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第三話 七つの顔の香り

「殿下。『お守り』ですが、なんの香りがよろしいですか?」

 アデルは乳鉢から顔を上げ、宮廷調香師の作業部屋に居座る、もう一人の住人へ声をかけた。本来、この部屋の主はアデル・アレクシア一人のはずなのだが。最近は、そうでもない。

「『仕事道具』な」

 リュシアン・スピネリア王太子殿下は、作業机の向かい側で頬杖をついた。今日の彼は執務の途中らしく、王族らしい華美な正装ではない。身体に沿う濃紺の上着に、装飾を抑えた銀の刺繍。白い襟元だけが端正な顔立ちを明るく縁取っている。青みを帯びた黒髪は、宮廷の男性にしては少し無造作だ。額へ落ちる前髪の隙間から、灰青色の瞳がこちらを見ている。黙っていれば、なるほど。

 冷徹王子と呼ばれるのも分からなくはない。切れ長の目、すっと通った鼻筋、薄い唇。笑っていないと、十八歳とは思えないほど近寄りがたい。もっとも最近のアデルは、その顔が存外よく崩れることを知っている。

「そうだな……」

 リュシアンはしばらく考えるように目を細めた。

「アデルの首筋の香り」

「っ!?」

 乳鉢を持っていた手が止まった。あの日のことが、一瞬で蘇る。

――ベッドに押し倒されて。

――首元に顔を埋められた、あの日。

 鼻先が肌へ触れそうな距離。頬へ落ちた黒髪。首筋へかかった吐息。アデルは一気に顔が熱くなるのを感じた。白い仕事着の襟から出ている首元まで赤くなっている気がする。

「……そんなもの、ありません」

「ある」

「ありません」

 アデルは顔を伏せた。低くまとめた銀髪から、細い後れ毛が一筋、頬へ落ちる。邪魔だったので耳へ掛けた。指まで熱い気がする。

「からかわないでください」

「冗談ではなく、本気なんだがな」

「なお悪いです」

「なぜだ」

「知りません」

 リュシアンの方を見られない。アデルは物心ついた頃から、ほとんどの時間を工房で過ごしてきた。花、香木、樹脂、蒸留器、香料瓶、そういうものとは長く付き合ってきたが、異性だの恋だのとは縁がない。侯爵令嬢として夜会へ出たことくらいはある。けれど、踊った相手の顔より、舞踏会場に焚かれていた香の配合の方をよく覚えている。だから、こういうときの正しい反応も分からない。

 必死に今の仕事に意識を戻す。

「殿下はレモンとペパーミントでよろしいですね?」

 話を終わらせることにした。

「話が戻ったな」

「戻しました」

 アデルは無意味に乳鉢をかき混ぜた。別に、今混ぜる必要はない。ただ手を動かしていないと落ち着かなかった。向かい側から視線を感じる。顔を上げると、案の定リュシアンがこちらを見ていた。灰青色の目が、少し楽しそうに細められている。

「……何です?」

「いや」

 口元がわずかに上がった。

「銀の髪は、赤い耳がよく映えるなと思って」

「殿下」

「なんだ」

「帰ってください」

 今度は、はっきり笑われた。


*


 平気な香りはあっても。好きな香りは、なあ。リュシアンは昔から、この体質について半ば諦めていた。自分は他人より五感が過敏なのだと、はっきり自覚したのはアカデミーへ入ってからだった。食堂へ向かう途中で、その日の献立が分かった。寮で支給されたシーツは肌に合わず、実家から別のものを取り寄せた。食卓に出された果物が、ほんの少し旬を過ぎているだけで気になった。

 野菜の萎れ。肉の鮮度。革靴の内側の縫い目。周囲がなんとも思わないものが、ひとつひとつ気になる。便利なことも、なくはない。けれど大抵は、面倒なだけだった。劣化を感じ取る感性。そんなふうに自虐したこともある。年頃になり、同世代の令嬢たちがふんだんに香水を使うようになると、さらにひどくなった。近づかれるだけで頭が痛い。強いものになると吐き気までした。

 なのに相手は、自分のために一番美しい香りを選んできている。顔を背ければ傷つける。眉を顰めれば、嫌われたと思わせる。耐えていれば、自然と口数が減る。元々細い目元はさらに険しくなり、口元から愛想が消える。生まれつき整いすぎている顔は、表情がなくなると余計に冷たく見えるらしい。やがて。

――冷徹。

――女嫌い。

 好き勝手に呼ばれるようになった。否定するのも面倒になった。それでいいと思っていた。どうせ、この体質は変わらない。けれど今は、半分くらい、おもしろいと思えるのも不思議な話だ。ひと月ほど前、宮廷調香師が代替わりした。アデル・アレクシア。同い年の十八歳。香水の名産国において、香水をまとっていない珍しい令嬢。いつも銀の髪を低くまとめ、白いリネンの仕事着を着ている。

 宮廷にいる令嬢として見れば、驚くほど質素だ。耳元にも首にも宝石はない。胸元を飾るのは、香料瓶を扱うための細い紐や小さな道具くらい。けれど、地味には見えなかった。光の当たり方によって白にも淡い灰にも見える髪。少し伏せがちな長い睫毛。そして。こちらを見るたび色が変わる瞳。昼の窓辺では、新緑。蝋燭のそばでは、紫。

 アレクシア家に時折生まれるという、アレキサンドライトの瞳。初めて見たときから、変な目だと思った。今はつい、色を確かめてしまう。事故ではあった。あれは、完全に事故だった。それでも。彼女の首元からした香りだけは、もう一度嗅いでみたいと思った。柔らかく乾いた甘さ。花のようでいて、花ではない。どこか土を思わせるのに、重くない。

 粉雪のように淡く、消え入りそうで確かにそこにある香り。あれが何だったのか。調香師に聞けば分かるだろうと思ったのだが。本人はなぜか、教えてくれない。というより聞くたび赤くなる。それも少し面白い。


*


「殿下。レモンとペパーミントでよろしいですね?」

 アデルは念を押した。

「はいはい。アデルと同じのでいい」

「では、そのように」

 アデルは小さな匙で乾燥させた葉を量る。袖口を邪魔にならないようきっちり留めた細い手首、長い指。香料を扱うときだけ、普段より動きが慎重になる。リュシアンは頬杖をついたまま、それをぼんやり眺めていた。

(殿下、なんだかどんどん態度が緩くなっていない?)

 初対面の頃は、もう少し王太子らしかった気がする。少なくとも、他人の作業机で長い脚を持て余しながらくつろいではいなかった。

「ところで殿下」

「ん?」

「こんなところで時間を潰していてよろしいのですか?」

「駄目だねぇ」

「ですよねぇ」

 …………。アデルが顔を上げた。

「え?」

 リュシアンは真顔だった。

「駄目なんじゃないですか! 執務室へ戻ってください!」

「分からないかなあ、アデル」

 長い指で頬杖をつき直す。その拍子に、黒髪が額へさらりと落ちた。

「執務室に来る書類はね、全部いろんな貴族の、いろんな香水やら香油やら香り袋やらの匂いがするの」

「はい。そうでしょうね。この国の文化でもありますから」

「俺にはしんどいの」

「……」

 それを言われると弱い。アデルはぐっと言葉を飲み込んだ。リュシアンが体質で苦労していることは、もう知っている。本人が何も言わずにいると、ただ眉間に皺を寄せているようにしか見えない。整った顔立ちのせいで、それがまた必要以上に不機嫌に見える。だが実際には、耐えているだけなのだ。

 だからといって、公務を放り出して宮廷調香師の作業部屋に居座っていい理由にはならないと思うのだが。コンコンコン。扉が叩かれた。アデルは瞬きをする。薄い睫毛が上下した。

(誰だろう。ちゃんとノックする人なんて)

 最近、この部屋へ来る王太子は基本的にしない。

「はい。どうぞ、お入りください」

 扉が少し開く。おずおずと顔を出したのは、リュシアンの補佐官だった。

「殿下」

「嫌な予感がする」

 先ほどまで緩んでいたリュシアンの目元が、一瞬で王太子のものへ戻る。

「仕事にお戻りください」

「やっぱり」

 戻らなかった。

「例の帳簿が届きましたので……」

 リュシアンの表情が変わった。今度は本当に仕事の顔だった。

「届いてしまったか」

「はい」

「仕方ないな」

 立ち上がる。細身に見えるが、立つとやはり背が高い。広すぎない肩へ濃紺の上着が綺麗に沿い、腰の位置が高い。調香室の小さな家具の間にいると、妙に存在感がある。アデルは黙って乳鉢へ視線を落とした。聞いていない。何も聞いていない。帳簿。

『例』。

 明らかに調香師の仕事ではない。絶対に関わってはいけない。

「アデル」

「行ってらっしゃいませ」

「まだ何も言ってない」

「行ってらっしゃいませ、殿下」

 アデルはにっこり笑った。新緑色になっていた瞳まで綺麗に笑っている。明らかに追い出そうとしている。リュシアンはしばらくその顔を見た。

「……その顔、覚えておくからな」

「どうぞ」

 笑顔で送り出した。


*


 リュシアンはしぶしぶ執務室へ戻った。元々、公務そのものが嫌いなわけではない。アデルにはああ言ってごねたものの、これまでも窓を開け、香りの強い書類は補佐官に先に広げてもらい、どうにかやってきた。王太子としての仕事を放棄するほど無責任でもない。ただアデルのそばは居心地が良すぎるのだ。香水の国のど真ん中にいて、香水の匂いがしない令嬢。

 あの銀の髪が、周囲の香りを全部吸ってしまっているのではないか。ときどき本気でそう思う。

「で、帳簿は?」

 執務机へ腰を下ろす。

「横領だったか?」

「その疑いです」

 補佐官が七冊の帳簿を並べた。表紙にはそれぞれ、少しずつ意匠の異なる家紋。

「疑わしいのは七家。いずれもローゼンベルク侯爵家に連なる家です」

「薔薇の一族か」

「はい。薔薇の栽培と香料の採集を主要事業としております」

 スピネリアでも有数の香料生産者。本家と六つの分家がそれぞれ領地を持ち、異なる品種の薔薇を栽培している。王室も毎年、相当量を買い上げていた。

「不自然なのは、ここ半年です」

 補佐官が帳簿を開く。香料運搬費。保存容器代。街道通行料。荷傷みに伴う補填金。ひとつひとつは、さほど大きな額ではない。だが。

「七家とも、か」

「はい」

「しかも支払先は」

「最終的には、同じ運送商会へ集約されています」

 リュシアンは目を細めた。仕事中の彼は、調香室で頬杖をついていた青年とは別人のように見える。灰青色の瞳から気の抜けた色が消え、書面の数字を追う。

「巧妙だな」

「はい」

 一つの家だけなら気づかなかったかもしれない。七家それぞれに、小さな架空経費を散らす。王室が負担する額として処理されれば、一件ごとは目立たない。だが全体で見ると。

「随分抜かれてるな」

「はい」

 リュシアンは一冊目を手に取った。開く。鼻につく薔薇。二冊目。薔薇。三冊目。薔薇。四冊目も。五冊目も。眉間に皺が寄る。

「……全部、薔薇の匂いがする」

 補佐官が困ったような顔をした。

「ローゼンベルク家ですから」

「まあ、そうなんだが」

 七冊目を閉じる。強い。気持ち悪くなるほどではない。けれど、長く嗅いでいたくはない。

「全部同じだな」

「同じ?」

「薔薇だ」

「……はい」

「七冊とも」

 補佐官が何を言われているのか分からない顔をした。リュシアン自身も、何が気になっているのか分からない。ただ。こういうことを言えば、あの色の変わる目を輝かせて長々説明し始める人間を、一人知っている。リュシアンは立ち上がった。

「殿下?」

「専門家を呼ぶ」

「専門家?」

「すぐ戻る」

「殿下」

 返事はしなかった。


*


「嫌です」

 即答した。

「まだ何も言ってないだろう」

 リュシアンは七冊の帳簿を腕に抱えたまま、扉の前に立っていた。濃紺の袖と、古びた革張りの帳簿。どう見ても不穏である。

「帳簿を七冊抱えて調香室へ来る王太子に、何を期待しろと?」

「嗅いでくれ」

「犬ではありません」

「宮廷調香師だろう」

「宮廷調香師の仕事に帳簿の鑑定は含まれません」

「正式な依頼にする」

「権力の濫用です」

「王室が買い上げている香料に関する調査だ」

「……」

 ずるい。それを言われると、完全に無関係とも言えない。アデルは眉を寄せた。その表情で、アレキサンドライトの瞳が少し深い色になる。

「今回だけですよ」

「助かる」

「その言葉、覚えておきますからね」


*


 七冊の帳簿が作業机へ並べられた。アデルは一冊目の表紙へ鼻を近づけた。銀色の後れ毛が肩から流れ落ちた。

「……ああ」

 二冊目。

「なるほど」

 三冊目。

「へえ」

 四冊目。

「これは分かりやすいですね」

 リュシアンは眉を寄せた。何が分かりやすいのか、と言いたげな顔だった。五冊目。六冊目。七冊目。アデルが顔を上げた。窓から差し込む午後の光を受けて、瞳が明るい緑へ変わっている。

「殿下」

「分かったか?」

「全部、違います」

「……薔薇だろう?」

「薔薇です」

「なら同じじゃないか」

 アデルは真顔になった。整った細い眉が、すっと下がる。アデルは近くにあった紙を七枚取り出した。その動きが少し乱暴になった。怒っている? いや、真剣なのか。リュシアンはなんとなく分かった。そして保管棚から、小瓶をいくつか選んでくる。背伸びをして上段の瓶を取る。その拍子に銀髪を留めていた細い編み込みが揺れた。

「王室の香料分類では、薔薇の香りを大きく七つに分けています」

「七つも?」

 アデルの視線が刺さった。

「七つも、ではありません。大きく分けて七つです」

「はい」

「返事だけは素直ですね」

 いいですか? と前置きして一つずつ小瓶を開けていく。

「ダマスク・クラシック。いわゆる、もっとも古典的な薔薇らしい香り」

「ダマスク・モダン。華やかさが強く、より明るい」

「ティー。紅茶の茶葉を思わせる香りを含みます」

「フルーティー。桃や杏、林檎のような果実を感じるもの」

「ブルー。青みのある、少し爽やかな系統」

「スパイシー。丁香など、香辛料を思わせます」

「ミルラ。甘さの中に、アニスのような少し癖のある香りがあります」

 説明しているうちに、アデルの表情が戻ってきた。香りの話になると分かりやすい。頬が少し緩み、瞳が生き生きする。リュシアンは七枚の試香紙を見た。

「うむ、全部同じような『薔薇』だな」

「帰ってください」

「待て」

 アデルが背を向ける。銀髪がさらりと揺れた。

「もう説明しません」

「職務放棄するな」

「誰のせいですか!」

 補佐官が必死に笑いを堪えている。アデルは一度咳払いした。

「ローゼンベルク家は、七家それぞれで主要品種が違うのですね?」

 補佐官が頷く。

「はい。本家を含め、それぞれ得意とする薔薇がございます」

「でしたら、この帳簿の香りが違うのは当然です」

 アデルは順番に指差した。

「帳簿は現地で使われていたんですよね?」

「はい」

「なら、紙そのものへ長年その土地の香りが染み込んでいても、おかしくありません」

「じゃあ役に立たないのか」

 リュシアンが言う。

「まだ何も調べてません」

「そうか」

「どうして少し嬉しそうなんですか」

「いや」

 リュシアンは口元を隠した。香りの話を始めると、リュシアンはいつも、こうして妙に楽しそうな顔をする。アデルは不審そうに彼を見たあと、一冊目を開いた。

「問題の記載はどちらです?」

 補佐官が示す。「運搬費」そのページへ鼻を近づける。

「……?」

 長い睫毛が動いた。もう一度。二冊目。同じ時期の補填金。

「……」

 三冊目。アデルの表情が変わる。先ほどまで柔らかかった目元が鋭くなる。四冊目。五冊目。六冊目。七冊目。

「殿下」

 先ほどとは違う声だった。リュシアンが身を起こす。

「今度はなんだ」

 アデルは七冊を開いたまま横に並べた。

「おかしいです」

「どこが?」

「帳簿自体の香りは、それぞれ違います」

 一冊目を指す。

「これはティー」

「これはフルーティー」

「スパイシー」

 そして、問題の記載があるページを順番に嗅ぐ。

「でも、この半年の不自然な支出が記載されたページだけ」

 アデルが顔を上げた。緑と紫の間で揺れる瞳が、まっすぐリュシアンを見る。

「全部、同じ薔薇です」

 部屋が静かになった。

「何系だ?」

「ダマスク・クラシック」

 補佐官が息を呑む。リュシアンは七冊を見た。

「つまり?」

「誰かが」

 アデルの白い指が、七冊の帳簿を順に辿る。

「七冊のこのページだけ、同じ香料か、同じ保管場所を経由しているのかもしれません」


*


 七冊すべてをまとめて扱う立場にいた人物は、三人へ絞られた。事情を聴くため、アデルたちは帳簿を持ってリュシアンの執務室へ移った。一人目。ローゼンベルク本家の家令。七家から上がった帳簿を一度取りまとめ、内容を確認する役目にある。二人目。ローゼンベルク侯爵令嬢、ヴィオラ。

 次期当主として事業を任され始めており、七家の収支を確認するため、問題の帳簿を一晩すべて自室へ持ち込んでいた。そして三人目。王室香料調達官、バルテル。王宮へ届いた七冊を最終確認し、支払いを承認した人物。

「では、話を聞くとするか」

 リュシアンが報告書を見る。執務机へ向かう横顔は、また冷徹王子のそれに戻っていた。長い睫毛の下で灰青色の瞳が書面を追う。

「このヴィオラ嬢の部屋は?」

「ダマスク系の薔薇を好み、常に飾っているそうです」

 補佐官が答える。

「分かりやすく怪しいな」

 リュシアンは横目でアデルを見る。アデルは移動する前に前掛けを外し、ほどけかけていた銀髪を結び直していた。灰青色の仕事着の袖口を確かめて顔を上げると、リュシアンと目が合った。

「何です?」

 視線に気づかれた。

「いや」

「先ほどから、よくこちらをご覧になりますね」

「気のせいだ」

「そうですか?」

 気のせいとは思えなかったが、問い詰めるほどのことでもない。ヴィオラはすぐに王宮へ呼ばれた。二十歳を少し過ぎた、落ち着いた女性だった。柔らかな栗色の髪を丁寧にまとめ、深紅のガウンを着ている。服からも確かに、古典的な薔薇の香りがした。帳簿へ残ったものと近い。

「七冊とも、お前の部屋へ置いたのか」

 リュシアンが尋ねる。

「……はい」

「一晩?」

「はい」

「何のために」

 ヴィオラが黙る。指先がドレスをぎゅうっと握った。

「レディ・ヴィオラ」

 アデルが声をかける。リュシアンの低い声に比べると、アデルの声は柔らかい。

「横領を疑われています。お話しいただけませんか」

 ヴィオラはしばらく俯いていた。やがて、ゆっくりと口を開く。

「……読めなかったのです」

「はい?」

「帳簿が」

 全員が黙った。ヴィオラの頬が赤くなる。

「今年から父に、七家の収支も把握しろと言われました。けれど……数字が、どうにも苦手で」

「それで?」

「一晩かけて読みました」

「……」

「朝まで」

「それだけ?」

 リュシアンが聞く。

「それだけです!」

 ヴィオラの顔がさらに赤くなる。

「次期当主が帳簿も満足に読めないなど、恥ずかしくて言えなかったのです!」

「なるほど」

 リュシアンが頷いた。

「それは言いたくないな」

「殿下」

「分かってる。笑ってない」

 口元が少し上がっている。笑っている。アデルは溜息をつき、隣のリュシアンを見た。王宮で冷徹だと恐れられている男が、他人の失敗を面白がっている。こんな顔を知っている人は、案外少ないのかもしれない。そう思った。なぜそんなことを考えたのかは、分からなかった。アデルはもう一度帳簿を見る。

 確かに一晩、薔薇を飾った部屋へ置かれていた、それなら香りが移っていてもおかしくない。だが、何かが引っかかる。アデルは一冊を閉じた。表紙。紙の端。綴じ目。順番に香りを追う。銀髪が頬へ落ちた。気にせず、さらに顔を近づける。

「……違います」

「何が?」

 リュシアンが横から覗き込む。二人の頭が近づいた。帳簿に夢中で、その近さを意識する余裕はなかった。問題のページを開く。

「ヴィオラ様のお部屋の香りが移ったのなら、帳簿全体へ薄くつくはずです」

「そうだな」

「実際、表紙にも少しあります」

 紙の外側には、ごく淡いダマスク香。

「でも問題のページは、もっと深い」

 アデルは綴じ目に鼻を近づける。さらにリュシアンも近づく。黒髪と銀髪が、ほとんど触れそうになる。

「殿下」

「なんだ」

「近いです」

「見えないんだ」

「反対側から見てください」

 リュシアンが少しだけ離れた。

「この紙は」

 アデルはゆっくり顔を上げた。

「帳簿へ綴じられる前から、薔薇の香りがついていた可能性があります」

 リュシアンが問題のページへ手を伸ばした。一枚めくる。戻す。長い指が紙の表面を撫でる。もう一度。隣のページも触る。

「アデル」

「はい?」

「これ」

「何です?」

「紙が違うかもしれない」

「え?」

 アデルも指先で撫でた。リュシアンの指のすぐ隣を。分からない。

「少しざらつく。紙の端も、ほかのページと揃っていない」

 リュシアンは別の帳簿を開く。

「こっちも、これもだ」

 アデルは問題のないページと触り比べる。意識すれば。ほんのわずか。確かに違う、気がする。

「……よく分かりましたね」

「分かるだろ、このくらい」

「私は分かりませんでした」

 リュシアンが止まった。灰青色の瞳が、少し見開かれる。

「そうなのか?」

「はい」

 アデルは素直に答えた。それから、ぱっと笑った。目尻が柔らかく下がり、アレキサンドライトの瞳へ光が入る。

「すごいですね、殿下」

 リュシアンは黙った。

「……」

「殿下?」

「いや」

 顔を逸らした。耳のあたりが、ほんの少し赤い。アデルは首を傾げる。

(暑いのかしら)

「この紙、どこで使われているものか調べられますか?」

 補佐官が一枚を確認する。

「少々お待ちください」

 結果は、その日のうちに出た。ローゼンベルク七家のものではない。紙の透かしと納入記録を照合すると、王宮で大量に購入している公文書用の紙だと分かった。問題のページの綴じ穴には、元の糸を抜いて綴じ直した跡も残っていた。


*


「では、ローゼンベルク家ではない?」

 ヴィオラが驚いた顔をする。

「王宮で使う紙が、七家の帳簿へ混ざっています。まず、その紙がどこから来たかを調べる必要があります」

 アデルが答える。七冊、別々の領地、別々の薔薇、そこへ後から差し込まれた、王宮の紙。そして七冊すべてに同じ薔薇の香り。リュシアンが椅子へ深く座った。脚を組み、頬へ指を添える。考え込んだ横顔は、アデルが最初に会った頃の印象そのままだ。冷たく、近寄りがたく、綺麗すぎる。

「王宮側で七冊全部に触れられたのは」

「調達官バルテルです」

 補佐官が答える。バルテルは即座に呼び出された。五十代ほどの、穏やかな男だった。長年、王室の香料調達を任されている。当然、疑惑を否定した。

「私は帳簿を確認しただけでございます」

「この紙は王宮のものだ」

 リュシアンの低い声。表情はほとんど動かない。こういうときの彼を見れば、冷徹と呼ばれるのも仕方がないとアデルは思う。

「王宮には同じ紙が山ほどございます」

「その通りだな」

「それだけでは、私が差し替えた証拠にはなりますまい」

 正論だった。香りも。紙も。バルテルへ直接つながるものではない。アデルは黙って七冊を見る。差し替えられたページの薔薇は、全部同じ……。なぜ、わざわざ香りをつけた?無臭の紙を差し込めば、それでよかったはず。……いや逆だ。アデルの瞳が動いた。

「殿下」

 リュシアンがすぐこちらを見る。

「何か分かったか」

「この方」

 アデルはバルテルを見る。

「薔薇に詳しくありませんね?」

 バルテルの眉が動いた。

「何を」

「香料調達官なのに?」

 リュシアンが続ける。

「私は調達を管理する立場であって、調香師ではございません」

「そうでしょうね」

 アデルは七冊を閉じた。

「だから、間違えた」

「何をです」

「七家の帳簿から薔薇の香りがすることは、ご存じだったのでしょう」

 バルテルは答えない。

「新しい紙へ差し替えれば、そこだけ無臭になります」

 七家の帳簿は、長く領地で使われてきた。当然、それぞれの土地の薔薇が染みついている。

「だから不自然にならないよう、薔薇水で香りをつけた」

「……」

「けれど」

 アデルは一冊目に手を置く。白い指と古い革表紙の色が際立つ。

「これはティー」

 二冊目。

「こちらはフルーティー」

 三冊目。

「こちらはスパイシー」

 最後に、問題のページを開く。

「なのに差し替えられたページだけ、すべてダマスク・クラシック」

 バルテルの顔から色が消え始める。アデルは静かに続けた。

「あなたは、『ローゼンベルク家なら薔薇でいい』と思った」

「七家それぞれの香りの違いまでは、確かめなかったんだな」

 リュシアンが引き取った。視線だけで人を射抜くような顔だった。

「そんなものは証拠にならない!」

 初めて、バルテルが声を荒らげた。

「おっしゃる通りです」

 アデルは頷いた。バルテルが目を見開く。

「香りだけで、あなたが差し替えたと断定することはできません」

 アデルは淡々と言う。

「香りが教えてくれるのは、誰かがそこにいた可能性。何かに触れた可能性。そして、証言のどこかに矛盾があることだけです」

 一度、リュシアンを見る。

「最後は、人のお話と記録を確認しなければ」

 リュシアンの口元が、ごくわずかに上がった。

「だそうだ」

 補佐官を見る。

「例の運送商会」

「すでに人を向かわせています」

「支払い記録と、バルテルの資産を洗え」

「承知いたしました」

 バルテルが立ち上がる。

「お待ちください!」

「待つさ」

 リュシアンは椅子から動かなかった。長い脚を組んだまま、灰青色の目だけを上げる。

「証拠が揃うまでな」

 その顔を見たバルテルが、黙った。翌日。運送商会の裏帳簿が見つかった。王室から支払われた架空経費の一部が、別名義を経由してバルテルへ戻っている。七家が連携していたのではない。一人の男が、七家を利用していた。少額ずつ目立たないように、しかし長い時間。けれど、七つの薔薇を、一つだと思った。その小さな違いが、隠されていた金の流れへ辿り着く入口になった。


*


 事件が片付いた翌日。

「できました」

 アデルは小さな布袋を差し出した。いつもの仕事着。白い前掛け。低くまとめた銀髪。リュシアンの眉間が、少し緩んだ。執務室で帳簿を広げていたときとは違い、今日はいつもの作業台が二人の間にある。

「俺の?」

「はい。『仕事道具』です」

「よし」

「そこ、そんなに重要ですか?」

「重要だ」

 リュシアンが受け取る。アデルの細い指と、自分の指先が一瞬触れた。アデルは気にした様子もない。中には乾燥させたレモンの皮と、ペパーミント。リュシアンが鼻元へ寄せる。目を閉じる。長い睫毛が頬へ影を落とした。息を吸う。

「……悪くない」

「それは何よりです」

 アデルがほっとしたように微笑んだ。

「先日は助かった」

「私がですか?」

「お前がいなければ、俺には七冊ともただの薔薇だった」

 アデルは少し笑った。

「でも、私だけでも解けませんでしたよ」

「?」

「紙の違い」

 アデルは作業机へ肘をつく。銀髪の横から、また細い後れ毛が落ちた。

「私は気づきませんでした」

「そうか」

「はい」

 少し間があった。アデルは何気なく続ける。

「殿下の五感は、悪いことばかりではありませんね」

 リュシアンが黙った。

「殿下?」

「……初めて言われた」

「何をです?」

「それ」

「そうなんですか?」

「ああ」

 リュシアンは匂い袋を見た。

「大抵、面倒だと言われる」

 アデルは首を傾げる。

「実際、面倒ではありますね」

「おい」

「でも」

 アデルが笑う。窓から差し込んだ光の中で、その瞳が緑へ変わった。

「役に立ちました」

 リュシアンはしばらく何も言わなかった。その顔を見てアデルは、少しだけ不思議に思う。普段の彼なら、すぐに何か返してくる。けれど今は、灰青色の瞳が静かにこちらを見ているだけだった。冷たい色だと思っていた。初めて会ったときは。今はそれほどでもない。むしろ、黙って見られる方が、落ち着かない。

「殿下?」

「ああ」

 リュシアンは視線を落とした。手元の匂い袋、レモンとペパーミント。香りに苦しむ彼が、少しでも楽になれるようにと作ったものだ。

「……やっぱり違うな」

「何がです?」

「アデルの匂いとは」

 アデルの頬が一瞬で赤くなった。アレキサンドライトの瞳まで大きくなる。

「まだ言うんですか!?」

「七種類の薔薇より、そっちの方が分かりやすい」

「比較対象にしないでください!」

「でも本当に違う」

 リュシアンが立ち上がった。椅子が小さく鳴る。

「殿下?」

 背の高い男が立つと、一気に視界が狭くなる。青みを帯びた黒髪、灰青色の瞳が近づいてくる。一歩。アデルが一歩下がる。

「なんで逃げる」

「逃げてません」

「逃げてるだろ」

「殿下が近づいているんです」

 もう一歩。アデルの背中が作業台に当たった。逃げ場がない。リュシアンが顔を近づける。長い前髪の隙間から、灰青色の目が覗く。近い。やっぱり。顔が綺麗すぎる。今まで、そんなことを考えたことはなかった。いや。多分。考えないようにしていた。鼻筋も、目元も、伏せた睫毛も。こんな距離で見るものではない。

「殿下」

「花のようでいて、花ではない」

「殿下」

「どこか土を思わせるのに、重くない」

「近いです」

「粉雪のように淡く、消え入りそうなのに、確かにある」

「聞いてください」

 さらに近づく。黒髪の先が、アデルの銀髪へ触れた。あの日と同じ。鼻先が首元へ近づく。白い仕事着の襟から覗く肌へ、吐息がかかる。アデルは反射的に肩を竦めた。銀色の後れ毛がリュシアンの頬を掠める。

「あと」

「もう結構です!」

 両手でリュシアンの胸を押した。しっかりした身体。思ったより硬い。それに気づいてしまい、さらに顔が熱くなる。

「女性本人を試香紙のように嗅がないでください!」

「お前が薔薇には七種類あると言い出したんだろう」

「薔薇の話です!」

「だから、お前は何系かと」

「人間です!」

 一瞬、リュシアンが目を丸くした。そして吹き出した。普段の冷たい顔が、一気に崩れる。切れ長の目が細くなり、口元が大きく緩む。アデルは、不意にほどけたその顔から目を離せなかった。

「……」

 思っていたよりずっと幼い。

(……笑うと、綺麗というより……)

 そこまで考えて。アデルは愕然とした。何を考えている。

「笑わないでください!」

「悪い」

「全然思っていませんよね!?」

「思ってる」

 まだ笑っている。

(絶対に思っていないわ!)

 アデルは真っ赤なまま作業台へ向き直った。

(もう知らない。仕事をする。絶対に振り返らない)

 低くまとめた銀髪の隙間から、まだ赤い耳が丸見えになっていることには気づいていない。背後で、また匂い袋を嗅ぐ気配がした。しばらくして。

「でも、これも好きだな」

 小さな声だった。アデルの手が止まった。けれども振り返らない。

「……そうですか」

 それだけ答えた。なぜか、それ以上聞かない方がいい気がした。胸のあたりが、少しだけ落ち着かなかった。理由は、まだ分からなかった。


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