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第四話 一目惚れの香り

「アデル、今日は何を作っている?」

 宮廷調香師の作業部屋へ、いつものように断りもなく入ってきたリュシアン・スピネリア王太子殿下。アデルは乳鉢から顔を上げた。今日のリュシアンは執務の途中らしく、濃紺の上着に白い襟元という簡素な装いをしている。王太子としては驚くほど飾り気がないのに、背が高く肩から腰へ落ちる線がすっきりしているせいか、それだけで妙に様になっていた。

 朝には整えられていたはずの黒髪は少し額へ落ち、灰青色の瞳にも王宮で人に向けるような冷たさはない。最近、この部屋ではよく見る、少し気の抜けた顔だった。対するアデルは、淡い灰青色の簡素なガウンに白いリネンの前掛けを重ね、長い銀髪も低い位置でまとめている。侯爵令嬢というより、どう見ても職人である。

「やや私事で恐縮なのですが、実験も兼ねておりますので」

「なんだ?」

「私のお見合い用の香水を作っています」

「は?」

 聞いたことのない声がした。アデルが瞬きをすると、光の加減で新緑にも紫にも見える瞳が丸くなる。リュシアンは扉の前に立ち尽くしたまま、形のいい眉を寄せていた。普段なら端正な顔立ちをいっそう冷たく見せる表情なのだが、今は単純に理解が追いついていないようにしか見えない。

「ですから、お見合い用の香水を」

「そこじゃない」

「はい?」

「お見合い?」

「はい」

「誰が?」

「私が」

「なんで?」

「なんで、と申されましても」

 貴族だからだ。十八歳で、侯爵令嬢で、宮廷調香師として職にも就いた。次に家族が考えることなど、大体決まっている。

「殿下専属とはいえ、実験も兼ねておりますので、私的な調香に作業部屋を使うことをお許しいただけると」

「だから、そこじゃない。早くないか?」

「何がです?」

「見合いだ」

「早くありません」

「まだ十八だろ」

「もう十八です」

「まだまだ仕事したいだろ」

「もちろんです」

「なら結婚なんて」

「殿下」

 アデルは乳棒を置き、頬へ落ちた銀の前髪を指で耳にかけた。

「貴族の結婚は時間がかかるのです。家同士の条件を確認して、何度かお会いして、婚約して、そこから婚礼の準備もございます。今からお見合いを始めても、むしろ結構ぎりぎりです」

「……知ってる」

「では、何か問題が?」

「別に」

 問題はない。理屈の上では。リュシアン自身、王太子だ。婚姻が恋だの気分だのだけで決まらないことくらい、誰よりよく知っている。それでも、なぜか納得できなかった。

「相手は?」

「はい?」

「誰なんだ」

「ヴァレリー伯爵家のご令息だそうです」

「年は」

「二十一歳だったかと」

「何をしてる」

「そこまでは」

「知らない男と見合うのか?」

 アデルは少し考え、それから首を傾げた。

「見合いとは、そういうものでは?」

「……そうだな」

 正論だった。リュシアンは空いていた椅子を引き、長い脚を組んで頬杖をつく。アデルがこちらの顔を覗き込み、不思議そうに首を傾げた。何を怪訝に思われているのかは分かる。だが、リュシアン自身にも説明できなかった。ただ、アデルが知らない男と向かい合って座り、話をして、笑って、もし気に入ればいずれその男のそばで暮らす。その想像をした瞬間、胸の奥が妙にざらついた。

 何より嫌だったのは、香りだった。リュシアンはもう、アデル自身の香りを知っている。柔らかく乾いた甘さ。花のようでいて花ではなく、どこか土を思わせるのに重くない。粉雪のように淡く、消え入りそうで、それでも近くにいれば確かにそこにある香り。初めは何の香料かと思った。

 けれど何度嗅いでも分からず、工房の香りでも、香水でも、香油でもないと気づいてからは、それがアデル自身の匂いなのだと覚えた。そこへ知らない男の香水や革や整髪料の匂いが混ざる。想像しただけで、ぞっとする。

「……嫌だな」

「はい?」

「いや」

 何が嫌なのかは、まだ分からない。ただ、とにかく嫌だった。


*


 三日後。リュシアンは、さらに嫌なものを見ていた。正確には、見た瞬間、何を嫌がっていたのか一度分からなくなった。アデルが、いつものアデルではない。淡い青灰色のガウンは細い腰に沿って仕立てられ、身頃には銀糸の刺繍が入っている。そこから柔らかく広がるスカートには白いレースが重なり、いつも低くまとめている銀髪も、今日は半分だけ丁寧に結い上げられて背中へ流れていた。

 陽を受ける髪は銀というより淡い真珠色に見え、耳元には小さな宝石、白い首筋には細いネックレスが光っている。薄く化粧までしていた。頬と唇に、普段にはない色がある。リュシアンは柱の陰から、しばらく無言で眺めた。侯爵令嬢なのだから、着飾ればそれなりになることくらい分かっていた。だが、それなりどころではない。

(……綺麗だな)

 そう思った直後、なぜか眉間に皺が寄った。どうして見合いの日に、そんなに綺麗にする必要がある。

「アデル・アレクシア嬢。お会いできて光栄です」

 男が来た。その瞬間、リュシアンの機嫌はもう一段階悪くなった。

「こちらこそ」

 アデルが微笑む。陽光の下では瞳が新緑に近く見えた。相手の男も、一瞬だけアデルを見つめた。

(見るな)

 自分でも理不尽なのは分かっている。見合いなのだから、見るに決まっている。相手はセドリック・ヴァレリー伯爵令息、二十一歳。王立アカデミーを卒業し、現在は父親の領地経営を手伝いながら王都と西部を行き来しているという。柔らかな栗色の髪に穏やかな茶の瞳、体格も身なりも申し分ない。家柄、年齢、経歴、容姿。どこを取っても悪くない。むしろ、かなりいい。最悪だった。

「アレクシア侯爵家の調香事業には以前から興味がありました」

 セドリックが穏やかに話し始める。

「女性が職を持つことについても、私は賛成です。もし結婚したとしても、アデル嬢が宮廷調香師を続けたいのであれば、尊重したいと思っています」

 アデルの眉がわずかに上がり、表情が柔らかくなる。

「ありがとうございます。そこは、私にとって一番重要なことですので」

「伺っています。ですから、最初にお伝えした方がいいかと思いまして」

 気遣いまでできる。リュシアンは柱の陰で腕を組んだ。

(悪く言えねぇ)

 横柄でもない。馬鹿でもない。女は家にいろとも言わない。香水も控えめで、顔まで悪くない。最後は別に関係ない。たぶん。何でもいいから一つくらい、堂々と嫌える欠点があればいいのに、それどころかアデルが嫌がりそうなところをことごとく外してくる。

「ヴァレリー家は、西部との交易もなさっているのですよね?」

「ええ。父の仕事を手伝うようになってからは、私もよく西部へ参ります」

「どのようなものを扱われるのです?」

「主には葡萄酒と織物ですね」

「香料も?」

「頼まれれば運ぶことはありますが、私は詳しくありません。香りの良し悪しも、正直よく分からないくらいです」

「そうなのですね」

「ですから、今日は少し緊張しました。宮廷調香師の方に会うのに、変な香水をつけていたらどうしようかと」

 アデルが笑った。整った顔立ちが、笑うと急に十八歳らしくなる。柔らかく下がる目尻を見て、リュシアンの眉間にまた皺が寄った。

(それ、そいつにやる必要あるか?)

「大丈夫ですよ。とても控えめですし、お似合いです」

(褒めるな)

「安心しました」

 セドリックが笑う。

(喜ぶな)

 アデルも笑う。

(二人で笑うな)

 そこまで考えて、リュシアンは自分で自分に呆れた。何を考えているんだ、俺は。二人とも何もおかしなことはしていない。見合い相手同士が普通に会話しているだけなのに、なぜか腹が立つ。やがて茶が運ばれ、セドリックが革手袋を外した。その瞬間、風が吹き、アデルの銀髪がさらりと揺れた。頬にかかった一筋を押さえながら、アデルの表情がわずかに変わる。

 風下のリュシアンにも、甘く温かな匂いがかすかに届いた。アデルは先ほどと違い、セドリックの手元をじっと見ている。アデルは彼の手元へ視線を落とした。

「珍しい香りですね」

「え?」

「あの、アンバーグリスが入っています?」

「さすが宮廷調香師だ。高価なものなのでしょう?」

「ええ。とても」

「西では、金と同じ重さで取引されることもあるとか」

 アデルの指が一瞬止まった。微笑みは消えていない。それでもリュシアンには分かる。あれは、考えているときの顔だ。

「お詳しいのですね」

「聞きかじりですよ」

「先ほど、香料にはあまりお詳しくないと」

「ああ――」

 わずかな間があった。

「商人から聞いたのですよ。西部へ行けば、珍しいものの話はいくらでも耳に入りますから」

「なるほど」

 成立しない話ではない。問いを重ねるのをやめたアデルは、セドリックが茶器を取るたび、その指先へ視線を向けていた。

「アデル嬢?」

「いえ。少し、仕事の癖が出てしまいました」

「香りが気になりますか?」

「ええ。どうしても」

「熱心なのですね」

 そのとき、背後から声がした。

「殿下」

「……なんだ」

 補佐官だった。

「何をなさっているのです?」

「散歩」

「柱の陰で?」

「日陰だ」

「今は曇っておりますが」

「うるさい」

 補佐官は庭園を見、それから黒髪に濃紺の上着という、隠れる気があるのか疑わしい王太子を見た。

「なるほど」

「何も言うな」

「何も申しておりません」

「顔で言ってる」

「お気のせいでしょう」

 再び庭へ視線を向けた補佐官が、何気なく言った。

「お似合いですね」

「何が」

「お二人です」

 リュシアンは黙った。

「……仕事は」

「はい?」

「お前、仕事はないのか」

「ございますが」

「戻れ」

「殿下は?」

「俺は散歩中だ」

「柱の陰で」

「戻れ」

 補佐官が去ったあとも、「お似合い」という言葉だけが妙に残った。確かに、そうなのかもしれない。家柄も、年齢も、互いの仕事への理解も悪くない。実際、アデルは楽しそうに見える。もし、このまま話が進んだら。婚約して、結婚して、あの男の隣にアデルが立つのだろう。今日のように髪を結い上げた姿も、笑った顔も、やがて毎日見ることになる。朝も、夜も。そして、あの香りも知る。

 柔らかく乾いた甘さ。花のようでいて花ではなく、土を思わせながら重くない、粉雪のように淡い香り。近くにいなければ分からない。それをリュシアンは、何度もアデルへ近づいて、ようやく覚えた。あの男もいずれ知るのだろうか。自分より近くで、自分より長い時間をかけて。そう考えた途端、胸の奥がひどくざらついた。

(……嫌だ)

 今度は、先ほどよりずっとはっきりしていた。理由はまだ分からない。それでも、アデルがあの男のものになるところだけは、見たくなかった。


*


 翌日、アデルはいつもの姿で作業部屋にいた。昨日のガウンも宝石も化粧もなく、銀髪を低くまとめ、白い前掛けをつけて香料瓶を並べている。リュシアンは扉のところで一度足を止めた。戻っている。何が、とは考えなかった。ただ、昨日より呼吸が楽だった。この部屋へ入ると、いくつもの香料の合間に、ごく淡いアデルの香りがある。

 柔らかく、乾いていて、ほんの少し甘い。いつもの匂いだった。

「アデル」

「殿下。ごきげんよう」

 アデルが顔を上げる。室内の光では、瞳が少し紫がかって見えた。

「昨日はどうだった」

「昨日?」

「見合い」

「ああ」

 乳鉢へ香料を落としながら、アデルはあっさり答えた。

「お断りしました」

「そうか……」

 返事が、あまりにも早かった。しかも声が明るかった気がする。まずいと思って、リュシアンは慌てて口元を引き締めた。

「……断った?」

「はい」

「なぜ」

「嘘つきの方でしたので」

「は?」

 昨日まで胸の奥にあった妙な苛立ちが、一瞬で消えた。その代わり、別の感情が湧き上がる。

「何をされた?」

 声が低くなる。

「何も」

「では何を言われた?」

「嘘をつかれました」

「だから、何の」

「殿下」

 アデルが怪訝そうにこちらを見る。

「なぜ怒っていらっしゃるのです?」

「怒ってない」

「怒っています」

「お前が嘘をつかれたと言うからだ」

「私、被害には遭っていませんよ?」

「そういう問題じゃない」

「どういう問題です?」

「……知らん」

 本当に知らない。昨日までは、セドリックに欠点があればいいと思っていた。実際に欠点が見つかったのに、今度はアデルに何かしたのではないかと腹が立っている。我ながら面倒だった。

「香料には詳しくない、とおっしゃったんです。その割には、アンバーグリスの取引事情をご存じでした」

「聞いたことくらいあるんじゃないか?」

「はい。ですから、それだけなら私も気にしません」

 アデルは棚の高い位置にある小瓶へ手を伸ばした。わずかに背伸びした拍子に、まとめた銀髪から細い後れ毛が首筋へ落ちる。そのとき、ふわりとアデル自身の香りがした。リュシアンの視線が反射的に首筋へ向かい、すぐに逸れる。

(何を見てるんだ、俺は)

 何も気づかないアデルは、厳重に栓をされた容器を作業台へ置いた。

「殿下。アンバーグリスは、ご存じですか?」

「名前くらいは」

「龍涎香とも呼ばれる、非常に貴重な香料です」

 栓をわずかに開けると、甘く温かな香りが立ち上った。海のようでも獣のようでもあり、それでいて肌に溶け込むような、不思議な匂いだった。

「元は、海に生きる鯨に由来するものです。長い時間を経て海を漂い、浜へ流れ着いたものを香料として利用します」

「それが?」

「昨日、ヴァレリー様が手袋を外したとき、この香りがしました」

「香水じゃないのか?」

「私も最初はそう思いました。でも、不自然だったんです」

「何が」

「香る場所が」

 アデルは自分の手を見せるように持ち上げた。

「首元や衣服ではなく、手と指先から一番強く香っていました。まるで、原料そのものを直前まで触っていたように」

 リュシアンの表情が変わる。先ほどまでの気の抜けた顔が消え、灰青色の瞳だけが静かに鋭くなった。

「それで相場の話か」

「はい。詳しくないと言った方が、アンバーグリスの値段まで知っていた。もちろん、それだけでは何も証明できません」

 香りは証拠ではない。ただ、調べる場所を教えてくれる。

「それに、もう一つ気になります。スピネリア王国ではアンバーグリスは採れません」

「海がないからか」

「はい。しかもアンバーグリスは、生き物に由来する希少な香料です。乱獲や不正な取引を防ぐため、輸入量も流通も王室が管理しています。ヴァレリー家は西部との交易を行っている。正規の輸入品なら、王室に記録が残っているはずです」

「なければ?」

「密輸の可能性があります」

「密漁品ということも?」

「あります」

 アデルは少し目を伏せ、それから新緑にも紫にも見える瞳でまっすぐリュシアンを見た。

「殿下。調べていただけませんか」

「見合い相手を?」

「アンバーグリスを、です」

「……そっちか」

「はい?」

「いや」

 また少し面白くない。けれど、その感情はすぐに消えた。

「鯨は、香料を作るために生きているわけではありません」

 アデルは静かに言った。

「人間が、その生きた証を拾って、香りとして使わせてもらっているだけです。だからこそ、守らなければなりません」

 華やかなガウンも宝石もない。白い前掛け姿の十八歳の少女なのに、昨日よりずっと目を逸らしにくい。

「殿下。鯨の命と、生きた証から生まれた香料を、守ってくださいませんか?」

「分かった」

 リュシアンは即答した。迷う理由はなかった。


*


 王室に残された輸入記録を洗うのに一日、ヴァレリー伯爵家と取引のある商会を絞るのに、さらに半日かかった。結果、アデルの鼻は正しかった。

「随分出てきたな」

 薄暗い倉庫で、リュシアンは積み上げられた木箱を見回した。今日は正装に近い濃紺の上着に銀の刺繍、腰には剣。背筋を伸ばして立てば、普段アデルの作業部屋で頬杖をついている青年とは別人のようで、王宮で「冷徹」と囁かれる王太子そのものだった。正規の印がない木箱の中から、布で厳重に包まれたアンバーグリスが見つかった。

「これで全部か?」

「……はい」

 商人が震えながら答える。

「嘘だな」

「本当でございます!」

「ヴァレリー家はどこまで関わっている」

「わ、私は存じません」

「昨日からそればかりだな」

「本当に――」

「セドリック・ヴァレリーは?」

 商人が一瞬黙った。その一瞬を、リュシアンは見逃さない。

「知っているんだな」

「い、いえ」

「知らない?」

 リュシアンが笑う。隣で補佐官が小さく息を吐いた。

「殿下。少々、お顔が」

「顔?」

「楽しそうです」

「そうか?」

「商人が泣きそうです」

 別に楽しくはない。むしろ腹が立っていた。希少な香料を金のために不正に扱い、王室の管理を欺いたことにも。そして、ほんの少しだけ、アデルに嘘をついていた男にも。

「知らない。覚えていない。自分は運んだだけ」

 リュシアンは冷たく笑った。

「便利な言葉だ。では、一つずつ思い出そうか」

 その日の尋問は、いつもよりかなり長かった。


*


 数日後には、王宮中へ新しい噂が広がっていた。

――王太子殿下が、密輸商人を自ら尋問したらしい。

――随分冷酷だったとか。

――しかも笑っていらしたそうよ。

――やっぱり、あの方は少しおかしいのではなくて?

――狂気をお持ちなのかもしれないわ。

「失礼な話だな」

「日頃の行いでは?」

「アデル」

「冗談です」

 リュシアンが睨むと、アデルは平然とした顔で続けた。

「そのお顔です」

「何が」

「怖いと言われる原因」

「お前は怖くないのか」

「別に」

 即答だった。リュシアンは一瞬黙る。

「どうかなさいました?」

「……いや」

 少しだけ嬉しかったことは、言わない。事件の全容も、ほぼ判明していた。密輸を主導していたのはセドリック本人ではなく、父親と複数の商人だった。正規品より安価なアンバーグリスを仕入れ、複数の商会を経由させ、その一部を国外へ流していた。ただし、セドリックが何も知らなかったわけでもない。見合いの日、彼は父親に頼まれて倉庫へ立ち寄り、荷を確認していた。

 正規の印がないことも、本来の仕入れ価格ではあり得ないほど安価なことも、それが何を意味するのかも知っていた。それでも、自分が仕入れたわけではない、父の商売だ、自分は荷を確認しただけだと何も言わなかった。だから、見合いで手袋を外した指先から、濃いアンバーグリスが香った。

「アデルの言う通りだったな。嘘つきだった」

「……そうですね」

 アデルの返事は少し遅かった。

「なんだ。不満か?」

「いえ。嘘をつかれたことだけなら、まだよかったのかもしれません」

「どういう意味だ?」

「ヴァレリー様は、とても感じのいい方でした。私が仕事を続けることも尊重してくださいましたし、きっと、あれも嘘ではなかったと思います」

「ずいぶん庇うな」

 リュシアンの言葉に、アデルが瞬きをした。

「庇っております?」

「……いや」

 別に庇ってはいない。分かっているのに、口から出た。

「じゃあ、何が駄目だった」

 少しだけ声が尖る。

「知っていて、関係ないことにできるところでしょうか」

 アデルは自分の手へ目を落とした。

「ご自分で仕入れたわけではない。ご自分が密輸を決めたわけでもない。お父様の商売だから、自分にはどうしようもない。きっと、そう思われたのでしょう」

「本人も似たようなことを言っていた」

「そうですか」

「悪い人ではないのかもしれないな」

「はい。でも、私とは大切なものが違うのだと思います」

 その声は静かだった。

「香料は、ただの高価な商品ではありません。花も、木も、樹脂も、生き物から得られるものも、人間が作ったわけではない。自然から分けてもらっているものです。それを知っていて見ないふりをできる方とは、私は多分、一緒に暮らせません」

 一緒に暮らせない。その言葉だけが、妙に耳に残った。つまり、あの男とは結婚しない。

「婚約する前でよかったな」

「はい。父も、今回は私の判断が正しかったと言ってくれました。しばらく、お見合いの話もないと思います」

「よかった」

「はい?」

 リュシアンが固まった。

「今、よかったと」

「言ってない」

「おっしゃいました」

「気のせいだ」

「はっきり聞こえましたけれど」

「聞き間違いだ」

「殿下」

「なんだ」

「嬉しいんですか? 私のお見合いがなくなって」

 アデルは疑わしそうに眉を寄せた。

「別に」

「そうですか?」

「そうだ」

 アデルは納得していない顔をしたものの、それ以上は追及せず、作業台の上から細長い箱を取り上げた。リュシアンはひそかに息を吐く。何が危なかったのかは分からないが、危なかった。

「では、こちらを」

「何だ?」

「お礼です」

 箱の中には、小さな香炉と香片が収められていた。

「アンバーグリスのお香を作りました」

「俺に?」

「はい。もちろん、殿下専用にかなり軽くしております。香りが強すぎないよう、使う量も少なくて済むように調整しました」

 殿下専用。その言葉だけで少し気分がよくなる自分が単純すぎる。リュシアンは香片を一つつまみ、鼻元へ近づけた。ほのかに温かく、柔らかな甘さがある。

「……これなら平気だ」

「よかった」

 アデルがほっとしたように笑う。見合いの日、セドリックへ向けていた笑顔を思い出す。同じはずなのに、少し違う気がした。今は、自分に向いている。それだけで気分がいい。

「ようやく俺専属の調香師らしい働きをしたな」

「失礼ですね。ずっとしております」

「他人の見合い用香水なんか作ってたからな」

「私のです」

「なお悪い」

「何がです?」

「知らん」

 本当に分からない。ただ、しばらく見合いはない。知らない男のために髪を結い上げることも、あんなふうに笑うことも、その男の香りをまとって帰ってくることもない。そして、あの男がアデルの淡い体臭を、自分よりよく知ることもない。そこまで考えたところで、リュシアンは香片を持ったまま止まった。なぜ、俺は安心しているんだ。

「殿下?」

 アデルが覗き込んでくる。近づいた銀髪がさらりと揺れ、その瞬間、ごくわずかに香った。落ち着く、柔らかく乾いた甘さ。リュシアンは一瞬黙ってから、顔を逸らした。

「……なんでもない」

「変な方ですね」

「うるさい」

 アデルは気にせず香料瓶を片付け始める。そこでリュシアンは、ふと思い出した。

「そういえば、アデルのお見合い香水」

「ああ、あれですか」

「結局、何だったんだ?」

「以前のロザリー様から着想を得まして」

 嫌な予感がした。

「何を目指した」

「『一目惚れの香り』です」

「は?」

 数日前と同じ声が出た。アデルは気にせず小瓶を取り、試香紙へ一滴落として差し出す。最初に弾けるのは、明るく少し苦いグレープフルーツ。その奥からローズが現れ、時間が経つにつれて、柔らかなアンバーグリスが肌のぬくもりのように残った。

「トップはグレープフルーツです。第一印象は明るく親しみやすく。ミドルはローズで、女性らしさと華やかさを。最後にアンバーグリスで、心に残るような温かさを出してみました」

「ふうん」

「いかがです?」

 リュシアンはもう一度嗅いだ。悪くない。むしろ、かなりよくできている。男受けもするだろう。見合いの日のアデルを思い出す。銀髪を飾り、頬と唇に色をのせ、淡い青灰色のガウンを着て、そこへこの香りをまとっていたら。似合う。腹が立つほど似合う。そして、それがひどく気に入らない。

「嫌いだな」

「えっ」

「これはない」

「そんなにはっきり言います?」

「全然アデルらしくない」

「一目惚れを目指したんですよ?」

「誰に」

「はい?」

「誰に一目惚れされたいんだ」

 アデルが目を丸くする。

「誰、と申されましても……見合い相手でしょうか」

「なんで」

「なんで?」

 自分でも分からない。ただ、止まらなかった。

「知らない男に好かれるために、お前じゃない匂いをつけてどうする」

 アデルが黙る。リュシアンも黙った。今、かなり変なことを言った気がする。

「……殿下」

「なんだ」

「それは、調香師としてのご意見ですか?」

「そうだ」

「殿下は調香師ではありませんが」

「うるさい」

 アデルが小さく笑う。その頬に、ほんの少しだけ赤みが差した。

「では、殿下ならどんな香りがいいと思われます?」

「そのままでいい」

「はい?」

 また、口が先に動いた。リュシアンは手の中の試香紙へ目を落とす。グレープフルーツ、ローズ、アンバーグリス。明るく、華やかで、温かい。よく考えられた美しい香りだ。けれど、違う。アデルではない。

 顔を上げると、そこにはいつもの銀髪があり、色の変わる瞳があり、考え込むと少し伏せられる長い睫毛がある。笑うと年相応に幼くなる顔も、自分へ向けて呆れたように寄せる眉も、もう見慣れている。そして、あの香り。柔らかく乾いた甘さ。花のようでいて花ではない。どこか土を思わせるのに重くなく、粉雪のように淡く、消え入りそうで確かにそこにある。

 名前のない、どの香料にも似ていない匂い。あれを嗅げば、アデルだと分かる。

「……そのままの香りが、一番いい」

 アデルが固まった。リュシアンも固まった。しばらく沈黙したあと、アデルの白い頬にじわじわと赤みが広がり、耳まで染まっていく。それを見ているうちに、リュシアンまで顔が熱くなった。先に視線を逸らしたのは彼だった。

「仕事に戻る」

「今いらしたばかりですよね?」

「急用を思い出した」

「先ほどまで、ゆっくりなさっていたのに」

「急にできた」

「殿下」

「じゃあな」

 逃げるように扉へ向かった背中へ、アデルの声が飛ぶ。

「殿下」

「なんだ」

「お香、忘れています」

 リュシアンは無言で戻った。アデルが口元を押さえている。目が完全に笑っていた。

「笑うな」

「笑っておりません」

「笑ってるだろ」

「お顔が赤いですよ」

「お前もだろ!」

 指摘され、アデルが自分の頬へ手を当てる。

「……これは、暑いので」

「今日は涼しい」

「うるさいです!」

 思いがけない勢いで言い返され、リュシアンは一瞬黙ったあと吹き出した。

「笑わないでください!」

「お前が先に笑った」

「殿下が変なことをおっしゃるからでしょう!」

「知らん!」

「ご自分でおっしゃったんですよ!」

「もういい!」

 今度こそ作業部屋の扉が閉まった。廊下へ出たリュシアンは、しばらく歩いてから片手で顔を覆った。まだ熱い。最初は、見合いなんて早いと思っただけだった。次には、知らない男の匂いがアデルへ混ざることが嫌になった。実際に見合いを覗けば、あの男へ笑う姿が気に入らず、いずれ自分より近くでアデルの香りを知る人間になるかもしれないと考えただけで腹が立った。

 破談したと聞けば、安心した。そして今度は、知らない男に一目惚れされるために作られた香りそのものが嫌だった。そこまで考えて、リュシアンは足を止める。

「……なんなんだ、これ」

 答えは出ない。ただ、一つだけは分かる。グレープフルーツでも、ローズでも、アンバーグリスでもない。名前すらつけられない、あの淡い香りが好きだ。それがどういう意味なのかだけは、まだ分からなかった。


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