第一話 恋に落ちる香り
「お前か。俺に媚薬を盛ったのは」
背中が、柔らかな寝具に沈んだ。ドン、と頭の横に手がつかれる。黒い髪。灰青色の目。見下ろしてくる顔は、腹が立つほど整っていた。近い。近すぎる。
「殿下。私は調べに来ただけで――」
「なら、なぜ俺の寝室にいる」
だから、調べに来たのだ。答える前に、その顔が首元へ下りてきた。
「ひゃっ」
鼻先が襟に触れ、温かい吐息が耳の下をかすめる。何を。何をしている、この方は。アデル・アレクシアの、宮廷調香師としての初日は、こんなはずではなかった。
*
九月に入ったばかりのその朝、アデルは鏡の前で襟を三度確かめた。白い仕事着。磨いた靴。低い位置でまとめた銀髪。父も、祖父も、肖像画の中の曽祖父も、同じ銀の髪をしている。アレクシア家に代々受け継がれる、少し変わった髪だ。香りが残りにくいのだと、幼いころから父に聞かされてきた。調香師には、ありがたい性質である。鏡の中の緑の瞳と目が合った。
アレキサンドライトのようだと褒められる色も、今朝ばかりは少し落ち着かない。今日から、自分が宮廷調香師なのだ。十八歳で父の後を継ぐと決まってから、何度も頭の中で繰り返してきた。それでも、いざ当日になると、指先までそわそわする。代々、宮廷に調香師を輩出してきたアレクシア侯爵家。
香料庫に並ぶ小瓶も、父の手が迷わず香料を選ぶ様子も、書き込みだらけの調香帳も、全部好きだった。いつか、自分の作った香りがこの宮廷を彩る。その「いつか」が、今日になったのである。
*
「娘のアデル・アレクシアでございます」
謁見の間で父に促され、アデルは深く膝を折った。
「まだ若輩ではございますが、調香の腕は私が保証いたします」
父は誇らしげだった。アデルも、少し誇らしかった。領地で香料植物の研究に専念する父に代わり、宮廷の調香を任される。
「父によく学んだと聞いている。励むように」
国王の言葉に、改めて頭を下げる。
「身に余るお言葉、ありがとうございます」
隣に座る王妃が、柔らかく微笑んだ。
「早速だけど、来週のお茶会のお花を選んでほしいわ」
顔を上げると、王妃は楽しそうに続けた。
「秋らしくしたいの。でも、お菓子やお茶の香りも楽しめるように。お願いできるかしら?」
「もちろんでございます。お茶の種類とお菓子を伺って、取り合わせをご提案いたします」
「まあ、楽しみね」
最初のご依頼だ。頭の中に、花の色と香りがいくつも浮かぶ。あとで料理人の方にもお話を伺わなくては。この日、代替わりの挨拶をする相手は、国王と王妃の二人だけだった。王太子のほかにも、王子は何人かいると聞いている。けれど、ここには同席しないらしい。特にリュシアン王太子は、アデルと同じ十八歳にして、大層近寄りがたい方だという。冷徹だとか、女性がお嫌いだとか。
そのあたりは、アデルの仕事には関係がない。皆様のお好みを伺うのは、必要な香りをご用意するときでよいだろう。謁見の間を出るころには、アデルはすっかり花選びに夢中になっていた。香りの強い花は控えめに。卓上の花器は低くして、お客様同士の顔が見えるように。淡い色でまとめてもよいし、王妃様のお召し物に合わせても――。
「アレクシア様。早速で恐縮なのですが」
父と別れたところで、一人の侍従に呼び止められた。
「王太子殿下のことで、ご相談が」
件の王太子。ドキッとするが、凛として対応するよう心がけた。
「はい。どのようなご用件でしょうか」
「殿下が、何者かに媚薬を盛られているのではないかと」
花の取り合わせが、頭から消えた。
「……今、何とおっしゃいました?」
「媚薬、でございます」
アデルが十八年生きてきて、口に出す機会のなかった言葉である。侍従が声を落としたので、アデルも少し、声を落とした。
「それは、調香師ではなく、お医者様のお仕事ではございませんか?」
「侍医はすでに。ですが、原因が分からず」
困った。出勤初日から専門外である。
「殿下は、香りに大変敏感でいらっしゃいます」
侍従が続けた。
「香水の強い方がお近くに寄られると、お顔を背けられることも。
寝室には花も香も置かないよう、普段から厳しくお申しつけです」
なるほど。冷徹だとか、女性がお嫌いだとかいう噂は耳にしていたが、事情は少し違うのかもしれない。
「今回、どのような症状が?」
「殿下のお言葉では、心臓が、ぎゅっとなる、と」
「……ぎゅっ……と?」
「ええ。それから、落ち着かなくなるそうです」
「それで媚薬だと?」
侍従は目を伏せた。リュシアンの推理らしい。
「お食事のあとでしょうか」
「いいえ。毒味役にも異常はありません。三日前から、いつも寝室で起きるようなのです」
場所が決まっている。アデルは顔を上げた。
「私の知見の範囲にはなりますが、寝室を拝見できますか?」
「もちろんです。殿下からも、原因を突き止めるようにと。今は執務にお出ましですので」
それなら、まずは現場だ。父から譲り受けた鞄を持ち直し、アデルは侍従のあとを追った。憧れの宮廷調香師。二つ目のご依頼は、一つ目と随分趣が違うらしい。
*
寝室の扉は開いていた。侍従はアデルを中へ通すと、寝具を替えた日を確認してくると言って下がった。広い部屋だった。天蓋つきの寝台。窓際の机。落ち着いた色の絨毯。王族の寝室らしく、どの家具も上等だが、飾り物は驚くほど少ない。そして。
「……この香り」
甘い。ほんの微かだが、確かにある。アデルは扉のそばに鞄を置き、部屋の奥へ足を進めた。香りの輪郭をつかもうと、静かに息を吸う。白粉のような柔らかさ。その奥に、杏仁を思わせる甘さ。これは――。
「そこで何をしている」
低い声に振り返った。扉の前に、見知らぬ青年が立っていた。黒髪に、灰青色の目。長身を包む上着の胸元に、王室の紋章が光っている。十八歳の、リュシアン王太子。侍従から伺った部屋の主のお姿と、ぴたりと一致した。ご不在ではなかったのか。
「殿下。寝室の調査を――」
「お前か。俺に媚薬を盛ったのは」
長い脚が、こちらへ大きく踏み出される。
「この部屋に何を持ち込んだ」
「何も。鞄はあちらに」
伸びてきた手に腕をつかまれた。驚いて一歩下がった足が、寝台の縁に当たる。まずい、と思ったときには遅かった。
*
そうしてアデルは、出会って間もないリュシアンに、寝台の上から見下ろされることになったのだった。調査に来たという説明は、最後まで聞いてもらえなかった。首元へ顔が下りてきた。噛まれでもするのではないかと、肩が強張る。思わず呼吸が止まる。結い上げた髪からほどけた銀の一筋が、リュシアンの頬にかかっていた。
「……違う」
首元で声がした。
「あの、殿下」
「お前からは、あの匂いがしない」
「ですから、何も持ち込んでおりません」
肩にかかっていた力が、少し緩んだ。リュシアンがゆっくり息を吐く。それきり動かない。アデルは天蓋を見上げた。金糸の刺繍が美しいな。現実から目を逸らしている場合ではない。
「殿下。誤解は解けましたでしょうか?」
今度は、すぐに離れてくれた。リュシアンは寝台に片膝をついたまま、自分の胸元に手をやった。
「……少し、楽になった?」
こちらは全く楽ではない。乱れた襟を直していると、灰青色の目がアデルに戻った。
「お前、何者だ?」
本来なら、寝台の上でするはずではなかったご挨拶を、アデルは口にした。
「宮廷調香師、アデル・アレクシアでございます」
「アレクシア……調香師の?」
「本日付で、父から仕事を引き継ぎました」
できれば、もっと早く聞いてもらいたかった。廊下から足音がして、戻った侍従が扉のところで固まった。
「で、殿下。こちらには私がお通しを」
「……そうか」
短い沈黙。リュシアンは寝台から降りた。
「取り違えた。手荒に扱ったことは詫びる」
アデルの腕へ、一瞬だけ目が落ちる。
「痛めてはいないか」
「驚きましたが、怪我はございません」
「なら、調べてくれ。俺は何を盛られている」
切り替えが早い。アデルも立ち上がり、仕事着の裾を整えた。
「殿下、これは媚薬ではございません」
「何?」
「少なくとも、今この部屋で私が感じているのは、花の香りです。ヘリオトロープの」
「なんだ、そのヘリオなんとかって」
「ヘリオトロープです。白粉のような、柔らかく甘い香りのする花でございます」
言いながら、改めて部屋を見回す。
「ですが、この寝室にお花はありませんね」
「ない。俺はそんなもの飾らない」
確かに、花瓶そのものがない。香炉も、香り袋も見当たらない。花そのものではなく、香料だろうか。貴重なものだが、王族であれば手に入る。問題は、どこから香っているのかだ。
「……おい」
寝具か。衣類か。窓が開いている、が、窓の向こうから運ばれてくる生花の香りとは、少し違う。
「おい、お前。聞いているのか」
「あ。集中して聞いておりませんでした」
リュシアンが目を細めた。
「お前、ちょっと不敬すぎないか」
「申し訳ございません」
「まあいい。早くこの香りをなんとかしてくれ」
「仰せのままに」
アデルは余計なことを考えるのをやめた。すん、と、小さく息を吸う。この部屋は、香りが少ない。洗ったリネン。家具の木材。上等な木だ。紫檀だろうか。窓際へ歩くと、微かにインクの香りがした。机の上には、筆記具と封蝋。それから、手紙の束。手紙。アデルは足を速めた。机に近づくほど、甘さの輪郭がはっきりする。
「中は読みませんので、お手紙に触れてもよろしいですか?」
「ああ。寝室に持ってくるものは、どれも公務には関係ない」
白い封筒。薄紅色の封筒。差出人には、令嬢の名前が多い。香りを添えたものもあるが、違う。これでもない。束の下にあった、淡い藤色の封筒で手が止まった。封蝋には、アルヴェーヌ家の紋章。シルヴィア・アルヴェーヌ。先代王妃の妹君だ。
「見つけました。これです」
「手紙?」
「こちらから、微かに香りがします」
リュシアンが手紙を受け取り、無意識のように鼻へ近づけた。その眉間が、きゅっと狭まる。
「……これだ」
胸元を押さえる手を見て、アデルは窓をもう少し開けた。初秋の風が、カーテンを揺らす。
「おつらいようでしたら、一度お預かりします」
差し出したアデルの手に、封筒は戻ってこなかった。リュシアンは差出人の名前を見ていた。
「叔母様からのお手紙は、初めてですか?」
「ああ。三日前に届いた」
症状が出始めた日と同じだ。けれど、封蝋はまだ割られていない。
「……母上がお隠れになったことで、とても心を痛めていらっしゃるそうだ」
リュシアンの声が、少し低くなった。
「仲のよい姉妹だったと、乳母から聞いた」
先代王妃は、リュシアンを産んでから体調を崩された。その後も回復されず、リュシアンが二歳になるころに亡くなられたという。
「きっと、俺を憎んでいる」
アデルはリュシアンの横顔を見た。
「……そう、おっしゃられたのですか」
「いや」
リュシアンは封筒の端を指で撫でた。
「だから、開けられずにいる」
薄い紙だった。指先で簡単に破けてしまいそうなそれを、この方は三日も開けられなかったのか。侍従が、静かに目を伏せた。慰めの言葉は、うまく浮かばなかった。大丈夫だとは言えない。アデルは手紙の中身を知らない。ただ、香りが苦しいのであれば、できることはある。
「おそばにおります」
リュシアンの目が、こちらを向いた。
「ご気分が悪くなられたら、お預かりします。落ち着ける香りをお探しすることもできます」
アデルは机の上のペーパーナイフへ目をやった。
「開けてみては、いかがでしょうか」
「……今代の調香師は、随分と万能なんだな」
「できる限りのことはいたします」
しばらくして、リュシアンが椅子を引いた。諦めたような、それでいて、何かを決めたような顔だった。封蝋が割れる。紙の擦れる音がする。アデルは少し離れたところで、窓の外へ目を向けた。一枚目を読み終えるまで、随分と時間がかかった。二枚目に移ったところで、音が止まる。気になって顔を戻すと、リュシアンは便箋を見つめたまま動かなかった。唇が、固く結ばれている。
なんて、おつらそうな表情だろう。やはり、恨み言でも綴られていたのか。指先が便箋の端を握りしめ、紙が小さく歪んだ。これ以上、目に入るところへ置いておくのも、おつらいかもしれない。リュシアンの頬に、一筋、光るものが落ちた。アデルは思わず一歩近づいた。
「ご気分がすぐれませんか?」
「……いや。平気だ」
平気には見えなかった。それでも、リュシアンは最後の一枚まで目を通した。読み終えても、顔を上げない。
「お手紙は……処分、いたしますか?」
「処分はしない」
すぐに返事があった。リュシアンは便箋の折れた端を、指の腹で丁寧に伸ばした。
「だが……」
アデルは次の言葉を待った。
「依頼だ。調香師」
ようやく顔を上げたリュシアンの目は、少し赤かった。
「この手紙の香りを、再現してくれ」
「……よろしいのですか?」
先ほどまで、なんとかしてほしいと言っていた香りだ。
「依頼だと言った」
「仰せのままに」
手紙を受け取る。リュシアンの指が離れるまで、アデルは引かなかった。
「中身は……別に、お前なら読んでも構わない」
「左様ですか。助かります。便箋を直接確かめられる方が、再現しやすいので」
リュシアンが、一瞬だけ妙な顔をした。何か間違えただろうか。
「折り目も汚さぬよう、大切にお預かりいたします」
そう付け加えると、今度は小さく頷かれた。
*
作業室に戻り、手を洗った。清潔な布を机に広げ、その上に藤色の封筒を置く。新しくアデルのものになった作業室には、父が残した道具がきちんと並んでいた。見慣れた天秤。小さな漏斗。よく研がれた薬匙。その前に、王太子の私信がある。初日に扱うものとしては、少々重い。便箋を取り出すと、柔らかな甘さがふわりとほどけた。読んでいいなら、読んでおこう。
香りについて、何か書いてあるかもしれない。アデルは最初の一枚を開いた。
リュシアンへ
突然の手紙に、驚かせてしまったかもしれません。
あなたに声をかけるまで、こんなにも長い時間をかけてしまいました。
今日は、お伝えしたいことがあり、筆を執りました。
私に、子供が生まれました。
あなたの従弟です。
長く子に恵まれず、ようやく腕に抱くことができた、小さな男の子です。
年の離れた従弟になりますが、いつか、あなたに会っていただけたらと思っています。
けれど、その前に、謝らなくてはなりません。
私は、大切な姉を失うことが怖かった。
日に日に弱っていく姉のそばで、どうして、どうしてと、そればかり考えていました。
姉が亡くなってからは、あなたに会えば、姉のいないことを思い知らされる気がしました。
その悲しみを理由に、十六年もの間、あなたに会いに行くことも、手紙を書くことさえもしませんでした。
あなたには、何の罪もないのに。
もしも私の沈黙が、あなたにご自分を責めさせていたのなら、それは私の過ちです。
あなたが姉から何かを奪ったなどと、どうか思わないでください。
姉は、あなたと一緒に生きたかったのです。
あなたが初めて「かあさま」と呼んだ日のことを、私は今も覚えています。
姉は私の手を握って、何度も同じ話をしました。
昨日までは呼んでくれなかったのよ、と。
少し話すだけでも疲れてしまうころでしたのに、
その日は、あなたが目を覚ますのを待ちきれない様子でした。
我が子を抱くようになって、あのときの姉の顔を、何度も思い出します。
この子の明日を見たい。
今日できなかったことが、明日はできるかもしれない。
その喜びの中に、姉もいたのだと、今になって思うのです。
もっと早く、あなたに伝えるべきでした。
あなたは、愛されていました。
手紙に添えたのは、姉が好きだったヘリオトロープの香りです。
姉の遺品としていただいた小瓶を、大切に持っていました。
寝台から起き上がれない日にも、姉はこの香りをそばに置き、あなたを抱いていました。
あなたは覚えておいででしょうか。
まだ幼かったから、忘れてしまったかもしれませんね。
それでも、構いません。
覚えていなくても、あの時間は確かにありました。
私にとって、この香りは姉そのものでした。
寂しいとき、私は幾度もこの瓶を手に取りました。
あなたにも分けて差し上げることができたのに、一人で抱えていました。
長い間、ごめんなさい。
返事を急いでいただく必要はありません。
今すぐ、私を許してくださらなくてもよいのです。
ただ、あなたのお母様が、どれほどあなたを愛していたか。
それだけでも、届きますように。
シルヴィアより
アデルは、最後の一行から目を離せなかった。廊下を誰かが歩いていった。その足音が遠ざかってから、ようやく便箋を置いた。……処分いたしますか、はなかった。ひどい見当違いだ。リュシアンが即座に否定した声を思い出し、少し肩が縮む。あのとき、便箋の皺を伸ばしていた指は、ひどく丁寧だった。香りをなくしたいのではなくなったのだ。アデルはもう一度、便箋へ顔を寄せた。
ヘリオトロープの、柔らかな甘さ。リュシアンの胸を締めつけていたものに、ようやく名前がついた気がした。懐かしさ。寂しさ。それから、会いたいと焦がれる気持ち。顔も声も思い出せないお母様を、あの方は恋しがっていたのかもしれない。誰に会いたいのか分からなければ、確かに、妙な薬を疑いたくもなるだろう。アデルは立ち上がり、父の調香帳を棚から下ろした。
先代王妃のお名前がある巻を探す。
『セレスティア様』
細い文字で記された調合のそばに、短い覚え書きがあった。
『私室用。ごく淡く。お子様をお抱きになるため、強く残さぬこと』
指先が、その行で止まった。紙に残る香りと、帳面の文字。そこに、アデルの知らない母子の時間があった。甘い香りのする胸元で眠る、小さなリュシアン。動けない寝台の上で、その重みを抱きしめていたお母様。アデルは帳面を開いたまま、椅子に座り直した。お使いになるなら、寝室で枕元の布へごく薄く香らせる形がよさそうだ。強さは、リュシアンに確かめてもらおう。
眠る前に、苦しくならずに触れられるくらい。一人で過ごす部屋に、少しだけ懐かしいものがあるくらい。清潔な小瓶を、机に並べはじめる。事件は解決した。あとは、ご依頼の香りを作るだけ。最初の仕事にしては、上々なはじまりだ。
*
次の日。勢いよく、作業室の扉が開いた。
「調香師。まだできないのか」
薬匙を持つ手が止まった。アデルはゆっくり顔を上げた。黒髪。灰青色の目。朝から無駄に整った顔。王太子である。
「……殿下。まだです。そして、扉は静かにお開けください」
「なぜだ」
「粉が飛びます」
リュシアンが、アデルの手元を見た。それから、今度は静かに扉を閉めた。
「急かすつもりはない」
最初の一言は、なんだったのか。
「ただ、一つ気になることがあってな」
アデルは薬匙を置いた。
「香りの強さでしょうか。調整は、実際にお確かめいただいてから――」
「なぜ、お前の匂いを嗅いだら、少し体が楽になった?」
忘れかけていた。いや、忘れることにしていた。寝台。すぐそばの顔。首元に触れた吐息。耳の後ろが、一気に熱くなる。
「……分かりません」
「調香師だろう」
「調香師にも、分からないことはございます」
「香りのことなのにか」
「私自身の体臭まで、調合しているわけではありませんので」
何の説明をさせられているのだろう。リュシアンは真面目な顔をしていた。
「香水は使っていないのか」
「仕事中は、香料を確かめる邪魔になりますから」
「なるほど」
納得されたらしい。よかった。これで話は終わりだ。アデルは机に向き直った。作業しよう。没頭すれば、首元の感触も忘れられる。
「だが、確かに楽になったんだ」
思ったより近くで、声がした。次の瞬間、首筋にふっと息がかかった。
「っ!」
肩越しに、黒い髪が見えた。また嗅いでいる。この方、また嗅いでいる。振り払ったら、不敬罪に問われるのだろうか。考えがまとまるより先に、体が動いた。
「うわあっ!」
べちん。ひどく情けない音がした。振り向きざまの手のひらが、リュシアンの顎を見事に払っていた。アデルは手を上げた姿勢で固まった。リュシアンも、顎を横へ向けたまま止まっている。終わった。
(ごめんなさい、お父様。宮廷調香師としての勤務は、一日で終わりました。二日目は、まだ朝です)
「……で、殿下」
声が裏返った。
「申し訳、ございません。今のは、その」
リュシアンが顎に触れた。一度、口を開いて閉じる。それから、アデルを見た。
「……驚かせたのは、俺か」
「はい。いえ。はい」
返事が定まらない。口元が、少し緩んだ気がした。怒ってはいない。たぶん。けれど、これほど身分の高い方を叩いた経験がないので、判断がつかない。リュシアンはアデルの顔をしばらく眺めていた。品定めするような、獲物を見るような鋭い目。終わった。不敬罪だ。
「まあ、いいだろう」
妙に機嫌のよい声で言った。よかった。首の皮一枚で繋がったようだ。
「調香師。お前、俺に借りができたな」
よくなかった。
「……借り、でございますか」
「王太子を叩いた」
「それは、殿下が突然」
「ああ。俺も悪かった」
あっさり認めた。では、借りとは。
「だから、罰を与えるつもりはない。ただ、今後も俺のために働いてもらおう」
「そのために出勤しております」
「俺の専属として、だ」
アデルは口を閉じた。専属。王太子の。
「父から引き継いだ、宮廷全体のお仕事は」
「ほかの者に振り分ける」
簡単に言う。王妃様の香水。お茶会のお花の選定。季節ごとに変える客間の香り。いろいろ、やってみたかったのに。アデルの顔を見て、リュシアンの眉が動いた。
「……そんなに嫌か」
「いえ。ですが、王妃様から、来週のお茶会の花選びをご依頼いただいておりまして」
「それはやればいい」
「よろしいのですか?」
「俺の用がなければな。母上には俺から話す」
今の王妃のことだ。亡き母の手紙を握っていたときとは違う、気負いのない呼び方だった。思わず、リュシアンを見た。
「香水の調合も?」
「ああ」
「花の選定も?」
「構わん」
それなら、少し話が違ってくる。リュシアンは、その反応を見て満足そうに頷いた。
「その代わり、俺が呼んだら来い」
「調香の途中で、手を離せない場合もございます」
「なら、俺がここへ来る」
それはそれで困る。
「……作業のお邪魔をなさらないのでしたら」
「お前、やはり不敬だな」
そう言いながら、リュシアンは笑った。初めて見る顔だった。眉間の皺がなくなると、少しだけ年相応に見える。冷徹な王太子、という噂は、やはり少々あてにならないらしい。代わりに、面倒な方であることは分かった。
「どうする、アデル」
名前を呼ばれて、一拍遅れた。覚えていたのか。アデルが答えるまで、リュシアンは待っていた。もう、顎を気にする様子はなかった。アデルは仕事着の裾をつまみ、頭を下げた。
「……謹んで、お受けいたします」
「よし」
あまりにも嬉しそうな返事だった。よほど、昨日の香りの調査を評価してくれたのだろう。初仕事で認められたのなら、悪いことばかりではない。そう思うことにした。
「では、まずご依頼を仕上げますので」
「ああ」
リュシアンは近くの椅子を引いた。座った。
「……お戻りにならないのですか?」
「邪魔はしない」
「執務は」
「まだ時間がある」
アデルの隣で、リュシアンが静かに息をついた。先ほどまで立っていた肩が、少し下がる。その顔は、不思議なくらい穏やかだった。アデルは小瓶へ目を戻した。リュシアンの母が愛した香りの謎は、解けた。それなのに今度は、王太子がアデルの作業室から帰らない。これは、厄介なことになった。憧れの宮廷調香師、二日目。どうやら仕事が、一つ増えたらしい。




