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第七十二話 祝福の香り

 時は少し遡る。アデルが冬の出産を迎える数か月前、秋のシャン王宮は桂花の甘い香りに包まれていた。

 王太子宮へ続く回廊には淡い金色の花が散り、開け放たれた窓からは、澄んだ風とともに秋の陽射しが差し込んでいる。庭園の池には青い空が映り、水面を渡る風が細かな波紋を広げていた。昨年の今頃、この宮には生まれたばかりの赤子の泣き声が響いていたが、今ではその小さな主が、自分の足で歩こうとするまでになっている。

 悠凰、愛称はユウユウ。

 シャン王太子ライレイと、その妃ユエの間に生まれた長男は、今日、一歳の誕生日を迎えた。

 王宮では朝から生誕を祝う式典が行われ、王族や重臣たちが次々と祝いに訪れていた。王太子の第一子である以上、その誕生から一年を無事に迎えたことは国にとっても大きな慶事であり、王宮の広間には色鮮やかな絹の飾りが掛けられ、香炉からは穏やかな白檀の香りが漂っている。

 もっとも、式典の主役がその意味を理解しているかといえば、もちろんそんなことはなかった。

「……ユウユウ、こっちだよ」

 ライレイは広間の端で膝をつき、両手を広げていた。

 赤褐色の長い髪をきちんと結い、深い紅色の礼装に身を包んだ姿は、黙っていれば威厳ある王太子そのものだった。金糸の刺繍が施された衣には王家の紋章が輝き、袖口から覗く細い指先に至るまで、隙のない装いである。

 しかし、その顔に浮かんでいるのは、威厳とはいささか縁遠い、どうしようもなく嬉しそうな笑みだった。

「おいで。父上がいるよ」

 少し離れたところでは、ユエが息子の小さな手を支えている。

 彼女は暗い紅色の絹を重ねた礼装をまとい、長い黒髪を銀の髪飾りでまとめていた。光の加減で深い赤を帯びる瞳は相変わらず落ち着いていたが、息子を見つめるときだけ、その目元が自然と柔らかくなる。

「悠凰、父上がお呼びですよ」

 ユウユウは母親を見上げた。

 赤褐色の柔らかな髪に、ユエによく似た暗赤色の瞳。丸い頬は乳児らしくふっくらとしているが、顔つきには少しずつ幼児らしい表情が現れ始めていた。

 その瞳が、父親の方へ向く。

「……あ」

 小さな口が開いた。

 ライレイの顔が、ぱっと明るくなる。

「そうそう、こっち。おいで、ユウユウ」

 ユエがそっと手を離すと、ユウユウは両腕を広げ、よろめきながら一歩を踏み出した。柔らかな靴が絨毯を踏み、もう一歩進んだところで身体が傾く。

 ライレイはすぐに手を伸ばし、転ぶ前に息子を抱き上げた。

「……できた!」

 広間に、弾んだ声が響く。

「ユエ、見た? 今、二歩も歩いたよ!」

「はい。拝見しておりました」

「すごいねえ、ユウユウ。もう自分で歩けるんだね」

 ライレイは息子を高く抱き上げ、それから頬を寄せた。ユウユウはくすぐったそうに笑い、小さな手で父親の髪を掴む。

「……あ、こら。父上の髪は引っ張らないで」

 そう言いながらも、ライレイは少しも困っていない顔をしていた。

 その様子を眺めていた第三王子ハオジュンが、大きな身体を揺らして笑う。

「お前、式典の間もずっとその調子なのか」

「だって、今日で一歳だよ?」

「知ってる。だから祝いに来たんだろうが」

「一年前はこんなに小さかったのに、もう歩こうとしてるんだよ。すごくない?」

 ハオジュンは呆れたように息を吐いたが、ユウユウが自分へ手を伸ばすと、たちまち表情を崩した。

「……おう、どうした。伯父上のところへ来るか?」

 ごつごつとした大きな手が伸びる。

 ユウユウはその指を握り、嬉しそうに声を上げた。

 ハオジュンの目元が、みるみる赤くなる。

「……大きくなったなあ」

「兄上、もう泣くの?」

「泣いてねえ!」

 その声に、近くにいた第三王妃ミンランが朗らかに笑った。

「まあまあ、いいじゃないの。子供の成長は嬉しいものよ」

「母上まで……」

 ハオジュンは顔を背けたが、ユウユウの小さな手だけは大切そうに握ったままだった。

 広間の奥では、国王ジンレイがその光景を穏やかに眺めていた。

 昨年、毒に倒れて命の危機に瀕した姿を思えば、今こうして祝いの席に座っていること自体が、家族にとっては何より喜ばしいことだった。まだ以前ほど無理は利かないものの、顔色は随分とよくなり、最近では短い時間であれば政務にも復帰している。

 ライレイは息子を抱いて父王のもとへ歩み寄った。

「父上。ユウユウが歩いたよ」

「先ほどから見ておる」

「すごいでしょ」

「ああ」

 ジンレイは低く笑った。

「まだ二歩だがな」

「二歩も、だよ」

 ライレイが訂正すると、ジンレイは呆れたように眉を上げた。

「お前は昔から、どうでもよいことには大げさだな」

「どうでもよくないでしょ。俺の息子の初めての二歩だよ」

「分かった、分かった」

 国王は笑いながら手を伸ばした。

「ほれ、少し抱かせろ」

 ライレイは素直に息子を渡した。

 ユウユウは祖父の腕へ収まると、しばらくその顔を見つめていたが、やがて白くなり始めた髭へ興味を示したらしい。小さな指を伸ばし、遠慮なく引っ張った。

「……おい」

 ジンレイが眉を寄せる。

 けれど、ユウユウは楽しそうに笑うばかりだった。

 ライレイは堪えきれず吹き出した。

「父上、好かれてるね」

「お前に似て、遠慮を知らん」

「顔はユエに似てるんだけどなあ」

「性格はまだ分からんだろう」

 ジンレイはそう言いながらも、孫の小さな背を優しく支えていた。

 その光景を、ユエは少し離れたところから静かに眺めていた。

 かつて、この王宮では誰もが互いの腹を探り、言葉の裏にある意図を考えていた。誰を味方につけ、誰を退けるか。それが王族として生き残るために必要なことだった。

 けれど今、目の前にいる人々は、一歳になった子供が二歩歩いたことを喜んでいる。

 王も、王子たちも、王妃たちも。

 誰もが、その小さな成長を祝福していた。

 ユエはそっと微笑んだ。

 この子が大きくなる頃には、王宮がもっと穏やかな場所になっていてほしい。

 そう願うことができるようになったのも、ライレイと出会ってからだった。

「……ユエ」

 呼ばれて顔を上げると、夫がこちらを見ていた。

「おいで。一緒に」

 金色の瞳が、柔らかく細められている。

 ユエはゆっくり歩み寄り、その隣へ並んだ。

 ジンレイの腕の中では、ユウユウが満足そうに笑っていた。

 桂花の香りが秋風に乗って流れ込み、広間の白檀の匂いと穏やかに混ざり合う。

 その日、シャン王宮には久しぶりに、何の憂いもない祝福の声が満ちていた。

*

 式典を終えた数日後、ライレイは王太子宮の執務室で、冬の外遊に向けた準備を進めていた。

 行き先はスピネリア。

 両国間の交易は順調に拡大しており、新たな香料の輸出入だけでなく、織物や薬草、職人の技術交流についても話し合う必要があった。今回は王太子夫妻として正式に訪問し、両国の協定をさらに進める予定になっている。

 ただし、問題が一つあった。

 季節である。

「……山越えは難しいか」

 ライレイは机に広げられた地図を眺め、軽く眉を寄せた。

 シャンとスピネリアを隔てる山脈は、秋の終わりから雪が深くなる。最短の山道は冬には通行が難しくなり、特に乳幼児を伴う旅には向いていない。

 今回はユエとユウユウも同行する予定だった。

 一歳になったばかりの息子を、雪深い峠へ連れていくつもりはない。

「南側へ大きく迂回する必要がございます」

 側近が地図の端を示した。

「こちらの街道でしたら、山麓の比較的温暖な地域を通れます。ただし、日数は余分にかかります」

「構わないよ」

 ライレイは即答した。

「ユウユウが無理なく移動できるのが最優先。宿場も十分に確保しておいて」

「承知いたしました」

「あと、馬車の防寒も。ユエは寒さに強い方だけど、子供は別だからね」

 側近が頷いた。

 ライレイはもう一度、地図へ目を落とす。

 以前なら、最短距離で移動することを優先しただろう。

 少しでも早く目的地へ到着し、予定通りに仕事を片づける。そのためなら多少の無理は構わないと考えていた。

 けれど今は、事情が違う。

 自分一人の身体ではない。

 守りたい人間が二人も増えたのだ。

 そんなことを考えていると、扉が控えめに叩かれた。

「殿下。スピネリアより書状が届いております」

「リュシーから?」

「はい。王太子殿下からの私信にございます」

 ライレイはすぐに顔を上げた。

「持ってきて」

 手渡された封筒には、スピネリア王家の紋章が刻まれていた。

 封を切り、便箋を広げる。

 そこには、見慣れた几帳面な筆跡が並んでいた。

『ライレイへ。

 こちらは変わりなく過ごしている。

 先日は悠凰の生誕祝いの知らせをありがとう。無事に一歳を迎えたことを、アデルともども嬉しく思っている。

 さて、以前から伝えていた件だが、アデルの出産予定日は、この冬だ。

 宮廷医によれば、母子ともに順調だそうだ。今のところ大きな問題もなく、本人は相変わらず仕事を続けたがっている。

 もちろん、無理はさせていない。

 それから、一つ頼みがある。

 生まれてくる子供の名前を、お前につけてもらえないだろうか。

 悠凰の名は俺が考えた。だから今度は、お前に頼みたい。

 アデルも賛成している。

 冬の訪問予定については、日程が決まり次第知らせてくれ。

 ――リュシアン』

 ライレイは最後まで読み終えたあと、しばらく便箋を眺めていた。

 それから、ゆっくりと口元を緩める。

「……へえ」

 小さな声が漏れた。

 アデルの出産予定日が決まった。

 そして、子供の名前を自分につけてほしいという。

 ライレイはもう一度、手紙の最後の部分を読んだ。

 悠凰の名をリュシアンが考えてくれたことは、今でも大切に思っている。

 息子が生まれる前、あの男が真剣に名前を考えてくれたことが嬉しかった。生まれた子供を抱き上げるたび、その名前がどれほどよく似合っているかを実感している。

 今度は、自分の番だということらしい。

「……リュシーも、なかなか粋なことをするね」

 ライレイは楽しそうに笑った。

 そして、筆を取る。

『リュシーへ。

 まずは、おめでとう。

 アデルちゃんも元気そうで安心したよ。君がどれだけ過保護になっているのか、今から目に浮かぶけどね。』

 そこまで書いて、ふっと笑う。

 おそらく、リュシアンは自分がユウユウの出産のときにどうしていたかを、今でも覚えているだろう。

 あの男が同じ立場になったら、どんな顔をするのか。

 考えるだけで楽しみだった。

 ライレイは筆を進めた。

『名前の件は、喜んで引き受けるよ。

 ただ、スピネリアの名前は男の子と女の子で随分違うだろう?

 今から決めてしまうと、どちらかに合わなくなるかもしれない。

 だから、生まれてから決めさせてほしい。

 顔を見て、その子に似合う名前を贈りたいと思っている。

 予定通り、冬にはそちらへ行くよ。

 山脈を迂回するから少し長い旅になるけど、ユエとユウユウも一緒だ。

 その頃にはアデルちゃんのお腹も随分大きくなっているだろうね。

 無理をさせないように。

 それから、君もちゃんと寝ること。

 ――ライレイ』

 最後に少し考え、もう一行を付け加えた。

『君が父親になるところを見られるのを、楽しみにしているよ。』

 ライレイは満足そうに頷いた。

 そのとき、執務室の扉が開いた。

「殿下」

 ユエが姿を現した。

 淡い灰色の衣をまとい、黒髪を後ろでまとめている。腕には、眠そうな顔をしたユウユウを抱いていた。

「……何だか、随分と楽しそうでございますね」

「うん。リュシーから手紙が来たんだ」

 ライレイは立ち上がり、妻と息子のもとへ歩み寄った。

「アデルちゃんの出産予定日が決まったって」

「まあ」

 ユエの表情が柔らかくなる。

「それは、おめでたいことでございますね」

「うん。それでね、子供の名前を俺につけてほしいんだって」

 ユエが目を瞬いた。

「……殿下が?」

「そう。ユウユウの名前はリュシーがつけてくれたから、今度は俺にって」

 ユエはしばらく黙った。

 それから、静かに微笑んだ。

「……素敵なお申し出にございますね」

「でしょ?」

 ライレイは嬉しそうに笑った。

「男の子か女の子か、まだ分からないからね。生まれてから決めようと思ってる」

「それがよろしいかと」

 ユエは腕の中の息子を見つめた。

 ユウユウは眠そうな目を擦り、父親へ手を伸ばしている。

 ライレイはすぐに抱き上げた。

「ユウユウ。今度、リュシーの子供が生まれるんだって」

 赤子は父親を見上げた。

 暗赤色の瞳が、きょとんと瞬く。

「君のお友達になるかもしれないね」

 ユウユウは意味が分からないまま、楽しそうに笑った。

 ライレイはその笑顔を見て、胸が温かくなるのを感じた。

 自分たちの子供と、リュシアンたちの子供。

 いつか二人が並んで遊ぶ日が来るのだろうか。

 そのとき、自分とリュシアンはどんな顔をしているのだろう。

 ユエとアデルも、きっと楽しそうに笑っているに違いない。

「……早く冬にならないかな」

 ライレイが呟く。

 ユエは少し笑った。

「その前に、旅の準備を済ませてくださいませ」

「……はい」

 王太子は素直に頷いた。

 腕の中では、ユウユウが父親の襟元を握りしめ、満足そうに笑っていた。

*

 冬が深まり始めた頃、スピネリア王都へ一行の馬車が到着した。

 シャンからの王太子夫妻と、その長男を乗せた使節団である。

 山脈を大きく迂回する旅路は、当初の予定より少し長くなった。途中、冷たい雨に足止めされる日もあったが、街道沿いの宿場で十分に休息を取り、ユウユウの体調を優先しながら進んできたため、一行は無事に王都へ入ることができた。

 スピネリア王宮の正門には、すでに出迎えの者たちが並んでいた。

 灰色の冬空の下、白い石壁に掲げられた王家の旗が風に揺れている。石畳には薄い霜が残り、馬車の車輪がゆっくりと止まると、冷たい空気の中へ馬の吐息が白く広がった。

「……着いたね」

 ライレイは馬車の窓から王宮を見上げた。

 長い旅装の外套を羽織り、赤褐色の髪を後ろで結んでいる。以前よりも少し落ち着いた表情になったとはいえ、金色の瞳に宿る悪戯っぽい光は相変わらずだった。

 隣ではユエがユウユウを抱いている。

 厚手の柔らかな衣に包まれた息子は、初めて見る異国の王宮に興味を示したのか、窓の外をじっと見つめていた。

「ユウユウ、ここがスピネリアだよ」

 ライレイが声をかける。

「父上のお友達がいる国」

 ユウユウは小さく首を傾げた。

 そのとき、馬車の扉が開いた。

「兄様!」

 聞き慣れた声が響く。

 ライレイが顔を上げると、そこにはリンレイが立っていた。

 淡い青緑色の冬衣装をまとい、赤褐色の髪を綺麗に結い上げている。金色の瞳は喜びに輝き、頬は冷たい風で少し赤くなっていた。

「リンレイ!」

 ライレイは嬉しそうに笑った。

「元気だった?」

「はい。兄様こそ、長旅お疲れ様でした」

 リンレイは礼をしたあと、すぐに馬車の中へ視線を向けた。

「……ユウユウ!」

 その声に、赤子が顔を上げた。

 リンレイは両手を口元へ当てた。

「……まあ、こんなに大きくなって」

 最後に会ったときは、まだ腕の中で眠っているばかりだった。

 それが今では、自分で立ち、少しずつ歩こうとするまでになっている。

 リンレイは嬉しそうに近づいた。

「ユウユウ、叔母上ですよ」

 ユウユウはしばらく彼女を見つめていた。

 それから、赤褐色の髪へ興味を示したのか、小さな手を伸ばす。

「……あ」

 リンレイの顔がぱっと明るくなった。

「覚えていてくれたのでしょうか」

「どうかなあ」

 ライレイは笑った。

「でも、気に入ったみたいだね」

 リンレイはそっとユウユウを抱き上げた。

 久しぶりの重みが腕へ伝わる。

 以前よりずっと大きくなっているのに、まだ柔らかく、温かい。

「……会いたかったです」

 小さく囁くと、ユウユウは彼女の袖を握りしめた。

 その様子を見て、ユエも静かに微笑んだ。

 やがて一行が王宮へ入ると、リュシアンとアデルが出迎えた。

 アデルは冬用の柔らかな衣をまとい、大きくなった腹部を両手で支えるようにして立っていた。銀色の長い髪は背へ流され、白い肌には妊娠後期らしい柔らかな血色が差している。以前より歩く速度はゆっくりになっていたが、アレキサンドライトの瞳は相変わらず澄んでいた。

「ライレイ殿下、ユエ様。ようこそお越しくださいました」

 アデルが微笑む。

 ユエも深く礼をした。

「ご無沙汰しております、アデル様」

 それから、彼女の腹部へ目を向ける。

「……もう、随分と大きくなられましたね」

「はい。もうすぐ予定日なのです」

 アデルは少し照れたように笑った。

「おかげさまで、ここまで順調に過ごすことができました」

「それは何よりにございます」

 ユエは安心したように微笑んだ。

 一方、ライレイはリュシアンの顔を眺めていた。

「……リュシー」

「何だ」

「君、少し痩せた?」

 リュシアンの眉が動いた。

「……そうか?」

「いや、何となく。目元も少し疲れてる気がする」

「気のせいだ」

 即答だった。

 ライレイは少し考えた。

 それから、にやりと笑う。

「……心配で眠れないんじゃない?」

「…………」

 リュシアンは黙った。

 その反応を見て、ライレイは楽しそうに笑った。

「やっぱり」

「うるさい」

「分かるよ。俺もそうだったから」

 ライレイは少し得意げに頷いた。

「でも、ちゃんと寝ないとね。父親になるんだから」

 リュシアンは額を押さえた。

「……お前にだけは言われたくない」

「どうして?」

「ユウユウが生まれたとき、産屋から追い出されたそうじゃないか」

 ライレイは一瞬黙った。

 それから、ふっと笑った。

「……よく覚えてるね」

「忘れるか」

 リュシアンも口元を緩めた。

 二人は顔を見合わせ、どちらともなく笑った。

 アデルはその様子を眺めながら、そっと腹部へ手を添えた。

 もうすぐ。

 本当に、もうすぐ会える。

 ずっと想像してきた、まだ知らない誰かに。

 胸の奥が、静かに高鳴った。

*

 出産が始まったのは、それから数日後の朝だった。

 王宮の庭園には薄い霜が降り、窓の外では冷たい風が枝先を揺らしていた。アデルは朝食を終えたあと、腹部にいつもとは違う張りを感じ、宮廷医と産婆を呼んでもらった。

 診察の結果、出産が始まっていることが確認された。

 最初のうちは、アデルも落ち着いていた。

 呼吸を整え、痛みの間隔を確かめながら、宮廷医の説明に耳を傾ける。傍らにはメリーが付き添い、温かな布や飲み物を用意していた。メリルとリンレイも駆けつけ、必要なものを運んだり、アデルの手を握ったりしながら、少しでも安心できるように声をかけていた。

 けれど、昼を過ぎても、出産は思うように進まなかった。

 痛みは次第に強くなり、間隔も短くなっていく。

 アデルは何度も深く息を吸い、産婆の指示に従って身体の向きを変えた。額には汗が浮かび、銀色の髪が頬へ張りついている。いつもなら香料の細かな違いを聞き分けるほど鋭い感覚も、今は身体の内側から押し寄せる痛みに意識を奪われ、周囲の気配を確かめる余裕さえなくなっていた。

「……っ、は……」

 アデルは寝具を握りしめた。

 メリルがその手を包み込む。

「アデル、大丈夫。ゆっくり息をして」

「……はい」

 返事をするだけでも、随分と力が必要だった。

 リンレイは産婆の指示に従い、温かな布を取り替えていた。ユエの出産に立ち会った経験があるとはいえ、今回のアデルは明らかに苦しそうだった。

 その姿を見ていると、胸の奥が締めつけられる。

「……アデル姉様」

 リンレイが小さく呼ぶ。

 アデルは痛みの合間に顔を上げ、どうにか微笑んだ。

「……大丈夫、です」

 けれど、その声には疲労が滲んでいた。

 宮廷医は慎重に状態を確かめ、産婆と短く言葉を交わした。子供の状態も繰り返し確認されていたが、出産の進みは遅く、アデルの体力が少しずつ削られていることは誰の目にも明らかだった。

 午後が過ぎ、夕方になった。

 窓の外の空が薄紫色に変わり、部屋には燭台の灯りがともされた。

 しかし、まだ生まれない。

 アデルは何度も痛みに耐え、そのたびに短い休息を取った。メリーが額の汗を拭い、メリルが手を握り、リンレイが水を差し出す。三人ともできる限り落ち着いて振る舞っていたが、時間が経つにつれて、表情から余裕が失われていった。

「……アデル」

 メリルの声が少し震えた。

 アデルは薄く目を開けた。

「……メリル、殿下」

「大丈夫よ。私たち、ここにいるから」

 そう言いながら、メリル自身の目元が赤くなっていた。

 リンレイも唇を結び、涙を堪えるように俯いている。

 メリーは何度も布を替えながら、アデルの顔色を確かめ続けた。

 幼い頃から側に仕えてきた主人が、これほど苦しそうにしている姿を見るのは辛かった。

 それでも、今は自分が取り乱すわけにはいかない。

「……アデル様」

 メリーはそっと声をかけた。

「もう少しだけ、お力をお貸しくださいませ」

 アデルはかすかに頷いた。

 分かっている。

 もう少し。

 そう言われてから、どれほど時間が経ったのだろう。

 痛みが遠ざかるたびに、身体の奥から疲労が押し寄せてくる。

 それでも、次の痛みは容赦なくやってきた。

 アデルは寝具を握りしめ、目を閉じた。

 怖い。

 正直に言えば、怖かった。

 これまで知らないことを知るのは、いつだって楽しかった。

 新しい香りも、未知の植物も、初めて訪れる土地も。

 けれど、今は違う。

 自分の身体の中で起きていることを、知識だけで理解することはできない。

 どうしても、実際に耐えなければならない。

 その事実が、思っていた以上に恐ろしかった。

 それでも。

 この先には、会いたかった誰かがいる。

 アデルはゆっくりと息を吸った。

 その子に会いたい。

 どんな顔で笑うのか、どんな声で泣くのか、何を好きになるのか。

 まだ何も知らない、けれど、ずっと会ってみたいと思っていた子供。

 その子が、もうすぐ生まれてくる。

「……会いたい」

 かすかな声が漏れた。

 メリルが顔を上げる。

「……アデル?」

 アデルは目を開けた。

「……この子に、会いたいです」

 その言葉に、メリルの目からとうとう涙がこぼれた。

「……ええ」

 彼女はアデルの手を強く握った。

「会いましょう。もう少しだから」

 リンレイも頷いた。

「私たちも、お側におります」

 メリーは涙を堪えながら、静かに微笑んだ。

「必ず、お会いになれます」

 アデルは小さく頷いた。

 そして、また次の痛みに向き合った。

*

 一方、産室の外では、リュシアンがほとんど眠らずに待ち続けていた。

 最初のうちは、まだ落ち着いていた。

 宮廷医から順調に進んでいると聞き、必要なものはすべて用意されていることを確認し、廊下の長椅子へ腰を下ろした。

 けれど、昼を過ぎても、夕方になっても、出産は終わらなかった。

 夜が訪れ、燭台の火が何度も取り替えられた。

 宮廷医が産室を出入りするたび、リュシアンは立ち上がった。

「……アデルは?」

「まだお時間がかかっております」

「子供は?」

「現在、慎重に確認を続けております」

「……そうか」

 それ以上、聞けなかった。

 リュシアンは長椅子へ腰を下ろした。

 しかし、数分も経たないうちに再び立ち上がり、扉の前へ歩いていく。

 扉を見つめる。

 戻る。

 また、立ち上がる。

 その繰り返しだった。

「……リュシー」

 背後から声がした。

 振り返ると、ライレイが立っていた。

 旅装から着替えた柔らかな衣をまとい、赤褐色の髪を緩く結んでいる。金色の瞳には、いつもの悪戯っぽい光が少しだけ薄れ、代わりに友人を気遣うような穏やかさがあった。

「……ライレイ」

「少し座ったら?」

「……座ってる」

「さっきから三回くらい立ってるけど」

 リュシアンは黙った。

 ライレイは小さく笑った。

「俺も、ユウユウが生まれるときはこんな感じだったのかな」

「……お前はもっとひどかった」

「そうかもね」

 ライレイは否定しなかった。

 そのまま隣へ腰を下ろす。

「……アデルちゃん、頑張ってるね」

「ああ」

 リュシアンは短く答えた。

「……ずっと、痛そうなんだ」

 その声は、いつもより低かった。

 ライレイは黙って聞いていた。

「何かしてやりたいのに、何もできない」

 リュシアンは両手を組んだ。

 灰青色の瞳が、疲労のためか少し赤くなっている。

「……俺は、こんなに無力だったか」

 ライレイはしばらく考えた。

 それから、静かに答えた。

「……そうだね」

 リュシアンが顔を上げた。

 ライレイは柔らかく笑った。

「俺も、そう思ったよ」

 ユウユウが生まれた日のことを思い出す。

 ユエが痛みに耐えている間、自分は何度も何かをしようとして、結局邪魔だと言われて追い出された。

 あれほど多くの兵を動かし、戦場で判断を下してきたというのに、妻の痛みを一つも代わってやれなかった。

「……でもさ」

 ライレイは続けた。

「何もできないわけじゃないと思うんだ」

 リュシアンが顔を向ける。

「……何ができる」

「待つこと」

 ライレイは穏やかに答えた。

「それから、終わったあとにちゃんと側にいてあげること」

 リュシアンは黙った。

「子供が生まれたら、嬉しいと思う。でも、その前にアデルちゃんがいるだろ」

 ライレイは少し笑った。

「君が今、一番会いたいのは、アデルちゃんなんじゃない?」

 その言葉に、リュシアンの表情が変わった。

 しばらく何も言わず、産室の扉を見つめている。

 それから、静かに頷いた。

「……ああ」

 その声には、隠しきれない疲労と、不安が滲んでいた。

「……早く、顔が見たい」

 ライレイは何も言わなかった。

 ただ、隣に座り続けた。

 しばらくして、ユエが温かな茶を運んできた。

「殿下方、少しお休みくださいませ」

 彼女は穏やかな声で言った。

「アデル様も、医官と産婆が慎重に診てくださっております」

 リュシアンは頷いた。

 けれど、茶杯へ手を伸ばそうとしない。

 ユエはその様子を見つめた。

 そして、静かに続けた。

「……リュシアン殿下」

「何だ」

「アデル様が出産を終えられたあと、殿下が倒れられていては困ります」

 リュシアンが目を瞬いた。

 ライレイは隣で小さく吹き出した。

「……ユエ、それ俺も言われた」

「存じております」

 ユエは少しも表情を変えなかった。

「ですから、同じことを申し上げております」

 リュシアンはしばらく黙った。

 それから、ようやく茶杯を受け取った。

「……分かった」

 温かな茶が喉を通る。

 白檀を思わせる穏やかな香りが、冷えた身体へゆっくり染み込んでいくようだった。

 リュシアンは深く息を吐いた。

 それから、もう一度産室の扉へ視線を向けた。

 その向こうで、アデルが頑張っている。

 だから、自分も待たなければならない。

 そう思った。

*

 夜が更け、やがて次の日の朝が近づいた。

 産室の窓はまだ薄暗く、遠くの空だけがかすかに白み始めている。燭台の炎が揺れ、室内には清潔な布と温かな湯の匂いが漂っていた。香りに敏感なアデルのため、強い香料や花は置かれていない。ただ、人が長い時間を過ごしたあとの温もりと、冷たい外気がわずかに混ざっている。

 アデルは疲れ切っていた。

 何度も痛みに耐え、短い休息を挟みながら、ようやくここまで来た。

 銀色の髪は乱れ、白い頬には疲労が濃く浮かんでいる。瞳を開けることさえ辛そうだったが、それでも産婆の声に耳を傾け、必要なときには懸命に身体へ力を込めた。

 メリルもリンレイも、ほとんど休んでいなかった。

 二人とも目元を赤くし、何度も涙を拭いながら、アデルの手を握っている。

 メリーは主人の額へ浮かぶ汗を拭い、枕の位置を整え、必要なものを次々と差し出していた。疲労は隠しきれなかったが、手つきだけは最後まで丁寧だった。

 宮廷医が状態を確認し、産婆が静かに声をかける。

「……妃殿下、もう少しでございます」

 アデルはかすかに頷いた。

 もう少し。

 何度も聞いた言葉だった。

 けれど、今度は本当に、その時が近づいているのだという。

 アデルはゆっくり息を吸った。

 痛みが押し寄せる。

 身体の奥から、今まで経験したことのない強さで何かが動いている。

 怖さも、疲労も、もう何が何だか分からなかった。

 それでも、心の奥には一つだけ、はっきりとした願いが残っていた。

 会いたい。

 この子に、会いたい。

 アデルは目を閉じ、最後の力を振り絞った。

 産婆の声が響く。

 メリルが手を握る。

 リンレイが祈るように目を閉じ、メリーが涙を堪えながらアデルの額を支えた。

 そして。

 長く続いた夜の終わりに、ようやく小さな泣き声が響いた。

「……っ」

 アデルは息を止めた。

 産婆が赤子を受け止め、慎重に状態を確かめる。

 小さな身体が動き、もう一度、はっきりとした泣き声が上がった。

「……おめでとうございます」

 産婆の声が、柔らかく響いた。

「元気な女の子でございます」

 アデルは目を見開いた。

「……女の子」

 かすれた声が漏れる。

 産婆は赤子を清潔な布で包み、そっと母親のもとへ近づけた。

 その小さな頭には、柔らかな銀色の髪が生えていた。

 まだ濡れているため、光を受けて淡い灰色にも見えるが、その色は間違いなくアデルによく似ている。

 アデルは震える手を伸ばした。

 赤子の頬へ、そっと触れる。

 温かかった。

 小さな身体から、確かな命の温もりが伝わってくる。

「……ああ」

 アデルの目から、涙がこぼれた。

「……会えた」

 その声は、誰に向けたものでもないようだった。

 けれど、傍らにいた全員が、その言葉を聞いていた。

 メリルがとうとう声を上げて泣き出した。

「……アデル、よかった……!」

 リンレイも涙をこぼしながら頷いている。

「本当に……本当に、おめでとうございます……!」

 メリーは口元を押さえ、何度も頭を下げた。

「……アデル様……」

 アデルは泣きながら笑った。

 赤子はまだ目を閉じていたが、小さな口を動かし、母親の胸元へ顔を寄せている。

 アデルはその温もりを確かめるように、そっと抱き寄せた。

 ……この子だ。

 ずっと想像してきた、まだ知らない誰か。

 どんな顔をしているのか。

 どんな声で泣くのか。

 どんな香りを好きになるのか。

 何一つ分からなかった、その子が。

 今、自分の腕の中にいる。

「……はじめまして」

 アデルは微笑んだ。

「……お母様ですよ」

 赤子が小さく身じろぎした。

 その仕草が、あまりにも愛おしかった。

 アデルはもう一度、涙をこぼした。

 長い痛みも、怖さも、疲労も、まだ身体の奥には残っている。

 けれど、それでも。

 会えてよかった。

 心から、そう思った。

*

 産室の扉が開いたとき、リュシアンはほとんど反射的に立ち上がった。

「……アデルは!」

 現れた宮廷医が、静かに頭を下げた。

「王太子殿下。おめでとうございます」

 リュシアンは息を詰めた。

「……生まれたのか」

「はい。無事にご出産されました」

 その言葉に、彼の肩から力が抜けた。

「……アデルは」

「大変お疲れではございますが、現在は落ち着いておられます。母子ともに慎重に経過を確認しておりますが、ひとまず大きな危険は脱しております」

 リュシアンは目を閉じた。

 長い夜だった。

 何度も扉の向こうから痛みに耐える声が聞こえ、そのたびに胸が締めつけられた。

 もう駄目なのではないかと考えた瞬間もあった。

 それでも、ただ待つことしかできなかった。

 そして今。

 ようやく、無事に生まれたという。

「……よかった」

 小さな声が漏れた。

 その隣で、ライレイが静かに微笑んでいた。

「……おめでとう、リュシー」

 リュシアンは顔を上げた。

 金色の瞳が、柔らかく細められている。

「父親になったね」

 その言葉に、リュシアンはしばらく何も答えられなかった。

 やがて、ゆっくり頷く。

「……ああ」

 灰青色の瞳が潤んでいた。

「……ありがとう」

 ライレイは笑った。

「どういたしまして」

 それから、少しだけ悪戯っぽく続ける。

「……それで?」

「何だ」

「産屋から追い出された気分は、どう?」

 リュシアンは一瞬黙った。

 そして、疲れ切った顔で睨んだ。

「……今、それを言うか」

「だって、俺のとき散々笑ったでしょ」

 ライレイは楽しそうに笑った。

 リュシアンは額を押さえた。

 けれど、しばらくして堪えきれずに笑ってしまった。

「……お前の気持ちが、少し分かった」

「でしょ?」

 ライレイは満足そうに頷いた。

「父親になるって、大変だよね」

 リュシアンは小さく息を吐いた。

「……ああ」

 そして、産室の扉へ目を向けた。

「……アデルに、会いたい」

 その声は、驚くほど素直だった。

 宮廷医は静かに微笑んだ。

「少しお休みいただいてからでしたら、短い時間お会いになれます」

 リュシアンは頷いた。

 それから、ようやく長椅子へ腰を下ろした。

 今度こそ、少しだけ呼吸が楽になった気がした。

*

 それからしばらくして、リュシアンは産室へ通された。

 部屋の中には、朝の柔らかな陽射しが差し込んでいた。長い夜が明け、窓の外では白い雲がゆっくり流れている。冷たい冬の空気とは対照的に、室内は温かく保たれ、清潔な布の匂いが穏やかに漂っていた。

 寝台の上では、アデルが静かに横になっていた。

 銀色の髪は枕の上へ広がり、白い頬には疲労が残っている。それでも、リュシアンの姿を見つけると、ゆっくりと微笑んだ。

「……殿下」

 その声を聞いた瞬間、リュシアンの胸がいっぱいになった。

「……アデル」

 彼は寝台へ近づき、そっと妻の手を取った。

 温かかった。

 そのことが、ただ嬉しかった。

「……頑張ったな」

 かすれた声だった。

 アデルは少し笑った。

「……はい」

「……本当に」

 リュシアンは言葉を続けようとした。

 けれど、うまく声が出なかった。

 アデルはその顔を見つめた。

 灰青色の瞳が赤くなり、目元には隠しきれない疲労が浮かんでいる。

 どうやら、自分が思っていた以上に、長い時間を心配してくれていたらしい。

「……殿下」

「何だ」

「少し、泣いておられますか?」

 リュシアンは瞬きをした。

「……泣いてない」

 アデルは微笑んだ。

「そうですか」

 その返事は、どこかユエに似ていた。

 リュシアンは小さく笑った。

「……お前まで」

 それから、寝台の傍らに置かれた小さな寝床へ目を向ける。

 そこには、柔らかな布に包まれた赤子が眠っていた。

 銀色の髪。

 小さな額。

 丸い頬。

 まだ生まれたばかりの顔立ちは、どちらに似ているのか分からない部分も多かったが、髪の色だけは、明らかにアデルから受け継いだものだった。

「……女の子です」

 アデルが静かに言った。

 リュシアンは頷いた。

「……聞いた」

「髪が、私に似ているんです」

「ああ」

 彼はそっと寝床へ近づいた。

 赤子は小さく身じろぎし、ゆっくりと瞼を持ち上げた。

 まだ眠たげで、焦点も定まっていないような瞳だった。

 けれど、その色を見た瞬間。

 リュシアンは息を呑んだ。

「……アデル」

「はい」

「……目が」

 アデルが顔を上げた。

 赤子の瞳は、淡い灰青色をしていた。

 冬の空のように澄み、わずかに青みを帯びたその色は、リュシアンの瞳によく似ている。

「……まあ」

 アデルの目が大きく開かれた。

 それから、ゆっくりと微笑む。

「……殿下に、似ていますね」

 リュシアンは何も言わなかった。

 ただ、小さな顔を見つめ続けている。

 銀色の髪と、灰青色の瞳。

 アデルと自分の面影が、一人の小さな子供の中にある。

 以前、ライレイが手紙に書いてきた言葉を思い出す。

 二人の半分ずつが、一人の人間になって生きていく。

 あのときは、随分と感傷的なことを言う男だと思った。

 けれど今、その気持ちが分かる。

 自分たちが出会い、恋をして、結婚した。

 その先に、こんな未来が待っているとは思わなかった。

 リュシアンはそっと手を伸ばした。

 小さな指へ、自分の指先を近づける。

 すると、赤子の手がかすかに動き、彼の指を握った。

「……っ」

 胸の奥が、強く締めつけられた。

 その小さな力が、何より愛おしかった。

「……アデル」

「はい」

「……ありがとう」

 リュシアンは静かに言った。

「本当に、ありがとう」

 アデルの目元が潤んだ。

「……殿下」

 リュシアンは顔を上げた。

 それから、妻の額へそっと口づけた。

 清潔な布と、温かな肌の匂い。

 その奥に、何より慣れ親しんだアデル自身の香りがある。

 初めて出会った夜、彼を安心させてくれた香りだった。

 今も、変わらない。

 そして、その隣には。

 まだ何の香りもまとわない、小さな命が眠っている。

 リュシアンは静かに微笑んだ。

「……会えてよかった」

 アデルも頷いた。

「……はい」

 その言葉には、二人がこれまで積み重ねてきたすべての時間が込められているようだった。

*

 午後になる頃には、王宮に新しい王女の誕生が伝えられた。

 国王夫妻はもちろん、メリルやリンレイ、宮廷の人々からも次々と祝福が寄せられた。産室へ長く人を入れることはできなかったが、アデルの休息を優先しながら、少しずつ家族が顔を合わせることになった。

 メリルは赤子の寝顔を見た瞬間、また涙ぐんだ。

「……可愛い」

 亜麻色の髪を揺らしながら、そっと寝床へ近づく。

「本当に、可愛いわ」

 リンレイも隣で頷いている。

「……銀髪なのですね」

「はい」

 アデルは微笑んだ。

「目は、殿下に似ているようです」

 その言葉に、メリルは赤子を覗き込んだ。

「……まあ、本当」

 灰青色の瞳を見つめ、嬉しそうに笑う。

「お兄様にそっくり」

 リュシアンが少し照れたように目を伏せた。

 その様子を見て、メリルはますます楽しそうに笑った。

「……お兄様、嬉しい?」

「……ああ」

 短い返事だった。

 けれど、その表情には隠しきれない喜びが浮かんでいた。

 メリーは少し離れたところで、静かにその光景を見守っていた。

 幼い頃から仕えてきたアデルが結婚し、今では母親になった。

 その事実が、まだ少し信じられない。

 けれど、寝台の上で赤子を見つめる主人の表情は、今まで見たことがないほど柔らかかった。

 メリーはそっと目元を拭った。

 やがて、ライレイとユエも挨拶に訪れた。

 ユウユウは別室で乳母に預けられており、今は二人だけだった。

「……リュシー」

 ライレイが静かに呼ぶ。

 リュシアンは顔を上げた。

「……何だ」

「改めて、おめでとう」

 金色の瞳が、柔らかく細められる。

「アデルちゃんも、本当によく頑張ったね」

 アデルは微笑んだ。

「ありがとうございます、ライレイ殿下」

 ユエも深く頭を下げた。

「母子ともにご無事で、何よりにございます」

「……はい」

 アデルは静かに頷いた。

 ライレイは寝床へ近づき、そっと赤子の顔を覗き込んだ。

 銀色の柔らかな髪。

 灰青色の瞳。

 まだ幼い顔立ちの中に、二人の面影が見える。

「……へえ」

 ライレイは小さく笑った。

「可愛いね」

 リュシアンが少し得意げに頷いた。

「……だろ」

 その返事に、ライレイは目を丸くした。

 それから、堪えきれずに笑った。

「……あはは!」

「何だ」

「いや、君がそんな顔するんだと思って」

「……どんな顔だ」

「父親の顔」

 リュシアンは一瞬黙った。

 それから、少しだけ口元を緩めた。

「……そうか」

 ライレイは笑った。

「そうだよ」

 それから、改めて赤子へ目を向ける。

「……それで、名前だけど」

 リュシアンが頷いた。

「ああ。頼めるか」

「もちろん」

 ライレイはしばらく考えた。

 冬の陽射しが窓から差し込み、寝床の白い布へ淡い光を落としている。銀色の髪が柔らかく輝き、灰青色の瞳がゆっくりと瞬いた。

 その姿を眺めながら、ライレイは静かに口を開いた。

「……イリス、という名はどうかな」

 アデルが目を瞬いた。

「……イリス」

「うん」

 ライレイは微笑んだ。

「虹を意味する古い言葉から取った名前なんだって。スピネリアでは、花の名前としても親しまれているだろう?」

 アデルはゆっくり頷いた。

 イリス。

 虹を思わせる名。

 そして、香料としても知られる花。

 その響きは、驚くほど柔らかく、清らかだった。

「……素敵ですね」

 アデルは微笑んだ。

 リュシアンも静かに頷いた。

「……いい名前だ」

 ライレイは嬉しそうに笑った。

「そう?」

「ああ」

 リュシアンは寝床の中の娘を見つめた。

「……イリス」

 小さく呼んでみる。

 赤子はまだ意味を理解していないのだろうが、声に反応したように、ゆっくりと顔を動かした。

 その仕草に、リュシアンの表情が柔らかくなる。

「……イリス」

 もう一度、呼んだ。

 アデルはその横顔を見つめていた。

 リュシアンが、自分たちの娘の名前を呼んでいる。

 それだけで、胸の奥が温かくなった。

「……ありがとうございます、ライレイ殿下」

 アデルが微笑む。

 ライレイも頷いた。

「どういたしまして」

 それから、少し悪戯っぽく笑った。

「これでおあいこだね、リュシー」

 リュシアンは目を細めた。

「……ああ」

 短く答える。

「ありがとう、ライレイ」

 その声には、心からの感謝が込められていた。

 ライレイは少し照れたように笑った。

「……どういたしまして」

 その隣で、ユエが静かに微笑んでいた。

 かつて、戦場と宮廷の駆け引きの中で出会った二人の王太子が、今では互いの子供の名前を贈り合っている。

 随分と不思議な縁だと思った。

 けれど、きっとそれでよかったのだ。

 争いのためではなく、誰かの幸せのために名前を考える。

 そんな未来が訪れたことが、何より嬉しかった。

 寝床の中では、イリスが小さく身じろぎしていた。

 銀色の髪が、冬の陽射しを受けて柔らかく輝く。

 灰青色の瞳が、ゆっくりと瞬いた。

 その小さな命を、家族が囲んでいた。

 リュシアン。

 アデル。

 メリル。

 リンレイ。

 ライレイとユエ。

 そして、これから王宮へ戻ってくる国王夫妻も。

 誰もが、新しい命の誕生を喜んでいた。

 アデルはそっと娘を抱き上げた。

 柔らかな布に包まれた小さな身体から、温かな乳の匂いがする。

 それは、どんな香料とも違っていた。

 華やかでも、複雑でもない。

 けれど、何より愛おしく、胸の奥へ深く残る香りだった。

 アデルは目を閉じた。

 この子は、これからどんな香りを好きになるのだろう。

 どんな景色を見て、何を知り、どんな人を愛するのだろう。

 まだ何も分からない。

 けれど、その分からなさが、今は少しも怖くなかった。

 むしろ、楽しみで仕方がない。

「……イリス」

 アデルはそっと囁いた。

「これから、たくさんのことを教えてくださいね」

 娘は小さく口を動かし、母親の胸元へ顔を寄せた。

 その仕草を見て、リュシアンが静かに笑った。

「……お前、もう研究する気か」

 アデルは顔を上げた。

 そして、少し得意げに微笑んだ。

「もちろんです」

 リュシアンは呆れたように息を吐いた。

 けれど、その表情はどこまでも優しかった。

「……まったく」

 そう言って、妻と娘をそっと抱き寄せる。

 アデルはその腕の中で微笑んだ。

 清潔な布と、夫の温かな肌の匂い。

 そして、娘の小さな身体から漂う、まだ知らなかった香り。

 そのすべてが、今は一つに重なっている。

 かつて、リュシアンを安心させたのは、亡き母の香りだった。

 そして今、彼の腕の中には、新しい命がある。

 いつかイリスが大きくなって、この日のことを知らないまま育っていったとしても。

 きっと、どこかで覚えていてくれるのだろう。

 父親の腕の温もりを。

 母親の胸の柔らかさを。

 家族に囲まれた、安心できる場所の香りを。

 アデルはそっと目を閉じた。

 これから、どんな未来が待っているのだろう。

 まだ知らないことは、たくさんある。

 けれど、それを一つずつ知っていく日々が、今から楽しみだった。

 冬の陽射しが、王太子宮の窓から静かに差し込んでいる。

 その光の中で、小さなイリスは穏やかな寝息を立てていた。

 新しい命の香りが、家族の祝福とともに、ゆっくりと部屋へ満ちていった。


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