫毛の下で青い目が少し伏せられる。

「……それは嫌だな」

「なぜです?」

「好きな相手には頼ってほしいだろ。自分が役に立てるなら、その方がいい」

「必要とされたい?」

「……そうだな。その人の人生に、自分の居場所がほしいんじゃないか」

 初代様が作ったものを思う。香料産業、宮廷調香師という役職、王妃のそばに自分がいてもいい場所。

「では、相手が一人でも何も困らない方だったら?」

「それでもいい」

「いいのですか?」

「ああ。必要だからそばにいるのと、いてほしいからそばにいるのは、違うだろ」

 胸の奥に、また何かが引っかかった。今朝、一人で不安になっていた時、アデルはリュシアンが来ればいいと思った。相談だけなら父でも同僚でもいいし、王妃陛下に尋ねるという手だってあったのに、思い浮かんだのはリュシアンだった。

「……困りました」

「何が?」

「またです」

「何がまたなんだ」

「分かりません」

 本当に、まだ分からない。ただ、リュシアンが他の女性と笑うのは嫌だった。そして不安な時、そばに来てほしいと思った相手もリュシアンだった。その二つだけは、もう否定できなかった。


*


 レシピが見つからないことは、最初こそ絶望的に思えた。けれど、手記に隠されていたものを読み解いた今なら、父が教えてくれなかった理由も少し分かる。初代様が残したのは配合ではなく意味だったのだ。ならば、自分が作ればいい。二百年前とまったく同じ香りではなく、今年この国で採れた香料を使い、初代様が王妃へ託したものを今の自分なりに香りへ変える。

 ほどけていた銀髪を結び直し、袖をまくる。磨かれた器具の表面には、光の加減で深緑から紫へ色を変える自分の瞳がぼんやり映っていた。鏡に映る姿は変わらないのに、今日は朝から自分の中に知らないものばかり見つかっている。仕事をしよう。考えるのは、それからだ。スミレには、誠実と貞節を託す。花を思わせる静かな柔らかさを、香りの中心へ置く。

 相手の心がどこにあろうとも、自分の想いまで変える必要はない。沈丁花には、永遠の想いを託す。甘く柔らかな花の香りを重ね、スミレの静けさへ温度を添える。季節が巡っても、立場が変わっても、変わらないもの。ローズマリーは、記憶と追憶。青い香りで甘さの輪郭を締め、花々を鮮明に浮かび上がらせる。たとえいつかそばにいられなくなっても、あなたを忘れない。

「……違う」

 何度目かの試作を捨てた。

「またか」

「違うんです」

 窓際にいたリュシアンが振り返る。長く工房にいるせいか上着はすでに脱いでいて、白いシャツ姿になるといつもの王太子らしさが少し薄れる。もっとも、広い肩や高い背丈までは隠せないので、ただの若い男性に見えるかといえば、そうでもない。

「俺には全部いい匂いだ」

「それでは困ります」

「難しい注文だな」

 スミレを少し減らし、沈丁花を前へ出し、ローズマリーをほんのわずかに調整する。

「初代様は、もっと王妃陛下を――」

 返事がないので顔を上げると、リュシアンが黙ってこちらを見ていた。

「殿下?」

「なんでもない」

「今、また初代様に嫉妬しました?」

「……少し」

 今度は認めた。

「少し?」

「さっきよりはましだ」

「なぜです?」

「理由が分かったから」

 リュシアンは椅子から立ち、こちらへ歩いてきた。隣に立たれるとやはり大きく、目を合わせるには自然と見上げる形になる。

「お前が初代を考えてるのは、そいつが好きだからじゃない。仕事だからだ」

「当然です」

「それが分かったから、さっきほどは腹が立たない」

「なるほど」

「ただ、一日中そいつのことばかり考えてるのは、やっぱり面白くない」

「まだですか」

「まだらしい」

「難儀ですね」

「誰のせいだ」

「初代様?」

「お前だ」

「私?」

「ああ」

 青い目がまっすぐアデルを捉える。

「もっと俺のことも考えろ」

 沈黙が落ちた。言った本人が先に固まり、青い目がわずかに泳ぐ。やがて耳まで赤くなっていった。

「殿下」

「忘れろ」

「今」

「忘れろ」

「でも」

「頼む」

 無理だと思う。むしろ、そんなことを言われたせいで、さっきよりずっとリュシアンのことが頭から離れなくなった。アデルは逃げるように香料へ向き直った。今は仕事だ。初代様は何を思ったのだろう。誠実でいたい、ずっと想っていたい、忘れたくない。好きな相手の人生に、自分の居場所がほしい。

『その人の人生に、自分の居場所がほしいんじゃないか』

 リュシアンの声が蘇る。初代様の恋を考えようとしているはずなのに、その感情を想像しようとするたび、出てくるのはリュシアンの言葉だった。会えなくなったら、『俺が迎えに出るな』。他の人と笑っていたら、『そいつの家を潰すかな』。必要とされなかったら、『……それは嫌だな』。

 一人でも困らない人だったら、『必要だからそばにいるのと、いてほしいからそばにいるのは、違うだろ』。そして最後には、『もっと俺のことも考えろ』。だめだ。本当にリュシアンしか出てこない。

「どうした?」

「殿下、少し静かにしていてください」

「ずっと黙っていたが」

「そういう意味ではありません。頭の中で殿下がずっと喋っているんです」

「俺のせいなのか?」

「殿下がもっと考えろとおっしゃったので」

「…………」

「責任を取ってください」

「どう取るんだ」

「静かにしてください」

「理不尽だな」

 本当にそう思う。アデルは目の前の香りへ意識を戻した。青い輪郭の内側で花の甘さが開き、静かな余韻を残す。形はできているのに、何かが足りない。目を閉じる。初代様は、この香りを誰に嗅いでほしかったのだろう。答えは決まっている。王妃陛下だ。なら、自分は?誰に。考えるより先に手が動いた。沈丁花を、あと一滴。

 甘い香りが静かに開き、スミレの柔らかさを壊さず、ローズマリーの輪郭も消さないまま、それまでなかった温度だけが香りの中に生まれた。

「……できた」

 顔を上げ、何も考えずリュシアンを探した。窓際にいたリュシアンと目が合う。

「嗅いでください」

「俺が最初でいいのか?」

「はい」

 即答してから、少しだけ引っかかる。なぜアデルは、この香りを最初にリュシアンへ嗅いでほしいと思ったのだろう。王族だから、嗅覚が鋭いから、相談に乗ってくれたから。理由はいくらでも作れるのに、今はそれだけでは納得できない。リュシアンでなければ嫌だったような気がする。

 こちらへ歩いてきたリュシアンへ試香紙を差し出すと、長い指がそれを受け取り、鼻元へ近づけた。目を閉じると、長い睫毛が頬へ影を落とす。アデルは、その横顔をじっと見ていた。高い鼻筋、すっきりした顎の線、香りに集中している時だけ見せる少し無防備な表情。綺麗な人だ。突然、そんなことを思った。

 今まで気づかなかったわけではない。ただ、こんなふうに見たことがなかっただけだと気づいた途端、妙に緊張した。

「……いい」

「それだけですか?」

「俺は調香師じゃない」

「こういう時だけ逃げないでください」

 リュシアンはもう一度香りを確かめる。ローズマリーの青さの向こうで、スミレと沈丁花が重なり合っている。長い沈黙のあと。

「……ずっと嗅いでいたくなる」

 目を開けたリュシアンがアデルを見ると、胸の奥で何かが小さく動いた。

「……そう、ですか」

「ああ」

「それなら、よかったです」

 思っていた以上に安心した。試香紙を受け取ろうとすると、リュシアンが手を引く。

「まだ嗅いでる」

「返してください」

「もう少し」

「展示用です」

「これ一本しかないのか?」

「作りますけど」

「ならいいだろ」

「よくありません」

「アデル」

「なんですか」

「これ、俺にも作ってくれ」

 今度はアデルが止まった。

「同じものを?」

「ああ」

「これは王室香芸展に出す国宝の再現香です。初代様が王妃陛下へ捧げた香りですよ?」

「分かってる」

「では、なぜ」

 リュシアンは手元の試香紙へ視線を落とした。

「……気に入ったから」

 少し間を置いて、青い目がこちらへ戻ってくる。

「お前が作ったのが」

 また、胸の奥で何かが動く。さっきからこればかりだ。

「……展示が終わったら」

「本当か?」

「はい」

 リュシアンが笑った。目尻が少し下がり、普段は端正すぎる顔立ちが一瞬で柔らかくなる。アデルは、その顔を見つめた。

「なんだ?」

「……いえ」

 この笑い方を、他の女性にもするのだろうか。そう考えた途端、また嫌だと思った。今度はもう、何なのか分かる。嫉妬。

「殿下」

「なんだ」

「その笑い方、あまり他の女性にしないでください」

 言ったあとで、何を言っているのだろうと思った。リュシアンの青い目が見開かれる。

「……なぜ?」

 声が少し低くなった。

「分かりません」

「分からないのに?」

「嫌なので」

 少しの沈黙のあと、リュシアンは小さく息を吐いた。

「分かった」

「いいのですか?」

「ああ」

 顔を逸らしたせいで、真っ赤になった耳がよく見える。

「……できるだけ、そうする」

 胸の奥が少しだけ軽くなった。それがまた、困った。


*


 王室香芸展の日、『始まりの香り』は例年と同じ場所に置かれた。小さなガラス瓶の前には、『始まりの香り――初代宮廷調香師の献香を、当代アデル・アレクシアが再構成』『スピネリア産香料を用いた、王妃への献香の伝統』という簡素な説明だけがある。

 そこには、初代宮廷調香師がアレクシア家の人間ではなかったことも、王妃を想っていたことも、その人のそばにいるためにこの国の香料産業を作り上げたことも、そして決まった配合ではなく、手記に残された意味を受け継いできたことも、詳しくは書かれていない。父からの返事が届いたのは昨日だった。

『見つけたか。あの手記が、代々の手掛かりだ。決まった配合を写すのではなく、託された意味を、その年の香料で組み直す。それを当家では継承と呼んでいる』

 肝心なことを、今になって。腹が立ったので返事はしていない。けれど、たぶん父も祖父も、その前の宮廷調香師も、同じように手記を読んだのだろう。初代様が残した言葉を読み、その年の花を選び、自分なりの『始まりの香り』を作った。だから毎年、まったく同じではなかった。同じでなくてよかったのだ。初代様が残したのは、レシピではない。想いだった。

 展示室には大勢の人が集まり、色鮮やかなドレスと宝石、さまざまな香水と話し声が入り混じっている。その向こうにリュシアンがいた。今日は王太子としての正装で、深い紺色の礼装には金糸の刺繍が入り、腰には儀礼剣、髪もきちんと整えられている。高い背丈とまっすぐな姿勢のせいで、人の多い会場でもすぐに見つけられた。

 昨日、シャツ姿でアデルの工房にいた人と同じなのに、今日はずいぶん遠く見える。周囲には何人もの貴族がいて、女性もいた。若い令嬢がリュシアンへ話しかけている。艶やかな栗色の髪を結い上げ、淡い青のドレスをまとった綺麗な人で、リュシアンの隣に立ってもよく似合っていた。胸の奥がざわつく。リュシアンが令嬢を見る。やっぱり、嫌だ。もう驚きはしない。嫉妬だ。

 令嬢が笑い、リュシアンが何かを答える。けれど、リュシアンは笑わなかった。そのことに、ほっとする。自分でもずいぶん単純だと思った。その直後、リュシアンがこちらを見た。人混みの向こうから青い目がまっすぐアデルを見つけ、視線が合った途端、昨日工房で見たのと同じ、目尻を少しだけ下げる柔らかな笑い方をした。胸が跳ねた。

『その笑い方、あまり他の女性にしないでください』

 昨日、アデルは確かにそう言った。

『……できるだけ、そうする』

 リュシアンも、そう答えた。

「……本当に?」

 遠くにいるリュシアンには聞こえないほど小さな声で呟いたのに、それでも顔が熱くなる。誰かに呼ばれ、リュシアンはまた王太子の顔へ戻っていった。なのにアデルは、もう一度こちらを見てくれないだろうかと、少しだけ期待してしまった。逃げるように展示台へ視線を戻す。ガラス瓶の中で、淡い液体が光を透かしていた。

 スミレは、誠実と貞節。沈丁花は、永遠の想い。ローズマリーは、記憶と追憶。初代様は、好きだとも愛しているとも書かなかった。ただ王妃のために香りを作り続け、その人のそばにいるために宮廷に自分の居場所を作り、この国の産業まで変えた。アデルはまだ、それを恋と呼ぶ感覚を完全には理解できない。けれど、昨日までよりは少しだけ分かる。

 リュシアンが他の女性と笑うのは嫌だったし、実際に美しい令嬢の隣に立つ姿を見てもやはり嫌だったのに、自分に向けられた笑顔を見れば嬉しかった。不安だった時に来てほしいと思ったのも、完成した香りを最初に嗅いでほしいと思ったのもリュシアンだったし、ただ「いい」と言われるだけでは足りなくて、もっと感想を聞きたいと思った。

『お前が作ったのが』

 あの一言が、まだ耳に残っている。

『もっと俺のことも考えろ』

 忘れろと言われた言葉まで、綺麗に残っている。会いたいと思うこと、そばにいてほしいと思うこと、自分を見てほしいと思うこと、他の誰かを見ると嫌だと思うこと、自分が作ったものを一番に渡したいと思うこと、そして、自分にだけあの顔で笑ってほしいと思うこと。別々の感情だと思っていたそれらが、どうやら同じ場所へ向かっている。そんな気がする。ガラス瓶を見つめる。

 スミレを選んだ時も、沈丁花を一滴増やした時も、ローズマリーの残り方を確かめた時も、アデルは初代様の恋を考えていた。そのはずだった。なのに、思い出していた声も、浮かんでいた顔も、結局すべて一人のものだった。光を反射する漆黒の髪、灰青色の目、笑うと少し下がる目尻、照れると赤くなる耳、長い指、アデルを覗き込む時の顔、香りを嗅ぐ時に伏せられる睫毛。

 昨日までなら、こんなに細かく覚えていること自体を不思議には思わなかった。今は、少しだけ分かる。アデルは小さく息を吐いた。

(私はこれを、誰を思ってつくった?)

 答えが分からないとは、もう言えなかった。ただ、その答えを何と呼ぶのかだけは、まだ知らなかった。


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