第二話 妖女の香り
スピネリア王国の香水文化は、少し特殊だ。香水は身だしなみであり、社交の道具であり、ときには宝石や絵画よりも高価な芸術品として扱われる。代々、宮廷調香師を輩出してきたアレクシア侯爵家は、まさに調香師のための家系とも言われていた。一族には銀の髪を持つ者が多く、他家より香りに酔いにくいとも伝わる。
そして数代にひとり、光によって色を変えるアレキサンドライトの瞳を持つ者が生まれる。ただの新緑の瞳ではない。そう、古くから言い伝えられている。アデル・アレクシアも、そのひとりだった。
*
念願の宮廷調香師になって、およそ一週間。アデルは王宮の庭園にいた。王宮の庭園の草花は、見栄えを重視して選ばれている。そのため、意外にも香りの強い花は多くない。それでも品種によって濃淡はある。王妃主催のお茶会に集まる令嬢たちの香水とぶつからないよう、ひとつひとつ選んでいく。一時間ほどで候補をまとめ、庭師へリストを渡した。
実際に花を摘み、席へ飾るのは庭師の仕事だ。宮廷調香師として最初に王妃から任された仕事も、これで一段落である。二週間後には、建国祭が控えていた。今日のお茶会は、その前哨戦。もっと言えば――リュシアン王太子殿下の婚約者候補を見定める、非公式の一次試験のようなものでもある。装い。立ち居振る舞い。会話。そして、香り。
スピネリアの令嬢ならば、どんな香りを、どれほどまとい、誰の前へ出るのかも教養のうちだ。だからこそアデルは、卓上の花をほとんど香らないものにした。主役は花ではなく、客人だからだ。
「アデル。母上の仕事は終わったのか」
庭園につながる回廊から声がした。リュシアン・スピネリア王太子殿下である。決して庭園へ足を踏み入れようとはしない。花が少ない場所から声をかけてくるあたりにも、彼の香りへの過敏さが見えた。手紙に残ったヘリオトロープの香りにさえ強く反応していたくらいだ。
「殿下、ごきげんよう。今、終わったところです」
「アデル。お前は建国祭、どちらで参加するんだ?」
「どちら、と申しますと」
「アレクシア侯爵家の令嬢としてか。俺の専属調香師としてか」
考えていなかった。なるほど。この職に就けば、こういう問題もあるのか。
「殿下のお望みのように」
リュシアンが少し驚いた顔をした。
「……専属ですので」
間が持たず、付け足した。初対面で押し倒されたときほどの騒ぎは、あれきりだった。もっとも、距離の近さまで改まったわけではない。
「なら、俺のそばに控えていてくれ」
「承知いたしました」
「正直、祝宴は毎回地獄なんだ」
アデルは一瞬、黙った。
――冷徹。
――女性嫌い。
リュシアンについて囁かれる噂を思い出す。調香師が控えたところで、何ができるのだろう。そう思った。このときは。
*
王妃のお茶会が始まる頃には、令嬢たちの香りは離れた調香室にまで届いていた。建国祭前だからだろう。いつも以上に皆、気合が入っている。その中でも一際目立つ香りがあった。甘い。濃い。そして、どこか生々しい。白い花をいくつも束ねて、夜の空気の中で溶かしたような香り。アデルは作業の手を止め、わずかに鼻を上げた。
(随分、思い切った香りね)
後で知ったことだが、それをまとっていたのはロザリー・ウェストン公爵令嬢。リュシアンの幼馴染だった。幼い頃は兄のヘンリーとリュシアンを追いかけ、野草の匂いを服いっぱいにつけて遊んでいた少女も、十六歳になれば立派なレディである。その日の彼女がまとっていたのは、特別に注文した香水。
名を――『妖女の香り』。その名に惹かれ、配合は調香師へ任せたのだと、のちにロザリー自身から聞いた。
「とろけるようなお香りですわね」
「今までのロザリー様とは全然違うわ」
「とても大人っぽくて、素敵」
評判は上々だったという。その言葉に励まされ、建国祭が待ち遠しくなったのだと、ロザリーは後に話した。
*
建国祭は、四日間にわたって催される。王都には各地の貴族が集うが、とりわけ国境を守る四方の辺境伯を、一斉に領地から離れさせるわけにはいかない。そのため地方ごとに主な出席日が割り振られ、式典や祝宴も四日に分けて行われる。王都に邸宅を持つ上位貴族や、王家と関わりの深い家は、複数の催しへ招かれることも珍しくない。初日。
開幕を祝う大祝宴には、王族と王都の上位貴族を中心に、多くの招待客が集まっていた。城下も賑わっているが、王城の大広間も負けていない。人。料理。酒。そして、香水。
「リュシアン王太子殿下、ごきげん麗しゅう」
「久方ぶりだな、ヘンリー。変な挨拶はやめろ」
「じゃあ、そうするよ。アカデミーの頃と同じでいいんだな」
ヘンリー・ウェストン公爵令息。リュシアンの幼馴染であり、アカデミー時代の学友でもあるらしい。アデルはリュシアンの斜め後ろに控えながら、次々と挨拶に来る人々の香りを楽しんでいた。
(案外、楽しい位置かもしれない)
普段の調香室では触れない地方の香料もある。男性の香水も面白い。北方の針葉樹を思わせるもの。海沿いの町から運ばれた柑橘。樹脂。薬草。人が変わるたび、空気も変わる。
「リュシアン!」
明るく、弾けるような声がした。誰に会いたくてここへ来たのか、迷いようのない声だった。ロザリー・ウェストン公爵令嬢。ヘンリーの妹である。彼女が近づいた、その瞬間だった。リュシアンの顔色が変わる。
「……近づくな」
ロザリーが固まった。
「え?」
「それ以上、こちらへ来るな」
「リュシアン……?」
返事はなかった。リュシアンは背を向け、早足で人波を掻き分けていく。アデルも、一瞬遅れて理解した。この香り。まずい。彼には強すぎる。だが、もう遅い。ここは建国祭の大祝宴。周囲には大勢の貴族がいる。結果だけを見れば、
――ウェストン公爵令嬢が、王太子に公衆の面前で拒絶された。
そう見える。ヘンリーが慌ててロザリーを宥めている。そちらも気になる。けれど。
(今は殿下を)
アデルはスカートを持ち上げ、リュシアンの後を追った。早い。ドレスでは追いつけない。
*
ようやく見つけたリュシアンは、衣装部屋で早くも上着を脱ぎ始めていた。しかも、かなり乱暴に。
「ご無事ですか」
「無事に見えるか? 吐きそうだ」
顔色が悪い。
「急に……動物みたいな匂いがした」
「こちらをどうぞ」
アデルは腰につけていた小さな袋を外した。中には乾燥させたレモンの皮と、ペパーミント。リュシアンの鼻元へ近づける。本当に、調香師がそばに控える意味があったとは。
「ゆっくり嗅いでください」
リュシアンが息を吸う。しばらくして、強張っていた眉間がわずかに緩んだ。
「ご気分はいかがですか?」
「ああ……少しいい」
「それは何よりです」
「これ、少し借りるぞ」
「はい。どうぞご随意に」
アデルが踵を返す。
「どこへ行く」
「原因を確認して参ります」
「おそらく、まだ会場にいるだろう」
リュシアンは匂い袋を鼻元に当てたまま言う。
「動物みたいな匂いがした。行けば分かるんじゃないか」
「……動物?」
*
アデルは大広間へ戻った。一度、足を止める。神経を集中させる。会場を満たす空気を、ゆっくり脳へ取り込むように。すん。花。樹脂。柑橘。革。酒。蝋燭。その中に――……いた。確かにこれは。ロザリーは、先ほどとほとんど同じ場所にいた。目元が赤い。
「レディ、ご傷心のところ恐れ入ります。王太子殿下専属の調香師、アデル・アレクシアでございます」
「何?」
ロザリーが睨みつけてくる。
「私が殿下のご気分を害したと言いに来たの?」
「先ほど、殿下の後ろに控えておりました」
「……調香師、ね」
ロザリーは唇を噛んだ。
「そんなに、この香りは駄目なの?」
声が震える。
「私はちゃんと大人になったの。殿下に、女性として見てほしいのよ!」
「はい」
アデルは静かに答えた。
「香りから、よく伝わってきます」
ロザリーの目から、ぽろりと涙が落ちた。強気な顔が一瞬で崩れる。アデルは、落ち着くまで待った。
「どの香料をお使いになったのです?」
「知らないわ」
「……知らない?」
「だって、聞かない方がいいと思ったの」
「なぜです?」
ロザリーは涙を拭いながら答えた。
「その方が、妖女になれる魔法がかかるような気がしたの」
「……ご事情は理解しました」
ロザリーは俯いた。先ほどまでの勢いはない。それでも目の奥には、まだ意地が残っている。
「……そんなに変なの、この香り」
アデルは首を横に振った。
「いいえ。変ではありません」
ロザリーが顔を上げる。
「では、どうして」
「強いのです」
「強い?」
「ええ。しかも、とても美しい強さです」
アデルは許可を取ってから、ロザリーの袖口へそっと鼻先を寄せた。濃密な花の甘さ。その奥に、熱を孕んだような白い花の息遣い。
「チュベローズとジャスミンが中心ですね」
「分かるの?」
「それが仕事ですので」
もう一度、香りを確かめる。
「どちらも、夜によく似合う花です」
「夜……」
「昼の庭で風に揺れる花というより、夜気の中で、肌の熱に近いところで香る花です」
ロザリーが瞬きをした。
「ジャスミンは甘く華やかです。でも、それだけではありません。熟れた果実のような濃さや、少し秘密めいた影もある」
「……」
「チュベローズは、もっと大胆です。白く美しい花なのに、その奥には獣めいた、野生的な気配がある」
ロザリーの頬が、わずかに赤くなる。
「つまり――とても『大人の女性』の香りです。『妖女の香り』という名前には、よく合っています」
「じゃあ」
ロザリーが息を呑む。
「じゃあ、なおさら……どうして殿下は」
その声は、悔しさよりも先に、傷ついた少女のものだった。
「香りに、絶対的な良し悪しだけがあるわけではありません」
「どういうこと?」
「香りには、場と、距離と、相手があります」
ロザリーは黙ってアデルを見る。
「この香りは、夜会にはよく似合います。近い距離で、一人の相手に『私を見て』と伝えるには、とても魅力的です」
「……それなら、ちょうどよかったじゃない」
「殿下ほど香りに敏感でない方になら、です」
「敏感?」
「殿下は、人一倍、香りを強く受け取ってしまわれます」
アデルは言葉を選ぶ。
「私たちには一つの香水としてまとまって感じられるものも、殿下には、もっと細かな情報として届いているのではないかと思います」
「……」
「ジャスミンの甘さも、チュベローズの濃さも、その奥にある獣めいた気配も。ひとつひとつの強い情報が、一度に入ってきてしまう」
ロザリーが息を止めた。
「しかも今日は建国祭です。会場には何十人もの香りが混ざっています。その中でこの香りは、殿下には強すぎたのでしょう」
ロザリーの唇が震える。
「じゃあ……わたくし、嫌われたわけでは」
「少なくとも、香りに強く反応されたのです」
アデルは少しだけ表情をやわらげた。
「殿下のお言葉は、たしかに優しいものではありませんでしたが、貴女そのものを退けたわけではありません」
また一粒、涙が落ちた。
「……だって、わたくし」
「はい」
「大人になったって、思ってほしかったのよ」
ロザリーは俯く。
「いつまでも、野原を走っていた子どもじゃないって」
アデルは黙って聞いた。
「香りの名前に惹かれて、中身は聞かなかったわ。知らない方が、本当に魔法がかかる気がしたの。これをつけたら、ちゃんと女の人に見てもらえるって」
「はい」
「なのに、こんなの……」
ロザリーは顔を覆った。責めるべき失敗ではない。アデルには、そう思えた。大人に見られたい。背伸びをしたい。何かひとつ魔法を使えば、自分を変えられる気がする。いかにも十六歳らしい恋だった。
「レディ・ロザリー」
アデルは穏やかに呼びかけた。
「香りは、魔法にはなります」
涙に濡れた目が、こちらを見る。
「でも、人を別人に変える魔法ではありません」
「……」
「その人がすでに持っているものを、少しだけ際立たせる。それが香りの魔法です」
ロザリーは黙った。
「ですから、無理に『妖女』になろうとなさらなくてもよいのです。貴女がお持ちの愛らしさや、まっすぐさや、少し強情なところを美しく見せる香りの方が、きっとお似合いになります」
ロザリーが、泣き顔のまま眉を寄せた。
「……少し強情って何よ」
「先ほどのやり取りで十分伝わりました」
「あなた、調香師のくせに生意気だわ」
「よく言われます」
ロザリーが、小さく吹き出した。やっと泣き笑いになった顔を見て、アデルは少し安心する。
「もしよろしければ、香りを作り直しましょうか」
「作り直す?」
「はい」
「この香り、駄目なんでしょう?」
「いいえ」
アデルは首を振る。
「今の香りを否定するのではありません。貴女自身と、殿下との間にあるものを、もう少し加えます」
「……そんなことができるの?」
「それが、私の仕事です」
*
「原因は分かったか」
衣装部屋へ戻ると、リュシアンはまだアデルの匂い袋を鼻元に置いていた。
「はい。殿下のおっしゃった『動物みたい』な香りは、チュベローズ特有の獣めいたニュアンスでしょう」
「やっぱり動物じゃないか」
「花です」
「花なのか、あれ」
「とても美しい花ですよ」
「俺には無理だ」
「そうでしょうね」
リュシアンが眉を寄せる。
「香りが悪かったのか?」
「いいえ。香りそのものは、とてもよくできています」
「気分が悪くなるものでもか」
「殿下に合わなかっただけです」
アデルは淡々と答えた。リュシアンはしばらく匂い袋を眺める。レモンの酸味と、ペパーミントの冷たい香り。先ほどまで胸の奥にまとわりついていた吐き気は、だいぶ引いたようだった。
「ご気分はいかがですか?」
「ああ。もう大丈夫だ」
「それは何よりです」
「ところで、これは何だ」
「私のお守りです」
リュシアンが顔を上げた。
「お守り?」
「調香をしていると、私も香りに酔うことがありますので」
「お前でもか」
「もちろんです」
アデルは当然のように答える。
「一日中いくつもの香料を扱っていれば、鼻も頭も疲れます。特に重い花や動物性の香りが続く日は、気分が悪くなることもあります」
「調香師なのに?」
「調香師だから、です」
アデルは少し笑った。
「香りに強ければ調香師になれるわけではありません。自分の限界を知って、戻る方法を持っていることも仕事のうちです」
リュシアンは手の中の匂い袋を見る。
「それで、これを?」
「はい。私の場合はレモンとペパーミントが一番楽になるので。いつも持ち歩いています」
「俺にも効いた」
「そのようですね」
「なら、次は俺のものを作れ」
「……はい?」
「これはお前のものなんだろう。ずっと借りるわけにもいかない」
「それはそうですが」
「俺に効くものを作れ」
リュシアンは当然のように言った。
「それが次のお前の仕事だ」
ずいぶん勝手な依頼である。けれど。アデルは、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「承知いたしました。殿下専用の、お守りですね」
「お守りではない」
「では、何と?」
リュシアンは少し考えた。
「……仕事道具だ」
「殿下は調香師ではございませんが」
「うるさい」
*
建国祭の二日目、三日目。地方から訪れた貴族を迎える式典が続くその合間に、アデルはロザリーのための香りを組み直していた。そして四日目。建国祭を締めくくる祝宴には、王家と親しい上位貴族や、祭典に尽力した家々が再び招かれる。ウェストン公爵家も、そのひとつだった。祝宴を数時間後に控えた午後。ロザリーは宮廷調香師の作業部屋で、何度も自分の手首を嗅いでいた。
一日目とは、まるで違う。花の甘さは残っている。けれど、夜の底へ引きずり込むような濃密さはない。最初に立つのは、ベルガモットのほろ苦い明るさ。その奥から、イランイランの柔らかく艶やかな花の香りが開いていく。ローズマリーの青い草の気配。そして最後に残る、サンダルウッドの静かな木の温もり。
「いかがですか?」
アデルが尋ねた。ロザリーは、もう一度自分の手首へ鼻を寄せる。
「……好きよ、わたしは」
小さな声だった。
「前の香りみたいに、すごい女になった気はしないけれど」
「それは残念でした」
「そこは慰めなさいよ」
「香りはお気に召したのでしょう?」
「そうだけど」
ロザリーは口を尖らせる。けれど、もう一度香りを確かめる顔は嬉しそうだった。
「この花は?」
「イランイランです」
「ジャスミンじゃないのね」
「ええ。細長い花弁が黄緑から黄色へ変わっていく花です。艶やかな甘さはありますが、使う量と組み合わせを変えて、前の香りより柔らかく仕上げました」
アデルはロザリーの手首を指す。
「大人の女性らしさまで捨てる必要はありませんから」
ロザリーが、少し嬉しそうに笑った。
「じゃあ、この草っぽいのは?」
「ローズマリーです」
「どうして?」
「殿下と幼い頃、よく野原で遊ばれたと伺いましたので」
ロザリーが瞬きをする。
「……じゃあ、この木みたいなのは?」
「サンダルウッドを少し。お二人で木陰に座って昼食を召し上がったことがある、と」
「そんな話までしたかしら」
「たくさん伺いました」
ロザリーは急に恥ずかしそうに目を逸らす。
「忘れてちょうだい」
「調香に必要な情報ですので、難しいですね」
「もう」
それでも怒ってはいなかった。
「じゃあ、この最初の少し苦い香りは?」
「ベルガモットです」
「それにも意味があるの?」
「もちろん」
アデルは微笑む。
「子どもの頃の思い出だけでは、『今の貴女』の香りになりませんから」
ロザリーが黙る。
「少し大人になった貴女の苦味を、ほんの少し」
「……十八歳のくせに偉そうね」
「二年は大きいです」
「絶対に嘘よ」
ロザリーが笑った。それから、自分のドレスの裾を見る。
「……殿下も、受け入れてくださるかしら」
初日の勢いはない。不安を隠すために胸を張ることも、今はしていなかった。アデルは少し考えてから答えた。
「少なくとも、殿下を理解しようとなさったことは、受け取っていただけると思います」
「香りそのものじゃなくて?」
「香りも含めて、です」
アデルは、ロザリーの手首から少し離れたところで、香りの広がりを確かめる。
「以前の香りは、殿下に『私を見て』と伝える香りでした」
「……ええ」
「今日の香りは、『あなたのことを見ています』という香りです」
ロザリーは黙った。しばらくして、小さく息を吐く。
「……今は、それで十分かもしれないわ」
そして、少し照れくさそうに笑った。
「焦りすぎていたのね、私」
「十六歳ですから」
「あなたも十八でしょう!」
「二年は大きいです」
「二度言ったわね!」
そのとき。勢いよく扉が開いた。
「アデル! 俺の『仕事道具』はできたか?」
アデルは目を閉じた。
「殿下……ですから、扉は――」
「わっ、リュシアン?」
リュシアンが足を止める。
「ん? ロザリーか」
そして、首を傾げた。
「アデルと知り合いだったのか?」
「誰のせいで知り合ったと思ってるのよ!」
勢いよく開いた扉から風が入り、ロザリーの香りがふわりと舞った。アデルは思わず、リュシアンを見る。リュシアンは逃げなかった。眉を顰めることもない。ただ、少し不思議そうな顔をしている。
「……懐かしい匂いがするな」
ロザリーが息を止めた。
「嫌では、ない?」
「ああ」
リュシアンはもう一度、わずかに鼻を動かす。
「これは平気だ」
ロザリーの目尻に、じわりと涙が滲んだ。それでも今度は、泣かなかった。
「アデルが、私に似合う香水を作ってくれたのよ」
そう言って笑った顔は、一日目にまとおうとしていた妖女には、少しも似ていなかった。アデルには、今日のロザリーの方がずっと美しく見えた。
「それでアデル」
リュシアンがこちらを見る。
「俺の仕事道具は?」
「殿下」
「なんだ」
「今はレディ・ロザリーのお話をしております」
「もう終わっただろう」
「終わっておりません」
「何が残っている」
「まず、最初に言うべきことがおありでは?」
リュシアンが黙る。ロザリーも黙る。アデルは二人を見る。しばらくして、リュシアンが小さく息を吐いた。
「……ロザリー」
「なによ」
「初日は悪かった」
ロザリーは目を丸くした。
「言い方が悪かった」
「……うん」
「でも、あれは本当に無理だ」
「そこまで言わなくていいでしょう!?」
部屋にロザリーの声が響いた。アデルは、思わず笑った。香りは、人を別人にする魔法ではない。けれど、言えなかった言葉を少しだけ運びやすくするくらいの魔法なら。案外、持っているのかもしれない。




